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アイヌ人は元々農耕をしていたけど、和人から鉄製農具の輸出を止められて、農業ができなくなったから、狩猟民族に戻ったんだよ。
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投稿者 中川隆 日時 2022 年 7 月 25 日 05:11:13: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 


アイヌ人は元々農耕をしていたけど、和人から鉄製農具の輸出を止められて、農業ができなくなったから、狩猟民族に戻ったんだよ。
農業をやっていた時代のアイヌ人は擦文人と言われている:

北海道の時代区分は、縄文時代までは本州・四国・九州を中心とする「本土」と大きな違いはありません。大きく変わるのは「本土」の弥生時代以降で、北海道は続縄文時代と区分されます。その後の北海道は、擦文文化とオホーツク文化の並存期を経て、中世アイヌ期→近世アイヌ期→近現代と移行います。中世アイヌ期の前後で人間集団に明確な断絶はなく、むしろ遺伝学や自然人類学ではその間の連続性が確認されています。

擦文文化は、紀元後700〜1200年頃に北海道と本州北端に分布していました。その生計戦略は、続縄文文化から引き継がれた狩猟・漁撈・採集と一部粗放的な穀物栽培に基づいていた、と推測されています。擦文文化の出土遺物組成に関しては、石器の出土量と器種がひじょうに乏しい、と指摘されています。こうした特徴の背景については、主要な道具が石器から鉄器に代わっていた、と推測されています。じっさい、擦文文化の遺跡からは、刀子(ナイフ)や縦斧・横斧などの鉄器が出土しています。ただ、これらの鉄器は擦文文化集団そのものが生産したのではなく、本州以南の地で生産された移入品と推測されています。擦文文化集団は、続縄文文化に系譜がたどれる在地系の人々によって主に構成されており、現在のアイヌ民族の直接の祖先である、と広く認識されています。

1457年には道南でコシャマインの戦いが生じ、勝利した蠣崎氏が台頭した。蠣崎氏を祖先とした松前藩はアイヌとの交易を独占し、アイヌから乾燥鮭・ニシン・獣皮・鷹の羽(矢羽の原料)・海草を入手し、対価を鉄製品・漆器・米・木綿などで支払っていた。

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北海道における鉄文化の考古学的研究−鉄ならびに鉄器の生産と普及を中心として− 笹田 朋孝
鉄・鉄器の生産には専門的な技術が必要とされ、原料から製品に至るまでに複数の工程が存在している。
北海道では製鉄と鋳造は行われておらず、精錬と精錬鍛冶は時期・地域が限られている。換言すれば、北海道における鉄の技術とは鍛冶の技術である。その中でも鍛錬鍛冶工程が中心であった。そのため、高い鍛冶技術を必要とする鉄器(刀剣や鉄斧など)は、オホーツク文化・擦文文化・アイヌ文化では生産できなかった。本州以南の鍛冶との技術差は埋まることが無く、最終的にアイヌの鍛冶は和人の鍛冶によって駆逐された。

石器が使われなくなることや少ないながらも鉄器が出土し始めることから、鉄器の普及は続縄文文化後半(後北C₂D式から北大式、古墳時代併行)である。ただし鉄器が安定的に出土する段階、すなわち鉄器が本格的に普及する段階は擦文文化(古代併行)である。
擦文文化後期(11世紀ごろ)に鉄器の出土率ならびに一軒当たりの鉄器数が増加する。青森では9世紀後半に鉄器生産の急増に伴い、鉄器の出土も急増している。

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高度な近世アイヌ農耕 遺跡から畝や鉄製農具(朝日新聞) 2008-01-22

 ヒグマ狩りやサケ漁などのイメージから、「狩猟・漁労の民」と見られることが多いアイヌの人々。そんな彼らが、近世以前にかなり高いレベルで農耕を営んでいたことが最近の研究で明らかになってきた。江戸時代の文献などに「畝(うね)も作らず、放置したままの粗雑な農業」と記された姿は、実は現地を支配していた松前藩などによって抑圧された結果である可能性が高いという。

 研究をまとめたのは、北海道開拓記念館の山田悟郎・学芸部長。

 サケや昆布を採り、それらを交易することで、米や漆器、刀、鉄鍋などを手に入れる――。私たちが考えているような、いわゆる「アイヌ文化」は、13世紀末(鎌倉時代後期)に生まれたと考えられている。

 母体となったのは、ほぼ同じ地域に広がっていた「擦文(さつもん)文化」(7〜13世紀)だ。表面にハケ目のある土器を使うのが特徴で、サケ・マス漁のかたわら、大麦、アワ、キビなどを栽培していた。

 山田部長は、この擦文文化を調べていく過程で、アイヌのものと推定される畑が道内各地で出土していることに気づく。「最初の発見は97年。虻田町(現在は洞爺湖町)の高砂貝塚で、土層の断面に畑の畝らしい痕跡が確認されたのがきっかけ。その後、『似たものがうちにも』という報告があり、北海道全域で出土例が増えた」

 現在確認されているアイヌ文化期の畑跡は、高砂貝塚のほか、ポンマ遺跡(伊達市)、オヤコツ遺跡(同)など十数カ所。

 いずれも広さ数1000平方メートルで、幅70センチ〜1メートルの畝が10列程度まとまり、一つの畑を構成している。周辺の集落で発掘された遺物や、畑に積もった火山灰などの年代から、「17世紀以前のアイヌ文化期のものである可能性が高い」という。

 さらに出土した土を洗い、札幌国際大客員研究員の椿坂恭代さんらの協力を得て調べたところ、20カ所を超える遺跡から、大麦、ヒエ、アワ、キビ、ソバ、小豆など、十数種の作物の種子が確認された。

 鉄製の農具も使われていたらしい。鋤(すき)先や鎌などが出土しており、「土掘り棒や木製の鍬(くわ)と併用されていた様子がうかがえる」。

 さらに、「水はけをよくするための畝をつくる技術を持っていたことからみて、近世のアイヌたちがかなり進んだ農業をしていたことは間違いない」と指摘する。

 だが、こうした状況は、文献に描かれたアイヌの姿とは大きく異なる。

 18世紀末(江戸後期)に北海道を訪れた幕府の役人・近藤重蔵は当時のアイヌの農耕について、「木の枝やマキリ(小刀)で土地を耕し、畝を立てず肥料も使わず、鍬や鎌もなく……」と記している。

 一体、どちらが正しいのか。

 山田部長は「1669年(江戸中期)に起きたシャクシャインの戦いを境にアイヌの農業は大きく変質したのではないか」と推測する。松前藩の過酷な支配に抗議して起きたこの蜂起の後、同藩はアイヌに対して刀狩りを行い、農具をはじめとする、鉄製利器の入手を制限した。

 「さらにアイヌの居住区を制限し、その場所を商人の支配に委ねる場所請負制が導入されたことで、アイヌの人々は、過酷な労働に駆り出されるようになります。その結果、従来のような農業を続けられなくなったのではないでしょうか」

 これまでアイヌの生業については漁猟の側面が強調されてきたが、この研究をみる限り、むしろ半農半漁に近かった可能性が高い。

 古代〜中世の植物利用を研究している小畑弘己・熊本大准教授(考古学)は「ひたすら土を洗い、種子を同定するという地道な作業が結果につながった。文献の空白を埋める貴重な成果だ」と話している。

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アイヌというのは13世紀に狩猟民族に戻って以降の呼び名で、それ以前は擦文文化人と呼ばれていたんだ:

禁農モデル 深澤 (1995)
アイヌ社会においての農耕文化は擦文文化期以後アイヌ社会内の欲求により常に進展していたと考えられるにもかかわらず、「意図的なイデオロギー」によってその動きが禁止されるという、

人為的行為によって阻害された結果、実践的な折衝としてアイヌ社会内で再生産され、その現象が変容した文化的要素として認められるようになったと考える。これを禁農モデルと呼ぶ。

1786(天明6)年 佐藤玄六朗の報告
『蝦夷地之儀是迄見分仕候趣申上候書付』

「古来より蝦夷地において穀類を作立候儀は法度の様に相成り」

「先年イシカリと申候所の川上にて、稲を作り相応に出来在候処其段松前え相聞、領主役人より申付候哉、又は商人共の仕業の候哉、籾、種子迄残らず取り上、右作仕候蝦夷ともえは、ツクナイを出す為候由の風聞等之有り」

「田畑は少しも御座無き、去り乍遠方山中の蝦夷共は粟はムンシロ、稗はヒヤバと申、少々宛作り、則見および候処、農具等之れ無き候に付け、草木の間に種子を蒔き置き候のみ御座候得共随分相応に出来立て、夫食に相成候様子にて、其の所々蝦夷は臼、杵等も取り持ちいたし罷申候」

1857(安政4)年 『石狩日誌』
松浦武四郎(1973年丸山道子訳)
「家のそばにはムニノカン(狸豆)、マーメ(いんげん豆)、ムンシロ(粟)、リテアママ(もち粟)、ヒヤハ(稗)などを作っているが、こういう農作業は女の仕事とされている。かれらはまだ鍬を持っていないので、まさかりの側面に木の柄をとりつけて鍬の代わりに使っているが、これは松前藩の方針で、かれらに農業を教えることを禁じているので、運上屋もアイヌには鍬を渡さないためである」

対雁方面では、大根ばかり作っていたので、なぜ穀類も作らないかとたずねたところ、そういう物はつくりたくとも鍬や種が手に入らない

「石狩川中流のトック(徳富)ベツハラの辺りでは場所の番人たちには見つからないように、(見つかると取り上げられるので)住居から少し離れた場所に、まさかりを利用して畑を耕し、いんげん豆、大豆、稗、粟などを作っており」

1857(安政4)年 『蝦夷草紙』
最上徳内
彼の国法にて、蝦夷地への物の種を渡す事を停止なり。其故いかんといふ事を知らず」
「密かに按ずるに、蝦夷人農業に力尽くしては、干魚漁猟の産物も相減じ、請負人の交易も不足し、運上金も相減ぜんとの故なるべし」

耕作面積の縮小
1800年 68.0坪(224.4u)
1858年 33.3坪(109.9u)
(羽田野 1981)

1857(安政4)年 『石狩日誌』
松浦武四郎(1973年丸山道子訳)
松前藩の流言飛語
「アイヌが畑に種をまいたりすると、蝦夷地の神様が怒って悪い病気を流行らせるだろう。そうしたら、アイヌの子孫は絶えてしまうだろう」

「畑などを作ってアイヌの神の祟りで、病気になってしんでも良いというなら作れ、シャモのまねをして畑をどうしても作るというのなら、江戸のニシパのようにお前達もすぐにひげをそって、和人語を使え。
和人語を使うような奴はその名前を書いて弁天様の前で焼いてやる。そうすればすぐに死んでしまうからな」

安斉正人「対談:人類史の可能性」『現代思想』 1990
渡辺仁談
「樺太アイヌなんかも農耕などをうっかり真似してやると病気になるとか、子孫が不幸になるとかそういうことが言われていましたね」
https://www.chikyu.ac.jp/neo-map/file/fukasawa-01.pdf    

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