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「史上初」女子たちのプレッシャー 光明皇后と孝謙(称徳)天皇
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投稿者 中川隆 日時 2020 年 6 月 20 日 04:57:19: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 「万世一系」の虚妄 _ 日本はなぜ「万世一系」を必要としたか? 投稿者 中川隆 日時 2020 年 3 月 19 日 09:12:51)

「史上初」女子たちのプレッシャー 光明皇后と孝謙(称徳)天皇
大塚ひかり 毒親の日本史 国内 社会 2020年6月19日
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/06191140/?all=1


 子供の人生を奪い、ダメにする「毒親」。近年、盛んに使われだした言葉だが、もちろん急に親が「毒化」したわけではない。古代から日本史をたどっていくと、実はあっちもこっちも「毒親」だらけ――『女系図でみる日本争乱史』で、日本の主な争乱がみ〜んな身内の争いだったと喝破した大塚ひかり氏による連載第6回。スケールのでっかい「毒親」と、それに負けない「毒子」も登場。日本史の見方が一変する?!


人臣初の皇后となった光明子のプレッシャー

 宮子の人生を犠牲にしながら、しかし、藤原氏の躍進は止まりませんでした。

 宮子の生んだ聖武天皇(701〜756)に、宮子の異母妹である光明子(701〜760、母は県犬養橘三千代)が入内、藤原氏初、実質的には人臣初の皇后となるのです。

 ここに至る道も平坦なものではありませんでした。

『続日本紀』によれば、聖武の皇太子時代に入内した光明子は、724年に夫が即位してから3年後、727年閏9月29日に皇子を生みます。よほど藤原氏腹の天皇をつなげたかったんでしょう、この皇子は生後数十日という前代未聞の幼さで皇太子となります。

 ところが翌728年9月13日、皇子は死んでしまうのです。

 光明子をはじめとする藤原氏のショックはいかばかりか。

 その翌729年2月10日、前々から聖武天皇の母・宮子の称号に意見するなど、藤原氏にとって目の上のたんこぶだった長屋王が密告され、わずか2日後、王と正妃、正妃腹の男王4人が死に追いやられます(天平元年二月十二日条)。

 かくて同年8月24日、光明子は皇后に。数百年も昔に非皇族出身で皇后となったイハノヒメノ命の先例を出しての言い訳がましい宣命〈せんみょう〉を長々と述べての立后が行われるのです(天平元年八月二十四日条)。

 当時、即位資格のあった皇后には皇族が立つのが普通でした。

 そんな時代、光明子は実質的には臣下出身者初の皇后に立ったのですから、その風当たりは民間初のお妃となった美智子妃(当時)の比ではなかったでしょう。それも、県犬養氏腹の皇子・安積親王(728〜744)がいる中、彼の立太子を阻止したい藤原氏による、光明子の即位を見据えての立后です(このあたりについては異説もあります)〈系図1〉。

第6回毒親の日本史〈系図1〉
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/06191140/?photo=2


 一族の欲望や敵対勢力の憎悪、国民の注視を浴びての立后とは、考えただけでも神経がすり減り、異母姉の宮子が36年間、鬱状態となった例が嫌でも思い出されます。

 幸い、光明子は、母・県犬養橘三千代譲りの政治力と精神力があったのでしょう。心を病んだ記録はありません。が、738年、38歳となり、これ以上、皇子の誕生は見込めぬと踏んだのか、皇女である阿倍内親王が21歳で女性初にして唯一の皇太子となります。のちの孝謙天皇です。彼女は退位後に再び即位して称徳天皇とも呼ばれます。通常、天皇の呼び名は死後つけられた諡(おくりな)ですが、彼女は生前、淳仁に譲位した際、“宝字称徳孝謙皇帝”という尊号が奉られます(※1)。それを二つに分け、はじめの在位の時は孝謙天皇、淳仁を降ろしたあとの在位の時は称徳天皇と呼ばれるのです。ここでは、孝謙称徳と呼ぶことにします。


史上初・女性皇太子となった孝謙称徳のやばさの理由
 この孝謙称徳の立場は、これまた、母・光明皇后にまさるとも劣らぬストレスフルなものでした。

 なにしろ父・聖武には安積親王という県犬養氏腹の男子がいながら、権力の階段を駆け上がっていた藤原氏腹ということで、女ながらに異例の立太子となったのです。

 それまでの女帝は基本的に皇后から天皇になるというルートを辿っていたため、女性の皇太子はいませんでした。それが彼女は、誰の皇后にもならぬ身で、男子である異母弟をさしおいて皇太子となったのですから、その風当たりは大変なもの。今で言うなら、悠仁様でなく愛子様が皇太子になるよりもさらに(女性皇太子の前例がないだけに)プレッシャーは強い。

 本人としては少しのスキャンダルも犯さぬよう、足をすくわれぬよう、薄氷を踏むような思いだったに違いありません。

 しかもこの時はまだ、名門・蘇我氏の血を引く元正太上天皇というゴッドマザーも生きている。光明皇后も皇太子・阿倍内親王(孝謙称徳)も、彼女に対する遠慮はあったでしょう。

 このゴッドマザーが死ぬのが748年4月21日(※2)。また、異母弟の安積親王は744年、17歳で死んでいます(天平十六年閏正月十一日条)。毒殺説もありますが不明です。

 こうして749年7月2日、孝謙称徳が32歳で即位します。

 この女帝の後世の評判はすこぶる悪い。

 父・聖武の決めた道祖〈ふなと〉王の皇太子の地位を廃したり、淳仁天皇の皇位を廃したりした上、死に追いやるというふうに、気に入らぬ者はたとえ天皇であっても処罰する一方、寵愛する僧・道鏡を法王に据え、あげくは皇位を譲るべく画策して失敗するなど、やばいところが多々あるからです。

 そのやばさは、彼女の政権の弱さに由来するものでもありました。

 彼女の皇太子時代から、女性皇太子を認めなかった橘奈良麻呂の謀叛、さらに母の光明皇后死後は、淳仁天皇の舅の恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の勃発があるなど、その治世は不安定なものでした。系図を作ると、反旗を翻した男二人は、彼女の母方いとこに当たることが分かります〈系図2〉。ちょっと複雑な関係とはいえ、本来、力になってくれるはずの母方いとこが敵に回るというのは、つらいことだったに違いありません。

第6回毒親の日本史〈系図2〉
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/06191140/?photo=3


 そんな彼女と母の光明皇后が、大いに参考にしたのが中国・武則天の治世です。

 そもそも孝謙称徳が女の身ながら皇太子となるという発想も、武則天にならったものでした。武則天は女の身で皇帝になることを実現するために、「菩薩が方便として女身となるという『菩薩転女身』、いわば『方便の女身』説もしくは『菩薩の化身としての女身』説を利用したことが知られている」。母娘はこうした論理を利用して「女性皇太子を合理化」したというのです(※3)。

 武則天は四文字の元号を使ったことでも知られていますが、日本で四文字の元号を採用したのは、聖武と娘の孝謙称徳だけで、これも「光明皇后の意向によるとの見解がある」(※4)。光明皇后が夫の聖武に進言したとされる国分寺の建立(国ごとに寺を建立すること)も、武則天が州ごとに大雲寺(大雲経寺)を設置したのにならっています。

 特徴的なのは刑罰としての改名です。

 武則天は、夫である高宗の皇后だった王氏と淑妃の蕭氏を処刑後、それぞれ蟒〈もう〉(うわばみ)氏、梟〈きょう〉(ふくろう)氏、二人のいとこを蝮〈ふく〉(まむし)氏という姓に改めるなど、死後まで辱めたことで知られています(※5)。

 孝謙称徳も、道鏡を皇位につけようとした際、それを認めないという神託を持ち帰った和気清麻呂を別部穢麿〈わけべのきたなまろ〉と改名したり(※6)、橘奈良麻呂の乱後、処刑した黄文王は多夫礼〈たぶれ〉、道祖王は麻度比〈まとひ〉、賀茂角足は乃呂志〈のろし〉などと改名しています(※7)。それぞれ気狂い、マヌケ、のろまといった意です。

 こうした改名は先にも触れた彼女の治世の脆弱性とも関わるかもしれません。

 というのも、姓は天皇が与えるもので、「天皇が姓を与えることを、『賜姓(姓を賜う)』といった」(※8)からです。

 つまり賜姓は天皇の特権であり、屈辱的な改名はその特権の誇示でもあります。

 誇示しなければならぬほど、彼女の権力基盤は脆弱だったのでしょう。

 だとしても、こうした改名を採用したのは孝謙称徳だけというところからすると、ここに彼女の性格、強いコントロール欲がにじんでいる、と言えるのではないか。

 加えて彼女は理想主義者であったのだと思います。

 だから、天皇を、血脈でつなぐのでなく、天の認める徳を持つ者が継ぐべきとする中国由来の「天命」思想にのっとって、非皇族の道鏡を皇位につけようとした……。非皇族でありながら、即位資格のある皇后となった光明子の娘である彼女が、そうした理想の天皇像を思い描いたとしても不思議ではありません。

『続日本紀』からうかがえる彼女の性格は潔癖症に近い印象で、皇太子だった道祖王を廃したのは、彼が亡き聖武の諒闇(喪)中に侍童と通じたり、機密を漏らしたりしながら、反省もしなかったから。同時に、不孝の者らを陸奥や出羽に流して矯正するよう命じています(※9)。

 いずれにしても光明皇后・孝謙称徳母娘が、自分たちに近い時代の先進国の女帝をこれほどまでに手本にしていたというのは、彼女たちに武則天への悪いイメージは薄いからでしょう。伝えられる武則天の悪事には後世の男尊女卑の書き手のでっち上げも混じっていると思うゆえんです。もちろん女の身で最高位に立つという「立場」が類似していたからでもありますが、そこに至る母親の権勢欲やプレッシャーという「境遇」に共感を覚えたことも手伝っているに違いありません。

 女子初というのは、ただでさえいろんなプレッシャーがある中、彼女たちの「初」は、ちょっとスケールが違いますからね……国内の例では、救いにならなかったのでしょう。


「命名」=「支配」。親の支配を逃れる方法
 さて、天皇が臣下に姓を賜るのは、天皇の支配下に置くことを意味する、というようなことをさっき書きました。

「命名」=「支配」であることを如実に表しているのが古代の地名です。『風土記』で、天皇家の人々の言動によって土地が名づけられるのも、命名によってその支配下に入る、土地を支配することと同義なわけです。

 そういう意味で言うと、昔は「名づけ親」というのがいて、たとえば『竹取物語』のヒロインを“なよ竹のかぐや姫”と名づけたのは、彼女を竹から見いだした竹取の翁ではなく、“御室戸斎部〈みむろどいむべ〉の秋田”という人です。名づけ親は生涯、その子の後見人となる。ことばを変えれば、その子は名づけ親の支配下に入るのです。

 もちろん名前は親がつけることもあります。『古事記』で、垂仁天皇とその后のサホビメが敵味方に分かれて戦うことになった際、サホビメは生まれた皇子を垂仁に渡すのですが、サホビメに未練のある垂仁は、

「そもそも子供の名は必ず母がつけるのに、この子の名はどうしたらいいのか」

 と尋ねます。基本的に母方で子が育てられていた古代には、母が命名者だったのです。

 そして、親が子に命名した時点でその支配下、コントロール下に入ったことになる、と。

 古代に、毒母が目立つのも、こうした理由から、かもしれません。

 いずれにしても、親に名前をつけられた時点で、親の息が掛かっているわけで、親を憎んでいる人が時に改名したりするのも、親のつけた名前が嫌だ、自分の名に親の気配を感じるのが嫌だ、という思いからであるにしても、親の支配下から離れるという意味では非常に効果的であろうと思う次第です。

※1 『続日本紀』天平宝字二年八月一日条
※2 『続日本紀』天平二十年四月二十一日条
※3 勝浦令子『孝謙・称徳天皇』(ミネルヴァ書房)
※4 新 日本古典文学大系『続日本紀』三 補注
※5 氣賀澤保規『則天武后』(講談社学術文庫)
※6 『続日本紀』神護景雲三年九月二十五日条
※7 『続日本紀』天平宝字元年七月四日条
※8 奥富敬之『名字の歴史学』(角川選書)
※9 『続日本紀』天平宝字元年四月四日条


大塚ひかり(オオツカ・ヒカリ)
1961(昭和36)年生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学専攻卒。個人全訳『源氏物語』、『ブス論』『本当はひどかった昔の日本』『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『エロスでよみとく万葉集 えろまん』『女系図でみる日本争乱史』など著書多数。

 

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