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泣生・日テレ・死亡診断書が原因、ワクについては濁す報道。息子はワク死亡に激怒した可能性がありそうである。
http://www.asyura2.com/21/cult35/msg/648.html
投稿者 ポスト米英時代 日時 2022 年 1 月 29 日 15:55:44: /puxjEq49qRk6 g3yDWINnlcSJcI6ekeM
 

ブログを読むと、ワク死亡を疑う遺族と疑わない遺族の話が多数あり、遺族が医師に詰め寄っても相手にしてくれないとか、厚労省に自分の家族がワク死亡にカウントされていないと問い質す遺族も散見されるが、今回の事件はその線もありそうである。  

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コメント
1. 佐助[9052] jbKPlQ 2022年1月29日 19:32:43 : drh17q7fFQ : anQyZXg5bFZ4TlE=[113] 報告
猟銃をもてる人は,嘘つきの政治家とは違う,母が亡くなるまでいい人だったと思う。しかし医師もいい人だったはず。

私にはワクチン関係で亡くなった親戚と知人が4人もいる。全部「因果関係不明で肺炎や癌や脳出血や老衰」で済まされている。酷い話です。

ワクチン接種死犠牲者は幾らかもらえるが,医師は「ワクチン接種と死亡の因果関係不明」の診断書,実験の補償金ゼロ

そして医者は接種すればするほど、より多くのお金を得る仕組み!一日10万円も貰える

2. 西太后対伊藤博文[1] kLyRvo1Akc6IyZOhlI6Vtg 2022年1月29日 22:48:31 : RqK3kUgUYs :TOR MHFPc1JSZm1uVUU=[73] 報告
Brouillard Noir en Kisarazu
2022-01-29 00:59:20

L'université de Dobunshoin était dirigée par l'ancienne armée. Il est connu comme une institution de formation à l'espionnage, pour les personnes concernées.
(機械翻訳:同文書院大学は旧軍によって運営されていました。これは、関係者のためのスパイ活動の訓練機関として知られています。)

27日に起きた2つの事故と事件、おそらくこれらは偶発的に起きたものではないでしょう。あの組織が動いた形跡が見られます。

最後に掲載した写真は26日に私が現地で撮影したものですが、それぞれがどう関係するのか、私の推測を次のメルマガではお知らせしたいと思います。旧軍・自衛隊・警察関係者必読です。

3. 愛知大学東亜同文書院[1] iKSSbZHlineTjIifk6@Vto@RiUA 2022年1月29日 23:02:18 : ufrEL4tJhV :TOR QWVzb09pMFcxZ2c=[57] 報告
愛知大学東亜同文書院
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=1920x400:format=jpg/path/s07327c500f982886/image/i7d67729e8ffd0c27/version/1533550440/image.jpg
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=1920x400:format=jpg/path/s07327c500f982886/image/ic5636fc3415b9ada/version/1533550440/image.jpg
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=1920x400:format=jpg/path/s07327c500f982886/image/i8f61c81f7b9b252e/version/1533550437/image.jpg


https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2009-01-23

ベトナム解放闘争と下落合・東京同文書院。 [気になる下落合]


https://blog-imgs-98-origin.fc2.com/i/i/y/iiyama16/201611152119325a6.jpg

上海にあった東亜同文書院


http://iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-8475.html

東亜同文書院の資料集が出版される

東亜同文書院では学生が中国語や中国文化を現地で徹底的に学び、卒業論文として6〜7人のグループで中国各地に調査旅行をして報告書を作成するという実践を重んじた教育であった。

これらの報告書は軍部からの要請で作成されることもあったため、中国では東亜同文書院はスパイ養成学校のように見なされている。確かに東亜同文書院の卒業者にはアヘン王として知られる里見甫や、満鉄調査部で尾崎秀美やゾルゲと共に共産党のスパイとして活躍した中西功など情報関係で活躍した人物が少なくない。

私は学生時代に新宿区上落合の学生寮に住んでいたことがあるのだが、最寄りの目白駅の近くに近衛篤麿の旧宅と碑文があり東亜同文書院の設立についても書かれてあったのを思い出した。目白駅周辺には宮崎滔天や川島浪速など中国と関係の深い人物の旧宅もあり、彼らの交友や関係に思いを馳せながら街路を歩いたものだった。

4. 岸田吟香と宝塚[1] it2TY4vhjYGCxpXzkss 2022年1月29日 23:06:35 : XxzTeJc1es :TOR TTBYbmF5RmMuRzY=[8] 報告
https://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/Tung_Wen_College.html

「東亜同文書院大学(とうあどうぶんしょいんだいがく;东亚同文书院、The Tung Wen College)は、東亜同文会[東亞同文會](現在の「霞山会」)が設置した中華民国上海市に本部を置いていた日本の私立大学である。 1939年に設置され、1945年に廃止された。大学の略称は東亜同文書院」ウィキ日語)

1890 荒尾精、9月上海に日清貿易研究所を設立し、日中貿易実務担当者の育成に着手。日清貿易研究所(1890-1893)は彼の死後設立された東亜同文書院の前身

1898 それぞれ別組織であった東亜会と同文会及び「興亜会 (亜細亜協会)」を始めとする既存のアジア主義諸団体が合体して「東亜同文会」が東京・赤坂溜池に設立

1899 日本の東亜同文会によって中国(清朝)南京城北に南京同文書院が設立。初代(および3代)院長の根津一(Hajime NEZU, 1860-1927)

1901 南京同文書院の閉鎖に伴い上海へ移設されて、東亜同文書院大学の前身となる高等教育機関東亜同文書院が設置された(「上海同文書院」の通称)

1902 民間有志の拠金や日本政府の補助金を得て、中国からの留学生を対象とする東京同文書院が東京府東京市神田区に設置される。

1929 6月日犬養毅、頭山満講演。

1946 3月東亜同文会解散。4月上海に残留していた学生・教職員が帰国。5月に本間は関係者を集め新大学の設立を決議する。

6月には新大学設立事務所を豊橋に設置した。新大学(愛知人文大学)の学長には、当初本間が有望視されていたが、本間自身が「多くの青 年学徒を戦地に送った」責任があるとして、固辞。東亜同文会の理事を務めていた枢密顧問官の林毅陸前慶應義塾総長に白羽の矢を立てた。就任の交渉には本間 自身が出向き、「学生の将来に対する責任」を訴えて説得。この言葉で林の心は動かされ、承諾の返事が引き出されたという

11月15日 大学令による愛知大学の設立が認可。この時の文部大臣は一高・東大の同級生であった田中耕太郎(1890 -1974)であった。なお、新大学設立に際しGHQから「東亜同文書院大学そのままの大学は認可しない」との条件が付けられ、本間は「新大学(愛知大 学)は東亜同文書院大学とは無関係」との声明を出さざるをえなかった。教職員も新たに書院大学の関係者を採用することができなくなり、外地にあり同じく閉 鎖を余儀なくされた京城帝国大学、台北帝国大学の関係者を集めることにより人員不足を克服


https://note.com/yukiomatukawa/n/n062a778c236f

東亜同文書院

松川行雄(ストラテジスト/小説家)

2020年2月11日 23:20

かつて戦前の上海は、アジア最大の都市だった。世界中の悪徳、不潔、堕落の集積回路でもあったが、東京など吹けば飛ぶような存在でしかなかった。

フランス租界と各国の共同租界が中心部を占めており、事実上無法地帯だったから、逆に言えば最大限の自由がそこにあった。

三井物産などは、本社を上海に移す予定だったくらいだ。太平洋戦争が始まったために、この計画は頓挫したが、今でも当時の三井物産上海支店のビルは、裏通りに面して存在している。

少なくとも、わたしが90年代に最後に訪れたときにはまだあった。まだあるだろう。エントランス外壁上部に、「三井洋行」とくっきり彫られていたの覚えている。

その上海に、日本でも最もグローバルな最高学府が存在した。東亜同文書院だ。

東亜同文書院大学は、1901年(明治34年)5月26日、東亜同文会によって清朝時代、上海に設立された日本人を対象とする高等教育機関東亜同文書院を前身とする。

中心は商務科であったが、その他に政治科、農工科、中国人を対象とした中華学生部も一時設置されていた。

1921年(大正10年)に専門学校に昇格し、1939年(昭和14年)12月には大学に昇格。

1945年(昭和20年)8月、日本の敗戦に伴い学校施設を中国に接収され、翌年学生、教職員の帰国によって閉学した。44年間のうちに、5000人の有為の学徒を世に送り出した。

学生の大半は各府県が学費を負担する府県費生であったが、外務省や南満州鉄道、商社からの委託生ほか、私費生も一部受け入れていた。

しかし末期には日本軍が学生に対し情報提供を依頼するケースもあり、これらの事情があいまって大旅行を「スパイ活動」と見なす中国側の疑惑を呼んだ。

逆に、中国共産党の勧誘も密かに進み、学生の間には共産主義を標榜し、学内外でビラ配布など、反戦反日運動に身を投じて捕縛されるものも続出した。

実際、校風は自由だったのだ。マルクスなど共産主義の関係蔵書も図書館には豊富にあり、規制は無かった。

5. 東京同文書院・目白中学[1] k4yLnpOvlbaPkYlAgUWW2pSSkoaKdw 2022年1月29日 23:14:03 : VZddkewniU :TOR WGl3UWlyWmZ0aWc=[1] 報告
https://www.afpbb.com/articles/-/2535049

清朝・光緒帝の死因はヒ素中毒だった、最新調査で判明
2008年11月4日 10:15 発信地:北京/中国

>光緒帝は
>日本の明治維新に倣い
>政治制度の改革を試みたが、
>これを嫌った伯母の西太后により幽閉され、
>1908年に38歳の若さで世を去った。

>その死因については諸説あり、
>反改革派によって暗殺されたとの見方も根強い。


https://core.ac.uk/download/pdf/268152633.pdf

目白にあった東亜同文書院

「東京同文書院・目白中学」

目白中学は明治四十二年(1909年)に設立されました。
侯爵という爵位を持った人が校長という学校は、男爵の
神田乃武が校長の正則中学を除けばこの目白中学だけでした。

申請書に設立者、細川護成他一名とあります。
他一名というのは柏原文太郎です。

中央大学がこの歴史を大事にしてくれるなら、中大付属高校は
来年、万100周年になるわけです。

「東京同文書院・目白中学」と書いてある年表を追ってみると、
初代の校長は細川護成、旧熊本藩主細川護久の長男です。
ただこの方はいわゆる正妻の子ではありません。

翌年に柏原文太郎が生まれています。
空港のある成田市の新勝寺、あの近くで生まれたのです。

数年前に成田市が柏原を顕彰する意味で、これは成田市の広報誌
ですけれども、こういうものを市内で配ったようです。

「日中親許と東南アジア民族の自主独立に生泌をかけた政治家」

こういう見出しに最初は誇張があるのではないかと思ったのです
けれど、誇張どころではなく、彼の活動を調べてみると命をかけて
いる、そういう人ではないかと思います。

彼は成田の寺台というところに生まれて、早稲田の前身の束京専門
学校に入ります。この人が早稲山の出身であるということから、これ
から出てくる人脈は早稲問の人間が非常に多いのですね。

早稲田の学生のために舎監をしたり、英語の本を訳したりとか、大変
な秀才で、そういう彼の才能を見込んで大隈重信とか犬養毅が認め
重用します。

柏原は日本に亡命して来た康有為を今の早稲田大学の近くに家を借りて
やったりして助けています。康有為はある意味、あの孫文以上の人物
なのですね。柏原と康有為の交流は生涯続きます。

柏原の交友関係では、ヴェトナムの独立の志士ファン・ボイ・チャウも
注目されます。彼はヴェトナムの孫文と言われるような人です。

当時の清朝が日本に官学生を派遣するようになったのは、日清戦争で
日本に負け、悔しいけど日本に学ぽうということで、中同人の中にも
日本に留学生を送ろうという動きがありました。

個人的なことですが柔道の嘉納治五郎に少し関心があります。嘉納さんは
柔道・柔術だけではなく、大変な教育者だったのですね。教えることが
大好きな方だったようです。それで留学生のための学校(塾でしょうけれ
ども)、亦楽書院というのをつくるんですね。亦楽、もしこの中でちゃん
と読み方を知っている方がいらしゃいましたら教えてほしいのですけれど、
一応「じらく」と読んでいます。なぜ「亦楽」なのかと思ったら、いかに
も嘉納さんらしいのですが、「朋あり遠方より来る、亦楽しからずや」から
取ったようです。そこに、ほんの数人の学生を入れて。

それがどうも清国(中国)人の教育機関の嚆矢(初め)だったようです。

それが明治二十九年で、その二年後、中国は大変な時代になりました。
戊戌(ぼじゅつ)の変法、光緒帝が何とか中国も「明治維新」をやろうと
したのですが、悪名高い西太后がこれを失敗に陥れます。変法派の康有為、
梁啓超らがいわば中国の明治維新をやろうとした。この梁啓超というのは
大変な方で、学者としても超一級だと忠います。

その二人が変法派であるということで西太后に追われて日本に亡命して
きます。

それを柏原文太郎が親身になって守ってあげた。戊戌の変法は西太后の
クーデターで弾圧されるのですけれど、やはり中国の近代化をどうしても
なさねばというので洋務派(中体西用)の張之洞(両広総督)は日本への
留学を勧め、そのために近衛篤麿に会います。

「中国の子供を教育してくれないか」という.張之洞・近衛会談で、東亜
同文会は東京同文書院をつくることになります。
張之洞から頼まれた子供を受け入れて、東京同文書院は1899年(明治
三十二年)にできたわけです。

6. 吟香の卵かけご飯[1] i@GNgYLMl5GCqYKvgrKU0Q 2022年1月29日 23:33:18 : LZl1hRshiw :TOR VUZLWS5ZcHJMNW8=[9] 報告
東亜同文書院大学 (旧制)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

東亜同文書院大学(とうあどうぶんしょいんだいがく、英語: The Tung Wen College)は、中華民国上海市に本部を置いていた日本の私立大学である。1939年に設置され、1945年に廃止された。大学の略称は東亜同文書院。

大学全体
1899年(明治32年)、日本の東亜同文会によって中国(清朝)南京に南京同文書院が設立されていた。この南京同文書院の閉鎖に伴い上海へ移設されて、東亜同文書院大学の前身となる高等教育機関東亜同文書院が設置された。こうした設立経緯などの都合から、東亜同文書院を上海同文書院と通称することがある。

建学の精神(校訓・理念・学是)

期するところは各自通達強立、国家有用の士、当世必需の才を為すに有り」としたことは、陽明学的な実用主義的立場が重視されていたことを示す。東亜同文書院では儒教の経学を道徳教育の基礎にすえるとともに、簿記などの実用的な学問を重視した。

設立前史

岸田吟香の援助を受け漢口で活動していた荒尾精は、1890年(明治23年)に中国貿易実務者を養成するための日清貿易研究所を上海に設立した。 しかし同所は1894年(明治27年)の日清戦争勃発のため閉鎖を余儀なくされ、荒尾は1896年(明治29年)に台湾訪問中に急病死した。 1898年(明治31年)に結成された東亜同文会は、1899年(明治32年)11月、南京に南京同文書院を設立、城内王府園に分院を置いた。荒尾の同志であった根津一を院長として、医学士の佐々木四方志を幹事に据えて、日本人・イギリス人・中国人など各国の講師を招聘、法律や経済、文学などの分野と英語・日本語・中国語などの語学の授業を行っていた。

しかし、義和団の乱によって、近隣のキリスト教会など周辺地域の治安状況が悪化すると、存続不能に陥ったことから分院を閉鎖して、職員や学生とともに上海へ移転することになった。1901年(明治34年)に上海で新たに根津を院長とする東亜同文書院が設立されると南京同文書院はこれに統合された。

岸田吟香
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

深川の妓楼の箱屋、湯屋の三助など下男として糊口をしのぐ。ほどなく妓楼の主人となり吉原に住むようになり、このころ、きままに暮らすをもじり「ままよのぎん」と名乗っていたが、転じて「銀次」となり、仲間内で「銀公」と呼ばれるようになったことから「吟香」と称するようになったという。また、その字面は陸游の詩の一節、「吟到梅花句亦香」からとったものであるともいう。

1863年(文久3年)4月、眼病を患い、箕作秋坪の紹介でヘボンを訪ねる。その後、ヘボンが当時手がけていた『和英語林集成』の編纂を手伝うようになる(ちなみに『和英語林集成』という題名は吟香が命名したとされる)。同時期、ジョセフ・ヒコの元で英語を学び、外国新聞を飜訳する『海外新聞』を発行する。

1866年(慶応2年)、『和英語林集成』の印刷刊行のためにヘボンと上海へ渡航、翌年5月までの9カ月を美華書館で印刷、校訂につとめた。この美華書館は、アメリカ長老会が1860年に上海に進出・設立した印刷所で、第6代館長ウィリアム・ギャンブル (William Gamble) のもと、当時アジア最高の印刷所であったが、片仮名の活字がなかったために吟香の版下に基いて鑄造しなければならなかった。1867年(慶応3年)5月、辞書は完成し、7月に横浜の居留地で発売された。同年日本へ帰国すると、まもなくヘボンより処方を教授された眼薬「精リ水」の販売をはじめた。

1873年、東京日日新聞に迎えられ主筆として活躍する。台湾出兵の際には初の従軍記者として1874年4月13日赴き『台湾従軍記』を連載、読者の好評を博した。

1877年8月18日に東京日日新聞発行所である日報社を退社して9月銀座に楽善堂を開き売薬業に専念する。1880年、中国に上海に渡り楽善堂支店を開くと販路を各地に拡げる成功を収めた。

商業面で成功を収める傍ら、岸田は日中間の将来を考え始める。当時、中国各地に販路を拡大していた楽善堂には、大陸で活動することを志す人々が集まっており、岸田は彼らの活動を支援した。支援した人物の中には荒尾精がおり、日清貿易研究所や東亜同文書院の設立に中心的な役割を果たすようになる。

妻勝子とは子宝に恵まれ、7男5女をもうけた。長男銀次は吟香より先に没し、次男の艾生が吟香の名を継いだ。第9子、四男劉生は洋画家であり、その下の弟岸田辰彌は宝塚歌劇団創設期の演出家である。


岸田辰彌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

岸田 辰彌(きしだ たつや、1892年9月 - 1944年10月16日)は、宝塚歌劇団の演出家、オペラ歌手。東京市銀座生まれ。

宝塚歌劇団で日本初のレビュー『モン・パリ』を作った。父親はジャーナリストの岸田吟香、兄は洋画家の岸田劉生。妻は宝塚歌劇のスターだった浦野まつほ。

エピソード
日米開戦後、レビュー視察などで西洋をよく知る岸田は息子に向かって「日本が負ける。日本はアメリカの力を知らなさすぎる。戦争は絶対にいかん」と断言したという。晩年は宝塚歌劇に迫り来る軍国主義に創作意欲はなくなり、「今は一行も書けない。戦争の脚本は書けない」と息子に打ち明け、家にこもり酒に溺れ、終戦の前年となる1944年10月に他界する。皮肉にも最後の作品である『満州より北支へ』は国策物であった。

7. 2022年1月30日 21:50:51 : 40gtGYJkDE : OXFjcW4yTjJxSy4=[87] 報告
なりほど、それがありそうだな。死因は何だったのか。
8. 2022年1月31日 08:49:49 : puuuDGkhjg : MHZ2RTBiVFlWc0U=[11] 報告
2以降、東亜学院の話が続くが、投稿文のタイトルとどう関係するのか。

意味のあるコメントをすべきだ。

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