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現代アフリカ人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/352.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 11 月 02 日 10:47:45: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

現代アフリカ人の起源


2020年11月02日
アフリカ人の包括的なゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_3.html


 アフリカ人の包括的なゲノムデータを報告した研究(Choudhury et al., 2020)が公表されました。世界規模でのゲノム解析により、現代人で最も遺伝的多様性が高いのはアフリカ人と示されています。こうしたゲノムデータは、医療にも役立てられています。しかし、現在までに、約2000のアフリカの民族言語集団のうちわずかしか遺伝的に特徴づけられておらず、ヨーロッパ集団で一般的な限定的な数の多様体が含まれています。そのため、アフリカ人における新規で医学的に関連する稀な変異はほとんど不明のままで、複雑な疾患への遺伝的要因の理解が進んでいません。

 サハラ砂漠以南のアフリカ人集団は古典的に、アフロ・アジア(AA)、ナイル・サハラ(NS)、バンツー語族を含むニジェール・コンゴ(NC)、コイサン(KS)の各語族で説明されてきました。これらの語族の中には独立した集団も含まれており、たとえばコイとサンは、それぞれ異なる歴史があるにも関わらず、文献ではコイサン一括されています。バンツー語族はサハラ砂漠以南のアフリカでは最も広範に分布していまが、これは過去5000年にわたるアフリカ大陸全体の一連の移住に起因します(関連記事)。

 これらの移住事象とそれに続く在来集団との混合は、新たな環境と経験への適応を伴うので、アフリカのゲノムの全体像の形成においてたいへん重要な役割を果たしてきました。これらの適応の特徴は、マラリアと関連するHBB遺伝子、ラクターゼ(乳糖分解酵素)をコードするLCT遺伝子、肝機能障害と関連するAPOL1遺伝子、グルコース-6-リン酸脱水素酵素(G6PD)と関連するG6PD遺伝子の多様性で示される、重要な生理的特性もしくは伝染性流行病と関連するアレル(対立遺伝子)多様性のパターンにおいて明らかです。最近の研究では、食性・身長・血圧・肌の色といった多様な特徴に対して、混合により導入された新たな変異の重要性を反映する選択の兆候が特定されています。

 現代人で最も遺伝的多様性の高いアフリカ人のゲノムを研究することは、疾患の集団人口統計的理解への特有の機会を提供します。アフリカにおけるヒトの遺伝と健康(H3Africa)協会は、アフリカ人のゲノム研究の不足を補うために創設され、アフリカ人全体の遺伝的多様性を特徴づけ、ゲノム研究の枠組みを促進することが目的です。そこで本論文では、H3アフリカ研究においてアフリカの13ヶ国の50の民族言語集団から得られた、426人の全ゲノム配列データ(314人分の平均網羅率が30倍の高品質なゲノムデータと、112人分の平均網羅率が10倍の中程度の品質のゲノムデータ)が分析されました。これらの集団のいくつかは、本論文で初めて研究結果が報告されます。本論文では、一塩基多様体(SNV)に焦点が当てられました。以下、本論文で取り上げられた集団の地理(図1a)と主成分分析結果(図1b)を示した本論文の図1です。

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https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-020-2859-7/MediaObjects/41586_2020_2859_Fig1_HTML.png


●移住と混合

 これまで充分に研究されていなかった地域からの標本を含めることで、アフリカの集団規模のゲノムデータが得られました。主成分分析では、第一主成分は、ナイル・サハラ(NS)とアフロ・アジア(AA)とある程度は東部のニジェール・コンゴ(NC)個体群(ウガンダのバンツー語族個体群、略してUBS)を、他のNC話者から分離します。第二主成分は、残りのNC話者を西方から南方への勾配に沿って位置づけます。非NC話者集団をいくつか含むマリの個体群(MAL)は顕著な例外で、個人間のより多くの分散を示します。ベニンのフォン(FNB)、グル語話者(WGR)、ギニアのスス語話者(SSG)、コートジボワール人(CIV)、MALを含むアフリカ西部集団は近くに位置づけられますが、しばしばナイジェリアのヨルバ人(YRI)やエサン人(ESN)のような他のアフリカ西部NC話者からは独立しています。ウガンダのバンツー語族個体群(UBS)および南部のボツワナ(BOT)のNC話者は、それぞれの地域から以前に研究された集団とクラスタ化します。

 ナイジェリアのベロム(Berom)集団(BRN)、カメルーンの個体群(CAM)、コンゴ民主共和国の個体群(DRC)、ザンビアのバンツー語族話者(BSZ)、ウガンダのNS話者(UNS)の5集団は、主成分分析で特徴的な位置を示します。BRNは他のアフリカ西部集団とは独立して存在し、アフリカ東部集団に近づいています。CAMとDRCはカメルーンとコンゴの地理的近さと一致して、一まとまりに位置し、独立したアフリカ中央西部集団を形成します。UNSは他のNS集団であるグムズ(Gumuz)とは独立して位置します。同様に、BSZは他のNS話者集団とは大きく離れています。これらの集団のいくつかは独特の遺伝的位置を示し、標本抽出された集団の広範なゲノム多様性が確認されます。NC話者集団の地理的距離と遺伝的距離との間には有意な正の相関が観察されました。

 次に、非NC話者からの遺伝子流動が本論文の対象集団を区分したのかどうか、さらには混合事象が検証されました。結果は、アフリカ大陸全体の混合パターンに関する現在の理解と一致しており、ボツワナ(BOT)へのコイサン(KS)の遺伝子流動、UBSにおけるアフロ・アジア(AA)語族集団の遺伝子流動、アフリカ中央西部集団であるDRCとCAMにおける熱帯雨林狩猟採集民(RFF)からの様々な程度の遺伝子流動を示します。さらに、これらの分析では、2回の興味深く未報告の混合事象も明らかになりました。それは、ウガンダのNS話者(UNS)におけるRFFの遺伝子流動と、ナイジェリアのベロム集団(BRN)におけるNC話者からの遺伝子流動です。追加の母集団データセットを用いたさらなる分析では、UNSと他のNC話者集団との間の違いは、AAとの混合の欠如、およびRFFからの遺伝子流動の増加に起因するかもしれない、と示唆されました。アフリカ東部系統の追跡は、過去数千年のサヘル横断移動に由来し、ナイジェリアのハウサ(Hausa)人を含む他の集団で報告されてきました。しかし、アフリカ東部の遺伝子流動の観察は、おそらくチャドに由来し、最大となる在来の中央部ナイジェリア集団であるBRNにおいてひじょうに独特です。

 ボツワナの分析から、集団間の遺伝的距離への非NCの遺伝子流動の寄与が強調されます。対照的に、ザンビアのバンツー語族話者(BSZ)は、アンゴラやコンゴやボツワナの隣接地域集団とは異なり、RFFもしくはKS集団のような非NC話者からの主要な遺伝子流動の証拠を示しません。同様に、在来集団の混合の低水準は、マラウイとモザンビークのバンツー語族話者で指摘されてきました。アフリカ中央部を横断するバンツー語族集団の移動経路復元の試みでは、アンゴラ集団がアフリカ東部および南部のバンツー語族話者にとっての最良の起源地と結論づけられ、アンゴラ経由のバンツー語族の移動の西方経路が示唆されました(関連記事)。

 データセットにDRCとBSZ集団を含めることで、この経路がさらに調査されました(図2b)。主成分分析と同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD。かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示します。IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります)から、BSZは他のアフリカ中央部集団と比較して、UBSとBOTの両方に遺伝的に近い、と示されました。さらに混合の検証では、アフリカ東部および南部のバンツー語族話者系統にとって最も可能性が高いアフリカ中央部起源集団として、BSZを支持します。また、集団間で共有されるIBDの程度から、BSZにとってアンゴラ集団が最も密接な中央部もしくは中央西部の集団だった、と示唆されます。まとめると、これらの推定から、ザンビアがバンツー語族のアフリカ東部および南部両方への経路の中継地点だった、と示唆されます。

 いくつかの主要な混合事象を推定する試みでは、アフリカ南部におけるKSの遺伝子流動と、CAMにおけるRFFの遺伝子流動は以前の研究とほぼ一致した、と示されました。UNS におけるRFFの混合の年代範囲は、CAMにおけるそれと類似しており、以前の研究と一致します。これは、60〜70世代前頃に、中央部熱帯雨林の東西両方のRFF集団の範囲が変化した可能性を示唆します。アフリカ西部へのサヘル横断移動に関する以前の研究では、移動の異なる2波が示唆されました。一方は100世代以上前(2900年前頃)で、もう一方はもっと最近となる過去35世代(1015年前頃)です。さまざまなアフリカ東部の代理集団に基づくと、BRNにおける混合は50〜70世代前(1500〜2000年前頃)に起きた、と推定されます。これらの年代は、地域水準もしくはより広範な地理的規模で、これまで知られていない人口統計学的事象が起きたことを示唆します。

 ボツワナとカメルーンとマリの定義された地政学的境界と、非NC話者集団をいくつか含むマリの個体群(MAL)間のホモ接合性の明確に長い断片の内部で、民族言語集団内もしくは集団間の広範な変異のような、これらの集団のいくつかの人口史における追加の特有の傾向が観察されました。片親からの単系統遺伝となるミトコンドリアとY染色体の分析では、BOTのミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)L0dや、BRN のmtHg-L3や、MALのY染色体ハプログループ(YHg)E1b1bといった、特定の優占するHgが特定され、これらの集団への複雑な祖先の寄与がさらに強調されます。以下、各集団の系統混合比(図2a)と、バンツー語族集団の移動経路(図2b)と、主要な混合事象の年代(図2c)を示した本論文の図2です。

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https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-020-2859-7/MediaObjects/41586_2020_2859_Fig2_HTML.png


●ゲノム多様性と選択の痕跡

 一塩基多様体(SNV)は標本規模と相関し、集団ごとに1200万〜2000万のSNVが特定されました。合計で約340万のSNVはこれまで報告されていませんでした。新規SNVは、カメルーンの個体群(CAM)で最も少なく、ボツワナ(BOT)と非NC話者集団をいくつか含むマリの個体群(MAL)で最も多い(絶対数でも標本抽出された個体の最も少ない数に正規化した場合でも)、と明らかになりました。

 データセット内の新規多様体が飽和しているのか判断するため、BOTを開始母集団として用いて、発見された新規多様体の累積数を配置していき、追加の集団ごとに1標本でしか確認されていない(シングルトン)新規SNVを削除した後でも平坦域には達せず、最後の2集団(FNBとMAL)間でも依然として6000以上の新規SNVが存在しました。また、本論文の対象集団、とくにコイサン(KS)系統間では、多様体の発見と非中央西部アフリカ人系統の割合の間で、強い相関があることも明らかになりました。

 選択を受けたと推定される遺伝子は、C5AR1やMYH10(細菌感染)、ARHGEF1やERCC2やTRAF2(ウイルス感染)、IFNGR2(細菌およびウイルス感染)といった、免疫関連機能とおもに関わっています。BOTを代理とする、アフリカ南部、CAMを代理とするアフリカ中央部、グル語話者(WGR)を代理とするアフリカ西部の各集団に固有の選択に関しては、BOTでは代謝関連(MRAP2とARSKとGPD2)、WGR(C12orf65とFAN1)とCAM(FZR1とTDP1とKCTD1)ではDNA修復関連の遺伝子で見つかりました。BOTにおける選択の痕跡では、KSからの優先的な遺伝子流動の証拠が見つかりました。

 本論文のデータセットで観察された複雑な集団構造と可変的な選択圧は、集団間のアレル(対立遺伝子)頻度の分化を促進する、と知られています。そこで、集団間でかなり異なる(40%以上)アレル頻度を有する、高度に分化した多様体(HDV)が特定されました。2497のHDVのうち1106がBOT(アフリカ南部)とMAL(アフリカ北西部)で観察され、この地理的分離は最も異なるアレル頻度を生成します。これらのHDVのうちいくつかは、BOTにおける高い割合と歴史的により深いKS系統も繁栄しています。

 機能喪失(LOF)多様体では、インフルエンザやヒト免疫不全ウイルス(HIV)やC型肝炎ウイルス(HCV)の死亡率との相関が観察され、環境および社会経済的要因とともに、遺伝的影響が推定されます。病原性もしくは病原性の可能性がある262の固有の多様体のうち、54は低いアレル頻度を示します。マラリアによる死亡を防ぐ遺伝子座の予想と一致して、G6PDのアレルの推定値は、アフリカ全体の固有のマラリアの分布と概ね一致します。鎌状赤血球症の変異は、マラリアが蔓延するアフリカ西部および東部の集団において高いアレル頻度を示します。全体的に、62の遺伝子とその周辺領域で自然選択の新たな証拠が見つかりました。


●まとめ

 本論文の結果は、バンツー語族を含むニジェール・コンゴ(NC)話者集団の遺伝的連続を明らかにし、バンツー語族移動の経路と年代と範囲に関する理解を拡張します。本論文で提案されたバンツー語族の拡散経路は、カルンドゥ(Kalundu)土器伝統の拡大と重なり、これもバンツー語族の拡大と関連づけられてきました。しかし、カルンドゥ土器の拡大の推定年代は、本論文の混合年代に先行し、カルンドゥ土器伝統とバンツー語族の移動との間の関連は疑問視されており、考古学的な移動と遺伝的な移動との間の類似は未解決のままです。あるいは、先に文化的拡散が起き、その後で人類集団の移動が伴ったのかもしれませんし、推定混合年代が実際よりも新しいのかもしれません。

 ナイジェリアの言語はひじょうに多様で、ゲノムデータの観点でもアフリカの最も代表的な国です。ベロムにおけるかなりのナイル・サハラ(NS)集団との混合と、NCおよび非NC両方の話者における高度に分化した多様体(HDV)と新規変異両方との観察から、既知の刊行データベースにおけるナイジェリア集団は、ナイジェリアのゲノム多様性を過小評価している可能性が高いだけではなく、ほぼ確実にアフリカ大陸集団の貧弱な一般的代理である、と示唆されます。アフリカ全体の多様性のより包括的な要約の提供には、複数のアフリカ人集団における追加の深い配列が必要です。

 HIVやエボラ熱やラッサ熱を含むウイルスの流行がアフリカ全土で報告されています。この背景として、ウイルス感染に重要な遺伝子と重複する選択された遺伝子座の観察は、アフリカ全土の人類集団のゲノム形成における、ウイルス感染に対する耐性および/もしくは感受性の、まだ報告されていない役割の可能性を裏づけます。これは、インフルエンザとHIVに関わる遺伝子の推定LOF多様体と、疾患死亡率との強い相関関係により支持されましたが、疾患死亡率との相関についてはさらなる分析が必要です。免疫関連遺伝子の他に、DNA修復や炭水化物および脂質代謝に関連する遺伝子の正の選択、またNC話者内の地域固有の正の選択も観察されました。

 アフリカ人のゲノムの多様性と変異に対する祖先の事象と感染性病原体への暴露の複合効果は、ウガンダのバンツー語族個体群(UBS)とNS話者(UNS)との間で観察されたアレル頻度の違いにより示されます。このアレル頻度の違いから、マラリアが流行している西部地域(UBS)からではなく、マラリアがあまり一般的ではない北部地域(UNS)からの最近の移住が別の妥当な説明になる、と示唆されます。他のアレルからも、同様の想定が可能です。

 本論文の知見から、アフリカのゲノムデータの充足と使用には、多様体の高水準の精選に加えて、広く確認されて包括的な変異の概要が必要である、と示唆されます。アフリカのゲノム変異は、アフリカ人の移住と世界集団両方の多様体分布より良い表示である可能性が高く、したがって、アフリカ人のゲノム変異の完全な目録は、医療遺伝学および集団遺伝学の両方により良いゲノム参照を提供できるかもしれません。アフリカ現代人のゲノム研究が進めば、近年になってアフリカでも進展した古代DNA研究(関連記事)とともに、アフリカ人の人口史をさらに正確に理解できるようになるでしょう。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


遺伝学:アフリカ人集団における遺伝的多様性

 高深度塩基配列解読されたアフリカ人ゲノムの、これまでで最大級の研究から、300万を超える遺伝的バリアントが発見されたことを報告する論文が、今週、Nature に掲載される。今回の研究は、バントゥー諸語話者集団のルートに沿った古代人の移動に関する知見をもたらした。

 アフリカは現生人類の起源において中心的な役割を果たしているにもかかわらず、アフリカ人集団に見られる多様性については、これまでほとんど知られていなかった。今回、H3アフリカコンソーシアムのZané Lombardたちは、これまでに試料採取されていなかった集団を含む50の民族言語集団に属する426人の全ゲノム塩基配列解読解析を行うことで、この不均衡の問題に取り組み、アフリカ全体のゲノム多様性の幅を探った。今回新たに発見されたバリアントの大部分は、今回新たに試料採取された民族言語集団から見つかっている。また、ウイルス免疫、DNA修復、代謝に関連する62の遺伝子とその周辺領域での自然選択の新たな証拠が見いだされた。さらに、祖先集団内および祖先集団間での混合に複雑なパターンが見られ、バントゥー諸語話者集団の拡大ルートに沿って移動した入植者の中継地点がザンビアであった可能性が高いことを示す証拠も見つかった。以上の知見は、アフリカ大陸内の人類の移動に関する理解を深めるものであり、ヒトの疾患に対する応答と遺伝子流動が、集団の多様性の強い決定要因であることを明らかにした。

 Lombardたちは、人類の祖先をより包括的に理解し、健康研究を向上させるためには、アフリカ人のゲノム多様性に関する特徴解明の幅を広げること(対象者と対象集団を増やすことなど)が必要だと強調している。


進化遺伝学:高深度のアフリカ人ゲノムから得られたヒトの移動と健康についての情報

Cover Story:アフリカの多様性:全ゲノム解析によって明らかになったアフリカの豊かな遺伝的遺産の詳細

 アフリカは、現生人類のゆりかごと見なされているが、アフリカの人々の遺伝的多様性はごく一部しか調べられていない。今回H3アフリカコンソーシアムのZ Lombard、A Adeyemo、N Hanchardたちは、50の民族言語グループをカバーする426人の全ゲノム塩基配列解読の解析結果を提示して、この不均衡の是正を促している。著者たちは、300万を超える新規バリアント(その大半が、これまで試料採取されていなかった集団で見られた)を明らかにするとともに、ウイルス免疫、DNA修復、代謝に関連するこれまで報告されていなかった62の座位を特定した。さらに著者たちは、集団内と集団間での祖先の混合も発見し、バントゥー諸語話者集団の拡散経路においてザンビアが中継地点であった可能性が高いことを示す証拠を見いだした。これらの知見は、アフリカ全体における人類の移動に関する理解を深めるのに役立つとともに、遺伝子流動と疾患への応答が、集団のゲノムレベルの多様性の強力な駆動要因であることを明らかにしている。表紙は、今回の研究で集められた遺伝子データを基に、ジンバブエのマリーゴールド・ビーズ飾り協同組合が手織りで作ったビーズのネックレスである。


参考文献:
Choudhury A. et al.(2020): High-depth African genomes inform human migration and health. Nature, 586, 7831, 741–748.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2859-7


https://sicambre.at.webry.info/202011/article_3.html  

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コメント
1. 中川隆[-10287] koaQ7Jey 2020年11月02日 10:55:00 : 5KIfhlnuJY : UFhPRDFELnhqNkU=[9] 報告
雑記帳 2020年08月30日
古代DNAに基づくアフリカの人類史
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_41.html


 古代DNAに基づく近年のアフリカの人類史研究を整理した概説(Vicente, and Nielsen., 2020)が公表されました。古代DNA研究の急速な進展により、人類史はより深く理解されるようになりました。たとえば、ある物質文化の変化が、人々の移動の結果なのか、あるいは文化の拡散によるものなのか、より詳しく推測できるようになりました。古代DNA研究はアフリカでも進展していますが、熱帯地域を多く含むため、古代人標本からDNAを抽出することが困難なこともあり、アフリカにおけるゲノム規模の古代DNA研究は、たとえばヨーロッパと比較すると僅かです。本論文投稿時点でのアフリカの古代人のゲノム規模論文は、北部に関しては4本、サハラ砂漠以南に関しては5本だけです。本論文は、これまでのアフリカの古代DNA研究を、現代人の遺伝的多様性の文脈で検証します。以下、本論文で対象とされた標本の地理と主成分分析と系統構成を示した図1です。

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●アフリカ北部の古代DNA

 アフリカ北部では、現代人集団はおもにユーラシアおよび中東集団と関連しており、サハラ砂漠以南のアフリカからの遺伝的寄与の水準はひじょうに低い、と推定されています。これが旧石器時代におけるユーラシアからアフリカへの「逆流」の結果なのか、新石器時代におけるアフリカ北部への農耕の導入と関連しているのか、という議論がありました。モロッコの15000年前頃人類遺骸のDNA解析では、アフリカ北部は完新世と農耕開始の前にユーラシアから顕著な遺伝子流動を受けた、と示されました(関連記事)。

 さらに、アフリカ北部の7000年前頃となる前期新石器時代の個体群もこの15000年前頃のモロッコ個体群系統を継承していましたが、後期新石器時代となる5000年前頃の集団はイベリア半島集団の遺伝的影響を受けており、ジブラルタル海峡間の遺伝子流動が示唆されます(関連記事)。これら前期および後期新石器時代の個体群の遺伝的構成の違いから、アフリカ北部における農耕拡大は文化(アイデア)と人々の移動の両方が含まれていた、と示唆されます。

 サハラ砂漠は、断続的な「緑のサハラ」の期間を除いて、人類の移動の地理的障壁でした。エジプトの現代人集団とミイラのDNAに関する研究では、サハラ砂漠を越えて南方から現代のアフリカ北部人への遺伝子流動は低水準で、最近起きたと示唆されています(関連記事)。しかし、このエジプトのミイラよりも古いモロッコの更新世や新石器時代の個体群は、サハラ砂漠以南のアフリカ人と遺伝的により類似しています。「緑のサハラ」は12000〜5000年前頃なので、モロッコの15000年前頃の更新世個体群と7000年前頃の前期新石器時代個体群は、前者が「緑のサハラ」の前、後者がちょうどその期間に相当します。

 しかし、両個体群ともにサハラ砂漠以南のアフリカ人とは同じような遺伝的近縁を示しており、類似の遺伝的構造を示します。一方、アフリカ北部の現代人は、サハラ砂漠以南のアフリカ人系統をわずかにしか有していません。結果として、サハラ砂漠の湿潤期と乾燥期の循環は、アフリカ北部とサハラ砂漠以南のアフリカとの間の遺伝子流動の量に影響を与えたようですが、これらの移住の正確な動態は、理想的にはゲノム規模の古代DNA研究でさらに調査されねばなりません。


●サハラ砂漠以南のアフリカ

 サハラ砂漠以南のアフリカの現代人および古代人のDNA研究では、ひじょうに異なる2段階の歴史があった、と示唆されました。農耕開始前の狩猟採集民集団は、地理的位置が集団の遺伝的関係を密接に反映する、「距離による隔離」と関連していたようです。しかし、過去の狩猟採集民の長距離移住は除外できず、この問題に関しては古代DNA研究が重要となります。サハラ砂漠以南のアフリカの初期の歴史は、農耕開始後の比較的短い期間におけるも大規模な人口移動と対称的です。

 サハラ砂漠以南のアフリカにおける農耕の起源は依然として不明確ですが、作物栽培は少なくとも3地域独立して始まったと考えられており、それはサハラ・サヘル地域での7000年前頃と、エチオピア高原での7000〜4000年前頃と、アフリカ西部の5000〜3000年前頃です。サハラ砂漠以南のアフリカにおける農耕は、これらの起源地から他地域へと拡大し、アフリカ南端への家畜動物の到達は2000年前頃、作物栽培は1800年前頃です。現代人および古代人のゲノム調査から、アフリカにおける農耕集団の拡大に関する仮説が確認されました。


●サハラ砂漠以南のアフリカにおける食料生産者の移住

 サハラ砂漠以南のアフリカにおいて最初に解析された人類のゲノムは、エチオピアのモタ(Mota)の4500年前頃の個体に由来します(関連記事)。モタ個体とアフリカ東部現代人を比較すると、現代人ではモタ個体よりもユーラシア系統の割合が増加している、という明確な証拠が得られたことから、ユーラシアからアフリカ東部への「逆流」が明らかになりました。しかし、その後の研究により、アフリカ北東部の特定集団、たとえばスーダンのディンカ(Dinka)やヌエル(Nuer)集団と、アフリカ東部のサブエ(Sabue)狩猟採集民は、現代までユーラシア系統との混合がほとんどない、と示されました。

 8100年前頃までさかのぼるアフリカ東部および南部の15人のゲノム解析では、このアフリカ東部およびユーラシア系統を有する古代の牧畜民はアフリカ南部へと移動し、牧畜をもたらした、と明らかになりました。これは、常染色体やY染色体や乳糖耐性多様体に基づく以前の研究を確証し、アフリカ南部牧畜民のゲノムにおけるアフリカ東部系統の存在を示唆します。

 アフリカ東部における農耕導入は、ケニアとタンザニアの後期石器時代・牧畜新石器時代・鉄器時代と関連する41個体の研究により、さらに洗練されました(関連記事)。その研究では、牧畜民の拡大に関連する2段階の混合が推測されました。最初の混合事象は、レヴァントもしくはアフリカ北部集団と関連した非アフリカ系統を有する集団と、現代のディンカ人およびヌエル人と関連する集団との間で、アフリカ北東部において6000〜5000年前頃に起きました。

 第二の混合事象は、第一の混合集団と、モタ個体やケニアの後期石器時代個体群と関連したアフリカ東部の狩猟採集民との間で、4000年前頃に起きました。この非アフリカ系統のアフリカ東部への拡散経路はまだ不明で、ナイル川渓谷もしくは「アフリカの角」経由だった、と提案されています。またこれらの知見は、牧畜新石器文化を形成した、少なくとも2回の年代的に異なるアフリカ東部への牧畜民の南進を指摘します。

 興味深いことに、遺伝的分析では、考古学的に異なる2つの牧畜新石器文化である、エルメンテイタン(Elmenteitan)とサバンナ牧畜新石器文化の集団間で差異が見つかりませんでした。これは、考古学的に異なる文化が必ずしも遺伝的に異なる集団であることを意味しない、と示唆します。その後のアフリカ東部における鉄器時代は、同様に複雑でした。現代バンツー語族と関連するアフリカ西部からの遺伝子流動に続くスーダンの関連する遺伝子流動は、この地域の鉄器時代開始と作物栽培導入を示します。

 バンツー語族の拡大はアフリカ西部で5000〜3000年前頃に始まり、世界でも最大級の農耕拡大事象の一つです。アフリカ西部の考古学的記録では、増加する定住は農耕拡大とその後の鉄の使用により示されます。現在、サハラ砂漠以南のアフリカのほとんどの地域では、バンツー語族が主要な言語です。以前の遺伝学的研究では、バンツー語族集団の現在の分布は、言語と農耕(文化)のみの拡大というよりもむしろ、人々の移動の結果だった、と示唆されています。これは古代DNA研究により確認されており、アフリカの東部および南部の鉄器時代遺骸は、遺伝的に現在のアフリカ西部集団と集団化します。

 アフリカ南部の7個体のゲノムデータにより、2000年前頃となる後期石器時代の3個体は現代のコイサン狩猟採集民と関連しており、500〜300年前頃となる鉄器時代の4個体はアフリカ西部現代人と関連している、と明らかになりました。これにより、アフリカ南部における大規模な集団置換が確認されました。コイサン狩猟採集民の後期石器時代の祖先は、アフリカ西部系統を有するバンツー語族農耕民の侵入により置換された、というわけです。

 アフリカ南部では、バンツー語族がコイサン狩猟採集民からかなりの量の遺伝子流動を受けました。対照的に、マラウイとモザンビークの現代人集団は、バンツー語族拡大前にこの地域に存在した狩猟採集民と僅かしか若しくは全く混合しておらず、バンツー語族の移住が複雑な過程だったことを示唆します。バンツー語族拡大期間における人口動態と移住経路をより明確にするには、さらなる古代DNA研究と、赤道付近のアフリカ現代人集団のより高い網羅率のゲノムデータが必要です。以下、アフリカにおける農耕開始前の集団分布と、牧畜および農耕の拡大経路を示した本論文の図2です。

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●サハラ砂漠以南のアフリカにおける深い人口史

 アフリカ全域で農耕集団が大規模に移住する前には、狩猟採集民集団が勾配パターンで関連しており、距離と遺伝的近縁性とが比例関係にあったようです。このパターンは、アフリカ南部のコイサン狩猟採集民の研究で示されているように、現代の狩猟採集民集団間の関係にも反映されています。同様に、古代DNA研究では、農耕開始前におけるアフリカ東部と南部の狩猟採集民集団間の遺伝的勾配が明らかになっています。

 この勾配はアフリカ西部・中央部のシュムラカ(Shum Laka)岩陰の古代狩猟採集民にも当てはまるかもしれず、この古代狩猟採集民は、現在のアフリカ西部・中央部の熱帯雨林狩猟採集民と関連しています(関連記事)。シュムラカ個体群は、図1bの主成分分析のPC1軸では、アフリカ南部狩猟採集民とアフリカ西部のニジェール・コンゴ語族集団との間に位置します。古代および現代の狩猟採集民のみを対象とした主成分分析と比較して、農耕民を含む主成分分析では、地理との相関が低下します。

 古代および現代の狩猟採集民の遺伝的系統は、アフリカ全域の集団間の長期的な勾配関係を示唆しているかもしれませんが、あらゆる大規模な移住がこのパターンの根底にあるのかどうか判断するには、古代DNA研究のデータが必要です。ヨーロッパの現代人および古代人のDNA研究から、距離による孤立のパターンは、とくに混合していない現代人集団が存在しない場合、遠い過去におけるいくつかの大規模な移動と置換を隠せる、との教訓が得られました。したがって、アフリカの深い歴史はまだ明らかにされていませんが、古代DNA研究はすでに推論に貢献し始めました。

 2000年前頃となるアフリカ南部の後期石器時代人の高網羅率のゲノムデータから、「Ju/'hoansi」集団を含む全ての現代コイサン集団は、アフリカ南部に牧畜をもたらしたユーラシア・アフリカ東部集団から9〜22%の遺伝的影響を受けている、と明らかになりました(関連記事)。これは図1の主成分分析で示され、現代コイサン集団はアフリカ東部人の方へと近づいており、中にはバンツー語族との混合によりアフリカ西部人にも近づいている標本もあります。

 「Ju/'hoansi」集団は以前には、近隣集団との混合がほとんどなく、現生人類集団間の最初の分岐事象(変異率に基づき推定された20万〜10万年前頃)を表すコイサン集団とされていました。混合していない後期石器時代個体を他のアフリカ人と比較すると、分岐年代は35万〜26万年前頃にさかのぼり、これは現生人類系統が解剖学的・行動学的に現代的になっていった、中期石器時代の起源に近づきます。この見解では、コイサン集団と他の全集団との最初の分岐が322000年前頃、熱帯雨林狩猟採集民の分岐が221000年前頃、アフリカ西部と東部の分岐が137000年前頃と推定されています。階層的分岐系統樹モデルは、集団間の一般的な関連性を適切に推定しますが、これは人類史の簡略化された表現であり、遺伝子流動や移住や深い集団構造を含むもっと複雑なモデルが、将来の研究では考慮されねばなりません。

 いくつかの研究では、すでにアフリカ西部における深い合着系統の証拠が報告されており、現代ではもはや分離した集団としては存在しない、現代人とは遠い関係にある「ゴースト」集団による、深い起源の混合の可能性が示唆されています。最近の研究では、アフリカ集団におけるネアンデルタール人との混合が以前の推定よりも高かったと推定されており(関連記事)、アフリカ集団における深い人口構造が追加されました。

 また最近の別の研究では、連続分岐モデルというよりもむしろ、4祖先的集団間の放射モデルが示唆されています(関連記事)。この放射モデルには、コイサン集団とアフリカ中央部熱帯雨林狩猟採集民とアフリカ東部および西部人と「ゴースト現代」集団につながる系統が含まれています。さらに、このモデルには「ゴースト非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)」も追加され、アフリカ西部集団はゴースト古代型ホモ属系統からわずかに、ゴースト現生人類系統から多く、遺伝的影響を受けた、と推測されています。しかし、データに適合する他のモデルもあります。

 近年では、アフリカにおける現生人類の多地域起源の可能性を示唆する証拠が増えてきており(関連記事)、深いアフリカの歴史に関する将来の研究では、現実的なモデルのシミュレーションのより厳密な検証が必要です。さらに、地理および気候モデルが、古代DNA研究から得られた時系列データとともに、これらのモデルに組み込まれねばなりません。これは過酷な作業となりますが、いくつかの枠組みはすでに設定されており、古代DNAデータがアフリカ現代人集団のゲノムデータとともにより多く利用可能になると、将来の研究はアフリカにおける深い遺伝的歴史をさらに明らかにするでしょう。古代DNA研究と他分野からの補完的研究は、先史時代をさらに明らかにし続け、現生人類の過去と現在と将来を理解するのに役立つかもしれません。


 本論文は、近年進展したアフリカに関する主要な古代DNA研究を整理しており、たいへん有益だと思います。本論文でとくに重要とされている研究の多くは以前当ブログでも取り上げていましたが、見落としていたり、取り上げようと思って放置してしまったりしているものもあり、アフリカの人類史の流れを改めて確認できたとともに、新たに得た知見も多く、アフリカにおける古代DNA研究の現状を把握するのに適した論文だと思います。アフリカは熱帯地域を多く含んでおり、古代DNA研究に適していない地域と言えるでしょうが、それでも着実に進展していることが本論文で示されており、今後の研究の進展に期待しています。難しそうではありますが、サハラ砂漠以南のアフリカの更新世人類のDNAデータが得られれば、アフリカの人類史の解明に大きく貢献しそうなので、成功を願っています。なお、おそらくは本論文の投稿後に、サハラ砂漠以南のアフリカにおける完新世人類集団の複雑な移動と相互作用に関する研究が公表されており(関連記事)、今後もアフリカの完新世の古代DNA研究は進展していく、と期待されます。


参考文献:
Vicente M, and Schlebusch CM.(2020): African population history: an ancient DNA perspective. Current Opinion in Genetics & Development, 62, 8-15.
https://doi.org/10.1016/j.gde.2020.05.008


https://sicambre.at.webry.info/202008/article_41.html

2. 2021年1月18日 11:55:31 : pj8AqNHlPE : ZUtoYXYySXJvVnM=[17] 報告
雑記帳 2021年01月18日
アフリカ西部における11000年前頃までの中期石器時代の持続
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_24.html


 アフリカ西部における11000年前頃までの中期石器時代の持続に関する研究(Scerri et al., 2021)が報道されました。アフリカの中期石器時代(MSA)は、調整石核石器技術や着柄や長距離交換などに特徴づけられる文化的段階で、現生人類(Homo sapiens)の生物学的出現と同時に出現しました(と本論文は主張しますが、今後も慎重な検証が必要だと思います)。これらの特徴とともに、30万〜3万年前頃となるアフリカ全域のMSAの時空間的分布は比較的均質とみなされており、MSAという用語は時系列の指標として使われてきました。MSAにおいて行動学的および文化的複雑さがますます認識されていますが、後期石器時代(LSA)への移行は、小型化石器技術とダチョウの卵殻製ビーズのような特徴を伴い、人類史における発展の基礎となった転機、および最近の人類の特徴と類似した最初の社会とみなされています。一部では、移行はひじょうに劇的で、真に「現代的なヒト」の出現を示す認知能力の変異により引き起こされた、と示唆されました。

 アフリカ全体の最近の研究では、こうした単純で突然のアフリカ大陸全体のMSAからLSAへの移行という見解に異議が唱えられています。一部の遺跡ではこの移行は漸進的で、一部の事例では早くも67000年前頃に始まりました(関連記事)。他の遺跡ではこの移行はずっと遅くに起こり、後期MSA遺物群はしばしば、早期MSAで報告されている同じ古典的特色により特徴づけられます。現生人類の生物学的および文化的進化はアフリカ全域の過程だった、という証拠が蓄積されてきており(関連記事)、MSAとLSAの地域的な時空間的動態は、現生人類の進化史の理解の要因として示されてきました。保存された生物学的遺物が稀なアフリカ大陸では、物質文化がヒトの行動の豊富な記録を提供しており、そうした記録は、生物学的に焦点を当てたヒト進化のモデル化において、ヒト自身と重要なパラメータの両方において意義深いものです。

 アフリカ西部の古人類学的研究は、このよく理解されていない地域の別な特徴を浮き彫りにしています。アフリカ西部の既知で唯一の現生人類化石は、以前にはイウォエレル(Iwo Eleru)と誤って呼ばれていたナイジェリアのイホエレル(Ihò Eleru)遺跡のLSA文脈に由来し、年代は16000〜12000年前頃ですが、その頭蓋冠はずっと早期のヒト集団で通常見られる形態学的特徴を示します。この知見は、物質文化の「段階」と骨格形態は必ずしも関連しているわけではなく、更新世末まで、別のおそらくは比較的孤立していた集団の地域的生存があったかもしれないことを示します。同様に遺伝的分析は、アフリカ西部を現生人類の遺伝的多様性の重要な源泉(関連記事)として浮き彫りにし、一部の研究では、過去のアフリカの古代型集団からの遺伝的寄与も示唆されています(関連記事)。

 考古学的記録も、アフリカ西部におけるヒトの先史時代に特有の特徴を示します。アフリカ西部では、新しい年代のMSAに関する議論が1970年代から行なわれており、通常は地形学と初期の放射性炭素年代に基づいています。ガーナやセネガルやニジェールを含むアフリカ西部全体の遺跡の初期の研究では、ガーナのビリミ(Birimi)遺跡の光刺激ルミネッセンス法(OSL)年代測定でじっさいに示されたように、アフリカ西部のMSAは35000〜15000年前頃と予測されました。もっと最近では、マリのオウンジョウゴウ(Ounjougou)やファレメ(Falémé)川下流での研究により、海洋酸素同位体ステージ(MIS)6〜2の石器群が特定され、それらの石器群はMSAの多様な技術を特徴とします。これは、3つの古典的なMSA遺物群が62000〜25000年前頃にまたがっているセネガル沿岸部のティエマッサス(Tiémassas)での研究と、MSA遺物群の年代が12000年前頃のセネガル川下流での研究により、さらに詳しくなっています。

 これらの遺跡群は、一貫してルヴァロワ縮小手法に焦点を当てており、時には、掻器や鋸歯縁石器や加工された尖頭器のような石器の出現とともに、円盤状手法により補完され、これはアフリカ西部のMSAを特徴づけます。重要なことに、これらの石器群は、両極および石刃縮小や急角度の二次加工を含む、16000〜12000年前頃までは出現しない、アフリカ西部における最初のLSA石器群に区分される技術的特徴を欠いています。しかし、アフリカ西部のMSA遺跡群の大半は、時系列の制御が制限されており、より広範な進化モデルに上手く統合するには、その新しい時間枠の明確な提示が必要です。


●遺跡の分析

 本論文は、セネガルの22000〜21000年前頃となるラミニア(Laminia)遺跡と、11000年前頃以降となるサクソムヌンヤ(Saxomununya)遺跡の後期MSA遺物群を報告します(図1)。これらの年代は、アフリカ大陸の他の地域ではLSAにより置換された何千年も後の、アフリカ西部におけるMSA技術の継続を確証します。両遺跡は、それぞれの集水域の到達範囲内で最下層の段丘結合から成る河川堆積物で構成され、ラミニア遺跡の場合はガンビア川、サクソムヌンヤ遺跡の場合はファレメ川です。この地域で見られる構造隆起の割合が低いことは、多くの河川体系とは異なり、ガンビア川流域もファレメ川流域も段丘結合の広範な連続を含まない、と意味します。これは、数値標高モデル(DEM)の研究により裏づけられます。ラミニア遺跡の堆積物は段丘の露出内に見られますが、サクソムヌンヤ遺跡では段丘表面に見られます。以下、本論文の図1です。
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 ラミニア遺跡は、ガンビア川南岸の段丘に露出しています。ラミニア遺跡の石器群は、砂利堆積物の上部0.2m(ユニット1B)に由来します。サクソムヌンヤ遺跡は、ファレメ川西岸の河岸段丘表面にあります。堆積物は、活発な河川環境での堆積の典型です。石器はその堆積物から製作されました。両遺跡の年代は、石英粒子のOSL測定により推定されました。ラミニア遺跡では3点の標本が採取され、ユニット1Aで24600±980年前、ユニット1Bで22000±850年前と20800±830年前という結果が得られました(図2)。サクソムヌンヤ遺跡では、石器群よりも下層の標本で11100±580年前という結果が得られました。以下、本論文の図2です。
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 ラミニア遺跡とサクソムヌンヤ遺跡は両方とも、年代が新しいにも関わらず、古典的なMSAの技術的特徴を示します。ラミニア遺跡の完全な石器は、48個の石核と56個の剥片で構成されます。これらの石器群はおもに石英の小さな丸石と大きな礫で構成され、珪岩製の石器は3個だけで、ルヴァロワ技術を主とする、均質な技術的特徴を示します。石核は豊富で、石材はラミニア遺跡の堆積物から得られた、と推測されます。加工された石器は稀です。

 サクソムヌンヤ遺跡の石器群は、231個の石核、336個の剥片、29個の加工された剥片、87個の借方(廃棄物)と破片で構成されます。おもな石材は石英の小石ですが、剥片状の珪岩が数個存在します。石核の多く(26.4%)は、求心性の準備を伴う古典的な優占ルヴァロワ石核です。求心性の準備を伴うものの、打撃痕のない石核(6.1%)や、円盤状石核(3.5%)もあり、放射状剥離パターンを示す石核(7.8%)もあります。全体的に、ルヴァロワおよび円盤状縮小体系の存在と、両極もしくは層状縮小の欠如により特徴づけられる石核と借方と道具はMSAによく分類でき、利用可能な石材の制約に起因して石器は小さいのが特徴です。


●考察

 11000年前頃のサクソムヌンヤ遺跡と24000〜21000年前頃のラミニア遺跡は、アフリカ西部におけるMSA遺物群の末期に位置します。これらMSA末期の遺跡群には、11600年前頃のンディアイェネ・ペンダオ(Ndiayène Pendao)、33000年前頃のトーンボーラ3(Toumboura III)、62000〜25000年前頃のティエマッサスが含まれます。この連続は、MSA技術が末期更新世に再発明されたのではなく、連続したことを示します。本論文の結果が意味するのは、新しいMSA遺物群はアフリカ西部の主要な河川系に存在する、ということです。つまり、ガンビア川のラミニア遺跡、ファレメ川のサクソムヌンヤ遺跡、セネガル川のンディアイェネ・ペンダオ遺跡、サルーム川のティエマッサス遺跡です。これらの遺跡はアフリカ西部におけるMSAの最終段階を表していますが、ラミニア遺跡もサクソムヌンヤ遺跡も、LSAに特徴的な要素を示しません。両遺跡の構成は、MSAとLSAとの間の移行段階を示しているのではなく、古典的なMSAです。

 アフリカ西部における新しいMSAの記録は、以前に報告されたものの、孤立もしくは例外的現象とよくみなされてきた、アフリカの他地域の新しいMSAの示唆に基づき、それを強化して拡張します。したがって、LSAの年代をさかのぼらせた最近の研究に加えて、アフリカ西部の新しいMSAは、MSAからLSAへの移行が年代と特徴の両方で大きな変異幅があった、という証拠を追加します。アフリカ西部は、後期MSAのとくに説得力のある証拠を提示します。アフリカ西部のMSA石器群は、アフリカ西部の最初のLSAでは欠けている一連の古典的なMSAの特徴で構成されており、石器技術の別の組み合わせで後に現れます。

 この状況は、アフリカ東部など他のアフリカの地域とは対照的です。急角度の二次加工や石刃製作や両極縮小法の使用といったLSA石器群の主要な特徴である石器技術の要素は、MIS5のMSA石器群で明確に出現しますが、一部の「MSA的」要素は完新世に再発明されたかもしれません。ケニア沿岸の湿潤な沿岸森林地帯のパンガヤサイディ(Panga ya Saidi)洞窟遺跡では、古典的な後期MIS5のMSAから、小さい石器とおもに細粒状石材により特徴づけられる67000年前頃の石器群への大きな移行が起きました(関連記事)。LSAの中で、両極法や石刃などさまざまな技術が稀に交替し、同様にルヴァロワ技術が再出現しました。そのような技術的重複は、アフリカ東部におけるMSAとLSAの区別を妨げませんが、LSAの特徴を欠く後期MSAが明確に存続するアフリカ西部とはひじょうに対照的です。

 アフリカ西部における新しいMSAの存在で興味深いのは、アフリカ西部ではLSAの始まりが遅いことです。LSA石器群はアフリカ中央部の西方で3万年前頃までには存在します。カメルーン西部のようなアフリカ西部で最初のLSA石器群が出現するのは16000〜12000年前頃で、現代のナイジェリアやコートジボワールやガーナの森林地域です。LSAはそれ以降、ファレメ川流域で11000年前頃からさらに西方と北方に出現します。アフリカ西部において初期のLSA石器群はMSAの特徴を欠いており、小さな層状の原形での幾何学模様の細石器の製作が強調されます。LSAはアフリカ西部では、土器の使用とその後の農耕発展の直前まで出現しないようです。

 MSAからLSAへの移行における時空間的パターンの微妙な差異を調べるための多くの研究が必要ですが、アフリカ西部は、少なくともいくつかの点で、環境動態に従っているようです。アフリカ西部の中央部と東部の森林地域におけるLSAの出現は、15000年前頃となる末期更新世の森林拡大と相関しています。現在のデータに基づくと、氷期と間氷期の盛期の移行が平坦的だった可能性は低く、種間で同時には起きなかった生態学的ボトルネック(瓶首効果)が形成されました。以前の研究では、スーダンのサバンナ地帯やギニアの混合森林サバンナ地帯やマングローブ林と隣接したMSA遺跡であるティエマッサスなどで、推移帯生息地の居住が新たな生態学的環境との関わりの促進に役割を果たしたかもしれない、と示唆されています。湿度の時間的なピークは、低緯度地帯と関連する時空間的に斑状の文化的置換におけるMSAの持続にも光を当てます。

 これらの知見は、顕著な文化的変化がアフリカ西部で更新世から完新世の移行期に起きたことを示唆します。アフロユーラシア本土では最西端のセネガルでは、最も新しいMSAの年代は11000年前頃で、最古のLSAは同じ流域内で11000年前頃に出現し、技術的重複はありません。これは、アフリカ西部の末期更新世と初期完新世における強い文化的境界の存在を示唆します。この境界が生物学的なのか、それとも文化的なのか、まだ解明されていません。しかし、大まかに言えば最終結果は同じで、任意交配は起きそうになく、強い集団細分化が存在しました。アフリカ西部におけるMSAの終了は、湿度と森林の増加の頃に起きました。これは、生態学的障壁とボトルネックにより比較的孤立していたかもしれない地域へのLSA拡大の背景を提供します。15000年前頃からの比較的突然の湿度増加は、アフリカ西部におけるLSAの出現年代と一致し、それに続く11000年前頃からのアフリカの湿潤期の盛期への移行を伴い、セネガルにおけるMSAの終了およびLSAの拡大と相関します。

 本論文の結果は、アフリカ全域での他の最近の知見とともに、MSAからLSAへの移行は行動変化の時空間的に不均一な過程だった、と示します。これらの知見は、「現代性」への文化的変化の単純な線形モデルにも、特定のアフリカ大陸全体の年代指標としてのこれらの用語の使用にも適合しません。じっさい、完新世へのかなり一般的なMSAの継続は、MSAにおける複雑さの時空間的出現は斑状であることを示す多くの証拠への追加となり、技術革新に投資する動機は単純な行動学的能力以外の要因と関連していることを示唆します。根本的に異なる技術的伝統の狩猟採集民集団が近隣に居住し、時として恐らくは数千年もアフリカの一部地域を共有しました。これは少なくとも、過去15000年に見られた強い人口構造の遺伝的兆候と一致します(関連記事)。集団間の多様な関係を解明することは、現生人類進化の理解に重要で、アフリカ大陸規模への個々の遺跡・地域からの記録の推定への代案を提供します。


 以上、ざっと本論文について見てきました。アフリカにおける現生人類の形成および進化と文化的変化は、「現代性」への単純な線形ではなく複雑で多様なものであり、そうした多様性に、現生人類の起源と世界規模での拡散の要因があるのかもしれません。現生人類の起源に関しては複雑なモデルが提示されており(関連記事)、本論文はそうした見解とも整合的だと思います。本論文は、現生人類の文化(MSAの担い手に非現生人類ホモ属がいたとしても、さすがに末期更新世に非現生人類ホモ属が存在した可能性は低そうです)の複雑な変容を改めて示したという意味で、たいへん注目されます。


参考文献:
Scerri EML. et al.(2021): Continuity of the Middle Stone Age into the Holocene. Scientific Reports, 11, 70.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-79418-4


https://sicambre.at.webry.info/202101/article_24.html

3. 中川隆[-6968] koaQ7Jey 2021年3月02日 10:54:09 : FnXfRqdhm6 : NHdEMUozR20zbHc=[16] 報告
2021年03月02日
アフリカの人口史
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_2.html


 アフリカの人口史に関する研究(Hollfelder et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。アフリカは現生人類(Homo sapiens)の起源地として特定されており、それはアフリカにおいて人々の最も高い遺伝的多様性と深い分岐が見られることからも明らかです。初期現生人類の最古級の化石群がアフリカで発見されてきたという事実は、初期現生人類の進化におけるアフリカの重要性をさらに指摘します(関連記事)。初期現生人類のアフリカの化石記録は、大きな形態的多様性、および他の現生人類もしくは異なる種の今では絶滅した系統との共存の可能性を示します(関連記事)。

 アフリカにおける現生人類の複雑な初期の歴史は、現生人類がどのように出現したのか、深い分岐人口構造とその起源、アフリカにおける現生人類との深く構造化された集団および/もしくは古代型集団との遺伝的交換があったのかどうか、という問題を提起します。多様なアフリカの集団から利用可能なゲノムが増え、古代DNA配列が進めば、アフリカ人の遺伝的多様性に関してより多くの情報をしだいに得られ、これらのゲノムデータは、移住もしくは混合前の情報の提供により未知の系統もしくは遺伝的構成を明らかにでき、人口集団継続の指標を与えることができます。

 狩猟と採集は、新石器時代の移行と農耕および牧畜の出現前には、全現生人類の生活様式でした。ほとんどの狩猟採集民集団は、拡大する農耕民および牧畜民集団により置換されるか、現在狩猟採集生活様式を実践していたとしてもごくわずかで、アフリカを含む世界中のさまざまな地域に散在しています。現在、狩猟採集民集団のほとんどは、農耕もしくは放牧に適さない、熱帯雨林や砂漠のような地域に居住しています。その結果、狩猟採集民集団(およびそれを実践している個体群)の数は過去数千年で大きく減少してきており、それは農耕民と牧畜民の人口規模の拡大と増加に起因します(関連記事)。

 アフリカでは、狩猟採集民集団は南部および東部とコンゴ盆地で見られます。アフリカ南部では、狩猟採集民のサン人と、アフリカ東部の牧畜民と接触した後に牧畜生活様式を採用した牧畜民のコイコイ人が、農耕に適さない乾燥地域に居住しています。こうした人々は、他の点では無関係な5言語族に属する「吸着音(クリック)」が豊富な言語で構成されるコイサン語に対応して、まとめコイサン人と呼ばれています。アフリカ東部では、狩猟採集生活様式をまだ実践しているか、最近まで実践していたさまざまな集団が存在します。アフリカ東部の狩猟採集民(EAHG)は、アフリカの他の狩猟採集民集団よりも相互と遺伝的に密接に関連しています。さらに、ビアカ(Biaka)やバカ(Baka)やバコラ(Bakola)やベヅァン(Bedzan)やバトゥア(Batwa)やトゥワ(Twa)やムブティ(Mbuti)などの狩猟採集民集団が、赤道付近のアフリカ熱帯雨林に居住しています。これら熱帯雨林狩猟採集民(RHG)集団は、近隣の農耕集団の言語を採用してきました。アフリカにおける過去5000年の急速な拡大と、他の最近の移住は、サハラ砂漠以南のアフリカにおける深い人口構造のパターンを曖昧にし、亜赤道帯アフリカの大半は現在、バンツー語族話者のアフリカ西部系の人々が居住しています。

 アフリカにおける現生人類集団は8万年前頃の出アフリカ移住の前に階層化していた、と今ではますます認識されており、アフリカ南部および西部とアフリカ外へ拡大したアフリカ東部における単一の任意交配人口集団という見解は棄却されています(関連記事)。10万年を超える深い人口構造を調べるためには、完新世後半に到来した新たな集団の前に、該当地域に居住する集団の子孫を表す可能性がある、広い地理的範囲の人口集団の調査が必要です。狩猟採集民集団と古代の個体群のDNA標本は、最近の大規模な移住の混同要因により曖昧になっていないより深い人口史への洞察を提供できます。最近の混合は、たとえば、分岐年代の過小評価につながる可能性があります(関連記事)。

 また古代DNAは、現代人の遺伝子プールでは失われた遺伝的多様性の解明の可能性を提供します。ゲノム配列技術は急速に発達しましたが、アフリカのほとんどは考古学者により広範には調査されておらず、DNAは高温多湿の気候ではとくによく保存されない、という事実にも関わらず、現代の狩猟採集民の利用可能な全ゲノム配列と、アフリカの考古学的標本からのゲノム規模情報の数は近年急速に増加しています。2015年にアフリカ東部の最初の古代ゲノムが刊行されて以来(関連記事)、いくつかの古代アフリカ人標本のゲノム規模情報の回収に成功し、それは地理的にはアフリカ大陸全域や島嶼部にまで、時間的には15000年前頃にまで及んでいます(関連記事)。


●狩猟採集民の人口構造

 アフリカの高い遺伝的多様性は、おそらくは気候変動のために起きた孤立により形成された、深い人口構造の結果です(関連記事)。比較的高いアレル(対立遺伝子)の豊富さやヘテロ接合性やホモ接合性の短さや遺伝的多様性のさまざまな測定値は、アフリカで最も極端な値を示します。アフリカ人のゲノムは平均して、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)にさかのぼる系統を除いて、現代人全員の中で最も分岐した系統を有しています(関連記事)。アフリカの狩猟採集民集団は、最も遺伝的に多様な現代人集団で、最も基底的な片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)と(関連記事)、最も深い常染色体分枝を有している、と以前に示されてきました(関連記事)。

 さまざまな現代の地域的狩猟採集民集団間の遺伝的関係は、距離による孤立でモデル化でき、狩猟採集人口集団が、潜在的に重複する地域でつながり、より大きな地域に居住していた、と明らかになります(関連記事)。コイサン人と他のアフリカの狩猟採集人口集団間の、相互に分岐した後の遺伝子流動の指標があり(関連記事)、遺伝的交換が完新世まで続いたことを示唆します。たとえば、アフリカ南部のサン人集団とアフリカ東部の狩猟採集民との間には勾配のつながりがあるように見えます。現在のマラウイの先史時代個体群は、サン人集団およびアフリカ東部狩猟採集民との類似性を示しており(関連記事)、サン人的な系統はアフリカ東部の古代の個体群で検出されます(関連記事)。現在、アフリカ東部の狩猟採集民は、人口調査の規模が小さいため、低い有効人口規模を示します。

 現在知られている散在する人口集団につながる、かつて広範に存在し重複していた狩猟採集人口集団の縮小は、そのゲノムに痕跡を残しました。たとえば、多くの狩猟採集人口集団は、完新世に有効人口規模の増加を示さず、多くの他集団とは対照的です(関連記事)。現在、熱帯雨林狩猟採集民は周囲の農耕民よりも低い有効人口規模を示します。アフリカ南部のコイサン人は世界規模の比較で最高の遺伝的多様性を示す、と繰り返し指摘されてきており、これは、コイサン人の現生人類史の大半での大きな有効人口規模と、非コイサン人集団との混合に起因します(関連記事)。

 現代コイサン人集団につながる系統は、現代のアフリカ南部狩猟採集民の分布よりも広範な地域に居住していた可能性が高そうです(関連記事)。コイサン人の祖先はアフリカ南部の先史時代の大半においてこの地域唯一の居住者だった可能性が最も高い、との仮説が提示されています。コイサン人と他の全集団との間では、有効人口規模は30万〜20万年前頃に異なり始めており、その時点で人口構造が存在し、その後に人口減少が続いて人口集団に異なる影響を及ぼした、と示されます。たとえば、サン人と熱帯雨林狩猟採集民は6万年以上前には他のアフリカ人集団よりも大きな有効人口規模を維持していましたが、コイサン人と熱帯雨林狩猟採集民を含む全集団は、この期間に人口減少を示します。

 アフリカ北部の人口集団は、深いアフリカの歴史を議論するさいに、よく除外されます。それは、アフリカ北部の人口集団がおもにユーラシア人系統を示し、サハラ砂漠以南のアフリカに分類される系統構成が多くないからです。しかし、15000年前頃にさかのぼるモロッコの化石標本に関する最近の古代DNA研究からは、アフリカ北部の当時の狩猟採集民の系統の大半は非アフリカ系で、最もよく適合するのはアジア南西部の14500〜11000年前頃の文化であるナトゥーフィアン(Natufians)の担い手であるものの、系統の1/3はサハラ砂漠以南のアフリカ人に由来する、と明らかになりました(関連記事)。

 サハラ砂漠以南のアフリカ系統の構成要素は、アフリカ東部系統と西部系統の混合のようであるものの、明確な起源はなく、むしろ、アフリカ西部および東部両方の現代人と関連している標本抽出されていない人口集団に由来する可能性が高そうです。これらモロッコの個体群のうち新しい標本(7000〜5000年前頃)は、経時的なサハラ砂漠以南のアフリカ系統の減少を示しており、この傾向はエジプトでも観察されました。このパターンは上部旧石器時代以降のマグレブにおける孤立から生じた可能性があります(関連記事)。非アフリカ系統が早期にユーラシアからアフリカに戻って来た混合事象に由来するのかどうか、あるいはアフリカ北部と非アフリカ系人口集団との間の長期の遺伝子流動があったのか、まだ解明されていません。


●現生人類進化のモデルと人口集団分岐年代の推定

 人類の進化史を分岐した樹としてモデル化し、分枝間の分岐年代を推定することは一般的です。系統樹は単純化されており、遺伝子流動など人口史の一部の特徴を欠いていますが、集団間の関係と集団間の相対的分岐を理解するのにモデルとして役立ちます。特定の事象の推定は通常、モデルの手法と仮定、基準パラメータ(たとえば、変異率や1世代の時間)、比較に用いられる個体群と人口集団の組み合わせにより異なります。あるいは、人類進化はメタ個体群(アレルの交換といった、ある水準で相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群の集団)モデルで表すことができるものの(関連記事)、深い人類史の問題に対処するためのそうしたモデルはまだ稀です。

 図1は、高網羅率の常染色体ゲノムに基づく現生人類の人口史における、深い分岐の推定範囲の概観を示しています。連続マルコフ合祖(MSMC)およびMSMC2手法は、前者が分岐年代として交差合祖の中間点を使用するという事実に起因する可能性があり、系統的一致、頻度に基づく手法、ベイジアン計算分析(同じ変異率での再基準化後)に基づく推定よりも新しい年代となることに注意が必要です。しかし、分岐年代の順序は、異なる手法間であまり違いはなく、これは手法全体で一貫した集団形態を示します。

 コイサン人の祖先と残りの現代人の祖先との間の分岐は、34万(関連記事)〜20万年前頃(関連記事)と推定されており、MSMCに基づくより新しい推定年代は16万〜9万年前頃です(関連記事)。単純化した分岐系統樹を想定した次の事象は、熱帯雨林狩猟採集民の祖先と(コイサン人の祖先を除く)残りの現代人の祖先との間の分岐です。この分岐の推定年代は35万〜7万年前頃までさまざまですが(関連記事)、一般的にコイサン人の祖先と他の現代人の祖先との分岐よりもずっと新しくなります。ハッザ人(Hadza)やサンダウェ人(Sandawe)のような狩猟採集民を含むアフリカ東部集団は、アフリカ西部人を含む他の全アフリカ人集団とは14万〜7万年前頃に分岐しました。以下、本論文の図1です。
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 ほとんどの研究では、分岐点が現生人類間の最も深い分岐と明らかになっていますが、後述のように未知の集団の潜在的な影響を考慮に入れる必要があります。たとえば、ミトコンドリアDNA(mtDNA)と完全なゲノムでは、コイサン人と他の全集団との間の最も深い分岐が繰り返し見つかっています。しかし、一部の研究では代替案が指摘されており、たとえば、カメルーン西部のグラスフィールド(Grassfields)地域に位置するシュムラカ(Shum Laka)岩陰遺跡の8000年前頃の人類遺骸(関連記事)に部分的に基づく、熱帯雨林狩猟採集民を含むひじょうに深い分岐、もしくはコイサン人とアフリカ西部人と熱帯雨林狩猟採集民との間の最も深い分岐としての3分岐です。8000年前頃のシュムラカ遺跡の1個体は、興味深いことにアフリカ西部人系統と熱帯雨林狩猟採集民系統の両方を示しました。この個体の分岐年代を推定すると、コイサン人とは35万〜26万年前頃、アフリカ西部人および熱帯雨林狩猟採集民とは22万〜12万年前頃と示されます(図2)。これにより、8000年前頃のシュムラカ遺跡個体を、コイサン人分枝、アフリカ西部人関連系統、熱帯雨林狩猟採集民系統(の混合もしくは共有系統の結果)として確実に位置づけられます。以下、本論文の図2です。
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 よく研究されていませんが、サン人の南北間の分岐の推定年代も、17万〜3万年前頃と大きな範囲を示します。これは恐らく、距離による孤立モデルがこれらの集団間の関係をよりよく表しているかもしれない、という事実を反映しています。アフリカ西部および東部の熱帯雨林狩猟採集民の共通起源が示されており、その分岐は6万〜4万年前頃と推定されています。これらの推定値は全てMSMC・MSMC2に基づいており、それは通常より新しい分岐年代を提供することに注意が必要です。


●絶滅系統からの遺伝子移入

 アフリカに関しては、古代型ホモ属(絶滅ホモ属)との混合の問題に再び関心が集まっています。非アフリカ系現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人やデニソワ人からの遺伝的影響は、現在では有力説と確立しています(関連記事)。遺伝子移入元の系統からの参照ゲノムを必要としない新たな手法と、より良好なゲノムデータにより、アフリカにおける絶滅系統からの遺伝子移入の問題を調査できるようになりました。こうした新たな手法は、ネアンデルタール人のゲノム解読前に現生人類とネアンデルタール人の交雑を推測でき(関連記事)、アフリカ系現代人における未知の系統の遺伝的痕跡(関連記事)や、アフリカ西部の現代人集団に見られる未知の人類系統の遺伝的痕跡(関連記事)を検出しています。

 アフリカにおける豊かな人類史を考えると、現代人へとつながる系統が、過去に現代人系統と分岐した人類集団と相互作用して混合した可能性があり、おそらくその系統は、ネアンデルタール人やデニソワ人と同じ頃(60万年前頃)に現代人系統と分岐しました。また、おそらく数十万年前もしくはそれ以降に現代人系統と分岐し、後に何らかの理由で絶滅した、異なる現生人類集団が存在した可能性もあります。そうした人口集団は、現代アフリカ人の主要な遺伝的祖先集団と混合したかもしれません。後者の事象は「ゴースト」人口集団からの遺伝子移入、前者は「古代型」遺伝子移入と呼べます。これら2つの遺伝子移入過程を分離する1つの方法は、現代人の中で最も深い分岐前(30万年前頃以前)の系統から分離した人類集団に関わるものが「古代型」遺伝子移入、30万年前頃以降に現代人と分離した絶滅現生人類に関わるものが「ゴースト」遺伝子移入、とそれぞれ定義することです。

 ネアンデルタール人と現生人類との混合に関してはすでに多くの研究がありますが、これはアフリカの人口史にも関連しています。アフリカ西部のヨルバ人は、ネアンデルタール人系統の割合が小さいと示されてきており、世界中の現代人におけるネアンデルタール人の遺伝的影響の割合を推定するさいに、ネアンデルタール人と混合していない人口集団としてよく用いられてきましたが、新たな手法(IBDmix)を用いたその後の研究で、アフリカ人のゲノムにおけるネアンデルタール人系統の割合は以前の推定よりも高い、と示されました(関連記事)。この研究では、平均して1個体につき1700万塩基対のネアンデルタール人配列が見つかり、そのうち94%は非アフリカ系現代人と共有されています。別の研究では、ネアンデルタール人およびデニソワ人と共有され、非アフリカ系現代人では存在しない古代型多様体がアフリカ西部現代人で見つかり、アフリカにおけるより大きな遺伝的多様性を反映しています。現代アフリカ人のゲノムにおけるネアンデルタール人系統は、ヨーロッパ人的な祖先集団のアフリカへの「逆移住」により説明できます(関連記事)。この想定は、ユーラシア系統の割合と相関するネアンデルタール人系統の割合を明らかにした他の研究(関連記事)により裏づけられます。

 上述のように、ネアンデルタール人のゲノムデータが公開される前でも、現代アフリカ人集団で深く分岐した集団からの遺伝子移入の兆候が検出されていました。この観察の可能性な説明は、これら他の人口集団は今では絶滅し、現代の人口集団にその遺伝的痕跡を残しているのみである、というものです。ネアンデルタール人とデニソワ人のゲノムデータ公開後の研究の進展により、ネアンデルタール人とデニソワ人は非アフリカ系現代人の古代型混合の全てを説明できるものの、現代アフリカの人口集団で観察される古代型混合の兆候を説明できない、と明らかになりました。この古代型集団を表す参照ゲノムが存在しないため、古代型およびゴースト遺伝子移入はよく、強く関連した祖先型多様体を含み、および/もしくは深い合着(合祖)年代を示す、ゲノムにおける分岐した領域として識別されます。この方法で識別された配列は、標本抽出されていない絶滅「ゴースト」人口集団に由来するか、過去の集団間の深い階層化を含む、いくつかの代替的な複雑な人口統計から生じるパターンを表しているかもしれません。しかし、これまでに提示された分析では、深い構造、古代型および/もしくはゴースト人口集団からの真の遺伝子移入、統計上の産物を区別することは困難です。

 表1で示されるように、「ゴースト」人口集団さらには「古代型集団」との混合は、さまざまなアフリカの人口集団の特別な多様性パターンを説明するために提案されてきました(関連記事)。古代型人口集団との交雑は頻繁に起きたものの、低水準だった、との仮説が提示されています。とくにアフリカ西部現代人では、古代型系統を有する、とよく識別されてきました。この兆候は、現代人の祖先とネアンデルタール人の祖先が分岐したのと同じ頃か、やや早い年代に分岐した、1つもしくは複数の人口集団に由来する、と示されてきました(関連記事)。

 古代型遺伝子移入への別の兆候もしくは代替的な説明はアフリカ西部現代人で提案されてきており、それは30万年前頃に分岐したゴースト人口集団からの遺伝子移入です(関連記事)。アフリカ西部における古代型もしくはゴースト人口集団からの混合の兆候は、アフリカ西部および東部人口集団へのコイサン人口集団の非対称的な関係と一致します(関連記事)。さらに、アフリカ全体における古代型系統の割合の違いから、人口構造は遺伝子移入の時点ですでに確立していたか、あるいはこの観察が上述した非アフリカ系集団からの遺伝子流動の結果かもしれない、と示唆されます。

 またいくつかの研究では、遺伝子移入配列は大きな有効人口規模の人口集団に由来し、それは自身が構造化された人口集団であることを示唆している、と提案されています。別の可能性は、大きな有効人口規模が異なる系統からの複数の遺伝子移入により形成され、古代型参照配列なしに区別することは困難である、というものです。残念ながら、アフリカにおける古代型もしくはゴースト遺伝子移入の多くの研究は少数の人口集団に焦点を当てており、および/もしくは推定に1つの手法しか用いていないので、識別された古代型もしくはゴースト遺伝子移入の影響は、まだ体系的な方法では現代人の主要な分枝全てにわたって比較することはできません。

 興味深いことに、多くの研究はアフリカにおける絶滅系統からの遺伝子移入に関してかなり最近の時期を特定しており、非アフリカ系人口集団と分岐した後にさえ遺伝子移入事象があった、と想定しています。これは、比較的最近まで古代型人口集団が存続していたことを示唆します。これは、10万年前以前に形態的多様性のほとんどが消滅したことを示す、化石記録からの観察とは対照的です。ただ、16300〜11700年前頃と推定されているナイジェリアのイホエレル(Iwo Eleru)で発見された個体や、25000〜20000年前頃と推定されているコンゴのイシャンゴ(Ishango)で発見された個体では、祖先的な形態的特徴が指摘されています(関連記事)。


●今後の展望

 まだ解決されていない問題の一つは、現生人類がどのように出現したのか、ということです。現生人類の起源もしくは出現が比較的長期間の進化的過程であることは明らかですが、いくつかの時間制限を設定することにより、現生人類の起源に関する問題を絞り込めます。現在から始まって過去にさかのぼると、現生人類間の最も深い分岐は30万年前頃となり、充分に発達した(行動と認知両方でその可能性が高い)現生人類(必ずしも解剖学的現代人ではありません)の存在の下限とみなせます。それは単に、この最初の分岐の(現存している)子孫集団が、確かに現生人類であるからです。現生人類とネアンデルタール人およびデニソワ人との65万年前頃の分岐は、現生人類固有の特徴の発達の上限とみなせます。

 換言すると、これらの制約の使用により、現生人類がネアンデルタール人およびデニソワ人との共通祖先から分岐して、現在観察される人類の階層化の開始時期までに、固有の特徴をどのように発達させたのか、という問題を提起できます。そうした固有の特徴は、頻度変化や潜在的にはエピジェネティックな変化を含む遺伝的変化に制御されている可能性があります。アフリカにおける現生人類の起源に関しては、さまざまなモデルがあります。これらのいくつかには、(1)拡大し他の全ての人口集団を置換した単一起源説、(2)いくつかのアフリカ人集団(地理的には分離していた可能性が高そうです)がおそらくは孤立により深く階層化されていたとするアフリカ複数地域モデル、(3)1つの集団および地域からの拡大ではあるものの、一部の地域的継続および/もしくは古代型遺伝子移入を伴う、といった見解があります。

 化石の発見からの多様な形態と物質文化と遺伝学は、アフリカにおける現生人類の純粋に単一の起源を示唆しますが(関連記事)、散在した多様な人口集団からの散発的な遺伝子流動の可能性もあります(関連記事)。しかし、構造化されたメタ個体群のモデルが、現生人類の発達に重要な遺伝的多様体が人口集団間で同時に拡大することを可能としながら、階層化を引き起こす遺伝子流動に対する障壁をどのように維持するのか、明確ではありません。

 現生人類の複雑な可能性がある初期の歴史を解明することは、遺伝子流動や移住のさまざまな形態を含む後の事象が遺伝的兆候を歪めるかもしれないので、やりがいのある研究です。より複雑なモデル、より多様なデータ、より優れた統計手法により、単純な分岐モデルを超えて観察することや、アフリカの人口集団の複雑な人口統計を解明することや、上述したような現生人類の起源のモデルに関する情報を提供することができます。より多くのデータを収集するための努力はありますが、データ標本抽出における偏りが依然として見られます。とくにアフリカ南部は現在、現代人と古代人のゲノムデータの両方で大きな割合を占めます。充分に研究されていない地域からのより多くのゲノムデータと、古代DNA分析における可能な改善により、アフリカの先史時代の時空間的理解が洗練され、現生人類進化の初期の事象を解明できるようになるでしょう。


参考文献:
Hollfelder N. et al.(2021): The deep population history in Africa. Human Molecular Genetics.
https://doi.org/10.1093/hmg/ddab005


https://sicambre.at.webry.info/202103/article_2.html

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