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「自尊心」や認識などについて 投稿者 あっしら 日時 2002 年 8 月 24 日 16:46:13:

(回答先: Re: 近代的政治理念と「大日本帝国」 投稿者 近代化とその戦争からわれわれは何も学んでいない 日時 2002 年 8 月 24 日 03:47:05)

「近代化とその戦争からわれわれは何も学んでいない」さん、こんにちわ。


優しさに満ちながら鋭い内容の論考を拝読しました。

縄文文化やアメリカ先住民文化についてはそれほどの知識はありませんが、縄文と弥生で日本(地理的な意味)史に大きな隔絶があること、アメリカ先住民文化が米国の政治思想・文化・宗教(モルモン教など)に強い影響を与えていることは意識しています。

アメリカ先住民の子供たちにバスケットボールで遊ばせると、競い合うのではなく、みんなでどうやったらボールをうまく入れられるのかという遊びになったという話も覚えています。
(そういうことで、勝手にタバコ無害説をでっち上げ、米国製の無添加タバコをヘビーに吸っております(笑))


価値観を広めるレトリックについては、米英及びフランスが一頭地抜けていると思っています。それを悪く言えば、実直さがないからだとか、本音と建て前を使い分けても平然としていられるとか、目的のためであれば手段は選ばないからだなどと言うこともできるでしょう。
しかし、そのようなレトリックをそれらの国民が認めるのは、やはり現実の生活が素晴らしいとは言わないが相対的に好ましいという認識があるからではないかと思います。
自分や自分の息子が死ぬかもしれない戦争を支持するのも、現実の生活を維持したいとか、よりましな生活が手に入るかもしれないという期待があってのことでしょう。
いくらレトリックが巧妙であっても、そのような下地が無ければ受け入れられないと思います。(もちんろ、レトリックの積み重ねが新しいレトリックを受け入れやすくしてきたという歴史経過はあります)

ロシアやイスラム諸国がレトリックに長けていないと思われているのは、近代的価値観と齟齬があることがベースですが、やはり実直さ正直さに由来していると考えています。
これは、日本人にも言えることです。

米英などのレトリックを日本や発展途上国が信じてしまうのは、第一義的に、目に見える経済力&軍事力のせいだと思っています。
かつての英国そして戦後の米国の経済力や軍事力を目の当たりにすれば、それに対抗するために、それを生み出した思想・政治理論・経済理論・科学技術を採り入れようとするのは自然な流れです。そして、いったんそのレトリックを採り入れれば、以降のレトリックも受け入れやすくなります。

何かで読んだのですが、南太平洋の島に製氷機を持ち込んだことで、それまで共同体としてのどかに生活していたその島で、高いアメニティ価値を持つ製氷機の支配をめぐる争いが起きたそうです。

個々人もそうですが、共同体や国家であれば、生存条件や生活条件を高めるために、他を犠牲にすることであっても正義となるのはそうあやしいことではないと思っています。
自分たちがそうでないからこそ、聖者や超俗者に敬意を抱くのでしょう。

「国家破産」ボードでいろいろ書いていますが、どうやっても近代的価値観や近代論理ではうまくいかないという現実が訪れない限り、近代を乗り越えることはできないのだろうなと思っています。そう思いながら書き込みを続けているのは、そのときになんらかの役に立てばいいかなという思いがあるからです。


せっかくの質問形式がありますから、それに応えます。


>1一般的に、「自尊心」というものが観察力や判断力や行動に質的な限界(劣化や不
>適切性)を与える場合がある,とお考えですか?


すべての人(生き物)に「自尊心」を持って欲しいと思っています。
類的で他者依存的な存在ですかが、個は、他の何ものでも置き換えることができない絶対的な存在です。
生と死そして快楽や苦悩も、個のみが受け入れ受け止められるものです。(推察や感情移入はできますが...)

「自尊心」と観察力・判断力・行動の関係については、「自尊心」がどういった内容を基礎としてもたれているかによりますので、必ずしも質的な限界(劣化や不適切性)をもたらすとは言えません。

「空耳」ボードで書いたこと内容ですが、認識について概略的に次のように考えています。(レスのかたちになっているの読みづらいとは思いますが..)


>物理的対象に対する観測的説明で十分なのかという問いに関しては直感的理解もある
>と答えます。人間の認識に限界があると固執されておられるようですが直感により真
>理にいたることも可能です。人間の認識能力に限界があるというのはどういう根拠に
>もとづいているのでしょう?それは論理的に証明されたのでしょうか?その場合そも
>そも人間の定義とは?さらに認識するとはどういう行為なのか?さらに知とは何なの
>か?空間とは何か?時間とは何か?意識とは何かという無限の疑問があらわれます。
>パスカル的な自分があると思うから自分があるを信じておられるのか?

感覚的直感であれ、思惟的直感であれ、思考活動にとって直感はきわめて重要なもので、思考の質的飛躍は直感によってもたらされると考えています。
科学的仮説や新しいパラダイムは、従来的論理の延長線で生まれるというより、従来的論理を踏まえながらも、その枠組みを超える直感を端緒として、その直感の正当性を論理的に追求することで体系化されていくものだと思っています。

「人間の認識能力に限界があるというのはどういう根拠にもとづいているのでしょう?」については、媒介的手段を不要とする直接知が不能だという現実につきます。(対象についての非同時的認識も、媒介的認識であることに拠るものです)

「それは論理的に証明されたのでしょうか?」については、自然的対象認識が光(電磁波)を中心とした媒介的観測(認識)に依存していることで十分だと思いますが...

「その場合そもそも人間の定義とは?」については、生物学的定義と社会科学的定義で異なりますが、認識との関わりで言えば、相互が他者(人)であると認識し、言語(概念)的交通と協働的活動が成立することだと思っています。

「さらに認識するとはどういう行為なのか?」については、他者との相互関係性を持つ人が目的を実現するために行う思考活動と考えています。

「空間とは何か?時間とは何か?」については、不即不離の概念だと思っているので、時空間というかたちでまとめます。(運動のない存在はなく、存在のない運動はないという意味です)
時空間的社会とは、他者との相互関係性を持つ人々がが、対象(人を含む自然)に働きかけることにより目的を実現するために思考を含む活動を行う“場”だと考えています。


>私は仏陀はこうした宇宙の特性を直感(人間の論理をこえるメタ論理)で理解したの
>だと思います。そうであれば修行を積むことでその理解を自分の物とすることができ
>れば煩悩になやむ理由がありません。それが悟りと考えます。つまり私の意見では悟
>りとは論理学の最終形態です。

俗物なので、煩悩に悩むことを悩む必要もないと考えています。

悟りが論理学の最終形態ということについては、直感的には同意できます。


>これから56億7千万年後に、弥勒菩薩が現れて末法の世に苦しむ人々を救うとされ
>ていますが、仏陀はその時点で宇宙の拡大が終わり縮小がはじまると考えたのではな
>いでしょうか?

観測的な宇宙の量的な拡大と縮小については、私の理解の範囲を超えているのでなんとも言えません。

存在(宇宙)の時空間的無限性と時空間的有限性は、等しい概念だと考えています。
色即是空、空即是色です。

全存在が無限=有限であれば、個としての存在も有限=無限と思惟することもできます。
有と無は等価であるとも言えます。


>菩薩自体は、仏より下の存在とされていますが、少なくとも悟りを開いているといわ
>れています。弥勒菩薩とは実は宇宙の意志ないしは宇宙の物理特性を「人格化」して
>表現したのではないかと考えます。宇宙にはたして意志があるのかないのか、これも
>重要なテーマだと思います。

“意志”というものを、法則連続性=運動継続性を含意するものと拡張すれば、宇宙(全存在の活動的関係性)について、“意志”があるとも言えると考えています。

人の意志とは別のものですが、宇宙の“意志”に逆らう意志を実現することはできない、実現できる意志は宇宙の“意志”に則ったものであるという見方は出来ると思っています。

実現できない意志=目的内容を思惟することができるのは、思考のおもしろさだと思っていますし、そのような思考をすることも宇宙の“意志”の範囲内だと思っています。

知性や思考力については、重要な活動力だと思っていますが、感じ取れる快楽に比べればたいした価値があるとは思っていません。
また、どんな大天才揃いであったとしても、ひとの思考力なぞたかが知れたものです。

後からでもけっこうですが、関わりがある書き込みとして次のものがありますので、参照していただければ幸いです。

『Re:こう妄想しています』
http://www.asyura.com/sora/dispute1/msg/118.html

『“悪魔崇拝”とは「自己の知性を過信すること」だと思う』
http://www.asyura.com/sora/bd16/msg/334.html

『Re:悪魔さん、レスをもらってうれしく思います』
http://www.asyura.com/sora/bd16/msg/344.html

『学校教育を受けていないアフガン女性を“無知”と呼ぶ傲慢』
http://www.asyura.com/sora/bd15/msg/607.html

2 客観的にみて、ご自分の中に日本と日本人に対する自尊心がきわめて強く働いている,と観察されますか?

Noです。

私の「自尊心」は、私に代わるものはないという考えを基礎に、私が何かを判断する手段は、このような他者との関係を通じた論理思考や対象的現実から得られる感覚や論理思考しかないと思っていますので、日本と日本人に対する自尊心はありません。
しかし、私がこうして私であることに、父母を含む歴史的日本と日本人が強い影響を与えていると考えています。自分は日本人であるという意識を持っています。

そして、日本と日本人は、他を犠牲にしないで防げるものであれば災厄に陥って欲しくないと思い、他者からはできるだけ不要なら敵意や侮蔑の感情を持たれたくないと思っています。


3.もし上記1と2について肯定される場合、客観的にみて、ご自身のものの見方に一定の歪みや混乱が出てきている可能性を肯定されますか?されませんか?どちらでしょう。
前提条件は抜きにして、ものの見方には一定の歪みや混乱が生じると思っています。
(というか、歪みや混乱から抜け出せないと思っています)

そのためにできるだけ対象的な現実活動を行って修正したいと思っています。


4.良い自尊心と悪い自尊心とが仮にあるとするなら,その境界線はどこにあるのでしょう?

他者との比較で自尊心を持たないことだと思います。


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