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<学術会議>官邸前ハンストの菅野完「当然死ぬ気ですよ」(田中龍作ジャーナル)
http://www.asyura2.com/20/senkyo276/msg/430.html
投稿者 赤かぶ 日時 2020 年 10 月 10 日 09:05:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 



【学術会議】官邸前ハンストの菅野完「当然死ぬ気ですよ」
https://tanakaryusaku.jp/2020/10/00023795
2020年10月9日 19:54 田中龍作ジャーナル


ハンスト突入から1週間の菅野完。足元はフラついているが眼光は鋭い。=9日、官邸前 撮影:田中龍作=

 福島の原発事故があった2011年の年末、東電の勝俣会長宅そばの公園でハンストを決行した民族派右翼のY青年がいた。

 水一滴も飲まない熾烈なハンストだった。48時間目あたりから体がフラフラするようになった。体温を計ったら34.4度しかなかった。低体温症である。

 友人が救急車を呼んだが、Y青年は断った。その後、所属する民族派右翼団体の議長から「70時間を超えると死ぬ可能性がある。命令だ、止めろ」と言われ、泣く泣くハンストを中止した。

 Y青年は意識が戻った後、田中に「死ぬつもりだった」と話した。


Y青年は東電・勝俣会長宅前でハンストしようとしたが、警察の強引な説得により近くの公園でのハンスト決行となった。勝俣邸前にはポリスボックスまであった。=2011年12月30日、新宿区左門町 撮影:田中龍作=

 当時、この青年に毛布の差し入れをした人物がいた。のちに『日本会議の研究』で一躍注目を浴びることとなった著述家の菅野完である。

 菅野は「学術会議人事への介入」に抗議して2日午後からハンストに入った。場所は官邸前。曲がったことには、相手がどんなに強大であろうが、面と向かって異を唱える菅野らしい。

 ハンストはきょう午後7時で丸一週間を経過した。摂取するのは、水分と塩だけ。明らかに危険水域に入った。

 田中は菅野に「Y青年は死ぬつもりだったと言ったが、あなたはどうか?」と尋ねた。

 菅野は間髪を入れず「(私も)当然、死ぬ気ですよ」と答えた。「でも、なかなか(簡単に)死んでやるか」と加えた。

 自分の命と引き換えにしても菅政権に一矢報いようとしている菅野は、国会日程をニラんでいるのである。

 国会は23日(金)か26日(月)に召集され、28日から予算委員会となる見通しだ。菅首相入りで、NHKも中継する。当然、「学術会議人事の介入問題」が世間の注目を浴びる。

 菅野は「28日か、29日に死ねたら本望」と言う。諫死だ。


台風14号の影響による冷たい風雨に打たれながらもハンストを続ける菅野完。=8日、官邸前 撮影:田中龍作=

 菅野がここまで思い詰めているのは、学者や言論人の危機感が緩慢であるためだ。

 今回の人事介入は、令和の滝川事件(1933年=昭和8年)とも呼ばれる。京大法学部の滝川幸辰教授の学説や講演内容が危険思想であるとして、文部省により免官された事件である。

 滝川事件では、京大法学部の全教官が辞表を出し、法学部の学生全員が退学届けを提出した。

 ひるがえって現状はどうだろう。学術会議の誰も辞表を書かない。大学の教官がストを打つのでもない。

 学術会議の次に官邸は国立大学の人事に手を突っ込んでくるだろう。

 「この状況を見て何も思わないんだったら(危機感を持たないのであれば)、学者だとか言論人(記者含む)だとか辞めちまえ」。目は落ちくぼみ頬はこけていたが、菅野は語気も鋭く語った。(文中敬称略)

     〜終わり〜


 

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コメント
1. 赤かぶ[98887] kNSCqYLU 2020年10月10日 09:05:55 : Etqgkm55TU : RGtULnlHMS9YdlE=[28732] 報告

2. 赤かぶ[98888] kNSCqYLU 2020年10月10日 09:07:11 : Etqgkm55TU : RGtULnlHMS9YdlE=[28733] 報告

3. 赤かぶ[98889] kNSCqYLU 2020年10月10日 09:08:38 : Etqgkm55TU : RGtULnlHMS9YdlE=[28734] 報告

4. 赤かぶ[98890] kNSCqYLU 2020年10月10日 09:10:12 : Etqgkm55TU : RGtULnlHMS9YdlE=[28735] 報告

5. 赤かぶ[98891] kNSCqYLU 2020年10月10日 09:14:18 : Etqgkm55TU : RGtULnlHMS9YdlE=[28736] 報告

6. 赤かぶ[98892] kNSCqYLU 2020年10月10日 09:21:59 : Etqgkm55TU : RGtULnlHMS9YdlE=[28737] 報告

7. 破滅リベラル[66] lGqWxYOKg3iDiYOL 2020年10月10日 09:22:06 : kR8XIQgFkU :TOR TnZCeGMwLjZMMTI=[3] 報告
性犯罪者菅野も銭ゲバ田中も人気が落ちたから必死のパフォーマンス
こいつらと一緒にされてはかなわないとみんな出にくくなってるんだろう

[スレ主【赤かぶ】による初期非表示理由]:その他(アラシや工作員コメントはスレ主が処理可能)クラゲによるアラシ。過去に場違い、多重、デマ、工作コメント多数でアラシ認定。
8. 赤かぶ[98893] kNSCqYLU 2020年10月10日 09:26:17 : Etqgkm55TU : RGtULnlHMS9YdlE=[28738] 報告

9. 赤かぶ[98894] kNSCqYLU 2020年10月10日 09:30:27 : Etqgkm55TU : RGtULnlHMS9YdlE=[28739] 報告

10. 2020年10月10日 09:40:30 : q93VC7Z6QU : WHZvSWxEdVFBOTY=[102] 報告

 官僚に好き勝手にやられてしまうこの政権、早く解散しろ。

11. 2020年10月10日 09:43:25 : q93VC7Z6QU : WHZvSWxEdVFBOTY=[103] 報告

 菅野さん応援しています。

 でも、無理したらあかん。

12. 赤かぶ[98895] kNSCqYLU 2020年10月10日 09:48:44 : Etqgkm55TU : RGtULnlHMS9YdlE=[28740] 報告

13. 2020年10月10日 09:55:39 : vNcwasnChY : cFRrbHdrUm9TRm8=[1] 報告
菅野完さん、もう十分だ。

狂った菅首相のために命を落としてはならない。

ハンストは明日で止めましょう。

14. 赤かぶ[98896] kNSCqYLU 2020年10月10日 09:58:05 : Etqgkm55TU : RGtULnlHMS9YdlE=[28741] 報告

15. 2020年10月10日 10:09:26 : uyfx7TCC2Q : czRHNUdjNGhaQlU=[1] 報告
確かに日本の危機ですね。

菅野完さんのハンスト、応援します。

体調を看て撤退してくださいね。

16. 赤かぶ[98897] kNSCqYLU 2020年10月10日 10:13:13 : Etqgkm55TU : RGtULnlHMS9YdlE=[28742] 報告

17. 赤かぶ[98898] kNSCqYLU 2020年10月10日 10:13:52 : Etqgkm55TU : RGtULnlHMS9YdlE=[28743] 報告

18. 赤かぶ[98899] kNSCqYLU 2020年10月10日 10:14:36 : Etqgkm55TU : RGtULnlHMS9YdlE=[28744] 報告

19. 赤かぶ[98900] kNSCqYLU 2020年10月10日 10:15:19 : Etqgkm55TU : RGtULnlHMS9YdlE=[28745] 報告

20. 赤かぶ[98901] kNSCqYLU 2020年10月10日 10:15:59 : Etqgkm55TU : RGtULnlHMS9YdlE=[28746] 報告

21. 2020年10月10日 10:19:24 : QKGUhfoI7k : WkVaZWVMcXo3MVE=[2] 報告
たたかうジャーナリスト菅野完氏は名著『日本会議の研究』を出版して逸早く安倍一派が腐敗詐欺集団自衛隊の改憲利権・靖国軍事利権と一体となって日本経済を破壊する構造を詳細に暴き出した。
たたかうジャーナリスト菅野完氏は現代日本の清沢冽である。
http://zenkyoto68.tripod.com/senpan02.htm
清沢冽『暗黒日記』
昭和一七年一二月一二日
 右翼やゴロツキの世界だ。
東京の都市は「赤尾敏」(代議士)という反共主義をかかげる無頼漢の演説のビラで一杯であり、新聞は国粋党主(国粋同盟総裁)という笹川良一(代議士)という男の大阪東京間の往来までゴヂ活字でデカデカと書く。
こうした人が時局を指導するのだ。

たたかうジャーナリスト菅野完氏の2020年の鋭敏な危機感は、1967年9月9日、日本物理学会臨時総会で山本義隆をはじめ小出昭一郎、水戸巌、槌田敦等若い物理学徒達の真摯で戦闘的な危機感に重なる。↓
http://shibuyaleft.livedoor.blog/archives/7609705.html

腐り切った凶暴な詐欺集団自衛隊沖縄防衛局がいま狂ったトランプのネズミ奴隷として沖縄辺野古で国民を半殺しにしながら基地建設を強行している。
たたかうジャーナリスト菅野完氏のたたかいに呼応する多くの若者や労働者が安保自衛隊・米軍を叩き潰すたたかいの戦列に加わりつつある。
http://esashib.com/nankin01.htm

22. 赤かぶ[98902] kNSCqYLU 2020年10月10日 10:25:20 : Etqgkm55TU : RGtULnlHMS9YdlE=[28747] 報告

23. 2020年10月10日 11:29:40 : 9g5erqXg5w : QVpjV1liMWxzRTI=[2] 報告
昨日ラジオの文化放送大竹まことゴールデンラジオを聴いていたら
いきなりの菅野さんのゲリラ出演でこの行動の事を知りました
この番組は今の自民党&ウヨ御用に成り下がった腐った多くの放送メディアの中で
奮闘する信用信頼できる貴重な番組ですね

昨日のゴールデンラジオはラジコなりYOUTUBE動画で聴けますので
菅野さんの声を聴いてみてください(先週大竹さんは遅い夏休みで日替わりMCで昨日は青木理さんが担当)

24. 赤かぶ[98920] kNSCqYLU 2020年10月10日 11:38:34 : Etqgkm55TU : RGtULnlHMS9YdlE=[28765] 報告

25. 2020年10月10日 11:40:24 : EShnq3aAXR : STFhN1gzSzF4Wnc=[237] 報告
 
 たった一人で 「万人力」!!   頑張ってください
 
 
26. 2020年10月10日 11:58:56 : Dk07LjrY0E : UzcyZnRsVkdQL00=[10] 報告
菅野氏を支援したいのならば、今と明日と明後日と続く、その闘いの軌跡と、その発言を取材し、24時間でもなくぶっ通しのドキュメントを報道することだろう。
どんなマスコミにも出来ない?
それはどうなんだ。
東京新聞の望月記者や大阪日々新聞相沢記者は是非駆けつけてカメラを向けて貰いたい。
勿論全ての他のジャーナリストの問題だ。

27. 赤かぶ[98925] kNSCqYLU 2020年10月10日 12:17:41 : Etqgkm55TU : RGtULnlHMS9YdlE=[28770] 報告

28. 2020年10月10日 12:18:12 : 9g5erqXg5w : QVpjV1liMWxzRTI=[3] 報告
>>13
その通りです菅野さんあなたは倒れてはいけない死んではならない


倒れて死んでもらいたいのはコイツらだ
自民党公明党維新の議員
田崎史郎
平井文夫
辛坊治郎
橋下徹
八代英輝
立川志らく
真相の道
パイプライン

29. 赤かぶ[98926] kNSCqYLU 2020年10月10日 12:32:41 : Etqgkm55TU : RGtULnlHMS9YdlE=[28771] 報告

30. 日高見連邦共和国[20772] k_qNgoypmEGWTYukmGGNkQ 2020年10月10日 13:13:35 : ZLUY5YLyM6 : RUEzRkhMd3BSdVk=[6] 報告
>>28
>真相の道
 パイプライン

それ、同一人物だから。(笑)

31. 2020年10月10日 13:48:13 : F4gjeaU2DI : VTZyL2RQa09kdjI=[81] 報告
水と塩も無しでやったら本気度が伝わるだろう。
32. エレ爺[-155] g0eDjJbq 2020年10月10日 13:56:02 : kxk7MnCbWU : d1N5Q0JNaG5NNEk=[-7862] 報告
>>30

>真相の道 パイプライン それ、同一人物

ほんと?

パイプラインは書いてる事が至極まともで、貧相の道とは別人みたいだけど。

https://www.youtube.com/watch?v=vhpA0xg2Y2k

エレ爺と同世代みたいだけどね。

https://www.youtube.com/watch?v=zTXZMngi-j0



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

33. り寺CIA軍薬複合体[-776] guiOm4JigmiCYIxSlvKVoY2Hkcw 2020年10月10日 14:10:41 : kxk7MnCbWU : d1N5Q0JNaG5NNEk=[-7864] 報告
>>31

>水と塩も無しでやったら

それじゃ断食(絶食療法)にならないよ。

http://www6.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/?pid=120425

>10日から3週間にわたって絶食を行う。期間中、口にするのは水だけ。三日ほどで空腹感は無くなるが、頭痛や倦怠感が生じるため、医師が検査を行い、場合によっては絶食を中断する。

3週間というのは、2プラス21=23ですね。

10月23日の金曜日(の夕方)が断食の終了予定日ですね。

そこでドクターストップがかかるでしょう。

それまでは、日本学術会議の「任命された」メンバーは、誰も「辞表」なんて書かないよ。

民科のメンバーもね。




[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

34. わ寺アホ集団のアホA[-188] gu2Om4NBg3qPV5JjgsyDQYN6QQ 2020年10月10日 14:21:47 : kxk7MnCbWU : d1N5Q0JNaG5NNEk=[-7866] 報告
>>33

リューサク兄ちゃんは、10月23日(金)の夕方にハンストをやめさせなければ、

自殺幇助

の罪に問われるよ!

今はいいけどね。


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

35. 2020年10月10日 14:32:49 : kxk7MnCbWU : d1N5Q0JNaG5NNEk=[-7868] 報告
>>34

>自殺幇助

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%AE%BA%E5%B9%87%E5%8A%A9

>自殺幇助 (じさつほうじょ) とは、別の人、時には医師の助けを借りた自殺。

https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E6%AE%BA%E9%96%A2%E4%B8%8E%E7%BD%AA-73157

>他人を(教唆または)幇助して自殺させることによって成立する犯罪をいう (刑法 202前段) 。

>刑法は自殺行為自体は処罰しないが,他人の自殺行為に関与する行為はこれを処罰する。(自殺教唆は,自殺の決意をさせる慫慂行為をさし,)自殺幇助は,自殺を容易ならしめる有形,無形の援助行為をいう。未遂罪も罰せられる (203条) 。

はい、田中龍作は、6カ月以上の懲役ですね。




[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

36. ソーカそうかそうだね[-626] g1yBW4NKgruCpIKpgruCpIK@gss 2020年10月10日 15:10:01 : kxk7MnCbWU : d1N5Q0JNaG5NNEk=[-7870] 報告
>>34

CIA広渡清吾は、スガの菅(すがノかん)を見捨てたみたいね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E6%B8%A1%E6%B8%85%E5%90%BE

>広渡 清吾(ひろわたり せいご、1945年12月4日 - )は、日本の法学者。専修大学法学部教授、日本学術会議会長、民科(民主主義科学者協会)法律部会理事など

CIAオザワンもね。

田中龍作とともにポイ捨て。


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

37. 2020年10月10日 16:15:48 : 2YkYRXki2s : S3BUTGZpLmk2UFk=[30] 報告

菅野さん無茶しないで。死ぬのはダメ。

菅野さんは、世界に必要な人です。

38. panbet37[3192] gpCCgYKOgoKChYKUglKCVg 2020年10月10日 16:47:50 : 6J7XudsF6g : SWhiVG1scjVucXc=[835] 報告
亡国組織日本会議を真っ向から弾劾する書を書き、今は国会前で決死のハンガーストライキに挺身。

 菅野完さんこそ、愛国憂国の国士です。

 僕は前から、菅野さんの純粋な作家魂、正義感、愛国心に敬意を表してきました。
 だからこの闘いにも共感し、感動しています。

 でも、どうか、大切なお身体を労り、さらなるご活躍、ご発言を願ってやみません。 菅野さんを愛する一老生より。

39. 2020年10月10日 18:02:24 : eC6EKQVoS6 : aXFlYmpraUkzQnc=[22] 報告
ツイッタージャパンと自民党は癒着関係

ツイッタージャパン
自民党、アジア・パシフィック・イニシアティブ、日本青年会議所とズブズブですね。

ツイッタージャパン代表取締役の笹本裕氏は自民党本部での勉強会、
安倍晋三氏はRJIFのイベントに出席。

ツイッタージャパン元代表取締役会長の近藤正晃ジェームス氏は
自民党の飼い主も居るアジア・パシフィック・イニシアティブのメンバー。

40. 2020年10月10日 18:41:38 : LY52bYZiZQ : aXZHNXJYTVV4YVE=[7188] 報告
〖菅野完さん×青木理さん×室井佑月さん〗「問題は『学問の自由』より、もっと手前にある」日本学術会議、総理が6人の任命拒否 第20弾
•2020/10/08
野菜デモラジオ役立ち情報局
https://www.youtube.com/watch?v=zwkiTeRo_MI
41. 命を大切に思う者[3785] lr2C8JHlkNiCyY52gqSO0g 2020年10月10日 18:54:04 : jbiEd1z83Q : UUN0SlRZV0tBVTY=[35] 報告
菅は「誰を任命拒否するかは、自分が決めたのではない」などと、ふざけたこと言い出したからな。
そりゃ、許せないだろう。

誰かを任命拒否すること自体は、菅が決めたのだとしても、
総理でもないに人間が、任命拒否の対象をあの6人にすると決めただけで、背任事件ですよ。
実際にあったことが、それのわけないだろう。出来事を捏造して罪を部下になすりつけるのを、やめろ! 
42. 2020年10月10日 19:06:02 : Bk6QSxM1yk : VWRPbXN6SXVjOGc=[27] 報告
>>28

中川と罵愚の追加もよろしくです。

43. 2020年10月10日 20:40:33 : aAei7z5Y1g : UlM2UWtqanplL3c=[4] 報告

最高裁判事15人全員を安倍政権で任命した内容の検証も
して欲しい。


最高裁で問題にならなかったからこそ、
この問題が起きているのだから。


「木澤克之判事は加計学園元監事」
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/215969
https://www.excite.co.jp/news/article/Litera_2998/

「安倍内閣が最高裁人事に介入か 山口厚最高裁判事」
https://blogos.com/article/207598/


https://twitter.com/norikosakoh/status/1175227842314899456


44. 2020年10月11日 04:31:23 : HSDRwXQW7w : L2IuSXFYbXBBdXM=[3] 報告
自分や自分たちに得になるなら誰彼構わず選挙運動し投票してきた国民がこういう政府を作った。
45. 2020年10月11日 05:12:19 : 2YkYRXki2s : S3BUTGZpLmk2UFk=[31] 報告
> 44

仰る通りです。
第二次安倍政権発足時から、放置していたらこうなることは明白だったのに。
あの当時も、スガーリン政権と同様に、70%近くの支持率がありましたからね。

当時、
「日本人は真性バカなんじゃないか?」
と一人嘆いていたのを今でも思い出します。

目先の事しか見えていない人が多過ぎです。
死んでから後悔しても遅いのに。

今までに反社会勢力 安倍政権のせいで、多くの人々が死にました。
因果関係が見えれば、怒りに震えますよ。

「知らぬが仏」とは「バカは死ぬまで分からない」と同意でしょう。
だから反社会勢力政党は、国民の愚民化に邁進してきました。

その代わりに、国力が無くなり、
今までバカにして来た他国にマウンティングされる日も目前ですが、
そのまで考えられる脳味噌は皆無ですものね。

今回の菅の統失レベルの答弁(俺は推薦リストを見ずに任命しただけ)を見ると、
「自滅党に政治をさせていたら100万%日本は滅ぶ」確信を得ました。
他国の首脳でここまでのバカはいません。

安倍と同じく、喰いものにされるだけですね。

サッサと自公維政治なんて滅ぼすべきです。
日本に害悪なだけの存在です。

46. 豊岳正彦[-5229] lkyKeJCzlUY 2020年10月11日 07:36:42 : 94hwD4m7yY : djJHTHh0dWdoeE0=[-187] 報告
死んだらどんだけ人様に迷惑をかけるかもわからん愚か者だね。
世の中を破るのが専門の学者ならそんなもんだろう。
おのれの欲しか頭にない。
人がどうなろうとかまわない。
アインシュタインのノーベル賞で何千万人いや何億人が命を失ったか考えたらわかるやろ。
まあ雨に打たれて自ら飢えて反省するのもよかろう。
気が済むまでやりなさい。
今死んでも絶対に政府には採用されないから。
故郷に末代までの恥をさらすだけだね。

士は己を知る者のために死す、という言葉を知っているかい。
知らなければ左大臣光永さんの雨月物語菊花の約を読むといい。
roudokus.com/Ugetsu/2_01.html
日本人なら言霊を使え。

[18初期非表示理由]:担当:スレ違い長文多数により全部処理

47. 豊岳正彦[-5228] lkyKeJCzlUY 2020年10月11日 07:59:19 : 94hwD4m7yY : djJHTHh0dWdoeE0=[-186] 報告
どうせ暇なんだからスマホでお釈迦様の言葉を読むがよい。

阿修羅の連中にも読ませてあげよう。

仏教聖典237版から私が写経した。

hougakumasahiko.muragon.com/entry/107.html

仏教聖典 おしえ 第一章


第一章 因縁

 第一節 四つの真理(四諦したい、四聖諦ししょうたい)__苦・集・滅・道

 一、パーリ、律蔵大品一-六・パーリ、相応部五六-一一-一二、転法輪経

 この人間世界は苦しみに満ちている。
生も苦しみであり、
老いも病も死もみな苦しみである。
怨みあるものと会わなければならないことも、
愛するものと別れなければならないことも、
また求めて得られないことも苦しみである。
まことに、
執着(しゅうじゃく)を離れない人生はすべて苦しみである。
これを苦しみの真理(苦諦くたい)という。

 この人生の苦しみが、
どうして起こるかというと、
それは人間の心につきまとう煩悩から起こることは疑いない。
その煩悩をつきつめてゆけば、
生まれつきそなわっている激しい欲望に根ざしていることがわかる。
このような欲望は、
生に対する激しい執着をもととしていて、
見るもの聞くものを欲しがる欲望となる。
また転じて、死をさえ願うようにもなる。
これを苦しみの原因(集諦じったい)という。

 この煩悩の根本を残りなく滅ぼし尽くし、
すべての執着を離れれば人間の苦しみもなくなる。
これを苦しみを滅ぼす真理(滅諦めつたい、めったい)という。

 この苦しみを滅ぼし尽くした境地に入るには、
八つの正しい道(八正道はっしょうどう)を修めなければならない。
八つの正しい道とは、
正しい見解、(正見・・・正しい信仰)
正しい思い、(正思・・・正しい思惟)
正しい言葉、(正語)
正しい行い、(正業しょうごう)
正しい生活、(正命しょうみょう)
正しい努力、(正勤しょうごん)
正しい記憶、(正念・・・正しい憶念)
正しい心の統一、(正定しょうじょう・・・正しい瞑想)
である。
これらの八つは欲望を滅ぼすための
正しい道の真理(道諦どうたい)といわれる。

 これらの真理を人はしっかり身につけなければならない。
というのは、この世は苦しみに満ちていて、
この苦しみから逃れようとするものは誰でも煩悩を断ち切らなければならないからである。
煩悩と苦しみのなくなった境地「涅槃寂静ねはんじゃくじょう」は、
さとりによってのみ到達し得る。
さとりはこの八つの正しい道によってのみ達し得られる。

 二、パーリ、本事經一〇三・パーリ、中部二、一切漏経

 道に志す人も、この四つの聖(とうと)い真理を知らなければならない。
これらを知らないために、長い間、迷いの道にさまよってやむときがない。
この四つの聖い真理を知る人をさとりの眼を得た人という。

 だから、よく心を一つにして仏の教えを受け、
この四つの聖い真理の道理を明らかに知らなければならない。
いつの世のどのような聖者も、
正しい聖者であるならば、
みなこの四つの聖い真理をさとった人であり、
四つの聖い真理を教える人である。

 この四つの聖い真理が明らかになったとき、
人は初めて、
欲から遠ざかり、
世間と争わず、
殺さず、
盗まず、
よこしまな愛欲を犯さず、
欺かず、
そしらず、
へつらわず、
ねたまず、
瞋(いか)らず、
人生の無常を忘れず、
道にはずれることがない。

 三、四十二章経・勝鬘経

 道を行うものは、
例えば、燈火(ともしび)をかかげて、
暗黒の部屋に入るようなものである。
闇はたちまち去り、
明るさに満たされる。

 道を学んで、
明らかにこの四つの聖い真理を知れば、
智慧の燈火を得て、無知の闇は滅びる。

 仏は単にこの四つの真理を示すことによって人びとを導くのである。
教えを正しく身に受けるものは、
この四つの聖い真理によって、
はかないこの世において、
まことのさとりを開き、
この世の人びとの守りとなり、
頼りとなる。

 それは、
この四つの聖い真理によって、
あらゆる教えに達し、
すべての道理を知る智慧と功徳をそなえ、
どんな人びとに向かっても、
自在に教えを説くことができる。


 第二節 不思議なつながり

 一、華厳経

 人びとの苦しみには原因があり、
人びとのさとりには道があるように、
すべてのものは、
みな縁(条件)によって生まれ、
縁によって滅びる。

 雨の降るのも、
風の吹くのも、
花の咲くのも、
葉の散るのも、
すべて縁によって生じ、
縁によって滅びるのである。

 この身は父母を縁として生まれ、
食物によって維持され、
また、
この心も経験と知識とによって育ったものである。

 だから、
この身も、
この心も、
縁によって成り立ち、
縁によって変わるといわなければならない。

 網の目が互いにつながりあって網を作っているように、
すべてのものは、
つながりあってできている。

 一つの網の目が、
それだけで網の目であると考えるならば、
大きな誤りである。

 網の目は、
ほかの網の目とかかわりあって、
一つの網の目といわれる。

 網の目は、
それぞれ、
他の網が成り立つために、
役立っている。

 二、華厳経

 花は咲く縁が集まって咲き、
葉は散る縁が集まって散る。
ひとり咲き、
ひとり散るのではない。

 縁によって咲き、
縁によって散るのであるから、
どんなものも、
みなうつり変わる。
ひとりで存在するものも、
常にとどまるものもない。

 すべてのものが、
縁によって生じ、
縁によって滅びるのは
永遠不変の道理である。
だから、
うつり変わり、
常にとどまらないということは、
天地の間に動くことのないまことの道理であり、
これだけは永久に変わらない。

第三節 ささえあって

 一、華厳経

 それでは、
人びとの憂い、
悲しみ、
苦しみ、
もだえは、
どうして起こるのか。
つまりそれは、
人に執着があるからである。

 富に執着し、
名誉利欲に執着し、
悦楽に執着し、
自分自身に執着する。
この執着から苦しみ悩みが生まれる。

 初めから、
この世界にはいろいろの災いがあり、
その上、
老いと病と死とを避けることができないから、
悲しみや苦しみがある。

 しかし、
それらもつきつめてみれば、
執着があるから、
悲しみや苦しみとなるのであり、
執着を離れさえすれば、
すべての悩み苦しみはあとかたもなく消えうせる。

 さらにこの執着を押しつめてみると、
人びとの心のうちに、
無明(むみょう)と
貪愛(とんあい)とが見いだされる。

 無明は
うつり変わるもののすがたに眼が開けず、
因果の道理に暗いことである。
貪愛とは、
得ることのできないものを貪(むさぼ)って、
執着し愛着することである。

 もともと、
ものに差別はないのに、
差別を認めるのは、
この無明と貪愛とのはたらきである。
もともと、
ものに良否はないのに、
良否を見るのは、
この無明と貪愛とのはたらきである。

 すべての人びとは、
常によこしまな思いを起こして、
愚かさのために正しく見ることができなくなり、
自我にとらわれて間違った行いをし、
その結果、
迷いの身を生ずることになる。

 業(ごう)を田とし心を種とし、
無明の土に覆われ、
貪愛の雨でうるおい、
自我の水をそそぎ、
よこしまな見方を増して、
この迷いを生み出している。

 二、華厳経

 だから、
結局のところ、
憂いと悲しみと苦しみと悩みのある
迷いの世界を生み出すものは、
この心である。

 迷いのこの世は、
ただこの心から現われた心の影にほかならず、
さとりの世界もまた、
この心から現われる。

 三、華厳経

 この世の中には、
三つの誤った見方がある。

もしこれらの見方に従ってゆくと、
この世のすべてのことが否定されることになる。

 一つには、
ある人は、
人間がこの世で経験するどのようなことも、
すべて運命であると主張する。

二つには、
ある人は、
それはすべて神の御業(みわざ)であるという。

三つには、
またあるひとは、
すべて因も縁もないものであるという。

 もしも、
すべてが運命によって定まっているならば、
この世においては、
善いことをするのも、
悪いことをするのも、
みな運命であり、
幸・不幸もすべて運命となって、
運命のほかには何ものも存在しないことになる。

 したがって、
人びとに、
これはしなければならない、
これはしてはならないという希望も努力もなくなり、
世の中の進歩も改良もないことになる。

 次に、
神の御業であるという説も、
最後の因も縁もないとする説も、
同じ非難が浴びせられ、
悪を離れ、
善をなそうという意志も努力も意味もすべてなくなってしまう。

 だから、
この三つの見方はみな誤っている。

どんなことも縁によって生じ、
縁によって滅びるものである。

hougakumasahiko.muragon.com/entry/108.html

おしえ_第二章人の心とありのままの姿

第一節 変わりゆくものには実体がない

 一、パーリ、律蔵大品一−六

 身も心も、因縁*によってできているものであるから、この身には実体はない。この身は因縁の集まりであり、だから、無常*なものである。

 もしも、この身に実体があるならば、わが身は、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、その思いのままになし得るはずである。

 王はその国において、罰すべきを罰し、賞すべきを賞し、自分の思うとおりにすることができる。それなのに、願わないのに病み、望まないのに老い、一つとしてわが身については思うようになるものはない。

 それと同じく、この心にもまた実体はない。心もまた因縁の集まりであり、常にうつり変わるものである。

 もしも、心に実体があるならば、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、その通りにできるはずであるのに、心は欲しないのに悪を思い、願わないのに善から遠ざかり、一つとして自分の思うようにはならない。

 二、パーリ、相応部五六−一一

 この身は永遠に変わらないものなのか、それとも無常であるのかと問うならば、誰も無常であると答えるに違いない。

 無常なものは苦しみであるのか、楽しみであるのかと問うならば、生まれた者はだれでもやがて老い、病み、死ぬと気づいたとき、だれでも、苦しみであると答えるに違いない。

 このように無常であってうつり変わり、苦しみであるものを、実体である、わがものである、と思うのは間違っている。

 心もまた、そのように、無常であり、苦しみであり、実体ではない。

 だから、この自分を組み立てている身と心や、それをとりまくものは、我(が)とかわがものとかという観念を離れたものである。

 智慧*のない心が、我である、わがものであると執着するにすぎない。

 身もそれをとりまくものも、縁によって生じたものであるから、変わりに変わって、しばらくもとどまることがない。

 流れる水のように、また燈火(ともしび)のようにうつり変わっている。また、心の騒ぎ動くこと猿のように、しばらくの間も、静かにとどまることがない。

 智慧あるものは、このように見、このように聞いて、身と心に対する執着を去らなければならない。心身ともに執着を離れたとき、さとりが得られる。

 三、パーリ、増支部五−四九・四−一八五・三−一三四

 この世において、どんな人にもなしとげられないことが五つある。一つには、老いゆく身でありながら、老いないということ。二つには、病む身でありながら、病まないということ。三つには、死すべき身でありながら、死なないということ。四つには、滅ぶべきものでありながら、滅びないということ。五つには、尽きるべきものでありながら、尽きないということである。

 世の常の人びとは、この避け難いことにつき当たり、いたずらに苦しみ悩むのであるが、仏の教えを受けた人は、避け難いことを避け難いと知るから、このような愚かな悩みをいだくことはない。

 また、この世に四つの真実がある。第一に、すべて生きとし生けるものはみな無明*から生まれること。第二に、すべて欲望の対象となるものは、無常であり、苦しみであり、うつり変わるものであること。第三に、すべて存在するものは、無常であり、苦しみであり、うつり変わるものであること。第四に、我(が)も、わがものもない*ということである。

 すべてのものは、みな無常であって、うつり変わるものであること、どのようなものにも我がないということは、仏*がこの世に出現するとしないとにかかわらず、いつも定まっているまことの道理である。

仏はこれを知り、このことをさとって、人びとを教え導く。

****用語解説*****

*因縁(hetu-pratyaya)___
 因と縁とのことである。因とは結果を生じさせる直接的原因、縁とはそれを助ける外的条件である。あらゆるものは因縁によって生滅するので、このことを因縁所生などという。この道理をすなおに受け入れることが、仏教に入る大切な条件とされている。世間では転用して、悪い意味に用いられることもあるが、本来の意味を逸脱したものであるから、注意を要する。なお縁起*という場合も同様である。

*縁起(pratityasamutpada)___
 因縁生起の略である。あらゆる存在が互いに関係し合って生起することである。仏教の教えの基本となる思想である。あらゆる存在のもちつもたれつの関係を認めるから、「おかげさまで」という感謝となり、報恩という奉仕も生まれてくる。この縁起思想は、さらに哲学的な展開を遂げ、煩瑣な組織をもつに至る。転じて寺院や仏像の由来や伝説を指したり、吉凶をかつぐのに用いられるようになったりするが、因縁*同様本来の意味を忘れて逸脱していることに注意を要する。

*無常(anitya)___
 あらゆる存在が生滅変化してうつり変わり、同じ状態には止まっていないことをいう。仏教の他宗教と異なる思想的立場を明示する一つである。あらゆるものは、生まれ、持続し、変化し、やがて滅びるという四つの段階を示すから、それを観察して「苦」であると宗教的反省の契機とすることが大切である。これもいろいろな学派の立場から、形而上学的な分析がなされてきたが、単なるペシミズム、ニヒリズムの暗い面のみを強調してはならない。生成発展も無常の一面だからである。

*智慧(般若prajna)___
 普通に使われている”知恵”とは区別して、わざわざ仏教では”般若”の漢訳としてこの言葉を用いているが、
正邪を区別する正しい判断力のことで、これを完全に具えたものが”仏陀”である。
単なる知識ではなく、あらゆる現象の背後に存在する真実の姿を見ぬくことのできるもので、
これを得てさとりの境地に達するための実践を”般若波羅密”という。

*無我(anatman)___
 仏教の最も基本的な教義の一つで、「この世界のすべての存在や現象には、とらえられるべき実体はない」ということである。それまでのインドの宗教が、個々の存在の実体としての”我(が:atman)”を説いてきたのに対し、諸行無常を主張した仏教が、”永遠の存在ではあり得ないこの世の存在や現象に実体があるわけはない”と説いたのは当然である。なお”我”は他宗教でいう霊魂にあたるといえる。

*無明(avidya)____
 正しい智恵のない状態をいう。迷いの根本である無知を指す。その心理作用が愚痴であるという。
学派によって分析、解釈はさまざまであるが、いずれも根源的な、煩悩を煩悩たらしめる原動力のようなものと把えられている。
したがって、例えばあらゆる存在の因果を十二段階に説明する十二因縁説では、最初に無明があると設定しているくらいである。
生存の欲望の盲目的な意志と把えてもよいであろう。

*仏(佛陀 Buddha)____
 梵語の”さとれるもの”という意味の単語を漢字に音写したものが”仏陀”で、その省略が”仏”であり、”ほとけ”とも読ませる。普通”覚者”・”正覚者”と漢訳され、もともとは、仏教の創始者である”釈迦牟尼仏(ゴータマ・シッダルタ)”を指した。仏教の目的は、各人がこの”仏”の状態に到達することで、その手段や期間等の違いによって宗派が別れている。
 大乗仏教の場合、歴史上の仏である釈迦牟尼仏の背後に、様々な永遠の仏の存在が説かれるようになる。例えば、阿弥陀仏・大日如来・毘盧遮那仏・薬師如来・久遠実成の釈迦牟尼仏といった仏が、各宗派の崇拝の対象とか教主として説かれている。
 なお日本では、死者のことを”ほとけ”と呼ぶが、これは浄土教の”往生成仏”思想の影響で、死者が浄土に生まれ、そこで”仏”になるという信仰に由来する。

第二節 心の構造

 一、迷いもさとりも心から現われ、すべてのものは心によって作られる。ちょうど手品師が、いろいろなものを自由に現わすようなものである。

 人の心の変化には限りがなく、その働きにも限りがない。汚れた心からは汚れた世界が現われ、清らかな心からは清らかな世界が現われるから、外界の変化にも限りがない。

 絵は絵師によって描かれ、外界は心によって作られる。仏の作る世界は、煩悩を離れて清らかであり、人の作る世界は煩悩によって汚れている。

 心はたくみな絵師のように、さまざまな世界を描き出す。この世の中で心のはたらきによって作り出されないものは何一つない。心のように仏もそうであり、仏のように人びともそうである。だから、すべてのものを描き出すということにおいて、心と仏と人びとと、この三つのものに区別はない。

 すべてのものは、心から起こると、仏は正しく知っている。だから、このように知る人は、真実の仏を見ることになる。

 二、ところが、この心は常に恐れ悲しみ悩んでいる。すでに起こったことを恐れ、まだ起こっていないことをも恐れている。なぜなら、この心の中に無明と病的な愛着とがあるからである。

 この貪りの心から迷いの世界が生まれ、迷いの世界のさまざまな因縁も、要約すれば、みな心そのものの中にある。

 生も死も、ただ心から起こるのであるから、迷いの生死(しょうじ)にかかわる心が滅びると、迷いの生死は尽きる。

 迷いの世界はこの心から起こり、迷いの心で見るので迷いの世界となる。心を離れて迷いの世界がないと知れば、汚れを離れてさとりを得るであろう。

 このように、この世界は心に導かれ、心に引きずられ、心の支配を受けている。迷いの心によって、悩みに満ちた世間が現れる。

 三、すべてのものは、みな心を先とし、心を主(あるじ)とし、心から成っている。汚れた心でものを言い、また身で行なうと、苦しみがその人に従うのは、ちょうど牽(ひ)く牛に車が従うようなものである。

 しかし、もし善い心でものを言い、または身で行なうと、楽しみがその人に従うのは、ちょうど影が形に添うようなものである。悪い行ないをする人は、この世では、悪いことをしたと苦しみ、後の世では、その悪い報いを受けてますます苦しむ。善い行ないをする人は、この世において、善いことをしたと楽しみ、後の世では、その報いを受けてますます楽しむ。(第966版本「悪い行いをする人は、その悪の報いを受けて苦しみ、善い行いをする人は、その善の報いを受けて楽しむ。」)

 この心が濁ると、その道は平らでなくなり、そのために倒れなければならない。また、心が清らかであるならば、その道は平らになり、安らかになる。 

 身と心の清らかさを楽しむものは、悪魔の網を破って仏の大地を歩むものである。心の静かな人は安らかさを得て、ますます努めて夜も昼も心を修めるであろう。

 

 
 第三節 真実のすがた

 一、華厳経第一六、夜摩天宮経・楞伽経

 この世のすべてのものは、みな縁によって現われたものであるから、もともと差別はない。
差別を見るのは、人びとの偏見である。

 大空に東西の差別がないのに、人びとは東西の差別をつけ、東だ西だと執着する。

 数はもともと、一から無限の数まで、それぞれ完全な数であって、量には多少の差別はないのであるけれども、人びとは欲の心からはからって、多少の差別をつける。

 もともと生もなければ滅もないのに、生死(しょうじ)の差別を見、また人間の行為それ自体には善もなければ飽くもないのに、善悪の差別を見るのが、人びとの偏見である。

 仏はこの差別を離れて、世の中は空に浮かぶ雲のような、また幻のようなもので、捨てるも取るもみなむなしいことであると見、心のはからいを離れている。

 二、パーリ、中部三-二二、蛇喩経・楞伽経

 人ははからいから、すべてのものに執着する。
富に執着し、財に執着し、名に執着し、命に執着する。

 有無、善悪、正邪、すべてのものにとらわれて迷いを重ね苦しみと悩みとを招く。

 ここに、ひとりの人がいて、長い旅を続け、とあるところで大きな河を見て、こう思った。この河のこちらの岸は危ないが、向こう岸は安らかに見える。そこで筏を作り、その筏によって、向こうの岸に安らかに着くことができた。そこで「この筏は、わたしを安らかにこちらの岸へ渡してくれた。大変役に立った筏である。だから、この筏を捨てることなく、肩に担いで、行く先へ持って行こう。」と思ったのである。

 このとき、この人は筏に対して、しなければならないことをしたといわれるであろうか。そうではない。

 この喩えは、「正しいことさえ執着すべきではなく、捨て離れなければならない。
まして、正しくないことは、なおさら捨てなければならない。」ということを示している。

 三、楞伽経

 すべてのものは、来ることもなく、去ることもなく、生ずることもなく、滅することもなく、したがって得ることもなければ、失うこともない。

 仏は、「すべてのものは、有無の範疇を離れているから、有にあらず、無にあらず、生ずることもなく、滅することもない。」と説く。
すなわち、すべてのものは因縁から成っていて、ものそれ自体の本性は実在性がないから、有にあらずといい、また因縁から成っているので無でもないから、無にあらずというのである。

 ものの姿を見て、これに執着するのは、迷いの心を招く原因になる。もしも、ものの姿を見ても執着しないならば、はからいは起こらない。
さとりは、このまことの道理を見て、はからいの心を離れることである。

 まことに世は夢のようであり、財宝もまた幻のようなものである。
絵に見える遠近と同じく、見えるけれども、あるのではない。
すべては陽炎のようなものである。

 四、楞伽経

  無量の因縁によって現れたものが、永久にそのまま存在すると信ずるのは、常見という誤った見方である。
また、まったくなくなると信ずるのは、断見という誤った見方である。

 この断・常・有・無は、ものそのものの姿ではなく、人の執着から見た姿である。
すべてのものは、もともとこの執着の姿を離れている。

 ものはすべて縁によって起こったものであるから、みなうつり変わる。
実体を持っているもののように永遠不変ではない。 
うつり変わるので、幻のようであり、陽炎のようであるが、しかも、また、同時にそのままで真実である。
うつり変わるままに永遠不変なのである。

 川は人にとっては川と見えるけれども、水を火と見る餓鬼にとっては、川とは見えない。
だから、川は餓鬼にとっては「ある」とはいえず、人にとっては「ない」とはいえない。

 これと同じように、すべてのものは、みな「ある」ともいえず、「ない」ともいえない、幻のようなものである。

 しかも、この幻のような世界を離れて、真実の世も永遠不変の世もないのであるから、この世を、仮のものと見るのも誤り、実の世と見るのも誤りである。

 ところが、世の人びとは、この誤りのもとは、この世の上にあると見ているが、この世がすでに幻とすれば、幻にはからう心があって、人に誤りを生じさせるはずはない。
誤りは、この道理を知らず、仮の世と考え、実の世と考える愚かな人の心に起こる。

 智慧ある人は、この道理をさとって、幻を幻と見るから、ついにこの誤りをおかすことはない。

第四節 かたよらない道

 一、パーリ、律蔵大品第一-六、転法輪経・楞伽経

 道を修める者として、避けなければいけない二つの偏った生活がある。
その一は、欲に負けて、欲にふける卑しい生活であり、
その二は、いたずらに自分の心身を責めさいなむ苦行の生活である。

 この二つの偏った生活を生活を離れて、心眼を開き、智慧を進め、さとりに導く中道の生活がある。

 この中道の生活とは何であるか。
正しい見方、(正見・・・正しい信仰)
正しい思い、(正思・・・正しい思惟)
正しいことば、(正語)
正しい行い、(正業しょうごう)
正しい生活、(正命しょうみょう)
正しい努力、(正勤しょうごん)
正しい記憶、(正念・・・正しい憶念)
正しい心の統一、(正定しょうじょう・・・正しい瞑想禅定)
この八つの正しい道である。

 すべてのものは縁によって生滅するものであるから、有と無とを離れている。
愚かな者は、あるいは有と見、あるいは無と見るが、正しい智慧の見るところは、有と無とを離れている。
これが中道の正しい生活である。

 二、楞伽経等・パーリ、中部二-一八、蜜丸経

 一本の材木が大きな河を流れているとする。
その材木が、右左の岸に近づかず、中流にも沈まず、陸(おか)にも上らず、人にも取られず、渦にも巻き込まれず、内から腐ることもなければ、その材木はついに海に流れ入るであろう。

 この材木の喩えのように、内にも外にもとらわれず、迷いを離れ、さとりにこだわらず、中流に身をまかせるのが、道を修める者の中道の見方、中道の生活である。

 道を修める生活にとって大事なことは、両極端にとらわれず、常に中道を歩むことである。

 すべてのものは、生ずることもなく、滅することもなく、きまった性質のないものと知ってとらわれず、自分の行っている善にもとらわれず、すべてのものに縛られてはならない。

 とらわれないとは握りしめないこと、執着しないことである。
道を修める者は、死を恐れず、また、生をも願わない。
この見方、あの見方と、どのような見方のあとをも追わないのである。

 人が執着の心を起こすとき、たちまち、迷いの生活が始まる。
だから、さとりへの道を歩むものは、握りしめず、取らず、とどまらないのが、とらわれのない生活である。

 三、楞伽経

 さとりには決まった形やものがないから、さとることはあるがさとられるものはない。

 迷いがあるからさとりというのであって、迷いがなくなればさとりもなくなる。
迷いを離れてさとりはなく、さとりを離れて迷いはない。

 だから、さとりのあるのはなお障(さまた)げとなる。
闇があるから照らすということがあり、闇がなくなれば照らすということもなくなる。
照らすことと照らされるものと、ともになくなってしまうのである。

 まことに、道を修める者は、さとってさとりにとどまらない。
さとりのあるのはなお迷いだからである。

 この境地に至れば、すべては、迷いのままにさとりであり、闇のままに光である。
すべての煩悩がそのままさとりであるところまで、さとりきらなければならない。

 四、楞伽経

 ものが平等であって差別のないことを空*という。
ものそれ自体の本質は、実体がなく、生ずることも、滅することもなく、それはことばでいい表すことができないから、空というのである。

 すべてのものは互いに関係して成り立ち、互いにより合って存在するものであり、ひとりで成り立つものでない。

 ちょうど光と影、長さと短さ、白と黒のようなもので、ものそれ自体の本質が、ただひとりであり得るものでないから「無自性(むじしょう)」という。

 また、迷いのほかにさとりがなく、さとりのほかに迷いがない。
これら二つは、互いに相違するものでないから、ものには二つの相反した姿があるのではない。

 五、維摩経、入不二品

 人はいつも、ものの生ずることと、滅することとを見るのであるが、ものにはもともと生ずることがないのであるから、滅することもない。

 このものの真実を見る眼(まなこ)を得て、ものには生滅の二つのないことを知り、
別のものではないという真理をさとるのである。

 人は我があると思うから、わがものに執着する。
しかし、もともと、我がないのであるから、わがもののあるはずがない。
われとわがもののないことを知って、別のものではないという真理をさとるのである。

 人は清らかさと汚れとがあると思って、この二つにこだわる。
しかし、ものにはもともと、清らかさもなければ汚れもなく、清らかさも汚れも、ともに人が心のはからいの上に作ったものにすぎない。

 人は善と悪とを、もともと別なものと思い、善悪にこだわっている。
しかし、単なる善もなく、単なる悪もない。
さとりの道に入った人はこの善悪はもともと別ではないと知って、その真理をさとるのである。

 人は不幸を恐れて幸福を望む。
しかし、真実の智慧をもってこの二つをながめると、不幸の状態がそのままに、幸福となることが分かる。
それだから、不幸がそのままに幸福だとさとって、
心身にまとわりついて自由を束縛する迷いも真実の自由も特別にはないと知って、
こうして、人はその真理をさとるのである。 

 だから、有と無といい、迷いとさとりといい、実と不実といい、正と邪といっても、
実は相反した二つのものがあるのではなく、まことの姿においては、
言うことも示すことも、識(し)ることもできない。
このことばやはからいを離れることが必要である。
人がこのようなことばやはからいを離れたとき、
真実の空をさとることができる。

 六、華厳経第三四、入法界品

 例えば、蓮華が清らかな高原や陸地に生えず、かえって汚い泥の中に咲くように、
迷いを離れてさとりがあるのではなく、
誤った見方や迷いから仏の種が生まれる。

 あらゆる危険をおかして海の底に降りなければ、価(あたい)も知れないほどに素晴らしい宝は得られないように、
迷いの泥海の中に入らなければ、さとりの宝を得ることはできない。
山のように大きな、我(が)への執着を持つ者であって、
はじめて道を求める心も起こし、さとりもついに生ずるであろう。

 だから、昔、仙人が刃(やいば)の山に登っても傷つかず、自分の身を大火の中に投げ入れても焼け死なず、すがすがしさを覚えたというように、
道を求める心があれば、名誉利欲の刃の山や、憎しみの大火の中にも、
さとりの涼しい風が吹き渡るであろう。

 七、楞伽経等

 仏の教えは、相反する二つを離れて、それらが別のものではないという真理をさとるのである。
もしも、相反する二つの中の一つを取って執着すれば、たとえ、それが善であっても、正であっても、誤ったものになる。

 もしも、人がすべてのものはうつり変わるという考えにとらわれるならば、
これも間違った考えにおちいるものであり、
また、もしも、すべてのものは変わらないという考えにおちいるならば、
これももとより間違った考えなのである。
もしまた人が我があると執着すれば、それは誤った考えで、
常に苦しみを離れることができない。
もしも我がないと執着するならば、それも間違った考えで、
道を修めても効果がない。

 また、すべてのものはただ苦しみであるととらわれれば、これも間違った考えであり、
また、すべてのものはただ楽しみだけであるといえば、これも間違った考えである。

仏の教えは中道であって、これらの二つの偏(かたよ)りから離れている。




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48. 豊岳正彦[-5230] lkyKeJCzlUY 2020年10月11日 08:34:03 : 94hwD4m7yY : djJHTHh0dWdoeE0=[-188] 報告
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仏教聖典_おしえ_第三章 さとりの種

 第一節 清らかな心

 一、パーリ、律蔵大品一-五・律蔵小品五-二一

 人にはいろいろの種類がある。
心の曇りの少ない者もあれば、曇りの多い者もあり、賢い者もあれば、愚かな者もある。

 善い性質の者もあれば、悪い性質の者もあり、教えやすい者もあれば教えにくい者もある。

 例えていうと、青・赤・黄・白、色さまざまな蓮の池があって、水中に生え、水中に育って、水の表面に出ない蓮もあれば、水面にとどまる蓮もあり、水面を離れて、水に濡れない蓮もあるようなものである。

 この差別の上に、さらにまた、男・女の区別があるが、
しかし、人の本性として差別があるのではない。
男が道を修めてさとりを得るように、
女もまた道を修めれば、
しかるべき心の道すじを経て、さとりに至るであろう。

 象を扱う術を学ぶのには、
信念と
健康とを持ち、
勤勉であって、
偽りがなく(正直で)、その上に
智慧*がなければならない。
仏に従ってさとりを得るにも、やはりこの五つがなければならない。
この五つがあれば、男でも女でも、
仏の教えを学ぶのに長い年月を要しない。
これは、人にはみな、さとるべき性質がそなわっているからである。


 二、首楞厳経

 さとりの道において、人はおのれの眼(まなこ)をもって仏を見、心をもって仏を信ずる。
それと同じく、人をして生死(しょうじ)の巷(ちまた)に今日(こんにち)まで流転させたのも、また、
この眼と心である。

 国王が、侵入した賊を討とうとするとき、何よりも先に、その賊のありかを知ることが必要であるように、
いま迷いをなくそうとするのにも、まずその眼と心のありかを確かめなければならない。

 人が室内にいて目を開けば、まず、部屋の中のものを見、やがて窓を通して、外の景色を見る。
部屋の内のものを見ないで、外の者ばかりを見る目はない。

 ところが、もしもこの身の内に心があるならば、何よりも先に、身の内のことを詳しく知らなければならないはずであるのに、
人びとは、身の外のことだけをよく知っていて、身の内については、殆ど何事も知ることができない。

 またもしも心が身の外にあるとするならば、身と心が互いに離れて、
心の知るところを身は知らず、身の知るところを心は知らないはずである。
ところが、事実は、心の知るところを身が感じ、
身に感ずるところを心はよく知っているから、
心は身の外にあるということもできない。
いったい、心の本体はどこにあるのであろうか。

 
 三、首楞厳経

 もともと、すべての人びとが、始めも知れない昔から、業(ごう)のきずなに縛られて、迷いを重ねているのは、二つのもとを知らないからである。

 一つには生死のもとである迷いの心を、自己の本性と思っていること、
二つには、さとりの本性である清浄(しょうじょう)な心が、
迷いの心の裏側に隠されたまま自己の上にそなわっていることを知らないことである。

 拳をかためて臂(ひじ)をあげると、目はこれを見て心はこのことを知る。
しかし、その知る心は、真実の心ではない。

 はからいの心は欲から起こり、自分の都合をはからう心であり、縁に触れて起こる心であって、
真実の本体のない、うつり変わるこころである。
この心を、実体のある心と思うところに、迷いが起こる。

 次に、その拳を開くと、心は拳の開いたことを知る。
動くものは手であろうか、心であろうか、それとも、そのいずれでもないのか。

 手が動けば心も動き、また、心の動きにつれて手も動く。
しかし、動く心は、心の表面であって根本の心ではない。


 四、首楞厳経

 すべての人びとには、清浄の本心がある。
それが外の因縁によって起こる迷いの塵のために覆われている。
しかし、あくまでも迷いの心は従であって主ではない。

 月は、しばらく雲に覆われていても、雲に汚されることもなく、また動かされることもない。

 だから、人は浮動するちりのような迷いの心を自分の本性と思ってはならない。

 また、人は、動かず、汚されないさとりの本心に目覚めて、真実の自己に帰らなければならない。
浮動する迷いの心にとらわれ、さかさまの見方に追われているので、
人は迷いの巷をさまようのである。

 人の心の迷いや汚れは、欲とその変化する外界(げかい)の縁に触れて起こるものである。

 この縁の来ること去ることに関係なく、永久に動かず滅びない心、
これが人の心の本体であって、また主(あるじ)でもある。

 客が去ったからといって、宿屋がなくなったとはいえないように、
縁によって生じたり滅したりするはからいの心がなくなったからといって、
自分がなくなったとはいえない。
外の縁によってうつり変わるはからいは、心の本体ではない。


 五、首楞厳経

 ここに講堂があって、太陽が出て明るくなり、太陽が隠れて暗くなるとする。

 明るさは太陽に返し、暗さは夜に返すこともできよう。
しかし、その明るさや暗さを知る力は、どこにも返すことはできない。
それは心の本性、本体に返すよりほかに道はない。

 太陽が現われて、明るいと見るのもひとときの心であり、太陽が隠れて、暗いと見るのもひとときの心である。

 このように、明暗という外の縁に引かれて、明暗を知る心が起こるが、
明暗を知る心は、ひとときの心であって、心の本体でなく、
その明暗を知る力の根本は、心の本体である。

 外の因縁に引かれて生じたり滅したりする善悪(ぜんなく)・愛憎の念(おもい)は、
人の心に積まれたちりの汚れによって起こるひとときの心なのである。

 煩悩のちりに包まれて、しかも染まることも、汚れることもない、本来清浄な心がある。

 まるい器(うつわ)に水を入れるとまるくなり、四角な器に水を入れると四角になる。
しかし、本来、水に丸や四角の形があるのではない。
ところが、すべての人びとはこのことを忘れて、水の形にとらわれている。

 善し悪しと見、好む好まぬと考え、有り無しと思い、その考えに使われ、その見方に縛られて、外のものを追って苦しんでいる。

 縛られた見方を外の縁に返し、縛られることのない自己の本性にたち帰ると、
身も心も、何ものにもさえぎられることのない、自由な境地が生まれるであろう。


仏教聖典_おしえ_第三章 さとりの種

 第二節 かくれた宝

 一、首楞厳経

 清浄の本心とは、言葉を変えていえば仏性(ぶっしょう)である。
仏性とは、すなわち仏の種である。

 レンズを取って太陽に向かい、もぐさを当てて火を求めるときに、火はどこから来るのであろうか。
太陽とレンズとはあいへだたること遠く、合(がっ)することはできないけれども、
太陽の火がレンズを縁とし、もぐさの上に現われたことは疑いを入れない。
また、もしも太陽があっても、もぐさに燃える性質がなければ、もぐさに火は起こらない。

 いま、仏を生む根本である仏性のもぐさに、仏の智慧のレンズを当てれば、
仏の火は、仏性の開ける信の火として、人びとというもぐさの上に燃え上がる。

 仏はその智慧のレンズを取って世界に当てられるから、
世をあげて信の火が燃え上がるのである。


 二、首楞厳経

 人びとは、この本来そなわっているさとりの仏性にそむいて、
煩悩のちりにとらわれ、ものの善し悪しのすがたに心を縛られて、不自由を嘆いている。

 なぜ、人びとは、本来さとりの心をそなえていながら、
このように偽りを生み、仏性の光を隠し、迷いの世界にさまよっているのであろうか。

 昔ある男が、ある朝鏡に向かって、自分の顔も頭もないのにあわて驚いた。
しかし、顔も頭も無くなったのではなく、それは鏡を裏返しに見ていて、なくなったと思ったのであった。

 さとりに達しようとして達せられないからといって苦しむのは愚かであり、
また、必要のないことである。
さとりの中に迷いはないのであるが、限りない長い時間に、外のちりに動かされて、
妄想を描き、その妄想によって迷いの世界を作り出していたのである。

 だから、妄想がやめば、さとりはおのずと返ってきて、
さとりのほかに妄想があるのではないとわかるようになる。
しかも、不思議なことに、ひとたびさとった者には妄想はなく、
さとられるものもなかったことに気づくのである。


 三、大槃涅槃経

 この仏性は尽きることがない。

たとえ畜生に生まれ、餓鬼となって苦しみ、地獄に落ちても、この仏性は絶えることはない。

 汚い体の中にも、汚れた煩悩の底にも、仏性はその光を包み覆われている。


 四、法華経第七、化城喩品及び首楞厳経・華厳経第三二、如来性起品・大槃涅槃経

 昔、ある人が友の家に行き、酒に酔って眠っているうちに、急用で友は旅立った。
友はその人の将来を気づかい、価の高い宝石をその人の着物の襟に縫いこんでおいた。

 そうとは知らず、その人は酔いからさめて他国へとさすらい、衣食(えじき)に苦しんだ。
その後、ふたたびその旧友にめぐり会い、「おまえの着物の襟に縫いこまれた宝石を用いよ。」と教えられた。

 このたとえのように、仏性の宝石は、
貪(むさぼ)り瞋(いか)り癡(おろ)かさ「貪瞋癡とんじんち」という煩悩の着物のえりに包まれて、
汚されずにいるのである。

 このように、どんな人でも仏の智慧のそなわらないものはないから、
仏は人びとを見通して、
「すばらしいことだ、人びとはみな仏の智慧と功徳とをそなえている。」とほめたたえる。

 しかも、人びとは愚(癡)かさに覆われて、ものごとをさかさまに見、
おのれの仏性を見ることができないから、
仏は人びとに教えて、その妄想を離れさせ、
本来、仏と違わないものであることを知らせる。


 五、梵網経

 ここでいう仏とはすでに成ってしまった仏であり、人びとは将来まさに成るべき仏であって、それ以外の相違はない。

 しかし、成るべき仏ではあるけれども、仏と成ったのではないから、
すでに道を成し遂げたかのように考えるなら、それは大きな過ちを犯しているのである。

 仏性はあっても、修めなければ現われず、現われなければ道を成し遂げたのではない。


 六、大槃涅槃経

 昔、ひとりの王があって、多くの盲人を集め、象に触れさせて、象とはどんなものであるかを、めいめいにいわせたことがある。
象の牙に触れた者は、象は大きな人参のようなものであるといい、
耳に触れた者は、扇のようなものであるといい、
鼻に触れた者は、杵のようなものであるといい、
足に触れた者は、臼のようなものであるといい、
尾に触れた者は、縄のようなものであると答えた。
ひとりとして象そのものをとらえ得た者はなかった。

 人を見るのもこれと同じで、人の一部分に触れることができても、
その本性である仏性を言い当てることは容易ではない。

 死によっても失われず、
煩悩の中にあっても汚れず、
しかも永遠に滅びることのない仏性を見つけることは、
仏と法によるもののほかは、
でき得ないのである。

 第三節 とらわれを離れて

 一、大槃涅槃経

 このように、人には仏性があるというと、
それは他の教えでいう「我」と同じであると思うかも知れないが、
それは誤りである。

 我の考えは執着心によって考えられるけれども、
さとった人にとっては、我は否定されなければならない執着であり、
仏性は開き現わさなければならない宝である。

 仏性は、我に似ているけれども、
「われあり」とか「わがもの」とかいう場合の我ではない。

 我があると考えるのは、ないものをあると考える、さかさまの見方であり、
仏性を認めないことも、あるものをないと考える、さかさまの見方である。

 例えば、幼子(おさなご)が病にかかって医師にかかるとすると、医師は薬を与えて、この薬のこなれるまでは乳を与えてはならないと言いつける。

 母は乳房ににがいものを塗り、子に乳をいやがらせる。
後に、薬のこなれたときに、乳房を洗って、子の口にふくませる。
母のこのふるまいは、わが子をいとおしむやさしい心からくるものである。

 ちょうどこのように、世の中の誤った考えを取り去り、我の執着を取り去るために、我はないと説いたが、
その誤った見方を取り去ったので、あらためて仏性があると説いたのである。

 我は迷いに導くものであり、
仏性はさとりに至らせるものである。

 家に黄金の箱を持ちながら、それを知らないために、貧しい生活をする女をあわれんで、その黄金の箱を掘り出して与えるように、

仏は人びとの仏性を開いて、彼らに見せる。

 
 二、大槃涅槃経

 それなら、人びとは、みなこの仏性をそなえているのに、
どうして貴賤・貧富という差別があり、
殺したり、欺かれたりするようないとわしいことが起こるのであろうか。

 例えば、宮廷に仕える一力士が、眉間に小さな金剛の珠玉を飾ったまま相撲をとって、その額を打ち、玉が膚(はだ)の中に隠れてできものを生じた。
力士は、玉をなくしたと思い、ただそのできものを治すために医師に頼む。
医師は一目見て、そのできものが膚の中に隠れた玉のせいであると知り、それを取り出して力士に見せた。

 人びとの仏性も煩悩の塵(ちり)の中に隠れ、見失われているが、
善き師によってふたたび見いだされるものである。
 
 このように、仏性はあっても貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと癡(おろ)かさのために覆われ、
業(ごう)と報いとに縛られて、それぞれ迷いの境遇を受けるのである。
しかし、仏性は実際には失われても破壊されてもおらず、
迷いを取り除けばふたたび見いだされるものである。

 喩えの中の力士が、医師によって取り出されたその玉を見たように、
人びとも、仏の光によって仏性を見ることであろう。


 三、大槃涅槃経

 赤・白・黒と、さまざまに毛色の違った牝牛でも、乳をしぼると、みな同じ白い色の乳を得るように、
境遇が異なり、生活が異なる、さまざまの人びとも、その業の報いの異なるにもかかわらず、
同じ仏性をそなえている。

 例えば、ヒマラヤ山に貴い薬があるが、それは深い草むらの下にあって、人びとはこれを見つけることができない。
昔、ひとりの賢人があって、その香りを尋ねてありかを知り、樋を作って、その中に薬を集めた。
しかし、その人の死後、薬は山に埋もれ、樋の中の薬は腐り、流れるところによって、その味を異にした。

 仏性も、このたとえのように、深く煩悩の草むらに覆われているから、人びとはこれを容易に見つけることができない。

いまや仏はその草むらを開いて、彼らに示した。

仏性の味は一つであるが、煩悩のためにさまざまの味を出し、
人びとはさまざまな生き方をする。


 四、大槃涅槃経

 この仏性は金剛石のように堅いから、破壊することはできない。
砂や小石に穴をあけることはできても、金剛石に穴をあけることはできない。

 身と心は破られることがあっても、仏性を破ることはできない。

 仏性は、実にもっともすぐれた人間の特質である。

世に、男はまさり女は劣るとするならわしもあるが、

仏の教えにおいては、男女の差別を立てず、

ただこの仏性を知ることを尊いとする。

 黄金の粗金を熔かして、そのかすを去り、練り上げると貴い黄金になる。

心の粗金を熔かして煩悩のかすを取り去ると、どんな人でも、

みな同一の仏性を開き現わすことができる。

仏教聖典_おしえ_第四章 煩悩

 第一節 心のけがれ

 一、勝鬘経

 仏性(ぶっしょう)を覆いつつむ煩悩に二種類ある。

 一つは知性の煩悩である(一つは道理に迷う理性の煩悩である)。

二つには感情の煩悩である(二つには実際に当たって迷う感情の煩悩である)。

 この二つの煩悩は、あらゆる煩悩の根本的な分類であるが、このあらゆる煩悩の根本となるものを求めれば、

一つには無明(むみょう)、

二つには愛欲となる。

 この無明と愛欲とは、あらゆる煩悩を生み出す自在の力を持っている。

そして、この二つこそ、すべての煩悩の源なのである。

 無明とは無知のことで、ものの道理をわきまえないことである。

愛欲は激しい欲望で、生に対する執着が根本であり、

見るもの聞くものすべてを欲しがる欲望ともなり、

また転じて、

死を願うような欲望ともなる。

 この無明と愛欲とをもとにして、

貪(むさぼ)り、

瞋(いか)り、

癡(おろ)かさ、

邪見(じゃけん)、

恨み、

嫉(ねた)み、

へつらい、

たぶらかし、

おごり、

あなどり、

ふまじめ、

その他いろいろの煩悩が生まれてくる。


 二、パーリ、増支部二-一一・本事經九三・律蔵大品

 貪りの起きるのは、気に入ったものを見て、正しくない考えを持つためである。

瞋りの起きるのは、気に入らないものを見て、正しくない考えを持つためである。

愚(癡)かさはその無知のために、なさなければならないことと、なしてはならないこととを知らないことである。

邪見は正しくない教えを受けて、正しくない考えを持つことから起きる。


 この貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚(癡)かさは、世の三つの火といわれる。(貪瞋癡とんじんち)


貪りの火は、欲にふけって、真実心を失った人を焼き、

瞋りの火は、腹を立てて、生けるものの命を害(そこ)なう人を焼き、

愚(癡)かさの火は、心迷って仏の教えを知らない人を焼く。


 まことにこの世はさまざまの火に焼かれている。

貪りの火、

瞋りの火、

愚(癡)かさの火、

生・老・病・死の火、

憂い・悲しみ・苦しみ・悶えの火、

さまざまな火によって炎々と燃えあがっている。


これらの煩悩の火はおのれを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、

人を身(しん)・口(く)・意(い)の三つの悪い行為に導くことになる。


しかも、これらの火によってできた傷口のうみは触れたものを毒し、悪道に陥(おと)し入れる。

 三、パーリ、増支部三-六八

 貪(むさぼ)りは満足を得たい気持ちから、

瞋(いか)りは満足を得られない気持ちから、

愚(癡)かさは不浄な考えから生まれる。


貪りは罪の汚れは少ないけれども、これを離れることは容易でなく、

瞋りは罪の汚れが大きいけれども、これを離れることは早いものである。

愚(癡)かさは罪の汚れも大きく、またこれを離れることも容易ではない。


 したがって、人びとは気に入ったものの姿を見聞きしては正しく思い、

気に入らないものの姿を見ては慈しみの心を養い、

常に正しく考えて、

この三つの火を消さなければならない。


もしも、人びとが正しく、清く、無私の心に満ちているならば、

煩悩によって惑わされることはない。

 四、パーリ、増支部三-三四

 貪り、瞋り、愚(癡)かさは熱のようなものである。

どんな人でも、この熱の一つでも持てば、

いかに美しい広びろとした部屋に身を横たえても、

その熱にうなされて、寝苦しい思いをしなければならない。

 この三つの煩悩のない人は、

寒い冬の夜、木の葉を敷物とした薄い寝床でも、快く眠ることができ、

むし暑い夏の夜、閉じこめられた狭苦しい部屋でも、安らかに眠ることができる。


 この三つは、この世の悲しみと苦しみのもとである。

この悲しみと苦しみのもとを絶つものは、

戒めと

心の統一と

智慧である。


戒めは貪りの汚れを取り去り、

正しい心の統一は瞋りの汚れを取り去り、

智慧は愚(癡)かさの汚れを取り去る。

 五、方広大荘厳経・パーリ、律蔵大品一-六、転法輪経・中部二-一四、苦蘊小経

 人間の欲にははてしがない。

それはちょうど塩水を飲むものが、いっこうに渇きが止まらないのに似ている。

彼はいつまでたっても満足することがなく、渇きはますます強くなるばかりである。


 人はその欲を満足させようとするけれども、不満がつのっていらだつだけである。

 人は欲を決して満足させることができない。

そこには求めて得られない苦しみがあり、満足できないときには、気も狂うばかりとなる。


 人は欲のために争い、欲のために戦う。

王と王、臣と臣、親と子、兄と弟、姉と妹、友人同士、

互いにこの欲のために狂わされて相争い、互いに殺し合う。


 また人は欲のために身をもちくずし、盗み、詐欺し、姦淫する。

ときには捕らえられて、さまざまな刑を受け、苦しみ悩む。


 また、欲のために身・口・意の罪を重ね、この世で苦しみを受けるとともに、

死んで後の世には、暗黒の世界に入ってさまざまな苦しみを受ける。

六、大槃涅槃経

 愛欲は煩悩の王、さまざまの煩悩がこれにつき従う。

 愛欲は煩悩の芽をふく湿地、さまざまな煩悩を生じる。

愛欲は善を食う鬼女、あらゆる善を滅ぼす。

 愛欲は花に隠れ住む毒蛇、欲の花を貪るものに毒を刺して殺す。

愛欲は木を枯らすつる草、人の心に巻きつき、人の心の中の善のしるを吸い尽くす。

愛欲は悪魔の投げた餌(え)、人はこれにつられて悪魔の道に沈む。

 飢えた犬に血を塗った乾いた骨を与えると、犬はその骨にしゃぶりつき、ただ疲れと悩みを得るだけである。

愛欲が人の心を養わないのは、まったくこれと同じである。

 一切れの肉を争って獣は互いに傷つく。

たいまつを持って風に向かう愚かな人は、ついにおのれ自身を焼く。

この獣のように、また、この愚かな人のように、人は欲のためにおのれの身を傷つけ、その身を焼く。

 七、パーリ、本事經二四

 外から飛んでくる毒矢は防ぐすべがあっても、内からくる毒矢は防ぐすべがない。

貪りと瞋りと愚(癡)かさと高ぶりとは、四つの毒矢にもたとえられるさまざまな病を起こすものである。


 心に貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚(癡)かさがあるときは、

口には偽りと無駄口悪口と二枚舌を使い、

身には殺生と盗みとよこしまな愛欲を犯すようになる。


 意の三つ、口の四つ、身の三つ、これらを十悪という。

 知りながらも偽りを言うようになれば、どんな悪事をも犯すようになる。

悪いことをするから、偽りを言わなければならないようになり、

偽りを言うようになるから、平気で悪いことをするようになる。

 
 人の貪(むさぼ)りも、愛欲も恐れも瞋(いか)りも、愚(癡)かさからくるし、

人の不幸も難儀も、また愚(癡)かさからくる。

愚(癡)かさは実に人の世の病毒にほかならない。

 

 八、パーリ、本事經二四

 人は煩悩によって業(ごう)を起こし、業によって苦しみを招く。

煩悩と業と苦しみの三つの車輪はめぐりめぐってはてしがない。

 この車輪の回転には始まりもなければ終わりもない。

しかも、人はこの輪廻(りんね)から逃れるすべを知らない。

永遠に回帰する輪廻に従って、人はこの現在の生から、次の生へと永遠に生まれ変わってゆく。

 限りない輪廻の間に、ひとりの人が焼き捨てた骨を積み重ねるならば、山よりも高くなり、また、

その間に飲んだ母の乳を集めるならば、海の水よりも多くなるであろう。

 だから、人には仏性があるとはいえ、煩悩の泥があまりに深いため、その芽生えは容易でない。

芽生えない仏性はあってもあるとはいわれないので人びとの迷いははてしない。



[18初期非表示理由]:担当:スレ違い長文多数により全部処理

49. 豊岳正彦[-5229] lkyKeJCzlUY 2020年10月11日 08:37:08 : 94hwD4m7yY : djJHTHh0dWdoeE0=[-187] 報告
仏教聖典_おしえ_第四章 煩悩

 第二節 人の性質

 一、パーリ、中部五一、カンダラカ経

 人の性質は、ちょうど入り口のわからない藪のように、わかりにくい。
これに比べると、獣の性質はかえってわかりやすい。
このわかりにくい性質の人を区分して、次の四種類とする。

 一つには、自ら苦しむ人で、間違った教えを受けて苦行する。

 二つには、他人を苦しめる人で、生きものを殺したり盗んだり、
そのほかさまざまなむごい仕業をする。

 三つには、自ら苦しむとともに他人をも苦しめる人である。

 四つには、自らも苦しまず、また他人をも苦しめない人で、
欲を離れて安らかに生き、
仏の教えを守って、
殺すことなく盗むことなく、
清らかな行いをする人である。


 二、パーリ、増支部三-一三〇・三-一一三

 またこの世には三種の人がある。

岩に刻んだ文字のような人と、
砂に書いた文字のような人と、
水に書いた文字のような人である。

 岩に刻んだ文字のような人とは、しばしば腹を立てて、その怒りを長く続け、怒りが、
刻み込んだ文字のように消えることのない人をいう。

 砂に書いた文字のような人とは、しばしば腹を立てるが、その怒りが、
砂に書いた文字のように、速やかに消え去る人を指す。

 水に書いた文字のような人とは、水の上に文字を書いても、流れて形にならないように、
他人の悪口や不快なことばを聞いても、少しも心に跡を留めることもなく、
温和な気の満ちている人のことをいう。

 また、ほかにも三種類の人がある。

第一の人は、その性質がわかりやすく、心高ぶり、かるはずみであって、常に落ち着きのない人である。

第二の人は、その性質がわかりにくく、静かにへりくだって、ものごとに注意深く、、欲を忍ぶ人である。

第三の人は、その性質がまったくわかりにくく、自分の煩悩を滅ぼし尽くした人のことである。

 このように、さまざまに人を区別することができるが、その実、人の性質は容易に知ることはできない。

ただ、仏だけがこれらの性質を知り抜いて、さまざまに教えを示す。

第三節、現実の人生

 一、パーリ本事經一〇〇、雑宝蔵経

 ここに人生にたとえた物語がある。
ある人が、河の流れに舟を浮かべて下るとする。
岸に立つ人が声をからして叫んだ。
「楽しそうに流れを下ることをやめよ。
下流には波が立ち、渦巻きがあり、鰐と恐ろしい夜叉との住む淵がある。
そのままに下れば死ななければならない。」と。

 このたとえで「河の流れ」とは、愛欲の生活をいい、
「楽しそうに下る」とは、自分の身に執着することであり、
「波立つ」とは、怒りと悩みの生活を表し、
「渦巻き」とは、欲の楽しみを示し、
「鰐と恐ろしい夜叉の住む淵」とは、罪によって滅びる生活を指し、
「岸に立つ人」とは、仏をいうのである。

 ここにもう一つのたとえがある。
一人の男が罪を犯して逃げた。
追っ手が追ってきたので、彼は絶体絶命になって、ふと足もとを見ると、古井戸があり、藤蔓(ふじづる)が下がっている。
彼はその藤蔓をつたって、井戸の中へ降りようとすると、下で毒蛇が口を開けて待っているのが見える。
しかたなくその藤蔓を命の綱にして、宙にぶら下がっている。
やがて、手が抜けそうに痛んでくる。
そのうえ、白黒二匹の鼠(ねずみ)が現われて、その藤蔓をかじり始める。

 藤蔓がかみ切られたとき、下へ落ちて餌食にならなければならない。
そのとき、ふと頭をあげて上を見ると、蜂の巣から蜂蜜の甘いしずくが一滴二滴と口の中へしたたり落ちてくる。
すると、男は自分の危(あやう)い立場を忘れて、うっとりとなるのである。

 この比喩(たとえ)で、
「ひとり」とは、ひとり生まれひとり死ぬ孤独の姿であり、
「追っ手」や「毒蛇」は、この欲のもとになるおのれの身体のことであり、
「古井戸の藤蔓」とは、人の命のことであり、
「白黒二匹の鼠」とは、歳月を示し、
「蜂蜜のしずく」とは、眼前の欲の楽しさのことである。


 二、大般涅槃経

 また、さらにもう一つのたとえを説こう。
王が一つの箱に四匹の毒蛇を入れ、ひとりの男にその蛇を養うことを命じて、もし一匹の蛇でも怒らせれば、命を奪うと約束させる。
男は王の命令を恐れて、蛇の箱を捨てて逃げ出す。

 これを知った王は、五人の臣下に命じて、その後を追わせる。
彼らは偽って男に近づき、連れ帰ろうとする。
男はこれを信じないで、ふたたび逃げて、とある村に入り、隠れ家を探す。

 そのとき、空に声あって、この村は住む人なく、そのうえ今夜、六人の賊が来て襲うであろうと告げる。
彼は驚いて、ふたたびそこを逃げ出す。
行く手に荒波を立てて激しく流れている河がある。
渡るには容易でないが、こちら岸の危険を思って筏を作り、かろうじて河を渡ることを得、はじめて安らぎを得た。

 「四匹の毒蛇の箱」とは地水火風の四大要素から成るこの身のことである。
この身は、欲のもとであって、心の敵である。
だから、彼はこの身を厭って逃げ出した。

 「五人の男が偽って近づいた」とは、同じくこの身と心とを組み立てている五つの要素のことである。

 「隠れ家」とは、人間の六つの感覚器官のことであり、「六人の賊」とは、この感覚器官に対する六つの対象のことである。
このように、すべての官能の危ういのを見て、さらに逃げだし、
「流れの強い河を見た」とは、煩悩の荒れ狂う生活のことである。

 この深さの測り知れない煩悩の河に、教えの筏を浮かべて、安らかな彼の岸に達したのである。


 三、パーリ、増支部三−六二

 世に母も子を救い得ず、子も母を救い得ない三つの場合がある。

すなわち、大火災と大水害と、大盗難のときである。

しかし、この三つの場合においても、ときとしては、母と子が互いに助け合う機会がある。

 ところがここに、母は子を絶対に救い得ず、子も母を絶対に救い得ない三つの場合がある。

それは、老いの恐れと、病の恐れと、死の恐れとの襲い来たったときのことである。

 母の老いゆくのを、子はどのようにしてこれに代わることができるであろうか。

子の病む姿のいじらしさに泣いても、母はどうして代わって病むことができよう。

子どもの死、母の死、いかに母子であっても、どうしても代わりあうことはできない。

いかに深く愛しあっている母子でも、こういう場合には絶対に助けあうことはできないのである。


 四、パーリ、増支部三-三五

 この世において悪事をなし、死んで地獄に落ちた罪人に、閻魔王が尋ねた。

「おまえは人間の世界にいたとき、三人の天使に会わなかったか。」

「大王よ、わたくしはそのような方には会いません。」

「それでは、おまえは年老いて腰を曲げ、杖にすがって、よぼよぼしている人を見なかったか。」

「大王よ、そういう老人ならば、いくらでも見ました。」

「おまえはその天使に会いながら、自分も老いゆくものであり、急いで善をなさなければならないと思わず、今日の報いを受けるようになった。」

「おまえは病にかかり、ひとりで寝起きもできず、見るも哀れに、やつれはてた人を見なかったか。」

「大王よ、そういう病人ならいくらでも見ました。」

「おまえは病人というその天使に会いながら、自分も病まなければならない者であることを思わず、あまりにもおろそかであったから、この地獄へ来ることになったのだ。」

「次に、おまえは、おまえの周囲で死んだ人を見なかったか。」

「大王よ、死人ならば、わたくしはいくらでも見てまいりました。」

「おまえは死を警(いまし)め告げる天使に会いながら、死を思わず善をなすことを怠って、この報いを受けることになった。

おまえ自身のしたことは、おまえ自身がその報いを受けなければならない。」


 五、パーリ、長老尼偈註

 裕福な家の若い嫁であったキサゴータミーは、そのひとり子の男の子が、幼くして死んだので、気が狂い、
冷たい骸(むくろ)を抱いて巷(ちまた)に出、子どもの病を治す者はいないかと尋ね回った。

 この狂った女をどうすることもできず、町の人びとはただ哀れげに見送るだけであったが、
釈尊の信者がこれを見かねて、その女に祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の釈尊のもとに行くようにすすめた。

彼女は早速、釈尊のもとへ子どもを抱いて行った。

 釈尊は静かにその様子を見て、
「女よ、この子の病を治すには、芥子(けし)の実がいる。
町に出て四・五粒もらってくるがよい。
しかし、その芥子の実は、まだ一度も死者の出ない家からもらってこなければならない。」と言われた。

 狂った母は、町に出て芥子の実を求めた。

芥子の実は得やすかったけれども、死人の出ない家は、どこにも求めることができなかった。

ついに求める芥子の実を得ることができず、仏のもとにもどった。

かの女は釈尊の静かな姿に接し、初めて釈尊のことばの意味をさとり、
夢から覚めたように気がつき、わが子の冷たい骸を墓所(ぼしょ)におき、
釈尊のもとに帰ってきて弟子となった。

第四節  迷いのすがた

 一、無量寿経下巻

 この世の人びとは、人情が薄く、親しみ愛することを知らない。

しかも、つまらないことを争いあい、激しい悪と苦しみの中にあって、それぞれの仕事を勤めて、ようやく、その日を過ごしている。

 身分の高下にかかわらず、富の多少にかかわらず、すべてみな金銭のことだけに苦しむ。

なければないで苦しみ、あればあるで苦しみ、ひたすらに欲のために心を使って、安らかなときがない。

 富める人は、田があれば田を憂え、家があれば家を憂え、すべて存在するものに執着して憂いを重ねる。

あるいは災いにあい、困難に出会い、奪われ焼かれてなくなると、苦しみ悩んで命まで失うようになる。

しかも死への道はひとりで歩み、だれもつき従う者はない。

 貧しいものは、常に足らないことに苦しみ、家を欲しがり、田を欲しがり、

この欲しい欲しいの思いに焼かれて、心身ともに疲れ果ててしまう。

このために命を全うすることができずに、中途で死ぬようなこともある。

 すべての世界が敵対するかのように見え、

死出の旅路は、ただひとりだけで、はるか遠くに行かなければならない。

 二、無量寿経下巻

 また、この世には五つの悪がある。

 一つには、あらゆる人から地に這う虫に至るまで、すべてみな互いにいがみあい、

強いものは弱いものを倒し、

弱いものは強いものを欺き、

互いに傷つけあい、いがみあっている。

 二つには、親子、兄弟、夫婦、親族など、すべて、
それぞれおのれの道がなく、守るところもない。

ただ、おのれを中心にして欲をほしいままにし、互いに欺きあい、
心と口とが別々になっていて誠がない。

 三つには、だれも彼もみなよこしまな思いを抱き、みだらな思いに心をこがし、男女の間に道がなく、

そのために、徒党を組んで争い戦い、常に非道を重ねている。

 四つには、互いに善い行為をすることを考えず、

ともに教えあって悪い行為をし、

偽り、むだ口、悪口、二枚舌を使って、互いに傷つけあっている。

ともに尊敬しあうことを知らないで、自分だけが尊い偉いものであるかのように考え、

他人を傷つけて省みるところがない。

 五つには、すべてのものは怠りなまけて、

善い行為をすることさえ知らず、恩も知らず、義務も知らず、

ただ欲のままに動いて、他人に迷惑をかけ、

ついには恐ろしい罪を犯すようになる。

 三、無量寿経下巻

 人は互いに敬愛し、施しあわなければならないのに、

わずかな利害のために互いに憎み争うことだけをしている。

しかも、争う気持ちがほんのわずかでも、

時の経過に従ってますます大きく激しくなり、大きな恨みになることを知らない。

 この世の争いは、互いに害(そこな)いあっても、すぐに破滅に至ることはないけれども、

毒を含み、怒りが積み重なり、憤りを心にしっかり刻みつけてしまい、

生をかえ、死をかえて、互いに傷つけあうようになる。

 人はこの愛欲の世界に、ひとり生まれ、ひとり死ぬ。

未来の報いは代わって受けてくれるものがなく、

おのれひとりでそれに当たらねばならない。

 善と悪とはそれぞれその報いを異にし、善は幸いを、悪は災いをもたらし、

動かすことのできない道理によって定まっている。

しかも、それぞれが、おのれの業を担い、報いの定まっているところへ、ひとり赴く。


 四、無量寿経下巻

 恩愛のきずなにつながれては憂いに閉ざされ、

長い月日を経ても、いたましい思いを解くことができない。

それとともに、激しい貪りにおぼれては、悪意に包まれ、でたらめに事を起こし、

他人と争い、真実の道に親しむことができず、

寿命も尽きないうちに、死に追いやられ、永劫に苦しまなければならない。

 このような人の仕業は、自然の道に逆らい、天地の道理にそむいているので、

必ず災いを招くようになり、

この世でも、後の世でも、ともに苦しみを重ねなければならない。

 まことに、世俗のことはあわただしく過ぎ去ってゆき、

頼りとすべきものは何一つなく、力になるものも何一つない。

この中にあって、こぞってみな快楽のとりことなっていることは、嘆かわしい限りといわなければならない。


 五、無量寿経下巻

 このような有様が、まことにこの世の姿であり、

人びとは苦しみの中に生まれてただ悪だけを行ない、善を行なうことを少しも知らない。

だから自然の道理によって、さらに苦しみの報いを受けることを避けられない。

 ただおのれにのみ何でも厚くして、他人に恵むことを知らない。

そのうえ、欲に迫られてあらゆる煩悩を働かせ、そのために苦しみ、またその結果によって苦しむ。

 栄華の時勢は長続きせず、たちまちに過ぎ去る。

この世の快楽も何一つ永続するものはない。
 

 六、無量寿経下巻

 だから、人は世俗のことを捨て、健全なときに道を求め、永遠の生を願わねばならない。

道を求めることをほかにして、どんな頼み、どんな楽しみがあるというのか。

 ところが人びとは、善い行為をすれば善を得、道にかなった行為をすれば道を得るということを信じない。

また、人が死んでまた生まれるということを知らず、施せば幸いを得るということを信じない。

すべて善悪にかかわるすべてのことを信じない。

 ただ、誤った考えだけを持ち、道も知らず、善も知らず、心が暗くて、

吉凶禍福が次々に起こってくる道理を知らず、

ただ眼前に起こることだけについて泣き悲しむ。

 どんなものでも永久に変わらないものはないのであるから、すべてうつり変わる。

ただ、これについて苦しみ悲しむことだけを知っていて、

教えを聞くことがなく、

心に深く思うことがなく、

ただ眼前の快楽におぼれて、財貨や色欲を貪って飽きることを知らない。


 七、無量寿経下巻

 人びとが、遠い昔から迷いの世界を経めぐり、憂いと苦しみに沈んでいたことは、言葉では言い尽くすことができない。

しかも、今日に至っても、なお迷いは絶えることがない。

ところが、いま、仏の教えに会い、仏の名を聞いて信ずることができたのは、まことにうれしいことである。

 だから、よく思いを重ね、

悪を遠ざけ、

善を選び、

努め行なわなければならない。

 いま、幸いにも仏の教えに会うことができたのであるから、

どんな人も仏の教えを信じて、

仏の国に生まれることを願わなければならない。

仏の教えを知った以上は、人は他人に従って煩悩や罪悪のとりこになってはならない。

また、仏の教えをおのれだけのものとすることなく、

それを実践し、

それを他人に教えなければならない。



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50. 豊岳正彦[-5228] lkyKeJCzlUY 2020年10月11日 08:42:39 : 94hwD4m7yY : djJHTHh0dWdoeE0=[-186] 報告
仏教聖典_おしえ_第五章 仏の救い

 第一節 仏の願い

 一、無量寿経上巻

 人びとの生活は、すでに説いたように、その煩悩は断ちにくいものであり、また、
始めもわからない昔から、山のような罪業をになって、迷いに迷いを重ねてきている。
だから、たとえ仏性の宝をそなえていても、開き現わすことは容易ではない。

 この人間の有様を見通された仏は、はるかな昔に、ひとりの菩薩となり、
人びとを哀れみ、あらゆる恐れを抱く者のために大慈悲者となろうとして、
次のような数多くの願いを起こした。
例え、この身はどんな苦しみの海の中にあっても、
必ず努め励んで成し遂げようと誓った。

 (ひ)たとい、わたしが仏と成ったとしても、
わたしの国に生まれる人びとが、
確かに仏と成るべき身の上となり、
必ず悟りに至らないならば、
誓ってさとりを開かないであろう。

 (ふ)たとい、わたしが仏と成ったとしても、
わたしの光明に限りがあって、
世界のはしばしまで照らすことがないならば、
誓ってさとりを開かないであろう。

 (み)たとい、わたしが仏と成ったとしても、
わたしの寿命に限りがあって、
どんな数であっても数えられるほどの命数であるならば、
誓ってさとりを開かないであろう。

 (よ)たとい、わたしが仏と成ったとしても、
十方の世界のあらゆる仏が、ことごとく称賛して、
わたしの名前を称(とな)えないようなら、
誓ってさとりを開かないであろう。

 (い)たとい、わたしが仏と成ったとしても、
十方のあらゆる人びとが真実の心をもって深い信心を起こして、
わたしの国に生まれようと思って、
十返わたしの名前を念じても、
生まれないようなら、
誓ってさとりを開かないであろう。

 (む)たとい、わたしが仏と成ったとしても、
十方のあらゆる人びとが、道を求める心を起こし、
多くの功徳を修め、真実の心をもって願いを起こし、
わたしの国へ生まれようと願っているのに、
もしもその人の寿命が尽きるとき、
偉大な菩薩達に取り巻かれて、その人の前に現れないようなら、
誓ってさとりを開かないであろう。

 (な)たとい、わたしが仏と成っても、
十方のあらゆる人びとが、わたしの名前を聞いて、
わたしの国に思いをかけ、
多くの功徳のもとを植え、
心を込めて供養して、
わたしの国に生まれようと思っているのに、
思い通りに生まれることができないようなら、
誓ってさとりを開かないであろう。

 (や)わたしの国に来て生まれる者は、
「次の生には仏と成るべき位」に到達するであろう。
そして、彼らは思いのままに人びとを教え導き、
それぞれの願いに従って、
数多くの人びとを導いてさとりに入らせ、
大悲の功徳を修めることができるであろう。
たとい、わたしが仏と成ったとしても、
もしもそれができないようなら、
誓ってさとりを開かないであろう。

 (こ)たとい、わたしが仏と成ったとしても、
十方の世界のあらゆる人びとが、
わたしの光明に触れて、
身も心も和らぎ、
この世のものよりもすぐれたものになるようでありたい。
もしもそうでないようなら、
誓ってさとりを開かないであろう。

 (と)たとい、わたしが仏と成ったとしても、
十方の世界のあらゆる人びとが、
わたしの名前を聞いて、
生死にとらわれることのない深い信念と、
さえぎられることのない深い智慧とを得られないようなら、
誓ってさとりを開かないであろう。

 わたしは、いま、このような誓いを立てる。
もしもこの願いを満たすことができないようなら、
誓ってさとりを開かないであろう。

限りのない光明の主となり、
あらゆる国々を照らして世の中の悩みを救い、
人びとのために、
教えの蔵を開いて、
広く功徳の宝を施すであろう。


 二、無量寿経上巻

 このように願いを立てて、
はかり知れない長い間功徳を積み、
清らかな国を作り、
すでにはるかな昔に仏と成り、
現にその極楽世界にいて、
教えを説いている。

 その国は
清く安らかで、
悩みを離れ、
さとりの楽しみが満ちあふれ、
着物も食物もそしてあらゆる美しいものも、
みなその国の人びとの心の思うままに現われる。
快い風がおもむろに吹き起こって、
宝の木々をわたると、
教えの声が四方に流れて、
聞く者の心の垢を取り去っている。

 また、その国には
さまざまな色の蓮の花が咲きにおい、
花ごとにはかり知れない花びらがあり、
花びらごとにその色の光が輝き、
光はそれぞれ仏の智慧の教えを説いて、
聞く人びとを仏の道に安らわせている。


 三、無量寿経上巻

 いま十方のあらゆる仏たちから、
この仏のすぐれた徳が称(たた)えられている。
 
 どんな人でも、
この仏の名前を聞いて、
信じ喜ぶ一念で、
その仏の国に生まれることができるのである。

 その仏の国に至る人びとは、
みな寿命に限りがなく、
また自らほかの人びとを救いたいという願いを起こし、
その願いの仕事にいそしむことになる。

 これらの願いを立てることによって、
執着を離れ、
無常をさとる。
おのれのためになると同時に他人をも利する行為を実践し、
人びととともに慈悲に生き、
この世俗の生活の足かせや執着にとらわれない。

 人びとはこの世の苦難を知りつつ、
同時にまた、
仏の慈悲の限りない可能性をも知っている。
その人びとの心には、
執着がなく、
おのれとか、他人とかの区別もなく、
行くも帰るも、
進むも止まるも、
こだわるところがなく、
まさに心のあるがままに自由である。
しかも、
仏が慈悲を垂れた人びととともにとどまることを選ぶのである。

 だから、
もしもひとりの人がいて、
この仏の名前を聞いて、
喜び勇み、
ただ一度でもその名を念ずるならば、
その人は大いなる利益を得るであろう。
たとえこの世界に充ち満ちている炎の中にでも分け入って、
この教えを聞いて信じ喜び、
教えのとおりに行わなければならない。

 もしも、
人びとが真剣にさとりを得ようと望むなら、
どうしても、
この仏の力によらなければならない。
仏の力がなくてさとりを得ることは、
普通の人間のできることではない。


 四、無量寿経下巻

 いま、この仏は、
ここよりはるか遠くのところにいるのではない。
その仏の国ははるか遠くにあるけれども、
仏を思い念じているものの心の中にもある。
 
 まず、
この仏の姿を心に思い浮かべてみると、
千万の金色に輝き、
八万四千の姿や特徴がある。
一つ一つの姿や特徴には八万四千の光があり、
一つ一つの光は、
一つ残らず、
念仏する人を見すえて、
包容して捨てることがない。

 この仏を拝み見ることによって、
また仏の心を拝み見ることになる。
仏の心とは大いなる慈愛そのものであり、
信心を持つ者を救いとるのはもちろん、
仏の慈悲を知らず、
あるいは忘れているような人びとをも救いとるのである。

 信ある者には仏は仏と一つになる機会を与える。
この仏を思い念ずると、
この仏は、
あらゆるところに満ちみちる体であるから、
あらゆる人びとの心に入る。

 だからこそ、
心に仏を思うとき、
その心は、
実に円満な姿や特徴をそなえた仏であり、
この心は仏そのものとなり、
この心がそのまま仏となる。

 清く正しい信心を持つ者は、
心が仏の心そのままであると思い描くべきである。


 五、無量寿経下巻

 仏の体にはさまざまの相(すがた)があり、
人びとの能力に応じて現れ、
この世界に満ちみちて、
限りがなく、
人の心の考え及ぶところでない。
それは宇宙、
自然、
人間のそれぞれの姿の中で仰ぎ見ることができる。

 しかし、
仏の名を念ずる者は、
必ずその姿を拝むことができる。
この仏は常にふたりの菩薩を従えて、
念仏する人のもとに迎えに来る。

 仏の化身はあらゆる世界に満ちみちているけれども、
信心を持つ者だけが、
それを拝み見ることができる。

 仏の仮の姿を思うことさえ、
限りない幸福を得るのであるから、
真実の仏を拝み見ることの功徳には、
はかり知れないものがある。

六、無量寿経下巻

 この仏の心は、
大いなる慈悲と智慧そのものであるから、
どんな人をも救う。

 愚かさのために恐ろしい罪を犯し、
心の中では、
貪(むさぼ)り、
瞋(いか)り、
癡(おろ)かな思いを抱き、
口では偽り、
むだ口、
悪口、
二枚舌を使い、
身では殺生し、
盗み、
よこしまな愛欲を犯すという十悪をなす者は、
その悪い行いのために、
永遠に未来の苦しみを受けることとなる。

 その人の命の終わるとき、
善い友が来てねんごろに、
「あなたはいま苦しみが迫っていて、
仏を思うこともできないであろう。
ただこの仏の名を称(とな)えるがよい。」と教える。

 この人が心を一つにして仏の名を称えると、
ひと声ひと声のうちに、
はかり知れない迷いの世界に入る罪を除いて救う。

 もし人が、
この仏の名を称(とな)えるならば、
永遠に尽きることのない迷いの世界に入る罪をも除くのである。
ましてや一心に思うに至っては、
なおさらのことである。

 まことに念仏する人は、
白蓮華(びゃくれんげ)のようなすばらしい人である。
慈悲と智慧の二菩薩はその友となり、
また、
常に道を離れることなく、
ついに浄土に生まれることになるであろう。

 だから、
人びとはこのことばを身につけなければならない。
 
このことばを身につけるということは、

この仏の名を身につけることである。


_第二節 清らかな国土

 一、無量寿経下巻

 この仏はいま、
現にいて、
法を説いている。
その国の人びとはみな苦しみを知らず、
ただ楽しみの日のみを送るので、
極楽というのである。

 その国には七つの宝でできた池があり、
中には清らかな水をたたえ、
池の底には黄金の砂が敷かれ、
車の輪のように大きい蓮華が咲いている。
その蓮華は、
青い花には青い光が、
黄色の花には黄色の光が、
赤い花には赤い光が、
白い花には白い光があり、
清らかな香りをあたりに漂わせている。

 また、
その池の周囲のあちこちには、
金・銀・青玉・水晶の四つの宝で作った楼閣があり、
そこには大理石で作った階段がある。
また、
別の場所には池の上につき出た欄干があり、
宝玉で飾られた幕で取り囲まれている。
また、
その間にはよい匂いのする木々や
花がいっぱいに咲いた茂みがある。

 空には神々しい音楽が鳴り、
大地には黄金の色が照り映えて、
夜昼六度も天の花が降り、
その国の人びとはそれを集め花皿に盛って、
ほかのすべての仏國へ持ってゆき、
無数の仏に供養する。

 
 二、無量寿経下巻

 また、
この国の園には、
白鳥、
孔雀、
おうむ、
百舌鳥、
迦陵頻伽(かりょうびんが)など数多くの鳥が、
常に優雅な声を出し、
あらゆる徳と善をたたえ、
教えを宣布している。

 人びとはこの声を聞いて、
みな仏を念じ、
教えを思い、
人の和合を念ずる。
だれでもこの声の音楽を聞く者は、
仏の声を聞く思いがし、
仏への信心を新たにし、
教えを聞く喜びを新たにして、
あらゆる国の仏の教えを受ける者との友情を新たにする。

 そよ風が吹き、
宝の木々の並木をよぎり、
輝く鈴をつけた網に触れると、
微妙な音を出し、
一時に百千の音楽がかなでられる。 

 この音を聞く者は、
また自然に仏を念じ、
教えを思い、
人の和合を念ずるようになる。

その仏の国は、

このような功徳と美しい飾りとをそなえている。


 三、無量寿経下巻

 どういうわけで、

この国の仏は無量光佛、

無量寿佛と名づけられるのであろうか。

 かの仏の光は量(はか)ることができず、

十方の国を照らして少しもさえぎられない。

またその寿命も限りがないから、

そう名づけるのである。

 そして、

その国に生まれる人びとも、

みな、

ふたたび迷いの世界に戻らない境地に至り、

その数はかぞえ尽くすことができないからである。

 また、

この仏の光によって新しい命に目覚める人びとの数は無量だからである。

 ただ、

この仏の名を心に保ち、

一日または七日にわたって、

心を一つにして動揺することがないならば、

その人の命が終わるとき、

この仏は、

多くの聖(ひじり)たちとともに、

その人の前に現われる。

その人の心はうろたえることなく、

ただちにその国に生まれることができる。

 もし人が、

この仏の名を聞き、

この教えを信ずるならば、

仏たちに守られ、

この上もない正しいさとりを得ることができるのである。

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51. 豊岳正彦[-5236] lkyKeJCzlUY 2020年10月11日 08:50:44 : 94hwD4m7yY : djJHTHh0dWdoeE0=[-194] 報告
仏教聖典_はげみ

第1章 さとりへの道 

 第一節 心を清める

 一、人には、迷いと苦しみのもとである煩悩がある。この煩悩のきずなから逃れるには五つの方法がある。

 第一には、ものの見方を正しくして、その原因と結果とをよくわきまえる。すべての苦しみのもとは、心の中の煩悩であるから、その煩悩がなくなれば、苦しみのない境地が現われることを正しく知るのである。

 見方を誤るから、我(が)という考えや、原因・結果の法則を無視する考えが起こり、この間違った考えにとらわれて煩悩を起こし、迷い苦しむようになる。

 第二には、欲をおさえしずめることによって煩悩をしずめる。明らかな心によって、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つに起こる欲をおさえしずめて、煩悩の起こる根元を断ち切る。

 第三には、物を用いるに当たって、考えを正しくする。着物や食物を用いるのは享楽のためとは考えない。着物は暑さや寒さを防ぎ羞恥を包むためであり、食物は道を修めるもととなる身体を養うためにあると考える。この正しい考えのために、煩悩は起こることができなくなる。

 第四には何ごとも耐え忍ぶことである。暑さ・寒さ・飢え・渇きを耐え忍び、ののしりや謗(そし)りを受けても耐え忍ぶことによって、自分の身を焼き滅ぼす煩悩の火は燃え立たなくなる。

 第五には、危険から遠ざかることである。賢い人が、荒馬や狂犬の危険に近づかないように、行ってはならない所、交わってはならない友は遠ざける。このようにすれば煩悩の炎は消え去るのである。


 二、世には五つの欲がある。

 眼に見るもの、耳に聞く声、鼻にかぐ香り、舌に味わう味、身に触れる感じ、この五つのものをここちよく好ましく感ずることである。

 多くの人は、その肉体の好ましさに心ひかれて、これにおぼれ、その結果として起こる災いを見ない。これはちょうど、森の鹿が猟師のわなにかかって捕えられるように、悪魔のしかけたわなにかかったのである。まことにこの五欲はわなであり、人びとはこれにかかって煩悩を起こし、苦しみを生む。だから、この五欲の災いを見て、そのわなから免れる道を知らなければならない。


 三、その方法は一つではない。例えば、蛇と鰐(わに)と鳥と犬と狐と猿と、その習性を別にする六種の生きものを捕えて強いなわで縛り、そのなわを結び合わせて放つとする。

 このとき、この六種の生きものは、それぞれの習性に従って、おのおのその住みかに帰ろうとする。蛇は塚に、鰐は水に、鳥は空に、犬は村に、狐は野に、猿は森に。このために互いに争い、力のまさったものの方へ、引きずられてゆく。

 ちょうどこのたとえのように、人びとは目に見たもの、耳に聞いた声、鼻にかいだ香り、舌に味わった味、身に触れた感じ、及び、意(こころ)に思ったもののために引きずられ、その中の誘惑のもっとも強いものの方に引きずられてその支配を受ける。

 またもし、この六種の生きものを、それぞれなわで縛り、それを丈夫な大きな柱に縛りつけておくとする。はじめの間は、生きものたちはそれぞれの住みかに帰ろうとするが、ついには力尽き、その柱のかたわらに疲れて横たわる。

 これと同じように、もし、人がその心を修め、その心を鍛練しておけば、他の五欲に引かれることはない。もし心が制御されているならば、人びとは、現在においても未来においても幸福を得るであろう。


 四、人びとは欲の火の燃えるままに、はなやかな名声を求める。それはちょうど香が薫りつつ自らを焼いて消えてゆくようなものである。いたずらに名声を求め、名誉を貪って、道を求めることを知らないならば、身はあやうく、心は悔いにさいなまれるであろう。

 名誉と財と色香とを貪り求めることは、ちょうど、子供が刃(やいば)に塗られた蜜をなめるようなものである。甘さを味わっているうちに、舌を切る危険をおかすこととなる。

 愛欲を貪り求めて満足を知らない者は、たいまつをかかげて風に逆らいゆくようなものである。手を焼き、身を焼くのは当然である。

 貪りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒に満ちている自分自身の心を信じてはならない。自分の心をほしいままにしてはならない。心をおさえ欲のままに走らないように努めなければならない。


 五、さとりを得ようと思うものは、欲の火を去らなければならない。干し草を背に負う者が野火を見て避けるように、さとりの道を求める者は、必ずこの欲の火から遠ざからなければならない。 
                                     
 美しい色を見、それに心を奪われることを恐れて眼をくり抜こうとする者は愚かである。心が主であるから、よこしまな心を断てば、従者である眼の思いは直ちにやむ。

 道を求めて進んでゆくことは苦しい。しかし、道を求める心のないことは、さらに苦しい。この世に生まれ、老い、病んで、死ぬ。その苦しみには限りがない。

 道を求めてゆくことは、牛が重荷を負って深い泥の中を行くときに、疲れてもわき目もふらずに進み、泥を離れてはじめて一息つくのと同じでなければならない。欲の泥はさらに深いが、心を正しくして道を求めてゆけば、泥を離れて苦しみはうせるであろう。


  六、道を求めてゆく人は、心の高ぶりを取り去って教えの光を身に加えなければならない。どんな金銀・財宝の飾りも、徳の飾りには及ばない。

 身を健やかにし、一家を栄えさせ、人びとを安らかにするには、まず、心をととのえなければならない。心をととのえて道を楽しむ思いがあれば、徳はおのずからその身にそなわる。

 宝石は地から生まれ、徳は善から現われ、智慧は静かな清い心から生まれる。広野のように広い迷いの人生を進むには、この智慧の光によって、進むべき道を照らし、徳の飾りによって身をいましめて進まなければならない。

 貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒を捨てよ、と説く仏の教えは、よい教えであり、その教えに従う人は、よい生活と幸福とを得る人である。


 七、人の心は、ともすればその思い求める方へと傾く。貪(むさぼ)りを思えば貪りの心が起こる。瞋(いか)りを思えば瞋りの心が強くなる。損なうことを思えば損なう心が多くなる。

 牛飼いは、秋のとり入れ時になると、放してある牛を集めて牛小屋に閉じこめる。これは牛が穀物を荒して抗議を受けたり、また殺されたりすることを防ぐのである。

 人もそのように、よくないことから起こる災いを見て、心を閉じこめ、悪い思いを破り捨てなければならない。貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと損なう心を砕いて、貪らず、瞋(いか)らず、損なわない心を育てなければならない。

 牛飼いは、春になって野原の草が芽をふき始めると牛を放す。しかし、その牛の群れの行方を見守り、その居所に注意を怠らない。

 人もまた、これと同じように、自分の心がどのように動いているか、その行方を見守り、行方を見失わないようにしなければならない。


 八、釈尊がコーサンビーの町に滞在していたとき、釈尊に怨みを抱く者が町の悪者を買収し、釈尊の悪口を言わせた。釈尊の弟子たちは、町に入って托鉢(たくはつ)しても一物も得られず、ただそしりの声を聞くだけであった。

 そのときアーナンダは釈尊にこう言った。「世尊よ、このような町に滞在することはありません。他にもっとよい町があると思います」「アーナンダよ、次の町もこのようであったらどうするのか」「世尊よ、また他の町へ移ります」

 「アーナンダよ、それではどこまで行ってもきりがない。わたしはそしりを受けたときには、じっとそれに耐え、そしりの終わるのを待って、他へ移るのがよいと思う。アーナンダよ。仏は、利益・害・中傷・ほまれ・たたえ・そしり・苦しみ・楽しみという、この世の八つのことによって動かされることがない。こういったことは、間もなく過ぎ去るであろう」

第二節 善い行ない


 一、道を求めるものは、常に身と口と意の三つの行ないを清めることを心がけなければならない。

身の行ないを清めるとは、生きものを殺さず、盗みをせず、よこしまな愛欲を犯さないことである。

口の行ないを清めるとは、偽りを言わず、悪口を言わず、二枚舌を使わず、むだ口をたたかないことである。

意の行ないを清めるとは、貪(むさぼ)らず、瞋(いか)らず、よこしまな見方をしないことである。

 心が濁れば行ないが汚れ、行ないが汚れると、苦しみを避けることができない。

だから、心を清め、行ないを慎しむことが道のかなめである。

 二、昔、ある金持ちの未亡人がいた。親切で、しとやかで、謙遜であったため、まことに評判のよい人であった。その家にひとりの女中がいて、これも利口でよく働く女であった。

 あるとき、その女中がこう考えた。「うちの主人は、まことに評判のよい人であるが、腹からそういう人なのか、または、よい環境がそうさせているのか、一つ試してみよう」

 そこで、女中は、次の日、なかなか起きず、昼ごろにようやく顔を見せた。主人はきげんを悪くして、「なぜこんなに遅いのか。」ととがめた。

 「一日や二日遅くても、そうぶりぶり怒るものではありません」とことばを返すと、主人は怒った。

 女中はさらに次の日も遅く起きた。主人は怒り、棒で打った。このことが知れわたり、未亡人はそれまでのよい評判を失った。


 三、だれでもこの女主人と同じである。

環境がすべて心にかなうと、親切で謙遜で、静かであることができる。

しかし、環境が心に逆らってきても、なお、そのようにしていられるかどうかが問題なのである。

 自分にとって面白くないことばが耳に入ってくるとき、相手が明らかに自分に敵意を見せて迫ってくるとき、衣食住が容易に得られないとき、このようなときにも、なお静かな心と善い行ないとを持ち続けることができるであろうか。

 だから、環境がすべて心にかなうときだけ、静かな心を持ちよい行ないをしても、それはまことによい人とはいえない。

仏の教えを喜び、教えに身も心も練り上げた人こそ、静かにして、謙遜な、よい人といえるのである。


 四、すべてことばには、

時にかなったことばとかなわないことば、

事実にかなったことばとかなわないことば、

柔らかなことばと粗いことば、

有益なことばと有害なことば、

慈しみあることばと憎しみのあることば、この五対がある。

 この五対のいずれによって話しかけられても、

 「わたしの心は変わらない。

粗いことばはわたしの口から漏れない。

同情と哀れみとによって慈しみの思いを心にたくわえ、怒りや憎しみの心を起こさないように」

と努めなければならない。

 たとえばここに人がおり、鋤と鍬を持って、この大地の土をなくそうと、土を掘ってはまき散らし、土よなくなれと言ったとしても、土をなくすことはできない。

このようにすべてのことばをなくしてしまうことはのぞみ得ない。

 だから、どんなことばで語られても、心を鍛えて慈しみの心をもって満たし、心の変わらないようにしておかなければならない。

 また、絵の具によって、空に絵を描こうとしても、物の姿を現わすことはできないように、

また、枯草のたいまつによって、大きな河の水を乾かそうとしてもできないように、

また、よくなめした柔らかな皮を摩擦して、ざらざらした音を立てようとしてもできないように、

どんなことばで話しかけられても、決して心の変わらないように、心を養わなければならない。

 人は、心を大地のように広く、大空のように限りなく、大河のように深く、なめした皮のように柔らかに養わなければならない。

 たとえ、かたきに捕らえられて、苦しめられるようなことがあっても、そのために心を暗くするのは、真に仏の教えを守った者とはいえない。

どんな場合に当たっても、
 
 「私の心は動かない。

憎しみ怒ることばは、わたしの口を漏れない。

同情と哀れみのある慈しみの心をもって、その人を包むように。」と学ばなければならない。

五、ある人が、「夜は煙って、昼は燃える蟻塚。」を見つけた。
ある賢者にそのことを語ると、「では、剣をとって深く掘り進め。」と命ぜられ、言われるままに、その蟻塚を掘ってみた。

 はじめにかんぬきが出、次は水泡、次には刺叉(さすまた)、それから箱、亀、牛殺しの刀、一片の肉が次々と出、最後に龍が出た。

 賢者にそのことを語ると、「それらのものをみな捨てよ。ただ龍のみをそのままにしておけ。龍を妨げるな。」と教えた。

 これはたとえである。

ここに「蟻塚」というのはこの体のことである。

「夜は煙って」というのは、昼間したことを夜になっていろいろ考え、喜んだり、悔やんだりすることをいう。

「昼は燃える」というのは、夜考えたことを、昼になってから体や口で実行することをいう。

 「ある人」というのは道を求める人のこと、「賢者」とは仏のことである。

「剣」とは清らかな智慧のこと、「深く掘り進む」とは努力のことである。

 「かんぬき」とは無明のこと、
「水泡」とは怒りと悩み、
「刺叉」とはためらいと不安、
「箱」とは貪り・瞋り・怠り・浮わつき・悔い・惑いのこと、
「亀」とは身と心のこと、
「牛殺しの刀」とは五欲のこと、
「一片の肉」とは楽しみを貪り求める欲のことである。

これらは、いずれもこの身の毒となるものであるから、「みな捨てよ」というのである。

 最後の「龍」とは、煩悩の尽きた心のことである。

わが身の足下を掘り進んでゆけば、ついにはこの龍を見ることになる。

 掘り進んでこの龍を見いだすことを、「龍のみをそのままにしておけ、龍を妨げるな。」というのである。

 六、釈尊の弟子ピンドーラは、さとりを得て後、故郷の恩に報いるために、コーサンビーの町に帰り、努力して仏の種をまく田地(でんち)の用意をしようとした。

コーサンビーの郊外に、小公園があり、椰子の並木は果てもなく続き、ガンジスの洋々たる河波は、涼しい風を絶え間なく送っていた。

 夏のある日、昼の暑い日盛りを避けて、ピンドーラは、並木の木陰の涼しいところで座禅していた。

ちょうどこの日、城主のウダヤナ王も、妃たちを連れて公園に入り、管弦の遊びに疲れて、涼しい木陰にしばしの眠りにおちいった。

 妃たちは、王の眠っている間、あちらこちらとさまよい歩き、ふと、木陰に端座するピンドーラを見た。

彼女らはその姿に心うたれ、道を求める心を起こし、説法することを求めた。

そして、彼の教えに耳を傾けた。

 目を覚ました王は、妃たちのいないのに不審をいだき、後を追って、木陰で妃たちにとりまかれているひとりの出家を見た。

淫楽に荒んだ王は、前後の見境もなく、心中にむらむらと嫉妬の炎を燃やし、「わが女たちを近づけて雑談にふけるとはふらちな奴だ。」と悪口を浴びせた。

ピンドーラは眼を閉じ、黙然として、一語も発しない。

 怒り狂った王は、剣を抜いて、ピンドーラの頭につきつけたが、彼はひとことも語らず、岩のように動かない。

 いよいよ怒った王は、蟻塚をこわして、無数の赤蟻を彼の体のまわりにまき散らしたが、それでもピンドーラは、端然と坐ったままそれに耐えていた。

 ここに至って、王ははじめて自分の狂暴を恥じ、その罪をわびて許しを請うた。

これから仏の教えがこの王家に入り、その国に広まるいとぐちが開けた。


 七、その後、幾日か過ぎて、ウダヤナ王はピンドーラをその住む森に訪ね、その不審をただした。

 「大徳よ、仏の弟子たちは、若い身でありながら、どうして欲におぼれず、清らかにその身を保つことができるのであろうか。」

 「大王よ、仏はわたしたちに向かって、婦人に対する考えを教えられた。

年上の婦人を母と見よ。中ほどの婦人を妹と見よ。若い婦人を娘と見よと。

この教えによって、弟子たちは若い身でありながら、欲におぼれず、その身を清らかに保っている。」

 「大徳よ、しかし、人は、母ほどの人にも、妹ほどの人にも、娘ほどの人にもみだらな心を起こすものである。

仏の弟子たちはどのようにして欲を抑えることができるのであろうか。」

 「大王よ、世尊は、人の体がいろいろの汚れ、血・うみ・汗・脂など、さまざまの汚れに満ちていることを観(み)よと教えられた。

このように見ることによって、われわれ若い者でも、心を清らかに保つことができるのである。」

 「大徳よ、体を鍛え、心を練り、智慧をみがいた仏弟子たちには容易であるかも知れない。

しかし、いかに仏の弟子でも、未熟の人には、容易なことではないであろう。

汚れたものを見ようとしても、いつしか清らかな姿に心ひかれ、醜さを見ようとしても、いつしか美しい形に魅せられてゆく。

仏弟子が美しい行いを保つには、もっと他に理由があるのではあるまいか。」

 「大王よ、仏は五官の戸口を守れと教えられる。

目によって色・形を見、耳によって声を聞き、鼻によって香りをかぎ、舌によって味を味わい、体によって物に触れるとき、

そのよい姿に心を奪われず、またよくない姿に心をいらだたせず、よく五官の戸口を守れと教えられる。

この教えによって、若い者でも、心身を清らかに保つことができるのである。」

 「大徳よ、仏の仰せは、まことにすばらしい。

わたしの経験によってもそのとおりである。

五官の戸締まりをしないで、ものに向かえば、すぐに卑しい心にとらわれる。

五官の戸口を守ることは、わたしどもの行いを清らかにするうえに、まことに大切なことである。」

 八、人が心に思うところを動作に表すとき、常にそこには反作用が起こる。

人はののしられると、言い返したり、仕返ししたくなるものである。

人はこの反作用に用心しなくてはならない。

それは風に向かって唾(つばき)するようなものである。

それは他人を傷つけず、かえって自分を傷つける。

それは風に向かってちりを掃くようなものである。

それはちりを除くことにならず、自分を汚すことになる。

仕返しの心には常に災いがつきまとうものである。


 九、せまい心を捨てて、広く他に施すことは、まことによいことである。

それとともに、志を守り、道を敬うことは、さらによいことである。

 人は利己的な心を捨てて、他人を助ける努力をすべきである。

他人が施すのを見れば、その人はさらに別の人を幸せにし、幸福はそこから生まれる。

 一つのたいまつから何千人の人が火を取っても、そのたいまつはもとのとおりであるように、幸福はいくら分け与えても、減るということはない。

 道を修める者は、その一歩一歩を慎まなければならない。

志がどんなに高くても、それは一歩一歩到達されなければならない。

道は、その日その日の生活の中にあることを忘れてはならない。


 十、この世の中に、さとりへの道を始めるに当たって成し難いことが二十ある。

   一、貧しくて、施すことは難く、

   二、慢心にして道を学ぶことは難く、

   三、命を捨てて道を求めることは難く、

   四、仏の在世に生を受けることは難く、

   五、仏の教えを聞くことは難く、

   六、色欲を耐え忍び、諸欲を離れることは難く、

   七、よいものを見て求めないことは難く、

   八、権勢を持ちながら、勢いをもって人に臨まないことは難く、

   九、辱められて怒らないことは難く、

   十、事が起きても無心であることは難く、

  十一、広く学び深く究めることは難く、

  十二、初心の人を軽んじないことは難く、

  十三、慢心を除くことは難く、

  十四、よい友を得ることは難く、

  十五、道を学んでさとりに入ることは難く、

  十六、外界の環境に動かされないことは難く、

  十七、相手の能力を知って、教えを説くことは難く、

  十八、心をいつも平らかに保つことは難く、

  十九、是非をあげつらわないことは難く、

  二十、よい手段を学び知ることは難い。


 十一、悪人と善人の特質はそれぞれ違っている。

悪人の特質は、罪を知らず、それをやめようとせず、罪を知らされるのをいやがる。

善人の特質は、善悪を知り、悪であることを知ればすぐやめ、悪を知らせてくれる人に感謝する。

 このように、善人と悪人とは違っている。

 愚かな人とは自分に示された他人の親切に感謝できない人である。

 一方賢い人とは

常に感謝の気持ちを持ち、直接自分に親切にしてくれた人だけではなく、

すべての人に対して思いやりの心を持つことによって、感謝の気持ちを表そうとする人である。



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52. 豊岳正彦[-5235] lkyKeJCzlUY 2020年10月11日 08:59:35 : 94hwD4m7yY : djJHTHh0dWdoeE0=[-193] 報告
仏教聖典_はげみ_第一章さとりへの道_

第三節仏のたとえ_第一項_雑宝蔵経

 遠い昔、棄老国と名づける、老人を棄(す)てる国があった。

その国の人びとは、だれしも老人になると、遠い野山に棄てられるのがおきてであった。

 その国の王に仕える大臣は、いかにおきてとはいえ、年老いた父を棄てることができず、深く大地に穴を掘ってそこに家を作り、そこに隠して孝養を尽くしていた。

 ところがここに一大事が起きた。

それは神が現れて、王に向かって恐ろしい難問を投げつけたのである。

 「ここに二匹の蛇がいる。

この蛇の雄・雌を見分ければよし、もしできないならば、この国を滅ぼしてしまう。」と。

 王はもとより、宮殿にいるだれひとりとして蛇の雄・雌を見分けられる者はいなかった。

王はついに国中に布告して、見分け方を知っている者には、厚く賞を与えるであろうと告げさせた。

 かの大臣は家に帰り、ひそかに父に尋ねると、父はこう言った。

 「それは易しいことだ。

柔らかい敷物の上に、その二匹の蛇を置くがよい。

そのとき、騒がしく動くのは雄であり、動かないのが雌である。」

 大臣は父の教えのとおり王に語り、それによって蛇の雄・雌を知ることができた。

 それから神は、次々にむずかしい問題を出した。

王も家臣たちも、答えることができなかったが、大臣はひそかにその問題を父に尋ね、常に解くことができた。

その問いと答えとは次のようなものであった。

 「眠っているものに対しては覚めているといわれ、覚めているものに対しては眠っているといわれるものは誰か」

「それは、いま道を修行している人のことである。

道を知らない、眠っている人に対しては、その人は覚めているといわれる。

すでに道をさとった、覚めている人に対しては、その人は眠っているといわれる。」

 「大きな象の重さはどうして量るか。」

「象を舟に乗せ、舟が水中にどれだけ沈んだか印をしておく。

次に象を降ろして、同じ深さになるまで石を載せその石の重さを量ればよい。」

 「一すくいの水が大海の水より多いというのは、どんなことか。」

「清らかな心で一すくいの水を汲んで、父母や病人に施せば、その功徳は永久(とこしえ)に消えない。

大海の水は多いといっても、ついに尽きることがある。

これをいうのである。」

 次に神は、骨と皮ばかりにやせた、飢えた人を出して、その人にこう言わせた。

「世の中に、わたしよりもっと飢えに苦しんでいるものがあるであろうか。」

「ある。

世にもし、心がかたくなで貧しく、仏法僧の三宝を信ぜず、父母や師匠に供養をしないならば、その人の心は飢えきっているだけでなく、その報いとして、後の世には餓鬼道に落ち、長い間餓えに苦しまなければならない。」

 「ここに真四角な栴檀の板がある。

この板はどちらが根の方であったか。」

「水に浮かべてみると、根の方がいくらか深く沈む。

それによって根の方を知ることができる。」

 「ここに同じ姿・形の母子の馬がいる。

どうしてその母子を見分けるか。」

「草を与えると、母馬は、必ず子馬の方へ草を押しつけ与えるから、直ちに見分けることができる。」

 これらの難問に対する答えはことごとく神を喜ばせ、また王をも喜ばせた。

そして王は、この智慧*が、ひそかに穴蔵にかくまっていた大臣の老いた父から出たものであることを知り、それより、老人を棄てるおきてをやめて、年老いた人に孝養を尽くすようにと命ずるに至った。

_________


*智慧(般若はんにゃprajna)
 普通に使われている”知恵”とは区別して、わざわざ仏教では”般若”の漢訳としてこの言葉を用いているが、正邪を区別する正しい判断力のことで、これを完全に備えたものが”仏陀”である。単なる知識ではなく、あらゆる現象の背後に存在する真実の姿を見ぬくことのできるもので、これを得てさとりの境地に達するための実践を、”般若波羅密はんにゃはらみつ”という。


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53. 豊岳正彦[-5246] lkyKeJCzlUY 2020年10月11日 10:06:53 : 94hwD4m7yY : djJHTHh0dWdoeE0=[-201] 報告
二、
 インドのヴィーデーハ国の王妃は、六牙【ろくげ】の白象の夢を見た。
王妃は、その象牙をぜひ自分のものにしたいと思い、王にその牙を【きば】を手に入れたいと願った。
王妃を愛する王は、この無理な願いを退けることができず、このような象を知る者があれば届け出よ、と賞金をつけて国中に触れを出した。

ヒマラヤ山の奥にこの六牙【ろくげ】の象がいた。
この象は仏になるための修行をしていたのであるが、あるときひとりの猟師を危難から救ってやった。
ようやく国に帰ることのできたこの猟師は、この触れを見、賞金に眼がくらみ、恩を忘れて、六牙の象を殺そうと山へ向かっていった。

猟師はこの象が仏になるための修行をしていたので、象を安心させるために袈裟【けさ】をかけて出家の姿になった。
そして、山には入って象に近づき、象が心を許しているさまを見すまして毒矢を放った。

激しい毒矢に射られて死期の近いことを知った象は、猟師の罪をとがめようともせず、かえってその煩悩【ぼんのう】の過ちを哀れみ、
猟師をその四つの足の間に入れて、報復しようとする大勢の仲間の象から守り、さらに、
猟師がこの危険をおかすに至ったわけを尋ねて、彼が六つの牙【きば】を求めるためであることを知り、
自ら牙を大木に打ちつけて折り、彼にこれを与えた。
白象は、「この布施行によって仏道修行を成就した。わたしは仏の国に生まれるであろう。やがて仏となったら、まず、
あなたの心の中にある貪り【むさぼ】・瞋【いか】り・愚かさという三つの毒矢を抜き去るであろう。」と誓った。

三、
 ヒマラヤ山のふもとの、ある竹やぶに、多くの鳥や獣【けもの】と一緒に、一羽のおうむが住んでいた。
あるとき、にわかに大風が起こり、竹と竹が擦【す】れあって火が起こった。
火は風にあおられて、ついに大火となり、鳥も獣も逃げ場を失って鳴き叫んだ。
おうむは、一つには、長い間住居を与えてくれた竹やぶの恩に報いるために、
一つには、大勢の鳥や獣の災難を哀れんで、彼らを救うために、
近くの池に入っては翼を水に浸し、空にかけのぼっては滴【しずく】を燃えさかる火の上にそそぎかけ、
竹やぶの恩を思う心と、限りない慈愛の心で、たゆまずにこれを続けた。

慈悲と献身の心は天界の神を感動させた。
神は空から下って来ておうむに語った。
「おまえの心はけなげではあるが、この大いなる火を、どうして羽の滴で消すことができよう。」
おうむは答えて言う。
「恩を思う心と慈悲の心からしていることが、できないはずはない。わたしはどうしてもやる。次の生に及んでもやりとおす。」と。
神はおうむの偉大な志にうたれ、力を合わせてこのやぶの火を消し止めた。

四、
 ヒマラヤ山に共命鳥【ぐみょうちょう】という鳥がいた。
体は一つ、頭は二つであった。

あるとき、一つの頭がおいしい果実を食べるのを見て、もう一つの頭がねたみ心を起こし、「それならわたしは毒の果実を食べてやろう。」と毒をたべて、両方ともに死んでしまった。

五、
 ある蛇【へび】の頭と尾とが、あるとき、お互いに前に出ようとして争った。
尾が言うには、
「頭よ、おまえはいつも前にあるが、それは正しいことではない。たまにはわたしを前にするがよい。」
頭が言うには、
「わたしがいつも前にあるのはきまったならわしである。おまえを前にすることはできない。」と。
互いに争ったが、やはり頭が前にあるので、尾は怒って木に巻きついて頭が前へ進むことを許さず、頭がひるむすきに、木から離れて前へ進み、ついに火の穴へ落ち、焼けただれて死んだ。

ものにはすべて順序があり、異なる働きがそなわっている。
不平を並べてその順序を乱し、そのために、そのおのおのに与えられている働きを失うようになると、そのすべてが滅んでしまうのである。

六、
 非常に気が早く怒りっぽい男がいた。
その男の家の前で、二人の人がうわさをした。
「ここの人は大変よい人だが、気の早いのと、怒りっぽいのが病である。」と。
その男は、これを聞くとすぐに家を飛び出してきて、二人の人におそいかかり、打つ、蹴る、なぐるの乱暴をし、とうとう二人を傷つけてしまった。

賢い人は、自分の過ちを忠告されると、反省してあらためるが、愚かな者は、自分の過ちを指摘されると、あらためるどころか、かえって過ちを重ねるものである。

七、
 金持ちではあるが愚かな人がいた。他人の家の三階づくりの高層が高くそびえて、美しいのを見てうらやましく思い、自分も金持ちなのだから、高層の家を造ろうと思った。

大工を呼んで建築を言いつけた。
大工は承知して、まず基礎を作り、二階を組み、それから三階に進もうとした。
主人はこれを見て、もどかしそうに叫んだ。
「わたしの求めるのは土台ではない。一階でもない、二階でもない、三階の高楼【たかどの】だけだ。早くそれを作れ。」と。
愚かな者は、努め励むことを知らないで、ただ良い結果だけを求める。
しかし、土台のない三階はあり得ないように、努め励むことなくして、良い結果を得られるはずがない。

八、
 ある人が蜜【みつ】を煮ているところへ親しい友人が来たので、蜜をごちそうしようと思い、火にかけたまま扇であおぎ冷やそうとした。
これと同じく、煩悩【ぼんのう】の火を消さないで、清涼のさとりをの蜜を得ようとしても、ついに得られるはずはない。

九、
 二匹の鬼が、一つの箱と一本の杖と一足の靴【くつ】とを中にして互いに争い、終日争ってついにきまらず、なおも争いを続けた。

これを見たひとりの人が、
「どうしてそのように争うのか。この品々にどのような不思議があって、そのように奪いあいをするのか。」と尋ねた。
二匹の鬼はこう答えた。
「この箱からは、食物でも、宝でも、何でも欲しいものを自由に取り出すことができる。又、この杖を手に取るとすぐに敵をうち下すことができる。この靴をはくと、空を自由に飛ぶことができる。」と。
その人はこれを聞いて、
「争うことなんかあるものか。おまえら二人は、しばらくここを離れているがよい。わたしが等分に分けてやろう。」と言って、二匹の鬼を遠ざけ、自ら箱を抱え、杖を取り、靴をはいて空へ飛び去った。

鬼とは異教の人、箱とは布施のことである。
彼らは、布施からもろもろの宝の生ずることを知らない。
また、杖とは心の統一のこと。
彼らは、心の統一によって煩悩の悪魔をうち下すことを知らない。
また、靴とは清らかな戒のこと。
彼らはこの清らかな戒によって、あらゆる争いを超えられることを知らない。
だから、この箱と杖と靴を取りあって、争ってやまないのである。

十、
 ひとりの人が旅をして、ある夜、ただひとりでさびしい空き家に宿をとった。
すると真夜中になって、一匹の鬼が人の死骸【しがい】をかついで入ってきて、床の上にそれを降ろした。

間もなく、後ろからもう一匹の鬼が追って来て、「これはわたしのものだ。」と言い出したので、激しい争いが起こった。
すると、前の鬼が後ろの鬼に言うには、
「こうして、おまえと争っていても果てしがない。証人を立てて所有を決めよう。」
後ろの鬼もこの申し出を承知したので、前の鬼は、先ほどからすみに隠れて小さくなって震えていた男を引き出して、どちらが先にかついできたかを言ってくれと頼んだ。
男はもう絶体絶命である。
どちらの鬼に味方しても、もう一方の鬼に恨まれて殺されることはきまっているから、決心して正直に自分の見ていたとおりを話した。
案の定【じょう】、一方の鬼は怒ってその男の手をもぎ取った。
これを見た前の鬼は、すぐ死骸の手を取って来て補った。後ろの鬼はますます怒ってさらに手を抜き足を取り、胴を取り去り、とうとう頭まで取ってしまった。
前の鬼は次々に、死体の手、足、胴、頭を取って、みなこれを補ってしまった。
こうして二匹の鬼は争いをやめ、あたりに散らばった手足を食べて満腹し、口をぬぐって立ち去った。

男はさびしい小屋で恐ろしい目にあい、親からもらった手も足も胴も頭も、鬼に食べられ、今や自分の手も足も胴も頭も、見知らぬ死体のものである。
一体、自分は自分なのか自分ではないのか、まったくわからなくなった男は、夜明けに空き家を立ち去ったが、途中で寺を見つけて喜び勇み、その寺に入って、昨夜の恐ろしいできごとをすべて話し、教えを請うたのである。
人びとは、この話の中に、無我 の理【ことわり】を感得し、まことに尊い感じを得た。

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54. 2020年10月11日 10:10:56 : niyy4hTwUA : OHU1UGRCUHhtN0k=[3280] 報告
菅野のハンスト…それ、意味あるの?
私には全く理解できない。

ペンは剣より強し。
ジャーナリストを自称するなら、ペン(キーボード?)で闘えよ…。

55. 豊岳正彦[-5248] lkyKeJCzlUY 2020年10月11日 10:19:15 : 94hwD4m7yY : djJHTHh0dWdoeE0=[-203] 報告
十一、大般涅槃経
 ある家に、ひとりの美しい女が、着飾って訪ねてきた。
その家の主人が、

「どなたでしょうか。」
と訪ねると、その女は
「私は人に富を与える福の神である。」
と答えた。
主人は喜んで、その女を家に上げ手厚くもてなした。
すると、すぐその後ろから、粗末な身なりをした醜い女が入ってきた。
主人がだれであるかと尋ねると、貧乏神であると答えた。
主人は驚いてその女を追い出そうとした。
すると女は、
「先ほどの福の神はわたしの姉である。私たち姉妹はいつも離れたことはないのであるから、わたしを追い出せば姉もいないことになるのだ。」
と主人に告げ、彼女が去ると、やはり美しい福の神の姿も消えうせた。

生があれば死があり幸いがあれば災いがある。
善いことがあれば悪いことがある。
人はこのことを知らなければならない。
愚かな者は、ただいたずらに、災いをきらって幸いだけを求めるが、
道を求めるものは、このふたつをともに超えて、そのいずれにも執着してはならない。

十二、雑宝蔵経
 昔、貧しい絵かきがいた。
妻を故郷に残して旅に出、三年の間苦労して多くの金を得た。
いよいよ、故郷に戻ろうとしたところ、途中で、多くの僧に供養する儀式の行われているのを見た。
彼は大いに喜び、

「わたしはまだ福の種をまいたことがない。今この福の種をまく田地にあって、どうしてこのまま見過ごすことができよう。」と、
惜しげもなく、その多くの金を投げ出して、供養し終えて家に帰った。
空手で帰った夫を見た妻は、大いに怒ってなじり問いつめたが、
夫は、財物はみな堅固な蔵の中にたくわえておいたと答えた。
その蔵とは何かと聞くと、それは尊い教団のことであると答えた。
腹を立てた妻はこのことをその筋に訴え、絵かきは取り調べを受けることになった。
彼は次のように答えた。
「わたしは貴い努力によって得た財物をつまらなく費やしたのではない。
わたしは今まで福の種を植えることを知らないで過ごしてきたが、
福の種をまく田地というべき供養の機会を見て信仰心が起き、
物惜しみの心を捨てて施したのである。
まことの富とは財物ではなく、心であることを知ったから。」
役人は絵かきの心をほめたたえ、多くの人びともこれを聞いて心をうたれた。
それ以来、彼の信用は高まり、絵かき夫婦はこれによって、大きな富を得るようになった。


十三、
 ある男が墓場の近くに住んでいた。
ある夜、墓場の中から、しきりに自分を呼ぶ声がするので、恐れ震え上がっていた。
夜が明けてから、彼がそのことを友に話すと、
友の中で勇気のある者が、次の夜にも呼ぶ声がしたら、その声をたずねて、そのもとをつきとめてみようと決心した。

次の夜も、前夜のように、しきりに呼ぶ声がする。
呼ばれた男はおびえて震えていたが、勇気のある男は、その声をたよりに墓場に入り、
声の出る場所をたずねて、おまえは誰かと聞いた。
すると、地の中から声がして、
「わたしは、地の中に隠されている宝である。
わたしは、わたしの呼んだ男にわたしを与えようと思うが、彼は恐れて来ない。
おまえは勇気があるからわたしを取るにふさわしい。
あすの朝、わたしは七人の従者とともにおまえの家に行くであろう。」と言った。

その男はこのことばを聞いて、
「わたしの家へ来るなら待っているが、どのようにもてなしたらよいのか。」と尋ねる。
声は答えた。
「私どもは出家【しゅっけ】の姿で行くから、まず体を清め、部屋を清めて、水を用意し、八つの器【うつわ】にかゆを盛って待つがよい。
食事が終わったら、ひとりひとり導いて、すみに囲った部屋の中に入れれば、わたしどもはそのまま黄金のつぼになるだろう。」と。

 あくる朝、この男は、体を清め、家を清めて待っていると、はたして八人の出家が托鉢【たくはつ】にやって来た。
部屋に通して、水とかゆとを供養し、終わってからひとりひとりをすみに囲った部屋に導いた。
すると、八人が八人とも、黄金のいっぱい入ったつぼに変わってしまった。

このことを聞いた欲深い男が、自分も黄金のつぼが欲しいと思い、
同じように部屋を清めて托鉢の出家を八人招いて供養し、食事の後、すみの部屋に閉じこめた。
しかし八人の出家は黄金のつぼになるどころではなく、怒って暴れ出し、その男はついに訴えられ、捕らえられた。

はじめに名を呼ばれておびえていた男も、呼んだ声が黄金のつぼであると知ると、これも欲を起こし、
あの声はもともと自分を呼んだのだから、あのつぼは自分のものだと言いはり、その家へ入ってつぼを取ろうとすると、
つぼの中には蛇【へび】がいっぱいいて、首をもたげてその男に向かっていった。

その国の王はこれを聞いて、黄金のつぼはみな、この勇気ある男のものであるとして、
「世の中のことは何ごともこのとおりであって、愚かな者はただその果報だけを望むが、それはそれだけで得られるものではない。
ちょうどそれは、うわべだけ戒を保っていても、心の中にまことの信心がなければ決して真の安らぎは得られないのと同じである。」と論した。


[18初期非表示理由]:担当:スレ違い長文多数により全部処理

56. 斜め中道 (-_-メ)[2407] js6C35KGk7kgKC1fLdIp 2020年10月11日 10:50:21 : 460ZVzz1ys : SDZ2LjR6cm1sVk0=[5505] 報告
希望通り「頑張れ!」とかは言わないが・・・

準備して始めたのなら、一月は大丈夫だろう。
(飲み物に「酒」があれば、もっと大丈夫だが・・・・。)

57. 豊岳正彦[-5250] lkyKeJCzlUY 2020年10月11日 10:55:10 : 94hwD4m7yY : djJHTHh0dWdoeE0=[-205] 報告
第二章 実践の道

第一節 道を求めて

一、パーリ、中部七―六三、箭喩経

この宇宙の組み立てはどういうものであるか、
この宇宙は永遠のものであるか、
やがてなくなるものであるか、
この宇宙は限りなく広いものであるか、
それとも限りあるものであるか、
社会の組み立てはどういうものであるか、
この社会のどういう形が理想的なものであるか。
これらの問題がはっきりきまらないうちは、道を修めることはできないというならば、
だれも道を修め得ないうちに死が来るであろう。

例えば、人が恐ろしい毒矢に射られたとする。
親戚【しんせき】や友人が集まり、急いで医者を呼び毒矢を抜いて、毒の手当をしようとする。
ところがその時、その人が、
「しばらく矢を抜くのを待て。
だれがこの矢を射たのか、それを知りたい。
男か、女か、どんな素性のものか、
また弓は何であったか、大弓か小弓か、木の弓か竹の弓か、
弦【つる】は何であったか、藤弦【ふじつる】か、筋【すじ】か、
矢は籐【とう】か葦【あし】か、
羽根は何か、
それらがすっかりわかるまで矢を抜くのは待て。」と言ったら、どうであろうか。
いうまでもなく、それらのことがわかってしまわないうちに、
毒は全身に回って死んでしまうに違いない。

この場合にまずしなければならないことは、
まず矢を抜き、毒が全身に回らないように手当をすることである。

この宇宙の組み立てがどうであろうと、
この社会のどういう形のものが理想的であろうとなかろうと、
身に迫ってくる火は避けなくてはならない。

宇宙が永遠であろうとなかろうと、
限りがあろうとなかろうと、
生と老と病と死、愁【うれ】い、悲しみ、苦しみ、悩みの火は、
現に人の身の上におし迫っている。
人はまず、この迫っているものを払いのけるために、道を修めなければならない。

仏の教えは、説かなければならないことを説き、説く必要のないことを説かない。すなわち、人に、
知らなければならないことを知り、
断たなければならないものを断ち、
修めなければならないものを修め、
さとらなければならないものをさとれと教えるのである。

だから、人はまず問題を選ばなければならない。
自分にとって何が第一の問題であるか、
何が自分にもっともおし迫っているものであるかを知って、
自分の心をととのえることから始めなければならない。


二、パーリ、中部三―二九、大樹芯喩経

また、樹木の芯【しん】を求めて林に入った者が、枝や葉を得て芯を得たように思うならば、まことに愚かなことである。
ややもすると、人は、木の芯を求めるのが目的でありながら、木の外皮や内皮、または木の肉を得て芯を得たように思う。

人の身の上に迫る
生と老と病と死と、
愁【うれ】い、悲しみ、苦しみ、悩みを
離れたいと望んで道を求める。
これが芯である。
それが、わずかな尊敬と名誉とを得て満足して
心がおごり、
自分をほめて他をそしるのは、
枝葉を得ただけにすぎないのに芯を得たと思うようなものである。
また、自分のわずかな努力に
慢心して、望んだものを得たように思い、満足して
心が高ぶり、
自分をほめて他をそしるのは、
木の外皮を得て芯を得たと思うようなものである。
また、自分の心がいくらか静まり安定を得たとして、それに満足して
心が高ぶり、
自分をほめて他をそしるのは、
木の内皮を得て芯を得たと思うようなものである。
また、いくらかものを明らかに見る力を得て、これに眼がくらんで
心が高ぶり、
自分をほめて他をそしるのは、
木の肉を得て芯を得たと思うようなものである。
これらのものはすべて、気がゆるんで
怠【おこた】り、ふたたび
苦しみを招くに至るであろう。

道を求める者にとっては、尊敬と名誉と供養を受けることがその
目的ではない。わずかな努力や、多少の心の安定、またわずかな見る力が
目的ではない。
まず最初に、人はこの世の
生と死の根本的な性質を心に留めなければならない。


三、佛昇トウ利天爲母説法経
 
 世界はそれ自体の実体を持っていない。
心のはからいをなくす道を得なければならない。
外の形に迷いがあるのではなく、
内の心が迷いを生ずるのである。

心の欲をもととして、この
欲の火に焼かれて苦しみ悩み、
無明【むみょう】をもととして、
迷いの闇【やみ】に包まれて、
愁【うれ】い悲しむ。
迷いの家を造るものはこの
心の他にないことを知って、
道を求める人は、この心と
戦って
進んでゆかなければならない。


四、パーリ、長老偈註

「わが心よ、おまえはどうして、無益な境地に進んで少しの落着きもなく、そわそわとして静かでないのか。

どうしてわたしを迷わせて、いたずらに、ものを集めさせるのか。

大地を耕そうとして、
鍬【くわ】がまだ大地に触れないうちにこわれてしまっては耕すことができないように、
生死の迷いの海にさまよっていたので、数知れない
生命を捨てたのに、心の大地の
耕されることはなかった。
心よ、おまえはわたしを
王者に生まれさせたこともある。また
貧しい者に生まれさせて、あちこちに食を
乞【こ】い歩かせたこともある。
ときにはわたしを
神々の国に生まれさせ、栄華の夢に
酔わせたこともあるが、また
地獄の火で焼かせたこともある。
愚かな心よ、おまえはわたしをさまざまな道に
導いた。わたしはこれまで、常におまえに従ってそむくことはなかった。
しかし、今やわたしは仏の
教えを聞く身となった。もはやわたしを悩ませたり、
妨【さまた】げたりしないでくれ。どうかわたしが、さまざまな苦しみから
離れて、速やかにさとりを
得られるように努めてくれ。
心よ、おまえが、すべてのものはみな
実体がなくうつり
変わると知って、
執着することなく、何ものも
わがものと思うことがなく、
貪【むさぼ】り、
瞋【いか】り、
愚かさを
離れさえすれば、
安らかになるのである。

智慧【ちえ】の剣をもって愛欲の蔓【つる】を
断ち、利害と損得と、たたえとそしりとにわずらわされることがなくなれば、
安らかな日を得ることができるのである。
心よ、おまえは、わたしを導いて道を
求めることを思い立たせた。ところがいま、どうしてまたふたたび、この世の利欲と栄華にひかれて、
動き回ろうとするのであるか。
形がなくて、どこまでも遠く駆けてゆく心よ。
どうか、この超え難い迷いの海を
渡らせてくれ、これまでわたしは、おまえの思うとおりに動いてきた。
しかし、これからは、おまえはわたしの思うとおりに動かなければならない。
我らはともに仏の教えに従おう。
心よ、
山も川も海も、すべてはみなうつり変わり、災いに満ちている。
この世のどこに楽しみを求めることができようか。
教えに従って、速やかにさとりの
岸にわたろうではないか。」


五、パーリ、中部三―二八、大象跡喩経

このように心と戦って、真に道を求める人は、常に強い覚悟をもって進むから、
あざけりそしる人に出会ってもそれによって心を動かすことはない。
こぶしをもって打ち、石を投げつけ、剣をもって斬【き】りかかる人があっても、
そのために瞋【いか】りの心を起こすことはない。

両刃の鋸【のこぎり】によって頭と胴とが切り放たれるとしても、心乱れてはならない。
それによって心が暗くなるならば、仏の教えを守らない者である。
あざけりも来【きた】れ、
そしりも来れ、
こぶしも来れ、
杖や剣の乱打も來れ、
わが心はそのために乱れることはない。
それによって、かえって仏の教えが心に満たされるであろうと、かたく
覚悟しているのである。
さとりのためには、
成しとげ難いことでも成しとげ、
忍び難いことでもよく忍び、
施し難いものでもよく施す。

日に一粒の米を食べ、
燃えさかる火の中に入るならば、
必ずさとりを得るだろうという者があれば、
そのとおりにすることを少しも辞さない。

しかし、
施しても施したという思いを起こさず、
ことをなしてもなしたという思いを起こさない。

ただそれが賢いことであり正しいことだからするのである。

それは

母親が一枚の着物を愛するわが子に与えても、

与えたという心を起こさず、

病む子を看護しても、

看護したという思いを起こさないのと同じである。




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58. 豊岳正彦[-5252] lkyKeJCzlUY 2020年10月11日 11:29:17 : 94hwD4m7yY : djJHTHh0dWdoeE0=[-207] 報告
六、大般涅槃経、百縁経

遠い昔、ある王があった。王は智慧【ちえ】明らかで慈悲深く、民を愛し、国は豊かに安らかに治まっていた。
また、王は道を求める心があつく、常に財宝を用意して、どんな人でも、尊い教えを示してくれる者には、この財宝を施すであろうと、布告していた。

この、王の道を求めるまごころには、神の世界も震え動いたが、神は王の心を確かめるために、鬼の姿となって、王の宮殿の門の前に立った。

「わたしは尊い教えを知っている。王にとりついでもらいたい。」

王はこれを聞いて大いに喜び、うやうやしく奥殿に迎えて、教えを聞きたいと願った。すると鬼は、刃【やいば】のように恐ろしい牙【きば】をむきだして、

「いまわたし非常に飢えている。このままではとても教えを説くことはできない。」と言う。

それでは食物をさし上げようというと、

「わたしの食物は、熱い人間に血と肉でなければならない。」と言う。

そのとき、王子は、すすんでわが命を捨てて、鬼の飢えを満たそうと言い、王妃もまた進んでその身を餌食【えじき】にしようとした。
ここに鬼は二人の身を食べたが、なお飢えを満たすことができず、さらに王の身を食べたいという。

そのとき王は静かに言った。

「わたしは命を惜しまない。ただ、この身がなくなれば教えを聞くことができないから、おまえが説き終わったそのときにこの身を与えよう。」

鬼はそのとき、

「愛欲より憂いは生じ、愛欲より恐れは生ずる。

愛欲を離れし人に憂いなし、またいずこかに恐れあらん。」

と説いて、たちまち神の姿にかえった。

それと同時に、死んだはずの王子も、夫人も、もとの姿にたちかえった。

七、大般涅槃経

昔、ヒマラヤ山に真実を求める行者がいた。
ただ迷いを離れる教えを求めて、そのほかは何も求めるものがなく、
地上に満ちた財宝はもとより、神の世界の栄華さえ望むところではなかった。

神はこの行者の行いに感動し、その心を試そうと鬼の姿となってヒマラヤ山に現われ、

「ものはみなうつり変わり、現われては滅びる。」と歌った。

行者はこの歌声を聞き、渇いたものが水を得たように、また囚【とら】われたものが放たれたように喜んで、
これこそまことの理【ことわり】である、まことの教えであると思い、彼はあたりを見まわして、だれがこの尊い詩を歌ったのであろうかとながめ、
そこに恐ろしい鬼を見いだした。
怪しみながらも鬼に近づいて、

「先ほどの歌はおまえの歌ったものか。もしそうなら、続きを聞かせてもらいたい。」と願った。

鬼は答えた。
「そうだ、それはわたしの歌だ。しかし、わたしはいま飢えているから、何か食べなくては歌うことができない。」

行者はさらに願った。
「どうかそう言わずに、続きを聞かせてもらいたい。あの歌には、まことに尊い意味があり、わたしの求めているものがある。しかし、あれだけでは言葉は終わっていない。どうか歌の残りを教えていただきたい。」

鬼はさらに言う。
「いまわたしは空腹に耐えられない。もし人の温かい肉を食べ、血をすすることができるならば、あの歌の続きを説くであろう。」

これを聞いた行者は、続きの歌を聞かせてもらえるならば、聞き終わってから、自分の身を与えるであろうと約束した。

鬼はそこで、残りを歌い、歌は完全なものとなった。それはこうである。

「ものはみなうつり変わり、現われては滅びる。

生滅にとらわれることなくなりて、

静けさと安らぎは生まれる。」

行者はこの歌を木や石に彫りつけ、やがて木の上にのぼり、身をおどらせて鬼の前に投げ与えた。

その瞬間、鬼は神の姿にかえり、行者の身は神の手に安らかに受けとめられた。


八、大品般若波羅蜜経八八、常啼品

昔、サダープラルディタ(常啼【じょうたい】)という求道者があった。
ひたすらにまことのさとりを求め、名誉利欲に誘われず、懸命であった。
ある日、空中に声があり、

「サダープラルディタよ、ただ東にすすめ。
わきめもふらず、暑さ寒さを忘れ、世の毀誉【きよ】にかかわらず、善悪のはからいにとらわれず、ひたすら東にすすめ。
必ずまことの師を得て、さとりを得るであろう。」と教えた。

彼は大いに喜び、声の教えたとおり、ただまっしぐらに東に進んで道を求めた。

野に伏し、山に眠り、また異国の旅の迫害と屈辱【くつじょく】を忍び、

時には身を売って人に仕え、骨を削る思いをしてその日の糧【かて】を得つつ、

ようやくまことの師のもとにたどりついて教えを請うた。

世に、好事魔【こうじま】多しという。

善いことをしようとすれば必ず障【さわ】りがでるものである。

サダープラルディタの求道の旅にも、この障りはいくたびとなく現われた。

師に捧【ささ】げる香華【こうげ】のもとでを得たいと思い、身を売って人に仕え、賃金を得ようとしても、やとい手がいない。

悪魔の妨げの手は彼の赴くところ、どこのでも伸びていた。

さとりへの道はまことに血を枯らし骨を削る苦難の旅であった。

師について教えを受け、尊いことばを記そうと思っても、紙も墨も得ることができない。

彼は刀をとって自分の腕を突き、血を流して師のことばを記した。

このようにして、彼は尊いさとりのことばを得たのであった。

九、華厳経三四、入法界品

昔、スダナ(善財【ぜんざい】)という童子があった。
この童子もまた、ただひたすらに道を求め、さとりを願う者であった。

海で魚をとる猟師を訪れては、海の不思議から得た教えを聞いた。

人の病を診る医者からは、人に対する心は慈悲でなければならないことを学んだ。

また、財産を多く持つ長者に会っては、あらゆるものはみなそれなりの価値をそなえているということを聞いた。

また坐禅【ざぜん】する出家を訪れては、その寂【しず】かな心が姿に現われて、人びとの心を清め、不思議な力を与えるのを見た。

また気高い心の婦人に会ってはその奉仕の精神にうたれ、

身を粉にして骨を砕いて道を求める行者にめぐり会っては、真実に道を求めるためには、刃【やいば】の山にも登り、火の中でもかき分けてゆかなければならないことを知った。

このように童子は、

心さえあれば、

目の見るところ、

耳の聞くところ、みなことごとく

教えであることを知った。

かよわい女にもさとりの心があり、

街に遊ぶ子供の群れにもまことの世界があることを見、

すなおな、やさしい人に会っては、ものに従う心の明らかな

智慧【ちえ】をさとった。

香をたく道にも仏の教えがあり、

華【はな】を飾る道にもさとりのことばがあった。

ある日、林の中で休んでいたときに、彼は朽ちた木から一本の若木が生えているのを見て生命の

無常を教わった。

昼の太陽の輝き、

夜の星のまたたき、これらのものも善財【ぜんざい】童子のさとりを求める心を

教えの雨でうるおした。

童子はいたるところで道を問い、いたるところでことばを聞き、いたるところでさとりの姿を見つけた。

まことに、さとりを求めるには、

心の城を守り、

心の城を飾らなければならない。そして

敬虔【けいけん】に、この心の城の門を

開いて、その奥に

仏をまつり、信心の

華【はな】を供え、歓喜の

香を捧【ささ】げなければならないことを童子は

学んだのである。


___

これがこの世で唯一の学問である。

学問とは悟りをもとて教えを受けたとおりに習い行い治めること言うのである。

正しい教えを受けなければ決して悟りと心の平安を得ることは出來ない。

邪教を捨て外道から正道へ立ち戻って歩むことが必要である。

この世で唯一の正しい教えは仏の教えだけである。

乃ち教えを学びその身で行うことの他に、

この世に学問の道は無い。


[18初期非表示理由]:担当:スレ違い長文多数により全部処理

59. 2020年10月11日 11:38:50 : 9UUIq2tkc6 : dTVZUFIzLk5KR2M=[8] 報告
菅野完を失えば取り返しがつかない

国民の敵どもはいい厄介払いができたと思うだろう

60. 豊岳正彦[-5254] lkyKeJCzlUY 2020年10月11日 11:44:28 : 94hwD4m7yY : djJHTHh0dWdoeE0=[-209] 報告
学問とは悟りをもとめて教えを受けたとおりに習い行い修めること言うのである。


乃ち仏の教えである経を学び、経の教えのとおりにその身で行うことの他に、

この世に学問の道は無い。

これを學道という。

すなわち、学者とは道者であり、菩薩の道を修め仏道に達した者でなければ、

言霊大和魂の母国である我が国で、學者とよばれることは決してない。

偏差値などなんら役に立たない有毒物に過ぎないのである。


このまま道端で雨に冷えてからだが動かなくなると、正しい道を学び修めることもできなくなってしまう。

早く家に帰ってスジャータを入れた甘いコーヒーを飲んで、

元気を出して學道を修めて下さい。

[18初期非表示理由]:担当:スレ違い長文多数により全部処理

61. 斜め中道 (-_-メ)[2413] js6C35KGk7kgKC1fLdIp 2020年10月11日 15:15:15 : 460ZVzz1ys : SDZ2LjR6cm1sVk0=[5511] 報告
豊岳正彦とか腐った糞罵愚には、

自分とこのブログがまったくと言っていいほど人の寄り付かない
不毛の地であるとは言え、
★阿修羅♪に、一部の(どこでも一部はそうだが)困った難民の如く、
押し寄せないで欲しいものじゃ・・・♪
(難民を喩えにして悪いけどにゃ♪)

豊岳正彦が難民キャンプ(初期非表示)にいるのはもっともだが、
腐った糞罵愚は、どうしてキャンプ外にいるのかなっ?♪

62. 2020年10月11日 16:05:45 : LFdj7v4TY2 : Wjd2WFhmd1NEbzI=[1786] 報告
前に沖縄で本山元士郎さんもハンストしていたな。ドクターストップで4日で終わってしまったけど。菅野さんは1週間か。無理しないでくださいね。
63. 2020年10月11日 18:56:58 : 2YkYRXki2s : S3BUTGZpLmk2UFk=[32] 報告

マスコミ各社の方々。
是非取材して、身体を張った彼の危機感を国内に広めて下さい。

そして同時に、実際の戦争体験をお持ちの方々にも取材をして、
彼等が安倍政権以降の「開戦前夜」のような異様な状態に「非常に怯えている」ことを国内外に伝えて下さい。

今の日本は非常に危険です。
権力の座に長期にいすぎて完全に分別を無くした自民党の政治家達が、
戦前の政治家のように、国家を滅亡の淵に追いやっています。

絶対にここで暴走を止めなければ、日本は取り返しの付かないダメージを喰らい、
暗黒の未来を彷徨うことになります。
下手したら国家消滅です。

絶対に反社会勢力の暴走を止めなくてはなりません!!!!


菅野さん、死んだら元も子もないですよ。
菅野さんの鋭い筆で、日本の未来に光を灯して下さい。
優秀なジャーナリストには是非ともペンで戦果を上げて頂きたいです。

64. 豊岳正彦[-5265] lkyKeJCzlUY 2020年10月11日 20:06:53 : 94hwD4m7yY : djJHTHh0dWdoeE0=[-214] 報告
官邸とホワイトハウスと阿修羅とその他ネットのあちこちにばらまいている。

【義を見てせざるは勇無きなり:死が目前の苦悩者をその手で苦況から助け出せ日本人】
竹内結子さんの自殺についてこれだけは言っておく【精神科医・樺沢紫苑】
youtube.com/watch?v=IpRd5tmcD6k
豊岳正彦1 秒前
自殺じゃ無いけど今直ちに生命の危険が差し迫っている【死ぬ気で】ハンストしてる男性が一人東京にいるんだけど、
医者なら助けに行ってくれないかなもし君が東京に住んでるなら。
官邸前で一一日間ハンストしている菅野完さん。
阿修羅に死ぬ気を変えるよう色々書いたんだけど私は遠くて行かれないので。

<学術会議>官邸前ハンストの菅野完「当然死ぬ気ですよ」(田中龍作ジャーナル)
asyura2.com/20/senkyo276/msg/430.html#c46
46. 豊岳正彦
死んだらどんだけ人様に迷惑をかけるかもわからん愚か者だね。
世の中を破るのが専門の学者ならそんなもんだろう。
おのれの欲しか頭にない。
人がどうなろうとかまわない。
以下ry
47. 豊岳正彦
どうせ暇なんだからスマホでお釈迦様の言葉を読むがよい。
阿修羅の連中にも読ませてあげよう。
以下ry
早く家に帰ってスジャータを入れた甘いコーヒーを飲んで、
元気を出して學道を修めて下さい。

hougakumasahiko.cocolog-nifty.com/blog/2020/10/post-d16f21.html
豊岳正彦16 分前(編集済み)

私の名前を知らないなら医者として潜り或いは駆けだしだけど、その年齢なら君はご存じでしょ。
精神科は医学でも無いし精神科医は医者でもないし医療者でもない。
精神科はそもそも歴史もアメリカ建国より浅い、大量生産大量殺傷兵器の近代戦争とともに生まれた人間虐待純粋殺人術に過ぎない。
全科合格が条件の国試に合格したのなら早く精神科標榜を止めて神経内科他の他科の医者に転科することです。
若い人たちは私の名前を知らない人も居るだろうから、君が話してあげなさい。
私はこれからヒポクラテスの誓いに従って純粋虐待殺人術精神科を世界中の医学と医療から排除して完全除去してゆきますから、
精神科医標榜を止めて他科に転科して避難しておいてください、折角苦労して得た医師免許が勿体ない。
hougakumasahiko.cocolog-nifty.com/blog/2019/03/post-a2b0.html

[18初期非表示理由]:担当:スレ違い長文多数により全部処理

65. 豊岳正彦[-5273] lkyKeJCzlUY 2020年10月11日 21:30:02 : 94hwD4m7yY : djJHTHh0dWdoeE0=[-216] 報告
きみら官邸の近くに居る者は直ちに駆けつけて死の危険にさらされた菅野氏をみんなで助け出してくれ。
日本人なら誰もがやって当たり前の親切だ。
おしゃかさまも死んで花実が咲くものかとおっしゃっておられる。

[18初期非表示理由]:担当:スレ違い長文多数により全部処理

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