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東京大空襲や原爆を投下したのはアメリカ国防省の官僚が出世するためだった
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/682.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 3 月 26 日 23:34:51: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 「効率よく焼き尽くせ」 空襲成功のため、日本家屋まで再現した米軍の「用意周到」 投稿者 中川隆 日時 2020 年 3 月 12 日 11:04:35)


東京大空襲や原爆を投下したのはアメリカ国防省の官僚が出世するためだった

2020年03月24日
1945年 日本とアメリカの内部抗争 終戦を望まなかった人たち

原爆を投下した理由は官僚が出世したかったからだが、誰もその事は言わない。

引用:http://www.teaparty.org/wp-content/uploads/2015/03/Atomic_cloud_over_Nagasaki_from_Koyagi-jima-1940x1500.jpeg


1945年の戦い

1945年の太平洋では日米で数多くの戦いが展開されていました。

戦闘機や軍艦同士が戦うのではなく、政治的な思惑が対立して戦争終結を巡って争っていた。

山本五十六を失った日本海軍は一刻も早く戦争を辞めたがっていて、外務省と天皇は同調していた。

日本陸軍は敗北を認めず、徹底抗戦によって既得権益を確保しようとした。

早期に負けを認めることで国力を温存しようとする終戦派と、本土決戦で米国を退けようとする抗戦派は互いに譲らなかった。

アメリカでは早期に戦争を終結させて、米ソ冷戦に備えようとする国務省と、戦果を誇示したい国防省が戦っていた。


国務省は日本の外務省と図って、独自の停戦交渉をまとめようとしたが、国防省の妨害などで原爆投下に間に合わなかった。

国防省はもし、国務省の交渉で終戦に至ったら、最大功労者が国務省になり、軍隊の役割りが正当に評価されないと考えていた。

軍隊のおかげで戦争に勝ったのだと証明するためには、日本を焦土にして完全に屈服させなければならないと考えていた。


1945年7月にはもはや戦争そのものは目的ではなくなり、誰が手柄を上げるか、日本では誰に責任を取らせるかの話になった。

日本海軍は沖縄が米軍に占領された6月には降伏を決めていて、外務省も同調していた。

結局責任を押し付けられたのが日本陸軍で、手柄を手にしたのは原爆使用に成功した米国防省だった。


降伏を拒否したアメリカ軍

海軍内でも徹底抗戦派は存在したが、意図的に軍艦を全滅させる特攻作戦で、反対派を封じ込めたとも言われている。

軍艦が無くなれば海軍は戦争を継続出来ないので、米国との講和条約へ向けて動き出す事ができる。

昭和天皇は東京大空襲があった3月から5月に、降伏を決めていたと言われている。


4月に大本営上層部は沖縄戦が絶望的な状況と判断し、米国との停戦交渉に向けて動き出しました。

このとき日本が期待したのは、対日参戦していないソ連が、米国との仲介役になってくれるのではないかという事だった。

同時に大本営はソ連の対日参戦を8月か9月と予想し、それまでの短期間に交渉をまとめる必要があると判断した。


だがソ連は日本と米国の仲介役を拒否し、8月8日に参戦し、日本の領土を分捕りにきました。

計画ではソ連は日本の東半分、つまり名古屋から東を占領する事になっていました。

もう一つの米国との交渉ルートは、中立国のスイスやバチカンの大使館を通すものだったが、絶縁状態だったので期待されていなかった。


大使館ルートの交渉は意外にも手応えがあったが、米国内では国務省と国防省が対立していた。

国務省は既にソ連との対決を予想し、日本との早期停戦を望んだが、国防省は徹底抗戦を主張していた。

停戦交渉にも妨害が入り8月6日と8月9日に、戦争が終わる前に駆け込みで原爆を使用した。


戦後の始まり

原爆が投下される前の7月には、ドイツ・イタリア軍との交渉も行ったアレン・ダレスを通じて降伏の意思は伝えられていた。

日本側は8月の第一週から第二週に停戦したい旨を提案し、実際には8月15日に天皇が停戦命令を出した。

アレン・ダレスは後のCIA長官になった大物で、アメリカ側が本気だったのは分かる。


米国防省はこれを察知し、日本の降伏前に、可能な限りの爆弾と原爆を投下しようと考えた。

国務省は戦争が終わっても活躍できるが、軍人は戦争が終わったら「ごくつぶし」でしか在りません。

国務省への嫌がらせのように日本全土に絨毯爆撃を実施し、あと1週間で日本が降伏するのを知りながら2発の原爆を使用した。


それだけではなく米軍は日本が降伏した後も絨毯爆撃を続け、10発の原子爆弾を使用するつもりでした。

これらの目的は戦争に勝つためではなく、国防省の官僚が出世するために行われました。

そしてダグラス・マッカーサーは1945年8月30日に、解放者のような振りをして降り立ち、GHQという軍事政権を樹立しました。


その軍事政権がおしつけたのが日本国憲法で、日本人が日本という国を憎むように、NHKや朝日新聞などのメディアを通じて、日本の戦争犯罪を流布しました。

これが戦後の始まりで、国防省や米軍人の「正しさ」や「手柄」を強調するために、多くの戦争犯罪が捏造され、無実の日本軍人が処刑されました。
http://www.thutmosev.com/archives/65832220.html


2020年02月11日
原爆は「日本が降伏した後で」投下された 日本の降伏を拒否したアメリカ軍

アメリカ軍は勝利を自らの手柄にするため終戦を遅らせ、2発の原爆を使用した。

引用:http://blog-imgs-82.fc2.com/h/i/s/history365days/10616593_828729970491689_8779173433003972912_n.jpg


広島・長崎の原子爆弾は、日本が降伏しなかったから投下したとされています。

だが少しずつ公開された資料からは、日本が降伏し、アメリカが拒否して原爆を投下した事実が示されている。


日米和平交渉

1945年、日本と米国の終戦交渉が秘密裏に行われていました。

日本側は1942年のミッドウェー海戦から敗戦を続けていて、戦争を終わらせる必要がありました。

一方のアメリカは強敵のドイツ軍をやっつけて、太平洋方面に主力を移動させようとしていて、余力充分でした。

日本側では特に海軍と外務省、昭和天皇が早期終戦を望んでいて、陸軍は徹底抗戦を望んでいました。

アメリカ側はやる気充分だったが、特に軍は積極的で、日本を廃墟にするまで戦う気でした。

だが既にソ連軍の拡大は懸念材料になっていて、国務省など外交筋は早期終戦を望んでいた。


日本本土を戦場にして戦えば、ソ連が日本の半分を占領する事になり、ソ連を利する事になるからだった。

1945年7月にはまだソ連と日本は戦っていないが、既にルーズベルト大統領はヤルタ会談などでソ連参戦を要請していた。

ソ連は日本と戦う見返りとして日本の東半分、つまり名古屋から右側を要求していたとされている。


日本軍はソ連対日参戦の日を8月もしくは9月と予想し、それまでに対米戦を終了しなければならないと認識していた。

なぜなら米国だけに降伏すれば、国土は分割されず、いつかは再び独立できるが、ソ連と分割されれば永遠に復活出来ないからだった。

日本側は国土を分割しない事と憲法護持、天皇制を維持する事を条件として、米国に接触を試みました。


成功するかに見えた和平交渉

1945年4月、日本政府は最早敗戦は決定的であるとして、米国との終戦交渉に着手するのを決定しました。

このとき大本営の数人だけで極秘の決定がなされたが、ソ連に仲介を依頼する事になっていました。

同時に別案として、スイスやバチカンなど中立国で、米国と直接交渉をする事も決められました。


日本は欧州の中立国スイスに公使館を持っていて、米国など連合国側の大使と接触が可能でした。

真珠湾攻撃以降、連合国側との接触は途絶えていたが、一応こちらの方法も実施されました。

5月から7月に掛けて日本側から働きかけが行われ、応じたのがドイツ・イタリア軍との交渉も行ったアレン・ダレスでした。


7月には仲介者を通じて、日本側とアレンダレスの最初の交渉が行われ、ダレスは日本が提案した条件を呑んだとされている。


条件と言っても日本側が絶対に譲らないとしたのは、天皇制護持だけで、国土と憲法の方は譲歩の余地がかなりあった。

この時既に沖縄は米軍に占領されていたので、最悪沖縄が米国領になっても仕方が無い事だった。


日本側の出席者は政府や軍ではなく、表向き民間人の横浜正金銀行の銀行マンだったとされている。

仲介者は国際決済銀行(BIS)のペール・ヤコブソンで、これはヤコブソンの膨大なメモや資料で裏づけられています。

アレンダレスは7月15日に初めてヤコブソンと会談し、そこで日本の条件を受諾する姿勢を示したとされている。

この時日本側は8月の第一週から第二週、つまり直ぐにでも停戦したい旨を提案したとされています。


日本の降伏を無視したアメリカ軍

だがダレス1人が納得しても、アメリカ政府や大統領、外交筋や軍が了承するかは別で、特に軍は徹底的に日本を叩く気でした。

7月23日には、ダレスとヤコブソンの会談で、このルートで和平交渉を進めることを確認したが、8月に入ると事態が大きく動いた。

8月6日に広島原爆投下、8月8日にソ連が対日宣戦布告、8月9日にシベリアで日本軍とソ連軍が激突、同8月9日に長崎原爆が投下されました。


これには裏があり、米軍はダレスの交渉が成功しそうだと知っており、勝手に合意する前に総攻撃を掛けたのだった。

もし米軍が最後のとどめを刺さないまま戦争が終われば、戦争の最大の功労者は外交官だった事になる。

だがドイツを占領したように日本を壊滅させ、占領する事で戦争が終われば、手柄は軍のものになります。


ダレスの終戦交渉が頓挫したのは、米軍上層部が1945年12月まで戦争を続けるとして、日本の降伏を突っぱねたからとされている。

この時米軍は日本に10発の原子爆弾を投下する予定で、生産した爆弾や爆撃機を「消費」しなければならなくなっていた。

おかしな話だが、兵器というものも一度生産したらどこかで消費しないと余ってしまい、誰かが責任を取らされる。


1945年12月まで時間があれば、予定していた10発の原爆のかなりを使用できると考えた。

ダレスは戦略事務局(CIA)職員としてイタリア軍、ドイツ軍を降伏させ、日本との交渉もしていたから、日本が降伏を申し出たのは本国に伝わっていた。

昭和天皇は4月と5月の東京大空襲の時に、既に降伏の意思を固めていたのが、周囲の人々によって記されていました。


原爆投下後の8月14日に御前会議でポツダム宣言受諾を決定し、玉音放送を録音し、8月15日に放送した。

本来は総理大臣などが発表するべきだが、陸軍が本土決戦を主張した為、末端の兵士にまで直接伝える必要が生じた。

同時に全世界にラジオ放送することで、アメリカ軍が「降伏など受けていない」と絶対に言えないようにしたのでした。


米軍は8月13日には停戦の連絡を受け、日本軍は14日に戦闘をやめているが、15日の夜になっても爆撃を続けている。

このようにアメリカ政府とアメリカ軍は、1945年7月末には日本の降伏申し出を知っていて、なおかつ原爆を使用したのでした。
http://www.thutmosev.com/archives/58195625.html

 

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コメント
1. 中川隆[-13484] koaQ7Jey 2022年3月19日 15:44:42 : AnixODhVqM : cWdxMGhCU2h1NEU=[5] 報告
『東京大空襲の戦後史』 著・栗原俊雄
書評・テレビ評2022年3月17日
https://www.chosyu-journal.jp/review/22985

https://www.amazon.co.jp/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%BE%8C%E5%8F%B2-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%96%B0%E8%B5%A4%E7%89%88-1916-%E6%A0%97%E5%8E%9F/dp/4004319161

 米軍が戦時中に日本に対しておこなった無差別爆撃は、戦時下でも民間人を狙わないとした国際法に違反する蛮行だった。なかでも1945年3月10日未明の東京大空襲は、たった数時間で10万人以上の無抵抗の非戦闘員を虐殺した。本書は、東京大空襲の被災者たちの戦後70年以上にわたる苦しみや、国に補償を求めるたたかいを取材してきたジャーナリストが、その事実を具体的に伝えることで新しい戦争の最大の抑止力にしようと執筆したものだ。

 1944年夏、米軍がサイパンなどマリアナ諸島を占領したとき、すでに日本の敗戦は決定的だった。米軍は同諸島を拠点に大型爆撃機B29によって日本本土の空襲を始めた。

 それでも日本の支配層は戦争をやめなかった。天皇は1945年2月、重臣の意見聴取をおこなったが、吉田茂が作成した近衛文麿の上奏文では「敗戦は必至。国体(天皇制)護持のために憂うべきは共産革命」とし、天皇は「米軍を叩き、その戦果を持って講和に持ち込む」と戦争継続を主張した。

 米軍の日本本土空襲を、民間人も区別しない無差別爆撃に変えたのは、米陸軍航空部隊将軍のカーチス・ルメイだった。ルメイは「われわれの計算しつくしたうえでの賭けは、近代航空戦史上で画期的なできごとになった」「(民間人大量殺傷が)私の決心をなんら鈍らせなかったのは、フィリピンなどで捕虜になったアメリカ人を、日本人がどんなふうに扱ったのか知っていたからだ」とのべている。

 そして米ユタ州の砂漠に日本家屋を模した木造住宅の街をつくり、焼夷弾の効果を実験した。焼夷弾は親爆弾の中に40個近い小爆弾を入れ、空中で親爆弾が破裂すると、ガソリンが詰めてある小爆弾が着弾して燃える。東京大空襲では300機以上のB29が、東京の住宅街にこの焼夷弾を雨あられと降り注いだ。

 著者は当時の米陸軍第五航空軍のリポートに、「すべての男、女、子どもを含む日本国の全人口が軍隊を援護する武装予備軍となった。日本国の全人口は正式な軍事目標となった。日本に民間人はいない」と書いてあることを紹介し、それがいかに非人道的な判断かとのべている。

犠牲になったのは一般庶民  被害調査未だなく

 アメリカと日本の支配層の思惑のもとで、犠牲になったのは日本の庶民である。著者は取材の過程で知り合った東京大空襲の体験者から体験を聞きとり、何人もの事例を記している。

 これはその一例にすぎないが、江東区に住む1931年生まれの男性は、1942年の企業整備令(軍需産業以外の中小商工業を整理・統合する法律)で家業の蕎麦屋ができなくなり、同時に兄が徴兵されて中国戦線に行くことに。見送りに行った父が部隊の装備の貧弱さに驚き、「あれじゃあダメだ」といっていたと回顧している。

 そして3月10日。東からB29が数珠つなぎで飛んできて、低空で巨大な翼がはっきりと見えた。すぐに焼夷弾がザーッという音とともに雨あられと降ってきた。北西風が激しく、火の粉が横なぐりで舞い、はしごが空を飛んでいた。避難する人たちで身動きがとれなくなり、工場脇の空き地に多くの人と一緒にうずくまったが、夜が明けて周囲を見るとマネキン人形のような人間の遺体があちこちに横たわっていた。別の場所では真っ黒な遺体が小山のように積み上がっていた。川を見ると水死体が折り重なっていた。

 別の男性は工業高校の生徒だったときに東京大空襲にあい、鎮火後は遺体の始末を手伝った。現在の東京スカイツリーを見上げる川から女性の遺体を引き揚げると、2歳ぐらいの子どもが髪の毛にしがみついていた。親子だったのだろう。拾ったトタンに遺体を乗せ、仮埋葬地の公園まで運んだ。焼けた遺体から首や足が落ちたが、すべては拾えなかった。「なんの罪もない人たちが戦争でたくさん亡くなった」と訴えている。

 ところが天皇が同年3月18日、都内の被災地を視察するというので、昼夜兼行で巡幸路付近の死体の片付けに追われることになった。その後遺体は、遺族の元に帰されることはほとんどなく、公園や学校、寺、空き地に埋められた。当時は国民の命よりも天皇を頂点とした「国体」が大事だったのだ。

 敗戦後、日本がアメリカに単独占領されると、今度はGHQの命令で、空襲で親を失った何十万人という戦災孤児が「まるで野良犬のような扱いで」東京品川沖の第四台場の檻の中に収容された。1952年に講和条約と安保条約が同時に結ばれると、日本政府はアメリカに対する戦争の補償請求権を放棄した。敗戦後は国の社会福祉がほとんど機能せず、孤児たちは義務教育も十分受けられないまま、親戚を転々としていたというのに。そればかりか1964年、日本政府は虐殺を指揮したルメイに、「航空自衛隊の育成に尽力した」という理由で勲一等旭日大綬章を贈った。戦後は天皇の上にアメリカが君臨している。

 本書を読みながら、東京大空襲をめぐる事実は、それが過去のことではなく、今現在の日本が抱えている矛盾を浮き彫りにしていると思った。ある体験者の女性が2020年3月、衆院第二議員会館で開かれた空襲議連の総会で発言した次の言葉が印象深い。「東京大空襲の死者の多くが遺体の確認ができず、どこの誰かもわからずに、生ゴミのように処理されました。残された遺族の多くは、墓をつくることもかなわず、今でも心の拠り所がないと感じています。空襲被害について、国として統一的網羅的に調査されたことがありません。空襲で亡くなった人の名前も、数さえも不明です。この2、3年に仲間が次々と他界し、残った私たちも先が長くありません。いつ、どこで、どんな被害があったか、全国空襲実態調査を実施してください。空襲被害をなかったことにしないでください」

 いまだに空襲被害の統一的調査も、東京大空襲の公的な慰霊施設や記念館もない日本。対米従属下でふたたび戦争の道に進まないためにも、被爆体験や空襲体験を語り継ぎ、世界に発信するとりくみを一層大きな運動にしなければと思う。

https://www.chosyu-journal.jp/review/22985

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