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ヤグノブ人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/310.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 9 月 03 日 16:59:46: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: アーリア人の起源 投稿者 中川隆 日時 2020 年 9 月 02 日 07:20:02)

ヤグノブ人の起源


雑記帳 2019年10月14日
ヤグノブ人の遺伝的歴史
https://sicambre.at.webry.info/201910/article_28.html


 ヤグノブ人(Yaghnobis)の遺伝的歴史に関する研究(Cilli et al., 2019)が公表されました。アジア中央部は長きにわたって人類集団・遺伝子・言語・文化・商品の重要な経路・交差点となってきました。アジア中央部の歴史は、異なる人類集団の大規模な移動により特徴づけられ、最終氷期極大期(LGM)後に活発化し、新石器時代と青銅器時代にかなりの程度に達し、古代および中世までじょじょに増加していきました。アジア南部とヨーロッパには、青銅器時代にユーラシア中央部の草原地帯より遊牧民集団が拡大し、大きな遺伝的影響を残した、と推定されています。中世にはテュルク系の大移動やモンゴルの急速な拡大もありましたが、その激しい人類集団移動のため、アジア中央部の歴史の大半は複雑で未解明の点も多く、議論が続いています。

 このように複雑な形成史を有するアジア中央部集団の中で、ヤグノブ人は民族言語的および遺伝的観点の両方からひじょうに注目されています。ヤグノブ人は、中期イラン諸語の一つであるソグド語の直系と考えられているヤグノブ語話者なので、古代の遺伝的構成を保持しているのではないか、とも推測されていますが、ヤグノブ語の文献は19世紀後半までしかさかのぼらず、未解明の点が少なくありません。現在、ヤグノブ人は孤立した民族言語集団で、海抜2200〜2600mに位置するタジキスタンのザラフシャン渓谷(Zarafshan Valley)上流のヤグノブ川(Yaghnob River)沿いに、歴史的に居住してきました。ただ、ソ連統治時代に一部が移住させられたこともありました。ヤグノブ川の上流はかなりの降雪量とネメトコン(Nemetkon)村以後の道路の欠如のため、1年のうち数ヶ月は事実上通行不能となります。

 地理的な孤立により、ヤグノブ川流域の人々は独自の言語・文化・生活様式とおそらくは遺伝的構成を何世紀にもわたって維持してきた、とも考えられます。ヤグノブ人は遺伝的に、イスラム教拡大前のイラン人と関連しているかもしれないとしても、今はイスラム教徒です。ヤグノブ人は現在500人未満と推定されており、21の村に居住し、農耕で生計を立てています。これまで、ヤグノブ人の遺伝的歴史はじゅうぶんには調査されておらず、標本数や精度に問題がありました。また、ヤグノブ渓谷外のヤグノブ人が調査対象となったことも本論文は指摘しています。本論文は、ヤグノブ川流域のヤグノブ人88人(ヤグノブ川流域のヤグノブ人の約2割)のDNAを解析し、常染色体だけではなくミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体DNAも対象として、mtDNAハプログループ(mtHg)とY染色体ハプログループ(YHg)を決定しました。

 mtDNAの分析では、アジア中央部集団はおおむねアジア東部集団と中東の中間に位置します。また、アジア中央部集団とアジア南部集団との違いも明確に示されます。しかし、ヤグノブ人は近隣のタジク人などアジア中央部の他集団とは異なり、中東集団に近縁です。ヤグノブ人のmtHgでは、ユーラシア西部集団に多いH(19.1%程度)とHV(38.2%程度)が多く、ユーラシア西部には基本的に見られないmtHg-Mの派生系統がほとんど存在しません。

 Y染色体DNAの分析でも、ヤグノブ人はタジク人などアジア中央部集団とは異なる分布を示し、アジア中央部集団と中東集団の間に、分散して位置づけられます。ヤグノブ人のYHgでは、中東に典型的なJ2とヨーロッパ東部およびアジア中央部に典型的なR1aがそれぞれ約30%ずつ、ヨーロッパ西部に多くアジア東部で欠けているR1bが約21%、多くのサブハプログループの祖となるKが約12%を占めます。ヤグノブ人のYHgではその他に、おもにアフリカや中東で見られるE1b1bもわずかながら見られます。

 常染色体の一塩基多型の分析では、ヤグノブ人は個体内のホモ接合性のひじょうに高い水準を示しました。これはミトコンドリアやY染色体と同じく多様性の減少を示しており、ヤグノブ人が長期にわたって孤立し、強い遺伝的浮動を経験した、という仮説のさらなる証拠となります。古代人を除いた場合、常染色体ではヨーロッパ集団からアジア東部集団への大まかな勾配が示され、ヨーロッパ集団とアジア南部集団も区別されます。ヤグノブ人はイラン人とタジク人(テュルク系)との中間に位置し、何人かはタジク人とわずかに重なります。ヤグノブ人に関しては全体的に、常染色体のデータはミトコンドリアのデータよりもY染色体のデータの方と一致します。

 古代人のゲノムデータも参照すると、ヤグノブ人の系統のうち新石器時代イラン系統が平均して44%を占め、これは現代イラン人の46%とほぼ同じです。しかし、ヤグノブ人と現代イラン人とでは古代人系統の比率の明確な違いも見られ、前期〜中期青銅器時代草原地帯系統がヤグノブ人では32%にたいして現代イラン人では11%、新石器時代アナトリア農耕民系統がヤグノブ人では8%にたいして現代イラン人では25%を占めます。タジク人は現代イラン人よりもヤグノブ人に近いものの、集団内ではかなりの変異を示します。たとえば、アジア東部系の比率では、一部のタジク人がヤグノブ人よりも高いのにたいして、他のタジク人はヤグノブ人と同程度です。ヤグノブ人とタジク人のおもな違いはアジア南部系統と新石器時代イラン系統の割合の違いで、ヤグノブ人ではそれぞれ10%と44%にたいして、タジク人ではそれぞれ21%と30%になります。ヤグノブ人とタジク人は相互にユーラシアの他の集団とよりも類似しており、これは両者の間の最近の遺伝子流動を反映している、と推測されます。

 本論文は、mtDNAとY染色体および常染色体の一塩基多型を用いて、ヤグノブ人の歴史を推測しました。上述のように、ヤグノブ人は母系ではおもにユーラシア西部系となり、中東集団との古代のつながりを示します。これは、ヤグノブ人の長期の孤立と、男性に偏っていた稀な遺伝子流動事象が比較的最近起きたことを示唆します。言語学でも、ヤグノブ語はイラン語群に位置づけられます。男性に偏っていた遺伝子流動は、ヤグノブ人のY染色体が中東集団よりもアジア中央部集団と近い関係を示すことでも特徴づけられます。ただ、上述のようにヤグノブ人は父系でも他のアジア中央部集団と明確に区別できる特徴を示すため、その形成史は複雑です。こうした特徴は、ヤグノブ人における孤立の影響の可能性を示します。

 Y染色体やミトコンドリアといった片親性の遺伝的パターンは、小さな効果の集団規模によりある程度歪められるかもしれないので、本論文は常染色体全体を調査しました。上述のように、その結果、常染色体のデータはmtDNAのデータよりもY染色体DNAデータの方と一致します。常染色体データでは、ヤグノブ人はアジア中央部集団と中東集団との間に位置しますが、さらに、イラン人よりもタジク人の方に近縁と示されています。これは上述のように、イラン人と比較してヤグノブ人の方でアナトリア農耕民系統の割合が低く、逆に前期〜中期青銅器時代草原地帯系統の割合ではイラン人の方がタジク人よりも低いことを反映しています。ただ、イラン人のデータがイラン全体の集団を反映しているのか、という問題が残っている、と本論文は注意を喚起します。ヤグノブ人とタジク人の類似性は示されていますが、上述のように、アジア南部系統と新石器時代イラン系統の割合の違いは、ヤグノブ人とタジク人が遺伝的に明確に区別できることを示しており、これはヤグノブ人の長期的な孤立による古代の遺伝的構成の保存を反映している、と推測されます。

 アジア中央部集団におけるアジア東部系の遺伝的影響の原因としては、テュルク系やモンゴル系の東進が想定されます。ヤグノブ人に見られるアラブ系集団との混合に関して、本論文はイスラム教勢力のアジア中央部への拡散との関連を推測しています。また、サハラ砂漠以南のアフリカ系の遺伝的影響が、イスラム勢力による奴隷貿易の結果として中東とアジア中央部にもたらされた可能性も指摘されています。北アメリカ大陸の事例もそうですが(関連記事)、遺伝学は過去の奴隷貿易の痕跡を示す方法も提供できます。

 ヤグノブ人は、近隣のタジク人集団との最近の遺伝子流動を除いて、長期的に孤立していたか、他のアジア中央部集団との遺伝子流動の水準が低かった、と推測されます。これは、上述した孤立しがちな地形での居住と一致しており、ヤグノブ人が遺伝的・言語的に長期にわたって独特な性格を維持し続けた理由と考えられます。しかし本論文は、ヤグノブ人の遺伝的構成から、かつてヤグノブ人の母体となった集団は広範な地域に存在していただろう、と推測しています。その中から、ヤグノブ人の直接的な祖先集団は孤立した地域に定住したため、その後の大規模な人類集団の移動の影響をあまり受けず、古代の遺伝的構成を比較的よく保持していただろう、というわけです。より詳細なヤグノブ人の歴史は、アジア中央部、とくにソグド人居住地の古代DNA研究により明らかになっていくだろう、との見通しを本論文は提示しています。


参考文献:
Cilli E. et al.(2019): The genetic legacy of the Yaghnobis: A witness of an ancient Eurasian ancestry in the historically reshuffled central Asian gene pool. American Journal of Physical Anthropology, 168, 4, 717–728.
https://doi.org/10.1002/ajpa.23789

https://sicambre.at.webry.info/201910/article_28.html  

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コメント
1. 中川隆[-14156] koaQ7Jey 2022年1月18日 05:05:15 : 3ECNedPwGs : RnhEczdWSW94cW8=[4] 報告

2022年01月18日
アジア中央部南方の現代人集団の鉄器時代以降の遺伝的連続性の検証
https://sicambre.at.webry.info/202201/article_19.html


 アジア中央部南方の現代人集団の鉄器時代以降の遺伝的連続性に関する研究(Guarino-Vignon et al., 2022)が公表されました。アジア中央部は、西方のカスピ海から東方のバイカル湖にかけての、現在のタジキスタンとカザフスタンとトルクメニスタンとウズベキスタンとキルギスとアフガニスタン北部を含む広範な地域です。アジア中央部は、現生人類(Homo sapiens)がアフリカから拡散して以降、移住経路の岐路に立っており、ヒトの長期の存在と豊かな歴史と高い文化的多様性をもたらしています。

 実例として、紀元前6000年頃のジェイトウン(Djeitun)文化以来の農牧共同体は、銅器時代(紀元前4800〜紀元前3000年頃)により密集した村落の出現と感慨農耕の敷地に置換されました。中期青銅器時代には、バクトリア・ マルギアナ考古学複合(Bactrio Margian Archaeological Complex、以下BMAC)文化がアジア中央部南方において繁栄し、特徴的な都会的都市の雛型や強力な感慨技術や顕著な社会的階層を伴いました。

 牧畜遊牧民の生活様式は、後にアジア中央部北方で紀元前3000年頃に出現し、後期青銅器時代(紀元前2400〜紀元前2000年頃)にはアジア中央部南方で重要性を増しました。紀元前1800年頃となる青銅器時代末に、オクサス(Oxus)文化はその最終段階において次のような重要な変化を経ました。同じ伝統を維持しながら、物質文化は貧しくなり、一部の土器形態や工芸品は消滅しました。一部の居住地は放棄され、記念碑的建築物は消滅し、技術発展の水準は低下したようです。以前の最盛期には盛んだった「国際」交易は、アジア中央部北方の草原地帯との接触を除いて、大きく減速するか、停止さえしました。葬儀の慣行は、観念形態(イデオロギー)の発展と関連しているかもしれない、前期鉄器時代における埋葬の完全な消滅前に、新たな埋葬様式の出現とともに変わりました。

 その後、紀元前1800〜紀元前1500年頃に、アンドロノヴォ(Andronovo)的文化に継承され、それはヤズ(Yaz)文化の台頭まで続きました。その後アジア中央部では、シルクロードに沿って交易の中心地になる前後に、ハカーマニシュ朝やギリシアやパルティアやサーサーン朝やアラブの人々の東方への征服と、フン人や匈奴やモンゴルなどさまざまなアジアの人々の西方への移動があり、とくにサーサーン朝期とイスラム教勢力の侵略の後には移動と征服が盛んでした。

 現在、アジア中央部の複雑な人口史は混合の遺伝的多様性をもたらし、現代のアジア中央部人口集団は二つの文化的に異なる集団に区分されます。一方の集団は、キルギス人やカザフ人などテュルク語族とモンゴル語族話者の半遊牧民の人口集団で、アジア東部およびシベリアの人口集団と遺伝的類似性を示します。もう一方の集団はアジア中央部南方に居住するタジク人とヤグノブ人により構成され、インド・イラン語派の言語を話し、農耕を行なって定住しており、遺伝的には現代のユーラシア西部人口集団とイラン人により類似しておりヤグノブ人は長期にわたって最近の混合の証拠がなく孤立してきた、と知られていいます(関連記事)。

 現代人のDNA研究では、インド・イラン語派集団はテュルク・モンゴル集団の前に、おそらくは早くも新石器時代にはアジア中央部に存在していた、と示唆されます。テュルク・モンゴル集団は、在来のインド・イラン集団およびシベリア南部集団もしくはモンゴル集団と関連する集団間の混合の後で出現し、アジア東部祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を約60%有する、と現代人のDNA研究では示唆されています(関連記事)。しかし、トルクメン人は、インド・イラン集団と中間的である点で遺伝的に際立っており、おそらくはほぼ支配層の主導による言語置換を通じての、最近の言語と文化の変化を示唆します。

 古遺伝学的研究で確証されたのは、草原地帯人口集団が重要な役割を果たした、複数の移住の波と混合事象が、過去1万年にユーラシアで起きた、ということです(関連記事)。ヨーロッパの定住は広く研究されていますが(関連記事)、アジア中央部の人口史を調べた研究はわずかしかなく、アジア中央部南方に焦点を当てた研究はさらに少なくなります。アジア中央部北方(カザフスタンとロシア南部)については、遺伝学的研究が後期新石器時代以来の東方と西方への移動を明らかにしており(関連記事1および関連記事2)、ユーラシア西部草原地帯の遺伝的祖先系統の勾配が生じました。古代のゲノムデータのほとんどが後期新石器時代から青銅器時代にさかのぼるアジア中央部南方では、BMAC人口集団がイラン南部の古代人口集団と強く関連しており、一部の個体は追加の草原地帯祖先系統を有する、と示されました(関連記事)。

 しかし、現代のインド・イラン語派話者人口集団と、アジア中央部南方の古代の人口集団との間の関係は依然として不明です。現代のインド・イラン語派話者の遺伝的起源は何ですか?人口集団の特定の言語集団では一つもしくは幾つかの異なる人口史がありますか?この物語におけるトルクメン人の役割は何ですか?古遺伝学的研究は、これら人口集団の起源調査のための手段をもたらしました。現代のインド・イラン語派話者の起源をそのテュルク語族とモンゴル語族の近隣集団との関連において調べるため、現代の16人口集団(ヤグノブ人1集団、タジク人4集団、テュルク語族とモンゴル語族のアジア中央部とモンゴル西部とシベリア南部の11民族集団)およびユーラシアとアフリカの現代人1501個体のゲノムと、ユーラシアの既知の3109個体の古代人のゲノム(そのうち126個体はアジア中央部南方で発見されました)が共同で分析されました(図1a)。以下は本論文の図1です。
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●現代のインド・イラン語派話者の古代人標本との遺伝的類似性

 現在のアジア中央部個体群とユーラシアの古代人および現代人のゲノム多様性との間の関係を調べるため、まず1915個体の現代人のゲノムで主成分分析(Principal Component Analysis、略してPCA)が実行され、3102個体の古代人のゲノム規模データがそれに投影されました(図1b)。ユーラシア現代人の多様性について、上位3主成分(PC)はおもに現代人集団の地理的再分割に似ています。主成分1(分散の3%)はユーラシア東西間の個体群を、主成分2はアジア南部と現代ヨーロッパの個体群を、主成分3はアジア東部人のまとまりからバイカル湖集団を区別します。

 アジア中央部の現代のインド・イラン語派話者は最初の3主成分でまとまりますが、テュルク・モンゴル個体群は主成分3でインド・イラン個体群のまとまり(クラスタ)からバイカル湖標本群への勾配を形成し、地理ではなく文化的分類と一致します。しかし、下位構造がインド・イラン語派集団内でユーラシア西部のまとまりに密接に収まるヤグノブ人(TJY)とともに出現する一方で、タジク人集団(TJAとTHEとTAB)はバイカル湖のまとまりに向かって伸びており、幾分の追加となるアジア東部もしくはバイカル湖狩猟採集民(BHG)との近接性を示唆します。

 青銅器時代(BA)と鉄器時代(IA)と歴史時代の古代の個体群は、ヨーロッパからアジア東部の集団へと伸びる勾配上に位置します。ユーラシア西部草原地帯個体群は、ヨーロッパ人のまとまりの底と、ユーラシア西部草原地帯のまとまりからバイカル湖およびシベリアの現代人に近いオクネヴォ(Okunevo)文化青銅器時代個体群のまとまりへと広がる、ユーラシア中央部草原地帯個体群とでまとまっています。アジア中央部南方の古代の個体群(新石器時代と青銅器時代と鉄器時代)は、新石器時代(N)イラン個体群(イランN)から現代のイラン人およびヤグノブ人へと延びる勾配をたどります。

 対照的に、トルクメニスタンIAとクシロフ・クシャン(Ksirov_Kushan)遺跡個体群から構成される鉄器時代標本群は、現代インド・イラン語派人口集団の近くに位置しますが、第1軸でのわずかに負の値と第3軸の正の値は、インド・イラン語派現代人におけるバイカル湖祖先系統の追加を示唆します。この主成分分析(図1c)から、古代と現代のアジア中央部のインド・イラン語派人口集団は、新石器時代イラン農耕民とアジア中央部青銅器時代個体群との間で勾配を形成しているように見え、以前の研究で観察されたように(関連記事)、青銅器時代と鉄器時代との間での草原地帯へと向かう祖先系統の明確な変化と、鉄器時代と現代との間でのアジア東部祖先系統へのより小さな変化があります。この変化は、ヤグノブ人よりもタジク人の方でより顕著です。

 本論文の最初の観察結果を確認し、遺伝的構造を識別するため、主成分分析と同じデータセットでADMIXTUREを用いて教師なしクラスタ化分析が実行されました(図2)。主成分分析と一致して、全てのインド・イラン語派話者現代人で、イラン新石器時代農耕民で最大化される遺伝的構成要素(イランN、図2の濃緑色、平均値はヤグノブ人で37%、タジク人で25%)、ヨーロッパ東部狩猟採集民(EEHG)とスカンジナビア半島西部狩猟採集民(WSHG)で最大化される構成要素(図2の薄緑色、平均値はヤグノブ人で13%、タジク人で10%)、本論文のデータセットのどの人口集団でも完全には最大化されないものの、ヨーロッパ現代人とアナトリア半島新石器時代農耕民(アナトリアN)で見られる全ての第三の構成要素(図2の濃青色、平均値はヤグノブ人で36%、タジク人で29%)の存在が証明されます。

 さらに、シベリアのシャマンカ(Shamanka)遺跡の前期新石器時代(EN)個体に代表されるバイカル湖狩猟採集民(BHG)で最大化され、全ての現代のテュルク・モンゴル人口集団にほとんど存在する第四の構成要素(図2の赤色、平均50%)も、現代のインド・イラン語派人口集団により低い程度で存在すると推測され、タジク人(平均値14%)よりもヤグノブ人(平均値7%)で顕著に低い割合となっています。最後に、タジク人は、アジア中央部のテュルク語族およびモンゴル語族話者人口集団の全てで存在するアジア東部現代人祖先系統(図2の桃色構成要素、漢人集団で最大化されます)の小さな割合(4%)と、現代のアジア南部人口集団で最大化される構成要素(図2の橙色、約8%)を示し、両方の祖先系統はヤグノブ人では欠けています。以下は本論文の図2です。
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 ADMIXTURE分析も、古代人集団に関する主成分分析と一致します。じっさい、鉄器時代のアジア中央部南方個体群はヤグノブ人と顕著に類似した特性を示します。たとえば、トルクメニスタンIAと分類された1個体は、WSHG/EEHG構成要素を約25%、イランN構成要素を30%、アナトリア半島農耕民祖先系統構成要素を35%の割合で有していますが、BHG祖先系統は欠けています(図2)。青銅器時代ユーラシア中央部草原地帯牧畜民は、イラン祖先系統での顕著な増加を除いて同様の特性を示し、ユーラシア西部草原地帯牧畜民は、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WEHG)で最大化される薄茶色(ベージュ)構成要素を有しており、これは現代のインド・イラン語派人口集団では欠けています。したがって、現代のインド・イラン語派話者人口集団は、トルクメニスタン鉄器時代個体群とひじょうによく似ており、アジア東部および南部集団からの流入は限定的で、ユーラシア中央部草原地帯とアジア中央部南方の青銅器時代人口集団間の中間として現れます。


●インド・イラン語派話者内の人口集団の連続性

 インド・イラン語派話者人口集団の遺伝的供給源における鉄器時代アジア中央部南方個体群との遺伝的継続性およびバイカル湖関連人口集団との限定的な混合を検証するため、D統計とf3統計とqpAdmモデル化が、主成分分析およびADMIXTUREで用いられた同じデータセットと、ヤグノブ人3個体(TJY)とタジク人19個体(TJE)とトルクメン人24個体(TUR)のショットガン配列で形成されたデータセットと、70万ヶ所の一塩基多型の最終セットの古代ゲノムで形成されたデータセットで実行されました。

 その結果、本論文のデータセットの全ての古代の人口集団について、D統計(ムブティ人、古代人集団;トルクメニスタンIA、インド・イラン語派現代人)の計算により、鉄器時代以降に起きた遺伝子流動が特定され、特徴づけられました(図3)。これらの統計は、遺伝子流動が古代の人口集団からインド・イラン語派現代人へと起きた場合、正になると予測されます。ヤグノブ人の場合、アジア東部人口集団に遺伝的に近いネパールのチョクホパニ(Chokhopani)遺跡の鉄器時代の1個体(2700年前頃)のみが、有意に正のD統計を示します。

 タジク人個体群(TJE)はD統計が正のより多い数の古代の人口集団(41個体)を示し、これら古代の人口集団の共通の特徴は大量のBHG祖先系統を示すことで、ADMIXTURE分析と一致します(図2)。ただ、タジク人は、アジア南部とのつながりの可能性を示すインドの歴史時代の1個体(大アンダマン人)と正のD統計を示すことにも要注意です(図3)。したがって、現代のインド・イラン語派人口集団は、早くも鉄器時代のトルクメンに存在した集団と関連する集団の子孫で、BHG祖先系統と、ヤグノブ人を除いてのアジア南部人口集団からの寄与と、別のアジア東部人口集団からの寄与がありました。以下は本論文の図3です。
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 次に、D統計で検出された寄与が鉄器時代以降に起きた混合事象に起因するのかどうか、検証されました。まず、f3統計(TJY/TJA/TJE/TAB;供給源1、供給源2)が計算され、インド・イラン語派人口集団が2供給源間の混合としてモデル化できるならば、負の値が予測されます。匈奴のようなアジア東部祖先系統からの人口集団と、イランNやアナトリア半島農耕民や草原地帯の祖先系統などADMIXTURE分析(図2)で見られる構成要素を表すより西方の人口集団を示唆する組み合わせのみが有意でした。これらの統計は、おそらくはイランNとBMACとアナトリア半島初期農耕民と青銅器時代草原地帯の祖先系統を示す人口集団と、BHG祖先系統との強い類似性を有する人口集団との間の、じっさいの混合存在を証明します。

 ヤグノブ人集団はタジク人集団よりも負のf3統計を有する組み合わせが有意に少なく、それは恐らく長期の孤立に起因します。f3統計(TJY/TJA/TJE/TAB;古代の人口集団、トルクメニスタンIA)でも具体的に計算され、インド・イラン語派話者が鉄器時代トルクメニスタン人口集団とBHG関連人口集団の混合としてモデル化に成功できると示す、正のD統計で示唆された同じ古代の人口集団とともに、いくつかのf3統計は常に得られました。

 次に、qpAdmを用いてヤグノブ人集団とタジク人集団がモデル化され、混合の割合が推定されました。どの代理の人口集団が本論文のモデルで最適なのか検証するために回転法が用いられ、p値が0.01以下の全ての組み合わせが除外されました。ヤグノブ人の場合、維持された唯一のモデルは、トルクメニスタンIA(88〜93%)と匈奴祖先系統(7〜12%)の混合でした。3方向モデル化では、TJYについて異なるモデルを却下できませんでした。それは、トルクメニスタンIA関連祖先系統(90%)と匈奴関連祖先系統(7%)とヨーロッパENもしくはウクライナのスキタイ人の祖先系統(3%)の混合です。

 トルクメニスタンIAの起源でより古い混合を推測する、ウクライナのスキタイ人とBMACと匈奴のモデルも得られました。より多くの混合供給源について検証すると、2通りの4方向モデルと1通りの5方向モデルが得られました。興味深い一つのモデルは4方向モデルで、ウクライナのスキタイ人(17%)とトルクメニスタンIA(60%)とBMAC(14%)と匈奴(8%)の混合となり、つまり、このモデルはユーラシア西部草原地帯的な人口集団とのヤグノブ人の密接な類似性を示します。

 タジク人をモデル化するために、全ての2方向混合モデルが除外され、匈奴関連祖先系統(約17%)と、トルクメニスタンIA関連祖先系統(約75%)と、アジア南部における深い祖先系統を表す100年前頃のインドの大アンダマン人1個体に代表されるアジア南部個体(8%)の混合を示唆する、1通りの3方向混合モデルが得られました。

 したがって、qpAdmモデル化が示すのは、現在のインド・イラン語派話者の祖先系統の少なくとも90%は、BMACとの類似性を有するアジア中央部南方の鉄器時代個体群から継承されたとしてモデル化される、ということです。その結果、インド・イラン語派話者は、BHG祖先系統関連個体群との偶発的混合を伴う、鉄器時代以降の強い遺伝的連続性を示し、タジク人の場合、おそらくは鉄器時代後のアジア南部祖先系統関連人口集団との混合を示します。

 最後に、DATESを用いて混合事象以降の世代数が推定されました。ヤグノブ人の起源におけるトルクメニスタンIAと匈奴的人口集団との間の混合については、35±15世代前との推定が得られました。1世代29年とすると、この混合事象は1019±447年前にさかのぼります。タジク人(THEとTABとTJA)の場合、ユーラシア東西の混合について、546±138年前(18.8±4.7世代前)から907±617年前(31.2±21.3世代前)の推定年代が得られました。タジク人のアジア南部人口集団との混合については、944±300年前との推定年代も得られました。


●鉄器時代トルクメニスタン人の祖先系統

 以前の研究(関連記事)ですでに、トルクメニスタンIAはBMACといくつかの草原地帯人口集団との間の混合としてモデル化できる、と示されており、主成分分析(図1c)ではじっさい、トルクメニスタンIAは草原地帯勾配に位置します。しかし、草原地帯はアジア東部祖先系統の量に応じて、西部と中央部と東部というように、いくつかの集団に分割されます。ADMIXTURE分析は、赤色と薄紫色の構成要素(それぞれ、シベリア東部人口集団とアジア東部人口集団で最大化されます)の存在により草原地帯を西部と中央部の祖先系統に識別し、薄紫色の構成要素はトルクメニスタンIAでは欠けており、西部草原地帯との類似性を示唆します。

 それにも関わらず要注意なのは、アンドロノヴォ(Andronovo)文化もしくはシンタシュタ(Sintashta)文化の個体群も、中央部草原地帯として分類される一方で、この構成要素を欠いていることです。したがって、中央部草原地帯集団では、ひじょうに不均質で、カラスク(Karasuk)もしくはサカ中央部のようなアジア東部祖先系統や、アンドロノヴォ文化およびシンタシュタ文化個体のような他のより多くの西部草原地帯的祖先系統を有する人口集団が集まっています。

 さらに、BMAC もしくはユーラシア西部の古代の人口集団について、f3型式(ムブティ人;古代の人口集団、トルクメニスタンIA)のより高い外群f3統計が得られ、二重起源と西部との類似性が浮き彫りになります。この類似性はさらに、D統計(ムブティ人、トルクメニスタンIA;西部草原地帯、中央部草原地帯)で確証され、西部草原地帯人口集団が、サカ中央部やカラスクのようなアジア東部祖先系統を有する中央部草原地帯人口集団と対する場合、有意に負となります。

 D統計(ムブティ人、トルクメニスタンIA;狩猟採集民1、狩猟採集民2)では(狩猟採集民1と狩猟採集民2はWEHGかEEHGかWSHGかBHG)、BMACと混合した草原地帯人口集団はアジア東部もしくはバイカル湖構成要素が欠けている、と証明されました(図4)。じっさい、BHGが他の狩猟採集民集団と比較される場合のみ、有意なD統計が観察されました(図4)。狩猟採集民人口集団を用いると、最近の混合からの推論を回避できます。それにも関わらず、この水準でこの期間のさまざまな草原地帯集団のほとんどを区別できませんでした。これは、トルクメニスタンIAが、早ければ青銅器時代にいくつかの中央部草原地帯集団で観察されるアジア東部祖先系統を欠いている、と示唆します。以下は本論文の図4です。
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 最後に、qpAdmでトルクメニスタンIAをモデル化するために、BMACと混合したさまざまな草原地帯人口集団が検証されました。まず、西部草原地帯となるポルタフカ(Poltavka)文化およびスルブナヤ(Srubnaya)文化個体と、中央部草原地帯となるアンドロノヴォ文化と分類されたロシアの4個体で一式が構成され、D統計とf3統計で以前に浮き彫りにされたヨーロッパおよび西部草原地帯との類似性が推定されました。その結果、除外できなかった2供給源を有する1モデルだけが得られ、BMAC個体群(43%)とアンドロノヴォ文化個体群(57%)の混合が示唆され、アンドロノヴォ文化個体群は、BMAC個体群と混合して鉄器時代アジア中央部南方集団を形成した草原地帯人口集団にとって、最良の代理と提案されます。

 アジアとの類似性を推定するために、アンドロノヴォ文化個体群とカラスク文化個体群(アジア東部構成要素を有する中央部草原地帯個体群)との間で最良のモデルについて検証すると、単一の適合/関連モデルが得られ、ほぼ同じ割合を有するアンドロノヴォ文化個体群が示唆されます。さらなる検証で、遺伝的に近い2人口集団であるアンドロノヴォ文化個体群とシンタシュタ文化個体群との間の最良のモデルが調べられ、唯一の有意な結果は、同じ割合でのアンドロノヴォ文化個体群とBMAC個体群とのものでした。

 最終的に、アンドロノヴォ文化と分類された個体群と、アンドロノヴォ複合に分類される2つの人口集団、つまりフゥドロヴォ・ショインディコ(Fedorovo Shoindykol)とアラクル・リサコスフスキー(Alakul Lisakovskiy)との間のモデルが検証されました。再度、唯一の有効なモデルは、アンドロノヴォ文化個体群とBMAC個体群とのものでした。全体的に言えるのは、アジア中央部南方の鉄器時代人口集団は、BMAC個体群と、アジア東部との類似性を有する中央部草原地帯よりも西部草原地帯の方と類似性を有する特性を示す、アンドロノヴォ文化個体群に近い(カラスク文化個体群のような)青銅器時代人口集団との混合から生じた、ということです。


●トルクメン人の歴史

 テュルク語族言語を話し、他のテュルク・モンゴル民族集団と同じ文化的習慣を有しているにも関わらず、トルクメン人は遺伝的にテュルク語族話者やモンゴル語族話者よりもインド・イラン語派話者人口集団の方と近い、と示されています。じっさい、トルクメン人(TUR)は、主成分分析ではタジク人のまとまりに収まり、テュルク語族話者やモンゴル語族話者の勾配には収まらず(図1)、ADMIXTURE分析(図2)では、トルクメン人を除いてアジア中央部の全てのテュルク語族およびモンゴル語族人口集団は、バイカル湖祖先系統(図2の赤色構成要素、平均50%)とアジア東部祖先系統(図2の桃色、漢人集団で最大化されます)の有意な高い量を示します。一方、トルクメン人は完全に異なるパターンを示し、タジク人の割合(平均15%)と近いバイカル湖構成要素(平均22%)を有していますが、アジア東部構成要素はほとんどありません。トルクメン人は、タジク人ほどには多くのアジア南部関連祖先系統を示さず、アジア南部人口集団との混合が、インド・イラン語派集団の残りからタジク人が分岐した後に起きたか、継続したことを示唆します。

 外群f3統計(ムブティ人;古代の人口集団、現在の人口集団)に基づいて、最初のデータセットのトルクメン人を含むすべてのアジア中央部人口集団について、古代の人口集団との遺伝的類似性の特性が確立されました(図5)。あらゆる古代の人口集団とトルクメン人を比較する外群f3統計値は、あらゆる古代の人口集団とタジク人を比較するそれと相関します(図5A)。一方、東部草原地帯集団およびバイカル湖集団をテュルク語族およびモンゴル語族人口集団(カザフ人)と比較する外群f3統計値は、古代の人口集団とトルクメン人を比較する場合よりも高くなります(図5B)。トルクメン人は、共有されているシベリア/アジア東部祖先系統の量について、テュルク語族およびモンゴル語族人口集団よりもインド・イラン語派人口集団の方と類似しています。以下は本論文の図5です。
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 最後に、トルクメン人がヤグノブ人に代表されるアジア中央部基底部祖先系統とアジア東部祖先系統の混合としてモデル化されました。トルクメン人のqpAdmモデル化では、却下されない唯一のモデルが得られ、ジョチ・ウルスのアジア人6%とタジク人(TAB)94%の混合が示唆されました。この混合事象について、DATESで687±100年前(23.7±3.4世代前)の年代が推定されました。これらの結果は、トルクメン人が比較的最近までインド・イラン語派的人口集団であり、人口集団における実質的な遺伝的変化なしに最近になって言語と文化が変わった、と明らかにします。


●考察

 本論文は、アジア中央部南方で現代の人口集団が鉄器時代へとさかのぼる証拠を用いて、インド・イラン語派話者の歴史への洞察を提起します。以前の遺伝学的研究で提案され、歴史学的および考古学的証拠により裏づけられるように、インド・イラン語派話者はテュルク語族話者とモンゴル語族話者のずっと前にアジア中央部に定住した、と明らかになりました。アジア中央部南方におけるインド・イラン語派祖先系統の最下部での主要事象は、青銅器時代末と鉄器時代に在来のBMAC集団およびオクサス文化の終焉とおそらくはつながっていたアンドロノヴォ文化関連人口集団との間の混合を通じて起きました。要注意なのは、BMACと混合した草原地帯集団がアジア東部祖先系統を示さないことで、アジア東部祖先系統は中央部草原地帯中核地域に鉄器時代末になってやっと到来した、という考古学および遺伝学(関連記事)の知見と一致します。

 アンドロノヴォ文化に分類される人口集団は、複雑な集団を形成します。じっさい、本論文のデータセットでアンドロノヴォと分類されて用いられている個体群を一斉検査すると、全てキトマノヴォ(Kytmanovo)という1ヶ所の遺跡に由来し、遺伝的には、東方へと移動しているものの、カスピ海の近くに拡大したシンタシュタ文化の関連個体群とひじょうに近い特性を示すことに要注意です。アンドロノヴォ複合に分類される他の文化の個体群が配列決定されましたが、全体的には中程度に不均質な遺伝的集団を形成します。

 さらにいくつかの研究は、草原地帯集団が同様に分類できるかもしれないものの、遺伝的に異なるかもしれず、たとえば、スルブナヤ・アラクルスカヤ(Srubnaya Alakulskaya)文化個体群はサマラ(Samara)地域のスルブナヤ文化個体群よりもアンドロノヴォ文化個体群の方と密接です(関連記事)。青銅器時代末と鉄器時代の遊牧民人口集団は遺伝的にひじょうに不均質で、鉄器時代アジア中央部南方で見つかる西部草原地帯祖先系統はまだ標本抽出されていないかもしれない、と思われます。

 草原地帯とアジア中央部南方との間の遺伝子流動が双方向だったことに注目するのは、興味深いことです(関連記事)。最近の研究では、BMACからの遺伝子流動がスキタイ人の遺伝的形成に寄与した、と強調されています(関連記事)。これらの研究と組み合わせた本論文の知見は、BMACと西部草原地帯文化以降のアジア中央部南方文化は強い文化的つながりを有していた、という考古学的証拠に基づいた仮説を強く裏づけます。

 全体として本論文は、青銅器時代以来の人口移動の熱狂にも関わらず、アジア中央部南方のインド・イラン語派人口集団における鉄器時代以降の遺伝的連続性の顕著な事例を論証します。以前の研究と同様に本論文は、タジク人の言語の変化につながる最初の拡大にも関わらず、インド・イラン語派話者の遺伝的多様性について、アジア中央部におけるアラブ文化拡大の影響を示しません。タジク人における東部イラン語群言語から西部イラン語群言語への言語変化につながったペルシア文化拡大にも関わらず、イランからの遺伝子流動も見られず、ヤグノブ人は東部イラン語群言語を維持しました。

 ヤグノブ人はその組み合わせについて、経時的に強い遺伝的安定性により特徴づけられ(負の混合f3統計の少ない量、より少ない有意なD統計)、長期の孤立と関連しているかもしれません。ヤグノブ人はじっさい孤立した民族言語人口集団で、ひじょうに近づきにくいヤグノブ川流域に歴史的に存在しました。証拠から示唆されるのは、ヤグノブ人とタジク人との間の分離は遅くとも1000年前頃に起きており、それは以前の研究で観察されたインド・イラン語派話者の高い遺伝的分化を説明します。興味深いことに、ヤグノブ人は、強い遺伝的浮動にも関わらず現在の遺伝的多様性につながった移住の波の前の、アジア中央部に存在した祖先系統の好適な代理を表せるかもしれない、と示唆されます。

 現代のテュルク語族話者集団およびモンゴル語族話者集団との混合に起因するアジア東部祖先系統の量はタジク人でさえ低いままで、アジア中央部においてインド・イラン語派話者集団への東方から西方への侵略(フン人やモンゴル人)の小さな遺伝的影響を観察した、以前の研究の知見と一致します。一方、本論文はヤグノブ人とタジク人とトルクメン人について、1000年前頃にさかのぼるBHG祖先系統からの少量の遺伝子流動を浮き彫りにし、鉄器時代後のアルタイ山脈からの西方への移住の最近の波が示唆されます。

 最近の移住の波は、以前の研究でアルタイ地域からのテュルク語族話者の祖先的集団に由来すると論証されてきた、アジア中央部南方におけるテュルク語族話者とモンゴル語族話者の起源と関連しているかもしれません。本論文で提示された混合のごく最近の年代は、以前の研究で推定された、タジク人では8000年前頃、キルギス人では2300年前頃との推定年代と顕著に異なります。ヤグノブ人と比較してのタジク人のより最近の推定混合年代は、タジク人が、ヤグノブ人の遺伝的構成を形成した最初の混合事象後に起きた、東進してくる供給源からより多くの継続的な遺伝子流動を受けた、という事実により説明できるかもしれません。じっさい、qpAdm手法はこの文脈で予測できる継続的な混合を検出できません。さらに、その祖先系統の調査は、文化的、とくに言語的違いにも関わらず、タジク人とトルクメン人における遺伝子流動のさまざまなパターンが現れる一部の遺伝的違いを伴いつつ、ヤグノブ人とタジク人とトルクメン人の内部における遺伝的均質性を確証します。

 とくに、イランのトルクメン人における証拠にも関わらず、以前には記録されていなかった、タジク人集団に限定されるアジア南部からの混合事象が証明されました。以前の考古学的研究によると、アジア南部との多方向の文化交流が早くも銅器時代には起きていた、と知られています。とくに、シアルク(Sialk)文化や他のイランの文化からバローチスターン(Balochistan)文化もしくはジオクジュール(Geoksjur)文化にかけてのアフガニスタン南部への文化交流が知られています。

 反対方向、つまり南方から北方へは、ムンディガクIII(Mundigak III)様式土器がアフガニスタン北部のバダフシャーン(Badakhshan)まで並行しており、アラビア海からの首飾りや腕輪に用いられた貝殻は、タジキスタンのサラズム(Sarazm)遺跡で見つかっており、長距離の商取引を示します。これら古代の人口集団は、鉄器時代も含めて人口集団間のおそらくは高頻度の交流と文化的融合を伴う移動中でした。興味深いことに、アジア中央部南方とアジア南部の集団間の遺伝的近接性は、すでにBMAC標本群で示唆されており(関連記事)、この遺伝子流動の時期に関する問題を提起します。

 この問題について、二つのモデルが考えられます。一方のモデルは、ヤグノブ人で現在観察されるように均質な基底部インド・イラン語派集団の背景の形成と、アジア南部人口集団からの最近の遺伝子流動を仮定します。もう一方のモデルは、一部の青銅器時代BMAC標本におけるアジア南部祖先系統の存在を認識し、タジク人とヤグノブ人は異なるBMAC人口集団に由来し、アジア南部祖先系統との混合が、タジク人ではあり、ヤグノブ人ではなく、共にアンドロノヴォ文化集団的な草原地帯人口集団と鉄器時代に別々に混合し、その後でBHG祖先系統を有する東部遊牧民集団と混合したかもしれない、と提案されます。

 タジク人のゲノムにおけるアジア南部人口集団からの遺伝子流動の年代が比較的最近なので、データは前者の仮説を支持しますが、混合(1回なのか複数回なのか)のモデルについていの不確実性は、青銅器時代以降の継続的な遺伝子流動と一致するかもしれません。さらに、本論文における最近の推定混合年代は、1500年前頃のペルシアの拡大と関連したタジク人における東部イラン語群言語から西部イラン語群言語への変化と同じように、アジア南部祖先系統の到来と一致します。

 最後に、トルクメン人は、遺伝的祖先系統の実質的な変化なしに言語と文化的慣行が変化した人口集団の顕著な事例です。じっさい、ユーラシア全体で見つかるテュルク語族話者は、いくつかの遊牧民の移住の結果で、アジア中央部を通ってシベリアからヨーロッパ東部と中東まで広がり、紀元後5〜16世紀と広範な期間に起きました。アジア中央部以外の地域では、いくつかの研究において、テュルク語族話者は遺伝的に地理的近隣集団と類似しており、両者を区別する遺伝的兆候はない、と示されています。これは、テュルク語族の拡大に伴う言語置換について、人口拡散ではなく、支配層の優位によるモデルを裏づけます。

 トルクメン人はこの世界的モデルに当てはまりますが、この地域では例外的です。じっさい、キルギス人もしくはカザフ人など他のテュルク語族話者人口集団は、明確に支配的なアジア東部およびバイカル湖構成要素があるさまざまな遺伝的特性を示し、紀元後10〜14世紀頃となる、シベリア南部とモンゴルからの遊牧民とのより顕著な混合を証明します。トルクメン人におけるアジア東部祖先系統の少ない量は、紀元後15世紀頃の混合と関連しており、アジア中央部における最初の混合よりもわずかに後で、これらテュルク語族話者集団およびモンゴル語族話者集団との遺伝子流動に由来するかもしれません。

 インド・ヨーロッパ語族の拡散の問題は、近年では白熱した話題になっています(関連記事)。言語学的分析は、インド・ヨーロッパ語族の起源地として、アナトリア半島もしくはポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)を示します。ヤムナヤ(Yamnaya)文化関連人口集団の、後期新石器時代における西方への拡大と青銅器時代における東方への拡大は、アンドロノヴォ文化集団の移住を通じて、ヤムナヤ文化関連集団がインド・ヨーロッパ語族話者だった、と提案します。

 興味深いことに、アジア中央部のインド・ヨーロッパ語族話者で見つかる祖先系統パターンは、他のインド・ヨーロッパ語族話者人口集団、つまりイランのペルシア人では見つかりません。この民族集団は、青銅器時代以来のイランの古代人との遺伝的連続性を示し、中央部もしくは東部草原地帯からの遺伝子流動は限定的です。さらに、トルクメン人集団についての本論文の知見は、言語学と遺伝学が一致しない別の事例を提示し、人口移動を用いて言語置換を推測する見解に疑問を呈します。以前の研究で見られた現代のユーラシア西部人口集団へのトルクメン人集団の遺伝的帰属は、共通の草原地帯祖先系統に起因します。


●まとめ

 本論文の結果は、インド・イラン語派話者について、遺伝的および言語的な連続性と非連続性のさまざまなパターンが経時的に共存していた、と明らかにしました。アジア中央部南方では、じっさいのインド・イラン語派話者は、他のユーラシア集団からの最近の移住の波はごくわずかで、鉄器時代以降の長期の連続性の結果だった、と示されます。本論文の結果は、アジア中央部南方の人口動態が複雑で、完全に理解するには、本論文のような小規模な研究が必要になる、というさらなる証拠を提供します。

 この観点から、これら移動の波の正確な時期は、草原地帯文化複合に分類されない鉄器時代と歴史時代の標本から、より多くのデータが得られるまで解決できません。言語と遺伝子の関係は複雑で(関連記事)、トルクメン人の事例とは逆にバヌアツでは、遺伝的に大きな変化が起きたにも関わらず、言語は変わらなかった可能性が示唆されています(関連記事)。言語と遺伝子の関係は、古代DNA研究の進展により、今後より深く解明されていくのではないか、と期待されます。


参考文献:
Guarino-Vignon P. et al.(2022): Genetic continuity of Indo-Iranian speakers since the Iron Age in southern Central Asia. Scientific Reports, 12, 733.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-04144-4


https://sicambre.at.webry.info/202201/article_19.html

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