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日本は明治維新以降、イギリスやアメリカのアジア侵略に加担してきた
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/654.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 11 月 22 日 10:33:00: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: ──安倍政権は極右だと言われていたんですが、中身は全然違ったんですね。 投稿者 中川隆 日時 2020 年 11 月 08 日 16:43:04)

三橋貴明は明治維新の事を何も知らないんだね:
日本は明治維新以降、イギリスやアメリカのアジア侵略に加担してきた。シティやウォール街は日本に対して大きな影響力を持ってきたのだ。波はあるものの、そうした構造は第2次世界大戦の前も後も同じ。その象徴とも言える人物がジョセフ・グルーだ。日本列島は米英にとってアジア侵略の拠点であり、日本人は彼らの傭兵的な存在だ。

 明治維新まで日本は中国や朝鮮を含むアジアの国々と友好的な関係を結んでいた。薩摩と長州を中心とする明治政府がイギリスの手先になる道を選んだ瞬間、日本はアジアの裏切り者になったとも言える。

アジア侵略のため、明治政府は日本人にアジア蔑視の感情を植えつけたのだろう。そうした感情が罵詈雑言、誹謗中傷という形で噴出する。そうした洗脳から日本人は未だに抜け出せていない。

明治維新以降、日本はイギリスやアメリカ、つまりアングロ・サクソン系国が描く長期戦略の強い影響下にあり、そうした国々が日本へ技術を提供、資金を供給してきた理由もそこにある。彼らは日本列島を東アジア侵略の拠点、日本人を傭兵と考えてきたとしか考えられない。イギリスが自力で中国を制圧する戦力がないことはアヘン戦争を見ても明白だ。


 アングロ・サクソンの長期戦略は、ユーラシア大陸の周辺部を支配して内陸部を締め上げ、最終的にはロシア/ソ連を制圧、覇権を握るというもの。制海権を握っていたことを利用しての戦略だ。

日本の支配層はウォール街の影響下にあった。1923年9月1日の関東大震災で大きな損害を受けた日本は復興資金を調達するために外債を発行したが、その発行を引き受けたのがJPモルガン。この巨大金融機関と最も緊密な関係にあったと言われている人物が井上準之助だ。それ以降、JPモルガンは日本の政治や経済に大きな影響を及ぼすことになる。


 アメリカの政治経済もウォール街によって動かされていたが、そうした強者総取りの政策に反発した人びとは1932年の大統領選挙でニューディール派のフランクリン・ルーズベルトを選ぶ。そうした事態に危機感を抱いたJPモルガンなどの金融資本は1933年から34年にかけてクーデターを準備したわけだ。計画の詳細はスメドリー・バトラー少将が議会で証言している。


 ウォール街のクーデター派はヨーロッパのファシスト、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領への信頼感を失わせるようなプロパガンダを展開、50万名規模の組織を編成して恫喝して大統領をすげ替えることにしていたという。


 バトラーの話を聞いたジャーナリストのポール・フレンチはクーデター派を取材、「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という発言を引き出している。金融資本と関係が深い国務省の内部、つまりアメリカの外交官にファシストが多かったのは必然ということだ。


 クーデターの司令官としてウォール街が選んだ軍人がバトラー。人望があるバトラーを抱き込まないとクーデターは成功しないという判断だったが、抱き込みに失敗した。計画を聞き出した上で彼はカウンタークーデターを宣言している。


 日本にはそうしたウォール街の傀儡が少なくない。総理大臣としてウォール街の意向に沿う政策を進めていた浜口雄幸は1930年に銃撃されて翌年に死亡、井上準之助は32年に殺された。井上と同じ年には三井財閥の大番頭と言われ、ウォール街とも緊密な関係にあった団琢磨も殺されている。


 団は1871年にアメリカへ渡り、マサチューセッツ工科大学を卒業しているが、同じ時に彼の親友、金子堅太郎も渡米した。金子はハーバード大学ロースクールで1878年まで学ぶ。金子はその後、セオドア・ルーズベルトと親しくなる。セオドアは1880年にハーバード大学を卒業しているが、そうしたこともあり、90年にセオドアの自宅でふたりは初めて会ったという。


 セオドアは1898年のアメリカ・スペイン戦争を主導した人物。1901年には大統領に就任した。イギリスと同じようにアメリカも日本列島を東アジア侵略の拠点、日本人を傭兵と考えていた。


 アングロ・サクソン系のイギリスとアメリカはスラブ系のロシアを敵視、そのロシアを押さえ込むために日本を利用しようとした。日露戦争の後、セオドアは日本が自分たちのために戦ったと書いている。こうした事情を理解していた金子はシカゴやニューヨークで、アンゴロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦ったと説明していた。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)


 フィリピン、台湾、琉球、日本が東アジア侵略の拠点だとするなら、朝鮮半島は橋頭堡。日本が朝鮮の植民地化をセオドア・ルーズベルトが容認したのもそのためだろう。


 そうした日本側の動きを察知した朝鮮の高宗は特使としてホーマー・ハルバートをワシントンへ派遣するが、セオドア大統領やエリフ・ルート国務長官はその特使と会おうとしない。朝鮮は米朝修好通商条約の第1条に基づいて独立維持のための援助を求めたが、これをアメリカ政府は拒否している。すでにセオドア・ルーズベルト政権は桂太郎や金子堅太郎らと韓国併合で話がついていたのである。


 こうしたアングロ・サクソンと日本との主従関係は明治維新から現在に至るまで続いている。例外はフランクリン・ルーズベルトが大統領を務めていた1933年3月から45年4月までの期間くらいだろう。ソ連との平和共存を訴え、侵略戦争に反対、イスラエルの核兵器開発に厳しい姿勢で臨み、労働者の権利を認めて大企業の行動を規制しようとしたジョン・F・ケネディは暗殺で最初の任期を全うできなかった。フランクリンとセオドアは親戚だが、立場は全く違う。

 

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コメント
1. 中川隆[-9730] koaQ7Jey 2020年11月22日 10:49:19 : H93B5zIOcQ : NUh1bTIxT0YvRmM=[26] 報告
三橋貴明は明治維新の事を何も知らないんだね:
日本は明治維新以降、イギリスやアメリカのアジア侵略に加担してきた。シティやウォール街は日本に対して大きな影響力を持ってきたのだ。波はあるものの、そうした構造は第2次世界大戦の前も後も同じ。その象徴とも言える人物がジョセフ・グルーだ。日本列島は米英にとってアジア侵略の拠点であり、日本人は彼らの傭兵的な存在だ。

 明治維新まで日本は中国や朝鮮を含むアジアの国々と友好的な関係を結んでいた。薩摩と長州を中心とする明治政府がイギリスの手先になる道を選んだ瞬間、日本はアジアの裏切り者になったとも言える。

アジア侵略のため、明治政府は日本人にアジア蔑視の感情を植えつけたのだろう。そうした感情が罵詈雑言、誹謗中傷という形で噴出する。そうした洗脳から日本人は未だに抜け出せていない。

明治維新以降、日本はイギリスやアメリカ、つまりアングロ・サクソン系国が描く長期戦略の強い影響下にあり、そうした国々が日本へ技術を提供、資金を供給してきた理由もそこにある。彼らは日本列島を東アジア侵略の拠点、日本人を傭兵と考えてきたとしか考えられない。イギリスが自力で中国を制圧する戦力がないことはアヘン戦争を見ても明白だ。


 アングロ・サクソンの長期戦略は、ユーラシア大陸の周辺部を支配して内陸部を締め上げ、最終的にはロシア/ソ連を制圧、覇権を握るというもの。制海権を握っていたことを利用しての戦略だ。

日本の支配層はウォール街の影響下にあった。1923年9月1日の関東大震災で大きな損害を受けた日本は復興資金を調達するために外債を発行したが、その発行を引き受けたのがJPモルガン。この巨大金融機関と最も緊密な関係にあったと言われている人物が井上準之助だ。それ以降、JPモルガンは日本の政治や経済に大きな影響を及ぼすことになる。


 アメリカの政治経済もウォール街によって動かされていたが、そうした強者総取りの政策に反発した人びとは1932年の大統領選挙でニューディール派のフランクリン・ルーズベルトを選ぶ。そうした事態に危機感を抱いたJPモルガンなどの金融資本は1933年から34年にかけてクーデターを準備したわけだ。計画の詳細はスメドリー・バトラー少将が議会で証言している。


 ウォール街のクーデター派はヨーロッパのファシスト、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領への信頼感を失わせるようなプロパガンダを展開、50万名規模の組織を編成して恫喝して大統領をすげ替えることにしていたという。

 日本にはそうしたウォール街の傀儡が少なくない。総理大臣としてウォール街の意向に沿う政策を進めていた浜口雄幸は1930年に銃撃されて翌年に死亡、井上準之助は32年に殺された。井上と同じ年には三井財閥の大番頭と言われ、ウォール街とも緊密な関係にあった団琢磨も殺されている。

 団は1871年にアメリカへ渡り、マサチューセッツ工科大学を卒業しているが、同じ時に彼の親友、金子堅太郎も渡米した。金子はハーバード大学ロースクールで1878年まで学ぶ。金子はその後、セオドア・ルーズベルトと親しくなる。セオドアは1880年にハーバード大学を卒業しているが、そうしたこともあり、90年にセオドアの自宅でふたりは初めて会ったという。

 セオドアは1898年のアメリカ・スペイン戦争を主導した人物。1901年には大統領に就任した。イギリスと同じようにアメリカも日本列島を東アジア侵略の拠点、日本人を傭兵と考えていた。

 アングロ・サクソン系のイギリスとアメリカはスラブ系のロシアを敵視、そのロシアを押さえ込むために日本を利用しようとした。日露戦争の後、セオドアは日本が自分たちのために戦ったと書いている。こうした事情を理解していた金子はシカゴやニューヨークで、アンゴロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦ったと説明していた。
 フィリピン、台湾、琉球、日本が東アジア侵略の拠点だとするなら、朝鮮半島は橋頭堡。日本が朝鮮の植民地化をセオドア・ルーズベルトが容認したのもそのためだろう。

 そうした日本側の動きを察知した朝鮮の高宗は特使としてホーマー・ハルバートをワシントンへ派遣するが、セオドア大統領やエリフ・ルート国務長官はその特使と会おうとしない。朝鮮は米朝修好通商条約の第1条に基づいて独立維持のための援助を求めたが、これをアメリカ政府は拒否している。すでにセオドア・ルーズベルト政権は桂太郎や金子堅太郎らと韓国併合で話がついていたのである。
 こうしたアングロ・サクソンと日本との主従関係は明治維新から現在に至るまで続いている。例外はフランクリン・ルーズベルトが大統領を務めていた1933年3月から45年4月までの期間くらいだろう。

田布施システム
長州のあたりの土地は昔から地元では c house n部落として知られています。といっても田布施だけが特別なのではありません。奈良平安の頃から瀬戸内海沿岸は c house n半島から渡ってきた人たちが多数移り住んできた土地なので、彼らの集落があっても別段珍しいことではないのです。彼らは皆、陶工であったり、刀鍛冶であったり、特殊技能を持った職人の集団として活躍していました。

まず、近代の半島を語る上で李氏c house nを理解しないといけません。李氏c house nは1392年から高麗の武将、李成桂が興した王朝で、中国冊封体制の下、王朝内で多くの内紛が起こっていました。いまの韓国を見ていてもわかると思いますが、選挙で負けた大統領は罪に問われてほとんどが監獄に放り込まれています。李氏c house n王朝時代はさらにそれが徹底されており、内紛で負けた派閥は殺されたのです。
とはいえ、負けたほうも黙って手をこまねいているわけではありません。当然、逃亡を図るわけで、そのほとんどが海を渡って日本へと逃げてきていたのです。
彼ら政争に負けたc house nの人々は日本の瀬戸内海沿岸まで逃げてひとつの集落を作っていったのです。田布施はそういった町の一つでした。

c house nと明治維新の濃密なつながり
 岸家も佐藤家も田布施という町も、李氏 c house n王朝の血を引く、とても由緒正しい人たちでした。
田布施からは伊藤博文、木戸幸一が出ており、さらに山口県そのものがかつての長州藩(正確には萩藩)です。明治維新を薩摩藩とともに推進した土地です。
 さらに、鹿児島にも田布施という町名が最近まで残っており(そこの出身者として小泉純一郎元首相がいます)、かつての肥後藩である佐賀県にも、字こそ違いますが多布施という土地があります。維新を引っ張った薩長土肥のうちの3つにタブセという名が絡んでいるのです。

 もっと言えば、維新後に薩摩藩で最も出世した大久保利通は鹿児島市高麗町の出身です。高麗という名が示すように大久保はc house n系の人である可能性が高く、少なくとも彼が生まれた土地はc house n集落でした。さらに言えば、維新を引っ張った薩摩の志士たちもほとんどが同じ町内に住んでいました。それも高麗町の隣の町です。

 このように明治維新とc house nは極めて親しい関係なのです。
明治維新は c house n系の人々によるクーデターに感じてしまうのです。口さがないエージェントなんかはもっとハッキリ「明治維新はc house n系の人たちの日本乗っ取りなのに、なぜか、日本人は明治維新が好きだよね」と言います。
https://tocana.jp/2019/12/post_130392_entry_3.html 

2. 中川隆[-9729] koaQ7Jey 2020年11月22日 10:52:12 : H93B5zIOcQ : NUh1bTIxT0YvRmM=[27] 報告
三橋貴明は明治維新の事を何も知らないんだね:
日本は明治維新以降、イギリスやアメリカのアジア侵略に加担してきた。シティやウォール街は日本に対して大きな影響力を持ってきたのだ。波はあるものの、そうした構造は第2次世界大戦の前も後も同じ。その象徴とも言える人物がジョセフ・グルーだ。日本列島は米英にとってアジア侵略の拠点であり、日本人は彼らの傭兵的な存在だ。

 明治維新まで日本は中国や c house n を含むアジアの国々と友好的な関係を結んでいた。薩摩と長州を中心とする明治政府がイギリスの手先になる道を選んだ瞬間、日本はアジアの裏切り者になったとも言える。

アジア侵略のため、明治政府は日本人にアジア蔑視の感情を植えつけたのだろう。そうした感情が罵詈雑言、誹謗中傷という形で噴出する。そうした洗脳から日本人は未だに抜け出せていない。

明治維新以降、日本はイギリスやアメリカ、つまりアングロ・サクソン系国が描く長期戦略の強い影響下にあり、そうした国々が日本へ技術を提供、資金を供給してきた理由もそこにある。彼らは日本列島を東アジア侵略の拠点、日本人を傭兵と考えてきたとしか考えられない。イギリスが自力で中国を制圧する戦力がないことはアヘン戦争を見ても明白だ。


 アングロ・サクソンの長期戦略は、ユーラシア大陸の周辺部を支配して内陸部を締め上げ、最終的にはロシア/ソ連を制圧、覇権を握るというもの。制海権を握っていたことを利用しての戦略だ。

日本の支配層はウォール街の影響下にあった。1923年9月1日の関東大震災で大きな損害を受けた日本は復興資金を調達するために外債を発行したが、その発行を引き受けたのがJPモルガン。この巨大金融機関と最も緊密な関係にあったと言われている人物が井上準之助だ。それ以降、JPモルガンは日本の政治や経済に大きな影響を及ぼすことになる。


 アメリカの政治経済もウォール街によって動かされていたが、そうした強者総取りの政策に反発した人びとは1932年の大統領選挙でニューディール派のフランクリン・ルーズベルトを選ぶ。そうした事態に危機感を抱いたJPモルガンなどの金融資本は1933年から34年にかけてクーデターを準備したわけだ。計画の詳細はスメドリー・バトラー少将が議会で証言している。


 ウォール街のクーデター派はヨーロッパのファシスト、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領への信頼感を失わせるようなプロパガンダを展開、50万名規模の組織を編成して恫喝して大統領をすげ替えることにしていたという。

 日本にはそうしたウォール街の傀儡が少なくない。総理大臣としてウォール街の意向に沿う政策を進めていた浜口雄幸は1930年に銃撃されて翌年に死亡、井上準之助は32年に殺された。井上と同じ年には三井財閥の大番頭と言われ、ウォール街とも緊密な関係にあった団琢磨も殺されている。

 団は1871年にアメリカへ渡り、マサチューセッツ工科大学を卒業しているが、同じ時に彼の親友、金子堅太郎も渡米した。金子はハーバード大学ロースクールで1878年まで学ぶ。金子はその後、セオドア・ルーズベルトと親しくなる。セオドアは1880年にハーバード大学を卒業しているが、そうしたこともあり、90年にセオドアの自宅でふたりは初めて会ったという。

 セオドアは1898年のアメリカ・スペイン戦争を主導した人物。1901年には大統領に就任した。イギリスと同じようにアメリカも日本列島を東アジア侵略の拠点、日本人を傭兵と考えていた。

 アングロ・サクソン系のイギリスとアメリカはスラブ系のロシアを敵視、そのロシアを押さえ込むために日本を利用しようとした。日露戦争の後、セオドアは日本が自分たちのために戦ったと書いている。こうした事情を理解していた金子はシカゴやニューヨークで、アンゴロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦ったと説明していた。
 フィリピン、台湾、琉球、日本が東アジア侵略の拠点だとするなら、 c house n 半島は橋頭堡。日本が c house n の植民地化をセオドア・ルーズベルトが容認したのもそのためだろう。

 そうした日本側の動きを察知した c house n の高宗は特使としてホーマー・ハルバートをワシントンへ派遣するが、セオドア大統領やエリフ・ルート国務長官はその特使と会おうとしない。 c house n は米朝修好通商条約の第1条に基づいて独立維持のための援助を求めたが、これをアメリカ政府は拒否している。すでにセオドア・ルーズベルト政権は桂太郎や金子堅太郎らと韓国併合で話がついていたのである。
 こうしたアングロ・サクソンと日本との主従関係は明治維新から現在に至るまで続いている。例外はフランクリン・ルーズベルトが大統領を務めていた1933年3月から45年4月までの期間くらいだろう。

田布施システム
長州のあたりの土地は昔から地元では c house n部落として知られています。といっても田布施だけが特別なのではありません。奈良平安の頃から瀬戸内海沿岸は c house n半島から渡ってきた人たちが多数移り住んできた土地なので、彼らの集落があっても別段珍しいことではないのです。彼らは皆、陶工であったり、刀鍛冶であったり、特殊技能を持った職人の集団として活躍していました。


まず、近代の半島を語る上で李氏c house nを理解しないといけません。李氏c house nは1392年から高麗の武将、李成桂が興した王朝で、中国冊封体制の下、王朝内で多くの内紛が起こっていました。いまの韓国を見ていてもわかると思いますが、選挙で負けた大統領は罪に問われてほとんどが監獄に放り込まれています。李氏c house n王朝時代はさらにそれが徹底されており、内紛で負けた派閥は殺されたのです。
とはいえ、負けたほうも黙って手をこまねいているわけではありません。当然、逃亡を図るわけで、そのほとんどが海を渡って日本へと逃げてきていたのです。

彼ら政争に負けたc house nの人々は日本の瀬戸内海沿岸まで逃げてひとつの集落を作っていったのです。田布施はそういった町の一つでした。

c house nと明治維新の濃密なつながり

 岸家も佐藤家も田布施という町も、李氏 c house n王朝の血を引く、とても由緒正しい人たちでした。

田布施からは伊藤博文、木戸幸一が出ており、さらに山口県そのものがかつての長州藩(正確には萩藩)です。明治維新を薩摩藩とともに推進した土地です。
 さらに、鹿児島にも田布施という町名が最近まで残っており(そこの出身者として小泉純一郎元首相がいます)、かつての肥後藩である佐賀県にも、字こそ違いますが多布施という土地があります。維新を引っ張った薩長土肥のうちの3つにタブセという名が絡んでいるのです。

 もっと言えば、維新後に薩摩藩で最も出世した大久保利通は鹿児島市高麗町の出身です。高麗という名が示すように大久保はc house n系の人である可能性が高く、少なくとも彼が生まれた土地はc house n集落でした。さらに言えば、維新を引っ張った薩摩の志士たちもほとんどが同じ町内に住んでいました。それも高麗町の隣の町です。

 このように明治維新とc house nは極めて親しい関係なのです。

明治維新は c house n系の人々によるクーデターに感じてしまうのです。口さがないエージェントなんかはもっとハッキリ「明治維新はc house n系の人たちの日本乗っ取りなのに、なぜか、日本人は明治維新が好きだよね」と言います。
https://tocana.jp/2019/12/post_130392_entry_3.html

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