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天皇からの自立はもうできていると思います
投稿者 たこです 日時 2002 年 11 月 20 日 16:24:02:

(回答先: 天皇からの、自立へ 投稿者 如往 日時 2002 年 11 月 19 日 18:29:38)

如往さん、レス拝読致しました。 たこです。
真摯かつ鋭いご指摘を戴き有難うございます。如往さんの文章には無駄な箇所が一行もなく、かつそれぞれ内容が濃縮されているため、それぞれのセンテンスへのこちらの回答が膨大になってしまう恐れなしとしません。失礼とは思いましたが、いくつかの文を抽出し、これにまとめて回答する形を取らせていただきます。
>先ずは、「たこです」さんが別の感慨を抱くことになられた原因とその周縁についてご開示いただければ幸いに存じます。

 >さて、私が天皇制の起源に関する議論に敢えて与しようとしないのは(しかし非常に興味を持っています)、過去の日本の支配層やその周辺に及ぶ事柄が、自身の出自を鑑みて余りにも無縁であると観切っているからに外なりません。

>人の心にそうした割り切れぬナイーブな側面があることを全く否定するものではありませんが、内外の峻厳なる他者と対座していくためには余りにも心許なく現実性を欠いた心象風景であると思います。

>しかも日本人の大部分が国家を意識したと云えるのは、政府による大々的なプロパガンダが効を奏し、かつ近代国家成立のエポックともなり得た日露戦争以降で、極最近のことです。

>加えて、おそらくサンフランシスコ条約の締結・発効をもって、当時の日本国民が天皇の戦争責任回避の承認を決断したとする「たこです」さんの見解では、明らかに直接的推理の虚偽、即ち否定なきを肯定と看なすという判断の誤謬を犯されていると考えます。

>それ以後の官僚制からの現実的な自立と天皇(制)からの精神的な自立です。当時既に日本人はそれらを成し遂げるために諸国民を凌ぐほどの十全な能力を携えていたと考えています。

日本と日本人の現状、及びこれからの歩むべき道を模索せんとする時、日本は「世界のあり方を決定付ける戦争に負けた国」である、という点を出発点とせざるを得ません。戦争当事国であった中国は置くとして、満州、朝鮮、台湾などにおいて昨今言われるほどの酷い統治があったとは思いませんし、当時の国際環境下において著しくバランスを欠いた(例えばユダヤ民族の大量虐殺のような)行為があったとは言い難いと考えています。力と力がぶつかり合い一方が敗れ去った、敗れ去った方は占領にまで至るいわば一民族の屈辱とも言える事態を受け入れざるを得なかった。そのように捉えています。歴史にイフはあり得ませんが、もし少なくとも日本が負けない戦争であったなら戦前、戦中に対する評価も今とはかなり異なったものになったと思います。つまりは、「勝てば官軍」的な歴史解釈から人は完全に自由にはなれないと言う事です。

戦争責任とは、何よりもまず日本国民に対する戦争責任であるべきで、その詳細は三百万超に及ぶ戦没者を生み国土を灰燼に導いた事もさることながら、日本の信じる(当時における)正義を敗北によって貫く事ができなかった点にも求められるべきでしょう。将兵は勿論のこと、国民ひとり一人に至るまで玉砕の覚悟ができており、玉音放送がなければ実際に民族の文字通りの滅亡にまで至ったと思われますので、この「敗戦責任」は当然にして重いものです。

東京裁判が仮になかったとしても、戦争指導者らに対して日本国民自らが裁断を下し、責任追及を行ったであろうことは間違いないと思います。しかし、その責任追及は軍官僚を中心とする指導層のみが対象であって、天皇や官僚システムそのものに塁の及ぶものではなかったでしょう。戦犯指定にやや恣意的な面は免れないものの、占領軍による戦争責任の追及とその後の民主改革のほうが日本国民自ら行うそれよりもラディカルであったと思われます。

天皇の戦争責任を問わない日本国民の姿勢には没論理、曖昧さ、もっと言えばだらしなさが幾らかは存在したであろうことは否定しません。国民全てが緻密な論理と深い省察を経て至った結論だというつもりはありません。しかし、もう少し深く考えて結論に至った層も存在したことは間違いないと思われ、彼らの結論も「天皇の戦争責任は問わない」というものでした。以下は私の考えであり、必ずしもこの層と合致した思想かどうかは保証の限りではありませんが、少し触れてみたいと思います。

国民のある一定層は、天皇制そのものが多分にフィクショナルなものであったことに元から意識的であったと思います。生物としての人間が現人神であるはずがない。後発国民国家である日本をまとめあげるための方便として、この種のフィクションを容認してきたものと思います。こうした層は明治憲法下における天皇の政治権力の限界についても知悉していた。ご承知のように、天皇に具体的な政策オプションそのものを発議する権限はありませんでした。上げられたものを裁可するか却下するかというだけの権限でした。また、却下するというのは余程例外的なこととみなされていたようです。つまりは、絶対不可侵の位置付けを与えられながらも、現実的な政治権力は極めて限られていたものでした。この点、例えば絶対君主制下の王権とは明確に区分して理解しておくべきところです。

その一方で、この一定国民層は、文字通りの万世一系という神話には疑問符をつけつつも、天皇家が日本の文化と歴史と伝統の言わば象徴的な存在であることを認めていました。日本の歴史を振り返って直ちに分かることは、天皇が実質的権力を持ちこれを行使した時代は極めて限られたものであったことです。そのような名目的な存在であったことが風雪に耐え存続できた理由でもありました。国土が焦土と化し、それでも国民一丸となって日本の再建に取組まなければならない、そういう事態にあって、失う事のできないものは、日本の文化であり、歴史であり、伝統であったと思います。もう少し卑近な言い方で表現すると、ものの感じ方や考え方、他人との接し方、などにまで及ぶ広範な意味での日本を全否定されるわけにはいかなかったのだと思います。ゆえに、昭和天皇個人の命を救いたいとか、その在位を確保したいという直接的要求よりも天皇制(=日本の文化)という相当抽象化された理念を守ろうとしていたのではないかと推察されます。

以上のような、天皇権力に限界があったとする考え、この国のかたちを保守する志向の二つを通じて天皇の戦争責任問題は回避されたと考えます。その後、天皇制は政治次元からは完全に切り離され、文字通り象徴的存在として国民に意識され、法制上の規定も受けるに至っています。今や天皇制自体が半ば慣習化し、それほど深い意味を見出せなくなって久しくなっています。それでも、日本国民はどこかしらにこの二つの意識を引きずっているところがあると思います。

如往さんの問題意識は極めて西洋論理的というか、物事の白黒をはっきりさせることを以って是とする傾向を感じます。その事自体に異論はないのですが、そうした態度で今、天皇の戦争責任問題に言及することがどれだけ価値のある事かは疑問です。それでなくても次第に失われつつある日本的美徳が、如往さんの議論を浅薄なレベルで早合点した輩によってさらに急速に失われて行く事になるのではないかと危惧します。例えとして適切かどうか分かりませんが、キリスト教徒ひとりひとりが、本当にイエス・キリストの復活を信じているのか、私は疑問なしとしません。既に歴史上の人物になっているとは言え、生物としての生身の人間を現人神と規定しているわけです。しかし、私はキリスト教徒ひとりひとりに向かい、この疑問を投げかけて行く事にあまり意味は見出せません。それぞれが、それぞれの水準で信仰を続けて行けば良いだけの話だと思っています。

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