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【概要】
我々が活動している物質世界は一見すると確かな物から構成される絶対世界のようであるが実はそうではない。
物質世界とは「うたかたの夢」のようなものなのである。
真理と本質は精神世界にある。
そして、精神的エネルギーは自然の摂理から生じる。
従って、精神的エネルギーが「主」であり、物質的エネルギーは「従」に過ぎない。
この世で起きる様々な出来事は精神的エネルギーが物質世界に投影されているに過ぎない映像である。それだからこそ、「精神性」に基づく考えや行動が自身の成功には不可欠となる。
その精神性に基づく考えとは何であるのか。
「信用」と「信念」を意識した考えだ。
「信用」と「信念」に基づく考えである。
「自我を自我たらしめているもの」こそが信用なのである。
他者や社会との関係は信用によって成立しているからだ。
一方、自我や社会をより大きく成長させるものこそが信念なのである。
信用と信念に基づく考えや行動が大切である。
それにより、本質を見抜く目が養われる。「直感力」と「直観力」だ。
そして、「自己と向き合うこと」により「真理と本質に近づくこと」ができるのである。
それが人生の意味するところなのかもしれない。
【本文】
(1)
■人間の「自我」とは個人的存在というよりも他者との関わりにおいて社会的に形成される存在だと言えよう。すなわち「社会的存在」である。
分かり易く言えば、対人関係や社会環境に適用することにより生きていける存在という意味である。
その自我を主に形成しているのが「信用」と「信念」である。
信用は他者との関係性において非常に重要な要素である。信用が人と人との繋がりを支えているからだ。
その意味では信用とは「自我を自我たらしめているもの」と言える。
一方、信念とは「正しいと信じる自分自身の強い気持ちとその考え」である。
生きていく上で確信的な指針や規範や規律になる場合も多いだろう。
信念は経験に裏付けられた強い確信によって支えられている場合が多い。特に苦い経験の場合は多いはずだ。
育てられた時代背景、環境、しつけ、教育などの影響を受けながら自我が形成される。
その過程において、多くの経験を積むことにより徐々に「価値観」が育まれる。
価値観とは自分自身にとって大切ものは何なのかということである。「物事の良し悪し」の判断基準となる場合が多い。
人によってまちまちだろうが、たとえば「精神性」「本質」「平等」「家族」「成功」「お金」などのように、物事をどの観点から見るのが自分自身にとって正しいことなのかである。
それと同時に、信念も徐々に自我の中に芽生えてくる。
そして、信念がより強くなっていくに従って社会における自分自身の立ち位置や役割を意識するようになる。すなわち、進むべき方向が明確になってくる訳である。
そうなると、「自分自身のあるべき姿」や「周りのあるべき姿」といったことにも思いをめぐらすことになる。それが「理念」へと繋がる。
理念とは「本来どうあるべき」という自分自身にとって理想の姿のことである。
それを自我の中に掲げるのである。
その意味では、理念とは人生における究極の目標と言えよう。
現実(=物質世界)を直視すれば理念どおりにはいかないことも多い。
そのため自我は「本来どうあるべき」という理念から「どうありたい」という「願望」へと当面の目標としてトーンダウンさせる。
ただし、理念は「中長期的に実現されるべきもの」として掲げられなければならない。願望はあくまでも「短期的な目標」なのである。
■強い信念は自我をより大きく成長させる。すなわち、信念は自我の社会的存在意義を大きくさせる。
それは信用という裏付けがあればこそである。
そして、自分自身で強く抱く信念があれば、それが行動の源泉になる。
結果とは、たとえて言えば自分自身の考えをこの3次元世界に映し出す映像である。いわば映画のようなものだ。
行動とはそのスクリーン上で動く役者の動きである。
そして、監督は自身の中にある精神的な「心の持ちよう」なのである。
役者は監督の指示によって動くのと同様に、我々の行動は我々自身の「心の持ちよう」に従う。すなわち、内在する信用と信念、あるいは価値観や理念や願望などに基づき思考して意思を固めてから行動する。
個人的なことでも、ビジネスでも、政治でも全て同様である。
ところが、信念と行動とが一致しないことはこの現代社会ではままある。
世の中は多くの人の都合で成り立っている。そのような不一致も致し方ないことと思われるかもしれない。
たとえば、仕事を選ぶにしても若い頃は信念も価値観も強く抱くことはないので、それらをもって仕事を選ぶ者はそう多くはないだろう。
多くの者は自分自身の好きな分野やスキルを持った分野、あるいは成功可能な分野を仕事として選ぶ。
そして、年月を重ねるに従い仕事のスキルも身に付け仕事に対する責任感も芽生えてくる。その一方で、自我が成長し信念を強く抱くようになる。
その時に、自身の信念と仕事の間で矛盾が生じることも少なくない。すなわち、信念と職責との狭間で揺れ動くことにもなりかねない。
食べていくためにはお金を稼がなくてはいけない。お金を稼ぐことは容易ではない。信念に合致した仕事を見つけお金を稼ぐことなどそう簡単ではないと多くの方は思うだろう。
でも、やらなければならない。
「気づいた時」がまさに「その時」である。
勇気をもって踏み出すことが先ず成功の第一歩なのである。
気づいたその時にやらなければ人生はそのまま終わってしまう。
果たしてそれで良いのだろうかと自問自答して欲しい。
つまり、その第一歩を踏み出せない人が多いからこそ成功者はほんの一握りの者しかいないのである。それをよく考えて欲しい。
勇気をもって踏み出し、成功し続け、栄達をつかむのである。
さすれば、富は自然とその後についてくる。
以下のようなプロセスを意識して欲しい。
「勇気」→「成功」→「栄達」→「富」
最初は「小さな勇気」や「小さな成功」や「小さな栄達」そして「小さな富」から意識することである。それで十分だ。
先ずは小さくてもそれを意識し実感することが重要である。
(2)
■信念と行動を一致させなくてはならない。すなわち、信念に基づく行動が大切なのである。
しかし、信念と行動のギャップが大きいとどうなるのだろうか。あるいは、そのギャップが長く続くとどうなるのだろうか。
自身の潜在意識に内在する本質的な何かが働くことになる。
我々はそれを「自然の摂理」と呼ぶのかもしれない。
信念は精神世界の中で生じ、行動は物質世界の中で生じる。
そして、信念と行動のギャップは次のようなことに繋がる。
自身の物質的なもの、肉体、精神、の3つの間で無理が生じるため、何らかの兆候が現れる。すなわち、失敗、トラブル、他人とのいさかい、病気、ノイローゼなどが現れる。
ただし、自身の中に潜む信念に未だ気がつかない人もいるかもしれない。
それだからこそ、この物質世界で起きる全ての出来事には何らかの意味合いがあると考えるべきである。
偶然の出来事のように見えるかもしれないが、実はそれは広大な潜在意識の中では意味があることかもしれない。我々の精神世界では意味があることなのかもしれない。
一つひとつの出来事を自然の摂理からの親切なシグナルとして受け取ることだ。
自然の摂理がそのような出来事を通してわざわざ我々に知らせてくれるのである。悪い出来事の場合は特にそうだ。
そして、その意味合いを考えるため自身の奥深くに潜む本質的な何かと向き合うことが大切になる。
すなわち、自己と向き合うのである。
最初は些細な出来事のはずだ。しかし、それに対して何も考えず何のアクションも取らなければ事態は悪化する。大きな出来事が起きることにもなりかねない。
不幸な出来事は小さいうちに食い止めなければならない。そのためにも、そのようなシグナルを見逃すことのないよう留意すべきである。
シグナルとその意味合いに気づけば、自分自身を変えることである。
勇気をもって変えるのである。
気づいた時が当にその時である。
気づくのに遅過ぎることはない。
今やらなければ一生変わらない。
この物質世界の本質は、ミクロな世界でも見られるように、波動的エネルギーである。すなわち、精神的エネルギーなのである。
以上のことから、以下のプロセスを意識することが大切である。
そして、信念に従った行動をとるためにも日々の生活において規律を設けることも大切である。
何故ならば、我々人間は弱い生きものであるからだ。
「信念」→「思考」→「行動」
以上のような一貫性を損なえば、人間の精神や肉体そして言動に何らかの無理や乱れが生じるのももっともなことだと思う。
逆に、一致させるように常に気を配れば必ずや成功するに違いない。
それは言葉で言うのは簡単だが非常に難しいことである。
それだからこそ、何遍もしつこい位に我々の頭にそのことを刷り込まなくてはならない。
■「人間念ずれば何事も可能とする」のたとえがあるが、当に上記はそれを説明している。
自己と他者の両者を尊重し、周囲からも共感される正しい信念に基づき日々思考し、行動指針や規律を構築する。
そして、行動仮説をイメージしてから実際の行動に移す。
さらに、その結果を踏まえて再度思考し行動指針や行動仮説を修正する。
それを繰り返すことが大切だ。
行動仮説をイメージする際は、成功した姿を結果としてイメージすることである。
その様な一貫性の源泉は強固な信念である。
信念とは自我が行動を起こすのに必要な精神的エネルギーと言えよう。
(3)
■以上の様に述べたものの、信念と思考と行動の3つを体系化することは一朝一夕にできることではない。
それだからこそ、この理想の姿に少しでも近づくため日々努力をしなくてはならない。
その努力とは強固な精神的バックボーンを構築することである。
つまり、信用と信念を自身の精神世界へと植え付けるのである。
常に信用と信念を意識し思考する。そして、それを習慣化することは信念と思考と行動の3つを体系化するための入口となる。
人間は神ではないので、思うことや考えることが全て実現する訳がない。
その様な努力を通して成功の可能性を高めることが真のねらいである。
成功の可能性といっても人それぞれだろうが、うまくいっても10回に数回くらいの程度ではないだろうか。誰でも失敗の数が圧倒的に多いはずである。
考えてみれば、成功することよりも失敗することの方が人生にとって意味合いは大きい。
あえて言わせてもらえば、「人生の本質は失敗の数を重ねること」ではないだろうか。
失敗を通して自己を高めることができるからである。
「心の持ちよう」を変えることができるからである。
我々は常に自己を良い方向へと変え続けなくてはならない。改善し続けなくてはならない。
最終ゴールなどというものはない。生を全うするまでその努力をし続けるのである。
また、失敗という言葉も良くない。
失敗とはある特定のタイミングで評価した際に当初の思い通りにはならなかった結果を意味する。
従って、もし別のタイミングで評価していればそれは成功であったのかもしれない。
そのように、同じ結果であったとしても結果の解釈次第では成功も失敗も両方ともに有り得る。絶対的な区別などできない。
つまり、成功と失敗とは表裏一体なのである。
成功や失敗と感じるその人自身の「心の持ちよう」次第なのである。
「心の持ちよう」は他者との関係性に大きな影響を与える。
そして、他者との関係に悪い影響が出るならば思い通りにならないのは当然である。
「事を成す」とは多くの人のエネルギーを一つの方向に結集させることである。自身の思い描く方向へと結集させることだ。成功や失敗というのはその程度問題なのである。しかも、置かれた状況や立場によってもその感じ方の程度に大きな開きが出る。
しかし、成功か失敗かはやはりその人の「心の持ちよう」にかかっている。
「心の持ちよう」を変えるのである。
常に「自他一体」の考えを意識するのである。
そして、自己と他者との関係を円滑にするべく日々努力する。
その結果として、成功や失敗がある。
いや、絶対的な成功や失敗などはない。
それは成功や失敗などと感じる自分自身の「心の持ちよう」自体の問題である。
それだからこそ、成功や失敗のそれ自体には大した意味合いはないはずだ。
その努力する過程にどれ程の満足感が得られるかが人生の本質に違いない。
故に、失敗を繰り返すことこそが人生の真髄だと私は信じている。
■当面のことや目先のことに志向するから夢が実現しない。大きな目標を達成できない。
自身のエネルギーを目先のことに振り向けるのではなく、夢や長期の目標に振り向けることが大切である。
当面のことに当たるにしても、更にその先にある大きな目標を見据えることである。
大きな目標までの一つのステップと位置付けて取り組むのである。
当面のことを小さな目標と位置付けて一つひとつ達成していく。
さすれば、小さくても達成感や満足感を常に実感できるため大きな目標への足がかりとなる。
そのためには、自身の考え方を以下のように転化させることだ。
「こだわり」→「信念」
以上のことは、自身の「気持ちのよりどころ」について短期的な価値観から長期的な価値観へと昇華させることに他ならない。
それと同時に、物質的な価値観から精神的な価値観へと昇華させることでもある。
短期的で物質的な価値観は「表層的価値観」とも言える。
一方、長期的で精神的な価値観は「本質的価値観」とも言える。
すなわち、こだわりを信念へと転化させることは自身の気持ちのよりどころを表層的価値観から本質的価値観へと昇華させることに他ならないのである。
こだわりを捨て信念を強く持つことだ。
さすれば、必ずや成功もするし夢も実現する。
全体像をイメージして、それを通して物事を見る癖を付けることだ。
(4)
■「本質的な何かを見抜く感性」を身に付けるためには、日々の考え方や行動についてしっかりと計画性をもって取り組むべきである。
すなわち、以下のサイクルを確立することだ。
「人生の目標」→「戦略」→「規律」→「行動」→「習慣」
「人生の目標」とは長期で見れば「理念」であり短期で見れば「願望」である。
常に以上のサイクルを意識することである。そして、行動した後に修正すべきことが判れば修正すればよい。
それを続けることである。持続することに意味がある。
以上のサイクルの根本には当然、以下の姿勢が必須である。
「信念」→「思考」→「行動」
しかしながら、次のようなことも考えられよう。
人生の目標を立て戦略らしきものを作ったところで満足してしまう。そして、そこで終わってしまう。
実は、行動して初めてスタートなのである。
行動してそこから「真の人生の目標」や「真の戦略」や「真の規律」や「真の習慣」へと近づくことになる。
それだからこそ、サイクルを持続して常に修正し続けなければならない。
初めから「真の人生の目標」を立てられる人などいる訳がない。
それでは、人生の目標を長く持続させているだけで何も行動を起こさないと果たしてどうなるのだろうか。
不思議なもので、結果的にその行動に繋がるような出来事が自身の周囲で起きる。
たとえば、病気や事故や転機などがそのような出来事に該当する。
あるいは、人との出会いも同様だ。
そうであれば、病気や事故に遭遇しないためには自身の心の中で掲げる人生の目標に沿うべく考え行動することである。
あるいは、自身でも未だその人生の目標に気がついていないだけなのかもしれない。それだからこそ、よく考えるのである。自己と向き合うのである。
大変な病気や厄介な病気にかかるのもその方には何らかの意味がある。
回復後には結果的に良い生活習慣を身に付けることになる場合も多い。
あるいは、良い考え方を身に付けることもあるだろう。
たとえば、「普通が一番」などは大病から回復した人がよく口にする言葉だ。
それは人間として正しい考え方や言動を折に触れ自身の内面と向き合いながら考えることの大切さを示している。
次に、自身の願いを欲することに転化させるのである。
そして、欲することを手に入れるための戦略すなわち道筋をきちんと考える。
それと同時に、そのための規律を心の中で持つことだ。
それは正しい行動の習慣化に繋がる。
以上のことを持続し常に修正し続けることが重要である。
さすれば、必ず願いはかなうと共に病気や事故などに遭うことも少なくなるはずだ。
人間は神ではないので完全な人間などいない。
悲しいかな、人間とは分かっていてもそれと相反することを必ずしてしまう生きものだ。
それだからこそ、自然の摂理は我々人間に向けて本来の人間らしさを取り戻させるような出来事を引き起こしている。
それはエイズウイルスや癌や新型インフルエンザなどの発生の本質なのかもしれない。
人間は弱い生きものだから大病をして、あるいは事故に遭遇して、初めて人生の素晴らしさに気がつく。
特別なことなどはいらず、普通にいることが何と素晴らしいことだと。
「人のありがたみ」もそうだ。
他人様がいて初めて自分が存在できることにも気がつかされる。
すなわち、以下の考えに気づくことになる。
「自分の利益」=「他人の利益」
「自他一体」の考えに至る。
(5)
■生きていく上で人との出会いは大切である。
人との真の交流により「自己の発見」ができる。「自己の再発見」かもしれない。
それは「自己と向き合うこと」や「心の対話」へと繋がる。
それにより「真理と本質に近づくこと」ができる。
我々は確かに日々何らかの形で人と接しながら生きている。
しかし、人との接し方を考えた時、特に最近はその質が問われているような気がしてならない。端的に言えば、軽薄になってきたということだ。それは自分自身に跳ね返ってくる。
それからすれば、「自己と向き合うこと」が少なくなったといえよう。
人との交流は重要であるが、特に人との出会いは大切だ。
自身にとって意味のある人と出会うことである。
価値のある人と出会うことだ。
そのためには、人との出会いを明確にイメージすることが大切なのである。
イメージしていないから出会いがない。
あるいは、イメージしていても何となくだから上手くいかない。
明確にイメージすればするほどそれが現実のものとなるのである。
■真理と本質に近づくためには当然先のことを考える必要はある。
ただし、先のことを余計に考え過ぎれば、それは逆効果になる。
先のリスクばかりを過大に考えることは良いことではない。
特に、最近その傾向が強くなってきた。
心配ばかりして先に進まない人を多く見る。
しかしながら、成功者の話を聞けばそんな心配事は実は必要のないものであることがよく分かる。
将来の心配事など我々が思うほどにはないのが本当のところだ。単なる妄想である。
そして、先に進むことができないのは成功するにしても失敗するにしても、どちらにしても変化が怖いだけなのである。
そんな思い過ごしをするよりも「今を生きること」である。
「今この一瞬に全精力を傾けること」だ。
さすれば道は開かれん。
先の心配ごとなどはいわば邪念だ。
邪念を打ち破り一心不乱に事にあたれば不思議なもので自身の周囲で物事がスムーズに動き始める。
自身にとって都合が良いように外部が動いてくれるのである。
要は「腹をくくること」だ。
今この一瞬に全精力を傾ければ、先のことなどどうにでもなる。
そうであるにもかかわらず、最近ではこの逆をする者が増えている。
今この一瞬に集中することなく、先のことに心配をめぐらせてばかりいる。
転職や起業のこと、年金や老後の生活設計のこと、健康や病気のこと、などについてだ。
確かに、それらはどうでも良いことではない。先々についてきちんと考えなくてはいけないことである。
ただし、自己と向き合い、将来のことをきちんと考え一旦結論を出せば、後は腹をくくって実行することである。
余計な心配事に心を乱されることなく、振り返らずに今この一瞬に全精力を傾けることだ。
自己と向き合わずに中途半端に考え結論を出してしまうから、余計な心配事に心を乱され今この一瞬に生きる事ができないのである。
確かに現在、我々を取り巻く環境は悪化の一途をたどり、心配事は尽きない。
そのような時だからこそ、あえて今この一瞬に生きることだ。
今この一瞬に生きれば、本当に先のことなどどうにでもなる。
将来のために現在を犠牲にすることなどは本末転倒である。
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