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尖閣列島とサバニ
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投稿者 中川隆 日時 2021 年 3 月 14 日 17:50:31: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 尖閣は台湾に付属する島なので、台湾が清国領なら尖閣も当然清国領になります。 投稿者 中川隆 日時 2021 年 3 月 14 日 17:06:39)


沖縄から尖閣へ漁船が渡海できる様になったのは明治以降だった
尖閣列島とサバニ
 沖縄の先島(宮古・八重山群島)では、中国名の魚釣台と黄尾嶼は、古来からユクン・クバシマの名で親しまれていた。ユクンとは魚島の意であるから,魚釣島が当時から両国(筆者注 日中両国)の好漁場として知られていた(傍点は筆者)のであろう(奥原敏雄論文「尖閣列島」『沖縄タイムス』一九七○年九月二日号)。

 逆風や逆流や台風などによって、列島への渡海や移住の試みが失敗したことはあったが、こうした事実は、尖閣列島が日本に編入される以前の一時期、すなわち明治二十四(一八九一)年ごろまでであった。

 彼らが列島への渡海や移住に失敗したのは、渡航の時期や季節風、自然環境などを無視したこともあったが、最大の理由は、資本もなく、しかも伝馬船や沖縄で用いられているサバニといったくり船で船で列島に渡ろうと試みたからであった・・・・・・。

 基隆より台湾漁船が列島に赴き,操業をおこなうようになったのは、第一次大戦終了前後のころからのようである
(奥原敏雄論文「尖閣列島の領有権と『明報』論文」『中国』一九七一年六月号)。

奥原氏のこの二つの論文には、おかしな点がある。

 第一のおかしな点は、奥原氏が

「古来からユクン・クバシマの名で親しまれた……魚釣島が……両国の好漁場として知られていた」

というが、それでは古来、先島諸島からどんな漁船で魚釣島に行ったのか。沖縄のなかでも特に貧しい先島諸島の漁民たちは、小さなサバニしか持っていなかったと思う。彼らは人頭税と名子制度に苦しみ抜いており、悲惨な生活を強いられていた。この人頭税は一九○三(明治三十六)年までも残されていた。また古来というからには、五○年や一○○年前のことではあるまい。

 第二のおかしな点は、渡航の困難なユクン・クバシマがどうして先人の人たちに親しまれたのかということである。

実生活と深いかかわりあいのない無人島に、どうして親しみをもったのか。親しみをもつからには、しばしばそれを見て美しいと感じたのか。尖閣列島は決して美しい島ではない。では先島の人たちの生活に豊かさをもたらかしたの
か。尖閣列島が開発されるまではそんなこともなかった。では航路の目標として親しまれたのか。これはありうる。しかし、そのような親しみをもった者は、朝貢船か南方諸国との貿易船の乗組員たちだけであったと思う。そして、それはどごく少数の人たちであった。宮古島の保良は海上交易が盛んなころの重要な港であったが,朝貢船、貿易船のほとんどは、那覇からでて那覇に帰ってきた。薩摩藩が琉球の貿易を牛耳っていたからである。牧野清氏は

「八重山としては、十五世紀の末葉ころから始まった南蛮貿易業者や、沖縄航海に従事していた一部の人々にのみ知られてたいと思われる。それが一般的にイーグンクバジマとして広く知られるようになったのは、古賀辰四郎氏が魚釣島やクバ島で事業をはじめてからであるようだ」

といっているが筆者もそう思う。それは決して古来からではない。一九六九年になっても尖閣列島は「交通の便がないために普通に人々が行くことができない、彼方の夢の島」(「尖閣列島標柱建立報告書」一九六九五月十五日)であった。

 第三のおかしな点は、尖閣列島への渡海や移住の試みに失敗したというのは、一八九一(明治二十四)年ごろまでであったというが、一八九三(明治二十六)年には伊沢弥喜太氏が渡航したが、帰路台風に遭って福州に漂着している。伊沢氏は汽船で渡ったわけでなくサバニか伝馬船で渡ったものであろう。

 では、沖縄にはどんな船があったのか。

 マーラン船=これは中国から造船技術を学んで造られた船で、朝貢や海外貿易に使われた三本マストの帆船である。中国のジャンク船に似た船である。帆はガマを織ってつくったガマ帆であった。

 山原船=近代になってから、沖縄本島の北部の山原から木材や薪を運ぶために、マーラン船の小型のものが造られた。これが山原船である。一八七九年の廃藩置県後も山原船は国頭地方の住民にとって、唯一の交通機関、輸送手段であった。

 サバニ=これはくり船といわれる。一八九一(明治二十四)年までは、日本には動力付きの漁船は一隻もなかった。そして全国の漁船のうちくり船は二・一%で、沖縄には二、三一九隻のくり船があった(全国のくり船数は六、二五一隻)。糸満のサバニは船足は非常に速いが、ひっくりかえり易いものである。トカラのくり船は頑丈で安定していたが、そのかわり糸満のくり船のような操縦の軽快さを欠いていた(「九州・沖縄篇」『風土記日本』平凡社刊、九四〜一○七頁)。沖縄に石油発動機ができたのは一九一一(明治四十四)年ごろからである。

 フィリピン型漁船=長い棒を横に出して、船の安定を保つようにしたもの。

 和風型=沖縄本島以外の島々で、初めて沖縄本島などを巡航できる船を造ったのは宮古島である。これは本土から流れてきた船大工によて造られたもので、艫には舵もついており日本の帆柱をもっていた。宮古島から首里王朝へ朝貢船につかわれた(司馬遼太郎著『街道をゆく6』一三二〜三頁参照)。

 一八八二(明治十五)年以降、田代安定、赤堀廉蔵、笹森儀助氏らが沖縄探検をおこなっている。このうち田代安定氏は三回探検し、一八八五年に第二回目の探検をおこなったが、西表島から与那国島に渡るのに、サバニでは渡れなかった。やむなく彼は、西表から四〜五○キロメートルの波照間島に渡った。それにはサバニ二隻を横に並べて、これをくくりつけてようやく渡った。サバニでは、西表島から七○キロメートル離れた与那国には、渡れなかったのである。だから宮古、八重山などの先島諸島から百数十キロメートルも離れた魚釣島に、魚をとりにゆくのは非常に困難であった。

 一九六八年現在で、沖縄の一トン未満のくり船と一〜五トン級沿岸漁船との合計は、沖縄の全魚船数の九○%五〜五○トンの近海漁船は八%、五○トン以上のものは二%である。(『日本の文化地理』講談社刊、第一七巻二六六頁)。

 ところが魚釣島周辺は、台湾漁民にとっては大きな利害関係がある。一九五○年代の末ごろから台湾漁船の数が急激に増え、魚釣島周辺は台湾漁民の好漁場で、年間三、○○○隻の漁船が漁撈に従事しているという。台湾漁民のうち、尖閣列島周辺に出漁しているのは宣蘭県の漁民がもっとも多く、宣蘭県にある一、三○○余隻のうち三○○余隻が操業していた。尖閣列島周辺での台湾の水揚量は、一九五八年で一万七、○○○トンであったという(一九六八年の沖縄全体の水揚量は三万三、四二三トン)。だから宣蘭県漁民にとっては、生活がかっているわけである。

台湾漁民は尖閣列島に夜間碇泊できなくなると、水揚げが激減することになるという。しかし最近でも沖縄から尖閣列島周辺に出漁する漁船はいない。奥原教授は日本が台湾を支配していた当時の台湾漁民の魚釣島周辺での漁撈は、国際法的には日本人としての行為であったといっている。しかし問題は、台湾漁民の方が

尖閣列島に深いつながりがあったということである。

尖閣列島は、琉球人にとって古来から明治になっても、小さなサバニで危険を冒し、何日もかけて、冷凍も発達していない時代に、魚とりにいかなければならない好漁場ではなかった。琉球人の生活にとって尖閣諸島は、あまり関係のない、まさに「夢の島」だったのである
http://senkakujapan.nobody.jp/page067.html  

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