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【経済学者のトンデモ理論】 デフレーション・インフレーションそして通貨 《その5》 投稿者 あっしら 日時 2002 年 2 月 26 日 14:25:00:

● 「過渡期」初期の世界経済

現在の世界は、「紙切れ通貨」が国内取引でも国際取引でも通用する「戦後第二世代世界」に変化していながら、実態的にも価値観(信仰)的にも、「戦後世界」=兌換米ドル基軸通貨体制を引き継いだままという微妙な「過渡期」にある。

米ドルの兌換が停止されても、米国経済が世界で占めている地位は相対的には低下しただけで世界最大であることは変わらなかった。
経済発展を志向する非共産圏諸国は、国際金融家からの借り入れに頼り、原油に代表される近代産業にとって重要な国際商品を国際商人に依存し、生産した諸製品の販売先として米国市場をあてにしながらの経済運営を行わなければならなかった。

アジア諸国も、“貿易摩擦”に悩む日本産業家の対米欧向け輸出商品生産拠点となりながら経済発展を進めた。
日本の産業家にとって、本拠地日本市場は「最大の利益源」であり、アジア地域の生産拠点で生産された低コスト商品は、自社の国内販売網を使って高価格・高利益で販売された。海外生産の低コストが国内価格に反映されるようになるのは、「バブル崩壊」により生じた不況期になってからのことである。
70年までの米国やドイツを除く先進諸国は、世界の工業生産拠点としての地位を低下させており、普及工業製品で日本と競争できる条件にはなく、70年以降は『日本市場の閉鎖性』が経済論理に従ったかたちで実現できた。

欧米諸国から非難され続けてきた日本市場の閉鎖性は、非難した先進諸国自身の国際競争力欠如が最大の要因である。
よく引き合いに出された“閉鎖的販売網”の問題も、国家の保護政策ではなく私的経済活動の成果であるから、問題視されることではない。それも、自動車を除けば、家電製品や民生電子機器の販売で量販店のウエイトが高まるにつれ解消されつつある。かつて“販売の神様”に率いられていた松下電器産業の衰退は、このような販売形態変化の影響を強く受けた結果である。
日本の工業製品輸入関税率の低さはずっと世界No.1であると言ってよく、先進諸国が日本に輸出できる工業製品が少なかったために、「閉鎖的な市場」といわれもない非難を浴びたのである。
欧州のブランド品が日本市場に大きく依存していることでわかるように、日本が太刀打ちできない製品は過剰とも言えるほど輸入されてきたである。(ベンツ・BMWそしてMACさらには住宅などの近代工業製品についても、それを指摘できる)

一部の識者は日本の市場閉鎖性問題にきちんと反論したが、日本産業家の“過剰な輸出”が輸入国の勤労者に経済的困難をもたらしたことは間違いなく、「政治問題」としては通用するものではない。

(忘れてはならないのは、日本政府が、国際競争力がピカイチになった高度成長期まで「保護貿易」と「直接投資規制」を行って国内産業家の利益を保護してきたことである。90年代にインドネシアが自動車産業育成のために保護政策を採ったとき、日本の自動車メーカーは大きな非難を展開したが、1965年時点で米国やドイツの自動車会社が日本に乗り込んで生産を行っていたら、トヨタも日産も、現在とはまったく違った企業になっていただろう。家電メーカーにしても同じ話である。今となってはイメージできないことだが、トヨタや日産が対米輸出を始めた頃は、非力で故障も多く、それであっても価格が安いからと“低所得者”に売れただけなのである。国際金融家は、たいした市場規模もなかった日本で売るために自動車工場や家電工場を造る面倒はかけたくないし、そんなことをやって日本企業がおかしくなれば、貸した米ドルが返済してもらえないことにもなりかねないと考えたのである。いざというとき、近代的資源に乏しい日本は“抵当価値”もない)


繊維製品・鉄鋼製品・家電製品・自動車(やや後)と立て続けに対米輸出規制を受けた日本は、1973年10月の“第一次石油ショック”を経て、生産拠点をアジアそして米欧に少しずつシフトさせていきながら、経済成長の糧を「内需拡大」に求めて動いた。

「内需拡大」政策の代表が、“ニクソンショック”を受けて登場した田中角栄元首相の「日本列島改造論」である。

(田中元首相の政策は、現在の不況期のなかでその待望論を掲げる人もいる。自民党の利権&集票の基本構造が、田中元首相によって構築されたことは間違いない。明治維新の主力を担った薩長下級武士連合は、現在の鹿児島県や山口県を見てもわかるように、自分たちや国家の利権には走っても、郷土利権には走らなかった。一概に地元利権を否定するわけではないが、原敬氏そして田中角栄氏は、選挙で選ばれる政治家らしい利権構造を築いた代表的人物である。72年の田中内閣成立後から退陣してなお保持し続けた政界への影響力を失うまでの新潟県に、人口比でどれほど突出した「地方交付税」が振り向けられていたかをみるとびっくりするはずだ。日中国交回復を実現し自立した日本をめざした田中角栄氏が、「ロッキード事件」で首をとられたのは当然である。田中派の流れを汲む橋本(青木)派は、田中角栄氏の手法だけを引き継ぎ、それなりにあった“魂”は捨て去ってしまった残党集団である。しかし、田中待望論は、現在の不況に対しては無力である)

「日本列島改造論」が、1986年以降のバブル形成の価値観的下地をつくったと言える。


● 戦後日本のインフレーション − 国際為替固定レート制 −

戦後日本経済は、“バブル崩壊”後の不況期を別にすれば、不況期であってもインフレのなかで営まれてきた。

敗戦直後の「新円切替」でも収まらなかった異常インフレはともかく、日本国民は、戦後一貫して、物価は上昇し貨幣価値は下落するというものという考えに基づいて経済活動を行ってきた。

日本経済は、“第一次石油ショック”以前の1960年代後半から本格的なインフレ状況が進んでいったが、それを一気に加速させたのが73年10月の“石油ショック”だった。

1960年代後半からの20年間以上にわたって、当時の世論調査を顧みればわかるように、「物価高」が国民の一大関心事であり、解消して欲しい政治課題だったのである。

1ドル=360円固定の「米ドル→日本円通貨体制」は、日本円にどのような影響を与えただろうか。《その4》でも書いたことだが、少し説明を補足する。

日本経済は、原材料や生産設備を不足しがちの米ドルで輸入し、日本国内で工業製品を生産し、生産した製品を米国市場に輸出するという構造を拡大しながら経済発展を遂げてきた。

固定為替レート制という条件であれば、日本と主要輸出先である米国とのインフレ率の差異が問題になる。

1.日本のインフレが米国よりも高いとき

米国向け輸出商社は350万円で買った商品を1万ドルで米国商人に売っていた。日本のインフレが進み、360万円だった製品が500万円になれば、それを1万3888ドルで売らないと同じ利益率が確保できない。しかし、米国はインフレ率が低いという想定なので、1万3千ドルでしか売れない。こうなると、商社は、メーカーに値下げを要請する。
メーカーは、輸出を当て込んで生産しているので要請をのむ。これは、メーカーが想定していた利益を確保できないことを意味する。

2.日本のインフレが米国よりも低いとき

米国向け輸出商社は350万円で買った商品を1万ドルで米国商人に売る。日本のインフレが進み、360万円だった製品が500万円になれば、それを1万3888ドルで売らなければ同じ利益率が確保できない。しかし、米国は日本よりインフレ率が高いという想定なので、1万4千ドルでも売れない。こうなると、商社は、以前よりも大きな利益を得ることができる。
しかし、力を付けたメーカーなら、商社との価格交渉力も持つようになるで、増えた利益の取り分を主張するようになる。
輸出拡大で巨大な資金を手にしたメーカーは、商社に依存したままではなく、自前で海外の販路を開拓して利益を拡大する道を選ぶ。
日本の総合商社が苦境に陥っていったのは、日本の大手産業家自身が、国際商人の機能を果たすようになってきたことによる。日本の総合商社は、開発型・金融型の取引を拡大していくことでしか生き残れないが、その競争相手はとてつもない力を秘めている国際金融家である。


このような論理から、日本が米国よりも高いインフレ状況に陥ることは避けなければならない。そして、米国が日本よりも高いインフレ状況になると、日本の産業家は利益を拡大するために価格上昇を計るため、国内のインフレ状況が進行する。
結論的に言えば、日本の産業家は、国内外でできるだけ高く製品を販売したいが、米国のインフレ状況をにらみながら、その水準を決めるしかなかったのである。
もちろん、生産する製品の国内需要向け比率が高くなれば、“内外価格差”という利益拡大手法がより有効になる。

インフレ抑制要因としては、「米ドル→日本円通貨体制」で経済活動が保有米ドルに規定されていたことも指摘できる。
詳細は後述するが、インフレになれば、経済活動は活発になる。経済活動が活発になれば、原材料を輸入しなければならない。そのためには、世界で通用する米ドルが必要である。
米ドルが不足しているのに、需要拡大を起こしインフレの基になる日本円の通貨供給量を増大させれば、生産(供給)が追いつかず、敗戦直後の日本や中南米諸国・ソ連崩壊後のロシアのように、“刹那的な貧民救済の意味しかないインフレ”に陥る。

国際金融家もそれがわかっているから、そのような政策を採ろうとする国には米ドルの融資をしない。
このようなことがわかっている日銀は、生産活動の拡大を伴わない“異常なインフレ”を防止するため、供給拡大能力を超える需要拡大状況が近づくと金融政策を引き締めたのである。需要拡大が供給拡大を超えてしまう最大の要因は保有米ドルの枯渇だから、コントロール自体は楽である。問題は、需要拡大策で経済成長を求める人々や政治家をどう抑え込むかであった。

1960年代後半からインフレが本格化したのは、国内事情というより米ドル事情である。
“泥沼化”したベトナム戦争は、米ドルの世界への大量流出を招き、米ドルに対する信認性を弱めていた。そのため、原油などの一次産品価格が上昇し、米国の需要拡大は米国経済に高いインフレをもたらした。
日本よりも米国のインフレのほうが高ければ、それに追いつくレベルの国内でのインフレも容認され、輸出及び国内販売で利益を拡大できる。

この時期の日本産業の国際競争力から言えば、固定レート制ではなく変動レート制であれば、円を切り上げることで原材料の輸入価格を押し下げて、“コストプッシュインフレ”を緩和することもできたが、固定レート制であることはともかく、「輸出志向」の日本は、輸出が不利になる円の切り上げ(米ドル安)なぞ断じて認められないという構えだった。

(今なおそのときの習性から抜け出していない日本の識者は、円安政策に固執しがちである)


● 戦後日本のインフレーション − 国際為替変動レート制 −

“ニクソンショック”で主要な外国為替市場が閉鎖される(日本だけは開き続け“高値”で40億ドルも買い支えた)という国際通貨危機を経て、円は1ドル=308円の固定レートに切り上げられ、1973年2月になると、外国為替は変動レート制に移行した。

1ドル=308円は、前述した例のような360万円の製品が1万1688ドルになるので、為替レート分の値上げが通じず同じ1万ドルでしか輸出できないのであれば、円ベースで308万円の手取りにしかならず、1ドル=360円時代に較べれば利益の減少につながる。
しかし、支配力を持つ国内販売部分は、360万円もしくはインフレ率相当の値上げをした価格で販売できるので、利益は減少しない。
当時の世界であれば、国際競争力に関しては“心理的”な影響だけである。だからこそ、72年には、減少した単価利益を量で補うために、輸出が拡大され対米貿易黒字が倍増した。そして、日本の産業家は、「高利益源の日本市場」を後ろ盾に、さらにいっそう生産効率を上げて国際競争力を高めていった。

田中角栄元首相の「日本列島改造論」は、このような時代的背景で熱狂的に迎えられた「内需拡大」政策である。
しかし、これは、ケインズ的政策の“急拡大版”であり、経済的合理性を欠くものだった。

GDPにおける政府固定資本形成は、対前年比(名目ベース)で71年24.0%・72年24.4%・73年26.1%で、通貨供給量は、対前年比で71年20.5%、72年26.5%、73年22.7%であった。
一方、GNP(国民総生産)は、71年(名目)10.2%(実質)5.1%、72年(名目)16.6%(実質)9.3%、73年(名目)12.1%(実質)−0.7%と推移した。

「日本列島改造」政策は、財政支出拡大と金融緩和策で推し進められたものであり、短期的な経済成長をもたらしはしたが、“石油ショック”(原油を支配する国際金融家に仕組まれたもの)があったとは言え、復興後の日本で初めてのマイナス成長をもたらしたのである。
日本は、「列島改造景気」から大学卒の一大就職難(昭和50年:1975年)に象徴された大不況に陥った。

日本の戦後高度成長は、1973年をもって完全に終わったのである。

高度成長の終焉過程は、1971年“ニクソンショック”→1972年田中内閣成立→「日本列島改造景気」→1973年2月変動レート制移行→1973年10月“第一次石油ショック”→「狂乱物価」→「一大不況」という流れで進んだ。

好況は短命だったが、「列島改造政策」で生じた通貨供給量の拡大は、企業に厖大な資金(流動性)をもたらし、「列島改造論ブーム」を受けて土地や株式への投資が膨らんでいった。不況で鈍化することはあっても、日本の地価と株価は上がり続けたのである。

これが、10年を経て到来するバブル形成の下地をつくったのである。

戦時経済統制法が本格的に施行され始めた1937年から続いてきた官僚統制による国家運営は、1973年のマイナス成長で大きな軌道修正を迫られたのであり、最後のあだ花が「日本列島改造景気」だったのである。

端的に言えば、国家運営を政治家でないまま主力として担ってきた官僚機構は、1973年からできるだけ早い段階で「高度成長神話」を捨て去り、新しい日本のあり方を考え、それに基づく国家政策を策定しなければならなかった。

しかし、日米開戦や厖大な犠牲者を伴っての敗戦占領という国難の歴史が遥か遠くの出来事と感じられるようになるとともに、「高度成長」という成功物語に酔いしれていった官僚機構と政治家は、緊張感や危機感が希薄になり、高度成長がこれからも続くものだという前提(錯覚)にとらわれ、“刹那的な利権”を追求する政治家と手を携えて従来的国家政策を採り続けたのである。

変動レート制のなかでも、さらに言えば、一大不況期においても、インフレは続いた。
経済成長を志向する限り、現在のデフレ不況でわかるように、経済活動を活発化するインフレは不可欠である。経済関係が深い諸外国が同じようにインフレである限り、それは問題にならない。
世界は、日本を除き、今なお一貫としてインフレを続けている。

「輸出国家日本」は、変動レート制であれば、本来、国際競争力が維持される範囲でできるだけ円高であるほうが望ましい。

まず、原材料が安く手に入る。次には、輸出製品をこれまで通りのドル建て価格で売れば手取りの円は少なくなるが、過剰な流動性が生まれにくくなるので、インフレが抑制され、投機的投資も減少する。さらには、輸出利益が縮小するので過剰な輸出を控えるようになり、「列島改造論」とは違ったかたちでの国内需要拡大策を追求するようになる。

円高で困るのは、国際競争力の劣化だけである。しかし、これも冷静に見れば、日本・ドイツ・米国という工業主要国は“棲み分け”をしているから、それほど問題にはならない。
日本は自動車を見てもわかるように普及品を主として担当し、ドイツは高級品や医薬化学・一部生産設備を主として担当し、米国は自動車は米国向け仕様で航空機・軍需品・コンピュータを主として担当している。
一時期の家電や半導体を考えればわかるように、あれだけの円高になっても、世界市場でとてつもないシェアを確保していたのである。米国の主要産業さえも、ある時期から日本の半導体に依存するようになった。

アジア地域の工業製品は、日本企業が主として生産している上に製品も差別化されており、円高になったからと言って、国内市場でも国際市場でも日本の競争力を脅かすものではない。

「円安期待論」は、唯一意味がある産業家の利益拡大にすがる論理であり、産業家の利益から発した論理であるが故に国際競争力の低下=利益の低下と考えられがちで、その利益が勤労者の実質賃金上昇につながりにくい。結局、円安で獲得した過剰利益は、これからもずっと上がり続けると信仰している土地や株式に向かっていく。

(「簿価会計」であり、戦後まもなくの「資産再評価」以降「資産再評価」を行わなかった日本は、右肩上がりの土地や株式を保有することは“含み資産”を拡大させる“良き経営”だと企業に思わせてきた)

「輸出国家ドイツ」はマルク高を志向し、「輸出国家日本」は円安を志向したという対照的な政策の功罪をきちんと見直す必要があると考えている。
そして、それを基に、今なお叫ばれている「円安待望論」を検討すべきである。


このような“円安信仰”のなかで、1985年9月に“バブル形成”と“バブル崩壊”を準備した「プラザ合意」が取り交わされた。

「プラザ合意」の基本は、ドル高=円安の是正であり、その結果、1ドル=260円台から1ドル=120円と、日本円は対米ドルレートで急騰した。

1978年に起きた“第二次石油ショック”と日本の貿易黒字増大で、米国に資金が引き寄せられたためドル高が進んだ。1978年の1ドル=300円から1978年の190円まで高騰していた対米ドルレートが、ずるずると円安に動き1ドル=260円まで安くなっていた。

“第二次石油ショック”は1978年にイランのホメイニ革命を契機として起き、1980年にイラクのフセイン政権が仕掛けたイラン−イラク戦争(88年終結)という「長期の有事」のために、米ドル及び米国に資金が集まっていった。
石油ショックによる原油高騰で米ドルを大量に抱えるアラブを中心としたオイルマネーと製品輸出で厖大な余剰資金を抱える日本企業が米ドルに転換して、債券を中心とする対米投資にいそしんだことでドル高が維持された。

「プラザ合意」が取り交わされた1985年は、米国が「対外純債務国」に転落するという象徴的な年でもある。
「プラザ合意」は、まさに、国際金融家が活動拠点としている米国が「対外純債務国」に陥るために強制されたとも言える。

既に貿易赤字国に転落していた米国が「対外純債務国」になるということは、通常の経済論理に照らせば、「プラザ合意」を取り交わさなくても、否応なくドル安に進んでいくことを意味する。

しかし、だらだらとドル安になっていくのでは困る。

ドル安になれば、

1.1億円を1ドル=200円で交換して50万ドルを米国債に投資した。
2.1年後にその米国債を売ったら運良く60万ドルで売れた。
3.60万ドルを円に交換したら、ドル安で1ドル=150円になっていたため、9千万円になった。
4.1億円がなんと9千万円になってしまった。

(同じ時期の日本の定期預金金利が5%とすれば、1億円は1億5百万円になる)


ドル安(円高)でこういうとんでもない損失を被るので、ドル安(円高)傾向であれば対米投資が抑制されることになる。
一方、反米主義者でもあったオウム真理教の麻原氏はとんでもない間違いをしていたが、ドル安(円高)が進めば、米国は、「対外債務」の返済が楽になる。

例えば、日本から1億円分の商品を買うためのお金がないから、日本人から相当分の借金をするために、1ドル=150円で66万6666ドルの国債を買ってもらう。
借金の返済期限が来たので、利子付きで80万ドルを日本人に返済した。1ドル=100円になっていたから、その日本人は80万ドルを交換して8千万円を手に入れた。
米国が初めに貸したお金で購入した1億円分の商品は、インフレもあって1億2千万円に相当している。
商品購入力という観点で見れば、この日本人は4千万円損したことになり、米国は40万ドル(借りた時点で言えば60万ドル)得したことを意味する。


では、これだけ自明の話でありながら、円高=ドル安でも対米投資がよりいっそうとも言えるペースで拡大し続けたのであろうか。
自国破壊者=売国奴の仕掛けを云々しても詮無いので、経済論理に徹することにする。

最高の貢献は、「プラザ合意」で政治的に一気にドル安(円高)を実現したことである。250円から120円へというドル安過程がだらだらと2,3年かけて実現されていたら、さすがの日本投資家も、対米投資を控えざるを得なかったであろう。
しかし、有無を言わさない“協調介入”で短期間にドル安を実現した。そして、それ以降は94年まで120円を超えるドル高(円安)基調で推移した。
これは、対米投資を誘導する経済状況である。

そして、「プラザ合意」は、一気に大きくドル安=円高に舵を取るとともに、“より低い金利”という金融政策とインフレ抑制政策の実施を各国に求めた。

日本経済は、急激な円高により“円高不況”に陥った。
しかし、これは、“円高恐怖症”に罹患している産業家が利益優先に走り、賃金抑制策を採ったり設備投資を抑制したことから生じたものであり、円高のために輸出競争力が低下したことから直接起こったものではない。
急激な円高は、その変動をすべてドル建て輸出価格に転嫁することができず、コストに占める原材料費の比率も人件費に較べればずっと低いので、間違いなく利益減となる。
しかし、80年代前半の円安下で実現していた「高収益での輸出急拡大」こそが異常なのであり、「プラザ合意」により、安定的な拡大にシフトできただけなのである。

「プラザ合意」後も、貿易収支は、89年(10兆円),90年(9兆7千億円),96年(8兆7千億円)を除けば、毎年12兆円以上の黒字を続けている。
94年から95年にかけては1ドルが百円を切る円高過程で95年5月には80円にまでなったにも関わらずである。95年の貿易黒字額は12兆3千億円である。
このような厖大な貿易黒字は、円高でさらに高まった海外旅行ブームによるサービス収支の赤字により経常収支の黒字額では緩和された。
(日本人が海外向けに支払う旅行費用(6兆円弱)だけで、ほぼ自動車輸出額に匹敵していた。生産した自動車を海外に売ったお金で飛行機で海外旅行を楽しんでも、まだ国際収支に余裕があるという構造である)


日銀は、低金利下の「円高不況」を救済するという名目で金融緩和策を続けた。
“円高を恐怖する”産業家は、輸出競争力を維持するという名目で実質賃金の上昇を抑え込む一方で、余剰資金を土地や株式に積極的に投資した。

「プラザ合意」後に急激な円高が生じたが、それ以降は、91年年初の「バブル崩壊」(この時点では自覚されていない)まで1ドル=120円から150円という安定的ある意味で円安基調で推移した。
円表示で対米レートが一気に半分という円高になったショックを引きずり、実質賃金の上昇という本来的な「内需拡大」政策を採らずに、高度成長期からの信仰である土地と株式への“投機”に励んだのである。

そして、対米レートが円高でなおかつ安定しているという状況で、相対的に利子率が高いの米国向け投資が急拡大した。
それまでの米国債や株式といった証券投資中心から、貿易摩擦を回避するための生産拠点・割安に感じる不動産・自国にない映画会社や買い得と思える企業の買収といった直接投資へと対米投資を急拡大させていった。

米国の大都市部不動産価格は日本企業の投資拡大で高騰したが、日本の「バブル崩壊」により急落し、日本企業は大きな損失を出して売却するハメになった。
しかし、その後も株式と米国債への投資は拡大し、下落を続ける「東京市場」を尻目に「ニューヨーク市場」は、日本のバブル期を彷彿とさせる上昇を続けた。
「ニューヨーク株式市場」の活況は、ダラダラと下落する「東京株式市場」に嫌気をさした日本の投資家のさらなる投資を呼び、2000年末まで上昇を続けた。
財政赤字を補填するための米国債も、その発行額の1/3以上を日本投資家が面倒を見てきた。

もうおわかりであろう。

「バブル崩壊」後は意気消沈し、1990年代の“アメリカの繁栄”を傍目で見ながら「さすがにアメリカの底力はすごい」と羨望の目を向けていた日本人自身が、実は、“アメリカの繁栄”を作り上げていた張本人なのである。

日本企業は、自国での「バブル崩壊」になんら学ばず、米国に場所を移して「バブル形成」に励んだのである。
日本政府も、今なお、米国で既に判決が下った「IT景気」という“バブル”を追い求めようとさえしている。


● アメリカ経済のインフレ

戦後アメリカ経済は、ときとして急激なインフレもあったが、全体としては緩やかなインフレを続けた。

インフレが高まるのは、原油など輸入に依存している国際商品価格の上昇したり、自国通貨米ドルが他の通貨に対して急落したときである。

しかし、米ドルは国際基軸通貨でもあるから、国際商品価格の上昇は、それを輸入に全面的に依存している日本やドイツにもほぼ同じレベルのインフレをもたらす可能性が高い。
(輸入価格の影響は生産効率やコストの構成内容で異なる)

円やマルクなど輸入対象国の通貨に対してドルが下落したら、輸入依存率が高い米国経済は単独でのインフレになるのだが、日本のように対米輸出に依存している国家が多ければ、米国向け輸出価格の上昇は抑えられるのでドルの下落率ほど物価は上昇しない。

(中国など新興工業国の出現は、このように米国経済のインフレ抑制に大きく貢献する。このような認識をしているからこそ、中国がこれから「世界の工場」になると考える次第である)

日本との関係で考えると、固定レート制であれば、米国経済が日本経済よりも高率のインフレになれば、日本の輸出競争力が高まり、米国の輸出競争力が低下する。
変動レート制であれば、インフレ率の差は、長期的には為替レートの変動によって調整される。

しかし、米国に資金が集まり、実物経済領域のインフレ率とは乖離したかたちでドル高が進むと、米国の輸出競争力は大きく低下する。
78年から85年にかけての異常なドル高は、米国産業の競争力をぐんぐんと下げ、米国の産業空洞化を招いた。そして、それと反比例するように、金融業やソフト産業が重要な地位を占めるようになった。

それでも米国経済が混乱に陥らなかったのは、基軸通貨国であり、貿易赤字・財政赤字を埋めてなおあまりあるほどの米ドルが流れ込んできたからである。
米国は、農業を除けば、消費物とそれを買うための資金を外国に依存する構造が急速に進んだ。そして、「レーガノミックス」と言われ、現在の日本でも称揚する識者がいる政策が、この構造をよりいっそう深化させていったのである。

自国で消費する物資を自国で生産しなくても、基軸通貨である自国通貨ドルの高価値と世界最大の市場規模というダブルの恩恵で外国から安く製品を輸入することができる。
自国内で生産が減少していくということは、それに携わる労働者が減少していくという意味であり、実需要も減少していくものだが、外国から容易に借り入れができるから米国であれば財政支出で補うことができる。しかも、諸外国の企業は、米国市場を当て込み競争してくれるから、ドル高以上に輸入価格が低下する。これは、高失業率とともに賃金や給与そして社会保障給付を抑制できる条件でもある。
財政赤字を海外から補填できずに、国内投資家ですべて補填しなければならないのなら、その金額分の実需要が否応なく減少することになる。
民間銀行が中央銀行である米国は、“制御できない”インフレを引き起こす可能性がある国債は引き受けない。

米国経済は、国際商品の価格変動を別にすれば、ドル安であればインフレ圧力が高まり、ドル高になればインフレが抑制されるという基本構造である。
しかも、米国は、「口先」だけというノーコストで為替相場をコントロールできる“特典”さえ持っている。

国際金融家は、円高で日本の投資家が感じるように、ドル高になると株式を含め外国の諸物価が安く感じるようになる。
「プラザ合意」前後の時期で考えてみよう。

日本の株式市場に、1ドル=250円で10億ドル(2千5百万円)投資していた。
日本の株式市場は活況を呈しており、2千5百万円を投資した株式が4千万円に膨らんだ。
「プラザ合意」で1ドル=120円になった。4千万円分の株式を売却して米ドルに転換したら、33億ドルになる。
日本円ベースでは60%増えただけだが、米ドルベースでは333%増えたのである。
これはお互い「紙切れ通貨」ベースの話でしかないので、金をベースに考えてみよう。

1オンス(31.1g)の金価格は、82年(年平均1ドル=250.15円)で375.85ドル、86年(年平均1ドル=169.6円)で367.59ドルである。
82年に10億ドルで買える金の量は82トンであり、86年に33億ドルで買える金の量は279トンである。
まったく同じ物理的性質の金が、3.4倍も手に入るのである。
そして、279トンと言えば、日本の公的保有金の2倍以上の量である。

これこそが、まさに“錬金術”である。

そして、このような“錬金術”を支えた70年代末から80年代中期までのドル高状況をもたらす契機となったイラン−イラク戦争を「シーア派革命を予防的に阻止する」という名目で仕掛けたフセイン政権にも疑惑の目を向けざるを得ないのである。

2500年以上にわたって営々とノウハウを蓄積してきた国際金融家が、私ごときでもわかる“ボロ儲け”手段を意識的に活用しなかったと言えるだろうか。

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