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Re: 21世紀前期における日本国家のあり方  萬 遜樹 -2
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投稿者 Ddog 日時 2003 年 3 月 16 日 00:46:08:

(回答先: 21世紀前期における日本国家のあり方  萬 遜樹 投稿者 Ddog 日時 2003 年 3 月 16 日 00:38:51)


l 核兵器を持つ・持たないは日本人の覚悟の問題

日本人がなすべきは、独立し責任を引き受けた「大人」となることである。アメリカ、中国、北朝鮮、韓国などからの国際的プレッシャーを、いま目の前にある現実として引き受け、アメリカではなく我が日本が何とかしなければならない問題として真剣に受け止めることである。当然、そのための力も蓄えなければならない。「過去」との訣別の第一歩は当然ながら、日本国憲法の改定、日米安保条約の破棄と新条約の締結となる。たとえ、結局似たような内容になるにしても、どうしても自分たちの基本法として引き受け直しが必要である。以下、衣食住に喩えて、「住」を保障するものとして軍事力とエネルギー政策、「食」はそのまま食糧自給力と経済政策、それに心の「衣」として教育政策を採り上げよう。
まず軍事力だが、米軍なくして成立しない現在の防衛体制はまずい。アメリカとの新条約は双務的で集団安全保障を盛り込んだものとなろうが、自縄自縛の自衛隊を解放し、北朝鮮、そして中国に対峙できる軍事力としなければならない。もちろん、「自衛」のための軍事力でよいのだが、現在の軍事力内容は攻め込まれた後の防衛力であり、予防や抑止ができるものではない。強大化するというより、内容がいびつな軍事力を立体的に再構成することが必要なのだ(注8)。
(注8)このような跛行的な軍事力を持つ国は世界で日本だけだろう。「立体的に再構成」というのは、兵器そのものだけではなく、偵察衛星の配備など予防や抑止のためのシステムを含めたバランスのよい軍事力の構築が必要だという意味だ。

公になれば大問題になり、特にアメリカは絶対反対するだろうが、核兵器の開発も秘密裏に進め、完成させなければならない。核を自ら保有しない限り、いつまで経ってもアメリカの核に頼らざるを得ず、それがアメリカと「同盟国」だと言いながら、実のところ良いように利用されるだけの「保護国」状態に止まらせている。同時に、日本人の自立心の確立を妨げている。核の保有とは単に軍事問題ではないのだ。ウランやプルトニウムは、原子力発電所の使用済み核燃料としてたっぷりある。また、ミサイル・テクノロジーに直結するロケットや衛星の技術もある。要は、日本に自立する覚悟があるかどうかだけなのだ。
基幹となる軍事技術は国家レベルで統合化を図り、かつ国産化(軍備の自給)の志向を強めなければならない。食糧と同様、外国依存過剰は命取りとなり兼ねないからだ。統合化を図らねばならない技術分野は、ロケットや衛星(=ミサイル)、原子力、航空機、船舶、通信、コンピュータ、その他ハイテク関連などだが、これらはすべて日本以外では「軍需」主導の産業である。それが日本の「戦後」では、何の疑念もなく「民需」分野として扱われてきたのだ。
「戦後」は特殊な一期間であった。しかもそれはすでに終わっている。だから、「現在」に見合った内外の「敵」に対する危機管理体制の整備も急務である。いま、日本の都市は全くの丸腰だ。くだくだしい住民エゴイズムなぞ打っちゃって、攻撃や災害に備えた都市防衛計画を策定し、それをただちに実行しなければならない。たとえば、地下シェルターの建設だ。攻撃の可能性は北朝鮮からだけではない。いかなる事態が発生するか予測し難いのが「現在」である。それに、大規模テロの可能性もますます増大している。スパイ活動についても座視することは、独立国家がすることではないはずだ。

l 安全な原子力発電は日本人が生み出せ

次にエネルギー政策である。ご存知の通り、わが国のエネルギーは石油中心であり、そのほとんどは中東に依存(87%)している。今回のイラク問題があろうとなかろうと、またその決着がどうであろうとも、石油はほぼ完全に外国依存(99.7%)であることは変わりない。そういう中で、アメリカの影響力がますます強まりかねないのが今の状況である。結論としては、日本がエネルギーで自立を強める道は原子力発電、それも核燃料リサイクルシステムの完成にかけるしかないと思われる(注9)。
(注9)2000年度では、日本のエネルギーの52%が石油に依存し、原子力は12%である(資源エネルギー庁)。石油危機前の石油依存度は77%(1973年度)であった。

核兵器と同様に、原発を過度に危険視する見方がある。しかし核兵器や原発を毛嫌いしているだけでは、核保有国及び国際石油産業の思うつぼにはまっているだけだ。反原発の過大なプロパガンダは「陰謀」の疑いさえある。確かに、事故を頻発させている旧動燃などの組織や電力会社の運用管理能力は信用できない。しかしそれで尻込みするようでは、墜ちるかも知れないからと飛行機を一切利用しないようなものだ。航空機事故がなくならないように、百パーセント安全なものなぞこの世にない。問題は安全性やリスクのコントロール・レベルにある。日本の国運をかけ、納得できるレベルの安全な原発システムを日本人自身が知恵を絞って作り出していけばよいのである。
ただ、日本のエネルギー問題はこれだけでは終わらない。電気エネルギーは原発からでよいとしても、電力用に回されている石油は今ではわずか7%にすぎないのだ。石油の35%は自動車用のガソリンなどとして消費されている。次に、石油化学製品などの化学用原料ナフサなどに18%、家庭・業務用の灯油などに16%、鉱工業用の重油などに15%が使用されている(以上で91%)。原油輸入元の多元化を図るとともに、自動車用燃料電池などの開発は、国策上からも死活問題である。

l 食糧は自給問題であるとともに日本人の身体の問題

日本の食糧自給率は2001年度速報値(農林水産省)で40%、これは主要先進国の中で最低水準だ。ちなみに、フランスは132%、アメリカ125%、ドイツ96%、イギリス74%(いずれも2000年度)である。食糧自給率は各品目をカロリー換算した総合値なので、食生活全体の中で捉え直さなければ分かりにくい。たとえば、日本はコメだけの自給率では95%だが、食生活(カロリーベース)の中で24%の比重しか占めていない。つまり、コメだけ自給できても仕方がないということだ。
品目別では、豚肉の自給率が55%、魚介類49%、果実44%、牛肉36%、小麦11%、大豆5%、油脂類4%などとなっているが、家畜飼料用を含む穀物全体の自給率では28%にすぎない(飼料用を除けば60%)。その家畜飼料自給率は25%である。日本人の食生活(カロリーベース)で42%の比重を占める畜産物・油脂類・小麦に限れば、何と90%が海外生産に依存している。国難は「油」断ばかりではない。「食」断も致命的だ。それから、家畜飼料自給率の低さがあってこそ、BSE(狂牛病)も日本国内に持ち込まれたとも言える。
食糧自給率は、国産農水産物の生産性やコストなど、対国際競争力の問題であるとともに消費傾向、すなわちパンや肉を中心とした欧米風な食生活の問題でもある。だからとて、日本食を食べろと言ったところで仕方ないだろう。しかし、これは日本人の栄養バランス崩壊(脂肪の過剰摂取、鉄分やカルシウム不足など)にも直結した根本問題でもあるのだ。子どもたちの「心」の問題すら、身体から生じていないとは言い切れまい。後述の教育問題とも併せた「再建」が必要であろう。

▼「グローバル・スタンダード」なぞ要らない
経済政策である。まず重要なことは「バブル崩壊」の後遺症が日本人には未だに大きく残っており、相当な重傷であるということだ。ここでもまた「日本人には薬が効きすぎる」と言わざるを得ない(注10)。「戦後」はインフレ経験しかなく、しかもその最大規模の土地や株価バブルの崩壊で自信喪失し、もうインフレだけはこりごりだという思いに国民だけではなく、超然とあらねばならぬ為政者までがとらわれて、なすべきことがなせていない。
(注10)バブル絶頂期には「日本株式会社万歳!」や「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とインフレ風に叫んでいた日本人は、同じ口で崩壊後は「経済だけが豊かさではない」とデフレ風な「反省」(開き直り)を始めた。今のデフレ不況は日本人自ら進んで呼び寄せ、それを守っているようなものだろう。

「戦後=冷戦」の終了前からキャンペーンが始まり、冷戦後は一挙に推進された経済政策とは何だったかを冷静に想い起こしてみよう。初めはアメリカが押しつけたが、その後は日本人自身が「日本経済つぶし」を行なってきたのだ。輝かしい経済成功にまで導いた当の「日本的経営」を一転して平成不況の真犯人と決めつけ、「構造改革」という名のもと、それを徹底破壊してきたと言える(注11)。「不良債権」は言わばその犯行の証拠である。しかし「日本的経営」が真犯人でないように、「不良債権処理」をいくらしてもますますデフレ不況を深めるだけだ。
(注11)読者には周知だろうが、終身雇用・年功賃金・企業別組合などの「日本的経営」は大企業だけのもので、中小企業にはそもそも妥当しない。また、株式持合や系列取引に至っては、その言葉から言っても無関係なものである。しかしながら、「構造改革」で破壊されたのは日本的中小企業経営なのである。それと、勤労者の生活だった。確かに、冷戦後の「現在」に見合った改革は必要だろうが、それは中小企業や「中流」層を叩きつぶすことではなかったはずだ。

アメリカ基準の「グローバル・スタンダード」が掲げられ、「規制緩和」「市場開放」「金融自由化」などが進められた。「市場万能主義」であり「市場淘汰主義」である。これらは一見、対外的また公平な政策に見えるが、その結果が招いたものは、国内の大企業による中小企業つぶしだった。つまりは寡占化だ。あるいは、究極のコスト転嫁政策「カンバン方式」なぞが典型だが、中小企業へのシワ寄せである。同時に、「中流」国民層や勤労者への社会保障を解除し、解体することであった(注12)。一部大企業や銀行はその犠牲になったが、それはアメリカ資本への貢ぎ物であったことはご存知の通りだ。
(注12)「自己責任」の名のもとの、ペイオフ解禁(破綻銀行の預金の全額保護停止)や人材派遣法の施行(雇用主支配の労働力コントロール=人間の人「材」化)。また、「能力主義」を名目とした賃金カットや解雇横行の公然化など。もし「自由化」によって「選別」され「落伍」した人間が経済合理的に不要だと言うのなら、その人々はどうせよというのか。職業訓練所に行けばよいなぞと気休めを言ってはいけない。この社会から去れということに等しいのだ。

結局、バブル崩壊を契機に、「グローバル・スタンダード」へと時代は変わったとアメリカに思わされることによって、日本経済はアメリカ資本のために日本人が地上げし整地を進める草刈場に化しつつある。そもそも経済とは「観念」の世界である。日本人のための「観念」で十分なのである。「不良債権」は不況期において当たり前のもので、少しも不自然なものではなく「処理」なぞ必要ない。いま必要なのは失業者の雇用である(注13)。そして「グローバル・スタンダード」という幻想を捨て、「ジャパン・スタンダード」を堂々と主張することだ。
(注13)かつてのアメリカの例に倣い、「ニュー・ディール政策」こそがいま必要なのである。要は公共投資である。血迷ったかと思われるかも知れないが、どんどん公共投資をすべきなのである。国家はどんなに国民に借金しても破産することはない。家計構造とは違い、国民の財産の再配分にすぎないからだ。問題は原発と同じで、現状のコントロール・レベルがお粗末で非効率なこと(これを正すことこそ「構造改革」である)だが、実はこれも国民の無責任の結果である。真剣に政治参加(=監視)をしていないから、汚職や非効率を許してしまうのだ。ともあれ、自衛隊や福祉サービスなど国家が拡充を進めるべき事業を全国的に興し、失業者を国家レベルで吸収していけば、不況はやがて好況へと動き出すであろう。なお、日本経済については別途詳論したいと思っている。


l 教育とは学校や子どもの問題ではなく社会の問題だ

最後に教育を論じたい。教育の最大の問題点は、教育が学校や子どもの問題だとして矮小化されていることだ。教育は社会、つまり大人の問題である。大人が子どもをどういう社会人に育てるかという問題である。教育と学習を混同してはならない。教育は教育者の側に立ち、学習は学習者の側に立つ言葉だ。すなわち、教育とは学習者である子どもたちにすり寄って考えるべきことではなく、教育者である大人(「教師」ではなく「社会」だ)が子どもに何を学ばせ身につけさせるかという問題なのである(注14)。
(注14)故に、子どものための「ゆとり教育」なぞ、そもそも問題設定が間違っている。受験についての様々な気遣いも同様で、かえって自発的で自由な受験「学習」をおとしめるものである。「教育=学習」と同一視する者たちこそ、偏差値でしか人間を測れない愚か者である。

教育は文部科学省が言うように、学校や塾が責任を負うべきことではない。子供を持つ家庭、それに子どもを持たない大人も含めた社会が責任を負うべきことだ。そして教育の内容は、教科書などにまとめられた知識や技能だけでなく、社会道徳や礼儀、様々なルールなど社会に生きる精神も学び身につけなければならないのは当然だし、教育の場所も学校内にとどまるものではない。なお、「子ども」とは身につけるべきことが身についていない「大人」も含むもので、企業内外においても必要に応じて教育はなされなければならない。
学校における教育について一言だけ注文をつけたい。それは学校こそ、リアル(現実的)な場でなければならないということだ。社会で生きるためのリアルな知識と知恵を学び身につける場でなければならない。いまの学校は社会と絶縁した「独自法」あるいは「無法」地帯、それか「収容所列島」だ。社会と別ルールで学校を運営してはいけない。むしろ、社会より一歩進んで、社会ではタブーとなりがちなリアルを解読する知恵を教えるような場でなければならない(注15)。そういう知恵を持った日本人を生み出す場でなければならない。
(注15)たとえば、テレビその他のマスコミが社会に喧伝し蔓延する、商業ベースのものの見方の批判など。具体的には、コマーシャルの誘惑通りに食生活を続けると病気になることや、便利なもの(例:携帯電話やコンビニ)の様々な功罪(結果の多元性)など。


l 以上、尻切れトンボ気味だが、ここで筆をおきたい。はなはだ長文となってしまったことをお詫びする。また、後半は今後の展望というより、やや抽象的な現状批判となってしまった。多くのテーマをつめ込みすぎたせいだ。いくつかについては別途、詳論したいと思う。お許しあれ。

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