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(回答先: 悪貨は良貨を駆逐するというこの業界ーー北朝鮮報道 投稿者 MASA 日時 2002 年 10 月 18 日 15:05:43)
北朝鮮は江戸時代の日本の百倍悪い身分差別社会です
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20021009/mng_____tokuho__000.shtml
広がる被害者なぜ「拉致」だったか
推定被害は60人にも?
                    北朝鮮による日本人拉致事件の被害者について、警察庁は新たに四人を加え計十件十五人とした。全国から寄せら
                   れた行方不明情報は百件にも達する。拉致の実態はさらに大きなものかもしれない。ただ北朝鮮には、日本語を話せる
                   帰還者も多くいたはずだ。あらためて、なぜ「拉致」だったのかを解き明かしながら、事件の規模を探った。
■「帰国者より純粋培養望む」
                    「事情があって、今まで公にしてこなかったが、拉致されたとみられる、新たな日本人情報があるんです」。そう言いな
                   がら、コリアレポートの辺真一編集長は、ある元北朝鮮工作員の証言を明かす。
                    元工作員の名は、南光植氏。特殊機関での任務を経て、北朝鮮の貿易商社「高麗貿易」副社長にまでなったが、一
                   九九八年、中国経由で韓国に亡命した。
                    「私の取材に対し、彼は九六年九月、平壌の火力発電所近くの保衛(日本の公安に相当)管理施設で収容されてい
                   た当時三十−四十歳の日本人女性二人と十六−十九歳の子ども六人と会った、と話した。この八人を管理していたの
                   は拉致を行っているといわれる朝鮮労働党作戦部第一三〇連絡所に所属する五十四歳の女性教官で朝鮮外国語大を
                   卒業し日本語が話せました。その夫は党組織指導部第五課の責任指導員・玄南俊という人物です」
                    辺氏は、話の具体性から証言の信憑(ぴょう)性が高く、管理していた人物、状況などから二人の女性が日本から拉
                   致された可能性が高いと指摘。その上で、日本政府がこれまで拉致認定した人たちとは異なる、新たな女性被害者と
                   みている。
「年齢に限れば、横田めぐみさんや有本恵子さんとも合致するが、子どもの数などから違うとみられる」
                    「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)」は、独自調査で、約六十人の拉致被害者がい
                   るとしている。北朝鮮は十四人以外認めておらず、他の被害を立証する現地情報もないが、南氏の証言が真実ならば、
                   日本人拉致の規模がより大きなものであることを示す大きな材料となる。
                    ただ、どうしても気になるのは、北朝鮮がリスクをおかしながら、なぜ拉致を遂行してきたかという根本問題だ。北朝鮮
                   には一九五九年末から、在日朝鮮人とその家族合わせ九万三千人が渡っている。このうち約六千人は日本人妻だ。
■「日本人妻らは敵対層扱い」
                    一九七二年から一年間、「赤旗」特派員として平壌に滞在した経験を持つ作家の萩原遼氏は言う。「よく朝鮮総連の
                   人は拉致を否定して『日本語の教師だったら日本人妻がいるじゃないか』と話していた。しかしあそこへ行ってそれがい
                   かに認識不足か分かった」
                    萩原氏が指摘するのは「成分」と呼ばれる北朝鮮特有の身分制度だ。大きく分けて、上から「核心」「動揺」「敵対」の
                   三つの階層があり、これがさらに細かく五十一段階に分かれる。拉致や潜入、スパイ行動にかかわる特殊機関の工作
                   員らは「成分」でいうと上の階層に属するという。
                    「帰国者や日本人妻は『敵対』層の中の上の方、つまり下の上です。一方、工作員はすべてにおいてよりすぐられた
                   『核心』中の『核心』です。北朝鮮は江戸時代の日本の百倍悪い身分差別社会です。身分の低い者を革命行動に使っ
                   たり、革命行動をする人の教育をしたりということは、あの国ではあり得ない」
■「白紙から彼らの色に染めて」
帰国者や日本人妻は、権力層の間では「雑菌」とさえ呼ばれているという。
                    「雑菌では工作員の指導ができないとなれば、どうすればいいかということになる。彼らにとっては、純粋培養がいい。
                   拉致をすれば、白紙から彼らの色に染め上げることができる。拉致で確保した人材は純粋な素材であるから、雑菌じゃ
                   ないという論理です」
                    拉致の人数について萩原氏は「警察が非公式に出している数字が四十一人、よど号メンバーによる十五−二十人を
                   あわせて六十人前後というのがだいたいの数字じゃないでしょうか」。
                    北朝鮮に詳しいジャーナリストの恵谷治氏は「工作員の日本人化教育の徹底をはかった結果だ」と話す。金正日総書
                   記が、拉致を行う朝鮮労働党作戦部を直接掌握した七五年十一月以降、「生きた日本語」求めて日本人の拉致が行わ
                   れるようになったという。
■『生きた日本語』を求め
                    「地方の方言も含め、日本人の最新の風俗、流行、化粧の仕方に至るまで徹底的に教え込むには、実際の日本人で
                   なくてはならなかった。金総書記が、帰国者を基本的に信用していなかった。資本主義に毒され、金しか考えていない
                   と見なしていたからだ」
関西大学の李英和助教授は、対南工作の変化から日本人が狙われるようになった理由を説明する。
                    「一九七四年に韓国で朴正煕大統領が狙撃され、夫人が死亡する事件があった。その犯人が在日韓国人で、それ以
                   降、韓国への在日韓国、朝鮮人の入国が厳しくなったばかりでなく、韓国内での監視もきつくなった。そこで狙われたの
                   が日本人」と言う。
                    「対南工作を進める上で日本人を拉致して、パスポートを入手し、本人にすり替わる方法を採った」と話し、「日本語教
                   育が目的」というのは、むしろ副次的な理由だったとみる。
                    加えて挙げるのが「日本人拉致が、日本潜入訓練の目的となっているからだ。日本に潜り込んだ“証拠品”として連れ
                   帰った」
■在日韓国、朝鮮人 『表面化していないだけ』
                    さらに李助教授は「在日韓国、朝鮮人は狙われていないのではなくて、実際は相当数が北朝鮮に連れ去られている」
                   とみる。
                    「日本人の場合、ある日突然、身内がいなくなれば大騒ぎになるが、在日の人の場合、脅迫などによって(騒ぎになる
                   ことを)抑えることができる。表面化していないだけで、拉致された日本人の数に匹敵するぐらいはいてもおかしくない」
                   と指摘する。
その根拠として李助教授は自身の体験を話した。
                    「九一年、約八カ月、北朝鮮の朝鮮社会科学院に留学した。その時、日本から連れ出されたという在日の兄弟の兄
                   と、偶然話す機会を平壌で得た」と言う。
                    「当時、兄は二十六歳。話をしたときは無職と言っていたが、それまでは原子力関係の商社に勤めていたそうだ。暮ら
                   しぶりは悪くなかった」と振り返る。
■「米ディズニー連れてくと…」
                    兄の話によると、二人は兄が中学校三年生、弟が小学校五年生の時に、実のおじから「米国のディズニーランドに連
                   れて行ってやる」と誘われた。飛行機を乗り継いで着いた場所が平壌だったという。おじは平壌を去ってしまい、二人は
                   そのまま「招待所」で暮らすようになった。
                    「とくに幼かった弟の方は、家族に裏切られたと泣き通しだったという。わたしは、偶然に聞いた話があまりにも衝撃的
                   な話だったことに凍りつき、『このまま話を聞いていて大丈夫だろうか』と恐怖心を抱いた」と振り返る。
                    そして、こう言う。「わたしの短い留学期間で、出会ったぐらいだから連れ去られた人がほかにもかなりいるはずだ。
                   (北朝鮮が拉致を認めた)今回の件がきっかけで、在日の被害者たちの家族らも重い口を開き始めるかもしれない」
(デスクメモ)
                    朝鮮名で通している在日の友人は、息子が日本名を勝手につけたことにショックを受けた。「電車などで朝鮮名で呼び
                   合うのが怖くて友だちと考えたという。悔しいが、やめさせることもできない」。朝鮮語のあいさつを自粛する生徒もいる。
                   国家の罪はあっても、民族の罪などない。まして子どもは無縁だ。(熊)
■「学生のまま 甘ちゃん自認」
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20021002/mng_____tokuho__000.shtml
よど号グループの暗部 Aさんは見た
                    北朝鮮で消えた元留学生有本恵子さん=失跡当時(23)=の行方について、警視庁が「よど号」グループによる拉致
                   事件と断定する中、同グループの支援関係者が「第二、第三の有本さんもいたはず」と重い口を開いた。この関係者も
                   かつて欧州で同グループと接触し、その後、身近にかかわってきた。闇のふちからのぞいた同グループの実態は−。
                   (田原拓治)
                    指定された時間よりやや早めに着いた。一九八四年夏。ハンガリーの首都ブダペストの英雄広場。空は抜けるように
                   青かった。この一年前に有本さんは欧州から「拉致」されている。
                    約束の十分前から胸にバッジを着けた複数の東洋人の姿が目に付いた。待ち人が現れた。ポロシャツ姿にサングラ
                   スをかけた休日の会社員風。田中義三被告=日本で公判中=だった。
                    「その日はとにかく飲みまくった。彼とは二日間一緒。その後、赤木(志郎容疑者)さんが来て、四日目にリーダーの
                   田宮(高麿・故人)氏を紹介された」
■若林容疑者と大学生時代文通
                    現在四十代前半のAさんは当時、都内の大学三年。浪人時代、月刊誌で読んだ田宮リーダーの記事にひかれ手紙を
                   書き、以後、若林盛亮容疑者と月一回のペースで文通していた。八四年、見知らぬ中年女性が下宿を訪れ「彼らとは社
                   会主義圏ならどこででも会える」と誘われた。渡航費用に十五万円渡された。
                    ブダペストで一軒家を借り、十日間、討論に明け暮れた。「自分は無党派の活動家だったので話はまず、運動。次に
                   日本の若者の風俗やバイトの状況、家族や恋人の有無など、どん欲に聞かれた。政治は反核とか、憲法の話だけ。炊
                   事係は赤木さん。最後はいつか平壌に来てくれ、と」
                    田宮リーダーは終始、精力的で笑顔を絶やさなかった。一方で、Aさんは街中で偶然、若い日本人旅行者に声をかけ
                   る田中被告の姿を目撃している。
                    Aさんの話ではほぼ同じ時期、この街から平壌に渡った若者もいた。随行したのはよど号メンバーではなく北の工作員
                   だった。
                    「彼も活動家で期間は最初から一カ月半と決め、その通り帰ってきた。帰りは出入国印を押さないフランクフルト経由。
                   最初は平壌ホテルに泊まり、専従の料理人がいる招待所に移った。午前と午後の三時間ずつ、向こうの学者から抗日
                   パルチザン史や独自の経済学の講義を受け、よど号メンバーが通訳した。土日は革命博物館やサーカスなどを見学し
                   たという」
夕方になると、田宮リーダーや小西隆裕容疑者が様子を見に来て、酒食を共にしたという。
                    Aさんらの状況は八〇年代前半に拉致されたとされ、北朝鮮側が「死亡」と発表した有本さんら三人のケースとは違
                   う。なぜなのか。
■「公安がマーク 拉致に不都合」
                    「私たちはすでに活動家だったし、日本の公安(警察)にマークされていた。だから、帰さないと都合が悪かったんでし
                   ょう。その後の役割は公然活動家。でも有本さんたちは面が割れていない。非公然部門を担える条件を備えていた。そ
                   こが運命の分かれ道だったんじゃないか」(Aさん)
                    Aさんは九七年まで約十回、平壌や北京で彼らと接した。九一年にはよど号グループの事実上の国内組織「尊憲」
                   (現在は消滅)を結成し、その後、田中被告の救援活動にも携わった。
■80年代組織拡大 拉致疑惑が集中
                    よど号グループの足跡をたどると、八〇年代半ばまでは北朝鮮に人を集め、組織拡大を図ろうとしたが、九〇年代か
                   らは「自主日本の会」設立など日本に活動拠点を築く方針に転換している。拉致疑惑が集中するのは前者の時期。Aさ
                   んが拉致などを含めたグループの“非公然部分”に気づくきっかけがあった。
                    「尊憲」の創設直前、田宮リーダーの著作に感動したという若者が近づいてきた。「後に分かるんですが、彼は七〇年
                   代後半によど号グループに欧州で誘われ、関係を隠して反核運動を呼びかけていた青年だった。しかし、当初はそれを
                   おくびにも出さない。自分たちの指導役だった」
                    その後も不審な人物が周辺をうろついた。「日本でバイトをしているという。だが、(田中被告が収監されていた)バンコ
                   クと平壌を頻繁に往復する。その資金の出どころに首をかしげているうちに、よど号グループと関連する貿易会社の大幹
                   部に納まっていました」
                    Aさんは「彼らは八〇年代前半までに非公然要員として勧誘されたメンバーだと思う。当時、五木寛之の小説にあこが
                   れ、シベリア鉄道経由で欧州を放浪する若者も多かった。有本さん事件の真相は分からないが、いまだ名が挙がってい
                   ない同様の人々は少なくないはず」とみる。
                    Aさんは九七年、平壌でリーダー格の小西容疑者に有本さんの行方を問いただした。「有本って誰」としらばっくれてい
                   た同容疑者だが、やがて「日本に帰ったのでは」。最後に「やましいことはしていない。いつか真相を明らかにする」と明
                   言を避けたという。
                    「優秀な女性革命戦士という有本さん評を現地で耳にしたことがある。昨年、朝鮮労働党筋の話として、少なくともそ
                   の時点では生存していると聞いた。よど号グループから召し上げられ、北朝鮮の特殊任務に就かされ、出てこられない
                   のでは」とAさんは推測する。
一方、約二十年間も付き合ってきた「よど号グループ」をどうみているのか。
                    Aさんは「彼らは貴族的な生活で感覚がまひしている」と酷評する。「現地では庶民、ホテル、招待所それぞれで口に
                   する米のレベルがまったく違う。彼らは世話になっている国の人民が飢えているのを知りつつ最上級の米を食べている」
■「学生のまま 甘ちゃん自認」
                    九六年に渡航した際、十分使えるテレビを大型に買い替えるとはしゃいでいるのを見た。新型の四輪駆動車もエンジ
                   ンオイルひとつ変えない。貿易など事業面でもすぐもうかると皮算用する。「学生のままです。いつだったか、田宮さんが
                   “おれたちは甘ちゃんだ”とつぶやいていた」
                    一枚岩とみられていた朝鮮労働党との関係も実は微妙だった。八五年に朝鮮労働党の幹部に個別に会ったときだ。
                   よど号グループからは国内活動を奨励されていたが、この幹部は「日本の公安を刺激するな」と苦言を呈した。Aさんは
                   「すでに北朝鮮は革命輸出をあきらめ、友好路線を取ろうとしていた。今回の事実上のよど号追放劇の伏線だったので
                   は」と振り返る。
                    Aさんが過去、抱いていた同グループへの幻想は崩れつつある。ただ、忘れられないシーンがある。翌日に平壌を離
                   れるという夜、若林容疑者と飲んだ。同容疑者が「そんなに帰りたいんか。おれだって帰りたいよ」と愚痴った。
                    「拉致疑惑も含め、行き当たりばったりの彼らの活動の底には捕まらずに帰れる日本にしたい、という望郷の念があっ
                   たのでは」
                    だが、有本さんらの問題など、その結果責任はあまりに重い。Aさんが付け加えた。「その落としまえはつけねばなら
                   ないでしょう」
切り捨てられた「よど号グループ」
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20020925/mng_____tokuho__000.shtml
切り捨てられた「よど号グループ」
来月にも日本へ追放か
                    無残な結末が忍び寄っている。三十二年前、ハイジャックで朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に渡った元共産同赤
                   軍派よど号グループが、近く同国を追われる可能性が強まった。同グループの関与が指摘される日本人三人の拉致事
                   件を、日朝首脳会談で北朝鮮側が色濃くしたのが根拠だ。帰国後の逮捕以前に、革命家集団のモラルとは程遠い「
                   (日本の)人民を見殺しにした」汚名すら被りかねない。(田原拓治)
■『拉致関与なら革命家として責任を』
                    「殺されたか否かは別として、有本(恵子)さんという彼らが関与したと目される日本の人民が死んだと発表された。日
                   本の権力がどうのという問題以前に、事実なら革命家として人民に対し責任を取らねばならない。真実を語るという原則
                   に忠実であってほしい」
                    元赤軍派議長で、よど号事件の謀議にも加わったとして二十年の獄中生活を送った著述業塩見孝也氏(61)は「どん
                   な事態を迎え、意見が異なろうとも救援し続ける」と前置きしながら、そう言い切った。出獄直後の一九九〇年から四十
                   回以上、北朝鮮に渡航。旧知のよど号メンバーや家族の帰国活動に携わってきた。
                    今回、北朝鮮側が発表した拉致後に死亡した八人の日本人のうち、よど号グループの関与が指摘されているのは三
                   人だ。有本さんについては、元メンバーの妻八尾恵さんがことし三月、昨年帰国し旅券法違反で逮捕された別の妻の公
                   判で、欧州でメンバーの安部公博容疑者とともに北の工作員に引き渡したと証言した。
                    だが、塩見氏の期待とは裏腹によど号メンバーらがつくる「かりの会」は今月二十一日付の声明で「まったく身に覚え
                   のないこと。三人の方を共和国に連れていったことも、その消息を聞いたこともありません」と従来通り全面否定した。
                    その声明を聞いて、ため息をつく元活動家がいた。学生時代にメンバーらと親しく、その後、招待の形で数回訪朝した
                   自営業者だ。
                    「有本さんは平壌にいると彼らから聞いていた。ただ、彼らとて(八〇年に同様に渡航した)石岡亨さんと同じ日に有本
                   さんが死亡したことは知らなかったろう。なぜ、有本さんたちの身柄を共和国側に預けたのか。路線対立があり、内部事
                   情を知りすぎていた有本さんを放置できなかったのでは。いずれにせよ、見も知らないなんて大うそだ」
■「この問題には触れないで」
                    別の渡航経験者は、欧州で石岡さんとメンバーの妻らが同席している公開写真についてただした際、幹部メンバーが
                   「彼らは勧誘に応じて自主的に来た。でもこの問題には触れないでくれ」と遮ったと回想する。
                    そもそも、よど号グループと北朝鮮の関係はどうだったのか。世界同時革命を掲げていた赤軍派と一国の民族革命を
                   優先させる主体(チュチェ)思想を党是とする朝鮮労働党では思想的にも距離があったはずだ。
                    「まだ、田宮さんは主体思想に冷めていた感じがした。でも別のメンバーには主体主義者になれ、と午前三時まで説
                   得された」。メンバーの婚姻問題で訪朝した川村理弁護士は話す。
                    しかし、元活動家は「平壌の一等地に自前のビルを建て、エリートの党員扱いだったんだから田宮も大差なかったは
                   ずだ。みな染まっていたよ」と明かす。
■北朝鮮の路線転換 背景に改革派の台頭?
                    欧州経由などで北朝鮮に渡ったが、意見の相違などでよど号グループとたもとを分かち、帰国できた日本人活動家も
                   少なくない。
                    拉致か勧誘かはともかく、「北朝鮮当局が欧州で彼らを自由に活動させることはあり得ない。よど号グループの強化は
                   対日工作上でも、北にとり歓迎すべきことで、すべては両者の共同行動だった」(元活動家)という点は間違いなさそう
                   だ。
                    そこまで蜜月だったのに、よど号グループが一切の関与を否定してきた有本さんら三人の問題を北朝鮮側があえて
                   「死亡」と発表し、不利な方向に導いた理由は何なのか。
                   ■「ここまでとは予想してない」
                    ことし七月、メンバーらは「米国の(北朝鮮をも対象にした)反テロ戦争に口実を与えない」との理由から、「テロリスト」
                   と目された自分たちや家族(現在は計二十二人)全員が帰国すると発表していた。それを布石とみた日朝連帯運動関
                   係者は「よど号メンバーにも今回の発表は事前に織り込み済みだったろう」とみる。
                    しかし、塩見氏は「ここまで(北朝鮮に)切り捨てられるとは彼らとて予想していなかったろう。もう、有本さんらの問題
                   で知らぬ存ぜぬは通らない。彼らも北朝鮮体制の犠牲者かもしれない」とメンバーたちの衝撃を憶測する。
                    川村弁護士は「八尾証言が飛び出したとき、小西隆裕容疑者は被告にもっと反論せよ、絶対拉致を認めるなと指示し
                   てきた。それを考えると、今回の発表は寝耳に水だったのでは」と語る。
                    元活動家も「朝鮮労働党の『出て行ってくれ』という圧力がかなりきつくなっている。帰国方針は既定だが、あそこまで
                   暴露されるとは。もういられないだろう」と驚きを隠さない。
                    発表の背景について、塩見氏は「党内に改革派、いわばゴルバチョフ的な一派が登場し、主導権を握りつつあるという
                   こと。金正日総書記もこれに同調している。この路線は軍や特殊機関に犠牲を強いるだろう。そこに連なるよど号グルー
                   プも同様だ」と指摘する。
                    元活動家は「今年の夏の台風で、北朝鮮の農作物被害はかなりひどい。結局、国も追い込まれている」と話したうえ
                   で、「私が九〇年に初訪朝したとき、彼らが人生をやり直すよう説得するつもりだった。だが、その後、あきらめた。無罪
                   帰国の主張は非現実的だし、支援者にはあれこれ無心を続けていた」と振り返る。
                    その結果「十年前ならまだ、英雄として戻れたかもしれないが、いまや同胞を見殺しにした怒りの対象。完全に帰って
                   来る時期を見誤った」(川村弁護士)ようだ。
■メンバーたちは強気の姿勢だが
                    同グループに残された選択肢としては、追い出される前に自主的に帰国するしかない状況にみえるが、メンバーの赤
                   木志郎容疑者は「拉致問題への関与を決めつけるなら帰国への障害となるだろう」と強気だ。
                    しかし、大半の関係者の間では、先の日朝会談を機に、すでに両国がよど号グループ帰国の具体的なスケジュール
                   を水面下で調整している、というのがもっぱらの見方だ。川村弁護士は政治家筋の話として「来月中にも、日朝正常化
                   交渉が始まる以前に帰国させると聞いている」と漏らす。
                    塩見氏は「両国の友好平和は歴史をみれば甘ったるいもんじゃない。血や悲劇をかいくぐり、双方に痛みと反省を求め
                   る」と話す。そうならば、よど号グループの三十二年間の流転もその一幕なのかもしれない。
■よど号グループの動き
                    1970・3よど号ハイジャック事件
                      72・5メンバーら故金日成主席と会見
                      76−77後にメンバーの妻となる女性ら相次ぎ北朝鮮へ
                    80年代 欧州での活動活発
                      前半 化。83年6月ごろロンドン留学中の有本恵子さんが行方不明
                      84  メンバーの1人岡本武氏が妻とともに別行動。88年に「土砂崩れで死亡」と北朝鮮当局が通知
                      85・7メンバーらが中曽根康弘首相(当時)に無罪帰国を求める書簡 メンバー吉田金太郎氏「病死」
                      88・5メンバーの柴田泰弘氏と元妻八尾恵さんが日本で相次いで逮捕
                      88・8外務省、メンバーの妻らに旅券返納命令
                      95・11リーダー田宮高麿氏「病死」
                      96・3田中義三被告カンボジアでドル偽造事件で逮捕(無罪判決)。後に日本に移送し、ハイジャック事件で再逮
                   捕
                    2001・9妻の1人金子恵美子被告がメンバーの子ども2人と帰国
                      02・7全員帰国声明
                      02・9妻の1人、小西タカ子容疑者がメンバーの子ども5人と帰国
<メモ>
                    よど号事件 一九七〇年三月三十一日、リーダーの故田宮高麿政治局員ら赤軍派の九人が羽田発福岡行き日航機
                   「よど号」(乗客乗員百二十九人)を乗っ取り、平壌行きを要求した事件。日米韓の政府当局は韓国・金浦空港を北朝鮮
                   領内と偽装したが見破られ、乗客解放後、同機は四月三日に平壌に到着した。九人は国外移送目的略取容疑で国際
                   指名手配を受けたが、現在までに田宮氏ら三人が客死。田中義三被告=公判中=ら二人が帰国、小西隆裕、赤木志
                   郎、若林盛亮、安部(本名・魚本)公博の四容疑者が北朝鮮に残っている。
<デスクメモ>
                    小学生だった一九六九年十月下旬、大菩薩峠を旅行した。この数日後、同じ峠で赤軍派メンバーが大量に捕まった。
                   泊まった山荘も同じだった。三十三年後、あの時捕まった人々の昔の仲間が、北朝鮮から帰国しようとしている。帰国し
                   たらどう迎えるのか。あの峠にいた人々にも、今の思いを聞きたい。(富)
 
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。