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小野田寛郎を英雄扱いしてきただけでも大概だが、今度はその嘘を世界にまで広めるのか?
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投稿者 中川隆 日時 2021 年 7 月 26 日 19:40:37: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

2021-07-18
小野田寛郎を英雄扱いしてきただけでも大概だが、今度はその嘘を世界にまで広めるのか?
https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/07/18/105707

映画『ONODA』がカンヌでスタンディングオベーションという惨事


1974年3月、フィリピン・ルバング島のジャングルに30年潜伏していた小野田寛郎元陸軍少尉が帰国した際の歓迎ぶりはすさまじいものだった。

政府が彼のために日航特別機を用意したことから始まり、機が羽田に着陸する30分前からNHKは特別番組の実況中継を開始、小野田が降りるタラップの下には百人近い政府関係者が並び、またそれ以上の数の報道陣がカメラの放列を敷いていた。

まるで戦勝国の凱旋将軍が帰国したかのような扱いである。

小野田が家族のもとに落ち着くと、今度はその手記の版権をめぐる争奪戦が始まった。最終的に講談社が争奪戦に勝利し、出版されたのが小野田の手記『わがルバン島の30年戦争』(1974年)である。

それから47年後の今年、カンヌ映画祭でこの小野田の「戦い」を描いた映画『ONODA』(アルチュール・アラリ監督)がオープニング上映され、熱烈なスタンディングオベーションで迎えられたという。[1]

 本作は、太平洋戦争の終戦後もフィリピン・ルバング島の森林で、終戦を信じられないまま30年間残り続けた小野田寛郎元陸軍少尉の実話を映画化したもの。フランス人のアラリ監督は、津田寛治、遠藤雄弥、イッセー尾形ら日本人キャストと日・仏など国際的スタッフの混成を指揮しながら、小野田少尉が島に派遣され、そこから驚くべき軌跡を辿る様子を、キャラクターの人間性に焦点を当てながら描く。

 スクリーン・インターナショナル誌が、「小野田の日本軍への献身は戦争の愚かさと残虐さを浮き上がらせるものの、彼の揺るぎない信念はそれ自体が何かしら美しさをそなえている」と評するように、人間ドラマの側面が評価されている。

(略)

 津田は子ども時代にテレビで小野田さんの帰還を見ていたことに触れ、「演じるにあたって資料を読み、あの時代に大和魂を日本に持ち帰ってきた人だと知り、感動しました。だから誇りをなくさないように演じようと思いました」と語った。(略)

この映画の原案はフランスで出版された小野田の自伝“ONODA 30 ans seul en guerre”(Bernard Cendoron著)[2]だそうだが、 小野田の自伝である以上、その内容の骨子は手記と同じだろう。

問題は、この手記の内容が嘘だらけだったことだ。


ゴーストライターが暴露せざるを得なかったほどひどい手記のデタラメ
30年間、文章を書くどころかろくに会話もしていなかった小野田に手記など書けるわけもなく、『わがルバン島の30年戦争』にはゴーストライターがいた。作家の津田信氏である。

津田氏は1974年4月から約3ヶ月間、伊豆にあった講談社社主の別邸で小野田と寝食を共にして聞き取りを行い、小野田の語った体験談を手記にまとめた。小野田の生の発言と、その内容を脚色せざるを得なかった事情を最もよく知る人物である。

津田氏は後に、小野田の嘘を告発する『幻想の英雄 ― 小野田少尉との三ヵ月』を書いている。

ゴーストライターが名乗り出て内幕を暴露するというのはタブーなのだが、津田氏はそうせざるを得なかった理由をこう述べている。[2]

 小野田寛郎の「手記」を代筆して以来、私は後ろめたさにさいなまれつづけてきた。明らかに事実とちがうことを知りながら、代筆者という立場上、事実通りに書くことができなかった箇所がいくつかあり、その結果、「手記」の読者に、間違った小野田寛郎像を抱かせてしまったのではないか、という後ろめたさである。それが私を責めつづけた。

 「人がどのような小野田寛郎像を持とうが、それはその人の自由だ、単なる代筆者にすぎないお前が、そんなことまで気にやむ必要はない」――私は後ろめたさをごまかすために、何度も自分に言いきかせた。(略)しかし、日がたつにつれて私は、私の見た小野田寛郎の姿を、私の知り得た事実を、このまま自分の胸のなかだけに蔵っておくことに、かえって堪えがたくなってきた。

 ゴーストライターが自ら名乗り出ることは出版界のタブーである。私があえてその禁を破ったのは、もしこのまま口をとざしていたら、一生この後ろめたさを持てあますばかりでなく、間違った“小野田伝説”が語りつがれるおそれがある、と思ったからにほかならない。いわば本書は、私の“懺悔の書”でもある。そして、ついでに言えば、もっとも書きにくいことこそ書かねばならないのが物書きの存在理由だ、と私は思っている。

小野田はとっくに戦争が終わったことを知っていた
小野田手記によると、彼は「救出」される直前まで、戦争は終わっておらず、日本は連合軍と戦い続けていると信じていたことになっている。手記で小野田は、兄の呼びかけを聞いても、捜索隊が残していった新聞や雑誌を見ても、すべて謀略による偽情報だと判断して信用せず、最後に単独で探しに来た鈴木紀夫青年と出会い、彼の口から改めて敗戦を聞いたときも、「百パーセントのうち、九十九パーセントは信じなかった」[3]と述べている。

しかし、これは嘘である。津田氏はこう書いている。[4]

 小野田寛郎は本当に敗戦を知らなかったのか、なぜ肉親の呼びかけにも応じなかったのか――「手記」の焦点はそこにあり、私が代筆を引き受けた理由もそれを知りたかったからだ、とは前にも述べた。

 しかし、小野田手記を読んだほとんどの人が、肝腎かなめのこの点について結局は納得がいかなかったのではないか、と思う。なぜなら、代筆者の私自身が納得のいかぬまま、適当にごま化してしまったからである。

 むろん私は、彼の話で腑に落ちないところは何度も問い返した。自分でもしつっこいと思うほど念を押した。だが、敗戦認識についてはいくら訊いても彼の説明は矛盾だらけで、むしろ、聞けば聞くほど疑惑が生じた。

 正直、私は頭をかかえた。彼に代わって手記を書く私がそもそも納得できないのだから、そのまま書けば読者はますますわけがわからなくなってしまう。このときほど私は、代筆を引き受けたことを後悔したことはない。できることなら、おりたかった。が、すでに連載がはじまっており、今更、やめるわけにはいかなかった。当時の私には、彼の矛盾だらけの話を何とかつぎはぎして、適当につじつまをあわせるより他に途はなかった。私は内心、冷汗をかきながら、もっともそうな理屈をこね、舞文曲筆を弄した。この点、まことに慙愧に堪えない。

――なぜあのとき、彼の話をそのまま書かなかったのか。書いておけば小野田寛郎が命令を守り抜いた“最後の武人”でも“英雄”でもないことを世間に知らせることができたはずだ。

津田氏の言う「彼の話」の主な部分を要約すると、次のようになる。[5]

1959年に捜索隊が残していった肉親からの手紙や写真入りのビラ、大量の新聞(約4ヶ月分)を読んでも、戦争が終わったとは思わなかったのか?
→親兄弟の手紙や写真も敵の謀略であり、我々の戦意破砕をねらう戦術だと思った。日本の新聞も我々をおびき出すためにアメリカ軍の謀略機関が作った(アメリカにとって都合が悪い部分を差し替えた)ものと判断した。

新聞には「皇太子ご成婚」の記事がたくさん載っていたはず。戦争中にこんなお祭り騒ぎはおかしいと思わなかったのか?
→日本が富み栄えている証拠だからむしろ喜んだ。広告からもいろいろな品物が豊富に出回っていることが伺えて、日本は戦争を有利に戦っていると考えた。

新聞には皇太子妃(美智子)が民間出身と書いてあったはず。皇族でも華族でもない皇太子妃など大日本帝国では考えられないはずだが?
→新聞を読んで、日本は民主国家になったことが分かったから、おかしいとは思わなかった。

日本が民主国家になったのなら帝国陸海軍も消滅しているのでは?
→昔の軍隊はなくなったが、それに替わる組織ができて、まだアメリカと戦っている。

それは自衛隊のことか?
→自衛隊は国内向けの武装警察で、戦っているのは戦争請負業みたいな別の組織。日本は民主国家になったが、大東亜共栄圏確立のため、その組織に金をやってアメリカと戦ってもらっている。また、その組織は日本だけでなくアジア全域の防衛を担当している。

アジア全域なら中国も含まれるのか?日本は共産主義の中国と手を組んだのか?
→中国財閥の金を融通してもらうため、日本が尻押しして毛沢東を中国の指導者にした。

それならあなたはその戦争請負業者の下請けとして戦ったのか?
→軍隊の組織は変わってもあくまで大東亜共栄圏を確立するための戦いであり、目的は同じ。自分はあくまで日本のために戦った。

これが口からでまかせの嘘でなければ、小野田は妄想にとりつかれていたとしか言いようがない。

もっと直接的な証拠もある。津田氏が伊豆で手記執筆のため小野田と缶詰になっていたころ、当時大学生だった息子が父親に着替えを届けに行き、小野田に会って話を聞いているのだ。[6]

父から頼まれた着替えを入れたバッグを持って東海道線に乗り、伊東に向かった。野間別邸は広い庭を持つ昔ながらの木造洋館で、その一室に小野田さんはいた。私は、庭に面した応接室で初めて小野田さんに会った。痩せていて、思ったより小柄な人だというのが第一印象だった。

このときのことを書くと長くなるので、印象に残ったことだけ書くと、小野田さんは世間が騒いでいるような人ではなかったということだ。戦争がどうのこうの、帝国軍人がどうのこうのという話は抜きにして、私には単なる「気が小さいおじさん」にしか思えなかった。

なぜなら、この夜、私は小野田さんと一緒に風呂に入り、彼の背中を流しながら話をしたからだ。

私はおそるおそる聞いた。「小野田さん、戦争が終わったのを知っていたんですか?」

すると、小野田さんは、なにかに怯えているような目つきになり、「そうだ」とぽつりと言った。私はこのとき、ただ、「やっぱり」と思っただけだった。それから、小野田さんは湯船につかりながら、突然、持っていた銃の話をしてくれた。「坊主、銃というのはこうやって構えて、こうやって撃つんだ」みたいな話だった。

あとから知ったが、小野田さんは戦後、ルバング島で生き残った仲間と住民を襲い、食料を奪いながら生きてきた。村人を何人か射殺している。銃は肌身離さず持っていた。だから、戦争が終わっていたのを知っていても、報復が恐くてジャングルを出られなかった。ただ、最後に残った仲間の小塚一等兵がフィリピン警察軍に殺されたので、観念したのだろう。

(つまり、元上官の任務解除命令、フィリピン軍に投降などの一連の儀式は、フィクションの上に成りたっていたと言える)

小野田はジャングルに潜んで何をしていたのか?
小野田は、少なくとも1959年の捜索隊が置いていった手紙やビラ、新聞などを読んだ段階で、日本がとっくに戦争に敗れ、それどころかアメリカとは同盟関係になっていることを理解していたはずだ。それでも投降しようとしなかったのは、この頃までにはもう現地住民を何人も殺しており、報復や処罰が怖くて出ていけなかったのだろう。

小野田たちは島民たちから離れてジャングル内で自活していたわけではない。バナナやヤシの実程度は採集できたが、それ以外の食料や衣服などは住民から盗んだり強奪していた。しかも小野田は島民たちを「ドンコー」と呼んで蔑視し、憎んでいた。[6]

 彼は島民たちを“ドンコー”と呼んだ。落語に出てくる熊公、ハチ公と同じように、それが土民を指すときの日本兵の習慣だったらしい。だが、小野田寛郎がドンコーと口にするとき、そこには熊公やハチ公にこめられた親しみは微塵もなく、敵意と憎しみしか感じられなかった。彼があまりにもしばしばそれを口にするので、

「寛郎、ドンコーはよくないな」

 格郎ただお(注:小野田の次兄)も注意したが、

「ドンコーは、ドンコーです」

 寛郎はゆずらず、あんな奴らを日本人と同格に扱うわけにはいかない、と言う意味のことを口ぎたなくまくしたてた。その口ぶりから察すると、彼は島民を動物並みにしか見ていないようであった。

(略)

「ドンコーの奴ら、われわれの邪魔ばっかりしやがって」

 彼がなおも言い募ったとき、さすがにたまりかねたのか、

「おい、寛郎、お前はそのドンコーに銃をつきつけて、食糧を奪(と)ったんだろ。いわば彼らは、お前の命の恩人なんだぞ」

 と、格郎がたしなめた。しかし、寛郎はそれでもひるまず、すぐ言い返した。

「敵の食糧、弾薬を利用するのが遊撃戦のイロハです」

小野田はこう言うが、現地住民を敵に回してゲリラ戦など成立するはずがない。

実際のところ、小野田たちはどのくらい島民たちを殺したのか。小野田本人がこう語っている。[7]

 別邸の浴室は銭湯のように広く、浴槽もいちどきに十人ぐらいが長々と体を伸ばせるほど大きかった。風呂の中でも彼は相変らず感情表白に乏しかったが、浴槽のへりに並んで腰かけながら、ようやく私は彼の口からいくつかのエピソードを引き出すことに成功した。

 しかし、実を言うと、この“裸の会話”から私が耳にしたものは、手記には織りこめない話のほうがはるかに多かった。たとえば島民殺傷問題である。

 ある晩、私は思いきって彼に訊いた。

「一体、何人ぐらい殺(や)ったんです?」

 彼はわざと私のほうを見ないで、つぶやくように言った。

「百人ぐらいかな」

(略)

「百人、全部殺(や)ったの?」

「いや、殺したのは三十人ぐらいです」

「じゃ、残りは?」

「弾はたしかに当たったが、死にはしなかったでしょう。だいたい、戦傷者は戦死者の三倍というのが軍隊の常識です」

(略)

「ドンコーの奴ら、こっちがおとなしくしているとすぐつけ上がって、銃をぶっ放しながらどんどん山に入りこんできやがるんです。だからわれわれも懲らしめのために撃ち殺してやったんです」

(略)

 もはや明らかに殺人であった。少なくとも戦いではなかった。と言うのは、彼の話を注意深く聞いているうちに、島民たちには殺意がないことがわかったからである。

 彼らが山に登ってくるのは、伐採や果実採取が目的であった。が、山の奥には銃を持った旧日本兵が潜んでいる。山に登りながら彼らが銃を撃つのは、あくまでも威嚇射撃であった。わが身を護る手段であった。その証拠に、彼らのほうから仕かけてきたという話は寛郎の口から聞いたことがなかった。「ドンコーに先にみつかるようなヘマはしなかった」というのが彼の自慢の一つであった。では、なぜ、彼は島民たちを射殺したのか。

「われわれの占領地域に勝手にはいりこんできたからです。われわれはいずれ島全体を占領するつもりでした」

 これが小野田寛郎の言い分であった。そして彼は島民たちの威嚇射撃を、「生意気にわれわれを挑発した」と言うのである。島民たちにとっては、とんでもない、そして、このうえない危険な誤解だったわけである。

「小野田さんがいなくなって、島民たちはほっとしたでしょうね」

 私が言うと、彼はニヤッとして答えた。

「ドンコーの奴ら、自分のことを山賊とか、山の鬼とかと呼んでいましたからね」

手記に織り込めない話といえば、こんな話もあった。[8]

「その犬をドンコーの奴ら、われわれにけしかけやがるんです。あんまり癩にさわったんで仕返ししてやったことがある」と寛郎が口を挿んだ。

「どんな仕返しをしたんです?」

「ある村の副村長が何度もけしかけやがったから、そいつを三日間つけねらって、一人になったところをぶっ殺してやった」

(略)

「まず膝をねらって一発射ち、歩けないようにしておいてボロ(蛮刀)でたたっ斬ってやった。その野郎、腕で顔をかばいながらいざって逃げようとしたが、こっちは日頃の恨みで容赦しねえ……」

 寛郎は左腕を曲げて顔をかばう島民の真似をし、その次にボロを何度も振りおろすジェスチャーをして見せた。事実なら、まさに惨殺である。初夏の陽が明るい応接室に居ながら、背筋が寒くなったのを私は覚えている。

また、津田氏が聞き取りをしていた伊豆の別邸に、小野田の長兄敏郎が「厚生省から頼まれた仕事」を持って訪ねてきたことがある。これはそのときの話。[9]

 夕食後、敏郎は厚生省から頼まれた仕事をはたすため、寛郎を促して応接室へ去った。一足遅れて私が行くと、敏郎はテーブルの上にノートをひろげ、鉛筆を片手に、斜め前に腰かけた寛郎に説明していた。

「島民が訴え出た事件で、どうにも腑に落ちない殺傷事件がいくつかあるんだ。多分、お前がやったのではなく、別の犯人が起こした事件だろうと思うけど、念のため確かめてくれと言われてきたんだよ。これから読み上げるから、違うなら違うと答えてくれ」

 敏郎はまず日時、場所をあげ、次に事件の概略を読み上げてから、囁くように訊いた。

「どうだい、覚えがあるかね?」

 途端に寛郎が横を向いてつぶやいた。

「俺だよ」

「えッ、お前か――」

 敏郎は絶句し、やがて仕方なさそうにノートに何か書き入れた。この晩敏郎が読み上げた事件は十件ほどだったが、そのたびに兄弟の間で、「俺だよ」「え、これもか」が繰り返された。敏郎は何度もため息をついた。眼鏡の奥で軽く両眼を閉じ、頭を小さく左右に振った。寛郎はソファの上で立てた両膝を抱え、終始横を向いて眉一つ動かさなかった。

島民たちの言う通り、小野田たちはまさに山賊であり、鬼だったと言うべきだろう。

投降した小野田は強盗・殺人・窃盗の累犯者で、しかも30人も殺している。当時のフィリピンなら当然死刑だろう。百万歩譲って、自分たちは戦争終結を知らないまま戦いを続けていたのだという小野田の主張を認めたとしても、無抵抗の民間人を殺した行為は戦争犯罪である。戦犯裁判でも死刑だろう。

そうならなかったのは、日本政府がマルコス独裁のフィリピン政府と「握った」からだ。


2016年、このときの日本政府とフィリピン政府との間の外交交渉に関する文書が発見されている。[10]

埋もれていた極秘の外交文書

日本とフィリピンの戦後史を研究している広島市立大学の永井均教授は、小野田さんの帰国に関する日本政府の極秘文書を情報公開請求で初めて入手しました。670枚に及ぶ外交文書です。

NHKは今回、永井教授と共同で、見つかった外交文書の分析を行いました。文書には、小野田さんの帰国を巡り、日本とフィリピン政府との間で極秘の交渉が行われていたことが記されていました。

この中には次のような記載もありました。

「小野田氏ら元日本兵により30人が殺され、100人が傷つけられた」
「何らかの手を打たなければ、フィリピン側の世論も納得しない」

戦争の終結を知らない残留日本兵らが、地元の住民に深刻な被害を与えていたことが公文書で初めて確認されたのです。

永井教授は「文書からは小野田元少尉の救出問題が通常の残留日本兵の扱いをはるかに超える、政治的・外交的な重要案件だったことが分かる」と話しています。


“見舞い金”は3億円に

「かかる人的、物的損害に対し、日本政府は補償する動きがあるか」

交渉の中で、フィリピン側は、被害への補償の有無を打診していました。
日本政府は1956年のフィリピンとの協定で、戦後賠償は解決済みとの立場でした。しかし一方で、現地の被害者や遺族たちが声を挙げ、反日世論が高まることを懸念し「見舞金」を支払う検討を始めました。

「被害者らは、損害賠償請求権を行使するおそれがある。見舞金は、請求権行使を思い止まらせる効果をもつであろう」

日本政府は、見舞い金として3億円を拠出する方針を固めていきました。

当時、フィリピンとの交渉に関わり、のちに外務事務次官を務めた竹内行夫さんは両国の将来を見据えたという日本の見舞い金の提案に、フィリピン側も理解を示したといいます。そのうえで「いろんな被害というか損害を島民の方に与えていたという事実が判明しましたので、小野田少尉の救出に多大の協力をしてくれたフィリピンに対しては感謝をしたいという日本側の誠意としてやった」と述べました。

小野田はなぜ津田氏のルバング島行きを嫌がったのか
手記を代筆する過程で、津田氏は小野田らが潜んでいたルバング島のジャングルに実際に行ってみることを希望した。手記の描写にリアリティを加えるためには現地の環境を体験してみなければ、という考えからだったが、なぜか小野田と兄の格郎は津田氏が現地に行くことをひどく嫌がった。

結局津田氏は反対を押し切ってルバング島を訪れるのだが、現地を実際に見ることで、なぜ彼らが反対したのかを明確に理解することになる。

 離陸して十分もしないうちに眼下に田園風景がひろがり、間もなく右下にコレヒドール島が見えた。(略)セスナ機ははじめてなので、ちょっと心細かった。長髪で派手なシャツを着た若い操縦士がゴム草履をはいているのも頼りない気がした。

「あれがルバングです」

 ラモスが指さした。風防ガラスの彼方に細長い島が見え、その島裾で波が白い線を描いていた。(略)ヤシ林がぐんぐんせり上がり、海岸際の道路がはっきり見えたとき、機は大きく旋回して着陸姿勢に入った。前方に草原がひろがっていた。

「これが飛行場か――」

 降りて小雨にうたれながら、私はしばし茫然とした。狐につままれたような気持だった。右も左もただの草原であった。滑走路は幅五メートルほどの砂利道だった。そのところどころに雑草がはえていた。「これが飛行場――」私はもう一度つぶやいた。C君も左右を見回してあきれたような表情であった。

(略)

「マニラを攻撃する場合、ルバンの飛行場は重要な拠点になります。友軍が島に上陸して飛行場を占領するとき、われわれはその道案内をしなければなりません。だから、島内のどんな変化も見逃がせないのです」―― これが小野田寛郎の語った、ルバングで頑張っていた理由である。「二俣では兵要地誌候察を徹底的に教えられた」と彼は自慢した。(略)

 だから私は、どんな飛行機でも発着可能な立派な飛行場があるものとばかり思いこんでいた。ルバング島には飛行場が一つしかない。小野田寛郎が友軍を誘導するつもりだった飛行場は、間違いなくここであった。この草っ原であった。

「恐れ入りましたね」

 C君が歩きながらつぶやいた。C君も寛郎得意の“候察”を思い出したに違いなかった。幸い、雨はやんで、かすかに青空がのぞいた。濡れた草原を横切りながら、格郎が私たちのルバング行きを阻止しようとした謎が一つ解けたような気がした。

(略)

 帰途、テリックの町に寄った。ちょうどマニラからの定期船が着いたところで、五、六十人の乗客が下船中だった。定期船は百トンぐらいの大きさで、船尾が桟橋からはみ出していた。それを見て私はまた、狐につままれたような気持になった。

「島を全部占領したら、テリック港を原子力潜水艦の基地にしようと、小塚と何度も語り合った」という寛郎の話を思い出したからである。

 むろん、夢物語だったのだろうが、そんな夢を描くくらいだから、それなりの港湾施設があるものと私は思っていた。だが、実際のテリック港は、幅五メートル、長さ約三十メートルのコンクリート桟橋があるだけであった。念のため、ラモスを通じてデンに訊いてみると、七、八年前までは粗末な木の桟橋だったという。

(略)

 走り去るジプミーを見送りながら、私は胸でつぶやいた。

 ――小野田寛郎はジャングルに逃げこんで以来、いちども飛行場もこの港も見たことがなかったに違いない。

 もし得意の候察を実行していれば、たとえ空想にせよ、飛行場を占領するだの、港を原子力潜水艦の基地にするだの、という考えは湧かなかったはずである。

セスナの離着陸がやっとの粗末な飛行場と、百トン程度の船が着けるだけの桟橋しかない港。ルバング島に戦略的重要性などかけらもなく、当然アメリカが手間暇かけて小野田たちに謀略戦など仕掛ける理由もない。

小野田の主張する「戦い続けた理由」も嘘だったのだ。

フィリピンで戦った英雄は断じて小野田などではない
日本は、ただの山賊でしかなかった小野田を英雄に祭り上げてきた上、こんどは映画を通じて何も知らない欧米人まで騙そうとしている。その愚かさと傲慢さには呆れるほかない。

日本による侵略から始まったフィリピンの戦いは、確かに英雄と呼ぶべき人々を生んだ。しかしそれは、断じて小野田などではない。こういう人たちだ。[12]

 帰りは雨になっていた。

 雨は降り続いていたが、サルバシヨンの町役場でトライシカー(注:三輪タクシー)を降りた。広場に日本軍と戦ったゲリラたちを顕彰する記念塔が建っていた。塔は、暗闇を照らす燈火をかたどっていた。その背後に、戦死した七十名のゲリラたちの氏名が刻まれていた。最初の氏名は、指揮官のサルバドール・ミリタンテ大尉である。

 ゲリラ戦士たちの氏名の上に、次のような文字が刻み込まれていた。

 「ブエノビスタの英雄

       第二次世界大戦

  夜のうちに倒れた者たちは

  生きて陽の光を見た者たちに

  忘れられることはないだろう」

 夜とは日本軍占領時代を意味している。フィリピンでは、第二次大戦の終戦を「解放」と言っている。日本軍占領下から「解放」されたからである。

(略)

 キャプテン(注:バランガイ・キャプテン=村長のこと)は、道一つへだてた小学校の校庭に、私を連れて行った。どこでも見られる校庭風景だったが、私はふいに先日会った、この島の歴史に詳しいサラダサさんの話を思い出した。

 「サルバドール・ミリタンテ大尉を含むバランガイの住民たちが校庭に集められた。機関銃が住民に向かってすえられていた。『もし、ミリタンテが降伏しないならば皆殺しだ』。日本帝国陸軍将校は一、二、三と号令をかけた。その時『私がミリタンテです』と住民の中から彼が立ち上がって、日本軍指揮官の前に進み出た。指揮官はミリタンテの手を握り、『すべてのゲリラを率いて降伏するんだ』と言った。『いや、私は降伏しません』。『跪ひざまづいて降伏するんだ』。『跪くんだ』。日本軍将校が怒鳴った。彼は跪いたが降伏をしなかった。だから、彼はギマラスの英雄になった。今でも」

 小学校の正面にコンクリートの記念碑があった。

 「サルバドール・ミリタンテ大尉は、一九四三年八月二十四日、自由のための殉教者としてこの校庭で 、日本帝国陸軍に殺された。」

日本が本当に作るべきなのは、こうした真の英雄たちの戦いと人生を描いた映画だろう。


[1] 佐藤久理子 『小野田寛郎さん描いた映画、カンヌで熱烈なスタンディングオベーション』 映画.com 2021/7/11
[2] 津田信 『幻想の英雄 ― 小野田少尉との三ヵ月』 図書出版社 1977年 P.300
[3] 小野田寛郎 『わがルバン島の30年戦争』 日本図書センター 1999年(小野田手記の再版本)P.242
[4] 津田 P.127-128
[5] 津田 P.133-140
[6] 山田順 『40年前、お風呂場で小野田寛郎さんがポツリと言った「(終戦を)知っていた」』 Yahoo!ニュース 2014/1/24
[7] 津田 P.80-83
[8] 津田 P.171
[9] 津田 P.175
[10] NHK 『特集 小野田さん帰国42年後の真実』 2016/7/26
[11] 津田 P.191-196
[12] 石田甚太郎 『ワラン・ヒヤ 日本軍によるフィリピン住民虐殺の記録』 現代書館 1990年 P.28-31

https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/07/18/105707  

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コメント
1. 中川隆[-16030] koaQ7Jey 2021年7月26日 19:42:42 : L74jVt1sps : d1BvM3NxcG10VGM=[42] 報告
2021-07-22
インタビュー記事を読む限り、『ONODA』のアラリ監督は小野田寛郎の実像をまったく分かっていない。
https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/07/22/151505


前回記事で取り上げた映画『ONODA』のアルチュール・アラリ監督に、「地球の歩き方」がカンヌでインタビューを行っている。しかし、予告編を見ても、このインタビュー記事[1]を読んでも、アラリ監督が小野田寛郎の実像を理解していたとはとても思えない。

アラリ監督によると、この映画を撮ろうと思ったきっかけは、父親から小野田の話を聞いたことだという。

──同作を撮ろうと思ったきっかけは?

自分の父親と話していたときに思いつきました。もともとは冒険映画を撮りたいと思っていて、ロバート・ルイス・スティーヴンソンやジョゼフ・コンラッドの小説を読みながらテーマを探していました。(略)そのことを父と話していたら、父から「私が24歳のときに、戦後も約30年間戦争を続けていた日本の兵士が帰ってきたことがあった」という話を聞かされ、一気に心が動かされました。

そして、小野田の自伝を読んで魅了され、その内容を事実だと考えて映画を撮っていった。

小野田さんの本を読みながら、これはすごく強いシーンになるだろうなという箇所をリストアップしていったのが2013〜2014年にかけて。撮影を始めたのは2018年です。撮影までには4〜5年かかっています。(略)

(略)

そもそも小野田さんの話は、豊かな出来事に満ちあふれています。(略)小野田さんの話は神話のようですが、同時に本当の話です。本当にはあり得ないけれど、しかし実際の話というところが自分のなかですごく重要でした。

(略)小野田さんの体験は、フィクションではない実際のことです。だから、小野田さんとともにその場にいて、小野田さんに指先で触れるような形でこの映画を撮りたいと思いました。現実に根差すけれど、現実に忠実ではないというバランスが、神話のようだけれど本当にあった話を表現する上での方法論でした。

しかし残念ながら、自伝に書かれているのは「本当の話」ではない。小野田が敗戦を知らないまま戦い続けていたというのも嘘なら、島民に対する加害行為も、重大な事件はすべて欠落している。

──小野田さんの描き方について気をつけたことは?

(略)

小野田さんはフィリピンで、実際に人々に危害を加えたことがありました。小野田さんは頭のいい人でしたから、無自覚に暴力を働いているわけではありません。しかし、小野田さんは自分は戦争のなかにいると思っていますから、敵を殺めることができます。自分の仲間でさえも、裏切るようなことがあれば、殺めることができます。

物語が進んでいくなかで、見ている人たちが単純に小野田さんに感情移入して、彼の視点で物事が進んでいくのではなく、一歩横に退いて小野田さんを見つめられるようにしたかった。そのため脚本の初稿を直す上で、小野田さんの暴力シーンをもう少し強調しました。例えば、島民の人が傷ついている様子を加えることで、表現できるのかもしれない。そういうことを経て、いまの形になっています。

小野田手記にも一応、島民に危害を加える場面は出てくる。しかし、たとえ島民を狙って銃撃する場合でも、手記ではそれはあくまで「敵」との「戦い」ということにされている。[2]

 島民といえば、彼らは米軍が上陸すると同時に敵側につき、討伐隊の道案内をつとめたばかりか、日本兵が私たち四人だけになると、山にどしどし入ってきて、伐採をはじめた。彼らは腰に蛮刀をさし、その中の一人は必ず銃を持っている。私たちにとっては討伐隊以上に油断のならない存在であった。

 彼らの姿を見つけたり、けはいを感じたらすばやく茂みに身をひそめ、銃を腰に構えて、やりすごした。が、いくら用心しても、こちらの姿を確認されてしまうことがある。そのときは躊躇せず射撃することにしていた。そしてただちに移動した。討伐隊に通報されるにちがいないからであった。

実際には、島民が「山にどしどし入って」きたのは、戦争が終わったので以前のように自分たちの山で果実採取や伐採をしていただけだし、銃を持っていたのは危険な残留日本兵から身を守る護身用だった。小野田らはそんな島民たちを「懲らしめのために撃ち殺してやった」り[3]、逆恨みから惨殺したり[4]していたのだ。

「その犬をドンコー(注:島民を指す侮蔑語)の奴ら、われわれにけしかけやがるんです。あんまり癩にさわったんで仕返ししてやったことがある」と寛郎が口を挿んだ。

「どんな仕返しをしたんです?」

「ある村の副村長が何度もけしかけやがったから、そいつを三日間つけねらって、一人になったところをぶっ殺してやった」

(略)

「まず膝をねらって一発射ち、歩けないようにしておいてボロ(蛮刀)でたたっ斬ってやった。その野郎、腕で顔をかばいながらいざって逃げようとしたが、こっちは日頃の恨みで容赦しねえ……」

 寛郎は左腕を曲げて顔をかばう島民の真似をし、その次にボロを何度も振りおろすジェスチャーをして見せた。事実なら、まさに惨殺である。初夏の陽が明るい応接室に居ながら、背筋が寒くなったのを私は覚えている。

小野田たちが潜伏中に30名もの島民を殺したことは英語でもニュースになっていた[5]ので、アラリ監督も知っていたかもしれない。しかし、自伝のような小野田の自己弁護を前提にしていたら、こんな凄惨な「暴力シーン」は想像できなかっただろう。

アラリ監督は、陰謀論やフェイクニュースに流されず、「もっと普遍的な何か、人間性というものに触れたい」という認識でこの映画を作ったという。しかしその映画の中身がほぼフェイクというのでは、皮肉というほかない。

──小野田さんのことを現代で語る意味はどこにありますか?

現在とつながり、反応する部分はもちろんあります。何か自分たちが信じるものに対して全身を捧げたために、それが彼らをひとつの世界に閉じ込めてしまうことがあります。孤独というのも人類が抱えている永遠のテーマです。また陰謀論みたいなもの、フェイクニュースや、誰かが世界を操っているのではないかという見えない何かに対する恐怖が、想像力によって生まれてしまうという状況は、現在ともつながります。しかし今回のモチベーションは、もっと普遍的な何か、人間性というものに触れたいという点でした。

ちなみに、仮にこれが「フィリピンのジャングルで戦い続けた日本兵の話」ではなく、「フランスのどこかの山にこもって戦い続けたドイツ兵の話」だったとしたら、監督はそれを信じただろうか。ナチスドイツの兵士が、敗戦を信じず、第三帝国への熱烈な忠誠心から、30年も山の中で、周囲の村人から物資を「徴発」しながら「戦争」を続けた、などという話を信じただろうか。

ヨーロッパ人のドイツ兵だったらあり得ないが、監督自身が「あまり知っているとは言えません」という東洋の国日本の兵士ならそんな「神話のよう」なこともあり得たと思ったのなら、それは一種のオリエンタリズムだろう。

[1] 守隨亨延 『『ONODA』アルチュール・アラリ監督にカンヌでインタビュー、終戦後30年間戦い続けた旧日本兵の物語』 地球の歩き方 2021/7/19
[2] 小野田寛郎 『わがルバン島の30年戦争』 日本図書センター 1999年(小野田手記の再版本)P.95-96
[3] 津田信 『幻想の英雄 ― 小野田少尉との三ヵ月』 図書出版社 1977年 P.81
[4] 津田 P.171
[5] “Japan WW2 soldier who refused to surrender Hiroo Onoda dies” BBC News, 2014/1/17


https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/07/22/151505

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