★阿修羅♪ > 近代史5 > 258.html
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ ★阿修羅♪
稲作とオーストロネシア語族集団の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/258.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 8 月 09 日 08:36:28: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 日本語の起源 投稿者 中川隆 日時 2020 年 8 月 05 日 07:16:28)

稲作とオーストロネシア語族集団の起源


雑記帳 2020年07月09日
インドネシアにおける最初の稲作
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_10.html

 インドネシアにおける最初の稲作に関する研究(Deng et al., 2020)が公表されました。現代世界においてコメは最重要作物の一つです。インドネシア、より広義にはアジア南東部島嶼部(ISEA)は、人口が2億6700万人以上で、イネ(Oryza sativa)の栽培と消費の主要地域の一つです。長江中流および下流では9000年前頃に稲作が始まり、稲作はその後の数千年でアジア東部および南東部に拡大しました。しかし、ISEAにおける古代稲作の起源・年代・背景についての議論は、古植物分析なしでよく行なわれてきました。こうした問題はとくにインドネシアで根強く残っていますが、最近ではスラウェシ島における稲作の長期記録を報告できるようになりました。

 ISEAは湿潤な熱帯地域のため有機物の保存状態が悪く、古代のコメがほとんど残っていません。これらの事例だけでは、栽培種と野生種を明確には区別できません。ボルネオ(カリマンタン)島のマレーシア領サラワク(Sarawak)州のグアシレー(Gua Sireh)では、放射性炭素年代で4807〜3899年前のイネの籾殻が発見されていますが、土器製作のさいに使用された粘土に自然の過程で入った野生種と考えられています。ルソン島北部のアンダラヤン(Andarayan)では、土器内部のイネの籾殻が見つかっており、放射性炭素年代で4807〜3899年前です。ルソン島北部では3000年前頃の炭化したコメが発見されており、イネのプラントオパールの証拠は、スラウェシ島のミナンガ・シパッコ(Minanga Sipakko)遺跡とその近くのカマッシ(Kamassi)遺跡で報告されています。本論文は、インドネシアにおける稲作の起源を解明するため、西スラウェシ州のカラマ川(Karama River)に隣接する沖積段丘に位置するミナンガ・シパッコ遺跡において、初期の土器が出土する層の調査結果を報告します。

 以前の調査では、ミナンガ・シパッコ遺跡の年代は3800年前頃もしくは2500年前頃と推定されていました。ミナンガ・シパッコ遺跡の最古層で発見された土器の破片は赤くて薄く、フィリピンで発見された最古の土器と類似しており、台湾起源と推測されます。そのため、ミナンガ・シパッコ遺跡の土器はインドネシアで最初期の土器と考えられます。本論文は、放射性炭素年代測定法によるミナンガ・シパッコ遺跡の新たな年代を提示しており、3500〜2800年前頃までヒトの連続的な活動を推定します。

 イネの証拠は、調査対象の層全体で見つかり、最も集中していたのは、最古の土器が見つかった層でした。プラントオパール分析からは、調査対象の層の期間ずっと、イネが栽培されていた、と示されます。さらに、最古の土器が発見された層では、籾殻の痕跡が多いことから、籾殻廃棄の最終段階まで、ミナンガ・シパッコ遺跡で脱穀処理が行なわれていた、と推測されます。ミナンガ・シパッコ遺跡では、イネが栽培され、その後の処理工程まで行なわれていた、と考えられます。

 台湾では稲作の豊富な証拠が4800〜4200年前頃までさかのぼりますが、ISEAでは、3000年前頃以前の稲作の痕跡はわすがで、しかも議論のあるものでした。ミナンガ・シパッコ遺跡の新たな調査結果は、インドネシアにおける稲作の最古で確実な年代を提示します。それは最初の土器の出現とほぼ同時で、3562〜3400年前頃となります。インドネシアにおける赤い土器の唐突な出土は、新たな文化伝統の突然の出現を示唆します。台湾では赤く薄い土器は4800〜4200年前頃までさかのぼり、関連する土器伝統はその後、フィリピン北部で4200〜4000年前頃に出現します。次の数世紀にわたり、この考古学的痕跡はフィリピン中央部および南部とインドネシア東部とリモートオセアニア西部諸島に拡大します。具体的には、ミナンガ・シパッコ遺跡の早期土器は、フィリピンと台湾の初期の赤い土器と形態が最もよく似ています。

 より大きな視点では、この土器の広がりは、台湾・フィリピン・インドネシア東部・リモートオセアニア西縁のオーストロネシア語族集団の現代の地理的分布とほぼ一致します。オーストロネシア語は、前近代において世界で最も拡大した語族です。オーストロネシア語の起源地、古代の移民の動機、分散過程の性質については、1世紀にわたって議論されてきました。本論文の知見は、オーストロネシア語の農耕と関連した拡散および台湾起源を支持します。オーストロネシア語族は最終的に、マダガスカル島からイースター島までの広範な地域に拡散しました。本論文の結論は、アジア南東部の古代DNA研究(関連記事)と整合的です。またさらに新しい研究では、台湾と中国福建省の新石器時代個体群のDNAが解析され、オーストロネシア語族集団の祖型集団が中国南部起源である可能性が指摘されており(関連記事)、これも本論文と整合的です。


参考文献:
Deng Z. et al.(2020):Validating earliest rice farming in the Indonesian Archipelago. Scientific Reports, 10, 10984.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-67747-3

https://sicambre.at.webry.info/202007/article_10.html  

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
1. 中川隆[-11904] koaQ7Jey 2020年8月09日 08:40:40 : 6B9W8uozhE : amxOZFoxMkdseXM=[6] 報告
雑記帳 2020年07月04日
アジア東部現生人類集団の古代DNA研究の進展
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_5.html


 近年の古代DNA研究の進展は目覚ましく、その中でもやはり、自身のことであるため、人類の古代DNA研究が最も進んでいる、と言えるでしょう。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)など非現生人類(Homo sapiens)ホモ属(古代型ホモ属)のDNA研究にも高い関心が寄せられてきましたが、やはり発見されている個体数が現生人類と比較してはるかに少ないため、中心になっているのは現生人類の進化史と地域差です。その中でも、近代化の起源地であったことや、多数派の研究者の自己認識や、DNAの保存条件などから、現時点ではヨーロッパで古代DNA研究が最も進んでおり、もっと拡大してユーラシア西部での研究の進展には目覚ましいものがあります。

 ユーラシア西部と比較して現時点では、日本列島も含まれるアジア東部、さらには拡大してユーラシア東部の現生人類の古代DNA研究が大きく遅れていることは否定できません。しかし、今年(2020年)になって、中国を中心としてアジア東部の現生人類に関する重要な古代DNA研究が相次いで公表されました。それは、中国陝西省やロシア極東地域や台湾など広範な地域の新石器時代個体群を中心とした研究(Wang et al., 2020、関連記事)と、中国南北沿岸部の新石器時代個体群を中心とした研究(Yang et al., 2020、関連記事)と、新石器時代から鉄器時代の中国北部複数地域の個体群を中心とした研究(Ning et al., 2020、関連記事)です(以下、それぞれWang論文、Yang論文、Ning論文)。

 また、一昨年に公表されたアジア南東部の完新世人類の古代DNA研究も重要で、それは先史時代の複数の移住の波を指摘した研究(Lipson et al., 2018、関連記事)と、在来の狩猟採集民の影響も指摘した研究(McColl et al., 2018、関連記事)です(以下、それぞれLipson論文、McColl論文)。日本列島に関しては、縄文時代の個体のDNA解析注目され、それは北海道の個体に関する研究(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019、関連記事)と愛知県の個体に関する研究(Gakuhari et al., 2019、関連記事)です(以下、それぞれ神澤論文、覚張論文)。これら一連の研究を詳しくまとめていく気力と見識は現時点ではないので、今回は大まかな見取り図を簡単に整理するに留めます。もちろん、今後の研究の進展により、以下の見取り図が大きく修正される可能性は低くありません。

 まず、非アフリカ系現代人の主要な祖先である出アフリカ現生人類集団は、7万〜5万年前頃にアフリカからユーラシアへと拡散した後に、ユーラシア東部系と西部系に分岐します。ユーラシア東部系は、北方系と南方系に分岐し、南方系はアジア南部および南東部の先住系統とオセアニア先住系統(パプア人およびオーストラリア先住民系統)に分岐します。McColl論文は、オセアニア先住系統と分岐した後のユーラシア東部南方系統が、アジア南東部とアジア南部の狩猟採集民系統に分岐したことを指摘します。アジア南部狩猟採集民系統は、アンダマン諸島の現代人によく残っており、この古代祖型インド南部人関連系統(AASI)が、イラン関連系統やポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)系統とさまざまな割合で混合して、現代インド人が形成された、とアジア南部の人口史に関する研究(Narasimhan et al., 2019、関連記事)は指摘します。Lipson論文は、アジア南東部において、この先住の狩猟採集民と、アジア東部から南下してきた、最初に農耕をもたらした集団、およびその後で南下してきた青銅器技術を有する集団との混合により、アジア南東部現代人が形成された、と推測します。

 アジア東部に関しては、Wang論文が、ユーラシア東部北方系と南方系とのさまざまな割合での混合により各地域の現代人が形成された、と推測します。Wang論文では、ユーラシア東部北方系がアジア東部北方系とアジア東部南方系に分岐した、と想定されます。Wang論文でもYang論文でも共通しているのは、中国は新石器時代集団において南北で明確な遺伝的違いが見られ(黄河流域を中心とする北方系と長江流域を中心とする南方系)、現代よりも遺伝的違いが大きく、その後の混合により均質化が進展していった、との大まかな見通しです。ただ、新石器時代中国においてこの南北間の大きな違いがあったとはいえ、Yang論文からは、すでに新石器時代においてある程度の混合があった、と窺えます。またNing論文は、大きくは中国北部に位置づけられる地域でも、黄河・西遼河・アムール川の流域では、遺伝的構成に違いが見られることを指摘します。

 問題となるのは、アジア東部の南北両系統がどのように形成されたのか、ということです。現時点では、アジア東部の更新世人類でDNAが解析された遺骸はきわめて少ないため、アジア東部系統がユーラシア東部北方系統からどのような経路で拡散してきて形成されたのか、不明です。そもそも、ユーラシア東部北方系統自体が、どのような経路でアジア東部にまで拡散してきたのか、現時点では不明です。現生人類の拡散を考古学的観点から概観した研究(仲田., 2020、関連記事)を参照すると、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)が現生人類のユーラシアにおける拡散の指標となりそうで、ユーラシア東部北方系はユーラシア中緯度地帯を東進してきたのではないか、と考えられます。

 一方、ユーラシア東部南方系は、アジア南部やアジア南東部の狩猟採集民の主要な祖先であることから、ユーラシア南岸を東進してきた可能性が高そうです。おそらくその一部は、アジア南東部から北上し、アジア東部あるいは北東部まで拡散し、中にはアジア内陸部にまで到達した集団もいたのでしょう。Wang論文は、アジア東部南方系統が14%程度と少ないながらもユーラシア東部南方系の影響を受けた、と推測しています。このアジア東部南方系を、現代オーストロネシア語族の主要な祖先と推測している点で、Wang論文とYang論文は一致します。その意味でも、現代オーストロネシア語族の直接的な起源が中国南部(もしくはそこから人類集団が拡散してきた台湾)である可能性はきわめて高そうです。

 問題となるのは、アジア東部南方系の主要な分布地域と考えられる、長江流域の新石器時代個体群のゲノムデータが、現時点では公表されていないことです。Wang論文では、アジア東部南方系を表す古代人のゲノムデータがまったく提示されていません。新石器時代アジア東部北方系集団におけるアジア東部南方系の遺伝的影響の増加を指摘するNing論文でも、アジア東部南方系を表す古代人のゲノムデータは提示されていません。Yang論文では、福建省の新石器時代個体群が、アジア東部南方系統を表す、と想定されています。これに関しては、福建省の新石器時代個体群は孤立した集団を表しており、広範な地域の集団の遺伝的構成を代表していないかもしれない、との指摘もあります。ただ、Wang論文とYang論文とNing論文はおおむね一致したアジア東部人口史を提示しており、おそらく長江流域新石器時代集団も、福建省の新石器時代個体群と類似した遺伝的構成を示す可能性が高そうです。

 まとめると、中国に関しては、ユーラシア中緯度を東進してきたユーラシア東部北方系から派生したアジア東部系が現代人の主要な祖先となり、新石器時代までに、アジア東部系は北方系と南方系に明確に区分されるようになり、両者の混合で現代人が形成されていき、それが現在の地理的な遺伝的構成の違いをもたらした、と考えられます。その結果として中国では、新石器時代よりも現代の方が遺伝的にはずっと均質です。また、アジア東部南方系は、ユーラシア東部南方系の遺伝的影響も少ないながら一定以上受けていた、と推測されます。Yang論文で注目されるのは、沿岸部新石器時代アジア東部個体群では見られない古代シベリア人関連系統が、現代アジア東部では台湾や日本のような島嶼部とチベットを除いて、一定以上の影響を残していることで、漢文史料に見える匈奴や鮮卑や女真など華北よりも北方の集団が華北、さらには華南や朝鮮半島へと到来したことを反映しているのかもしれません。さらに、Wang論文が指摘するように、中国北西部はユーラシア西部系の遺伝的影響も受けています。

 中国の周辺地域では、チベットに関して、農耕の始まった3600年前頃には、在来集団とアジア東部北方系との混合が始まっていた、とWang論文は推測します。Wang論文では、チベット人はユーラシア東部南方系(15%)とアジア東部北方系(85%)との混合としてモデル化されます。日本列島に関しては、東日本の「縄文人」が、ユーラシア東部南方系(45%)とアジア東部南方系(55%)の混合として、Wang論文ではモデル化されています。日本とチベットの現代人では、世界でも珍しいY染色体ハプログループ(YHg)Dが高頻度で見られますが、アンダマン諸島の現代人では日本とチベットよりもさらに高頻度でYHg-Dが存在することから、YHg-Dはユーラシア東部南方系に由来する古い系統と考えられます。

 現代日本人と「縄文人」との関連では、圧倒的多数を占める本州・四国・九州を中心とする「本土」集団は、「縄文人」と弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した集団との混合により形成された、と考えられています。Wang論文から、後者はアジア東部北方系統を主体としつつも、アジア東部南方系統も一定以上有していた、と考えられます。Ning論文では、アジア東部北方系を主体とする新石器時代の華北個体群において、稲作農耕の考古学的痕跡の増加と一致して、アジア東部南方系統の遺伝的影響の増加が見られます。おそらく、長江流域を起源とする稲作集団が、山東省など華北に拡散し、そこから現在の遼寧省を経て朝鮮半島経由で、縄文時代晩期以降に日本列島に到来したのではないか、と推測されます。弥生時代以降に日本列島に到来した集団における長江流域稲作集団の影響は、遺伝的には小さく、文化的には間接的だった、と考えられます。

 現代「本土」集団における「縄文人」系統の割合は、神澤論文では9〜15%、覚張論文では8%程度と推定されています。もちろん、上述の各集団における特定の系統の割合もそうですが、これらはあくまでモデル化であり、実際とは違います。そこで、これらのモデルが実際にどれだけ近いのか、問題となるわけですが、現時点では、西日本の「縄文人」のゲノムデータが得られていないことからも、現代「本土」集団における「縄文人」系統の割合に関して確たることは言えない、と考えるべきでしょう。その意味で、「縄文人」系統の割合は10%とか20%とかいった数字が確定的に独り歩きすることには、注意しなければなりません。また、現代「本土」集団における「縄文人」系統の割合はさほど高くなさそうですが、だからといって縄文文化がその後の日本に与えた影響はほとんどない、と判断してしまうことも時期尚早だと思います(関連記事)。文化変容・継続と遺伝的構成の関係は一様ではない、と私は考えています(関連記事)。また、考古資料から人類集団の遺伝的継続・変容の程度を判断することも容易ではないでしょう(関連記事)。


参考文献:
Gakuhari T. et al.(2019): Jomon genome sheds light on East Asian population history. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/579177
関連記事

Kanzawa-Kiriyama H. et al.(2019): Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan. Anthropological Science, 127, 2, 83–108.
https://doi.org/10.1537/ase.190415
関連記事

Lipson M. et al.(2018): Ancient genomes document multiple waves of migration in Southeast Asian prehistory. Science, 361, 6397, 92–95.
https://doi.org/10.1126/science.aat3188
関連記事

McColl H. et al.(2018): The prehistoric peopling of Southeast Asia. Science, 361, 6397, 88–92.
https://doi.org/10.1126/science.aat3628
関連記事

Narasimhan VM. et al.(2019): The formation of human populations in South and Central Asia. Science, 365, 6457, eaat7487.
https://doi.org/10.1126/science.aat7487
関連記事

Ning C. et al.(2020): Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration. Nature Communications, 11, 2700.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-16557-2
関連記事

Wang CC. et al.(2020): The Genomic Formation of Human Populations in East Asia. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2020.03.25.004606
関連記事

Yang MA. et al.(2020): Ancient DNA indicates human population shifts and admixture in northern and southern China. Science.
https://doi.org/10.1126/science.aba0909
関連記事

仲田大人(2020)「日本列島への人類移動を考えるための覚え書き」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 25)』P84-91
関連記事


https://sicambre.at.webry.info/202007/article_5.html

2. 2020年10月21日 08:09:00 : ycHLX8xZDg : UXNKVlM3dUpybDY=[2] 報告
東アジアにおける農耕の拡散・受容と牧畜社会生成過程の総合的研究
(令和元年〜5年度 科学研究費補助金 基盤研究(S))

 東アジアの先史時代は、農耕社会(中国大陸)、二次的農耕社会(東北アジア、西南中国)、牧畜社会(北アジア)という4つの地域から成り立っています。

この内、東北アジアにおける二次的農耕社会の文化拡散と変容は、東アジアの農耕の拡散と人の移動や言語拡散を考える意味でも重要です。さらに、牧畜社会はもともと農耕が拡散したところに寒冷・乾燥化することによって成立したことが、ユーラシア草原地帯西部では明らかとなっています。

ところが、東アジアにおいては、長城地帯・モンゴル高原への農耕拡散に関する研究はあまり進んでいません。また、紀元前3000年頃の寒冷・乾燥化によって、農耕社会が牧畜化していく過程についても考古学的に解明する必要があります。

東アジアにおける牧畜社会は、ユーラシア草原地帯西部と同じように内的に農耕社会から生まれたのでしょうか?

あるいは、草原地帯西部からの牧畜民の移動によって生み出されたでのしょうか?

私たちは、こうした問題を発掘調査など一般的な考古学理論・方法のみならず、植物考古学、炭化米分析、石器の使用痕分析、形質人類学やストロンチウム同位体比分析、筋付着部発達度分析から実証的かつ総合的に明らかにしていきます。

東北アジアの二次的農耕化と北アジアの牧畜化の過程を対比的に明らかにすることによって、東アジアの地域的な基層部分さらには人類史上の東アジアの特殊性を明らかにすることに繋がるのです。またこれは、東アジアのそれぞれの地域に固有の古代国家が成立していく背景を知ることにもなると考えます。


研究目標

・ モンゴル高原 に おける土器 圧痕レプリカ分析、華北型農耕石器の使用痕分析、残留デンプン分析
  ⇒ 紀元前3400年以前におけるモン ゴル高原南部へのアワ・キビ農耕の拡散過程の解明

・山東省楊家圏遺跡での水田発掘調査、炭化米粒度分析、炭化米DNA分析、土器圧痕レプリカ分析
  ⇒ 紀元前2400年頃〜紀元前8世紀にいたる、山東半島から遼東半島、朝鮮半島、北部九州への水稲農耕の拡散過程の解明

・モンゴル高原における墓地発掘調査、古人骨炭素13安定同位体分析、筋付着部発達度分析、形質人類学的分析、ストロンチウム同位体比分析
  ⇒ 北アジアにおける初期農耕から牧畜社会への変遷過程の解明(食性、労働形態、人の移動様相の解明)

http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~kibayuboku/gaiyou.html

3. 中川隆[-9312] koaQ7Jey 2020年12月13日 17:53:21 : ZFtpUZyA1g : eXNlS2ouWXVISXc=[17] 報告
1000年前のアイヌ語を再現する (Pre-)Proto-Ainu language




弥生時代の日本語を再現する Proto-Japano-Ryukyuan


4. 中川隆[-8918] koaQ7Jey 2020年12月26日 18:35:01 : PLjQd27PlM : UWhkTlI4NVNUMlE=[8] 報告
東アジアの言語地図 (オハイオ大学の言語学者 J. Marshall UNGER 氏が作成)
https://www.oeaw.ac.at/fileadmin/Institute/IKGA/IMG/events/Unger_2013_handout.jpg

5. 中川隆[-5264] koaQ7Jey 2021年6月27日 11:27:24 : 09g8CAKyOE : dExIekMuL1J3cVk=[37] 報告
2021年06月27日
11000年前頃以降の中国南部の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_27.html


 11000年前頃以降の現在の中華人民共和国広西チワン族自治区一帯の人口史に関する研究(Wang et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。アジア東部および南東部における現生人類(Homo sapiens)の歴史は長く、古代人のDNAに基づく最近の研究では、アジア南東部と中国南部(本論文ではおもに現在の行政区分の広西チワン族自治区と福建省が対象とされます)で異なる人口統計学的パターンが明らかになっています(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。これらの研究で明らかになったのは、アジア南東部の8000〜4000年前頃となるホアビン文化(Hòabìnhian)狩猟採集民が、深く分岐したアジア祖先系統(本論文ではホアビン文化祖先系統と呼ばれます)を有しているのに対して、4000年前頃以降となるアジア南東部最初の農耕民は、中国南部の現代人と関連する祖先系統(祖先系譜、ancestry)とホアビン文化祖先系統の混合を示す、ということです。

 中国南部では、福建省の9000〜4000年前頃の個体群が、中国北部とは異なる祖先系統を示しますが、ホアビン文化祖先系統ほどには深く分岐していません(ホアビン文化祖先系統と比較すると中国の南北間の祖先系統は相互に近縁です)。本論文では、この祖先系統は福建省祖先系統と呼ばれ、現代の中国南部人口集団で部分的に見られ、アジア大陸部から数千年前にアジア南東部やオセアニアへと航海で拡散した人口集団の子孫である、オーストロネシア語族現代人で見られる祖先系統と密接に関連しています(関連記事)。これらの知見から、古代DNA技術を用いて祖先人口集団および早期、とくに農耕移行前の人口動態を調べることは、過去の人口史をよりよく理解するのに重要である、と示されます。

 人類学的および考古学的証拠も、アジア東部および南東部における人口統計学的複雑さを浮き彫りにします。物質文化の調査により、ホアビン文化祖先系統と関連する文化は中国南部でも存在したかもしれない、と示唆されています。中国南部とアジア南東部の境界で発見された先史時代人骨格形態の比較から、アジア東部と南東部の現代人で観察されたものとは異なる、深い祖先系統を示唆するパターンが示されます。以前の比較考古学的研究で示唆されるのは、中国南部において2つの異なる文化伝統が存在し、一方はおもに中国南部沿岸とその近隣の島々で、もう一方はベトナムとの国境地域で見られ、これはアジア南東部と中国南部の古代の個体群で観察される2つの異なる遺伝的パターンを反映している、ということです。

 アジア東部および南東部の歴史がより明確になってきているにも関わらず、中国におけるベトナムとの国境地帯の広西チワン族自治区のような地域は、中国南部とアジア南東部全域の人口史がまだ充分に確立されていないことを示します。広西チワン族自治区では、隆林洞窟(Longlin Cave)において1万年以上前となる祖先的特徴と現代的特徴の混合した頭蓋が見つかっており(関連記事)、ホアビン文化祖先系統と類似しているか、もしくはそれ以前に分岐した祖先系統の可能性が指摘されていて、これは現時点でアジア東部および南東部の古代人では観察されていないパターンです。

 ホアビン文化的な物質文化は中国南部の他地域でも見られますが、ホアビン文化祖先系統はアジア南東部外の古代人ではまだ見つかっていません。広西チワン族自治区の現代の人口集団はタイ・カダイ(Tai-Kadai)語族話者とミャオ・ヤオ(Hmong-Mien)語族話者で、福建省祖先系統と中国北部祖先系統の混合を示します(関連記事)。中国南部とアジア南東部をつなぐ広西チワン族自治区の中心的位置にも関わらず、古代DNA技術は広西チワン族自治区の古代人には適用されておらず、これはおもに、高温多湿地域での古代DNAの保存が不充分なためです。

 この標本抽出の困難にも関わらず、この研究は過去11000年の広西チワン族自治区の古代人に関して、広西チワン族自治区で深く分岐した祖先系統が果たした役割、とくに隆林洞窟個体に関してと、ホアビン文化祖先系統と福建省祖先系統がこの地域に拡大したのかどうか、もしそうならば、どのように相互作用したのか、ということと、広西チワン族自治区の古代人が現代の人口集団にどのように寄与したのか、ということを調べます。


●DNA解析

 これらの問題に対処するため、広西チワン族自治区の30ヶ所の遺跡から170点の標本が調べられました。上述のように広西チワン族自治区は古代DNA研究に適した地域ではありませんが、30個体で10686〜294年前頃(放射性炭素年代測定法による較正年代で、以下の年代も基本的に同様です)のゲノムデータを得ることに成功し、この中には上述の1万年以上前と推定されている隆林洞窟の人類遺骸も含まれます。また、福建省の斎河(Qihe)洞窟遺跡の追加の個体(11747〜11356年前頃となる斎河3号)からもゲノムデータが得られました。隆林遺骸と斎河3号の年代は12000〜10000年前頃で、更新世から完新世の移行期におけるアジア東部の遺伝的多様性を調べられます。広西チワン族自治区で標本抽出された古代DNAは、アジア南東部や中国南部の福建省など他地域で観察されたものとは異なる遺伝的歴史を明らかにします。

 120万ヶ所の一塩基多型で内在性DNAが濃縮され、合計31個体で遺伝的情報が得られました(網羅率は0.01〜4.06倍)。まず親族分析が実行され、広西チワン族自治区の30個体のうち7組で密接な親族関係(1親等および2親等)が見つかりました。これら7組のうち得られた一塩基多型数が最も多い個体以外は集団遺伝学的分析で除外され、親族関係にない23個体が残りました。これら広西チワン族自治区の古代人23個体について、主成分分析(図1C)と外群f3統計とf4統計とADMIXTURE分析が実行され、9集団に分離されました(図1A・B)。福建省の斎河3号は、同遺跡の以前に報告された個体と遺伝的にクラスタ化します。以下は本論文の図1です。
画像


●11000年以上前の広西チワン族自治区個体で見つかった未知のアジア東部祖先系統

 この研究で標本抽出された最古の個体は広西チワン族自治区の隆林洞窟で発見された10686〜10439年前頃の個体で、非現生人類ホモ属(古代型ホモ属、絶滅ホモ属)的特徴と初期現生人類的特徴が混合した頭蓋形態を示します。しかし、隆林個体の遺伝的特性は、現代のアジア東部人口集団で見られる遺伝的多様性内に収まり、非現生人類ホモ属に由来する祖先系統の割合はアジア東部現代人で観察される水準と類似しています。

 中国で標本抽出された9000〜4000年前頃の個体群との比較から、隆林個体は現時点で標本抽出されたアジア東部人と密接に関連していない、と示されます。隆林個体は外群f3分析では、アジア東部現代人と密接に関連する古代人、つまり中国北部の山東省で発見された9500〜7700年前頃の個体群、および中国南部の福建省で発見された8400〜7600年前頃個体群と、遺伝的類似性をほとんど共有していません。じっさい、山東省前期新石器時代(EN_SD)集団と福建省前期新石器時代(EN_FJ)集団は、相互に隆林個体とよりも密接な関係を共有しており、どちらも隆林個体と過剰な類似性を共有していません。

 こうした知見から、隆林個体の系統は、北方の山東省祖先系統と南方の福建省祖先系統が分離する前に分岐した、と示唆されます。混合グラフとTreemix分析の両方(図2A・B)を用いた、隆林個体と新石器時代アジア東部人との間の系統関係をモデル化した後、隆林個体が山東省および福建省の新石器時代集団に代表される南北のアジア東部祖先系統の外群である、という想定のさらなる裏づけが見つかります。以下は本論文の図2です。
画像

 隆林個体がアジア東部人からどれくらい深く分岐しているのか調べるため、隆林個体および新石器時代アジア東部人と、深く分岐したアジア祖先系統を有する他の個体群が比較されました。後者には、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性(関連記事)と、現代のパプア人およびアンダマン諸島のオンゲ人(関連記事)と、アジア南東部の8000年前頃の1個体(関連記事)が含まれます。比較の結果、隆林個体は深く分岐したアジア祖先系統のどれよりも山東省および福建省の新石器時代集団と密接に関連している、と明らかになりました。本論文の遺伝的分析から、隆林個体はアジア東部現代人系統の側枝で、深く分岐したアジア祖先系統との密接な関係はない、と示されます。

 縄文文化と関連する愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃となる個体(関連記事)は、アジア東部人および田園個体など深く分岐したアジア人に対して、隆林個体と同様のパターンを示します。伊川津「縄文人」と隆林個体は、深く分岐したアジア人とよりも相互に密接な関係を共有します。どれがアジア東部人とより密接に関連しているのか評価するため、伊川津縄文人と隆林個体が山東省および福建省の新石器時代集団と比較されました。f4分析では、山東省および福建省の新石器時代集団は隆林個体および伊川津縄文人と同様に関連しており、隆林個体と伊川津縄文人は両方、他の個体では見られない山東省および福建省の新石器時代集団とのつながりを有しています。これらのパターンは、隆林個体と伊川津縄文人と新石器時代アジア東部人は同時に相互に分離した可能性が高いことを示唆します。

 したがって、隆林個体関連祖先系統(以下、広西祖先系統)は、中国南部およびアジア南東部に囲まれた地域で以前に観察された福建省祖先系統およびホアビン文化祖先系統の両方と異なっている、と分かります。日本列島の伊川津縄文人で見られる縄文人祖先系統と同様に、広西祖先系統は田園個体やホアビン文化祖先系統など深く分岐したアジア人祖先系統よりも、アジア東部人祖先系統の方と密接に関連しています。しかし、伊川津縄文人とは異なり、隆林個体は地理的に他の大陸部アジア東部人から孤立していませんでした。これらのパターンは、11000年前頃のアジア東方における遺伝的多様性が、人類の歴史のその後の期間よりも高かったことを示唆します。


●9000〜6400年前頃までの中国南部における混合

 11000年前頃の1個体(隆林個体)で広西祖先系統が観察されたので、次に、広西チワン族自治区のより新しい人口集団にも広西祖先系統が見られるのか、調べられました。9000〜6400年前頃となる、広西チワン族自治区の独山洞窟(Dushan Cave)遺跡と包󠄁家山(Baojianshan)遺跡の2個体のゲノム規模データが得られました。8974〜8593年前頃となる独山洞窟の男性1個体が、隆林個体よりもアジア東部南北の人々とより密接に関連する人口集団の子孫ならば、f4(ムブティ人、隆林個体、独山個体、アジア東部人)~0と予想されます。しかし、代わりに、シベリア(関連記事)および福建省の一部のアジア東部人と関連して、f4(ムブティ人、隆林個体、独山個体、悪魔の門新石器時代個体および斎河遺跡個体)<0と観察され、隆林個体と独山個体との間での遺伝的つながりの存在が示唆されます。外群f3分析で隆林個体をアジア東部および南東部の古代人と比較すると、最高値は独山個体で観察され、隆林個体は独山個体と最も遺伝的類似性を共有している、と示されます。これらのパターンは、広西祖先系統が独山個体に存在することを示唆します。

 しかし、独山個体の外群f3分析では、独山個体が単に広西祖先系統を有するよりも、福建省新石器時代集団およびアジア南東部農耕民と高い遺伝的類似性を共有している、と示され、これは隆林個体では観察されないパターンです。移住事象を表せる系統発生分析(図2A・B)は一貫して、独山個体を隆林個体関連起源集団(17%)と福建省(斎河遺跡)個体群関連起源集団(83%)との混合としてモデル化します。f4分析では、独山個体がシベリア関連アジア東部北方集団および山東省集団と比較して、福建省祖先系統の集団とつながりを共有する、と裏づけます。独山個体で観察された遺伝的パターンから、9000年前頃までに、広西祖先系統を有する集団と福建省祖先系統を有する集団との間で遺伝子流動がおきており、両祖先系統の混合集団が誕生した、と示唆されます。

 独山個体と福建省祖先系統を有する人口集団(図2B)との間で共有されるアレル(対立遺伝子)の増加を考慮して、混合した広西および福建省祖先系統が福建省の人口集団に影響を及ぼしたのかどうか、次に検証されました。その結果、独山個体は、斎河遺跡と亮島(Liangdao)遺跡の個体群でまとめられる福建省前期新石器時代人口集団と比較して、渓頭(Xitoucun)遺跡と曇石山(Tanshishan)遺跡でまとめられる後期福建省人口集団の方とより多くの類似性を示す、と明らかになりました。このパターンは塩基転換(ピリミジン塩基からプリン塩基の置換およびその逆の置換)でのみ持続しました。さまざまな遺跡の個体を分離しておく拡張分析では、12000年前頃の斎河3号と比較して、独山個体への類似性が評価されました。独山個体との類似性は、4100〜2000年前頃の後期福建省人口集団だけではなく、1900〜1100年前頃となる台湾の漢本(Hanben)個体群でも持続します。

 ベトナムのマンバク(Man_Bac)遺跡とヌイナプ(Nui_Nap)遺跡の個体群に代表される4100〜2000年前頃のアジア南東部人口集団と、1500年前頃の広西チワン族自治区の人口集団で、同じ独山個体との類似性が観察されました。BH(Benjamini-Hochberg)補正により、古代アジア南東部人口集団はもはや有意な類似性を示しませんが、広西チワン族自治区のBaBanQinCen(Banda遺跡とQinCen遺跡とBalong遺跡)個体群は示します。塩基転換の場合のみ、独山個体の類似性は渓頭個体で持続しました。全体としてこれらのパターンは、おそらくは広西祖先系統と福建省祖先系統の混合である独山個体と関連する祖先系統が、中国南部の先史時代には重要な役割を果たした、と示唆します。

 広西祖先系統と福建省祖先系統の混合は、包󠄁家山遺跡の8300〜6400年前頃の女性1個体で見られる遺伝的パターンに基づくと、広西チワン族自治区では数千年持続したようです。独山個体と同様に、包󠄁家山個体は福建省新石器時代人口集団およびアジア南東部農耕民と最高の遺伝的類似性を共有します。また包󠄁家山個体は、山東省および福建省新石器時代集団の両方と比較して、独山個体とより多くの祖先系統を共有しています。

 包󠄁家山個体は、独山個体と祖先系統を共有する一方、独山個体および他の先史時代広西チワン族自治区個体群とは異なり、アジア南東部の深く分岐したホアビン文化狩猟採集民ともアレルを共有します。f4分析では、ホアビン文化狩猟採集民は、隆林個体および独山個体では観察されないアジア東部北方人と比較して、包󠄁家山個体とのつながりを示します。qpAdmで混合の割合を推定すると、包󠄁家山個体は独山個体関連祖先系統(72.3%)とホアビン文化関連祖先系統(27.7%)の混合としてモデル化でき、qpGraph分析の推定と類似の割合となります(図2B)。移住事象を示すTreemix分析では、包󠄁家山個体は独山個体とクラスタ化し、隆林個体系統からの移住事象を共有し、ホアビン文化集団からの追加の移住事象が推定されます(図2A)。したがって、福建省祖先系統とホアビン文化祖先系統の両方が、8300〜6400年前頃の広西チワン族自治区で見つかり、まとめると、南方の3祖先系統全てが包󠄁家山個体を通じて広西チワン族自治区において混合の形で見られます。

 9000〜6400年前頃には、中国南部とアジア南東部の境界の先史時代人口集団において混合が重要な役割を果たしました。独山個体は広西祖先系統と福建省祖先系統の混合を有する人口集団に属していましたが、包󠄁家山個体は独山個体と類似しているものの、追加のホアビン文化祖先系統を共有しています。これらのパターンが裏づけるのは、一部の中国南部の遺跡の物質文化の研究で示唆されてきたように、ホアビン文化祖先系統が中国南部に拡大した、ということです。しかし、これらのパターンは、ホアビン文化祖先系統と福建省祖先系統のどちらも、中国南部とアジア南東部の境界に存在した人口集団の説明に充分ではないことを浮き彫りにします。広西祖先系統は少なくとも6400年前頃まで部分的に存続し、独山個体と関連する祖先系統は、同様に広西チワン族自治区外の先史時代人口集団に影響を及ぼした可能性が高そうです。

 本論文の知見から、広西チワン族自治区の9000〜6400年前頃の先史時代は、アジア東方南部の各祖先系統のさまざまな水準を含む混合人口集団で満ちている、と示されます。これら混合人口集団の年代と考古学的関連から、混合はアジア南東部の4000年前頃の標本(関連記事)で示されているような農耕文化発展のずっと前に、中国南部とアジア南東部で大きな影響を及ぼした、と示唆されます。広西チワン族自治区では、これらの混合個体群は隆林個体と密接には関連していません。これは、同じ頃の福建省個体群で観察されたパターンとほぼ対照的で、後期新石器時代福建省人口集団は、前期新石器時代福建省人口集団との密接な遺伝的関係を示します。


●広西チワン族自治区の歴史時代の人口集団における変化

 1500〜500年前頃の広西チワン族自治区の標本で、歴史時代における上述のアジア東方南部の3祖先系統(福建省と広西とホアビン文化)の役割が評価されました。その結果、歴史時代の広西チワン族自治区人口集団は、主成分分析では先史時代人口集団とクラスタ化しない、と明らかになりました(図1C)。代わりに、1500年前頃の歴史時代の個体群の大半は類似の遺伝的特性を共有し、タイ・カダイ語族話者と緊密なクラスタを形成して重なります。しかし、500年前頃となるGaoHuaHua(広西チワン族自治区のGaofeng遺跡Huaqjao遺跡とHuatuyan遺跡)人口集団は1500年前頃のクラスタとは異なり、主成分分析(図1C)と外群f3分析の両方でミャオ・ヤオ語族話者の近くに位置します。

 現代の人口集団との関係を直接的に比較するため、f4(ムブティ人、アジア東部現代人、1500年前頃の広西チワン族自治区集団、500年前頃の広西チワン族自治区集団)が実行され、ミャオ・ヤオ語族話者は常に500年前頃のGaoHuaHua人口集団と有意な類似性を示す、と明らかになりました(図3A)。広西チワン族自治区の全ての歴史時代人口集団は、洞窟埋葬遺跡から標本抽出されました。碑文と棺の類型に基づいて、広西チワン族自治区の洞窟埋葬はタイ・カダイ語族であるチワン人(Zhuang)の祖先のものと考えられていました。しかし、GaoHuaHua人口集団が標本抽出された500年前頃となる洞窟埋葬は、ミャオ・ヤオ語族人口集団とつながっていた、と仮定されてきました。本論文の遺伝的分析から、以前に提案されたように、これら2期の広西チワン族自治区の人口集団はじっさい遺伝的にかなり異なっており、異なる人口集団に属する、と示唆されます。したがって、これらの人口集団が広西チワン族自治区の現代のタイ・カダイ語族集団とミャオ・ヤオ語族に最終的に寄与したと仮定すると、少なくとも500年前頃までに強い遺伝的構造が見つかります。

 qpAdmを用いて歴史時代の広西チワン族自治区人口集団の遺伝的構造がさらに調べられ、さまざまな起源祖先系統から混合割合がモデル化されました。その結果、歴史時代の広西チワン族自治区人口集団は、独山個体もしくは斎河3号関連祖先系統(58.2〜90.6%)とアジア東部北方関連祖先系統(9.4〜41.8%)の混合としてモデル化できます。BaBanQinCenを除く全ての人口集団で、独山個体と関連する深い祖先系統の有意な兆候は見つからず(図2D)、これら歴史時代の広西チワン族自治区人口集団で見られる南方祖先系統は、福建省祖先系統と密接に関連している、と示唆されます。

 アジア東部南方現代人と同様に、1500年前頃以降となる歴史時代の広西チワン族自治区人口集団も、アジア東部北方人からの混合を示します。アジア東部北方のさまざまな地域からの既知の古代人口集団を比較し、どの祖先系統が歴史時代の広西チワン族自治区人口集団に最も強い影響を及ぼしたのか、検証されました。外群f3分析では、歴史時代の広西チワン族自治区人口集団は黄河下流近くで見つかる古代の人口集団と最も密接な遺伝的類似性を示します。たとえば、變變(Bianbian)遺跡と小荆山(Xiaojingshan)遺跡の個体群に代表される9500〜7900年前頃となる山東省の人口集団(関連記事)と、4225〜2000年前頃となる中原の人口集団(関連記事)です(図3B)。

 歴史時代の広西チワン族自治区人口集団と7900年前頃となる小荆山遺跡個体群との間の遺伝的区類似性は、1688年前頃以降となる歴史時代最初期のBaBanQinCen集団から持続しています。したがって、1500〜500年前頃となる歴史時代の広西チワン族自治区人口集団で見られる北方からの遺伝的影響は、9500〜7700年前頃の山東省祖先系統と最も密接に関連しています。以下は本論文の図3です。
画像


●考察

 中国南部の広西チワン族自治区の11000〜6000年前頃の個体群の分析は、以前には標本抽出されていなかった、アジア東部人と深く分岐した遺伝的系統を明らかにします。この系統は11000年前頃の隆林個体により最もよく表され、山東省および福建省の新石器時代個体群に存在するアジア東部の南北両方の祖先系統の外群として機能し、アジア東部系統の深い分岐が、日本列島の縄文人のような孤立した地域だけではなく、アジア東部本土でも見つかることを明らかにします。もう一方の12000年前頃の個体は中国南部沿岸の福建省地域で標本抽出され、隆林個体とは異なり、福建省祖先系統を示します。これら2個体から、12000〜10000年前頃には、中国南部は少なくとも2つのひじょうに多様な人口集団により特徴づけられていた、と示されます。しかし、斎河3号に代表される福建省関連祖先系統は12000〜4000年前頃で存在しましたが、このパターンは広西チワン族自治区には当てはまりません。

 もっと最近の標本抽出では、人口集団の継続性は広西チワン族自治区の特徴ではなく、遺伝子流動が9000〜6400年前頃に形成的な役割を果たした、と示されます。9000年前頃の独山個体は、福建省祖先系統と隆林個体に代表される広西祖先系統の混合として最もよく特徴づけられ、独山個体と関連する祖先系統は、後に渓頭遺跡個体群に代表される4000年前頃の福建省人口集団に現れます。対照的に、8300〜6400年前頃となる広西チワン族自治区の包󠄁家山遺跡個体は、福建省祖先系統および広西祖先系統と追加のホアビン文化祖先系統の混合です。ホアビン文化祖先系統は深く分岐したアジアの祖先系統で、4000年前頃以前にはアジア南東部に広範に存在しました(関連記事)。

 包󠄁家山遺跡個体におけるホアビン文化祖先系統の存在は、ホアビン文化祖先系統の範囲がアジア南東部から中国南部へと拡大したことを示唆します。しかし、福建省祖先系統と広西祖先系統とホアビン文化祖先系統の混合で構成される人口集団は、アジア南東部と中国南部の境界に位置する広西チワン族自治区が、単純に単一の人口集団と関連する祖先系統により特徴づけられないことを示します。中国南部とアジア南東部におけるこれら多様な3祖先系統間の混合から、混合は広西チワン族自治区とアジア南東部において農耕導入前に先史時代人口集団に顕著な影響を及ぼした、と示されます。

 以前の研究では、日本列島と広西チワン族自治区の先史時代人口集団の頭蓋形態がオーストラロパプア人と類似性を共有しており、アジア南東部のホアビン文化個体群と類似している、と示唆されていました(関連記事)。アジア東部と南東部に祖先系統の2層が存在する、とのモデルが提案されてきており、第1層はオーストラロパプア人と密接に関連する先史時代人口集団と関連する初期祖先系統により表され、第2層はアジア東部北方起源で、農耕拡大とともに第1層をしだいに置換していった、と想定されます。

 しかし、第1層としてまとめられてきた中国南部とアジア南東部と日本列島の標本全体の類似した頭蓋の特徴は、本論文や他の研究(関連記事1および関連記事2および関連記事3)では遺伝的に類似のまとまりを示しません。これは、研究されてきた頭蓋の特徴が、これら農耕開始前の人口集団全体の多様性を正確に把握していないかもしれない、と示唆します。ホアビン文化祖先系統のような深いアジア祖先系統は存在しますが、広西チワン族自治区や福建省や日本列島も含めてアジア東部全域の過去11000年の標本抽出された人類遺骸は、相互により多くの共通祖先系統を有しており、アジア東部系統の多くの側枝を明らかにします。

 1500〜500年前頃となる歴史時代の広西チワン族自治区人口集団では、黄河流域のアジア東部北方人と関連する山東省祖先系統が顕著で、中国南部とアジア南東部全域で観察されるパターンです(関連記事1および関連記事2)。11000〜6400年前頃の広西チワン族自治区の個体群では北方祖先系統は観察されておらず、山東省祖先系統を有する人口集団の移動は6400〜1500年前頃に起きた、と示唆されます。歴史時代の広西チワン族自治区人口集団は、オーストロネシア人とは異なり、アジア東部北方祖先系統を有する人口集団からの大きな影響を示します。検出可能な広西祖先系統の欠如から、広西祖先系統が中国南部ではこの時期までに消滅し、この地域で現在見られる遺伝的多様性に実質的には寄与していない、と示唆されます。

 歴史時代の広西チワン族自治区人口集団の標本抽出は、広西チワン族自治区の最近の人口史と関連するいくつかの議論を解決します。現在広西チワン族自治区では2つの主要な言語集団が見られ、一方はタイ・カダイ語族話者、もう一方はミャオ・ヤオ語族話者と関連しています。本論文のデータにおける歴史時代の広西チワン族自治区人口集団は、タイ・カダイ語族話者と関連する祖先系統が少なくとも1500年前頃までに見られる一方で、ミャオ・ヤオ語族話者と関連する祖先系統は500年前頃の個体群に見られることを示します。したがって、これら2つの人口集団は、少なくとも500年間広西チワン族自治区に継続して居住してきました。

 11000年前頃までに、広西チワン族自治区はホアビン文化祖先系統もしくは福建省祖先系統と関連しない深く分岐した祖先系統を示し、この広西祖先系統は9000〜6400年前頃までにひじょうに混合した人口集団に取って代わられました。福建省とは異なり、広西チワン族自治区におけるひじょうに混合した人口集団の存在から、広西チワン族自治区は、広西チワン族自治区在来の人口集団、福建省からの人口集団、アジア南東部のホアビン文化と関連する人口集団間の相互作用地帯だった、と示唆されます。アジア南東部とは異なり、農耕開始のずっと前の遺伝子流動が、これらの地域における農耕開始前の人口集団の形成に重要な役割を果たした、と明らかになりました。

 これらの先史時代個体群は、広西チワン族自治区の現在の人口集団とは密接な関係を共有していませんが、1500年前頃以降、現在のタイ・カダイ語族話者およびミャオ・ヤオ語族話者と関連する祖先系統が見つかりました。長江および中国南西部近くの地域における標本抽出により、6000〜1500年前頃に中国南部で現在見られる遺伝的構成をもたらすに至った遺伝的変化と、さらに、アジア南東部全域の人類の顕著に多様な遺伝的先史時代が明らかになります。以下は本論文の要約図です。
画像

 本論文は最後に、限界も指摘しています。本論文での標本抽出は限定的な数の個体に基づいているので、この期間のアジア東部と南東部に存在した遺伝的多様性を充分に表していないかもしれません。12000年前頃から現在に至るアジア東部および南東部のより広範な地域にわたるさらなる標本抽出が、この地域の先史時代人類の遺伝的相互作用のさらなる調査に必要となるでしょう。


 以上、本論文についてざっと見てきました。ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して大きく遅れていたユーラシア東部における近年の古代DNA研究の進展には目覚ましいものがあり、本論文は気候条件から古代DNA研究には適さないアジア東部南方の古代人、それも1万年以上前の個体も含めてのDNA解析結果を報告しており、たいへん重要な成果と言えるでしょう。アジア東部南方やアジア南東部の更新世人類遺骸の古代DNA解析はかなり難しいでしょうし、そもそも人類遺骸自体少ないわけですが、気候条件がDNA解析に厳しいものの、最近急速に発展している洞窟堆積物のDNA解析が成功すれば、さらに詳しい人口史が明らかになるのではないか、と期待されます。

 本論文は、完新世最初期の時点でのアジア東部の現生人類集団の遺伝的異質性が現在よりもずっと高かったことを、改めて示しました。アジア東部では完新世に人類集団の遺伝的均質化が進んだわけですが、それが現在の広西チワン族自治区など一部の地域では農耕開始前に始まりつつあったことを示したのは、大きな成果だと思います。とくに、ホアビン文化集団の北方への移動の可能性が高いことを示したことは、大いに注目されます。おそらく、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)など寒冷期に、人類集団が孤立して遺伝的に分化していった地域は多く、遺伝的分化が進展していき、その後の温暖化により人類集団の広範な地域への移動と相互作用が活発化し、遺伝的に均質化していったのではないか、と考えられます。

 また本論文は、特定の地域における長期の人類集団の連続性を自明視すべきではないことも、改めて示したと言えるでしょう。この問題には最近言及しましたが(関連記事)、アジア東部南方についてはほとんど言及できなかったので、本論文は私にとってたいへん有益でした。本論文は改めて、現代の各地域集団の遺伝的構成から過去の同地域の集団の遺伝的構成や拡散経路や到来年代を推測することは危険である、と示したように思います。多くの地域において、現生人類が拡散してきた後期更新世から完新世にかけて、絶滅・置換・変容が起きたのでしょう。また本論文は、非現生人類ホモ属である可能性さえ指摘されていた隆林個体が、遺伝的にはユーラシア東部の現生人類の変異内に収まる、と示しており、形態学的特徴による区分がいかに難しいのか(関連記事)、改めて確認されました。

 本論文は、隆林個体と伊川津縄文人と新石器時代アジア東部人は同時に相互に分離した可能性が高いことを示唆します。ただ、最近の研究で、縄文人が(本論文の云う)ホアビン文化祖先系統(とより密接な祖先系統)と福建省祖先系統(とより密接な祖先系統)の混合だと推測されているように(関連記事)、じっさいの人口史はずっと複雑である可能性が高いように思います。系統樹は遠い遺伝的関係の分類群同士の関係を図示するのには適しているものの、近い遺伝的関係の分類群同士では複雑な関係を適切に表せるとは限らず、隆林個体や伊川津縄文人の位置づけに関しては、今後の研究の進展によりさらに実際の人口史に近づけるのではないか、と期待されます。


参考文献:
Wang T. et al.(2021): Human population history at the crossroads of East and Southeast Asia since 11,000 years ago. Cell.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.05.018

https://sicambre.at.webry.info/202106/article_27.html

6. 中川隆[-15583] koaQ7Jey 2021年11月04日 13:01:14 : ZwZnp6pbIc : T1NDbXVQb25JcUU=[20] 報告
雑記帳
2021年11月04日
弥生時代と古墳時代の人類の核ゲノム解析まとめ
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_4.html


 以前、縄文時代の人類の核ゲノム解析結果をまとめたので(関連記事)、弥生時代と古墳時代についても、当ブログで取り上げた分を同様にまとめます。まず弥生時代について、現時点で核ゲノムデータが得られている最古の個体となりそうなのは、佐賀県唐津市大友遺跡の女性(大友8号)です(神澤他.,2021A、関連記事)。大友8号の年代は2730〜2530年前頃(弥生時代早期)で、mtDNAハプログループ(mtHg)はM7a1a6です。大友8号は、既知の古代人および現代人との比較で、東日本の「縄文人」とまとまりを形成します。詳細を把握していませんが、東北地方の弥生時代の男性も核ゲノム解析では既知の「縄文人」の範疇に収まります(篠田.,2019,P173-174、関連記事)

 弥生時代中期では、九州北部で複数の人類遺骸から核ゲノムデータが得られています。そのうち、福岡県那珂川市の安徳台遺跡の1個体(安徳台5号)は形態学的に「渡来系弥生人」と評価されていますが、核ゲノム解析により現代日本人(東京)の範疇に収まる、と指摘されています(篠田他.,2020、関連記事)。大友8号は遺伝的に「縄文人」と言えるわけです。同じく弥生時代中期の形態学的に「渡来系弥生人」とされる福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡の個体も、核ゲノム解析では現代日本人(東京)の範疇に収まります(Robbeets et al., 2021、関連記事)。一方、弥生時代中期でも安徳台5号や隈・西小田遺跡個体よりも新しく、形態学的に「縄文人」と近いと指摘されている、長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体(下本山2号および3号)は、相互に違いはあるものの、遺伝的には現代日本人と「縄文人」との中間に位置づけられます(篠田他.,2019、関連記事)。以下は安徳台5号と下本山2号および3号の核ゲノムデータに基づく主成分分析結果を示した篠田他.,2020の図2です。
画像

 下本山岩陰遺跡の2個体の核ゲノムは、「縄文人」構成要素の割合が50〜60%程度とモデル化されており、現代日本人(東京)よりもかなり高くなっています(Cooke et al., 2021、関連記事)。一方、現代日本人(東京)と比較しての「縄文人」構成要素の割合は、安徳台5号ではやや高く、隈・西小田遺跡個体ではやや低くなります(Robbeets et al., 2021)。これらの事例から、弥生時代の人類の遺伝的構成は、「縄文人」そのものから現代日本人に近いものまで、地域と年代により大きな違いがあった、と推測されます。

 同一遺跡では、弥生時代前期末から古墳時代初期の鳥取県鳥取市(旧気高郡)青谷町の青谷上寺遺跡で、弥生時代中期〜後期の人類遺骸の核ゲノムデータが得られています(神澤他.,2021B、関連記事)。核ゲノム解析結果に基づく青谷上寺遺跡個体群の遺伝的特徴は、現代日本人(東京)の範疇に収まるか、そこに近く、違いが大きいことです。これは、経時的な「渡来系」と「在来系」の混合の進展を反映しているかもしれません。つまり、青谷上寺遺跡集団は遺伝的に長期にわたって孤立していたのではなく、日本列島外もしくは日本列島内の他地域との混合があったのではないか、というわけです。青谷上寺遺跡の事例からも、弥生時代の人類の遺伝的構成には大きな違いがあった、と改めて言えそうです。

 古墳時代では、石川県金沢市の岩出横穴墓で末期となる3個体(JpIw32とJpIw31とJpIw33)の核ゲノムデータが得られています(Cooke et al., 2021)。この3個体は遺伝的に現代日本人(東京)と類似しているものの、「縄文人」構成要素の割合は現代日本人(東京)よりもやや高くなっています。古墳時代前期となる香川県高松市の高松茶臼山古墳の男性被葬者(茶臼山3号)も、核ゲノムデータに基づくと現代日本人(東京)の範疇に収まるものの、「縄文人」構成要素の割合は現代日本人(東京)よりもやや高くなっています(神澤他.,2021C、関連記事)。島根県出雲市猪目洞窟遺跡で発見された古墳時代末期(猪目3-2-1号)と奈良時代(猪目3-2-2号)の個体でも、茶臼山3号とほぼ同様の結果が得られています(神澤他.,2021D、関連記事)。

 このように、やや「縄文人」構成要素の割合が高いとはいえ、古墳時代には遺伝的に現代日本人(東京)の範疇に収まる個体が、九州に限らず広く東日本でも確認されています。一方で、和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号(紀元後398〜468年頃)および2号(紀元後407〜535年頃)の核ゲノム解析では、両者が他の古墳時代個体や現代日本人(東京)よりも弥生時代中期の下本山2号および3号に近く、「縄文人」構成要素の割合は、第1号石室1号が52.9〜56.4%、2号が42.4〜51.6%と推定されています(安達他.,2021、関連記事)。以下は、磯間岩陰遺跡の2個体の核ゲノムデータに基づく主成分分析結果を示した安達他.,2021の図1です。
画像

 このように、古墳時代の近畿地方(畿内ではありませんが)においてさえ、現代日本人の平均よりもずっと「縄文人」の遺伝的影響が高い、と推定される個体が確認されています。現代日本人の基本的な遺伝的構成の確立は、少なくとも平安時代まで視野に入れる必要があり、さらに言えば、中世後期に安定した村落(惣村)が成立していくこととも深く関わっているのではないか、と現時点では予測していますが、この私見の妥当性の判断は、歴史時代も含めた古代ゲノム研究の進展を俟つしかありません。もちろん、現代(Watanabe et al., 2021、関連記事)がそうであるように、中世と近世においても地域差はあったでしょうし、さらに階層差がどの程度あったのかという点でも、研究の進展が期待されます。


参考文献:
Cooke H. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419


Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Research Square.
https://doi.org/10.21203/rs.3.rs-255765/v1


Watanabe Y, Isshiki M, and Ohashi J.(2021): Prefecture-level population structure of the Japanese based on SNP genotypes of 11,069 individuals. Journal of Human Genetics, 66, 4, 431–437.
https://doi.org/10.1038/s10038-020-00847-0

安達登、神澤秀明、藤井元人、清家章(2021)「磯間岩陰遺跡出土人骨のDNA分析」清家章編『磯間岩陰遺跡の研究分析・考察』P105-118


神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021A)「佐賀県唐津市大友遺跡第5次調査出土弥生人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P385-393


神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021B)「鳥取県鳥取市青谷上寺遺跡出土弥生後期人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P295-307


神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021C)「香川県高松市茶臼山古墳出土古墳前期人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P369-373


神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一、斎藤成也(2021D)「島根県出雲市猪目洞窟遺跡出土人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P329-340


篠田謙一(2019)『日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』(NHK出版)


篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2019)「西北九州弥生人の遺伝的な特徴―佐世保市下本山岩陰遺跡出土人骨の核ゲノム解析―」『Anthropological Science (Japanese Series)』119巻1号P25-43
https://doi.org/10.1537/asj.1904231


篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2020)「福岡県那珂川市安徳台遺跡出土弥生中期人骨のDNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第219集P199-210


https://sicambre.at.webry.info/202111/article_4.html

7. 中川隆[-15397] koaQ7Jey 2021年11月10日 16:01:42 : lCCO7qVYNQ : TkZaNEtBbjVhVkU=[28] 報告
雑記帳
2021年11月10日
大橋順「アジア人・日本人の遺伝的多様性 ゲノム情報から推定するヒトの移住と混血の過程」
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_10.html


 井原泰雄、梅ア昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』所収の論文です。ヒトゲノムとは、ヒト(Homo sapiens)が持つ遺伝情報(全DNA配列)の1セットのことです。あらゆる生物の基本単位は細胞で、赤血球以外のヒトの体細胞は核膜で囲まれた球状の細胞核を持っています。細胞核の中に染色体があり、各染色体はヒストンとよばれるタンパク質にデオキシリボ核酸(DNA)が巻きついた棒状の構造をしています。DNAの最小単位(ヌクレオチド)は、塩基と糖とリン酸から構成されています。塩基にはアデニン(A)とグアニン(G)とシトシン(C)とチミン(T)の4種類があり、ヌクレオチドにはそのうち1塩基が結合しています。ヌクレオチドはリン酸を介して鎖状につながっており、DNA鎖と呼ばれます。2本のDNA鎖の塩基同士は水素結合によりつながっており、二重螺旋構造となっています。向かい合う塩基の組み合わせは特異的で相補的な関係にあり、具体的にはAとT、GとCです。DNA鎖における4種類の塩基の組み合わせが塩基配列で、生物が正常な生命活動を維持するための遺伝情報が含まれています。ヒトゲノムは約31億塩基対により構成され、その一部(数%)はタンパク質のアミノ酸配列を規定しており、そうした部位はタンパク質コード遺伝子と呼ばれます。ヒトゲノムには、約25000個のタンパク質コード遺伝子が存在します。


●性特異的遺伝マーカー

 ヒトの細胞核には、22対の常染色体(ヒトは二倍体生物なので44本)と1対の性染色体(女性はX染色体が2本、男性はX染色体とY染色体が1本ずつ)が含まれています。卵子には必ずX染色体が1本含まれますが、精子にはX染色体を含むものとY染色体を含むものがあり、精子が卵子と結合すると、前者ならば女子、後者ならば男子が生まれます。Y染色体は父親から息子にのみ伝わるので、父親の系譜を反映する遺伝マーカーとしてよく利用されます。

 ミトコンドリアは細胞質に存在する細胞小器官で、エネルギー産生や呼吸代謝の役割を担っています。ミトコンドリアもDNAを含んでおり(mtDNA)、核DNAと同様に親から子供に伝わります。受精のさい、父親由来のミトコンドリアは卵子の中に入らないか、入っても破壊されるので、mtDNAは母親からのみ子供に伝わります。この母系遺伝の性質から、mtDNAは母親の系譜を反映する遺伝マーカーとして利用されています。mtDNAは男性も有しており、細胞内のDNA量が多く解析しやすいため、これまでに多くの研究があります。


●SNP

 配偶子が形成されるさい、ひじょうに低い確率ではあるものの、DNA複製エラーによる塩基配列の変化が起きることもあり、突然変異と呼ばれます。突然変異には、塩基置換、塩基の挿入や欠失、繰り返し配列における繰り返し数の増減などがあり、突然変異により生じた新たな塩基配列が、世代経過に伴って集団中で頻度が増加すると、多型として観察されるようになります。ヒトゲノム中で最も高頻度に観察される多型は、SNP(一塩基多型)です。SNPとは、着目する集団において、塩基配列上のある特定の位置に、2種類以上の塩基が存在する部位のことです。SNPの異なる塩基をアレル(対立遺伝子)と呼びます。ヒトの点突然変異(1塩基が別の塩基に置換されること)率は1世代1塩基あたり1.2×10⁻⁸と低いので、大部分のSNPには2種類の塩基しか観察されず、そのほとんどが単一起源と考えられます。単一起源とは、祖先型がGアレルで派生型がAアレルの場合、GアレルからAアレルへの突然変異は過去に1回しか起きていない、ということです。二倍体生物のヒトは両親から相同染色体を1本ずつ受け継ぐので、各SNPに対して3種類の遺伝子型が存在し、たとえばA/GのSNPでは、A/AとA/GとG/Gの3通りの遺伝子型が存在します。

 タンパク質コード遺伝子上にあるSNPのうち、塩基の違いにより異なるアミノ酸となるものを非同義SNP、同じアミノ酸となるものを同義SNPと呼びます。多くのSNPはアメリカ国立生物工学情報センター(National Center for Biotechnology Information、略してNCBI)に登録されており、rsで始まるIDが付与されています。SNPを構成する2つのアレルのうち、頻度の低い方はマイナーアレル、頻度の高い方はメジャーアレルと呼ばれます。NCBIのdbSNPデータベースには、マイナーアレル頻度が1%以上の非同義SNPが101000個以上、同義SNPが89000個以上登録されています(2020年10月27日時点)。

 日本人を含むアジア東部人に特徴的な表現型を示すSNPに、ABCC11遺伝子上の非同義SNP(rs17822931)とEDAR遺伝子上の非同義SNP(rs3827760)があります。ABCC11はABC(ATP binding Cassette)トランスポータータンパク質の一つで、乳腺やアポクリン腺などの外分泌組織で作用するタンパク質です。rs17822931はABCC11タンパク質の180番目のアミノ酸残基がグリシン(Gアレル)もしくはアルギニン(Aアレル)となるSNPで、アルギニンとなるアレル頻度がアジア東部人では高く、A/A遺伝子型だと耳垢は乾燥型に、G/AもしくはG/G遺伝子型だと耳垢は湿った型になります。EDARはエクトジスプラシンA受容体で、胚発生において重要な役割を果たすタンパク質です。rs3827760はEDAR タンパク質の370番目のアミノ酸塩基がバリン(Tアレル)もしくはアラニン(Cアレル)となるSNPで、Cアレルを持つほど毛髪が太くなり、また切歯のシャベルの度合いが強くなります。乾燥型の耳垢と関連するrs17822931のAアレルには、アジア東部人の祖先集団で強い正の自然選択が作用した可能性が高く(関連記事)、それが明瞭な地域差を生じさせた、と考えられます。


●減数分裂と組換え

 生殖細胞系列で起こる細胞分裂の様式は減数分裂と呼ばれ、細胞が通常増殖するさいの様式は有糸分裂もしくは体細胞分裂と呼ばれます。減数分裂が体細胞分裂と異なる点は、染色体の複製跡に姉妹染色分体となり、2回連続して細胞分裂(減数第一分裂と減数第二分裂)が起きることで、最終的に配偶子では染色体数が分裂前の細胞に半分になることです。減数分裂により遺伝的多様性が生み出される仕組みに、非姉妹染色分体間で染色体の一部が入れ替わる交叉(乗換)があり、各染色体あたり約2ヶ所以上(減数分裂あたり約50ヶ所)で交叉が起きます。これにより、新たな塩基配列を有する染色体(組換え体)が子供に伝わることがあります。同一染色体上の2地点間で組換えが起こる頻度が1%以上の時、その2点間の遺伝距離を1センチモルガン(cM)と呼び、ヒトの場合は1.3cMの距離が約100万塩基に相当します。


●ハプロタイプと連鎖不平衡

 ハプロタイプとは、同一染色体上に存在する複数のSNPのアレルの組み合わせです。観察されるハプロタイプの種類数は、SNP部位間で過去に起きた組換えの回数に依存しており、SNP部位が近接している(正確には、遺伝的距離が短い)と組換え率が低いため、理論上の最大種類数よりも少なくなります。観察されるハプロタイプの種類や各ハプロタイプ頻度は集団により異なりますが、遺伝的に近い集団ではよく似ているので、ヒト集団間の遺伝的近縁関係や、ヒトの移住史の推定に用いられます。


 連鎖不平衡とは、同一染色体上の2つ以上の多型間のアレルに関連がある状態のことです。SNP1(AアレルとGアレル)とSNP2(CアレルとTアレル)により規定されるハプロタイプの場合、A-CとA-TとG-CとG-Tの4種類のハプロタイプが存在し得ます。ハプロタイプの頻度がそれを構成するアレル頻度の積と等しくない場合、両アレルは連鎖不平衡の関係にあると呼ばれ、ハプロタイプ頻度の方がアレル頻度の積よりも大きければ正の連鎖不平衡、小さければ負の連鎖不平衡と呼ばれます。A-CとA-TとG-CとG-Tの各ハプロタイプ頻度をh11とh12とh21とh22とする場合、AアレルとCアレルの各頻度はh11+h12とh11+h21です。AアレルとCアレルの連鎖不平衡係数を、A-Cハプロタイプ頻度からアレル頻度の積を引いたD11=h11- (h11+h12) (h11+h21)と定義すると、D11>0ならばAアレルとCアレルは負の連鎖不平衡、D11>0ならばAアレルとCアレルは負の連鎖不平衡、D11=0ならば、AアレルとCアレルは連鎖平衡にある、と呼ばれます。AアレルとTアレルの連鎖不平衡係数をD12、GアレルとCアレルの連鎖不平衡係数をD21、GアレルとTアレルの連鎖不平衡係数をD22と定義すると、D11=-D12=-D21=D22の関係が常に成立します。


●ゲノム人類学

 全ゲノム配列決定技術が実用化されたことで、ゲノム人類学研究において飛躍的な進展がみられています。ゲノム人類学とは、ヒトゲノムの多様性情報から、人類の進化過程や表現型の多様性の基盤となる遺伝因子を明らかにし、ゲノム水準で「生物としてのヒト」の理解を目指す学問分野と言えます。多くの生物種でゲノム解析が行なわれていますが、公共ゲノムデータベースが最も充実しているのはヒトで、データ解析のフリーソフトウェアも多数公開されています。一昔前までは、実験してDNA配列を決定するという、いわゆるwet解析抜きに研究を進めることは困難でしたが、現在ではデータベースのデータを利用したいわゆるdry解析のみで優れた成果を挙げられます。若い人が参入しやすい点からも、ゲノム人類学は今後ますます発展する、と期待されます。


●アジア人の形成過程

 人の進化を包括的に理解するには、より多くのヒト集団の解析が必要なので、大規模な国際共同研究計画が盛んに行なわれています。その一つにヒトゲノム解析機構(Human Genome Organisation、略してHUGO)の汎アジアSNP共同事業体(Pan-Asian SNP Consortium、略してPASC)があります。PASCでは、アジア人の形成過程を明らかにする目的で、アジアの73集団の1808人について、54794個のSNP遺伝子型が調べられています(関連記事)。

 これまで、アジア東部現代人の祖先集団の形成について、二つの仮説が提案されてきました。一方は、アジア東部集団とアジア南東部集団がアジア大陸南部の沿岸部に沿って到達し、一つの共通祖先を有しており、アジア南東部到達後にアジア東部まで北上した、という説です(南岸経路説)。もう一方は、アジア東部に到達した二つの移住経路があり、南を経由した移住の後に、より北方を経由して到達した(アジア中央部を介してヨーロッパ集団とアジア集団をつないだ)移住があった、という説です(南北両経路説)。代表的なアジア集団と、アフリカ集団とヨーロッパ集団とオセアニア集団とアメリカ大陸先住民集団を含めた、29集団を対象とした系統樹解析により、ヨーロッパ集団とアジアやオセアニアやアメリカ大陸先住民の集団とが分岐した後、オセアニア集団とアジアおよびアメリカ大陸先住民集団とが分岐し、最後にアジア東部集団とアメリカ大陸先住民集団とが分岐した、と示唆されました。なお、本論文はこのように指摘しますが、現生人類各集団間の関係は複雑で(関連記事)、遺伝的に大きく異なる集団間の混合により形成された集団を単純な系統樹に位置づけることには、難しさがあるように思います(関連記事)。

 SNPハプロタイプの多様度に注目すると、南の集団から北の集団にいくほど(緯度に比例して)、その多様性は減少しており、アジア集団の祖先は南から北へと移動してきた、と強く示唆されます。アジア東部集団で観察されるハプロタイプの90%のうち、50%はアジア南東部集団で観察される一方、わずか5%しかアジア中央部および南部集団では観察されませんでした。系統樹解析結果も合わせると、アジア東部集団の主要な起源はアジア南東部にあり、南岸経路説の方が有力と言えそうです。

 ネグリートは、アジア南東部からニューギニア島にかけて住む少数民族です。ネグリートは、低身長や暗い褐色の皮膚や巻毛といった特徴的な表現型を持ち、狩猟採集を営みながら孤立して存続してきたことから、その祖先集団や他のアジア集団との関係については諸説ありました。ネグリートは系統樹解析結果では、アジア東部人やアメリカ大陸先住民とともにオセアニア人から分岐しており、ネグリートの一部集団がアジア東部人やアメリカ大陸先住民と遺伝的に近いことから、ネグリートは他のアジア集団と共通祖先を有している、と考えられます。


●47都道府県の解析

 47都道府県の日本人11069個体の138688ヶ所の常染色体SNP遺伝子型データを用いて、日本人の遺伝的集団構造を調べた研究(関連記事)では、47各都道府県から50個体ずつ無作為抽出され、各SNPのアレル頻度が計算され、漢人(北京)も含めてペアワイズにf2統計量を求めてクラスタ分析が行なわれました。f2統計量とは、2集団間の遺伝距離を測定する尺度の一つで、SNPごとにアレル頻度の集団間差の2乗を計算し、全SNPの平均値として与えられます。クラスタ分析とは、多次元データからデータ点間の非類似度を求め、データ点をグループ分けする多変量解析手法の一つで、この研究では階層的手法の一つであるウォード法が用いられています。47都道府県を4クラスタに分けると、沖縄、東方および北海道、近畿および四国、九州および中国に大別されます(図5.9、図のCHBは北京漢人)。関東や中部の各都県は1クラスタ内に収まりません。これは、関東もしくは中部の都県を遺伝的に近縁な集団とはみなせず、そうした単位で日本人集団の遺伝的構造を論じることは難しい、と示しています。以下は本論文の図5.9(本論文の参照文献より引用)です。
画像

 47都道府県を対象にした主成分分析結果(図5.10a)では、沖縄県に遺伝的に最も近いのは鹿児島県と示されます。主成分分析とは、多数の変数(多次元データ)から全体のバラツキをよく表す順に互いに直行する変数(主成分)を合成する、多変量解析の1手法です。最も多くの情報を含む第1主成分の値から、沖縄県と鹿児島県の遺伝的近縁性が示されます。これは、単に地理的近さだけではなく、奄美群島の存在も影響していると考えられます。図5.9でクラスタを形成した地方については、九州と東北が沖縄県と遺伝的に近く、近畿と四国が遺伝的に遠い、と示されます。第2主成分は、都道府県の緯度および経度と有意に相関しています。以下は本論文の図5.10(本論文の参照文献より引用)です。
画像

 日本列島には3万年以上前からヒトが棲んでおり、16000年前頃から縄文時代が始まります(開始の指標を土器だけで定義できるのか、開始も終了も地域差がある、との観点から、縄文時代の期間について議論はあるでしょう)。弥生時代が始まる3000年前頃(この年代についても議論があるとは思います)に、それまで日本に住んでいた「縄文人」が、アジア大陸部から到来してきた「渡来人」と混血した、と考えられています。現代日本人の成立については、おもに北海道のアイヌと、おもに沖縄県の琉球人と、本州・四国・九州を中心とする「本土人」から構成される「二重構造モデル」が想定されています。遺伝学的研究により、「縄文人」と「渡来人」の混血集団の子孫が「本土人」で、アイヌや琉球人、とくに前者は当時の混血の影響をあまり受けていない、と示されています。

 「渡来人」の主要な祖先集団の子孫と想定される北京漢人と、各都道府県のf2統計量を計算すると、沖縄県は漢人から遺伝的に最も遠く、近畿と四国が漢民族に近い(最も近いのは奈良県)、と示されました。したがって、図5.10aにおいて、第1主成分の値が大きい都道府県は「縄文人」と遺伝的に近く、値が小さい都道府県は「渡来人」と近い、と想定されます。大部分の「渡来人」は朝鮮半島経由で日本列島に到達したと考えられますが、朝鮮半島から地理的に近い九州北部ではなく、近畿や四国の人々に「渡来人」の遺伝的構成成分がより多く残っており、近畿と四国には、他地域よりも多くの割合の「渡来人」が流入したかもしれません。


●日本人に特徴的なY染色体

 Y染色体上の組換えを受けない領域の塩基配列の違いに基づいて、「縄文人」由来のY染色体を同定できる可能性があります。日本人男性345個体のY染色体の全塩基配列決定に基づく系統解析(関連記事)では、日本人のY染色体は主要な7系統に分かれました。他のアジア東部集団のY染色体データを含めての解析に基づくと、日本人で35.4%の頻度で見られる系統1は、他のアジア東部人ではほとんど観察されない、と示されました。系統1に属する日本人Y染色体の変異を詳細に解析すると、系統1はYAPという特徴的な変異を有するY染色体ハプログループ(D1a2a)に対応しています。YAP変異は、形態学的に「縄文人」と近縁と考えられているアイヌにおいて、80%以上という高頻度で観察されます。「渡来人」の主要な祖先集団の子孫である韓国人集団や中国人集団には系統1に属するY染色体がほとんど観察されなかったことから、系統1のY染色体は「縄文人」に由来する、と結論づけられます。なお、同一検体のmtDNAの系統解析からは、明らかに「縄文人」由来と想定されるような系統は検出されませんでした。


●今後の課題

 日本列島「本土人」の常染色体のゲノム成分の80%程度は「渡来人」由来と推定されており(関連記事)、「縄文人」と「渡来人」の混血割合は2:8程度だったと思われます。縄文時代晩期の人口は8万人程度と推定されており、その居住範囲は日本列島全域にわたっていました。混血割合から単純に考えると、32万人の「渡来人」が渡海して日本列島に流入したことになりますが、この推定値は多すぎると思われます。より少ない「渡来人」が日本列島で優勢になる可能性として、「渡来人」との戦闘により「縄文人」が激減した可能性も想定されます。しかし、「縄文人」由来の系統1のY染色体の割合が現代日本人では35%となることから、仮に大多数の「縄文人」男性が系統1のY染色体を有していても、2:8の混血割合であれば、せいぜい20%にしかならないはずです。戦闘でまず犠牲になるのは男性であることが多く、系統1のY染色体の頻度はさらに低くなるでしょう。この問題も含めて、日本人の集団史には未解明の問題が残っています。


 以上、本論文についてざっと見てきました。現代日本人は先住の「縄文人」と弥生時代以降にアジア大陸部から新たに日本列島に到来してきた「渡来人」との混合により形成された、との見解は現代日本社会においてかなり定着してきたように思います。しかし、近年の古代DNA研究の進展から、その形成過程はかなり複雑だったように思われます(関連記事)。朝鮮半島において、「縄文人」的構成要素でゲノムをモデル化できる個体が8300年前頃から確認されており、2800〜2500年前頃の朝鮮半島中部西岸の個体は日本列島「本土」現代人と遺伝的構成がよく似ています。これらを踏まえると、日本列島「本土」現代人の基本的な遺伝的構成は朝鮮半島において紀元前千年紀初頭には確立しており、この集団が弥生時代以降に日本列島に到来して勢力を拡大した、と考えられます。

 さらに、朝鮮半島では紀元前千年紀後期以降に人類集団の遺伝的構成に大きな変化があって現代北京漢人により近づき、そうした集団が弥生時代後期から飛鳥時代にかけて到来し、日本列島「本土」現代人の祖先集団に遺伝的影響を残した、と現時点では想定しています。47都道府県単位で奈良県民が遺伝的に最も北京漢人に近いのは、古墳時代から飛鳥時代に朝鮮半島から渡来した集団がおもにヤマト王権の中心地域に移住した結果だろう、と推測しています。また本論文では、「縄文人」由来と考えられる系統1のY染色体の割合が日本列島「本土」現代人で高い、と指摘されていますが、そのうち一定以上の割合は弥生時代以降に朝鮮半島から到来した可能性が高いように思います。もちろん、こうした私見も日本列島、さらにはユーラシア東部の人口史を過度に単純化しているのでしょうし、今後の古代DNA研究の進展により大きく見直す必要が出てくるかもしれません。


参考文献:
大橋順(2021)「アジア人・日本人の遺伝的多様性 ゲノム情報から推定するヒトの移住と混血の過程」井原泰雄、梅ア昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』(東京大学出版会)第5章P78-91

https://sicambre.at.webry.info/202111/article_10.html

8. 中川隆[-15333] koaQ7Jey 2021年11月12日 13:06:33 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[19] 報告
雑記帳
2021年11月12日
アジア北東部集団の形成の学際的研究
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_12.html


 アジア北東部集団の形成の学際的研究に関する研究(Nyakatura et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。この研究はオンライン版での先行公開となります。トランスユーラシア語族、つまり日本語と朝鮮語とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族の起源と初期の拡散は、ユーラシア人口史の最も論争となっている問題の一つです。重要な問題は、言語拡散と農耕拡大と人口移動との間の関係です。

 本論文は、統一的観点で遺伝学と考古学と言語学を「三角測量」することにより、この問題に取り組みます。本論文は、包括的なトランスユーラシア言語の農耕牧畜および基礎語彙を含む、これらの分野からの広範なデータセットを報告します。その内訳は、アジア北東部の255ヶ所の新石器時代から青銅器時代の遺跡の考古学的データベースと、韓国と琉球諸島と日本の初期穀物農耕民の古代ゲノム回収で、アジア東部からの既知のゲノムを保管します。

 伝統的な「牧畜民仮説」に対して本論文が示すのは、トランスユーラシア言語の共通の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)と主要な拡散が、新石器時代以降のアジア北東部全域の最初の農耕民の移動にたどれるものの、この共有された遺産は青銅器時代以降の広範な文化的相互作用により隠されてきた、ということです。言語学と考古学と遺伝学の個々の分野における顕著な進歩を示しただけではなく、それらの収束する証拠を組み合わせることにより、トランスユーラシア言語話者の拡大は農耕により促進された、と示されます。

 古代DNA配列決定における最近の躍進により、ユーラシア全域におけるヒトと言語と文化の拡大の間のつながりが再考されるようになってきました。しかし、ユーラシア西部(関連記事1および関連記事2)と比較すると、ユーラシア東部はまだよく理解されていません。モンゴル南部(内モンゴル)や黄河や遼河やアムール川流域やロシア極東や朝鮮半島や日本列島を含む広大なアジア北東部は、最近の文献ではとくに過小評価されています。遺伝学にとくに重点を置いている(関連記事1および関連記事2および関連記事3)か、既存のデータセットの再調査に限定されるいくつかの例外を除いて、アジア北東部への真の学際的手法はほとんどありません。

 「アルタイ諸語」としても知られるトランスユーラシア語族は、言語の先史時代で最も議論となっている問題の一つです。トランスユーラシア語族はヨーロッパとアジア北部全域にまたがる地理的に隣接する言語の大規模群を意味し、5つの議論の余地のない語族が含まれ、それは日本語族と朝鮮語族とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族です(図1a)。これら5語族が単一の共通祖先から派生したのかどうかという問題は、継承説と借用説の支持者間の長年の主題でした。最近の評価では、多くの共通の特性がじっさいに借用によるものだとしても、それにも関わらず、トランスユーラシア語族を有効な系譜群として分類する信頼できる証拠の核がある、と示されています。

 しかし、この分類を受け入れると、祖先のトランスユーラシア語族話者共同体の時間的深さと場所と文化的帰属意識と拡散経路について、新たな問題が生じます。本論文は、「農耕仮説」を提案することにより、伝統的な「牧畜民仮説」に異議を唱えます。「牧畜民仮説」では、紀元前二千年紀にユーラシア東部草原地帯で始まる遊牧民の拡大を伴う、トランスユーラシア語族の第一次拡散を特定します。一方「農耕仮説」では、「農耕/言語拡散仮説」の範囲にそれらの拡散を位置づけます。これらの問題は言語学をはるかに超えているので、考古学と遺伝学を「三角測量」と呼ばれる単一の手法に統合することで対処されます。


●言語学

 方言や歴史的な違いも含めた、98のユーラシア語族の言語で、254の基本的な語彙概念を表す3193の同語源一式の新たなデータセットが収集されました。ベイズ法の適用により、トランスユーラシア語族の言語の年代のある系統発生が推定されました。その結果、トランスユーラシア語族祖語の分岐年代は最高事後密度(highest posterior density、HPD)95%で12793〜5595年前(9181年前)、アルタイ諸語祖語(テュルク語族とモンゴル語族とツングース語族の祖語)では6811年前(95% HPDで10166〜4404年前)、モンゴル語族とツングース語族では4491年前(95% HPDで6373〜2599年前)、日本語族と朝鮮語族では5458年前(95% HPDで8024〜3335年前)と示唆されました(図1b)。これらの年代は、特定の語族が複数の基本的な亜集団に最初に分岐する時間的深さを推定します。これらの語彙データセットを用いて、トランスユーラシア語族の地理的拡大がモデル化されました。ベイズ系統地理学を適用して、語彙統計学や多様性ホットスポット還俗や文化的再構築などの古典的手法が補完されました。

 アルタイ山脈から黄河や大興安嶺山脈やアムール川流域に及ぶ、以前に提案された起源地とは対照的に、トランスユーラシア語族の起源は前期新石器時代の西遼河地域にある、との裏づけが見つかりました。新石器時代におけるトランスユーラシア語族の最初の分散後、さらなる拡散が後期新石器時代および青銅器時代に起きました。モンゴル語族の祖先はモンゴル高原へと北に広がり、テュルク語族祖語はユーラシア東部草原を越えて西方へと移動し、他の分岐した語族は東方へと移動しました。それは、アムール川とウスリー川とハンカ湖の地域に広がったツングース語族祖語と、朝鮮半島に広がった朝鮮語族祖語と、朝鮮半島および日本列島に広がった日本語族祖語です(図1b)。以下は本論文の図1です。
画像

 祖語の再構築された語彙で明らかにされた農耕牧畜単語を調べた定性分析を通じて、特定の期間における特定地域の祖先的話者共同体にとって文化的診断となるような項目が、さらに特定されました。祖語の再構築された語彙で明らかにされた農牧民の言葉を調べた定性分析(補足データ5)を通じて、特定の地域の特定の時間における先祖の言語共同体の文化的診断となる項目がさらに特定されました。トランスユーラシア語族祖語やアルタイ諸語祖語やモンゴル語族およびツングース語族祖語や日本語族および朝鮮語族祖語など、新石器時代に分離した共通の祖先語は、耕作(「畑」や「種蒔き」や「植物」や「成長」や「耕作」や「鋤」)、(コメや他の穀類ではない)キビやアワやヒエといった雑穀(「雑穀の種子」や「雑穀の粥」や農家の内庭の「雑穀」)、食糧生産と保存(「発酵」や「臼で引く」や「軟塊に潰す」や「醸造」)、定住を示唆する野生食糧(「クルミ」や「ドングリ」や「クリ」)、織物生産(「縫う」や「織布」や「織機で織る」や「紡ぐ」や「生地の裁断」や「カラムシ」や「アサ」)、家畜化された動物としてのブタやイヌと関連する、継承された単語の小さな核を反映しています。

 対照的に、テュルク語族やモンゴル語族やツングース語族や朝鮮語族や日本語族など青銅器時代に分離した個々の下位語族は、イネやコムギやオオムギの耕作、酪農、ウシやヒツジやウマなどの家畜化された動物、農耕、台所用品、絹など織物に関する新たな生計用語を挿入しました。これらの言葉は、さまざまなトランスユーラシア語族および非トランスユーラシア語族言語を話す青銅器時代人口集団間の言語的相互作用から生じる借用です。要約すると、トランスユーラシア語族の年代と故地と元々の農耕語彙と接触特性は、農耕仮説を裏づけ、牧畜民仮説を除外します。


●考古学

 新石器時代のアジア北東部は広範な植物栽培を特徴としていましたが、穀物農耕が栽培化のいくつかの中心地から拡大し、そのうちトランスユーラシア語族にとって最重要なのが西遼河地域で、キビの栽培が9000年前頃までに始まりました。文献からデータが抽出され、新石器時代および青銅器時代の255ヶ所の遺跡(図2a)の172の考古学的特徴が記録されて、中国北部と極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域と韓国と日本の、直接的に放射性炭素年代測定された初期の作物遺骸269点の目録がまとめられました。

 文化的類似性にしたがって255ヶ所の遺跡がまとまるベイズ分析の主要な結果は、図2bに示されます。西遼河地域の新石器時代文化のまとまりが見つかり、そこから雑穀(キビやアワやヒエ)農耕と関連する二つの分枝が分離します。一方は朝鮮半島の櫛形文(Chulmun)で、もう一方はアムール川とプリモライ地域と遼東半島に及ぶ新石器時代文化です。これは、5500年前頃までの朝鮮半島、および5000年前頃までのアムール川経由でのプリモライ地域への雑穀農耕拡散についての以前の知見を確証します。

 分析の結果、韓国の無文(Mumun)文化および日本の弥生文化遺跡と、西遼河地域の青銅器時代遺跡がまとまりました。これは、紀元前二千年紀に遼東半島および山東半島地域の農耕一括にイネとコムギが追加されたことを反映しています。これらの作物は前期青銅器時代(3300〜2800年前頃)に朝鮮半島に伝わり、3000年前頃以後には朝鮮半島から日本列島へと伝わりました(図2b)。以下は本論文の図2です。
画像

 人口移動は単形質的な考古学的文化とはつながりませんが、アジア北東部における新石器時代の農耕拡大は、耕作や収穫や織物の技術の石器など、いくつかの診断的特徴と関連していました。動物の家畜化と酪農は、ユーラシア西部では新石器時代の拡大に重要な役割を果たしましたが、本論文のデータでは、イヌとブタを除いて、青銅器時代前のアジア北東部における動物の家畜化の証拠はほとんどありません。農耕と人口移動との間のつながりは、朝鮮半島と西日本との間の土器や石器や家屋および埋葬建築の類似性からとくに明らかです。

 先行研究をふまえて、本論文では研究対象地域全体の雑穀農耕の導入と関連する人口動態の変化が概観されました。手の込んだ水田に投資した水稲農耕民は一ヶ所に留まる傾向にあり、余剰労働力を通じて人口増加を吸収しましたが、雑穀農民は通常、より拡大的な居住パターンを採用しました。新石器時代の人口密度はアジア北東部全域で上昇しましたが、後期新石器時代には人口が激減しました。その後、青銅器時代には中国と朝鮮半島と日本列島で人口が急激に増加しました。


●遺伝学

 本論文は、アムール川地域と朝鮮半島と九州と沖縄の証明された古代人19個体のゲノム分析を報告し、それをユーラシア東部草原地帯と西遼河地域とアムール川地域と黄河地域と遼東半島と山東半島と極東ロシアのプリモライ地域と日本列島にまたがる、9500〜300年前頃の既知の古代人のゲノムと組み合わせました(図3a)。それらはユーラシア現代人149集団とアジア東部現代人45集団の主成分分析に投影されました。図3bでは、主要な古代人集団が5つの遺伝的構成要素の混合としてモデル化されています。その遺伝的構成要素とは、アムール川流域を表すジャライノール(Jalainur)遺跡個体、黄河地域を表す仰韶(Yangshao)文化個体、「縄文人」を表す六通貝塚個体と、黄河流域個体およびアムール川地域個体のゲノムで構成される西遼河地域の紅山(Hongshan)文化個体と夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化個体です。

 アムール川地域の現代のツングース語とニヴフ語の話者は緊密なまとまりを形成します(関連記事)。バイカル湖とプリモライ地域とユーラシア南東部草原地帯の新石器時代狩猟採集民は、西遼河地域やアムール川地域の農耕民とともに、全てこのまとまりの内部に投影されます。黒竜江省チチハル市の昂昂渓(Xiajiadian)区の後期新石器時代遺跡個体は、高いアムール川地域的な祖先系統を示しますが、西遼河地域雑穀農耕民は、経時的に黄河地域集団のゲノムへと前進的に移行するアムール川地域的な祖先系統(関連記事)のかなりの割合を示します(図3b)。

 西遼河地域の前期新石器時代個体のゲノムは欠けていますが、アムール川地域的な祖先系統は、バイカル湖とアムール川地域とプリモライ地域とユーラシア南東部草原地帯西遼河地域にまたがる、在来の新石器時代よりも前(もしくは後期旧石器時代)の狩猟採集民の元々の遺伝的特性を表している可能性が高そうで、この地域の初期農耕民において継続しています。これは、モンゴルとアムール川地域の古代人のゲノムにおける黄河地域集団の影響の欠如は、トランスユーラシア語族の西遼河地域の遺伝的相関を裏づけない、と結論付けた最近の遺伝学的研究(関連記事)と矛盾しています。以下は本論文の図3です。
画像

 主成分分析は、モンゴルの新石器時代個体群が高いアムール川地域祖先系統を有し、青銅器時代から中世にかけて増加するユーラシア西部からの広範な遺伝子流動を伴う、という一般的傾向を示します(関連記事)。テュルク語族話者の匈奴と古ウイグルと突厥の個体がひじょうに散在しているのに対して、モンゴル語族話者の鉄器時代の鮮卑の個体は、室韋(Shiwei)や楼蘭(Rouran)やキタイ(契丹)や古代および中世のモンゴルのハン国よりも、アムール川地域のまとまりの方に近くなっています。

 アムール川地域関連祖先系統は、日本語と朝鮮語の話者へとたどれるので、トランスユーラシア語族の全ての話者に共通する元々の遺伝的構成要素だったようです。韓国の古代人ゲノムの分析により、「縄文人」祖先系統が朝鮮半島に6000年前頃までには存在していた、と明らかになりました(図3b)。朝鮮半島の古代人について近位qpAdmモデル化が示唆するのは、前期新石器時代の安島(Ando)遺跡個体(非較正で紀元前6300〜紀元前3000年頃)がほぼ完全に紅山文化集団関連祖先系統に由来するのに対して、同じく前期新石器時代の煙台島(Yŏndaedo)遺跡と長項(Changhang)遺跡個体は高い割合の紅山文化集団関連祖先系統と「縄文人」祖先系統の混合としてモデル化できるものの、煙台島遺跡個体の解像度は限定的でしかない、ということです(図3b)。

 朝鮮半島南岸の欲知島(Yokchido)遺跡個体は、ほぼ95%の「縄文人」関連祖先系統を含んでいます。本論文の遺伝学的分析では、朝鮮半島中部西岸に位置するTaejungni遺跡個体(紀元前761〜紀元前541年)のあり得るアジア東部祖先系統を区別できませんが、その年代が青銅器時代であることを考えると、夏家店上層文化関連祖先系統として最もよくモデル化でき、あり得るわずかな「縄文人」祖先系統の混合は統計的に有意ではありません。したがって、現代韓国人への「縄文人」の遺伝的寄与がごくわずかであることに示されるように、新石器時代の朝鮮半島における「縄文人」祖先系統の混成の存在(0〜95%)と、それが時間の経過とともに最終的には消滅した、と観察されます。

 Taejungni個体における有意な「縄文人」構成要素の欠如から、現代韓国人と関連する「縄文人」祖先系統が検出されない初期集団は、稲作農耕との関連で朝鮮半島に移動し、一部の「縄文人」との混合がある集団を置換した、と示唆されますが、限定的な標本規模と網羅率のため、本論文の遺伝データにはこの仮説を検証するだけの解像度はありません。したがって、朝鮮半島への農耕拡大はアムール川地域および黄河地域からの遺伝子流動のさまざまな波と関連づけられ、雑穀農耕の新石器時代の導入は紅山文化集団で、青銅器時代の追加の稲作農耕は夏家店上層文化集団によりモデル化されます。

 本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」について、弥生時代農耕民(ともに弥生時代中期となる、福岡県那珂川市の安徳台遺跡個体と福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡個体)はゲノム分析により、在来の「縄文人」祖先系統と青銅器時代の夏家店上層文化関連祖先系統との混合としてモデル化できます(安徳台遺跡個体の方が「縄文人」構成要素の割合は高くなります)。本論文の結果は、青銅器時代における朝鮮半島から日本列島への大規模な移動を裏づけます。

 沖縄県宮古島市の長墓遺跡の個体群のゲノムは、琉球諸島の古代人のゲノム規模データとしては最初の報告となります。完新世人口集団は台湾から琉球諸島人部に到達した、との以前の知見とは対照的に、本論文の結果は、先史時代の長墓遺跡個体群が北方の縄文文化に由来する、と示唆します。近世以前の縄文時代人的祖先系統から弥生時代人的祖先系統への遺伝的置換は、この地域における農耕と琉球諸語の日本列島「本土」と比較しての遅い到来を反映しています。


●考察

 言語学と考古学と遺伝学の証拠の「三角測量」は、トランスユーラシア語族の起源が雑穀農耕の開始とアジア北東部新石器時代のアムール川地域の遺伝子プールにさかのぼれる、と示します。これらの言語の拡大は主要な2段階を含んでおり、それは農耕と遺伝子の拡散を反映しています(図4)。第一段階はトランスユーラシア語族の主要な分岐により表され、前期〜中期新石器時代にさかのぼります。この時、アムール川地域遺伝子と関連する雑穀農耕民が西遼河地域から隣接地域に拡大しました。第二段階は5つの子孫系統間の言語的接触により表され、後期新石器時代と青銅器時代と鉄器時代にさかのぼります。この時、かなりのアムール川地域祖先系統を有する雑穀農耕民は次第に黄河地域関連集団やユーラシア西部集団や「縄文人」集団と混合し、稲作やユーラシア西部の穀物や牧畜が農耕一括に追加されました。以下は本論文の図4です。
画像

 時空間および生計パターンをまとめると、3分野間の明確な関連性が見つかります。紀元前七千年紀頃の西遼河地域の雑穀栽培の開始は、かなりのアムール川地域祖先系統と関連し、トランスユーラシア語族話者共同体の祖先と時空間で重なっている可能性があります。8000年前頃と推定されるシナ・チベット語族間の最近の関連性(関連記事)と一致して、本論文の結果から、アジア北東部における雑穀栽培化の二つの中心地を、二つの主要な語族、つまり黄河地域のシナ・チベット語族と西遼河地域のトランスユーラシア語族の起源と関連づけられます。トランスユーラシア語族祖語とその話者の遺伝子における黄河地域の影響の証拠の欠如は、植物考古学で示唆されている雑穀栽培の複数の中心的な起源と一致します。

 紀元前七千年紀〜紀元前五千年紀における雑穀農耕の初期段階には人口増加が伴い、西遼河地域における環境的もしくは社会的に分離された下位集団の形成と、アルタイ諸語と日本語族および朝鮮語族の話者間の接続の切断につながります。紀元前四千年紀半ば頃、これら農耕民の一部が黄海から朝鮮半島へと東方へ、プリモライ地域へと北東へ移動を開始し、西遼河地域から、追加のアムール川地域祖先系統をプリモライ地域に、朝鮮半島へアムール川地域と黄河地域の混合祖先系統をもたらしました。本論文で新たに分析された朝鮮半島古代人のゲノムは、日本列島外で「縄文人」関連祖先系統との混合の存在を証明している点で、注目に値します。

 後期青銅器時代には、ユーラシア草原地帯全域で広範な文化交換が見られ、西遼河地域およびユーラシア東部草原地帯の人口集団のユーラシア西部遺伝系統との混合をもたらしました。言語学的には、この相互作用はモンゴル語族祖語およびテュルク語族祖語話者による農耕牧畜語彙の借用に反映されており、とくにコムギとオオムギの栽培や放牧や酪農やウマの利用と関連しています。

 3300年前頃、遼東半島地域と山東半島地域の農耕民が朝鮮半島へと移動し、雑穀農耕にイネとオオムギとコムギを追加しました。この移動は、本論文の朝鮮半島青銅器時代標本では夏家店上層文化集団としてモデル化される遺伝的構成と一致しており、日本語族と朝鮮語族との間の初期の借用に反映されています。それは考古学的には、夏家店上層文化の物質文化にとくに限定されることなく、より大きな遼東半島地域および山東半島地域の農耕と関連しています。

 紀元前千年紀に、この農耕一括は九州へと伝えられ、本格的な農耕への移行と、縄文時代人祖先系統から弥生時代人祖先系統への置換と、日本語族への言語的移行の契機となりました。琉球諸島南部の宮古島の長墓遺跡の独特な標本の追加により、トランスユーラシア語族世界の端に至る農耕/言語拡散をたどれます。南方の宮古島にまで及ぶ「縄文人」祖先系統が証明され、この結果は台湾からのオーストロネシア語族集団の北方への拡大との以前の仮定と矛盾します。朝鮮半島の欲知島遺跡個体で見られる「縄文人」特性と合わせると、本論文の結果は、「縄文人」のゲノムと物質文化が重なるとは限らないことを示します。したがって、古代DNAからの新たな証拠を進めることにより、本論文は日本人集団と韓国人集団が西遼河地域祖先系統を有する、との最近の研究(関連記事)を確証しますが、トランスユーラシア語族の遺伝的相関はない、と主張するその研究とは矛盾します。

 一部の先行研究は、トランスユーラシア語族地帯は農耕に適した地域を越えているとみなしましたが、本論文で確証されたのは、農耕/言語の拡散仮説は、ユーラシア人口集団の拡散の理解にとって依然として重要なモデルである、ということです。言語学と考古学と遺伝学の「三角測量」は、牧畜仮説と農耕仮説との間の競合を解決し、トランスユーラシア語族話者の初期の拡大は農耕により促進された、と結論づけます。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、言語学と考古学と遺伝学の学際的研究により、(言語学には疎いので断定できませんが、おそらくその設定自体が議論になりそうな)トランスユーラシア語族の拡大が初期農耕により促進され、牧畜の導入は拡大後のことだった、と示しました。言語学と考古学はもちろんですが、遺伝学というか古代ゲノム研究はとくに、今後急速な発展が期待できるだけに、本論文の見解も今後、どの程度になるは不明ではあるものの、修正されていくことも考えられます。その意味で、本論文の見解が完新世アジア北東部人口史の大きな枠組みになる、とはまだ断定できないように思います。

 本論文には査読前の公表時点から注目していましたが(関連記事)、私にとって大きく変わった点は、紀元前761〜紀元前541年頃となる朝鮮半島中部西岸のTaejungni個体のゲノムのモデル化です。査読前には、Taejungni個体は高い割合の夏家店上層文化集団構成要素と低い割合の「縄文人」構成要素との混合とモデル化され、現代日本人と類似していましたが、本論文では上述のように、Taejungni個体における有意な「縄文人」構成要素は欠如している、と指摘されています。

 Taejungni個体を根拠に、紀元前千年紀半ば以前の朝鮮半島の人類集団のゲノムには一定以上の「縄文人」構成要素が残っており、夏家店上層文化集団と遺伝的に近い集団が朝鮮半島に到来して在来集団と混合し、現代日本人に近い遺伝的構成の集団が紀元前二千年紀末には朝鮮半島で形成され、その後日本列島へと到来した、と想定していましたが、これは見直さねばなりません。査読前論文に安易に依拠してはいけないな、と反省しています。当然、査読論文にも安易に依拠してはなりませんが。ただ、欲知島遺跡個体の事例から、朝鮮半島南端には少なくとも中期新石器時代まで「縄文人」構成要素でゲノムをモデル化できる個体が存在しており、そうした人々とTaejungni個体と遺伝的に近い集団が混合して形成された現代日本人に近い遺伝的構成の集団が、その後で日本列島に到来した可能性もまだ考えられるように思います。

 朝鮮半島南端の新石器時代人のゲノムの「縄文人」構成要素が、日本列島から新石器時代にもたらされたのか、元々朝鮮半島に存在したのか、「縄文人」の形成過程も含めて不明で、今後の古代ゲノム研究の進展を俟つしかありません。しかし、朝鮮半島南端の新石器時代個体のうち、非較正で紀元前6300〜紀元前3000年頃となる安島遺跡個体がほぼ完全に紅山文化集団関連祖先系統でモデル化できることから、朝鮮半島には元々前期新石器時代から遼河地域集団と遺伝的に近い集団が存在し、九州から朝鮮半島への「縄文人」の到来は南部に限定されていた可能性が高いように思います。また、主成分分析で示されるように(捕捉図7)、Taejungni個体が現代韓国人と遺伝的には明確に異なることも確かで、古代ゲノムデータの蓄積を俟たねばなりませんが、朝鮮半島の人類集団の遺伝的構成が紀元前千年紀半ば以降に大きく変わった可能性は高いように思います。以下は本論文の補足図7です。
画像

 最近の西日本「縄文人」や古墳時代の人類遺骸のゲノム解析結果(関連記事)から、弥生時代の人類集団の「渡来系」の遺伝的要素は青銅器時代西遼河地域集団に近く、古墳時代になると黄河地域集団の影響が強くなる、と指摘されています。この研究は弥生時代の人類を、「縄文人」構成要素の割合が高い長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させているところに疑問が残りますが、その2個体よりも現代日本人にずっと近い福岡県の安徳台遺跡個体と隈・西小田遺跡個体も含めての、ユーラシア東部の包括的な古代ゲノム研究ではどのような結果になるのか、今後の研究の進展が期待されます。また、日本列島の「縄文人」は時空間的に広範に遺伝的には均質だった可能性が高いものの(関連記事)、弥生時代と古墳時代に関しては、時空間的に遺伝的違いが大きいこと(関連記事)も考慮する必要があるでしょう。

 長墓遺跡の先史時代個体群が遺伝的には既知の「縄文人」と一まとまりを形成する、との結果は、先史時代の先島諸島には縄文文化の影響がないと言われていただけに、意外な結果です。本論文も指摘するように、朝鮮半島の欲知島遺跡個体の事例からも、遺伝的な「縄文人」と縄文文化とを直結させることはできなくなりました。もっとも、これは物質文化のことで、言語も含めて精神文化では高い共通性があった、と想定できなくもありませんが、これに反証することはできないとしても、証明することもできず、可能性は高くないように思います。遺伝的な「縄文人」は多様な文化を築き、おそらく縄文時代晩期に北海道の(一部)集団で話されていただろうアイヌ語祖語は、同時代の西日本はもちろん関東の言語ともすでに大きく異なっていたかもしれません。「縄文人」と現代日本人の形成過程にはまだ未解明のところが多く、今後の古代ゲノム研究の進展によりじょじょに解明されていくのではないか、と期待しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


言語学:トランスユーラシア語族のルーツは農業にあった

 トランスユーラシア語族(日本語、韓国語、ツングース語、モンゴル語、チュルク語からなる)は、約9000年前の中国に起源があり、その普及は農業によって促進された可能性があることを明らかにした論文が、Nature に掲載される。今回の研究は、東ユーラシア言語史における重要な時期について解明を進める上で役立つ。

 トランスユーラシア語族は、東は日本、韓国、シベリアから西はトルコに至るユーラシア大陸全域に広範に分布しているが、この語族の起源と普及については、人口の分散、農業の拡大、言語の分散のそれぞれが議論を複雑化させ、激しい論争になっている。

 今回、Martine Robbeetsたちは、3つの研究分野(歴史言語学、古代DNA研究、考古学)を結集して、トランスユーラシア語族の言語が約9000年前の中国北東部の遼河流域の初期のキビ農家まで辿れることを明らかにした。その後、農民たちが北東アジア全体に移動するにつれて、これらの言語は、北西方向にはシベリアとステップ地域へ、東方向には韓国と日本へ広がったと考えられる。

 トランスユーラシア語族に関しては、もっと最近の紀元前2000〜1000年ごろを起源とし、東部のステップから移動してきた遊牧民が分散を主導したとする「遊牧民仮説」が提唱されているが、今回の知見は、この仮説に疑問を投げ掛けている。


参考文献:
Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04108-8


https://sicambre.at.webry.info/202111/article_12.html

▲上へ      ★阿修羅♪ > 近代史5掲示板 次へ  前へ

  拍手はせず、拍手一覧を見る

フォローアップ:


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
最新投稿・コメント全文リスト  コメント投稿はメルマガで即時配信  スレ建て依頼スレ

▲上へ      ★阿修羅♪ > 近代史5掲示板 次へ  前へ

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。
 
▲上へ       
★阿修羅♪  
近代史5掲示板  
次へ