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天皇は奥の院の支配を隠す為に使われたお飾り
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投稿者 中川隆 日時 2020 年 8 月 12 日 06:36:43: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 天皇はソウル出身の漢民族 投稿者 中川隆 日時 2020 年 8 月 09 日 02:44:58)

天皇は奥の院の支配を隠す為に使われたお飾り

天皇は中国の皇帝に匹敵する役職であるが、中国の皇帝が政治も神事も統合する実質上の最高権力者であったのに対して天皇は神事のみを扱う最高位であった。
神事は政治の上位に位置づけられていたため、天皇は形式上の最高権力者であったが、実質上の政治権力は太政官である奥の院の藤原氏が握っていた。
江戸時代までの奥の院は物部氏、蘇我氏、藤原氏、北条氏、徳川家
明治以降の奥の院はイギリス政府、JPモルガン、ロックフェラー

19世紀から中国を手に入れようとしているイギリスにとって日本は重要だったので、天皇を表舞台に引き上げて傀儡政権を作らせた。

中国は19世紀にイギリスから侵略されている。1840年に勃発したアヘン戦争と56年に始まった第2次アヘン戦争だ。香港はその時にイギリスが中国から奪った場所。その後、略奪の拠点として機能する。イギリスやアメリカが香港を手放そうとしないのはそのためだ。アメリカが麻薬取引と深く関係していた蒋介石の国民党に肩入れしたのもそうした背景が影響しているのだろう。

 アヘン戦争と第2次アヘン戦争でイギリスは勝利したが、それは海戦。運輸の中心である海をイギリスに押さえられた中国は苦境に陥るが、イギリスには内陸部を支配する戦力はない。アヘン戦争に投入されたイギリス軍は5000名。7000名はインドの兵士だ。第2次アヘン戦争でイギリス軍は兵士の数を増やしたが、それでも1万3127名。フランスから7000名ほどが参加している。

 圧倒的にイギリスは戦力が不足している。そこで目をつけられたのが日本。明治維新はそうした側面から考える必要がある。ちなみに日清戦争で日本軍は24万人が投入された。明治維新以降、日本は大陸侵略の拠点であり、日本人はアングロ・サクソンの傭兵としての側面がある。

 この構図が揺らいだのはフランクリン・ルーズベルトが大統領だった1933年3月から45年4月。当時、日本を支配していたウォール街がホワイトハウスの主導権を奪われていたのだ。ただ、それでも1932年にJPモルガンの中枢にいたジェセフ・グルーが駐日大使になっている意味は小さくない。なお、大戦後に日本の進路を決めたジャパン・ロビーの中心にもグルーはいた。GHQや吉田茂は日米主従構造において脇役にすぎない。主役はウォール街と昭和天皇だ。戦争が終わった直後、ウォール街の代理人を務めていた人物がジョン・フォスター・ダレス。  

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コメント
1. 2020年8月21日 12:31:34 : VumBhQdrYQ : a1FlQUZBTWNFVUE=[14] 報告
雑記帳 2020年08月01日

大津透『律令国家と隋唐文明』第2刷
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_1.html


 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2020年4月に刊行されました。第1刷の刊行は2020年2月です。本書は、律令の導入を中心に、古代日本が隋と唐から文化・制度をどのように受容していったのか、概説します。碩学の著者らしく、その射程は律令に留まらず仏教や儒教にも及んで、広くまた深く掘り下げられており、新書とはいえ、たいへん密度が高くなっています。いつか、時間を作って再読しなければなりませんし、本書で提示された天皇号推古朝採用説についても、今後調べ続けていかねばならない問題だと思います。

 本書は日本における律令制導入の契機として、対外的緊張関係を指摘します。アジア東部において、紀元後6世紀後半以降、隋、続いて唐という巨大勢力が出現し、朝鮮半島諸国でも高句麗や百済で集権化が進みます。日本における乙巳の変もその文脈で解されます。とくに、唐が朝鮮半島に軍事的に介入し、百済と高句麗が滅ぼされる過程で、日本が唐に白村江の戦いで惨敗したことは、日本の支配層に危機感を抱かせ、西日本で百済式の山城が築かれるとともに、律令制への導入が進みました。本書は、日本における律令制導入の画期を天武朝としており、その延長線上に大宝律令がある、と指摘します。

 また本書は、隋や唐と当時の日本では社会構造に大きな違いがあり、律令をそのまま導入したわけではなく、かなり変更されていることも指摘します。とくに違いが大きいのは君主(天皇)関連で、天皇は律令制前の君主(大王)像を多分に継承していました。しかしこれも、桓武天皇よりもさらにさかのぼって聖武天皇以降の君主権強化の流れの中で、天皇も儀礼などにおいて中華皇帝に近接していき、平安時代前期には天皇の「中華皇帝化」が一定以上進行します。これにより、天皇は制度化されていき、君主権強化という当初の目的からは遠ざかった感は否めませんが、一方で、天皇という枠組みが安定したことも間違いなく、これが現在まで千数百年以上天皇が続いた要因なのでしょう。

https://sicambre.at.webry.info/202008/article_1.html

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