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中島由佳利 「新月の夜が明けるとき」2 投稿者 YM 日時 2002 年 10 月 19 日 15:14:29:

(回答先: 中島由佳利 「新月の夜が明けるとき──北クルディスタンの人びと」超ダイジェスト紹介 投稿者 YM 日時 2002 年 10 月 19 日 15:13:01)

『未来』2001年7月号
目醒めはじめたクルド人たち
──新月の夜が明けるとき──北クルディスタンの人びと(2)
中島由佳利(ノンフィクションライター)

(前略)
都会育ちの試練
あるプレハブ小屋の前で、バスが止まった。比較的大きな詰所のようで、五、六人の若い兵士の姿が見える。また新聞を渡すのかと思っていると、バスの中から若い男性の乗客がひとり降りていった。大きな荷物とブリーフ・ケースを引きずってプレハブ小屋のほうへ近づいていく。
私は彼に見覚えがあった。アンカラの空港でベンチに腰掛け、物憂げな顔をして宙を見つめていた男性だ。背中を丸め、ときどき恨めしそうに他の乗客の姿を目で追う。その様子があまりにも暗かったので、いったいどうしたのだろうと気になっていた。同じ飛行機だとは気づかず、ましてやこのバスに同乗していたとは知らなかった。見るからに都会の男の子だ。肌は白く、髪は金髪に近い栗色。きやしゃな身体はまだ少年のようだ。
だぶん彼は兵役のため、都会からここへ配属されてきたのだろう。それであんなに暗かったのか。私は納得すると同時に少し同情した。だが、彼が現実を知るためにはいい機会なのかもしれない。
トルコには、健康な男子はすべて二〇歳を過ぎると一八か月の兵役につかなければならないという徴兵制度がある。兵役ではトルコ国内を知るために、都市の者は地方へ、西の者は東へ行かされるという。始めの三か月は武器の使い方などの教育を受け、その後各地に赴任していく。だが、イスタンブルやアンカラに在住する金持ちの子弟などがお金を払って楽な任地へ配属されたり、東の者が同じ東に配属されるというようなことはよくあるので、いちがいに逆の環境で兵役を果たすともいえないようだ。
西側出身の者は東部へは来たがらない。東部はクルド人居住地域だし、特に山間部にはPKK(クルディスタン労働者党)のゲリラがたくさん潜んでいるからだ。ゲリラとの戦いの最前線にでも配属させられたら、それこそ本当に死を覚悟しなければいけないのだ。

東南部アナトリア開発計面(GAP)
トルコ西部から東部へ行こうとすると、よく言われることがある。「……東部?なんでそんなところへ行くの?何もないところだよ。それに、危ない。……なぜって、山にはゲリラがウジヤウジヤいるし、牛や羊みたいな動物ばっかりだ。東へは行かないほうがいい」
トルコ東南部は、西部に比べて開発が格段に遅れてきた。一九二三年のトルコ共和国建国で政教分離を掲げて急速に近代化したのは西部の都市のみで、東部の発展はほとんどなされていない。主要な産業はなく、人びとは大地主のもとで自給自足的な農業や牧畜業などを細ぼそと続けてきた。
一九七六年、トルコ政府は共和国建国以来の最大のプロジェクト、東南部アナトリア開発計画(GAP)を策定した。その事業に着手したのは一九八一年。莫大な投資を行い、ユーフラテス川やティグリス川の上流に二三のダム、一九の水力発電所、二つの地下導水路が建設されることになっている。GAPが完成すると、東南部の一七〇万ヘクタールの土地が潅概されて農地になり、この地域が農業生産に基づくトルコの食料基地・農産物の輸出センターに発展し、三五〇万人が就業機会を提供されることになるという。
だが、対外的にはユーフラテス川・ティグリス川が流れ込むシリア・イラクなどとの間に、水資源をめぐる問題が起こっている。一九八七年にはトルコとシリアとの間で協議が行われ、ユーフラテス川の水量をシリアに残すことが決められた。そのとき同時に治安についての協定も交わされ、トルコはその治安協定の中で、シリアがPKKへの援助を行わないよう期待したが、シリアはその後もPKKへの援助を続けた。
一方、ユーフラテス川上流に建設中の巨大なアタチュルク・ダムは、周辺地域への灌漑や電力供給を目的として一部完成、操業を始めたものの、そこから先の発展はまだなされていない。確かに砂漠は一部で緑を取り戻したかのように見えるが、土地はやせており、そのほとんどは大地主が所有していて一般農民たちの生活は苦しいままだ。巨額の国家予算を投じたこの開発計画は、東南部のクルド人の生活だけでなく、トルコ全体の経済発展をかけたプロジェクトであるだけに、建設と同時に解決していかなければならない多くの問題が山積みだ。そのひとつが、この地域に残る社会形態だろう。

トルコ政府によるクルド民族支配
トルコ東南部にはいまだに封建的な制度が色濃く残っているところが多い。もっとも、この封建制度はクルド人独自のものではなく、かつてオスマン帝国がクルド人の支配を楽にするために導入した制度だ。封建制度の中には、部族制、シェイヒ(宗教指導者)制、大地主制などの伝統的諸組織がある。トルコ共和国では、あの有名なトルコ帽の着用が禁止されるほど、伝統的生活習慣は徹底的に排除されてきたし、政教分離のためイスラムを信仰する女性が公的な場所でスカーフを着用することもできないことになっている。民主主義国家の実現のために、ヨーロッパよりも早く女性の参政権が認められてきた。それなのになぜトルコ東部のクルド人居住地域には、伝統的な部族制度、イスラムの宗教指導者制度、非民主的な大地主制度などが現代にまでも残されてきたのだろうか。
それはクルド人たちを、トルコに同化させるために必要だったからだ。こう言うととても矛盾しているように感じられるが、クルド人たちがトルコ語を話し、クルドの民族意識を目覚めさせることなく自分はトルコ人であると認識し、しかも彼らがこの状況に無自覚なまますべてを当然のこととして受け入れるために、これらの制度は非常に便利だったのだ。クルド人社会のピラミッドの頂点である諸制度の長たちに恩恵を与えてトルコ政府の代理人としておけば、トルコ政府の意向にクルド人たちを従わせることは簡単だ。
これらの諸制度は、東南部の経済発展を大きく阻んできた。前述のGAPが完成したとしても、社会形態を変えていかない限り一般のクルド人たちの貧困は変わらないだろう。
日本の近代化に力を注いだ明治政府、とりわけ明治天皇に対して、トルコ共和国初代大統領ケマル・アタチュルクが強い尊敬の念を抱いていたのは有名な話である。その影響もあり、トルコ国民には親日的な感情を持っている人が多いともいわれている。だが、共和国の近代化に向けて明治政府の政策を手本にしたアタチュルクが、かつて同政府の行った「琉球処分」の方法を、そのままこの東南部(北クルディスタン)支配に適用したと考えることもできる。琉球王国の王族や貴族、官僚たちを抱え込んで自国に組み込んだやり方は、トルコ政府による東南部支配と驚くほど酷似しているからだ。
だが、こういったやり方は、何も琉球処分やトルコ東南部支配においてのみ行われてきたわけではないだろう。ある集団が別の集団を支配しようとするとき、往々にして見られる手法といえるかも知れない。ただクルディスタンに関していえば、クルド民族というよりは部族としてのまとまりのほうが強く、クルド人同士のあいだの民族意識が稀薄だったことが、よりこの支配方法を容易に成功させてきた、ということがあるだろう。

すべてがトルコ人である、という欺隔
「私はトルコ人で幸せだ!」というスローガンがある。トルコでトルコ人化を受入れた人びとは、その能力に応じて、どんな職業にもどんな地位にも就けるとされており、表向きは.公的に差別されないことになっている。だが、自分がクルド人であることを訴える人は、何者にもなれないだけでなく、分離主義活動・国家反逆活動の容疑者として捕らえられ、刑務所の囚人となってしまう。
(中略)

PKK、武装闘争までの道のリ
そんな状況の中、トルコ政府と三〇年近く闘い続け、クルド人の自由と独立を掲げて民衆を引きつけてクルディスタン労働者党(PKK)を創立した指導者がアブドゥラ・オジャランである。一九八四年から武力闘争を始めたPKKは過激なテロ活動によって国家と実質的な内戦状態を続けてきた。一九九九年二月にケニアのナイロビ空港で捕らえられ、六月に死刑判決が下されて、現在イスタンブールに接するマルマラ海に浮がぶイムラル島(監獄島)に、たったひとり幽閉されているPKK党首アブドゥラ・オジャラン(通称アポ)。彼のトルコ政府との闘いは、一九七〇年代に始まる。アンカラ大学で政治を学んでいたオジャランは、左翼学生運動のリーダーであったため、一九七三年に捕らえられ、七ヶ月間投獄された。その後、オジャランは友人たちとともに故郷のトルコ東南部(彼らは「占領されたクルディスタン」と呼ぷ)の隅から隅までを旅し、クルド人たちに対する啓蒙に情熱を注いだ。そしてたくさんの支持者、とりわけ多くの若者たちを獲得した。彼らは一九三〇年代から続くトルコ共和国によるクルド人に対する弾圧と虐殺を、どんな犠牲を払っても排除しなければならないと訴え、団結した。この新しいグループがPKKの母体となっていく。
一九七八年一一月二七日、オジャランはクルディスタンの「独立・民主主義・統一」を掲げてPKKを創立し、労働者、農民、職人、学生、多くの社会階層の人たちがこれに参加した。彼らは工場のストライキを起こし、、地主に対して抵抗し、デモを行った。これらの運動の発展を阻止するために、トルコ政府は人びとを暴力に訴えて逮捕し、大量虐殺を行い、密告者を送り込み、拷問を加えた。この事実関係は、トルコ人社会学者のイスマイル・ベシクチによっても調査、発表されている。(『クルディスタン=多国間植民地』イスマイル・ベシクチ著/中川喜与志・高田郁子訳、柘植書房)
(中略)
一九八〇年九月一二日、トルコで軍事クーデターが起こる。その目的のひとつはクルディスタン解放運動の弾圧であった。東南部だけでなくトルコ全体で国家テロが横行し、「私はトルコ人だ」ということを拒否した何千もの人たちが拷問され、処刑された。オジャランはPKKの基地を国外へ撤退させ、自身もシリアヘ身を移した。
軍事クーデターから四年を経過して、オジャランたちPKKの新しい展開が示されたのが一九八四年八月一五日であった。トルコ東南部の二つの小さな町、エルブとジェムディンリにおいてゲリラたちが蜂起した。武装闘争の開始である。
以降、オジャランが逮捕されるまでの一五年間だけで、三万人以上の兵士や民兵、警官がPKKとの戦いによって死んでいる、という。だがトルコ政府によって直接、もしくは間接的に殺されたクルド人たちの正確な数は誰も知らない。彼らはただ「死亡」ということで処理されてしまったり、行方不明になっていたりするのである。
九〇年代に入るとトルコ政府は、東南部の村や町を、PKKを支持しているとして爆撃や戦車などで破壊する政策を押し進めた。人びとは家を壊され、家畜や農地を燃やされ、生活のすべてを奪われた。この村の「無人化政策」は九四年から九五年にピークを迎え、故郷を追われたクルド人の数は三〇〇万人、破壊された村や町は三〇〇〇を超える。その結果、大量の難民たちがトルコ国内の都市や、国外に流出していくこととなった。
多くのクルド人たちは目醒めている。PKKと政府軍との戦いのなかで、彼らは自分たちが何者なのかを見直し始めた。特に若い世代が、なぜクルド語を知らないクルド人がいるのか、なぜクルド語を使ってはいけないのか、なぜ自分をクルド人だと言ってはいけないのか、なぜ自分たちは脅えながら暮らさなくてはいけないのか、なぜ同じクルド人同士が殺し合うようなことになるのか……などというさまざまな疑問に対する答えを求めている。彼らは失われた民族のアイデンティティを取り戻そうとしているのである。
しかしその反面、トルコでの現実を受け止め、トルコ人として成功を求めるクルド人の若者も大勢いる。この違いは、彼らがどこで生まれ育ったか、どういう家庭環境、経済状態にあるかということに大きくかかわっている。(続)

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