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ブリテン島人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/295.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 9 月 01 日 19:27:54: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: スコットランド人の起源 投稿者 中川隆 日時 2020 年 9 月 01 日 15:20:16)


ブリテン島人の起源


雑記帳 2019年04月16日
ブリテン島における新石器時代農耕民の起源
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_26.html

 ブリテン島における新石器時代農耕民の起源に関する研究(Brace et al., 2019)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ヨーロッパにおける初期農耕は、アナトリア半島起源の農耕民集団(エーゲ海集団)によりもたらされました。このアナトリア半島農耕民集団は、ヨーロッパで中石器時代以来の在来狩猟採集民集団とじょじょに混合していった、と明らかになっています(関連記事)。ただ、地域によっては混合・同化が早期に進行した、と推測されています(関連記事)。

 本論文は、ゲノム規模の解析により、ブリテン島における中石器時代〜新石器時代の人類集団の遺伝的構成を検証しました。年代は紀元前8500〜紀元前2500年で、中石器時代の6人と新石器時代の67人が対象とされました。ブリテン島における農耕の開始は紀元前4000年頃で、ヨーロッパ大陸部と比較して1000年ほど遅れています。まず明らかになったのは、中石器時代のブリテン島の狩猟採集民は、ヨーロッパ西部狩猟採集民集団と遺伝的に類似している、ということです。

 しかし、ブリテン島の新石器時代農耕民集団は、遺伝的にはおもにアナトリア半島農耕民集団起源で、中石器時代以降の在来の狩猟採集民集団との混合はほとんどなかった、と明らかになりました。また、ブリテン島の初期農耕民集団は遺伝的にイベリア半島の農耕民集団と類似しており、ブリテン島最初の農耕民集団が西岸で確認されることから、ブリテン島への農耕民集団の到来は、アナトリア半島からヨーロッパ中央部を経ての英仏海峡経由という最短の海路ではなく、より広大な航海距離を必要とする大西洋経路だったのではないか、と推測されています。

 また本論文は、石器時代におけるヨーロッパの人類集団の色素沈着水準も検証しており、かなりの多様性があった、と推測しています。1万年前頃のブリテン島の人類の肌の色は濃かった、と推測されています(関連記事)。しかし、ヨーロッパに農耕をもたらしたアナトリア半島農耕民集団の肌の色は中間的で、目は茶色だった、と推測されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


英国の新石器時代のヒト集団の起源

 ブリテン新石器時代のヒト集団は、イベリアの新石器時代のヒトと共通の遺伝的類似性を有しており、これらの集団と現地の中石器時代の狩猟採集民との間にはほとんど混血が生じていなかったことを明らかにした論文が、今週掲載される。この知見は、地中海沿いの経路をたどった大陸の新石器時代の農耕民によって、ブリテン島に農耕がもたらされたことを示している。

 ヨーロッパ大陸の農耕は、エーゲ系の新石器時代の農耕民とともに、2本の主要な経路を通って伝来した。一方は地中海沿いの経路、もう一方はヨーロッパ中部を経由してヨーロッパ北部へ向かう経路である。この拡大する集団は、途上で現地の中石器時代の狩猟採集民と混血した。ブリテン島では、紀元前4000年頃に新石器文化が出現しており、これはヨーロッパ大陸の隣接地域で農耕への移行が起こってからほぼ1000年後のことであった。しかし、ブリテン新石器時代のヒト集団の起源は、これまでよく分かっていなかった。

 今回Mark G. Thomas、Ian Barnesたちは、ブリテン島で発見され、紀元前8500〜2500年と年代決定された中石器時代の6個体と、新石器時代の67個体に関して、ゲノム規模のデータ解析を行った。その結果、ブリテン新石器時代のヒト集団は主にエーゲ系の新石器時代の農耕民の血を引いており、イベリアの新石器時代のヒトに近いことが明らかになった。また、ブリテン中石器時代のヒトと流入したブリテン新石器時代のヒトとの間には、実質的な混血の証拠がほとんど認められないことも判明した。ブリテン島では、この血統の変化は農耕への移行と共に起こっていた。ヨーロッパの他の地域とは異なり、農耕への移行は、現地の狩猟採集民との間に見いだされる混血には影響されなかった。著者たちは、ブリテン島とイベリアの間で認められる新石器時代のヒトの遺伝的類似性は、大陸の農耕民が主として地中海沿いの経路をたどってブリテン島に移住したことを示していると主張している。


参考文献:
Brace S. et al.(2019): Ancient genomes indicate population replacement in Early Neolithic Britain. Nature Ecology & Evolution, 3, 5, 765–771.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0871-9


https://sicambre.at.webry.info/201904/article_26.html  

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コメント
1. 2020年9月01日 20:47:31 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[61] 報告
雑記帳 2018年08月07日
ストーンヘンジの埋葬者の出身地
https://sicambre.at.webry.info/201808/article_10.html


 ストーンヘンジの埋葬者の出身地に関する研究(Snoeck et al., 2018)が公表されました。ストーンヘンジは、イギリスにおける最大級の新石器時代後期の墓地遺跡で、これまでおもにその建設に関する研究が進められてきましたが、ストーンヘンジの周辺で生活していた人々やストーンヘンジに埋葬された人々については、ほとんど明らかになっていません。

 この研究は、ストロンチウム同位体分析法を用いて、ストーンヘンジで発掘された25体の火葬遺体(紀元前3180〜2380年と推定されています)に由来する骨の断片を再分析し、その再分析結果を現代のイギリスの植物・水・歯のデータに基づいた記録と比較しました。その結果、25体のうち15体がストーンヘンジ出身者で、残りの10体は、死ぬ直前にストーンヘンジ周辺との結びつきがなく、死亡するまでの少なくとも10年間はイギリス西部で過ごしていた可能性がひじょうに高い、と推定されています。

 また遺体の火葬は、さまざまな種類の燃料を用いて、さまざまな条件下で行なわれたことも示唆されています。ストーンヘンジ周辺地域出身者と同定された遺体の火葬は、ウェセックス地方の地形と矛盾しない広大な土地で生育した樹木由来の薪を山積みにして行なわれたのにたいして、その他の遺体の火葬には、西ウェールズにあるような、樹木が密生している森林地で伐採された木材の薪が用いられた、と明らかになりました。こうした分析結果から、ストーンヘンジで発掘された遺体の一部が、別の場所で火葬に付された後、埋葬目的でストーンヘンジに運ばれてきたのではない、と推測されています。と考えている。

 なお、ブリテン島では紀元前2500年頃を境に、住民の遺伝子プールのおよそ90%は置換した、と推定されています(関連記事)。ストーンヘンジを築いた集団の遺伝的影響は、ブリテン島の現代人の間ではかなり低いようです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【考古学】ストーンヘンジにウェールズ出身者も埋葬されていた

 ストーンヘンジに埋葬された新石器人の一部が、地元出身でなかったことを示唆する研究について報告する論文が、今週掲載される。今回の研究では、人間の火葬遺体の分析が新たに行われ、埋葬された人々の一部が英国西部の別の地域(西ウェールズである可能性が非常に高い)の出身者であり、埋葬するためだけにストーンヘンジまで運ばれた人もいた可能性のあることが明らかになった。

 ストーンヘンジは、英国で最大級の新石器時代後期の墓地遺跡であり、これまでは主にその建設に関する研究が行われてきたが、ストーンヘンジの周辺で生活していた人々やストーンヘンジに埋葬された人々についてはほとんど分かっていない。

 今回、Christophe Snoeckたちの研究グループは、ストロンチウム同位体分析法を用いて、ストーンヘンジで発掘された25体の火葬遺体(紀元前3180〜2380年のものとされる)に由来する骨の断片を再分析し、その再分析結果を現代の英国の植物、水、および歯のデータに基づいた記録と比較した。その結果、Snoeckたちは、そのうち15体がストーンヘンジ出身者で、残りの10体は、死ぬ直前に地元との結び付きがなく、死亡するまでの少なくとも10年間は英国西部で過ごしていた可能性が非常に高いことが示唆されたと結論付けている。

 また、今回の研究からは、遺体の火葬はさまざまな種類の燃料を用いて、さまざまな条件下で行われたことも示唆されている。地元出身者と同定された遺体の火葬は、ウェセックス地方の地形と矛盾しない広大な土地で生育した樹木由来の薪を山積みにして行われたのに対し、その他の遺体の火葬には、西ウェールズにあるような、樹木が密生している森林地で伐採された木材の薪が用いられたことが示された。Snoeckたちは以上の分析結果から、ストーンヘンジで発掘された遺体の一部が、別の場所で火葬に付されてから、埋葬目的でストーンヘンジに運ばれてきたことが示されていると考えている。


参考文献:
Snoeck C. et al.(2018): Strontium isotope analysis on cremated human remains from Stonehenge support links with west Wales. Scientific Reports, 8, 10790.
https://dx.doi.org/10.1038/s41598-018-28969-8


https://sicambre.at.webry.info/201808/article_10.html

2. 2020年9月01日 20:52:22 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[64] 報告
雑記帳 2018年02月10日
濃い肌の色と青い目の1万年前頃のブリテン島の人類
https://sicambre.at.webry.info/201802/article_10.html


 これは2月10日分の記事として掲載しておきます。1万年前頃のブリテン島の人類の復元像について報道され、日本でも話題になっているようです。これは、1903年にイギリス南西部のサマーセット州チェダー渓谷(Cheddar Gorge)のゴフ洞窟(Gough's Cave)で発見された、1万年前頃の人類(男性)の男性の復元像です。1万年前頃の「イギリス(ヨーロッパ)人」が、濃い肌の色と青い目だったということで、日本では、白人至上主義者の反応に関心を示すなど、人種差別主義的な観点からこの報道に興味を抱いている人が一定以上は存在するようです。イギリスでも大騒ぎになっている、との情報もありますが、じっさいにイギリスでどこまで話題になっているのか、私は確認できていません。

 しかし、この復元像はこれまでの諸研究から予想範囲内のものであり、正直なところ、騒ぐほどのことだろうか、とかなり疑問が残ります。もちろん、研究者の間では常識になっていても、一般層にはほとんど知られていない、といった問題は珍しくないのでしょうが、更新世〜完新世初期のヨーロッパの現生人類(Homo sapiens)の肌や目の色については、1回や2回どころではなく何度も報道されているはずで、当ブログでもそうした研究・報道をじゅうぶん追い切れていないのに、何度か取り上げているくらいです。

 ヨーロッパでは中石器時代まで薄い色の肌はまだ広まっていなかったのではないか、と推測されていますが(関連記事)、青銅器時代には薄い肌の色が高頻度で存在していた、と指摘されています(関連記事)。おそらくヨーロッパでは新石器時代に薄い肌の色が定着していったのでしょうが(関連記事)、その要因については、上記報道にあるように、農耕への依存度が高まり食事でのビタミンD摂取が困難になったことから、薄い色の肌の適応度が高くなった、との説明が有力視されています。肌の色は、薄い方が紫外線を通しやすくなります。人間は紫外線を浴びて体内でビタミンDを合成するので、紫外線量が少なくなる高緯度地帯では、ビタミンD合成のために肌の色が薄い方が有利となります。

 しかし、ビタミンD不足が原因のくる病がヨーロッパで顕著に見られるようになるのは19世紀以降であり、新石器時代にも魚から充分なビタミンDを摂取できたはずだから、ヨーロッパにおける薄い色の肌の定着は、寒さと凍傷への抵抗により薄い色の肌の方が適応度が高くなったからではないか、との見解も提示されています(関連記事)。ただ、他の要因も考えられ、青い目もそうですが、薄い色の肌も、ヨーロッパにおける定着にさいしては、直接的に生存率を上昇させるからというよりは、性選択的要因の方が大きかったのかもしれません。

 更新世末期までのヨーロッパにおいて、現生人類の肌の色は濃く、目は茶色だったのですが、ヨーロッパでは14000年前頃より現生人類の間で青い目が広がり始め、イタリアのヴィラブルナ(Villabruna)で発見された、14000〜7000年前頃の期間の現生人類男性は、復元されたチェダー男性と同じく、濃い色の肌と青い目を有していました(関連記事)。これはすでに2年前(2016年)にBBCでも報道されています。1万年前頃のチェダー男性の復元像は確かに視覚的に強い印象を人々に与えるのかもしれませんが、こうした経緯があるので、正直なところ、それほど大騒ぎするものなのだろうか、と疑問に思います。まあ、人類進化に興味を抱いてこなかった人種差別主義者にとっては、大騒ぎに値するのかもしれませんが。なお、ヨーロッパ人の明るい肌・目・髪と関連する、近隣した遺伝子HERC2とOCA2の多様体は100万年前頃にアフリカで出現した、と推定されています(関連記事)。

https://sicambre.at.webry.info/201802/article_10.html

3. 中川隆[-11550] koaQ7Jey 2020年9月02日 03:52:48 : wpXk3w6zIY : LjZzUlJFRWgzbWM=[4] 報告
雑記帳 2015年11月13日
ブライアン・ウォード=パーキンズ『ローマ帝国の崩壊 文明が終わるということ』第4刷
https://sicambre.at.webry.info/201511/article_13.html


第1刷の刊行は2014年6月です。原書の刊行は2005年です。ローマ帝国が衰退・崩壊し、古代は終焉して暗黒の中世が始まった、との見解は今でも一般では根強いようです。

 本書は諸文献も引用していますが、おもに考古学的な研究成果に依拠して、ローマ帝国の滅亡とともにローマ「文明」も崩壊したのだ、との見解を提示しています。

もっとも、この場合の「ローマ帝国の滅亡」とは西ローマ帝国のことであり、本書がローマ「文明」の崩壊と把握するのも、西ヨーロッパ(ローマ帝国西方)が対象です。ローマ帝国東方では、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が西ローマ帝国の滅亡後1000年近く存続しました。

 本書がローマ「文明」崩壊の根拠としているものとして、識字率の低下もありますが、これは推定が難しいことを本書も認めており、決定的な根拠とはされていません。本書がローマ「文明」崩壊の重要な根拠としているのは、陶器や瓦といった身近な日常生活用品や貨幣です。このうち、瓦については、ローマ帝国期には社会の上層ではない人々の住宅でも瓦葺だったのに、西ローマ帝国滅亡後の西ヨーロッパ社会では、瓦葺は一部の建築物に限定される、と本書では指摘されています。もっとも、これについては、瓦葺から茅葺への変化は、気候に対応した文化的な変容であり、「文明」衰退の根拠にはならないかもしれない、との懸念も取り上げられています。

 本書がローマ「文明」衰退の重要な根拠としているのは陶器です。4世紀以前には社会の中層・下層にまで、質の高い統一的な規格の陶器が用いられていたのにたいして、西ローマ帝国滅亡後には、そうした質の高い陶器が社会の中層・下層では見られなくなる、と本書は指摘します。ローマ帝国時代には、社会の中層・下層でも用いられていたそうした質の高い陶器はしばしば遠隔地で生産されており、大規模で複雑で広範な流通・経済の仕組みが存在していた、というのが本書の見解です。

 そうした「洗練」され複雑な経済の仕組みが、西ローマ帝国とともに崩壊していった、というわけです。西ローマ帝国の滅亡にともない、西ヨーロッパにおいて貨幣の使用が減少したと推定されるのも、そうした複雑な経済の仕組みが崩壊していったことと関連している、と本書では指摘されています。また、古環境の大気汚染に関する研究から、ローマ帝国時代と比較して、ローマ帝国崩壊後の数世紀の大気汚染の水準が先史時代に近い水準にまで落ち込み、汚染の水準がローマ帝国時代にまで上昇したのは16〜17世紀になってからである、とも指摘されており、「洗練」され複雑な経済の仕組みが崩壊した根拠とされています。

 ただ、上述した西ローマ帝国の滅亡と東ローマ帝国の長期の存続の問題とも関わってきますが、本書は、ローマ帝国の経済の様相は地域により大きく異なっていた、と強調します。西ヨーロッパ(ローマ帝国西方)においては、ローマ帝国(西ローマ帝国)の崩壊にともない、「洗練」され複雑な経済は崩壊します。しかし、その西ヨーロッパにおいても、地域により様相がかなり異なることを本書は指摘しています。たとえばイタリアでは、4世紀の間に衰退が始まり、5世紀になるとやや加速しつつも、600年頃まで緩やかに経済的指標が低下していきます。

 もっとも、緩やかな低下とはいっても、長期的にはその間ほぼずっと低下し続けているわけで、300年頃と600年頃とを比較すると、推定される経済の複雑さには大きな違いが生じています。西ヨーロッパにおいて経済的複雑さがローマ帝国時代の水準に回復するのがいつなのか、諸見解があるようですが、上述した大気汚染の研究からは、西ローマ帝国の滅亡後1000年以上要したとの見解もあり得るわけで、ローマ帝国における経済的水準の高さが窺われます。

西ヨーロッパでもブリテン島では、5世紀初頭に経済水準の劇的な低下があり、それ以降700年頃までほとんど回復していない、と推定されています。

本書は、ブリテン島ではローマ帝国の崩壊(ブリテン島におけるローマの統治体制の崩壊)とともに、その経済的複雑さが先史時代の水準にまで低下してしまった、との見解を提示しています。

4. 2020年11月02日 21:17:07 : 4D3OjxhHhg : TEswdkdERG1YZ0E=[182] 報告
ギボンの説とどかが違うか、どう発展したかが
問題でしょうな
5. 中川隆[-15054] koaQ7Jey 2021年11月28日 17:24:47 : buDTBzriJk : RjBUa0dYTlkueS4=[25] 報告
【ゆっくり解説】ケルト神話はケルト神話じゃありませんでした【神話】
2021/11/27


6. 2022年1月30日 07:47:48 : tz4AZFOuxQ : TG1zLm1MZjg2ZXc=[3] 報告


雑記帳
2022年01月30日
中期〜後期青銅器時代におけるブリテン島への人類の大規模移住
https://sicambre.at.webry.info/202201/article_32.html


 中期〜後期青銅器時代におけるブリテン島への人類の大規模移住に関する研究(Patterson et al., 2022)が公表されました。現在のイングランドおよびウェールズの人々は、前期青銅器時代の人々よりも、初期ヨーロッパ農耕民(EEF)に由来する祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を多く有しています。本論文はこうした状況を理解するため、793個体についてゲノム規模データを構築し、大ブリテン島(以下、ブリテン島)における中期〜後期青銅器時代および鉄器時代のデータを12倍、ヨーロッパの西部および中部のデータを3.5倍に拡充しました。その結果、紀元前1000〜紀元前875年において、EEF祖先系統の割合は、ブリテン島南部(イングランドおよびウェールズ)では増加したものの、ブリテン島北部(スコットランド)では増加しておらず、これは、この時代およびそれ以前の数世紀に到来した移民の統合によるもので、こうした移民は遺伝的にはフランスの古代人に最も近かった、と明らかになりました。

 これらの移民は、鉄器時代のイングランドおよびウェールズの人々の祖先系統の約半分に寄与しており、これが、初期のケルト語派のブリテン島内での拡散を媒介した可能性があります。こうしたパターンは、EEF祖先系統が中期〜後期青銅器時代にヨーロッパの中部および西部全域でより類似するようになったという、さらに広範な傾向の一部であり、この時期は文化的交流の増大を示す考古学的証拠の年代と一致します。鉄器時代のヨーロッパ大陸部からの遺伝子流動は比較的少なく、ブリテン島内での独立した遺伝的軌跡は、ラクターゼ(乳糖分解酵素)持続性を付与するアレル(対立遺伝子)の頻度がこの時代までに約50%に増加したことにも表れています。一方、この時代のヨーロッパ中部での同アレルの頻度は約7%で、それが急上昇したのは1000年後のことでした。これは、この時代のブリテン島とヨーロッパ中部では乳製品が質的に異なる様式で用いられていたことを示唆しています。


 全ゲノム古代DNA研究が示してきたのは、紀元前3950〜紀元前2450年頃のブリテン島の最初の新石器時代農耕民の祖先系統は、その2000年以上前のアナトリア半島に起源があるEEFから約80%、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)と呼ばれる中石器時代狩猟採集民から約20%由来し、両者はヨーロッパ大陸部で混合した、というもので(関連記事)、ブリテン島の在来のWHGは後の人口集団にほぼ寄与しなかった、と示唆されます。この祖先系統特性は、1500年ほど安定したままでした。

 紀元前2450年頃から、ブリテン島へ別のかなりの移住があり、新たな移民からの祖先系統の割合は少なくとも90%で、ヨーロッパ大陸部からの鐘状ビーカー(Bell Beaker)伝統の拡大と一致します。この新たな移民は、第三の主要な構成要素である「草原地帯祖先系統」をもたらしました。この「草原地帯祖先系統」は、元々紀元前3000年頃にポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)に居住していた人々に由来します。

 この元々の研究(関連記事)では、ブリテン島における祖先系統の変化が報告され、紀元前2450〜紀元前1550年頃となる銅器時代および前期青銅器時代(C/EBA)から、紀元前1550〜紀元前1150年頃となる中期青銅器時代(MBA)と紀元前1150〜紀元前750年頃となる後期青銅器時代(LBA)を経て、紀元前750〜紀元後43年となる先ローマ期鉄器時代(IA)まで、EEF祖先系統の割合では顕著な平均的変化は検出されませんでした。ただ、その研究では、紀元前1300年頃以後の標本がほとんど含まれていませんでした(図1)。

 しかし現在、EEF祖先系統は平均で、ブリテン島において北部よりも南部で顕著に高く、いつこの増加が起きたのか、という問題を提起します。EEF祖先系統の増加は、中世初期におけるヨーロッパ大陸部北部からの移住では説明できません。なぜならば、中世初期の移民は青銅器時代ブリテン島の人々よりもEEF祖先系統の割合が低かったので、以前に観察されたように、EEF祖先系統の増加ではなく減少をもたらした、と考えられるからです。

 この研究は、以前には分析されていなかったブリテン島の403個体のゲノム規模古代DNAデータを生成し、先ローマ期の個体数を589に増やし、LBAおよびIAの期間のデータ数を約28倍(13個体から359個体)としました(図1)。本論文は、チェコ共和国(161個体)、ハンガリー(54個体)、フランス(52個体)、オランダ(28個体)、スロヴァキア(25個体)、クロアチア(21個体)、スロヴェニア(14個体)、チャネル諸島(13個体)、スペイン(10個体)、セルビア(8個体)、オーストリア(3個体)、マン島(1個体)の、ほぼLBAおよびIAの古代人のデータも報告します。この研究は、以前に報告された33個体のデータの品質を向上させました。以下は本論文の図1です。
画像

 これらのデータを生成するため、骨と歯から粉末が準備されてDNAが抽出され、古代DNAの特徴的なシトシンからチミンへのエラーを減らすため、ウラシルDNAグルコシラーゼで前処理された1020の配列決定ライブラリが生成されました。120万ヶ所の一塩基多型の標的一式の溶液でライブラリが濃縮されて配列され、その後で以前に報告されたデータとともに分析されました。新たに報告された123点の放射性炭素年代の助けを得て、年代と地理によりこれらのデータがまとめられました。各期間と地域の主要なまとまりの祖先系統で有意に異なる個体群は、個別に分類されました。

 全個体のデータが報告されますが、主要な分析から以下の部分集合は除外されました。それは、汚染の証拠がある場合、末端ヌクレオチドの損傷の割合が確実な古代DNAの典型的範囲よりも低い場合、データセットで他の高網羅率の個体と1親等の親族関係の場合、正確な祖先系統推定にはデータが少なすぎる場合(少なくとも1回は3万ヶ所未満の一塩基多型を網羅する場合)です。図1は、分析された個体群の地図と時代区分を示します。データセットで新たに報告された他の少なくとも1個体と(3親等以内で)関連する48家族で、123個体が特定されました。


●ブリテン島の古代DNAの時代区分

 ブリテン島の時間的に分類された全ての組み合わせ間でf4統計が計算され、2つの主要な供給源人口集団(草原地帯とEEF)と共有されるアレルの割合(遺伝的浮動)の違いが検証されました。イングランドとウェールズにおけるEEF人口集団と共有されるアレルの程度の顕著な増加が、中期〜後期青銅器時代(M-LBA)から鉄器時代(IA)にかけて記録されます。EEFと草原地帯とWHGの祖先系統の割合を推定するため、「対象」人口集団が、本論文のデータセットで密接な代理を有するような「供給源」人口集団の混合ならば、選択された外群の集合に対して対象および供給源と関連する全てのあり得るf4統計を計算できる、という事実を利用するqpAdmが用いられました。

 次に、qpAdmを用いて、混合計数のαEEFとα草原地帯と全ての統計に適合するα草原地帯の値を求め、同時に、対象人口集団が実際に供給源の密接な近縁の混合としてモデル化できるのかどうかのP値を提供します。本論文は、大規模な標本と、ヨーロッパ人の祖先系統の主要な3構成要素の解明を提供する高度の影響力により、以前のqpAdmの組み立てよりもずっと正確な推定を提供するため、供給源と「外群」の組み合わせを慎重に選択しました。供給源の代理は、最小限の狩猟採集民との混合を有するバルカン半島の初期新石器時代農耕民(EEF)20個体、ヤムナヤ(Yamnaya)およびポルタフカ(Poltavka)文化の牧畜民(草原地帯)20個体、ヨーロッパ西部全域の中石器時代狩猟採集民(WHG)18個体です。

 本論文の外群は、3供給源の密接な遺伝的近縁個体群と、同じ溶液濃縮技術を用いて処理され、ユーラシア西部人関連との混合の証拠のない、サハラ砂漠以南のアフリカの古代人9個体です。3供給源の密接な遺伝的近縁個体群とは、EEFと関連するアナトリア半島新石器時代の24個体、ヤムナヤ草原地帯牧畜民と関連するアファナシェヴォ(Afanasievo)文化の19個体、WHGと関連するドナウ川鉄門(Danubian Iron Gates)狩猟採集民41個体です。

 EEF関連祖先系統はイングランドとウェールズで、銅器時代および前期青銅器時代(C/EBA)の31.0±0.5%(69個体)から、中期青銅器時代(MBA)には34.7±0.6%(26個体)、後期青銅器時代(LBA)には36.1±0.6%(23個体)に増加し、鉄器時代(IA)には37.9±0.4%(273個体)で安定しました。一方、スコットランドでは有意な変化はありませんでした(図2)。EEF関連祖先系統の増加は、鉄器時代までにブリテン島南部で広がり、点推定の範囲はイングランドの8地域全体で36.0〜38.8%です(ウェールズの標本規模は小さすぎて、正確な推定を提供できません)。以下は本論文の図2です。
画像

 ブリテン島南部におけるEEF祖先系統の増加が、新石器時代にブリテン島に居住していた人々からのより多くの祖先系統を有する、考古学的に可視化されにくい人口集団の復活に起因する可能性を本論文は考慮しました。それは、標本抽出における地理的偏り、もしくは文化的状況全体の差異に起因して見逃されたかもしれません。後者では、たとえば火葬を通じての死者の扱いなどで、集団間の違いがあったかもしれません。しかし、新石器時代と銅器時代および前期青銅器時代(C/EBA)のブリテン島における集団の混合としての鉄器時代のイングランドとウェールズの人々のモデルは、統計的有意性のデータとひじょうに一致しません。

 これは、ブリテン島では前期新石器時代もしくはC/EBA集団に存在しなかったヨーロッパ大陸部の一部の新石器時代人口集団とアレルを共有する、ブリテン島の新石器時代の人口集団に起因します。これらのパターンの最も妥当な説明は、中期〜後期青銅器時代(M-LBA)におけるこの特有の祖先系統を有する人々のブリテン島南部への移住です。各個体の祖先系統がモデル化され、その期間のほとんどの個体と比較して有意な祖先系統の外れ値が分類されました。その結果、以下のような重要な観察結果が浮き彫りになります(図3)。以下は本論文の図3です。
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 第一に、以前の結果(関連記事1および関連記事2)が再現され、高い割合のWHGとの混合を有するスコットランド西部の新石器時代個体群のまとまりが推定され、おそらくはヨーロッパ大陸部からの最近の移民と、ブリテン島における在来の中石器時代集団の子孫との間の結合を反映しています。

 第二に、EEF祖先系統が紀元前2000年頃以後に比較的均質になる前に、C/EBAにおけるEEF祖先系統の高い変動性が推定されます(図3)。これはエイムズベリーダウン(Amesbury Down)遺跡において明らかで、一部の被葬者のEEF祖先系統は平均値29.9±0.4%より有意に低く(たとえば、個体I2417では22.2±1.8%)、おそらくはビーカー期における移民を反映しています。この移民は在来の新石器時代農耕民と混合し、EBA末までには広がっていた中間的なEEF祖先系統が出現しました。エイムズベリーの射手(Amesbury Archer)として知られるEEF祖先系統の割合が45.3±2.2%の個体I14200など、集団の平均を上回る個体もあります。I14200はストーンヘンジ(Stonehenge)埋葬景観で発見された最も副葬品の多い墓に埋葬され、ブリテン島以外、おそらくはアルプスで子供時代の一部を過ごした、と示唆される同位体特性を有しています。I14200は移民ではあるものの、C/EBAブリテン島で観察される水準へと引き上げた人口集団に由来するには有している草原地帯祖先系統が少なすぎる、という事実は、ブリテン島へのビーカー関連移民が遺伝的に均質ではなかった、と示します。I14200の隣で見つかった被葬者「仲間(I2565個体)」は、エイムズベリーダウン遺跡のほとんどの個体と同様に、その同位体特性は地元育ちと一致しており、祖先系統の外れ値ではありません(EEF祖先系統の割合は32.7±3.0%、図3)。I14200とI2565は、稀な足根骨形態と類似の副葬品を共有しており、密接な遺伝的関係を反映していると仮定されましたが、本論文の結果は、一親等もしくは二親等の近縁性を除外しました。

 第三に、MBA後期およびLBAにおける高いEEF祖先系統を有する外れ値4個体が観察されます。この4個体は、第一世代の移民もしくは最近の移民の子孫の候補で、4個体全てがブリテン島南東端のケント(Kent)で埋葬されています。この4個体のうち古い方の2個体はマルゲッツ遺構(Margetts Pit)で発見されました。EEF祖先系統の割合は、紀元前1391〜紀元前1129年頃となる個体I13716が47.8±1.8%、紀元前1214〜紀元前1052年頃となる個体I13617が43.6±1.8%です。この4個体のうち新しい方の2個体は、断崖農場(Cliffs End Farm)遺跡で発見されました。EEF祖先系統の割合は、紀元前967〜紀元前811年頃となる個体I14865が43.2±2.0%、紀元前912〜紀元前808年頃となる個体I14861が43.4±1.8%です。マルゲッツ遺構個体を含む、MBAにおける移住の短期間の突発の影響を観察しており、その後でさまざまなEEF祖先系統を有する別々の共同体が少なくとも数百年間共存し、その中には断崖農場遺跡個体も含まれる、という可能性を本論文は考慮しました。しかし、ストロンチウムおよび酸素同位体分析では、外れ値個体のI14861も含めて断崖農場遺跡における外部起源の複数個体が特定され、これが単一の大規模な移住ではなく、数百年にわたる移住の流れだった、と示唆されます。

 第四に、祖先系統が主要集団と有意に異なる個体群の割合は、紀元前2450〜紀元前1800年頃となるC/EBAの第1期で17%、紀元前1800〜紀元前1300年頃となるEBA末からMBA開始期では4%、紀元前1300〜紀元前750年頃となるMBA末からLBAでは17%、鉄器時代(IA)では3%です(図3)。これはブリテン島南部への、銅器時代と、その後で再度となる中期〜後期青銅器時代(M-LBA)における、比較的高い移住率の2つの期間と一致します。先行期間と比較してIAにおいて外れ値の高率を観察できなかったのは、この時までにブリテン島とヨーロッパ大陸部地域との間で祖先系統がある程度均質化され、外れ値の検出がより困難になったからではないか、という可能性を本論文は考慮しました。しかし、IAブリテン島におけるEEF祖先系統の平均は37.9±0.4%で、ヨーロッパ大陸部西部および中央部(イベリア半島では52.6±0.6%、オーストリアとハンガリーとスロヴェニアでは49.8±0.4%、チェコ共和国とスロヴァキアとドイツでは45.4±0.5%、フランスとスイスでは45.6±0.5%、オランダでは34.4±1.2%)とはかなり異なっており(図4a)、本論文の祖先系統推定のほとんどで標準誤差が2%未満であることを考えると、これらの地域からの移民の大半は検出可能でしょう。フランス西部とベルギーの標本抽出は乏しく、この地域のEEF祖先系統の割合はブリテン島と類似しているので、IAにおけるフランス西部とベルギーからの移住を除外できない可能性があります。それにも関わらず、本論文の結果は、ヨーロッパ大陸部からの移住の減少と一致しており、IAにおけるヨーロッパ大陸部の大半からのかなりの程度のブリテン島の遺伝的孤立を示唆します。以下は本論文の図4です。
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 ブリテン島における人口統計学的変化は、データの別の側面でも明らかです。ROH(runs of homozygosity)の割合は、1個体の両親が密接に関連している場合に発生するかもしれません。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。ROH区間の分布は、有効人口規模と、1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。

 個体が配偶者を得る人々の集団が大きいほど、個体の両親が密接に関連している可能性は低くなるので、4〜8 cM(センチモルガン)のROH断片の数を平均化して、分析された個体が生きていた時代の前の約600年間の配偶行動における、人々の集団の有効規模を推定できます。配偶集団の規模は、新石器時代から鉄器時代(IA)にかけて約4倍に増加した、と明らかになりましたが、これはこの期間のじっさいの人口規模の変化の推定として解釈すべきではありません。なぜならば、配偶集団規模は変化する社会的慣行にも影響を受けるからです。

 第一に、人々が配偶者を見つける範囲の距離が一部の文化的状況では他よりも高かったならば、たとえ人口密度に違いがなかった場合でも、配偶集団規模は異なるでしょう。たとえば、ブリテン島の共同体の構成員が近隣集団とほんど混合しなかった場合、配偶集団規模が島嶼規模よりも小さかったかもしれません。あるいは、ブリテン島の個人が地元の共同体以外の人々だけではなく、ブリテン島以外の人々とも配偶した場合、配偶集団規模が島嶼規模よりも大きくなったかもしれません。第二に、とくに紀元前3000〜紀元前2450年頃となる新石器時代末には、標本抽出に間隙があり、これはそうした期間の人口統計学的過程が不明瞭になる可能性を示唆します。第三に、何世紀にもわたって配偶集団の規模を効果的に平均化する手法により、この分析は数十年間の人口減少を検出できない可能性もあります。


●ヨーロッパの文脈におけるブリテン島の変化

 本論文は、ヨーロッパの時代区分とともに、ブリテン島の古代DNA時代区分も分析しました(図4a)。平均的なEEF祖先系統はヨーロッパ北部および中央部(チェコ共和国とスロヴァキアとドイツ)でブリテン島のように増加し、最初期の個体群は大きく増加したEEF祖先系統を有し、クノヴィズ(Knoviz)文化の一部として伝統的に分類されている人工物と関連しています。クノヴィズ文化は、ヨーロッパ中央部の大半に拡大したより広範な骨壺墓地(Urnfield)文化複合(紀元前1300〜紀元前800年頃)の構成要素です。クノヴィズ文化個体群は、マルゲッツ遺構および断崖農場の外れ値個体と遺伝的に類似した人口集団に由来するので、これはとくに注目に値します。ヨーロッパ北部および中央部の後の個体群は類似のEEF祖先系統の割合を有しており、後期青銅器時代(LBA)から鉄器時代(IA)までの実質的な連続性と一致します。

 フランスとスイスでは、ヨーロッパ南部および中央部(オーストリアとハンガリーとスロヴェニア)と同様に、中期〜後期青銅器時代(M-LBA)における平均的なEEF祖先系統の変化がほとんどないのに対して、イベリア半島(スペインとポルトガル)では同時期にEEF祖先系統が減少しました。ヨーロッパにおける祖先系統の収束のこの広範なパターンには二つの例外があり、北端のスコットランドと南端のサルデーニャ島では両方、この期間におけるEEF祖先系統の割合は極端で、比較的変化していません。

 本論文は、ヨーロッパ西部および中央部のゲノム規模データのIA個体数をほぼ8倍にし、IAへの遺伝的多様体の頻度変化を正確に追跡できるようにします。SLC45A2遺伝子における明るい肌の色素沈着と関連する多様体は、IAにおいてヨーロッパ全体で実質的により一般的になりました。ラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)と関連するMCM6遺伝子の一塩基多型(rs4988235)については、予期せぬ結果が得られました。以前の分析によると、ヨーロッパ大陸部の標本抽出された地域では、IAにはその頻度が現在の頻度と比較して低いと示されました。本論文のデータセットではこれが高精度で記録されており、イベリア半島では現在の約40%と比較して約9%、ヨーロッパ中央部(オーストリアとハンガリーとスロヴェニアとチェコ共和国とドイツ)では現在の約48%に対して約7%でした。

 しかし、IAブリテン島では、その頻度は現在の73%に対して50%で、このアレル頻度を増加させた激しい選択が、ブリテン島ではヨーロッパ大陸部の複数地域よりもほぼ千年早く作用した、と示されます(図4b)。本論文は、ブリテン島における頻度上昇がM-LBAの移住に起因する、との証拠を見つけられませんでした。マルゲッツ遺構および断崖農場の外れ値個体はこのアレルを有しておらず、ブリテン島における頻度上昇のほとんどはM-LBA後に起きました(図4b)。これは、乳製品が質的に異なる方法で消費されたか、LBA–IAブリテン島においては、ヨーロッパ中央部よりも乳製品が経済的に重要だったことを示唆します。


●中期〜後期青銅器時代の移住の大陸側の供給源

 中期〜後期青銅器時代(M-LBA)におけるブリテン島の祖先系統の変化は、新石器時代およびビーカー期と関連する祖先系統の変化よりも微妙でした。イングランドとウェールズでは、新石器時代と銅器時代および前期青銅器時代(C/EBA)との間のアレル頻度の差異はFST(遺伝的距離)が約0.02でしたが、C/EBAと鉄器時代(IA)との間では、FSTは一桁小さく約0.002でした。ブリテン島のLBAよりも前の人口集団もIA人口集団にかなり遺伝的に寄与しており、完新世におけるそれ以前の2回の主要な祖先系統変化(中石器時代から新石器時代と、新石器時代からC/EBA)とは対照的です。

 C/EBA人口集団から後の人口集団へのかなりの遺伝的寄与の証拠はY染色体ハプログループ(YHg)R1b1a1a2a1a2c1(P312/L21/M529)でも見られ、C/EBAブリテン島の標本抽出された個体群では89±5%で存在し、利用可能なC/EBAヨーロッパの古代人のDNAデータではほぼ存在しません。YHg-R1b1a1a2a1a2c1はブリテン島では後のどの期間でもヨーロッパ大陸部よりも一般的で、ブリテン諸島特有の特徴であり続けており、現在のブリテン島とアイルランド島での頻度(地域により14〜71%)は、ヨーロッパ大陸部のどこよりもずっと高くなっています。

 ブリテン島南部への中期〜後期青銅器時代(M-LBA)の移民の考えられる供給源について洞察を得るために、イングランドとウェールズのIA個体群がqpAdmで主要なC/EBAのまとまりの混合、および第二供給源として適合されました。ヨーロッパ大陸部の63供給源とブリテン島の2供給源(マルゲッツ遺構と断崖農場遺跡の外れ値)から構成される65の供給源が検証され、20の供給源がP>0.05と明らかになりました。次に、マルゲッツ遺構と断崖農場遺跡の遺伝的に類似した個体が集められ、より厳密なqpAdm構成でさらに検証され、適度の標準誤差と一貫してよく適合する、8つの第二供給源が残りました。

 マルゲッツ遺構と断崖農場遺跡の個体群の集まりは、ブリテン島南部のIA人の祖先系統の49.4±3.0%に寄与するものとして適合します。ブリテン島自体に居住する推定上の供給源人口集団の代表を省略しても、供給源として適合する7つのヨーロッパ大陸部人口集団が、24〜69%の祖先系統に寄与すると推定されるので、大きな遺伝的置換が推測されます。検証対象のヨーロッパ大陸部の候補人口集団の1/5だけがフランスに由来しますが、適合する人口集団の6/7はフランスに由来します。これらのうち、4人口集団(紀元前600〜紀元前200年頃)はフランス南部のオクシタニー(Occitanie)に、2人口集団(紀元前800〜紀元前200年頃)はフランス北東部のグラン・テスト(Grand Est)に、1人口集団はスペイン(紀元前600年頃)に由来します。

 これら適合する第二供給源は全て、ブリテン島における祖先系統の変化より顕著に年代が後になるので、真の供給源ではあり得ません。しかし、真の第二供給源は、おそらくより早期の各地の在来人口集団の子孫でした。フランスでの起源は、M-LBAブリテン島における高いEEF祖先系統を有する外れ値個体の全てと、IA水準にEEF祖先系統を強化したと証明する紀元前1000〜紀元前875年頃の個体群が、ブリテン島南東端のケントに由来する、という事実でも示唆されます。

 移民の波は、LBAの後半までにブリテン島南部でより広範に混合し始め、それは、紀元前950〜紀元前750年頃となる、ウィルトシャー(Wiltshire)州ポッターン(Potterne)のブラックベリー・フィールド(Blackberry Field)遺跡の1個体I12624のEEF祖先系統の割合が38.1±2.0%で、IA開始期までにブリテン島南部で遍在するようになった水準と一致するからです。しかし、これはLBA後半の唯一の非ケントのデータ点なので、ケントを越えてのこの祖先系統の拡大の時空間的経過を理解するには、より多くの標本抽出が必要です。


●鉄器時代ブリテン島における地域差

 ブリテン島南部のマルゲッツ遺構および断崖農場遺跡個体的祖先系統の推定の範囲は、イングランド北部では35±5%、イングランド南部〜中央部では56±5%です。鉄器時代(IA)は、物質文化の特徴がますます地域的になった期間で、本論文の結果が示すのは、これが微妙な遺伝的構造を伴っているものの、ブリテン島南部内では、これらの混合割合の緯度との明確な相関はない、ということです。本論文は、ほとんどの個体が、四角の溝の手押し車と時折の戦車(チャリオット)の埋葬で構成される「アラス文化(Arras Culture)」の文脈に由来する、ヨークシャーの事例を浮き彫りにします。パリ盆地とアルデンヌ・シャンパーニュ地域におけるIA社会の葬儀伝統の類似性は、東ヨークシャーがIAにヨーロッパ大陸部からの直接的な移住に影響を受けた、との提案につながりました。

 東ヨークシャーの被葬者について、マルゲッツ遺構および断崖農場遺跡個体的祖先系統の供給源の推定は44±4%で、この時点においてブリテン島中緯度では一般的であり、イースト・アングリアも同様です。しかし、東ヨークシャーの被葬者は別の点で特徴的です。IAブリテン島における地域差は、FSTにより測定されるように、東ヨークシャと他の集団との間において、本論文のデータセットにおけるイングランドとウェールズのIA人口集団の他のあらゆる組み合わせよりも高くなります。ヨーロッパ大陸部からの比較データにより、これがブリテン島南部の他地域からのIA東ヨークシャーの孤立なのか、それとも移住の後の波が東ヨークシャーにとくに影響を与えたのか、判断が可能となるかもしれません。


●考古学的および言語学的文脈

 紀元前1500〜紀元前1100年頃の期間は、ブリテン島とヨーロッパ大陸部地域との間の文化的つながりが強くなり、英仏海峡の両側の社会が、家庭用土器や金属細工品や儀式の堆積慣行など、文化的特徴を共有した時期として長く認識されてきました。紀元前750年頃からは、ブリテン島とヨーロッパ大陸部との間の接触の考古学的証拠は限定的で、本論文の遺伝学的調査結果は、鉄器時代(IA)開始期までに、ブリテン島への人口統計学的に顕著な移住の証拠がほとんどないことを示す点で一致します。

 本論文の調査結果は、推定された人口移動が中期〜後期青銅器時代(M-LBA)の交換網の原因なのか、それとも結果なのかを確証していませんが、ブリテン島の在来人口集団と、ヨーロッパ大陸部から着想をもたらした新たな移民との間の相互作用が、M-LBAのイングランドとウェールズで見られる文化的変化の一部の媒介だったかもしれない、と示唆します。フランス西部および中央部は、ヨーロッパの近隣地域よりも利用可能なゲノム規模古代DNAデータがずっと乏しいので、現時点では、この期間における2地域間の遺伝子流動がおもに一方向だったのかどうか、検証できません。

 人口移動はしばしば、人々が話す言語を含めて、文化的変化の重要な推進力です。本論文で推測されるような激しい移住期間は、常に言語変化をもたらすわけではありませんが、顕著な移住の遺伝学的証拠は重要で、それは、言語拡大の妥当な経路である人口統計学的過程を記録するからです。何人かの研究者は、青銅器時代末もしくは鉄器時代初期におけるフランスからブリテン島への初期ケルト語拡大の証拠を提供するものとして、言語学的データを解釈してきました。本論文が、フランスの人口集団と最適に合致する供給源からブリテン島へのかなりの移住を特定したことで、この見解の独立した一連の証拠が提供され、M-LBAはこの言語拡大期間の主要候補として示されます。

 スコットランドにおけるM-LBAのEEF祖先系統の変化の証拠の欠如が、ケルト語がこの時にブリテン島へと拡大した、という事例を弱めると解釈できるかもしれませんが、スコットランドにおけるケルト語の後の到来は、非ケルト語とケルト語が紀元後千年紀にスコットランドで共存した、という証拠と一致します。前期青銅器時代(EBA)にはEEF祖先系統の割合が比較的高かったイベリア半島におけるEEF祖先系統の減少と、EEF祖先系統の割合がEBAにおいて比較的低いブリテン島におけるほぼ同時となるEEF祖先系統増加の発見(図4a)は、理論上では、両地域へ拡大した中間的なEEF祖先系統を有するケルト語話者集団を反映しているかもしれませんが、そうした単純なモデルは、ヨーロッパにおける南北の祖先系統の収束を全て説明できるわけではありません。

 それにも関わらず、ブリテン島南部のマルゲッツ遺構および断崖農場遺跡の外れ値個体が、遺伝期にヨーロッパ中央部のクノヴィズ文化標本とひじょうに類似している、という事実は、一部の学者が、ヨーロッパ中央部のクノヴィズ文化など骨壺墓地文化集団はケルト語の拡大と関連している、と仮定した事実に照らして注目に値します。本論文がIAにおけるヨーロッパ大陸部からブリテン島への大規模な移住の証拠を見つけられなかったことは、ケルト語の拡大が人々の大規模な移動により駆動されたならば、この時点で起きた可能性が低いことを示唆します。IAブリテン島における文化的慣行の採用は、ヨーロッパ大陸部、とくにラ・テーヌ(La Tène)伝統とつながっている文化的慣行に起源があり、これも明らかに大規模な人口移動とは無関係でしたが、より小規模な移動は確かにあり、テーム(Thame)もしくはウィナル・ダウン(Winnall Down)などEEF祖先系統を高い割合で有する個々のIA外れ値により証明されます(図3)。

 将来の研究の重要な方向性は、ヨーロッパ大陸部の文脈、とくにフランス中央部および西部とアイルランドの新たな古代DNAデータを生成し、本論文の観察結果と一致する人口史の代替的概要を検証して、考古学的枠組み内で遺伝学的調査結果を統合する理論を発展させることです。


●補足:「移住」の考古学的理解と遺伝学的理解の調和

 「移住」は集団遺伝学と考古学の両方で中心的概念ですが、その意味は両分野の発展過程において異なる形で展開してきました。集団遺伝学者はある地域から別の地域への遺伝物質の移動という意味で「移住」を使い、近隣共同体間の配偶者の低水準な対称的交換でも移住を表すとみなしますが、考古学者は「移住」の使用を、ある地域から別の地域への人々の恒久的な移動に起因する顕著な人口統計学的変化が生じる過程に限定します。

 ヨーロッパの考古学では、先史時代の移住の議論は、移住の理論論が20世紀初期から半ばにかけて政治的に利用されたため、困難に満ちたものになりました。つまり、短期間の人々の多数の移動が時として、民族集団の拡大の主要な機序だと主張され、そうした事象の考古学的復元が領土の主張の正当化に用いられました。このため、一部の考古学者は、たとえば「移住」の使用を短期間に人々の組織化された移動の証拠がある場合に限定することにより、移住の理論化への高い障壁設定を好みます。しかし、これは、後のヨーロッパ人の祖先系統の大半に寄与したと遺伝学的データが示してきた(関連記事1および関連記事2)、紀元前三千年紀に始まる草原地帯からの人々の西方への移動など、人々の大規模な移動が先史時代に及ぼした重要な影響の認識を困難にします。

 本論文は「移住」という用語を意図的に用いており、それは、上述のブリテン島への人々の移動が人口統計学的に変化をもたらしたからです。本論文は、この調査結果が短期間での大規模な移動を証明するには不充分である、と強調します。じっさい、放射性炭素年代測定と同位体の証拠は、移住の少なくとも一部が数百年以上にわたって行なわれた、と示します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


遺伝学:青銅器時代のグレートブリテン島への大量移住の第3波

 中・後期青銅器時代にヨーロッパ大陸からグレートブリテン島に古代人が大量移住していたことが初めて明らかになり、これが、初期ケルト語の普及を促進したと考えられることを報告する論文が、Nature に掲載される。この知見は、現在の英国民の遺伝的構成を説明する上で役立つ。また、今回の研究は、乳糖耐性に関連する対立遺伝子の頻度の違いを明確に示しており、青銅器時代のグレートブリテン島と中央ヨーロッパの住民では、乳製品の使用に違いがあった可能性を示唆している。

 英国では、過去1万年間に少なくとも2回の集団の入れ替わりが起きていたことが、これまでの古代DNAの研究によって明らかになっている。紀元前3950〜2450年ごろにグレートブリテン島に居住していた最初の新石器時代の農民の祖先は、約80%が初期のヨーロッパの農民で、約20%が初期のヨーロッパの狩猟採集民だと考えられている。2度目の移住は、紀元前2450年ごろに起こり、ポントス・カスピ海ステップ(黒海とカスピ海に挟まれたヨーロッパとアジアにまたがる地域)に住む牧畜民の血を引くステップ集団を祖先とするヨーロッパ大陸民の到来と関連していた。この移住の第2波によって英国民の祖先の約90%が入れ替わり、その後は、イングランドとスコットランドにおいてステップ集団を祖先とする人々の割合に差がなくなった。しかし、現在のイングランドでは、ステップ集団を祖先とする人々の割合は著しく小さくなった。この変化の原因となった事象が、上記の2回の移住の後に起こったことは間違いないが、それが何だったのかは今まで謎のままだった。

 今回、David Reichたちは、この時代の古代人793人のゲノム規模のデータを生成して、これまでに報告された中で最大規模の古代DNA研究を行った。そして、Reichたちは、これまで知られていなかったグレートブリテン島への移住の第3波があり、この移住が、紀元前1000〜875年にピークに達したことを明らかにした。この時の移住者は、フランスから到来したと考えられており、この移住者を祖先とする人々が、鉄器時代のイングランドとウェールズの集団でほぼ半数を占めた。言語は、一般に人の移動を通じて普及するため、この結果は、ケルト語が後期青銅器時代にフランスから英国に入ってきたという学説を裏付けている。また、この大規模なゲノムデータのプールは、成人の乳糖耐性に関連する対立遺伝子の頻度に違いがあることを明確に示した。この対立遺伝子の研究から、グレートブリテン島の人々が牛乳を消化する能力が高まった時期が、中央ヨーロッパよりも約1000年早かったことが示された。この知見は、この時期の英国で、乳製品が中央ヨーロッパと異なる文化的役割を果たしていた可能性を示している。


古代DNA:中期〜後期青銅器時代におけるブリテン島への大規模移動

古代DNA:ブリテン島を巡る青銅器時代の人の流れ

 今回D Reichたちは、中期〜後期青銅器時代および鉄器時代にグレートブリテン島と大陸ヨーロッパに住んでいた793人について、新たにゲノム規模の古代DNAデータを提示している。これによって、イングランドおよびウェールズへの移民の到来や一帯での人々の移動、そしてケルト語派のブリテン島内での拡散の様子が明らかになった。


参考文献:
Patterson N. et al.(2021): Large-scale migration into Britain during the Middle to Late Bronze Age. Nature, 601, 7894, 588–594.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04287-4


https://sicambre.at.webry.info/202201/article_32.html

7. 2022年2月06日 09:06:29 : K7Ig9SNBnI : aExrL1g5WkdWS0U=[23] 報告
2022年02月06日
ブリテン島の前期新石器時代の墓から推測される親族慣習
https://sicambre.at.webry.info/202202/article_6.html

 ブリテン島の前期新石器時代の墓の被葬者のゲノム規模DNAデータから親族慣習を推測した研究(Fowler et al., 2022)が公表されました。本論文は、前期新石器時代のブリテン島の、複数の埋葬室を備えた墓における親族慣習を調べるため、ヘイズルトンノース(Hazleton North)の長い石塚に埋葬された5700年前頃の35個体について、考古学的分析と遺伝学的解析を併用しました。このうち27個体は、古代DNAから再構築された最初の拡大家系の一部です。この家系は5世代の家族で、家系内の多くの相互関係から、直接の遺伝学的データなしには見られなかった親族慣習を明らかにする、統計的な検出力が得られました。

 この墓に誰が埋葬されたかを特定する上で鍵となったのは父系の系統で、15例の世代間の系統的つながりは全て男性を介したものでした。この家系の男性と子を儲けた女性の存在、およびこの家系の娘である成人女性の不在は、夫方居住的な埋葬と女性の族外婚を示唆しています。この家系の創始者男性が4人の女性と子を儲けた、と実証され、そのうち2人の女性の子孫は全ての世代にわたって墓の同じ側の半分に埋葬されていました。これは、母系の亜系統がいくつかまとまって分類されており、そうした分類の独自性が墓の建設時に認識されていたことを示唆しています。男性4個体は、この家系外の男性を父親に、この家系の男性と子を儲けた女性を母親に持ち、これは、一部の男性が、配偶者が別の男性との間に儲けた子を養子として自らの父系家族に迎え入れた、と示唆しています。また、8個体は主要系統とは生物学的に近縁関係になく、これは、親族関係が生物学的な近縁性とは無関係の社会的つながりをも含んでいていた、という可能性を浮き彫りにしています。


●古代DNAデータに基づく親族関係研究

 ゲノム規模古代DNA解析は、過去の人々が、相互に、および現在の人々とどのように関連していたのか、理解する変革手段として登場しました。現在まで、これらの研究はほとんど、1人口集団あたりわずかな個体数だけで正確に特徴づけることができる、経時的な深い祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の割合変化に焦点を当ててきました(関連記事1および関連記事2)。

 古代DNAは、社会現象への洞察の提供にもますます適用されるようになってきています(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。しかし、1親等から4親等の親族の千以上の組み合わせが古代DNA研究の文献で記録されてきましたが、全個体の正確な関係が独自に特徴づけられた、複数世代の家族に関する研究(関連記事1および関連記事2)はほとんどありません。ブリテン島とアイルランドの新石器時代の埋葬室墓の研究では、現在までに記録された関連性パターンには、墓の内部もしくは複数の墓にまたがる1親等もしくは2親等の親族の組み合わせ、同じ墓での特定のY染色体系統の持続(関連記事)、イングランドの同じ墓室のキョウダイ2個体、アイルランドの2ヶ所の墓で標本抽出された11個体と15個体における3親等以内の生物学的親族の不在(関連記事)が含まれます。

 本論文のゲノム規模データは、同じ墓の35個体と、27個体を含む5世代の家族の再構築に基づいており、前後関係の考古学的情報とともに分析されたので、これらの墓を造って使用した共同体内の社会的関係を理解する、前例のない機会を提供します。そうした包括的再構築は、過去の社会における家系的側面への洞察を提供するだけではなく、家系の子孫を超えた親族関係慣行の識別にも用いることができます。人類学的研究では、社会の組織化において中心的役割を有する、家族のつながりと帰属の関係である親族関係が、文化により著しく異なる、と明らかになっています。

 生物学的関連性は、親族関係の決定において多かれ少なかれ重要である可能性があります。親族は生物学的血縁である必要がなく、子育ては生物学的な父母間の関係に必ずしも集中しているわけではありません。葬儀慣行が親族間のつながりと分裂の社会的交渉に重要な役割を果たすことはよくあり、本論文は古代DNAの能力とともにこの洞察を用いて、関連性を記録し、新石器時代の埋葬室墓に死者を埋葬した人々の間の親族関係決定における役割への窓を提供します。


●ヘイズルトンノース遺跡

 イギリスのグロスターシャー(Gloucestershire)州のヘイズルトンノース(Hazleton North)は、前期新石器時代のコッツウォルド・セバーン(Cotswold-Severn)型の墓室のある長い石塚で、よく保存されたヒト遺骸を含み、完全に発掘されました。この墓は紀元前37世紀に造られ、これはウシと穀物栽培が巨石記念碑建築とともにブリテン島に導入されてから少なくとも100年後になります。それ以前には、ヘイズルトンノースで埋葬された生物学的祖先の圧倒的多数は、ヨーロッパ大陸部に居住していました(関連記事1および関連記事2)。

 この地域には多くの他の長い石塚もしくは長い手押し車があり、そのうち少なくとも9つは、ヘイズルトンノースと玄室の両側配置を共有していますが、2ヶ所は同一ではなく、他は異なる玄室配置を示します。ヘイズルトンノースには、石塚の「背骨」の周囲に反映された2つの対向するL字型の埋葬室のある領域が組み込まれ、これら屋根付きの埋葬室のある領域は、軸線の片側に石積みの長方形の小室が隣接し、石塚全体が擁壁で囲まれていました(図1a)。2つの埋葬室のある領域は南北で区分され、それぞれ3つの区画があり、最内の部屋と通路と入口です(図1b)。

 骨学的分析により、墓の内部で少なくとも41個体が特定され、22個体の成人が含まれます。ヒト遺骸の扱いは、南北の部屋でやや異なります。北側の埋葬室のある領域では、5個体以上の骨が腐食動物により齧られており、安置前の暴露が示唆されます。北側入口に安置された3個体(乳児1個体、子供1個体、成人1個体)は火葬されていました。南側の埋葬室のある領域の遺骸は、北側よりも隣接する区画間で混ざり合って分散していました。ヘイズルトンノースに埋葬された個体は、骨関節炎や子供期の栄養圧迫を示唆する状態(眼窩篩など)など、ブリテン島南部の同時代の墓の被葬者と類似した範囲の病状を示します。同位体分析は動物性タンパク質の豊富な食性を示唆しますが、プロテオーム解析(プロテオミクス)では、これにはこの地域でも一般的な乳製品が含まれていた、と確証します。

 44点の放射性炭素年代のベイズモデル化では、記念碑の建造は紀元前3695〜紀元前3650年頃の間の10年間にわたり、北側通路の石造物の崩壊と北側の部屋の封鎖は紀元前3660〜紀元前3630年頃に起き、本論文で検証された個体の堆積はおそらく紀元前3620年頃に終わった、と示唆されます。歯のストロンチウムおよび酸素同位体研究では、標本抽出された22個体のほとんどは、少なくとも40km離れた地質で子供期の一部を過ごした、と示唆されました。本論文は、考古学的証拠とともに新たなDNAデータを解釈し、ヘイズルトンノースで死者を埋葬した共同体での親族関係慣行を再構築します。以下は本論文の図1です。
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●古代DNA解析による家系図の再構築

 古代DNAデータを生成するため、おもに錐体骨と歯の74点の標本から粉末が得られました。DNAが抽出され、二本鎖および一本鎖のライブラリが生成され、ヒト核ゲノムとミトコンドリアDNA(mtDNA)で約120万ヶ所の多型位置と重複する分子が濃縮され、これらのライブラリが配列決定されました。66点の標本に由来する156点のライブラリで、DNA確実性の標準計量を通過するデータが得られました。同じ個体に由来する標本を検出し、データを統合した後で、異なる35個体からゲノム規模データが得られ、網羅率の中央値は2.9倍(0.018〜9.75倍)です。

 個体の各組み合わせについて常染色体の不適正塩基対(mismatch、DNA複製時の塩基の取り込みエラーや、メチル化などの化学修飾が原因となり、本来のワトソン・クリック型でない塩基が相補鎖に存在する状態)率が推定され、1番〜22番染色体の各位置で無作為に1つのDNA配列が標本抽出され、関連計数rが計算されました。片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)と、染色体の不適正塩基対の空間的パターンに基づく1親等の関係の種類も決定されました。

 ペアワイズ遺伝的関連性度と一致する家系図が手動で作成されました(図1c)。母系(mtDNA)と父系(Y染色体)のハプログループ、遺伝的性別、遺伝的近親交配、死亡年齢が検証されました。組換え現象の分布を活用した後で、27個体でデータと合致する唯一の系図が得られました(図1c)。推定された家系図は、X染色体、共有されたDNA断片の数、親族関係推定のさまざまな手法の独立した情報と完全に一致する、と判断されました。

 まず、墓内の位置を指す命名法が導入されます。北側の部屋はNC、北側の通路はNP、北側の入口はNE、南側の部屋はSC、南側の通路はSP、南側の入口はSEです。墓に埋葬されなかったかもしれないものの、他の個体との遺伝的関係に基づいて存在したに違いないと考えられる標本抽出されていない個体はU、墓内の不確実な位置はHNです。次に、各個人を他の個人と区別する任意の番号が指定されます。最後に、染色体の性別を示唆する文字が付与されます(mが男性、fが女性)。本論文は、「m/male/man」を用いてX染色体とY染色体を有する個体を、「f/female/woman」を用いてX染色体を2本有する個体を示しますが、染色体の性別は、文脈および文化的に性別(sexおよびgender)がどのように定義されるのか、という一要素にすぎない、と認識しています。


●再構築された家系図から推測される社会慣行

 再構築された家系図は、男性1個体(NC1m)と、その繁殖相手である女性4個体(SC1fとNC2fとNC3fと標本抽出されていないU3f)の子孫である、5世代の系統で構成されます。この家族の一部として解釈された個体は、男性系統個体の繁殖相手の成人女性と、これらの女性とこの家系には属さない男性との間の男系子孫です。この家系には27個体が含まれ、古代DNAから再構築された最大の家系(関連記事1および関連記事2)の3倍となり、少なくとも一部の新石器時代の墓は親族関係慣行を中心に組織された、という最初の直接的証拠を提供します。

 他の8個体は、これら27個体の密接な生物学的親族ではありません。再構築された家系には、より小さなデータセットでは可視化されないだろう親族関係慣行を特定する、充分に豊富な関係ネットワークが含まれます。しかし、密接な生物学的関係もしくは家系で他者との繁殖相手の証拠がない8個体も墓に含まれており、親族関係がそうした生物学的もしくは配偶関係に必ずしも依存しているわけではないか、親族関係は墓に埋葬される唯一の基準ではなかったかもしれない、と示唆されます。

 埋葬の扱いは、染色体の性別によりいくつかの方法で異なっていました。第一に、第2世代を通じて第1世代へとたどれる第3世代か第4世代か第5世代はそれぞれ、完全に男性個体を通じてNC1mとつながっています。具体的には、系図上のつながりの15個体全てが、父親(13事例)もしくは継父(2事例)を経由しており、父系子孫が、新石器時代の墓に誰と埋葬されるのかについておもな決定要因だった、という最初の直接的証拠を提供します。これらの観察は、同じ新石器時代の墓の個体間の稀なY染色体ハプロタイプの経時的持続がこれらの共同体における父系慣行を示唆する、という推論と一致します(関連記事1および関連記事2)。

 第二に、遺伝的データのある35個体のうち26個体は生物学的に男性で、イングランドとアイルランドにおける埋葬室のある墓は、生物学的男性個体を優先的に含む、という骨学的および遺伝学的証拠と一致します。たとえば、コッツウォルド(Cotswold)記念碑では、男性と女性の個体数の比は1.6対1です。これは、一部の女性以外は、たとえば遺骸を風雨にさらしたり、火葬した遺骸を墓から散乱させたりなど、別の方法で扱われたことを示唆します。

 第三に、標本抽出された個体のうち女性4個体は、この家系の男性と繁殖し、その存在は父方居住を示唆しており、つまりは女性にとって、父親の系統ではなく、配偶相手の系統との埋葬です。これは、標本抽出された個体のうち、この家系の娘が欠けていること(成人の娘がいないのに対して、成人の息子は14個体)、および子供期に死んだこの家系の娘2個体の存在ととともに、女性は一般的にこの家系に一定以上成長してから加わったことを示唆します。

 この父方居住婚に関わった社会的もしくは地理的距離は分かりませんが、1個体の両親が相互に密接に関連している場合に計測される、長いROH(runs of homozygosity)が1個体を除いて全個体で欠如していることは、近親交配が効果的に回避されたことを示唆します。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。ROH区間の分布は、有効人口規模と、1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。

 これらの結果は、父系子孫が社会的関係の形成に重要な役割を果たした、と示します。これはとくに、民族学的に多様な文化で記録されている父系子孫と父方居住と一夫多妻と家畜飼育との間の関連を考えると、ヘイズルトンノースの共同体の性質にいくつかの洞察を提供するかもしれません。しかし、以下に示されるように、死者の空間的構成や、生物学的父系の一部ではなかった個体を含むことから、埋葬パターンには他の考慮事項も重要な影響を及ぼした、と示唆されます。

 複数の繁殖相手のいる6事例が観察され(図1c)、最も顕著なのが女性4個体と繁殖した男性NC1mです。NC1mが一夫一婦かそれとも一夫多妻か、決定できず、6事例のいずれにおいても社会的に認知されなかった組み合わせから子孫が生まれた可能性を除外できません。男性が複数の繁殖相手を有していた場合、そうした女性は相互に密接には関連していませんでした。しかし、女性の複数の繁殖相手はほとんどの場合、NE2mとU11mなど父系の男性2個体のように、関連していました。男性のNE2mとU11mは3親等の親族関係と推定され、ともに女性U6fとの間に子供を儲けました。別の事例はNC3fで、男性のNC1mおよびNC1mの子孫ではないものの、おそらくはその近親者だった別人との間に子供を儲けました。そうした女性は、関連する男性個体の平行する系統間の重要なつながりを形成したかもしれません。

 本論文のデータは、この新石器時代の墓室の配置が、そうした記念碑について長く議論されてきた問題である、親族関係の概念により中心的に決定された、と証明します。ヘイズルトンノースで埋葬され得る人の決定はおもに父系に基づいていましたが、さまざまな母系亜系統の個体の配置において顕著な空間パターン化が観察されました。SC1fおよびU3f個体の亜系統の12個体は全て南側に埋葬され、NC2fおよびNC3f個体の13個体のうち9個体は北側に埋葬されました。それらの位置を決定できた4事例のうち3事例で、第1世代の母親が含まれます(図1b)。したがって本論文は、この家系を、それぞれ2つの母系を構成する「南側支系」と「北側支系」に区分できるものとして記録できます。

 この二重性が墓の建造の基礎であるという事実は、建造者がこの区分を予期していた、と示唆します。本論文の推測は、北側の通路と入口の接合部を塞いだ壁の崩壊が、北側の墓室外でのNC2fとNC3fのより長く生きた第2世代と第3世代の子孫の堆積につながり、この二重性を崩壊させ、おそらくは北側支系による墓の放棄をもたらした、というものです。これらの支系が母方子孫に基づいていたという事実は、各支系を創出した女性が、これらの共同体の記憶において社会的に重要だった、という証拠を提供します。父系と母系との間の相互作用も、この新石器時代共同体の人格と性別(gender)の構成の解釈に影響します。

 ヘイズルトンノース個体群の本論文の遺伝学的分析は、父系と一致しているものの、生物学的子孫により全てを説明できるわけではない、親族関係慣行を明らかにします。したがって、NE1mとSE1mとSE3mはNC1mの子孫ではありませんが、代わりに、NC1mもしくはその男系の遺伝的子孫との間に子供を儲けた女性の息子です。SP2mは、これらの個体の1人であるSE1mの生物学的息子です。これら男性4個体は、その母親がNC1mの系統に生まれた男性との間に子供を儲けた場合に、NC1mの父系に組み込まれた事例を表しています。これは養子関係を示唆しているかもしれませんが、2つの事例では、これら男性個体の父親も、NC1mの3親等もしくは4親等生物学的親族でした。

 この新石器時代共同体における社会的父性は、生物学的父性と同じくらい重要だった可能性があり、父系で一夫多妻のアフリカのヌエル人(Nuer)などの社会で民族誌的に観察されたパターンです。ヘイズルトンノース系統のどの構成員とも密接な生物学的親族ではない8個体の存在は、いくつかの方法で解釈できます。このうち3個体は女性で、ヘイズルトンノース系統男性の配偶者だったものの、子供を産まなかったか、まだその子供を標本抽出できていない可能性があります。その子供が成人した娘ならば、恐らくヘイズルトンノースの墓に埋葬されなかったでしょう。

 これら8個体の一部もしくは全員は、関連性もしくは共住、あるいは養子縁組により親族とみなされたかもしれず、共同体内の完全に非生物学的な親族関係にとっての意味のある役割の可能性を提起します。ただ、親族関係以外の理由で墓に埋葬される可能税があり、無関係な個体の存在がアイルランドの同時期の墓で指摘されています(関連記事)。しかし全体として、生物学的関係と親族構成員であることがこの墓の死者の多くの安置に重要だったことは明らかです。単一の父系内の亜系統の2組は、墓の配置図の中核で、部屋に埋葬された個体のほとんどは、系統構成員でした。したがって、父系および母系の亜系統はともに第1世代に基盤があり、共同体をまとめつつ分割するよう設計された墓に親族がどのように葬られるのか、という役割の固定を担っていた、と推測されます。


●まとめ

 本論文の分析は、追加の考古学的洞察を提供します。放射性炭素年代測定のベイズモデル化は、ヘイズルトンノースがおそらくは最大3世代しか使用されなかった、と示唆しましたが、古代DNAデータは南側の部屋で5世代を記録します。墓での少なくとも5個体の骨学的同定は、個体数をひじょうに過小評価している可能性がありますが、ゲノム規模データを生成した66点の骨格標本には、同じ個体ではないと判断された骨と歯を選択したにも関わらず、遺伝的重複が31例含まれていました。これは、本論文の標本抽出が、墓から遺骸が回収された個体の良好な断片を捕捉する方法で上手くいっており、ヘイズルトンノースが数百個体ではなく数十個体を収容した、という骨学的推論に強度を追加する、と示唆します。

 約100ヶ所の長い石塚がヘイズルトンノースの50km以内で知られており、そのうち一つは80m離れているだけです。さらなる発掘調査と放射性炭素年代測定と古代DNA解析が、これらの多くが類似の同時代の親族関係慣行をどのように示すのか評価するのに必要ですが、高い割合の地元の同時代の親族集団が墓を建造して使用した可能性もあります。地質間の移動性の相関を調べられるようにするには、本論文で分析された個体の安定同位体測定値は少なすぎますが、遺伝的データのある追加の個体の同位体分析は、検出されていないパターンを明らかにするかもしれません。

 この研究は、古代DNA解析がどのように、考古学的証拠と組み合わされて他の手法では見えない親族関係慣行についての推論を引き出せるのか、示します。とくに、連続する5世代にわたる家系図を再構築する能力は、新石器時代の埋葬慣行における父系子孫の中心的役割、父系への「継子」の受け入れ、母方亜系統の重要な役割について、最初の直接的証拠を明らかにします。養子縁組もしくは関連性による親族関係も、生物学的に無関係な個体を墓に埋葬するにあたって役割を果たしました。

 ヘイズルトンノースは、全ての新石器時代の埋葬室のある墓の基準とはみなせません。なぜならば、そうした記念碑の配置図は異なっており、親族関係慣行はそうした墓が建造されたさまざまな地域間(および地域内)で異なる可能性があるからです。それにも関わらず、本論文の分析は、新石器時代ブリテン島における親族関係と埋葬室のある墓の建造に関する理解を進めました。新石器時代の文脈およびヨーロッパ北部の両方における追加の墓と、他の文化的状況での類似の調査を実行する将来の研究には、過去の社会における親族関係についての代替的理論を検証する可能性があります。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


人類学:前期新石器時代の墓から垣間見る親族関係

 英国グロスターシャーの約5700年前の新石器時代の墓に埋葬された35人の詳細な遺伝的解析が行われ、この古代社会を支配していた親族関係のルールを解明するための新たな手掛かりが得られた。この知見について報告する論文が、Nature に掲載される。今回の研究から、この社会では、養子縁組が行われていたと考えられ、父系の子孫と母系の子孫の両方が重要視された一夫多妻の社会であった可能性が暗示されている。

 全ての遺体は、ヘイゼルトンノースに埋葬されていた。ヘイゼルトンノースは、前期新石器時代の長い石塚で、その中には、2つのL字型の部屋が向かい合って位置しており、それぞれnorth(北)とsouth(南)と命名されている。今回、David Reichたちは、古代DNAから抽出したゲノム規模のデータと考古学的分析を組み合わせて、35人中27人が同じ家族に属することを明らかにした。この家族は、5世代にわたる系統で、1人の男性と4人の女性の子孫によって構成されている。

 そのうちの15人は、父方の系統でつながっており、このことは、父系の影響力を示唆しているが、その一方で、母系の子孫の埋葬場所に作為性が見られ、母系も重要なことを示している。4人の母親のうちの2人の子孫は、南の部屋に埋葬され、他の2人の母親の子孫は、北の部屋に埋葬されていた。この知見は、母方の亜系統が、墓の建設時に独立性の高さが認められた枝にグループ分けされたことを示唆している。

 また、Reichたちは、母親がこの系統に含まれているが、父親が含まれていない4人の男性を特定した。この知見は、養子縁組による親族関係が、生物学的親族関係と同じくらい重要であった可能性を示している。この墓には、主要系統と生物学的近縁関係にない8人も埋葬されており、その意義は不明だが、この古代社会にとって、非生物学的な親族関係も重要であった可能性を明確に示している。


考古学:前期新石器時代の墓における親族慣習の詳細な実態

考古学:新石器時代のブリテン島における家族構成

 今回、約5700年前にブリテン島のヘイズルトンノースの長い石塚に埋葬された35人について、ゲノム規模の古代DNAデータセットと、そこから再構築された家系図が報告されている。これにより、新石器時代のブリテン島における親族慣習の実態に関する知見が得られた。


参考文献:
Fowler C. et al.(2022): A high-resolution picture of kinship practices in an Early Neolithic tomb. Nature, 601, 7894, 584–587.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04241-4

https://sicambre.at.webry.info/202202/article_6.html

8. 2022年2月13日 13:04:56 : ymwCbDy2jg : YmhSM3VMenFsOHc=[13] 報告
雑記帳
2022年02月13日
オークニー諸島における青銅器時代のヨーロッパ大陸部からの大規模移住と新石器時代男系の存続
https://sicambre.at.webry.info/202202/article_13.html


 オークニー諸島における青銅器時代のヨーロッパ大陸部からの大規模移住と新石器時代男系の存続に関する研究(Dulias et al., 2022)が公表されました。完新世の気候最適期の最後尾の恩恵を受けて、紀元前4050年から300〜400年にわたって、ブリテン島とアイルランド島全域では前期新石器時代が南方から急速に拡大しました。移住者は栽培化されたコムギやオオムギと家畜化されたヒツジやウシを、竜骨型鉢土器や土手状の囲いに関する知識とともに持ち込み、起源地としてフランス北部もしくはベルギーの可能性が高い、と示されます。

 オークニー諸島はスコットランド本土の北方に位置し、紀元前3800〜紀元前2500年頃となる新石器時代に栄え、主要な文化的中心地になりました。成功した農耕経済と長距離接触に支えられて、最初の恒久的集落が木材で建設され、その後で紀元前3300年頃以降、石造りの住居が建築されました。石の使用は意識的な設計上の選択だったようで、並外れた考古学的保存をもたらしました。

 最近のゲノム規模研究(関連記事)が、紀元前2500年頃以後となる鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化期におけるブリテン島への大陸規模の移住の程度と速さを論証しましたが、オークニー諸島については、この大陸規模の移住への考古学的示唆は、これまでほとんどなかったか、まったく認識されていませんでした。考古学的記録における鐘状ビーカー文化および関連する物質文化の少なさは、この頃にブリテン諸島の他地域で起きた文化および人口集団の変化がオークニー諸島ではほとんど直接的影響を及ぼさず、じっさい、局所的に抵抗されたかもしれない、という指標とみなされてきました。結果として、オークニー諸島は紀元前二千年紀後半には、ほぼ島嶼的な閉鎖的軌道で発展した、と見られてきました。

 葬儀慣行の重要な変化がこの時期に出現し始め、研究は葬儀遺跡に集中してきました。ブリテン諸島北部では最大級のいくつかとなる墳丘墓が、紀元前三千年紀末頃にオークニー諸島で出現しました。これら土の塚には複数の被葬者が含まれ、順次追加され、最も頻繁に含まれたのは、土坑もしくは石棺の火葬された遺骸でした。平らな石棺墓地も土葬と火葬の両方に使用され、墓に数人の遺骸が含まれることは多かったものの、副葬品は稀でした。

 最近まで、定住遺跡の低い可視性のため、これは環境と文化の後退期だった、と考えられてきました。焦点を絞った環境分析と、クロッシークラウン(Crossiecrown)やトフツネス(Tofts Ness)などの集落に関する報告を通じて、均衡は改善され始めました。集落と葬儀遺骸を関連づける機会はひじょうに稀で、新石器時代と青銅器時代(BA)にまたがる遺跡はほとんどないため、経時的な変化の一貫した全体像を描くのは困難です。この点で、リンクスオブノットランド(Links of Noltland、略してLoN)で継続中の調査は、貴重な新しい洞察を提供しつつあります。

 LoNはオークニー諸島の最も北西に位置するウェストレー(Westray)島に位置します。例外的条件により、少なくとも紀元前3300年頃から紀元前500年頃までの広範な集落と墓地遺構が保存されました。集落の新石器時代と青銅器時代との段階間で直接的重なりはまだ検出されていませんが、居住の大きな中断の証拠はありません。青銅器時代集落は建築上の根拠で区別され、年代は紀元前2500〜紀元前1200年頃となり、3棟の家屋と付属建物から構成され、これらの家屋は新石器時代の家屋と同様に、同時代の農地景観に広がっていました。家屋は多くの場合、組み合わせて配置され、石と土盛りの混合で建てられ、少なくとも紀元前1200年頃まで使用されていました。

 これらの集落の中に位置する墓地は、少なくとも紀元前2150〜紀元前850年頃まで使われ、50以上の埋葬で構成され、100個体以上を含みます。火葬と土葬の両方が同時に行われており、単一墓内の複数埋葬は一般的でした。「鐘状ビーカー複合」の物質的証拠はブリテン島本土全体で見られますが、オークニー諸島では僅かです。2個のビーカー容器からの数点の断片が広範囲で回収され、年代は紀元前2265〜紀元前1975年頃ですが、さらなる土器もしくは認識可能な人工物は、墓地もしくは集落との関連では見つかっていません。

 古代ゲノム研究では、ブリテン島を含むヨーロッパの大半にわたって、金属器時代の文化の到来が、ポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)からの新たな祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の導入と、Y染色体ハプログループ(YHg)R1b1a1b(M269)の優勢を伴っていた、と示しました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。本論文は、この枠組みの文脈内でオークニー諸島のゲノム多様性を調べました。

 ゲノム規模一塩基多型(SNP)捕獲とショットガンデータが、オークニー諸島の新石器時代21個体で利用可能でしたが(関連記事1および関連記事2)、青銅器時代では1個体だけでした。青銅器時代オークニー諸島を調べるため、LoN墓地の22標本から全ゲノムショットガン配列が生成され、既知のデータとともに分析されました。ウェストレー島の西岸に位置するノウオブスケア(Knowe of Skea、略してKoS)の複数期間の儀式複合遺跡と墓地遺跡で得られた、鉄器時代3標本の新たなデータと、スコットランドおよびイングランド北部の12点のさらなる先史時代標本も含められました。


●標本

 先史時代のスコットランドの標本29点とイングランド北部の標本8点からの、ショットガンゲノムデータが提示されます。22点はオークニー諸島のウェストレー島の青銅器時代LoNで発見され、年代は紀元前1700〜紀元前1400年頃です(LoN)。ウェストレー島の鉄器時代KoSの3点は、紀元後1〜紀元後2世紀となります。シェトランド諸島のアンスト(Unst)島の鉄器時代となるミラスケッラ(Milla Skerra、略してMS)遺跡からは1点です。ヘブリディーズ諸島のスカイ島(Isle of Skye)の鉄器時代となるハイパスチャー洞窟(High Pasture Cave、略してHPC)からは1点です。スカイ島の新石器時代となるストラスグリーブ(Strath Glebe、略してSG)からは1点です。

 スコットランド北部の黒島(Black Isle)の新石器時代となるローズマーキー洞窟(Rosemarkie Cave、略してRC)からは、紀元後430〜630年頃となるピクト人の標本1点です。ノーサンバーランド(Northumberland)のローハックスアリー(Low Hauxley、略してLH)からは鐘状ビーカー期の標本1点です。北ヨークシャーのウェストヘスラートン(West Heslerton、略してWH)からは青銅器時代の標本3点です。北ヨークシャーのナプトンウオウルド(Knapton Wold、略してKW)からは鉄器時代の標本2点です。ダービーシャー(Derbyshire)のカージントンパスチャー洞窟(Carsington Pasture Cave、略してCPC)からは鉄器時代の標本2点です。

 全ゲノム網羅率は、0.0007倍から0.8207倍まで大きな違いがあります。網羅率0.009倍以上の標本でゲノム規模分析が行なわれ、平均網羅率は0.194倍です。全標本は汚染検定に合格しました(表1)。これらの標本は、前期新石器時代オークニー諸島(21個体)、および新石器時代と銅器時代(CA)と青銅器時代のヨーロッパの個体のゲノムデータ、オークニー諸島とスコットランドの現代人の1856点の新たなミトコンドリアゲノムの文脈で分析されました。


●ゲノム規模多様性

 ADMIXTURE分析(図1A)で示されるのは、青銅器時代オークニー諸島の標本群は全体的なゲノム規模特性で他のヨーロッパ北部青銅器時代の人々とよく似ており、スカイ島や他のブリテン諸島およびアイルランド島の新石器時代標本とより類似している新石器時代オークニー諸島標本群とはひじょうに異なる、ということです。新石器時代標本は全て、ポントス・カスピ海草原牧畜民との混合を最も明確に示すコーカサス狩猟採集民(CHG)構成要素(図1Aの青色)を欠いていました(関連記事)。オークニー諸島標本におけるCHGの割合は、青銅器時代と鉄器時代の両方で、他のスコットランド銅器時代および前期青銅器時代(EBA)標本群よりもやや高いものの、イングランド標本群の値の範囲内に収まります(図1A)。

 オークニー諸島現代人は、CHG構成要素の割合がさらに高く、これは、中世ヴァイキングの植民を反映しており、現代人のゲノム規模推定(関連記事)では20〜25%、現代人のY染色体(関連記事)では25〜30%の影響が推定されます。地理的および時系列的傾向は、主成分分析でより明確に描かれます(図1B)。LoN青銅器時代標本群は大まかに、ヨーロッパ北部および中央部の鐘状ビーカー期と銅器時代と青銅器時代の標本群とまとまり、KoS鉄器時代標本群は同じ広範なまとまり内に収まりました。以下は本論文の図1A・Bです。
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 D統計は、ゲノム間で共有された遺伝的浮動を定量化するので、個体間の類似性の程度の推定にも使えます。D(ムブティ人、検証集団;潜在的な外れ値、LoN)型式を用いて、LoNの残りと潜在的な外れ値標本とを比較することにより、対称性D統計が計算されました。LoN標本群は一貫してクレード(単系統群)を形成し、統計的に相互に区別できない、と示唆されます。D(ムブティ人、LoN;ヨーロッパBA、ヨーロッパBA)型式のD統計では、オークニー諸島のサンデー(Sanday)島のわずかに古い既知のロプネス(Lop Ness)BAと最も密接に一致した後、最も一般的な重要な類似点は、ブリテン島鐘状ビーカー複合(BBC)標本群とスコットランド青銅器時代とオークニー諸島KoS鉄器時代、フランスBBCやオランダBAなど大陸部の数個体とでした。

 外群f3統計は類似のパターンを示し、ヨーロッパBBCおよびBA標本全体の重複エラーにも関わらず、LoNがブリテン島東部、ウェールズ、アイルランド島、ヨーロッパ北西部BBCおよびBA標本群と最も密接である、と示します(図1C)。これは、オークニー諸島BAが、鐘状ビーカー期にブリテン島に到来した人々によりブリテン島本土(おそらくは東側)経由で定住した可能性が最も高い、と示します。以下は本論文の図1Cです。
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 ソフトウェアqpAdmは、ある人口集団から別の人口集団への、遺伝子流動もしくは混合の方向性と程度を推定するために、f4統計(D統計と類似しています)を要約します。ADMIXTUREにより示される3つの主要な構成要素、つまり草原地帯と「アナトリア半島新石器時代農耕民(ANF)」と「ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)」を用いて、混合割合をqpAdmでモデル化すると、LoNの各祖先系統の割合は、草原地帯が55%、ANFが33%、WHGが12%で、ブリテン島全域の既知のBA標本群とほぼ同様です。LoN人口集団に寄与した人口集団は、これら3構成要素の混合だった可能性が高そうです。

 LoNのより近い供給源を特定するため、可能性があるさまざまな前期新石器時代人口集団と、後期新石器時代/前期青銅器時代人口集団がモデル化されました(表2)。オークニー諸島BA標本群は、在来の新石器時代人口集団4〜7%とスコットランドBBC人口集団93〜96%の割合だけではなく、在来の新石器時代人口集団1〜5%とフランスBBC人口集団95〜99%もしくは在来の新石器時代人口集団1%とデンマークBA人口集団99%でモデル化されます。

 標準誤差(SE)により示唆される不確実性にも関わらず、これらの結果は明確に、EBAまでにヨーロッパ大陸部BBC移民と関連する人々による新石器時代の人々のひじょうに高水準の置換を意味し、在来集団の遺伝子プールは最大で5%しか同化されませんでした。しかし、BBC移民の子孫はオークニー諸島に到達した時までに、オークニー諸島における鐘状ビーカー関連物質文化がほとんどないことに反映されているように、その鐘状ビーカー複合との関わりを失っていたようです。

 したがって、ゲノム規模分析からの状況は、後期新石器時代と前期青銅器時代との間のオークニー諸島人口集団間のかなりの置換を示唆し、これはブリテン島本土で見られる置換(関連記事)と類似しています。しかし、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)体系により示されるパターン間の驚くべき予期せぬ違いがあり、この過程がどのように起きたのか、より詳細に明らかにすることができます。


●ミトコンドリアDNAの多様性

 前期新石器時代オークニー諸島標本(21個体)には、ヨーロッパ新石器時代に特徴的なミトコンドリアDNA(mtDNA)が含まれており、おもに西方新石器時代からの定住を示唆しますが、ドナウ川新石器時代からのわずかな寄与もあります。対照的に、青銅器時代LoNのmtDNA系統一式はひじょうに異なります。少数派のH系統が多数あり、mtDNAハプログループ(mtHg)には、H39(4個体)やH58aやH+195やH1n1(2個体)があります。

 その他のmtHgでは、2個体のJ1c2aと3個体のT2a1b1a(唯一の既知のオークニー諸島青銅器時代標本であるロプネス遺跡の前期青銅器時代個体と一致します)、2個体のT2b21、2個体のU5b2a3、1個体のK1a3a、1個体のK1a29a、1個体のK1c2もあります。これらの個体群のうち8個体(H39のうち3個体、T2a1bの3個体全員、2個体のU5b2a3、1個体のK1a3a)は複数埋葬の一部で、そのうち2つは近縁関係にありました。複数埋葬の男性も、全員同じYHg- I2a1b(現在はI2a1a2)-M423とI2a1b1(現在はI2a1a2a)-S185を有していました。

 青銅器時代LoN系統のほとんどが分類されるまとまりの年代および地理的分布から、そのほとんどは在来の新石器時代集団から継承されたのではなく、後に到来した、と示唆されます。古代DNA研究では、その多くはヨーロッパ大陸部の縄目文土器文化(Corded Ware Culture)かBBCか青銅器時代の人口集団と関連しています。たとえば、mtHg-T2a1b1はドイツの縄目文土器文化で見られますが、mtHg-T2b21はドイツとチェコのBBC系統と一致します。mtHg-H39およびK1c2系統は既知の古代DNAデータでは見られませんが、現代の系統はヨーロッパ北部に限定されており、それぞれ紀元前3000年頃と紀元前2600年頃にさかのぼります。これも、紀元前3000〜紀元前2500年頃のヨーロッパ北部全域での縄目文土器文化拡大の供給源を示唆します。

 mtHg- J1c2*やK1a3aやH1n1やH58aやH+195などいくつかの系統は解決困難ですが、その分布は、BBCの到来と一致する各事例にあります。しかし現時点では、在来の新石器時代供給源を確証的には除外できません。鉄器時代KoS遺骸(3個体)には、同一のmtHg-H1b系統の2個体と1個体のmtHg-U5a1b1aが含まれ、両方ともヨーロッパ大陸部のBBCもしくは縄目文土器文化に起因する可能性があります。

 オークニー諸島の鐘状ビーカー期前にさかのぼる可能性が最も高い系統はLoNの2個体で見られるU5b2a3+16319で、本論文ではU5b2a3bと命名されます。mtHg-U5b2a3は紀元前8500年頃までさかのぼり、スコットランドとウェールズ両方の前期新石器時代個体で見られるので、オークニー諸島のmtHg-U5b2a3個体群は、ブリテン諸島の新石器時代から青銅器時代への連続性の可能性を表しています。

 興味深いことに、mtHg-U5b2a3はブリテン諸島の現代人1個体と、アメリカ合衆国のヴァージニア州(イギリスの植民地として設立されました)の1個体でも見られ、現代までの連続性の可能性が示唆されます。じっさい、新石器時代のオークニー諸島とスコットランドと特に中石器時代のアイルランド島で見られるmtHg-U5b2a*、およびmtHg-U5b2a3自体も、新石器時代のアイルランド島で見られ(関連記事)、現代のオークニー諸島とシェトランド諸島でのmtHg-U5b2系統の存在とともに、mtHg-U5b2a3bを含む一部のU5b2系統が、現代のブリテン島とアイルランド島で生き残っている最古の系統の一部を示しているかもしれず、在来の中石器時代系統の可能性さえあります。


●Y染色体の多様性

 新石器時代オークニー諸島では既知の16のY染色体DNAハプロタイプがあり、そのうち14はよく解明されているようです。この14のハプロタイプはYHg-I2aで、そのうち7つはYHg-I2a1b(現在はI2a1a2)-M423、4つはYHg-I2a1b1(現在はI2a1a2a)-S185、1つはYHg-I2a2(現在はI2a1b)-S33、1つはYHg-I2a2a1b(現在はI2a1b1a2)-CTS10057、1つはHg-I2a2a1a2(現在はI2a1b1a1b1)-Y3679で、残りはよく解明されていないYHg-IおよびI2です。

 青銅器時代LoNでは、ゲノム規模および女性系統の大半はBBCもしくは青銅器時代とともにブリテン諸島とオークニー諸島に到来した可能性が最も高そうですが、9つのY染色体DNA系統のうち1つを除いてYHg-I2a1b(現在はI2a1a2)-M423で、残りの1つはYHg-R1b1a1b(M269)です。YHg-I2a1b(現在はI2a1a2)内では異なる4ハプロタイプが見つかり、それはYHg-I2a1b(現在はI2a1a2)-M423およびYHg-I2a1b1(現在はI2a1a2a)-S185と、より派生的なYHg-I2a1b1a1b(現在はI2a1a2a1a2)-A1150とYHg-I2a1b1a1b1(現在はI2a1a2a1a2a)-A8742です。

 このYHg-I2a1b(現在はI2a1a2)-M423の優勢には驚くべきです。なぜならば、銅器時代および青銅器時代のヨーロッパの他地域では、この系統が完全に存在せず、YHg-R1b1a1b(M269)が圧倒的に優勢だからです(図2・図3・図4)。たとえば、ブリテン島のBBC期の男性21個体のデータセットでは、20個体がYHg-R1b1a1b(M269)で、1個体だけがYHg-I2a2a(現在はI2a1b1)-M223です。銅器時代と前期青銅器時代のブリテン島とアイルランド島の標本群を含めた場合、男性43個体のうち41個体がYHg-R1b1a1b(M269)で、YHg-I2a2a(現在はI2a1b1)-M223は2個体、YHg-I2a1b(現在はI2a1a2)-M423はいません。以下は本論文の図2です。
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 したがって、青銅器時代LoN標本のうち単一のYHg-R1b1a1b(M269)系統の個体を除いて、全男性は新石器時代のY染色体DNAの総体の部分集合を有しています。これらがブリテン諸島のさらに南方からBBCもしくは青銅器時代の移民によりもたらされた可能性はほとんどありません。YHg-I2a1b(現在はI2a1a2)-M423はヨーロッパのBBCもしくは青銅器時代に見られなかっただけではなく、ヨーロッパ新石器時代においてさえ少数派系統でした。ヨーロッパ新石器時代の既知の男性389個体のうち、12%(47個体)だけがYHg-I2a1b(現在はI2a1a2)-M423を有しており、そのうち40%(47個体のうち19個体)がブリテン諸島かアイルランド島に由来し、ブリテン諸島のほとんどはオークニー諸島に由来します(図3および図4)。以下は本論文の図3です。
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 ブリテン諸島とアイルランド島でさえ、オークニー諸島以外ではほとんどのY染色体DNA系統は、YHg-I2a2(現在はI2a1b)-S33かYHg-I2a2a(現在はI2a1b1)-M223ですが(図3)、不思議なことに、本論文におけるスカイ島の新石器時代1個体はひじょうに稀なYHg-I2a2b(現在はI2a1b2a)-S154で、他では中期新石器時代のフランスでだけ見られます(関連記事)。YHg-I2a1b(現在はI2a1a2)-M423は、西方新石器時代のブリテン諸島とアイルランド島にほぼ限定されているようで、ブリテン諸島とアイルランド島では、YHg-I2a1b(現在はI2a1a2)-M423は稀に、YHg-I2a2a(現在はI2a1b1)-M223や、まだ新石器時代ブリテン島では見つかっていないYHg-I2a1a(現在はI2a1a1)-CTS595とともとに見られます。これは恐らく、オークニー諸島とアイルランド島とブリテン島西部および北部で共有される残存系統の分布を示唆しています。以下は本論文の図4です。
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 結果は、新石器時代の男性系統の同化がひじょうに稀だっただけではなく、新石器時代ブリテン島本土の少数派を形成したYHg-I2a1b(現在はI2a1a2)-M423の同化が、起きたとしてもさらに稀だったに違いなかった、というものです。青銅器時代LoNのYHg-I2a1b(現在はI2a1a2)-M423系統は、在来のオークニー諸島新石器時代人から存続し、ブリテン島本土新石器時代集団によりもたらされたわけではなかった、と本論文は結論づけます。対照的に、同じくウェストレー島の鉄器時代KoS遺跡の標本抽出された2個体は、YHg-R1b1a1b(M269)です。

 YHg-I2a1b(現在はI2a1a2)-M423は、最初の農耕民とともにオークニー諸島にもたらされた可能性が高そうです。新石器時代には、YHg-I2a1b(現在はI2a1a2)-M423はほぼ、地中海西部からバルト海のヨーロッパの大西洋前面周辺に分布していました。ブリテン諸島以外では、ほとんどのYHg-I2a1b(現在はI2a1a2)-M423系統はスペインとフランスの中期および後期新石器時代に由来し、ドイツでは1個体、スウェーデンではわずかに確認されており、スウェーデンのゴットランド島の遺跡(関連記事)では、遺伝子型決定された男性4個体全員がYHg-I2a1b(現在はI2a1a2)-M423です(図4)。

 YHg-I2a1b(現在はI2a1a2)-M423は、中石器時代アイルランド島を含むヨーロッパ北部および中央部の狩猟採集民数個体にも存在します。この分布と、ともに7000年前頃となる、YHg-I2a1b1(現在はI2a1a2a)-S1852とYHg-I2a1b2(現在はI2a1a2b)-S392という2つの主要な下位クレードの分子時計と、祖先的系統が現在でもイベリア半島に存続しているという証拠から、ヨーロッパ南西部への新石器時代拡大期における狩猟採集民からの同化と、続いてヨーロッパ北西部および北部への新石器時代拡散が続いたことを示唆するものの、ヨーロッパ北部におけるいくつかのさらなる同化もあり得ました。


●同型接合連続領域と親族関係

 プログラムhapROHを用いて、ROH(runs of homozygosity)が評価されました。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域(同型接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。ROH区間の分布は、有効人口規模と、1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。青銅器時代LoN標本群の特性は、小さな有効人口規模を示唆しますが、最大で三従兄弟までとなる最近の親族関係の証拠はありません。HapROHは、有効人口規模を約400人と推定しました。これは、新石器時代オークニー諸島からの大きな減少で、新石器時代やBBCや青銅器時代のブリテン島とヨーロッパの他地域よりもずっと少ないことになります。これらの結果は、少数の族内婚的人口集団を示唆します。

 ソフトウェアREAD(Relationship Estimation from Ancient DNA、古代DNAからの親族関係推定)を用いて、片親性遺伝標識と死亡時の骨考古学的特性とが組み合わされ、親族関係が推定されました。READ分析は、密接な親族関係の証拠をほとんど特定しませんでした。DNA分析の基準を通過した複数の土葬遺骸のうち7個体(11個体中)でさえ、1親等もしくは2親等の親族関係には2人の全キョウダイ(両親が同じキョウダイ)が含まれるだけです。これは男女の組み合わせで、男子は思春期に、女子は生後すぐに死亡しました。このキョウダイは、同一で稀なmtDNAハプロタイプ(mtHg-H39系統内)を共有しており、男子は墓地で最も一般的なY染色体DNAハプロタイプ、つまりYHg-I2a1b1(現在はI2a1a2a)-S185でした。複数埋葬外の乳児は、わずかに異なるmtHg-H39系統でしたが、READを用いて密接な親族関係の証拠を見つけることはできませんでした。

 低いY染色体DNAの多様性と、稀なmtDNAハプロタイプの複数の共有は両方、外来のmtDNAのほとんどの比較的最近(それ以前の千年間)の到来にも関わらず、小さく緊密な共同体を示唆します。しかし、最も重要な兆候は、青銅器時代だけではなく、YHg-I2a1b(現在はI2a1a2)-M423の存続から推測されるように、新石器時代末にも継続的な父系婚姻パターンを示す、在来男性系統に対するより高い多様性の外来女性系統との間の対照の維持です。ほぼ在来のY染色体DNAとほぼヨーロッパ大陸部由来のmtDNAおよび常染色体の割合との間の対照はひじょうに印象的ですが、約95%水準のヨーロッパ大陸部由来のゲノム規模祖先系統は、移民女性と在来男性とのわずか5世代もしくは100〜150年の婚姻で達することができ、結果が示唆するように、その後には孤立と族内婚が続いた、ということに要注意です。


●考察

 本論文は、中石器時代と新石器時代と青銅器時代と鉄器時代のヨーロッパ全域の多様性の文脈で、青銅器時代と鉄器時代のオークニー諸島人のゲノム多様性を調べ、先行する新石器時代オークニー諸島人の利用可能な証拠と比較しました。新石器時代オークニー諸島人のmtDNAとY染色体DNAの多様性は両方、おもに地中海とローヌ渓谷と大西洋の拡散経路からの、ブリテン島本土を経由しての定住を示しており、全体的に新石器時代ブリテン諸島人のゲノム規模分析と一致します(関連記事1および関連記事2)。この過程はおもに入植の一つでしたが、同化の可能性と在来の中石器時代父系の存続についていくつかの証拠が見つかりました。明らかに古代の在来のmtHg-U5b分枝の存在は、スコットランド西部(関連記事)およびアイルランド島(関連記事)における狩猟採集民の同化のゲノム規模観察を補完します。

 本論文は、ゲノム規模(関連記事)およびmtDNAパターンの両方で明らかな青器時代ブリテン諸島人口集団における劇的な変化がオークニー諸島でも起きた、と確証します。オークニー諸島は、実質的に最近のヨーロッパ大陸部祖先系統を有する人々により、ブリテン島本土からほぼ再定住されました。この人口統計学的変化は何世紀にもわたって起きたかもしれませんが、鉄器時代へと比較的変わらずに維持された可能性が高そうです。本論文では鉄器時代の3個体だけが分析されましたが、いずれも類似のパターンを示します。

 予期せぬことに、この移住の波にも関わらず、在来の新石器時代男性系統が、少なくともウェストレー島では青銅器時代までよく存続しました。男性の新参者の証拠はYHg-R1b1a1b(M269)の単一系統(乳児の埋葬)の存在で見られますが、他の男性は全員、在来のYHg-I2a1b(現在はI2a1a2)-M423系統です。この系統は、ブリテン島本土北西部のバーセイ(Birsay)の紀元後5もしくは紀元後6世紀となるピクト人単一個体で存続していますが(関連記事)、オークニー諸島では現在、単一の家族(407人の男性で検証されました)でしか見られません。

 YHg-I2a1b(現在はI2a1a2)-M423系統は、ヨーロッパ西部では新石器時代末の後には他地域ではほぼ消滅し、新石器時代後のヨーロッパの考古学的遺跡では見られません。この系統は現代のブリテン諸島ではわずか1%しか見られず、現代ヨーロッパ西部のほとんどでは存在しませんが、YHg-I2a1b2(現在はI2a1a2b)-S392という最近の1つの下位クレードが、バルカン半島のスラブ人集団で劇的に拡大しました(図2・図3・図4)。

 考えられる説明は、LoNなど農耕定住の連続性と安定性と自給自足で見つけられるかもしれません。これらの成功した世帯群は、間違いなくオークニー諸島規模の新石器時代社会に加わっている一方で、地域の多様な芸術様式や物質文化や建築や儀式活動に現れる、強い地域的独自性を発展させました。こうした世帯群はたとえば、自身の長距離接触を続行したかもしれません。それはたとえば、オークニー諸島内とは異なり、遺伝的データからも最近になって父系子孫が推定された(関連記事)アイルランド島のブルーナボーニャ(Brú na Bóinne)遺跡のものと最も直接的に比較される、オーロックスと地元の墓芸術の輸入により示唆されます。新石器時代における強さの地位から、そうした定住は内部への移住を媒介し、家系管理に関して特定の選択をするよう、適切に配置されたかもしれません。

 本論文は、青銅器時代オークニー諸島におけるよく確立した新石器時代世帯群の生き残りを見ているのかもしれない、と提案します。人口集団(とゲノム)の残りのほぼ全体が置換されても、いくつかの異なる男性系統は存続しました。これらの世帯群の考古学的痕跡はとくに派手ではなかったかもしれませんが、ブリテン諸島の他地域において男性系統の多くが新参者により置換された時点から少なくとも1000年間のそれらの系統の存続は、青銅器時代オークニー諸島人について多くの場合推定されているよりもずっと少ない島嶼性孤立の指摘と同様に、他地域よりも同化の過程が長引き、おそらくはもっと交渉がなされた過程を示唆しているかもしれません。

 この提案にはいくつか注意点があります。第一に、本論文はオークニー諸島の最も辺鄙な地の一つと、特定の時点の状況を説明していますが。これは断片であり、オークニー諸島全体を表していないかもしれません。オークニー諸島の別の島であるサンデー島の単一のロプネス標本は、大陸移民の全体的パターンを確認しますが、この個体は女性なので、男性系統について情報を提供しません。全体像をより完全にするには、さらなる調査が役立てます。

 第二に、遺跡にはDNA分析を行なえない多くの火葬遺骸があります。YHg-R1b1a1b(M269)の新参者がほとんど火葬された可能性はあるでしょうか?これはなさそうです。かなりの数のBBCおよび前期青銅器時代の土葬がイングランドとスコットランドで分析されており、男性はほぼ排他的にYHg-R1b1a1b(M269)系統でした。しかし、これが当てはまる場合でも、YHg-I2a1b(現在はI2a1a2)-M423系統の土葬における存続は、ゲノム規模(および恐らくはmtDNAでも)水準でのほぼ95%の置換にも関わらず、並外れたままです。

 ヨーロッパの文脈では、オークニー諸島青銅器時代人はヨーロッパ大陸北西端の位置としてはひじょうに対照的で、ゲノムの大半が後期新石器時代と前期青銅器時代数との間で書き換えられましたが、男性系統はなぜか存続しました。それでも、ユーラシア西部全域で見られる同じ父方居住婚慣行の観点でこの現象を理解できます。オークニー諸島の祖先分布は、在来の男性と新参の女性を含む意図的な婚姻パターンを示します。この優先的同化の過程は、新石器時代オークニー諸島人のゲノムの残りの置換の程度を考えると、多くの世代にわたって継続した可能性が高いようです。

 新石器時代社会における強力でおそらくは強く階層的な要素の存在は、アイルランド島のニューグレンジ(Newgrange)の近親交配の1親等同士の子供の発見に基づいて提案されており(関連記事)、ヨーロッパ北西部と中央部両方のアイルランド島や他の巨石文化のそれ以前の分析で予想されていました(関連記事1および関連記事2)。ニューグレンジ羨道墳の個体群を分析した研究では、強い階層的要素はアイルランド島全体を網羅していると主張され、ウェールズとオークニー諸島の類似の巨石共同体を組み込んだかもしれず、最も可能性の高い起源地はブルターニュ地方である、と主張されました(関連記事)。

 YHg-I2a1b(現在はI2a1a2)-M423は中石器時代と新石器時代両方のアイルランド島で見られ、後期新石器時代のアイルランド島における主要なまとまりであるYHg-I2a2a1a1(現在はI2a1b1a1a)-M284は、ニューグレンジの推定される上流階層系統で見られ、南ロナルドセー(South Ronaldsay)島のイズビスター(Isbister)の埋葬室のある石塚(鷲の墓)の新石器時代オークニー諸島人と一致します。

 YHg-I2a1b(現在はI2a1a2)-M423の青銅器時代オークニー諸島と新石器時代の沿岸部周辺の分布の両方の本論文のデータは、この提案をさらに支持します。ヨーロッパの新石器時代社会は、その分布の一方の極(ではあるものの、ほぼ周辺的ではありません)で、鐘状ビーカー複合と(最も可能性が高そうな)インド・ヨーロッパ語族の到来(関連記事)のずっと前に、父系的で父方居住的で階層的だったかもしれません。

 本論文のデータは、新石器時代系統が特定の農耕世帯群内で存続したことを示唆し、これは明らかに上流階層ではありませんが、何世代にもわたって特定の土地所有の管理を維持していたようです。この系統と特定の場所とのつながりは、男系での優先的継承を強く示唆します。これにより生じた連続性は、紀元前三千年紀と紀元前千年紀との間の集落の寿命に顕著に寄与した可能性が高そうです。在来男性系統は、人々と文化と言語とさらにはゲノムさえも、新参者の起源地であるヨーロッパ本土のものとより類似するよう変わっていった一方で、そのままでした。

 本論文の調査結果は、オークニー諸島への前期青銅器時代の移住を論証し、「鐘状ビーカー複合の拡大は、遺伝的に均質な人口集団への考古学的に定義された物質文化の単純な一対一の対応付けでは説明きない」との1939年に提案された認識を拡張します。その研究では、人口流入は考古学的痕跡がほとんど特定されない場合でさえ起きたかもしれない、とも強調されています。これは、従来では島嶼性孤立の発展か、遠方の上流階層の模倣か、影響の漸進的選択の結果とみなされてきた、オークニー諸島の青銅器時代慣行の起源についての批判的な再評価を促します。たとえば、手押し車や焼けた塚などの新たな記念建造物の出現をめぐる状況は、再考の必要があります。

 これらの知見がさらに広く裏づけられるならば、青銅器時代オークニー諸島は、秩序整然として持続的な移住があり、長距離交換網に関わり、新たな慣行を採用した可能性が高い、と示唆されます。青銅器時代への新石器時代系統とあり得る独自性の持久は、文化的複雑性のさらなる層を追加し、その意味するところはまだ充分には調べられていません。


 以上、本論文についてざっと見てきました。オークニー諸島では、ブリテン諸島の他地域と同様に、新石器時代から前期青銅器時代にかけて人類集団のゲノムに大きな変化があり、ヨーロッパ新石器時代農耕民的な遺伝的構成から、おもにポントス・カスピ海草原起源の牧畜民的な遺伝的構成へと変わりました。この過程でヨーロッパ西部では、男系(Y染色体)でもおもにポントス・カスピ海草原起源の牧畜民由来の系統へと変わりましたが、オークニー諸島では、青銅器時代にも新石器時代以来の男系が優勢でした。

 さらにオークニー諸島では、ヨーロッパ西部においてポントス・カスピ海草原起源の牧畜民到来の考古学的指標となる鐘状ビーカー複合的要素がほとんど見られないにも関わらず、他のヨーロッパ西部と類似した人類集団の遺伝的構成の大きな変化が起きました。オークニー諸島の事例は、人口移動と文化的変容や父系との関係が、地域によっては大きく異なっていた可能性を強く示唆します。本論文は、日本列島の人口史についても重要な示唆を与えているように思います。

 日本列島も、縄文時代と現代とで人類集団の遺伝的構成に全面的な置換に近いくらいの変化があり、その大きな変化は弥生時代に始まった、と考えられます(関連記事)。ただ、この変化は弥生時代に急速に完了したのではなく、弥生時代の日本列島の人類集団は遺伝的にかなり異質で、現代日本人の遺伝的構成の確立については、少なくとも平安時代まで視野に入れる必要があるのではないか、と思います(関連記事)。

 日本列島における人類集団の遺伝的構成の大きな変化も、人口移動による遺伝的変化と新たな文化の到来として単純に図式化できないようで、たとえば弥生時代早期の九州北西部の1個体は、遺伝的には縄文時代の個体群そのものです(関連記事)。また現時点では、縄文時代の個体群は遺伝的には時空間的に広範囲にわたって比較的均質だったと考えられ、男系でも特定のYHg(D1a2a)しか確認されていませんが(関連記事)、現代日本人では、縄文時代において現時点では排他的なYHg-D1a2aの割合が約35%で、縄文時代と現代とで人類集団の遺伝的構成に全面的な置換に近いくらいの変化があったのに、男系では縄文時代系統が約1/3の割合を維持していることになります。

 ただ、この問題は複雑で、朝鮮半島の新石器時代に縄文時代個体群の祖先系統をさまざまな割合で有する個体群が確認されていることから(関連記事)、現代日本人のYHg-D1a2aを全て縄文時代個体群由来と単純に考えるのには、慎重であるべきだと思います。現代日本人のYHg-D1a2aの中には、弥生時代以降に朝鮮半島から到来したものもあるかもしれない、というわけです。おそらく、ゲノム構成と文化や男系の変容は世界各地でさまざまであり、一様に把握することはできないのでしょう。


参考文献:
Dulias K. et al.(2021): Ancient DNA at the edge of the world: Continental immigration and the persistence of Neolithic male lineages in Bronze Age Orkney. PNAS, 119, 8, e2108001119.
https://doi.org/10.1073/pnas.2108001119


https://sicambre.at.webry.info/202202/article_13.html

9. 2022年10月16日 10:06:16 : PbMeIGMrKA : bTgxblNWZEhIQjY=[2] 報告
雑記帳
2022年10月16日
アングロ・サクソン時代におけるヨーロッパ大陸部からブリテン島への大規模な移https://sicambre.seesaa.net/article/202210article_16.html

 アングロ・サクソン時代におけるヨーロッパ大陸部からブリテン島への大規模な移住に関する研究(Gretzinger et al., 2022)が公表されました。ブリテン諸島の歴史は、ローマ帝国支配の終焉後の重大な変化をはじめとする、文化を大きく変転させた複数の時代によって特徴づけられ、これが、言語や定住パターンや物質文化の移り変わりを促進しました。そうした変遷に、ヨーロッパ大陸部からの移住がどの程度関与したかについては、長く議論が続いています。

 本論文は、中世のヨーロッパ北西部人460個体(そのうち278個体はイングランド人)のゲノム規模の古代DNAを考古学データと共に調べ、当時の人口動態を推測しました。本論文は、中世前期のイングランドでは、大陸部のヨーロッパ北部人祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の大幅な増加を特定します。この祖先系統は、中世前期と現代のドイツ人およびデンマーク人と近縁で、これは、中世前期に北海を越えるブリテン島への大規模な移住があった、と示唆しています。

 結果として、今回解析されたイングランド東部の人々は、顕著な地域差や遺跡内での不均一性はあるものの、その祖先系統の最大76%が大陸の北海地域に由来していました。本論文は、移民祖先系統を有する女性は在来祖先系統を有する女性よりも副葬品とともに埋葬されることが多かったのに対して、武器とともに埋葬された男性の割合は移民祖先系統を有する者以外でも同等だった、と示します。現代のブリテン島との比較からは、その後の人口動態学的事象によって、大陸部のヨーロッパ北部人祖先系統の割合が減少した一方で、鉄器時代のフランスに見られた系統に最も近縁なヨーロッパ南西部人祖先系統の大規模な寄与など、別の祖先系統構成要素がイングランド人の遺伝子プールに導入された、と示唆されます(関連記事1および関連記事2)。


●研究史

 紀元千年紀には、ローマ帝国の盛衰と移住と現代の世界を形成した中世の制度など、大きな人口統計学的・文化的・政治的変化がヨーロッパで起きました。ローマ帝国後のブリテン島の変容は、とくに甚大でした。5世紀のブリテン島におけるローマ帝国統治の終焉は、物質文化と建築と製造と農耕慣行の劇的な変化(関連記事)に先行し、言語変化を伴っていました。考古学的記録と地名は、北海地域、とくに現在のイングランドとシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州およびニーダーザクセン州(ドイツ)とフリースラント(オランダ)とユトランド半島(デンマーク)にわたる、共有された文化的特徴を示唆します。たとえば、ユカを掘り込んだ特徴的な建物、つまり竪穴住居(Grubenhäuser)、大規模な火葬墓地、火葬骨壺もしくは動物芸術や刻み目を入れた金属を用いた物体の出現が含まれます。さらに、6世紀と7世紀のブリテン島で見つかった手首の留め金と十字型や四角の胸飾りは、スカンジナビア半島南部起源が証明されました。北海地域全体でのこれらの類似性にも関わらず、ヨーロッパ大陸部には同等のものがない、ブリテン島の物質文化もありました。これに加えて、川など一部の場所と地理的特徴は、ケルト語もしくは後期ラテン語起源の名前を保持していました。

 ルネッサンスから現在まで、これらの変化を説明する主要な物語は、侵略と征服とそれに続くヨーロッパ大陸部からの再定住でした。少ない文献に基づいて、在来のローマ系ブリテン島人口集団は、ヨーロッパ大陸部のゲルマン語話者圏からの移民によりほぼ置換された、と提案されました。しかし、これら伝統的な文化的歴史解釈がどの程度、物質文化のパターンを説明しているのか、あるいは歴史的記述と一致しているのか、疑問を呈されてきました。たとえば、ベーダ(Bede)にさかのぼる歴史資料(8世紀に執筆されました)は、ケント州の入植者としてジュート人を示唆します。しかし、「ジュート人の問題」として知られるようになった論点では、この歴史的に証明された移動は、考古学的記録では、判断するか、あるいは一致させることが困難です。じっさい、ケント州で見つかった物質文化要素は、イングランドの他地域もしくはデンマークではなく、同時代のメロヴィング朝フランスやアレマン人のドイツ(南部)のものに類似しています。

 考古学的記録と歴史的物語との間のそうした不一致は、移住もしくは侵略仮説の却下を裏づけ、これは1960年代以降の多くの考古学者にとって好ましい理論的立場でした。多くの学者は1960年代までに、小さく機動性のある軍団と在来のブリテン島人口集団の文化変容を含む、エリート支配モデルを支持していました。しかし、利用可能な同位体およびDNA証拠は、たとえこれまで小規模だったとしても、移民はさほど裕福ではなく、地元民とともに埋葬された、と示唆しており、それは、ケルト語もしくはラテン語からの明らかに最小限の影響がある西ゲルマン語群言語の採用を説明できる、エリートの影響のモデルに適合しません。

 遺伝的データを用いて、これらの問題に対処してきた歴史があります。古代の遺伝的データを使用する初期の試みが失敗した後に、研究者は現在の人口集団と片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)に基づく研究に目を向けましたが、依然として合意には達していません。現代人のY染色体に基づく研究は、イングランド東部の中世前期における男性系統の50〜100%の置換を推測しました。もっと最近では、イギリス現代人の最初のゲノム規模研究は、移住した大陸部ヨーロッパ北部祖先系統がイングランド南東部現代人の遺伝子プールの50%未満になる、と結論づけました(関連記事)。しかし、人口集団は経時的に浮動と遺伝子流動を通じて変わるので、現在の人口集団は未知の遺伝的構成の古代人集団にとって不充分な代理かもしれません。ブリテン島の人口史に情報をもたらす古代DNA解析の実行可能性はまず、鉄器時代から前期中世の20個体のゲノム規模古代DNAデータの報告で論証され、その2つの研究(関連記事)は、前期および中期アングロ・サクソンの文脈におけるヨーロッパ大陸部祖先系統の明確な証拠を提供しました。

 本論文は、イングランドと北海地域全体の初期中世の人口動態を、この期間と地域の最初の大規模なゲノム規模研究で調べ、イングランドにおける考古遺伝学的記録を、具体的には8個体から285個体に増やしました。本論文は、おもに450〜850年頃にまたがる、イングランドの南部と東部の遺跡群の包括的な時間横断区を標的にしており、アップル・ダウン(Apple Down)、ドーヴァー・バックランド(Dover Buckland)、イーストリー(Eastry)、イーリー(Ely)、ハザーディーン・クローズ(Hatherdene Close)、レイクンヒース(Lakenheath)、オーキントン(Oakington)、ポルヒル(Polhill)、ウェスト・ヘスラートン(West Heslerton)のアングロ・サクソン墓地で始まります。これにより、ヨーロッパ大陸部からイングランドへの移住の程度と、在来のブリテン島の遺伝子プールへのその影響に関する問題に対処できます。さらに、個体と人口移動との関連により、共同体水準での移住過程の動態を研究できます。


●新たな古代DNAデータ

 イングランドとアイルランドとオランダとドイツとデンマークの37ヶ所の異なる遺跡から、200〜1300年頃となるヨーロッパ北西部の古代人494個体の骨格遺骸が標本抽出されました。骨格資料から粉末が調製され、古代DNAが抽出されて、二本鎖もしくは一本鎖のライブラリに変換されました。分子交雑DNA捕獲で439点のライブラリが選択され、124万ヶ所の一塩基多型(SNP)と重複する配列が濃縮されました。40点のライブラリについて、捕獲なしで完全なゲノムが生成され、平均網羅率は0.9倍です。

 品質選別と重複個体の除外後、460個体のゲノム規模データが分析に利用可能でした。これらには、イングランドの古代人278個体、アイルランドおよび大陸部ヨーロッパの近隣の古代の人口集団の182個体が含まれます。(図1)。新たに報告されたデータは、ヨーロッパ北西部の新石器時代後の刊行されている4336個体の古代DNAデータと組み合わされました。445171ヶ所のSNPの交点で遺伝子型決定された、現代ヨーロッパ人10176個体の参照データセットが集められました。 本論文の遺伝的データの解釈を助けるため、57点の標本が放射性炭素年代測定されました。以下は本論文の図1です。
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●ローマ帝国後のイングランドにおける人口変化

 アイルランドからスウェーデンのヨーロッパ北西部現代人5365個体で主成分分析(PCA)が実行され、この遺伝的差異に本論文の古代ゲノムが投影されました(図2)。現代人の差異については、PC1軸とPC2軸は大まかに地理を反映しており、スカンジナビア半島人からドイツ北部とオランダの個体群を経由してブリテン島とアイルランド島の個体群へのV字パターンを形成します。イングランド現代人の位置は、一方の極でブリテン島西部人とアイルランド島人(アイルランド人と北アイルランド人とスコットランド人とウェールズ人を含むWBI)により定義される勾配分布、もう一方の極で現代オランダ人との重複に従っている、と浮き彫りになります。古代人のゲノムはわずかに分離した勾配上に位置し、オランダとドイツとデンマークの遺跡の中世前期個体のほとんどは、現在の大陸部ヨーロッパ北部人(ドイツ北部とデンマーク、CNE)の頂点に図示されますが、ブリテン島とアイルランド島の青銅器時代(BA)と鉄器時代(IA)の個体群は、WBIとともにクラスタ化します(まとまります)。

 注目すべきは、ブリテン島とアイルランド島の先行する青銅器時代および鉄器時代個体群とは対照的に、イングランドの中世前期標本(イングランドEMA)は、現在のCNEとともに、大陸部ヨーロッパ北海地域の古代人と一緒に図示されることです。イングランドの先史時代と中世前期の個体群間の相違は、人口集団および個体両方の規模において、遺伝的距離(FST)と共有されるアレル(対立遺伝子、F4)の分布でも見られます。要注意なのは、中世前期イングランドの遺跡の個体群が、最初の2つのPC軸では明らかに遺伝的に均質で、青銅器時代および鉄器時代クラスタ(まとまり)と中世前期クラスタとの間の勾配の全範囲を網羅していることです。以下は本論文の図2です。
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 これらの遺伝的パターンから、イングランドの中世前期個体群はさまざまな量のCNE祖先系統を有していた、と示唆されます。中世前期イングランドの遺跡のほとんどの個体は、現在のWBI標本もしくはCNEと明確にクラスタ化しますが、多くの個体は両クラスタの間に収まり、これら祖先集団間の混合が示唆されます。これらの祖先系統構成を定量的に推定するため、ソフトウェアADMIXTUREに実装された教師有クラスタ化手法を用いて、祖先供給源が分解されました。具体的には、現代の人口集団が、上述のようにと定義された、中世前期イングランドの供給源祖先系統の代理として機能する、2つのメタ個体群(アレルの交換といった、ある水準で相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群の集団)にまとめられました。つまり、CNE (407個体)とWBI (667個体)です。これら2つの現在のメタ個体群は、FST統計とF4統計(ヨルバ人、検証集団;WBI、CNE)を用いての、イングランドの古代の個体群との関係の検証により、正確に古代の混合供給源を表している、と確証されました。中世前期イングランド個体群の結果として得られた祖先系統推定値は、じっさいPCAのPC1軸の位置およびF4統計と密接に一致します。

 本論文のCNEとWBIへの祖先系統分解を先史時代標本に適用すると、ブリテン島とアイルランド島におけるゲノム規模CNE祖先系統の割合は中世前期の前にはひじょうに低い、と分かりました。イングランドの鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化と青銅器時代の個体群では、CNE祖先系統は1%以上を占めていません(図3a)。これは、遺伝的浮動に対して堅牢なF4統計により示されるように、本論文の現在のCNE代理と青銅器時代との間の時間的間隙に起因する遺伝的浮動により説明できません。CNE祖先系統はローマ期にやっと平均15%に増加しましたが、この推定値はわずか7個体に基づいています。このローマ期7個体のうち6個体は現在のヨークにあるエボラクム(Eboracum)という単一の遺跡に由来します。この遺跡はローマ市の最高級の植民都市で、軍団の要塞があるので、イングランドの他地域のほとんどよりも国際的な人々を惹きつけたかもしれません(図3b)。以下は本論文の図3です。
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 これら以前の期間とは対照的に、本論文の標本におけるイングランドの中世前期の個体の大半は、その祖先系統の全てもしくは大半が、大陸部ヨーロッパ北部に由来し、CNE祖先系統は平均76±2%です。CNE祖先系統はイングランド中央部および東部では支配的ですが、イングランドの南部と南西部ではずっと少なく、分析されたアイルランドの1ヶ所の遺跡には存在しませんでした(図3b)。さらに、大陸部ヨーロッパ祖先系統における違いは、遺跡間だけではなく、遺跡内でも観察されました。たとえば、ケンブリッジシャーのハザーディーン・クローズ遺跡(17個体)では、平均約70%のCNE祖先系統が推定され、8個体はCNE祖先系統のみを示しましたが、3個体のCNE祖先系統は低いかゼロでした。全体的に、地域間から家族水準までの遺伝的異質性のこれらのパターンは、鉄器時代に由来するローマ・ブリテン島人口集団と大陸部ヨーロッパからの移民との間の連続的な相互作用と一致します。

 男女間のCNEもしくはWBI祖先系統の有意な違いは見つからず、目立つおよび/もしくは副葬品のある埋葬内の両祖先系統の個体が見つかります。イングランド全体では、CNE祖先系統を有する個体(以下、CNE祖先系統が50%以上であることを意味し、逆にWBI祖先系統を有する個体とは、CNE祖先系統が50%未満であることを意味します)は、WBI祖先系統を有する個体よりも副葬品とともに見つかる可能性が高そうです。注目すべきことに、これは、WBI祖先系統を有する女性個体よりも、副葬品、とくに胸飾りを伴って見つかる可能性が高い、CNE祖先系統を有する女性に起因しているようです。しかし、CNE祖先系統を有する男性の墓は、WBI祖先系統を有する男性と同じように、副葬品もしくは武器を有している可能性が高そうです。これは、環状溝により特徴づけられる塚の下のスクラマサクス(片刃の直刀の一種)とともに見つかった、アップダウン・イーストリー(Updown Eastry)遺跡の37号墓のほぼ100%WBI祖先系統の男性埋葬など、特定の事例により強調され、卓越した個人もしくは地位と関連する傑出した武器埋葬を示唆します。

 このパターンはイースト・アングリア(East Anglia)でも見られ、具体的には、CNE祖先系統を有する個体にはより多くの副葬品があります。これは、女性個体のみを考慮した場合でも有意ですが、性別(ジェンダー)関連の地位を示す胸飾りのある女性を考慮した場合には有意ではありません。遺跡水準では、これらのパターンはハザーディーン・クローズ遺跡においてとくに顕著です。祖先系統を二元的ではなく連続的変数として扱うと、ほぼ以前の結果と一致し、顕著な例外はウェスト・ヘスラートン遺跡です。同遺跡はこの全体的なパターンから際立っており、CNE祖先系統の割合がより大きい男性は、武器とともに見つかる可能性がより高く、本論文では見つかったこの種類の唯一の有意な兆候です。レイクンヒース遺跡も武器を有する多くのCNE埋葬を示しますが、標本規模が限定的です。

 これらのパターンには注目すべき個々の例外があります。たとえば、オーキントンの80号墓の優勢な(60%)WBI埋葬は、ウシの骨格、銀メッキの円盤状の胸飾りと帯飾り鎖とともに見つかり、この墓地のより目立つか裕福な埋葬の一つである塚の下に埋葬されました。要注意なのは、以前には女性と識別され、文献で議論された、武器のあるいくつかの埋葬が、本論文の分析では遺伝的に男性は判明したことです。しかし、注目すべきは、単一個体が依然として性別間(セックスとジェンダー)の違いを示すことです。ウェスト・ヘスラートン遺跡122号墓の10代(13〜19歳)の少年は、等腕の胸飾り、ビーズ、小刀なで埋葬されています。

 本論文のデータセットで最も包括的に標本抽出された墓地の一つであるドーヴァー・バックランドにおいて、家族水準での遺伝的および文化的出自の混合が観察されました。たとえば、少なくとも3世代にわたる親族集団が見つかり、全員混合していないCNE祖先系統を示しました(補足図4a・c)。家系をたどると、次に1人の女性がこの集団に統合されている、と分かります。この女性自身は混合していないWBI祖先系統を有しており(304号墓)、その2人の娘(290号墓と426号墓)は、その結果として祖先系統が混合しています。50:50近くの混合祖先系統の孫(414・305・425号墓)で見られるように、WBI祖先系統は1世代後に再び入りました。胸飾りと武器を含む副葬品は、混合の前後でじっさいこの家系図の両側で見つかります。たとえば、最も新しく混合した世代では、武器とビーズと留め針、および胸飾りのある母親の両方が見つかりました。最初の混合世代はそれぞれ近くに埋葬されていますが、孫は同じ位置ではあるものの、遺跡の別の場所に埋葬されています。以下は本論文の補足図4です。
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 本論文で分析された遺跡では最西端に位置するアップル・ダウン遺跡においては、大きく異なるパターンが観察されます。この遺跡では、墓は向きと位置と人工遺物の頻度により、異なる埋葬構成に分類できます。CNE祖先系統を有する埋葬は、構成B(遺跡のより端に位置し、南北の埋葬方向となります)よりも、構成A(遺跡の中間に位置し、東西の埋葬方向となります)での埋葬頻度が高くなります。これは、その祖先系統に従って個体の扱いに有意な違いがあることを示しており、南北のヨーロッパ祖先系統に関する、ハンガリーとイタリアの中世前期墓地とひじょうによく似た発見です(関連記事)。


●北海地域全体の祖先系統供給源

 本論文の北海に隣接する大陸部ヨーロッパの中世の新たなデータは、上述のCNE関連祖先系統増加の供給源候補のさらなる調査への独特な機会を提供します。この目的のため、まず、本論文のCNEとWBIの分解にしたがって、混合していないCNE祖先系統の個体(CNE祖先系統の割合が95%以上、以下イングランドEMA_CNE)が選択されました。次に大陸部ヨーロッパのデータセットにおける各遺跡について、その個体がアレル頻度の観点でイングランドEMA_CNE集団(109個体)と遺伝的に類似しているのかどうか、検証されました。分析された大陸部ヨーロッパ中世集団のうち、ドイツ北部とデンマーク両方の遺跡は、じっさいイングランドEMA_CNE個体群と区別できません(図4)。一貫して、イングランドEMA_CNEとドイツのニーダーザクセン州の中世個体群は、ほぼ同一の遺伝的類似性および祖先系統構成要素を示し、F2・F3・F4・FST統計に基づくと最高水準の遺伝的類似性を有しており、ほとんどの古代および現代の人口集団と対称的に関連しています。

 まとめると、こうした知見から、そうした個体群は同じ供給源人口集団に由来する可能性が高い、と示唆されます。機械学習を使ってその遺伝的特性に基づいて個体の位置を地理的空間に特定するソフトウェアLOCATORを用いると、イングランドEMA_CNEの祖先の推定供給源として、オランダ北部からスウェーデン南端にまたがる地域が推測され、個体の大半はニーダーザクセン州に割り当てられます(図4)。この類似性は、とくに考古学的移住の論説が最初に生じた、エルベ・ヴェーザー地域と初期アングロ・サクソン墓地との間の物質文化と埋葬慣行の以前の証拠に追加されます。

 しかし、オランダ北部とドイツ北部とデンマークのほとんどの分析された遺跡での最も強い均質性も注目され、中世前期には、大陸部ヨーロッパ北海と隣接するバルト海西部地域は、地理的下部構造なしでヨーロッパ北部西方平原のほとんどにまたがる遺伝的連続体だった、と示唆されます。これは、ブリテンおよびアイルランド諸島から大陸部ヨーロッパへの遺伝的逆流とともに、推定される言語史を反映しており、ブリテン島への遺伝子流動に寄与した特定の小地域のさらなる特定を妨げます。

 あり得る中世大陸部ヨーロッパ遺跡群の本論文の選抜は広範ですが、大陸部ヨーロッパでの土葬による火葬の置換に起因する、遺伝的構造の後の展開を過度に強調する可能性に要注意です。それに関してスカンジナビア半島でも特定の注意点があり、本論文の中世参照人口集団はほぼヴァイキング期の埋葬に由来しており、それは同じ地域の以前の人口集団の代表ではないかもしれない、多様な混合した祖先系統を有しています(関連記事)。以下は本論文の図4です。
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 すでに中世前期において、複数の遺跡の数個体はスカンジナビア半島の現代人との中程度の過剰な類似性(5.4%)を示しており、追加の供給源が示唆されます。スカンジナビア半島との密な文化的接触は考古学的記録で証明されていますが、この遺伝的差異が中世前期イングランド内で地理的に階層化されているとは見つかりませんでした。このスカンジナビア半島関連祖先系統は、ヴァイキング期にのみ大きく増加します(30.6%まで)。

 特定の大陸部ヨーロッパ地域と中世前期イングランドの個体群間の密接な関連性が確立されたので、qpAdm手法で古代の供給源人口集団を用いて、後者がより直接的にモデル化されました。具体的には、遺跡ごとにイングランドの古代の個体が集められ、各集団は2供給源間の混合としてモデル化されました。一方は、集められたイングランドの鉄器時代・ローマ期の個体群により表され、もう一方は、集められたニーダーザクセン州の中世前期個体群(以下、ニーダーザクセンEMA)により表されます。イングランドの中世前期遺跡についてこの方法で得られた混合割合は、上述の教師有ADMIXTURE、遺跡ごとのF4統計、平均PCA位置での本論文の平均推定値と強く相関しています。

 このモデルを用いて、イングランドの中世前期遺跡群全体にわたるニーダーザクセン州からの平均86±2%の祖先系統が検出され、現在の供給源人口集団と教師有ADMIXTUREを用いて推定された76±2%よりわずかに高くなりました。地域規模では、イングランド南西部よりも東部においてニーダーザクセン州からのより多くの祖先系統が観察され、1回の事象もしくは連続的な期間にわたるイングランド東部からの祖先系統到来と一致します。

 ゲノム規模祖先系統の本論文の推定は、片親性遺伝標識からの人口置換の独立した証拠により裏づけられます。中世の前には、ブリテン島とアイルランド島の新石器時代後の個体群のY染色体ハプログループ(YHg)は、圧倒的にR1b1a1b1a1a2(P312)、とくにその下位系統であるR1b1a1b1a1a2c1(L21)で、この系統は現在では地域全体で勾配を示し、西部で最高頻度となります。対照的に、イングランドの中世前期人口集団は、大陸部ヨーロッパ由来のハプロタイプをかなりの割合で有しており、具体的には、YHg-R1b1a1b1a1a1(U106)やR1a(M420)やI2a1(L460)やI1(M253)で、これは一般的にヨーロッパ北部および中央部で見つかり、本論文で報告された個体も含めて古代の大陸部ヨーロッパ個体群でも一般的です。とくに、YHg-I1(M253)とR1a(M420)は、本論文で分析対象とされた青銅器時代と鉄器時代とローマ期のブリテン島およびアイルランド島の個体群では存在しないものの、中世前期イングランドの分析対象とされた個体の1/3以上で特定されました。全体的に、青銅器時代と鉄器時代のイングランドに存在しないYHgは、本論文の中世前期イングランド標本では少なくとも73±4%を表しており、常染色体データからの置換推定値を反映しています。同様に、ミトコンドリアゲノムは北海に隣接する地域からの女性系統の人口置換を示します。

 X染色体上の大陸部祖先系統の推定値は、YHgの供給源の起源の推定と同様に、男性特有の系統と常染色体混合推定値との間の有意差を示しません。ミトコンドリアかY染色体かX染色体のどれも、混合における性差の微妙な水準を除外できませんが、性差のないモデルとも一致しており、在来人口集団と類似の水準で混合した移民は男女両方を含んでいた、と示唆されます。要注意なのは、中世前期のCNEとWBIの混合における性差の欠如が、以下に見られる現在のイングランドにおけるCNE祖先系統の希釈を引き起こした、後の混合過程における性差の可能性を除外しないことです。


●イングランドにおける最近の人口変化

 中世前期イングランドにおける混合の最も顕著な兆候は、中世および現代の大陸部ヨーロッパ北部と関連する祖先系統の増加ですが、イングランドの数ヶ所の遺跡では、qpAdm を用いると、2つの仮定的な祖先遺伝子プール、つまりイングランドIAもしくはニーダーザクセンEMA間の混合の産物としては説明できない個体のゲノムが含まれる、と分かりました。代わりに、これらのゲノムは追加の大陸部ヨーロッパ西部および南部祖先系統を有しています。この祖先系統は遺伝的に、フランスの鉄器時代個体のゲノム(フランスIA)とひじょうによく類似しています(関連記事1および関連記事2)。このフランスIA由来の祖先系統の大半は、中世前期イングランド南東部、つまりアップル・ダウンとイーストリーとドーヴァー・バックランドとルーケリ・ヒル(Rookery Hill)で見つかり、これらの遺跡の個体群では、フランスIA由来の祖先系統は特定された祖先系統の最大51%を構成しています。

 中世前期イングランドにおけるフランスIA関連祖先系統の出現は、現在のイングランドの人口構造で明確に見られるパターンを先取りしており、そのパターンでは、ほとんどのイングランド古代人に合致する同じ2方向のCNE・WBIモデルが現代の人口集団では適合しない、と分かりました。じっさい、現代のイングランドの人口集団に欠けている構成要素は、フランスIAによりよく表されているようです。

 qpAdmを用いると、ほとんどのスコットランドとウェールズとアイルランド島の現代人のゲノムは、青銅器時代もしくは鉄器時代の参照集団からその祖先系統の殆ど若しくは全てを継承し、大陸部ヨーロッパの寄与は殆ど若しくは全くないものとして、モデル化できます。対照的に、全てのイングランド現代人の標本については、単純な2方向混合モデル(イングランド後期鉄器時代+イングランドEMA_CNE)は失敗します。本論文のモデルを第三の構成要素としてフランスIAの追加で3方向モデルに拡張すると、今度は適合モデルが得られます。イングランド現代人の祖先系統の割合の範囲は、25〜47%のイングランドEMA_CNE的祖先系統と、11〜57%のイングランド後期鉄器時代(LIA)的祖先系統と、14〜43%のフランスIA的祖先系統と推定されます。

 イングランドの地域間ではかなりの遺伝的違いがあり(図5a)、ウェールズとの境界に沿って南西部および北西部では、古代大陸部ヨーロッパ祖先系統(イングランドEMA_CNEもしくはフランスIA関連)が少なくなっていることは明らかです(図5c)。対照的に、イングランドの南東部と東部と中央部、とくにサセックスとイースト・ミッドランドとイースト・アングリアでは、最大47%のCNE的祖先系統の最高点が見られます。イングランドでのみかなりのフランスIA祖先系統が見つかりましたが、ウェールズやスコットランドやアイルランド島では見つからず、これはブリテン島の東西の勾配に従っており、イースト・アングリアではフランスIA祖先系統が43%も占めています(図5d)。

 ひじょうによく似た結果が、CNE祖先系統の供給源としてニーダーザクセンEMAを用いて得られました。この分析における潜在的な警告は、イングランドのローマ期標本が比較的疎らであることです。ローマ期イングランドではとくに、既存のフランスIA関連祖先系統を有しているかもしれない南部の標本が欠けています。したがって、本論文が次に目を向けたのは、ドーセットの南岸に位置するワース・マトラヴァーズ(Worth Matravers)のローマ期後の墓地である、中世前期遺跡です。この遺跡の個体群はほぼCNE祖先系統を有していないので(平均で6%未満)、CNE祖先系統の到来前のローマ期後のブリテン島にとってより時間的に近い代理として機能するかもしれません。

 本論文のモデルで供給源として用いると、現在のイングランドにおけるフランスIA関連祖先系統の推定値は、地域全体で平均して3%未満しか変化しない、と分かりました。これは、フランスIA関連祖先系統がローマ期後にかなりの量イングランドに入ってきたことを示唆します。イングランドにおけるヨーロッパ南部もしくは西部的祖先系統を含むモデルは、現代人の標本に基づいて以前に提案されましたが、この第三の構成要素を、本論文で対象とされたイングランドの中世前期個体群の大半を構成するCNE的移民遺伝子プールに対して、今ではさらに進めて明確に描けることに、要注意です。以下は本論文の図5です。
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 現在のイングランドに関する本論文の3方向人口モデルは、ローマ期後のイングランドの遺伝的歴史が、少なくとも2つの主要な供給源からの遺伝子流動により中断された、という見解を裏づけます。それは第一に、中世前期におけるドイツ北部とオランダとデンマークからのCNE祖先系統到来の証明で、第二に、フランスIAと関連する祖先系統の到来です。それらの祖先系統の順番を正確に年代測定できませんが、フランスIA関連祖先系統の少なくともかなりの量は、中世前期にはイングランド北部および東部において欠けていたようなので、その後に到来したに違いありません。

 しかし、イングランドの他地域では、フランスIA関連祖先系統はCNE祖先系統とともに、あるいはそれより早く入ってきたかもしれません。とくにイングランド南部、つまりイーストリーとアップル・ダウンとルーケリ・ヒルでは、中世前期の数個体がすでにフランスIA関連祖先系統を示しており、それは恐らく、少なくとも部分的には、中世前期におけるイングランド南部とヨーロッパのフランク地域との間の局所的な移動の結果です。じっさい、フランクの物質文化はこれらの地域、とくにケントとサセックスにおいて明らかです。したがって、第二の供給源からの混合は、単一の不連続の波の結果である可能性は低そうです。より妥当なのは、この混合が移民の波動もしくはイングランド東部とその近隣地域との間の継続的な遺伝子流動の結果だった、ということです。


●考察

 「アングロ・サクソン人の植民」は、イギリス史において最も激しく議論された問題の一つですが、その議論のほとんどは、ベーダの教会史とアングロ・サクソン年代記の内容に留まっています。これら初期の文献は植民を、5〜6世紀におけるローマ帝国統治の直後と結びつく、単一事象もはくは一連の事象として定義しました。考古学および歴史学の議論では、命名されたゲルマン民族の民族移動として知られるアドウェントゥス・サクソヌム(Adventus Saxonum)か、侵略か、エリート男性移民の限定的な人数の移動として、程度の差はあれども記述されてきました。今日まで、移住の規模、地元民と新参者との間の相互作用の様式、あるいは社会や物質や言語や宗教領域の変容がどのように達成されたのかについて、ほとんど合意に達していません。

 本論文は、北海地帯全域の大規模な中世前期の移住の強力な証拠を提供し、時間的範囲を拡大します。とくに本論文で示されるのは、ローマ帝国後期の状況のCNE祖先系統を有する個体により証明されているように移住は以前の推定より早く始まり、中期アングロ・サクソン時代を通じて続いた、ということです。セッジフォード(Sedgeford)などサクソン中期遺跡群から得られた本論文の結果は、CNE祖先系統到来の推定年代を8世紀にさかのぼらせ、これらの事象をスウェーデンと他のスカンジナビア半島地域からの個人間の移動と統合します。まとめると、これらの移住は、ローマ帝国後期から11世紀にかけての、北海全域からブリテン島への人々の連続的な移動の一部だったようです。

 本論文の結果は、イングランドにおける中世前期社会の形成が単純に少数のエリートの移住の結果ではなかったものの、遠方からの大規模な移住もかなりの役割を果たしたに違いない、という見解を断然支持しています。本論文は、大陸部ヨーロッパ祖先系統のみの多くの個体を特定し、その多くは移民自身だったか、混合していない移民の子孫だった、と示唆されます。男性への偏りの遺伝的証拠の欠如と、祖先系統と考古学的特徴との間の相関は両方、女性がこの移住の重要な要因だったことを示します。

 移民と在来の祖先系統を有する男性は類似の方法で埋葬されましたが、移民の祖先系統を有する女性は、在来祖先系統の女性よりも副葬品を伴って見つかることが多くありました。これは社会的階層化を示しているか、在来祖先系統の女性が新興のCNE家族に統合された程度を単純に反映しているかもしれません。しかし明確なのは、男性の埋葬においてこのパターンの違いが見つからなかったことを考慮すると、これらの社会的違いは微妙で、有意な地域的および遺跡水準での違いが見つかった、ということです。この移住の社会的機序についての以前の仮説は、部分的な社会的隔離か、エリートの移住か、かなりの人口置換か、移住が全くなかったことを含んでいました。本論文の組み合わされた遺伝学と考古学の分析は、複雑で地域的に偶発的な移住を示し、それは、おそらく特定の家族とその個々の構成員の繁栄に依拠していた、部分的な統合を伴っていました。

 現在のブリテン島では、中世前期より低水準でも、かなりの大陸部ヨーロッパ北部祖先系統が見られ、「アングロ・サクソン」の移住の永続的な人口統計学的影響を示しています。具体的には、中世前期のイングランド西部とウェールズとスコットランド、およびより一般的にノルマン期のイングランドでは、さらなる古代DNA標本抽出が、CNE祖先系統がどのように拡大し、その後に希釈されたのか、明らかにできるかもしれません。本論文で見つかった、大陸部ヨーロッパ北西部の人々のかなりの中世前期の移民を超えて、現代のブリテン島における、ヨーロッパ南部および西部の供給源からの、大陸部ヨーロッパ祖先系統の第二の主要な供給源も特定されました。この第二の祖先系統構成要素は、本論文の中世前期標本にすでに存在しています。具体的にはイングランド南東部において、いくつかの遺跡の個体は、現代のドイツ西部とベルギーおよびもしくはフランスで最も密接に一致する祖先系統を示しており、それはこれらの地域の考古学的記録で見られるフランクとのつながりと一致します。本論文のデータ分析から、この第二の遺伝子移入はさらに中世へと続き、それを超えた可能性がある、と示唆されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


人類学:英国人の祖先を調べる

 アングロ・サクソン時代に大勢の人々が現在のドイツ、オランダ、デンマークから北海を渡ってブリテン島に移住したことにより、中世初期のイングランドの人口に占めるヨーロッパ系の人々の割合が最大76%まで上昇した可能性があることを報告する論文が、Nature に掲載される。この研究知見は、ヨーロッパ大陸からの移住が中世初期のイングランドの社会の形成に影響したことを示唆している。

 イギリス諸島とアイルランドの歴史には、文化が大きく変化した時代がいくつもあり、その1つがローマ時代に続く時代で、言語、居住形態、製造、建築、農業などが変化した。しかし、こうした文化的移行にヨーロッパ大陸からの移住がどの程度関係していたのかを理解することは依然として難しい。これまでの全ゲノム研究は、英国人の祖先を評価するために現代の英国人に着目してきたが、現代の英国人は遺伝子構成の分かっていない古代集団の代表例ではない可能性がある。

 今回、Stephan Schiffels、Duncan Sayerたちは、現代の英国の人口動態を調べるために、西暦200年から1300年の間と年代決定されたヨーロッパ北西部の人々460人(イングランドで生活していた278人を含む)の考古学的データとゲノム全体の古代DNAを調べた。その結果、中世初期のイングランドで、中世初期と現代のドイツとデンマークの住民と近縁関係にあるヨーロッパ大陸北部系の人々が増えたことが判明した。分析対象となったイングランド東部の人々は、その祖先の最大76%がヨーロッパ大陸の北海地域の出身者だった。その後発生した人口統計学的事象によって、ヨーロッパ大陸北部系の人々の比率が低下し、鉄器時代のフランスで発見された人々に類似したヨーロッパ南西部の人々のような新しい構成員が加わったことが判明した。また、移住民を祖先に持つ女性は、地元民を祖先に持つ女性よりもブローチなどの副葬品と一緒に埋葬された可能性が高いことも分かった。一方、武器を持っていた男性の場合は、地元民を祖先に持つ者の割合と移民を祖先に持つ者の割合が同程度だった。

 Schiffelsたちは、現代の英国には、中世初期の頃よりも低いレベルではあるが、ヨーロッパ大陸北部系の人々がかなり残っており、アングロ・サクソン人の移住による人口統計学的影響が永続しているという見解を示している。


進化遺伝学:アングロ・サクソン人の移住と初期のイングランド人遺伝子プールの形成

進化遺伝学:中世のブリテン島における人口動態

 今回、新たな古遺伝学研究によって、ブリテン島ではアングロ・サクソンの時代、大陸に由来する系統が最大76%まで増加したことが示された。これは、大陸ヨーロッパから北海を越えた大規模な移住があったこととつじつまが合う。


参考文献:
Gretzinger J. et al.(2022): The Anglo-Saxon migration and the formation of the early English gene pool. Nature, 610, 7930, 112–119.
https://doi.org/10.1038/s41586-022-05247-2


https://sicambre.seesaa.net/article/202210article_16.html

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