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セルゲイ・プロコフィエフ(Sergei Sergeevich Prokofiev、1891 - 1953)
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投稿者 中川隆 日時 2021 年 10 月 06 日 07:43:21: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: アンリ・デュティユー ヴァイオリン協奏曲 『夢の樹』 投稿者 中川隆 日時 2021 年 9 月 30 日 08:59:33)

セルゲイ・プロコフィエフ(Sergei Sergeevich Prokofiev、1891 - 1953)

機知に富んだ切れ味のよい作風。未開拓の新奇な可能性と美しさを多く発見した20世紀の最重要作曲家の一人。


交響曲
個人的にプロコの交響曲は苦手である。機知に富んだ作風の良さが生きないジャンルだと思う。

交響曲 ホ短調(1908年)

古典交響曲 ニ長調(交響曲第1番) op.25(1917年)
3.5点
ピリッと辛いスパイス入りの古典的な交響曲。ハイドン風の洗練と簡潔がありながらも、現代的感性で書かれており、新鮮で興味深い。

交響曲第2番 ニ短調 op.40(1925年、op.136として改訂の予定であった)
3.0点
鉄と鋼のような押せ押せの音楽は個人的にかなり好きな世界である。プーランクが拍手していたという逸話があるが、彼の感性と近い音楽の気がして納得出来る。ただそれを長い交響曲の全部でやられているので、さすがに食傷してしまう。

交響曲第3番 ハ短調 op.44(1928年)
2点
本人は自信作らしいが、変な曲としか…

交響曲第4番 ハ長調 op.47(第1版:1930年)、op.112(第2版:1947年)
2.5点
改作版の方で聞いた。全体として交響曲の体裁になってはいるし、悪い音楽ではないのだが、内容にまとまりがないと感じた。全体を通して何がしたかったのか、見えてこない。

交響曲第5番 変ロ長調 op.100(1944年)
3点
プロコフィエフの交響曲で1番有名な曲である。交響曲らしい力作なのはわかるのだが、自分は中途半端に感じてしまい感動はしない。

交響曲第6番 変ホ短調 op.111(1947年)
3.0点
ある程度難解で複雑であり、多少の思想性や統一感があり20世紀の交響曲らしい作品になっている。交響曲らしい音楽語法が使われている。

交響曲第7番 嬰ハ短調(「青春」) op.131(1952年)
3.5点
一楽章はかなり好き。シンプルで簡素な晩年の世界であり刺激的では無いが、割といい曲だと素直に思う。

劇場音楽からの組曲

スキタイ組曲(「アラとロリー」) op.20(1914年)
3.3点
キレが良く、活き活きとした描写力で、最初のバレエ音楽にしてプロコフィエフのバレエ音楽への適性がよく発揮されている曲。

バレエ組曲「道化師」 op.21bis(1922年)
3.3点
活き活きとした場面描写が優秀なバレエ音楽であり、耳を楽しませるものではある。清新なセンスが発揮はされているが、前衛的な響きは少なく聞きやすい。しかし、バレエ音楽なので音だけで楽しむには長いので、気楽にくつろいで聴く曲と思う。後の代表作と比較するとまだありきたりの音楽の感がある。

「三つのオレンジへの恋」組曲 op.33bis(1924年)
3.5点
曲にパンチが効いていて、自在に扱われるオーケストラが印象深さを生み出している。前2作と似た系統だが進歩が見られる。

「鋼鉄の歩み」組曲 op.41bis(1926年)
3.0点
現代工業化をテーマにした音楽であり、標題音楽に近い。もっとプロコフィエフらしく無機的にガンガン押せ押せの音楽かと思ったら、ある程度はそうなのだが案外おとなしい。期待以下であり、それ以外は標題的な描写性の強すぎる音楽であって深みが足りず物足りなかった。曲が短いのも浅く感じる原因。

「放蕩息子」組曲 op.46bis(1929年)
3.3点
モノラル音源でよく分からなかったところはあるが、非常に勢いをもった充実感のある楽想が次々と矢継ぎ早に繰り出される気力の充実した曲のようだ。短期間に書かれたとのことで頭の中から溢れるように音楽が湧いてきたのではと想像できるものだ。なかなかの音楽に思えるのにマイナーなのは、やはり大衆性の不足だろうか。

歌劇「賭博者」からの四つのポートレートおよび終結部 op.49(1931年)
3.5点
前衛的な音の不協和音や気持ち悪さが、オペラの舞台性でストーリーと背景を持つことで意義のあるものになっている。かなりダイナミックに音が動く音楽であり、そのスリリングさには圧倒されそうになる。絶対音楽とは違うが、楽曲として抽出された結果、そこまで物語の具象的な音楽でもなくなっており、その塩梅がとてもよい感じである。不協和音や気持ち悪い旋律の重ね合わせがとても心地よく感じてしまう。

「ドニェプルのほとりで」組曲 op.51bis(1933年)
3.0点
まったりした普通の管弦楽曲である。シューベルトから受け継いだ意外な転調などの捻り、雰囲気が良いだけでかなり効果の低い曲になるところだったと思う。4曲目は編曲の面白さも音楽のエキゾチックな楽しさもあり、なかなかの名作である。まあ他も大地を感じさせたり郷愁を感じさせたり雰囲気はいいと思う。

交響組曲「キジェー中尉」 op.60(1934年)
3.0点
コミカルな雰囲気。プロコフィエフの本気はあまり感じられない。

組曲「エジプトの夜」 op.61(1934年)
3.3点
とてもエキゾチックで幻想的で面白い。この題名にしてこの音楽というのは見事である。すぐにはプロコフィエフと気付けないくらいに面白い。しかし、音の密度が薄いまったりした曲であり、本気の曲でないのも明らかである。そもそもプロコフィエフ作曲でなければ聴く機会のない曲で評価することもないだろうという気はする。それを高く評価してよいか迷うが、キワモノ的な耳を楽しませる面白さは個人的には否定しがたい。

「ロメオとジュリエット」第1組曲 op.64bis(1936年)
3.3点
作曲者の気力が漲っている。しかし耳につくメロディーはなくて、親しみやすさもほどほどであるため、評価の仕方に困るところがる。7曲の組曲はバレエ音楽の大家らしい充実ぶりではある。無機的な前衛派が大衆に分かりやすいながらも内容を膨らまして書いた努力の結実がバレエ音楽の作曲家として知名度を獲得するのに結びついたのが伝わってくる。6曲目はかなり感動的。

「ロメオとジュリエット」第2組曲 op.64ter(1936年)
3.0点
第一組曲とはだいぶ雰囲気が違う。小ぶりで親しみやすく心が温まるような感じで、まるでグリーグの音楽のようだと思った。第一組曲は壮大さに力点を置いた力作というのがよく分かる。どちらが好きかは好みによるだろうか。個人的には第二組曲は刺激不足であり後半は飽きてくる。しかし、1曲目が有名な曲であり、まさに掴みはOKである。これが大きいのだが、そのあとはリカバリーしないまま期待はずれで最後まで続くが、最後の曲でようやく面白くなる。

「セミョーン・コトコ」組曲 op.81bis(1941年-1943年)
3.8点
これはなかなか好きだ。オペラから作った組曲だが、オペラの場面話の筋書きが目に浮かぶようだ。音に主張と物語があり、ドラマに想いを馳せるように聴ける。かなり劇的な物語なのだろうな。登場人物たちの熱い想いと、悲劇のドラマ性が伝わってきて、ぜひ実際の舞台を見てみたいと思った。しかも長い組曲の全般がそんな感じでアツい。

「ロメオとジュリエット」第3組曲 op.101(1944年)
3.5点
最後のジュリエットの死は感動する。爛熟した美の沼にはまるようだ。他の曲も演奏がよいせいか、強く情感に訴えたり、響きや音使いが適度に新奇な面白さがあるなど、見所が多くある曲に聞こえた。3曲目のジュリエットの曲もかなり好きだ。作曲年代から残り物を集めた組曲かと予想していたが、思ったよりよい。

「シンデレラ」第1組曲 op.107(1946年)
3.0点
刺激が少なく古典的な柔らかさと踊りやすそうな舞曲性があるとともに、おとぎ話のような夢幻的な雰囲気も少しある。良い作品ではありバレエで観れば楽しめるのかもしれないが、音楽単体で聴く組曲としては刺激がなくて物足りない。売りになるような主張がないと思った。

「シンデレラ」第2組曲 op.108(1946年)
3.0点
シンデレラが王宮に入る一つのクライマックスの場面の音楽は素敵だ。しかし、それ以外はあまり凄い部分がない。第一組曲と似た世界であり、一つの世界観と音世界を構築している。シンプルや古典性や舞踏性とプロコフィエフらしさの融合は癖になりそうだが、似たような音の使い方が多くて飽きそうにもなる。

「シンデレラ」第3組曲 op.109(1946年)
3.3点
この組曲は静と動の対比がかなり強く出されている。組曲単品で聴くにはやはりその方が楽しいと思う。単調さが気にならなくなることで、夢幻的な音楽は世界の創造性もより価値が明快に分かるようになっている。このため良作だとは思うが、とはいっても圧倒されるようなものはない。

管弦楽のための組曲「ワルツ集」 op.110(1946年)
3.0点
そこそこの長さのあるワルツが6曲も集まっている。旋律に力は入っていないが、さまざまなワルツがありボリュームは楽しめるかもしれない。音楽を進める手際が良くて皮相的な音使いも楽しめるプロコフィエフの良さはよく出ている。中間の2曲がありきたりでなくて良いと思う。

プーシキン・ワルツ op.120(1949年)
3.3点
2曲ある。1曲目はまったりした19世紀のような古典的な雰囲気のあるワルツ。2曲目は少しテンポが早くなり、旋律にプロコフィエフらしい現代性が少しずつ現れるものの、多くの場面でかなり古典的な懐古趣味を出している。この現代と19世紀の組み合わせ方は愉しめるものであり、2曲目は展開がなかなか大掛かりでワクワク感がある。

交響組曲「夏の夜」 op.123(1950年、歌劇「修道院での婚約」による)
3.0点
オペラの素材をまとめたもの。簡明で簡潔な書法は、晩年の特徴がよく出ている。舞台で聴くならば雰囲気を十分に楽しめる事が容易に想像出来る。3曲目は明るくハッピー。4曲目の夢の中の世界は楽しい。

結婚組曲 op.126 (1951年、バレエ音楽「石の花」による)
3.3点
晩年のプロコフィエフらしい平明な音数を減らした世界が展開されている。その世界とバレエ音楽の融合した大作からの抜粋というように聴く分には興味深い。過去を振り返ってしまう感傷的な心の弱さや涙もろさみたいなものを基底に持っているのが魅力であり心になにか響くものがある。それとともに少年に回帰したような純粋な心を取り戻したかのような透明感もある。晩年のプロコフィエフが好きなら気にいるだろう。凄い曲という感じではないけれども。

ジプシー幻想曲 op.127 (1951年、バレエ音楽「石の花」による)
3.0点
前半は運動会の音楽のようなのが面白い。幻想曲の題名らしい雰囲気が急にコロコロ変わる曲である。面白いといえば面白いが、各部分はそこまで感動しない。プロコフィエフにしては特殊な曲として楽しめるくらいである。

ウラル狂詩曲 op.128 (1951年、バレエ音楽「石の花」による)

その他の管弦楽曲

シンフォニエッタ イ長調 op.5(第1版:1909年、第2版:1914年)、op.48(第3版:1929年)
3.0点
全5楽章。明るく軽やかで平明である事、シンフォニエッタの名称に相応しい小ぶりで可愛らしい楽章の集合体である事が特徴。夢見るようなメルヘンチックさを感じる。分かりやすい曲としてはそれなりに楽しめるが、捻りは控え目だし、驚きや類似する古典交響曲に感じる天才的な発想力が見られない。悪くない曲のままでなんとなく5楽章が過ぎてしまい、後に残るものがない。

交響的絵画「夢」 op.6(1910年)
2.5点
19歳の管弦楽曲。ワーグナーやドビュッシーやロシアの諸先輩の影響が見え隠れする。もやもやした夢と現実の狭間のような雰囲気だけの曲であり内容が薄い。個性も前半はほとんど感じないが、後半は少しプロコフィエフらしくなる。

交響的スケッチ「秋」 op.8(1910年)
2.5点
ラフマニノフのような壮大なロシアの大地とドロドロとした情念を感じさせる曲。はっきりしないもやもやの中で場面が少しずつ移り変わっていく。題名にあまり意味が無いらしいが、実際日本人のイメージする秋とは程遠い雰囲気である。雰囲気だけであり切れ味が良くない。

ヘブライの主題による序曲 ハ長調 op.34bis(1934年)
3.3点
室内楽版と比較して素朴でエキゾチックな『こくのある』感じが落ちている。色彩的で空間的な広がりが出ているのは必ずしも良い方に結果になっていない。好みの問題かもしれないが。

アメリカ序曲(または室内管弦楽のための序曲) 変ロ長調 op.42(1926年)
3.0点
プロコフィエフには珍しいアメリカ的な楽天性と開放感があり目新しさを感じて聴ける。華やかさもあり、場面転換もいい感じ。雰囲気はかなり映画音楽っぽい。

ディヴェルティメント op.43(1929年)
2.5点
くつろいだ雰囲気はディベルティメントの名に相応しい。プロコフィエフらしいユーモアも活用されている。しかし、もう少し光る何かが欲しいところ。

交響的な歌 op.57(1933年)
2.0点
ヘンテコな曲。変化に乏しく、やっつけ仕事感がひどい。

小管弦楽のための子供の組曲「夏の一日」 op.65bis(1941年)
3.5点
子供のためということで、素朴な構成になっており込み入った複雑さが排除さらている。短い7曲の構成。夏休みの思い出を再構成したかのような郷愁と子供時代の思い出を想起させる音楽である。懐かしいなあとしみじみとした想いに浸りながら聴いた。無邪気に新しい発見に満ちた日々を送ったあの頃に一度また戻ってみたいとも思った。

交響的物語「ピーターと狼」 op.67(1936年)
4.5点
親しみやすいテーマのオンパレードで子供向けとはいえ大人もかなり楽しめる作品。ストーリーもあるので、コミカルで面白い。このような一般向けの曲で素晴らしい作品を書けたプロコフィエフの才能に驚く。

ロシア序曲 op.72(第1版:1936年、第2版:1937年)
2.8点
13分の長さがり場面展開が激しい曲である。多くの発想が詰め込まれているからそれなりに力を入れて書かれたと思われるのだが、どの場面をとっても旋律に魅力がない。やはり展開だけでは音楽は楽しめないと思ってしまう。

交響組曲「1941年」 op.90(1941年)
3.3点
叙情的かつ叙事的な曲。しなやかでスケールが大きい、ロシアの広大さを思わせる曲。特に2曲目と3曲目。

行進曲 変ロ長調 op.99(1944年) [吹奏楽]
3.0点
アンコールに使えそうなブラスバンド用の急速な行進曲。面白い。

戦争終結に寄せる頌歌 op.105 (1945年)
2.8点
管弦楽なのか室内楽なのか分からないハープ8台、ピアノ4台、管楽器、打楽器、チェンバロという超特殊編成の曲。13分。第二次大戦の終結を祝うための曲らしいが、祝典的な印象は最後の3分であり、それまではどちらかというと今までの耐え忍んだ苦労を回想し分かち合うための曲という気がする。ピアノとハープの分厚さとブラスバンドの組み合わせは聴いたことの無い音響で面白い。曲としては、まあ手抜きでは無いが仕事で書いた曲だという印象。

祝典詩曲「30年」 op.113(1947年)
3.0点
祝典音楽の2作品のうちの一つ。舞台音楽のような軽快さをもつ場面が多い。単なる祝典性だけでなく、場面転換が多く音楽に活力と表情の豊さがあり、そこそこ聴き応えがある。

組曲「冬のかがり火」(朗読、児童合唱およびオーケストラのための) op.122(1949年-1950年)
3.3点
子供の情景を描写した平明な曲。朗読入り。おとぎ話のような包むような暖かさと純朴な美しさと詩情は聴いていてほっこりした気分になれる。平明すぎるものの、案外感動するため聴いて損のないと個人的には思う。毎回朗読が入るのも聴くのには少し支障があるが、待ちがあるため音楽の場面では逆に集中しやすいかも。少年合唱は天使のように美しくて秀逸であるが出番が少ない。

祝典詩曲「ヴォルガとドンの邂逅」 op.130(1951年)
2.0点
祝典的な金管楽器の活躍する序曲。元気ではあるが、メロディーその他、特に魅力を感じない。

ピアノ協奏曲

ピアノ協奏曲第1番 変ニ長調 op.10(1912年)
4.3点
短くコンパクトな中にプロコフィエフのピアノ協奏曲の魅力のほとんどが詰まっている。前面で大活躍するテクニカルなピアノは、この楽器の新しい魅力を引き出している。前衛的な新奇さはあるが、それだけに留まらない音楽性の高さを楽しめる。メロディーが良いため、素直に名曲としてお勧め出来る。

ピアノ協奏曲第2番 ト短調 op.16(1913年)(ロシア革命時に紛失、1923年に改作)
4.0点
1番をパワーアップしたような初期プロコのキレの良さが最高に楽しい。3番が、聴きやすいが媚びとまとまりのよさのための妥協を感じるのと対照的に、2番は妥協なしの壮大で濃厚な野心作である。音の尖っている場面の強烈さは凄いが、とがり方が突き抜けているため爽快な心地よさをも感じる。叙情的な場面も多い。その濃厚さ巨大さからプロコフィエフのピアノ協奏曲の最高傑作に推したい一方で、1番3番ほどの強烈な印象が残る場面が少ないのも事実。

ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 op.26(1921年)
4.5点
豪快でノリノリのスポーツ的爽快さが何とも楽しい。特に3楽章の後半の猪突猛進がこの曲の最大の魅力だろう。特殊奏法の箇所は非常に華麗でかっこよくて好きであり、早くその箇所に来てほしいと待ち焦がれてしまう。1楽章の自由さや快活さと、切り替えが多い複雑なバランスも良い。2楽章もプロコフィエフによくある神秘的な曲で良いのだが、押しが弱いため印象が薄い。3楽章の中間部が同じメロディーをひたする繰り返しばかりで飽きるのが玉に瑕である。

ピアノ協奏曲第4番 変ロ長調(左手のための) op.53(1931年)
2.3点
左手だけの作品というだけで面白いのだが、聴いたあとは物足りなさが残る。使われている素材が良くない。良い素材は出さずに、ありあわせのもので間に合わせた印象である。力を入れて書いた作品と思えない。左手だけの薄い音で演奏されるプロコフィエフ節の魅力はあるが、正直言ってそれしか良さがない曲である。

ピアノ協奏曲第5番 ト長調 op.55(1932年)
2.5点
詰め込み過ぎでまとまりが無い。初演時に作曲者自身が暗譜に苦労したという逸話が証明している。しっちゃかめっちゃかで、まとまりが全然ない。全編それが徹底しているので、曲のコンセプトなのだろう。無理やり誉めるならば、バラエティーに富んでいてイメージ豊か、バレエ音楽の達人らしさを活かしているという事になる。しかし聴く側には理解困難な変わった曲という以上のものは、あまり得られない。ただ、4楽章はなかなか美しくて聞き入る曲である。

ヴァイオリン協奏曲

ヴァイオリン協奏曲第1番 ニ長調 op.19(1917年)
3.8点
夢幻的な独特の美しさに満ちている1楽章、新奇なおもしろさの2楽章、再び夢幻的な3楽章とどの楽章も素晴らしい。プロコフィエフにしか書けない白昼夢のような不思議さとはこの世の現実と隔絶したかのような美しさである。美的感覚の鋭さと音感の良さによる芸術的センスの良さにより、ヴァラエティに富む20世紀のヴァイオリン協奏曲の中で代表的な作品になっていると思う。

ヴァイオリン協奏曲第2番 ト短調 op.63(1935年)
2.5点
一楽章はモヤモヤ、ウダウダのまま終わる。二楽章はファンタジックな伴奏の音楽で才気を発揮。三楽章はカスタネットも登場する南欧的情熱を感じる音楽。

チェロ協奏曲

チェロ協奏曲第1番ホ短調 op.58(1938年)
2.8点
後年に改作された作品だが、こちらの方が壮年期の力強い響きがするし、曲も8分ほど短いため好きかもしれない。とはいえ、どうも焦点が定まっていないようで捉えにくく、なんとなく雰囲気は良いがあまり印象に残らない曲である。ヴァイオリン協奏曲よりは落ちるという印象である。

チェロと管弦楽のための交響的協奏曲ホ短調(チェロ協奏曲第2番)op.125(1951年)
2.8点
第1番の改作。ショスタコーヴィチのようにどこか素直でないながらも軽妙でコミカルだったり、映画音楽のように柔らかく描写的だったり。晩年らしいシンプルさと、映画音楽のように響きは軽いが表情豊かな管弦楽の充実と、軽妙でコミカルなチェロのソロが魅力。いろいろな楽想が詰まったている。とはいえ、構成に芯がなくてまとまりないし、音が軽すぎる割には大作過ぎるし、いまいちである。

弦楽四重奏曲

弦楽四重奏曲第1番 ロ短調 op.50(1930年)
3.5点
意外性のあるモダンを志向した音楽であるがマイルドであり、割と明るくて情緒的で聴きやすい。あまり弦楽四重奏的ではなく弦楽合奏的な曲という気もするが、音楽的内容が充実している。どの楽章も豊富な材料を使って念入りに書かれていて心に訴えるものがあり、作曲者の実力をいかんなく発揮している。

弦楽四重奏曲第2番 ヘ長調(カバルダの主題による) op.92(1941年)
3.5点
1楽章は東南アジアの音楽のように、四重奏曲と思えないほど音を次々と分厚く積み重ねて素晴らしい音響効果を作り上げたりする。エキゾチックな主題を使うモダンな曲。2楽章は民族的なメロディーが心地よく、民族楽器を模した伴奏も楽しい。風光明媚な旅先を楽しむような雰囲気もある。不思議でセンスが高い曲。3楽章はやはり民族的で、展開の大胆さが楽しい。全体に1番より四重奏の扱いが巧み。

ヴァイオリンソナタ

ヴァイオリンソナタ第1番 ヘ短調 op.80(1946年)
3.5点
1楽章の憂鬱な深刻さ、2楽章の尖ったスケルツォと情熱的なメロディー、3楽章の夢幻的な世界、4楽章のポジティブさや激しさ。プロコフィエフの作品の中でも暗い情熱と本格的な精神性を志向している曲の一つ。

ヴァイオリンソナタ第2番 ニ長調 op.94bis(1944年)
3.8点
フルートソナタ op.94 の改作。なまめかしく情熱的で表現力に幅があるヴァイオリンの良さが生きており、奥行きのある曲に仕上がっている。改作は成功しており、元のフルートソナタより良くなったと思う。

2つのヴァイオリンのためのソナタ ハ長調 op.56(1932年)
3.0点
1楽章はバルトークのように前衛的で鋭角的で緊張感の高い音楽で期待感が高まるが、楽章が進んで耳が慣れていくにつれて奇妙な音楽と判明していき、わけがわからなくなってくる。16分で4楽章とコンパクトなので聴きやすいが、聴き終わると頭上に?マークが残る。

無伴奏ヴァイオリンソナタ ニ長調 op.115(1947年)
1.5点
全体にシンプルで、ユニゾンの合奏の方が良さそうに聞こえる。不思議な力強さがあるとは思うが、意味が全然理解出来ない音楽である。和声感がないし、音の動きも何がしたいか分からない。

その他の室内楽曲

ヘブライの主題による序曲 ハ短調 op.34(1919年) [クラリネット、弦楽四重奏、ピアノ]
3.5点
ピアノ五重奏にクラリネット付きでかなり重厚な響きである。民族的な憂いとおどけた感じを両立した主題が魅力的。クラリネットの陰影のある億色がメロディーとマッチして非常に効果的である。この時代にしては前衛的な響きでは全然なく、後期ロマン派の範疇に入っている音楽である。構成もしっかりしていて聴きやすく、胸に迫るものがある良作である。良い素材を活かして長くて自由に展開されて、最後に主題に戻る過程も秀逸で楽しめる。

ヴァイオリンとピアノのための5つのメロディー op.35bis(1925年)
3.8点
5つの歌詞のない歌op.35の編曲。暗く情熱的な小品集。おおっと驚く独特の美しさが全ての曲に登場して痺れるような感動を体験できる。特に3曲目は素晴らしい。これは掘り出し物。

五重奏曲 ト長調 op.39(1924年) [オーボエ、クラリネット、ヴァイオリン、ヴィオラ、コントラバス]
3.0点
バレエ音楽から編まれた曲というのは内容面からすぐ納得出来る。即物的な雰囲気が強いモダンな内容で、精神的な内容はあまりない。また、音に棘がなく、柔らかい雰囲気。アンサンブルと音を楽しむ分にはなかなかよい。

フルートソナタ ニ長調 op.94(1943年)
3.5点
どの楽章も軽快なフットワークと明るさが支配的であり、聞いていてかなり楽しい気分になれる。

チェロソナタ ハ長調 op.119(1949年)
3.0点
音感とセンスの良さは発揮されているものの、全体的な焦点がいまいちはっきりせずメロディーも耳に残らず、捉えにくい曲だと思う。チェロは運動的であり、ヴァイオリンとは全く違う楽器という把握のされかたでない印象がある。

無伴奏チェロソナタ 嬰ハ短調 op.134(1952年、未完)
3.3点
チェロ独奏独特の悲しげなモノローグが続く。響きが軽い印象があるプロコフィエフのチェロ曲の中で、この曲は重みがある。未完成なのが残念。

ピアノ・ソナタ

プロコフィエフのピアノ・ソナタは内容が充実した、たくさんの素材を惜しげも無く投入しような大変な力作揃いであると思う。

ピアノ・ソナタ第1番 ヘ短調 op.1(1909年)
3.5点
独特の疾走感が満載で、それ程長くない単一楽章の曲だが豊富な内容でもっと大作に感じる。スクリャービンのようなロマンの香りの部分がおおくあり素敵。

ピアノ・ソナタ第2番 ニ短調 op.14(1912年)
3.5点
1楽章こそ冴えないが、アップテンポの2,4楽章の切れがよく発想もよいといういい曲で、二楽章も悪くないので楽しく聴ける。まとまりが良い。

ピアノ・ソナタ第3番 イ短調 op.28「古い手帳から」(1917年)
3.5点
単一楽章でコンパクトにまとまっており初期プロコのめまぐるしいピアニズムと切れ味の鋭いスッキリ爽快な部分を楽しめる。しかし、爽快なだけでなく、なかなか多くの場面展開がある充実作品である。

ピアノ・ソナタ第4番 ハ短調 op.29「古い手帳から」(1917年)
3.8点
1楽章は前奏曲のような内容。2楽章は非常に強く心を捉えて頭からメロディーが離れなくなるような名作である。即物的な前衛主義とロマン派的センチメンタリズムの見事な融合であり、20世紀的な感情表現は出色の出来であり、なかなか他では聞けない名作であると思う。3楽章はアレグロでぐるぐるとジェットコースターのように突き進むようなダイナミックな作品であり、プロコフィエフの得意技を満喫できる。

ピアノ・ソナタ第5番 ハ長調 op.38(第1版:1923年)、op.135(第2版:1953年)
3.8点
柔らかくてシュールなぬくもりを感じる佳作。1楽章はアンニュイなようであるが、展開部のオスティナートのテンションの高まりはかなり聴き映えがする。2楽章は、浮遊感とシュールさとセンチメンタリズムを融合させた霊感に満ちた曲である。3楽章は最終楽章にしてはやや大人しいのが物足りない点ではあるが、この曲の全体的な浮遊感による統一感のためにはこれが適切という気もする。後半には激しいテンションも見せてくれる。

ピアノ・ソナタ第6番 イ長調 op.82(1940年)
4.0点
1楽章は重戦車がゴリゴリと地面のものを踏み潰して進むような曲。私は長年、1楽章の冒頭の重々しさと不協和音の不快さのせいで聴くのがしんどくて、わざと不快感を強調した作品と感じて身体が受け付けなかった。しかし、久しぶりに聴いたところ、平気で聴けるようになった。個性的で古典的な均衡と密度の濃さと4楽章作品ならではガッチリとした構築性と総合性とスケール感を持った傑作だとわかった。7番と8番は偏った作品であるため、6番こそがプロコフィエフの代表作と思うようになった。

ピアノ・ソナタ第7番 変ロ長調 op.83(1942年)
3.5点
無調であり、シュールで鋭角的で無駄をそぎ落とした1楽章。その緊密性の高さは評価できるが、強く心に響くものがあるとも言えないと思う。2楽章は間奏的なものあり、悪くないが特段の思い入れはない。7拍子で重音を重ねながら高速に一気呵成に進む短い3楽章は、一度聴いたら忘れられない名作である。

ピアノ・ソナタ第8番 変ロ長調 op.84(1944年)
3.8点
鋭角的な6番と7番と比較すると、8番は角が取れている。一番長い大作のソナタであり、曲の長さを活かした瞑想的な深さと構成感が好き。1楽章の瞑想的でありリズムの推進力が希薄。戦争末期のニヒルな絶望感を感じる。2楽章は少しインテンポなリズム感が出てくるのがよい。3楽章は高速で緊張感がありかっこいいが、それまでの楽章のニヒルな深さもスポイルしていない。そして中間や最後の爆走は気持ちいい。

ピアノ・ソナタ第9番 ハ長調 op.103(1947年)
3.3点
後期らしい簡潔さが現れている。聴きがいはあるが、これまでのソナタと比較すると簡素さのために圧倒的な充実感には到達していないところはある。とはいえ、プロコフィエフらしい発想の豊かさは十分に現れている。

その他のピアノ曲

4つの練習曲 op.2(1909年)
3.0点
初期プロコフィエフらしい新奇で切れ味鋭い音楽やピアノ書法と練習曲らしいパッセージの融合という点で、聴く前の期待は十分に満たしてくれた。名作というほどではないが、楽しむことは出来る。

4つの小品 op.3(全4曲)(1907年-1911年)
2.3点
1曲目こそ2分あるが2曲目以降は1分以内のごく短い曲。短すぎてよく分からない。ほとんど印象に残らないまま4曲が終わってしまう。

4つの小品 op.4(全4曲)(1908年)
3.3点
ピアノソナタのように、ずっしりとした音の重さと本格性があり、4曲のつながりが考えられて構成されている。暗黒の深遠を覗くような世界は、戦争ソナタを予感させるものである。作品2や作品3のピアノ小品群より重要と思う。

トッカータ op.11(1912年)
3.5点
演奏効果が高い。初期プロコフィエフらしい野蛮で叙情性を排した鋼鉄のような凄い曲。演奏効果が高くて一度聴くだけで忘れられないほど印象に強く残る。

10つの小品 op.12(全4曲)(1906年-1913年)
3.0点
軽快な小品集。大バレエ音楽作曲家らしいリズム感の良さと、華々しさと、音の軽やかさ、繊細な愛らしさ、変幻自在さなどが特徴。バラエティーが豊かだし基本的に明るい曲ばかりなので割と楽しんで聴ける。有名な曲はないが、気軽に楽しむ感じの曲集として、なかなか良いと思う。

サルカズム(風刺) op.17(全5曲)(1914年)
3.0点
短い曲の集まりであり、独特の無機質な音の塊だが、詩的な表現力も裏に見えて面白い。

束の間の幻影 op.22(全20曲)(1917年)
3.8点
ごく短い曲を集めている。この手の1分前後の曲を集めた曲集の中ではかなり優れていると思う。ピアニスティックな大人の音楽であり、どの曲もかなり聴き応えがある。新鮮な発見に満ちており、驚くようなセンスと霊感を発揮した曲が並んでいる。

年とった祖母の物語 op.31(全4曲)(1918年)
3.5点
題名が秀逸。まさにこの題名の通りの昔懐かしい物語の記憶を呼び起こすような曲。

4つの小品 op.32(1918年)
2.5点
まったりした曲調にプロコフィエフらしい新奇さを表現したという印象の4曲。プロコフィエフとしてはありきたりの曲ばかり。

物自体 op.45(全2曲)(1928年)
3点
題名に納得。シュールな現代美術的な世界だが、現代音楽と違い音楽として楽しめる。

2つのソナチネ op.54(1931年-1932年)
2.5点
第1番 ホ短調は変なフレーズや和声の構成でつなげられた無機質で前衛的な曲である。ソナタの総合性のある世界とはだいぶ違うソナチネらしい極小的な実験的世界を楽しめる。第2番 ト長調も1番と同様に無機質で前衛的な世界であり、曲の印象は似ている。和音が少なく響きが軽いのが独自世界を作るのに一役買っている。

3つの小品 op.59(1933年-1934年)
2.8点
散歩、風景、田園風ソナチネ
1曲目は前衛的な印象という程度。2曲目はパラパラパラとピアノの軽快に動くのが印象的。3曲目は確かに田園的な響きがして親密さも感じるのだが、和声の捻りが入っており、全然落ち着かないので、普通の田園的な曲とは大きく異なる。

思考 op.62(1933年-1934年)
アダージョ・ペンシエローソとモデラート、レント、アンダンテ

子供の音楽 op.65(全12曲)(1935年)
3.3点
プロコフィエフらしいきびきびとした音の動きと新鮮な響きは、子供向けの少ない音数のごく短い曲でも十分に発揮されている。

バレエ「ロメオとジュリエット」からの10の小品 op.75(1937年)
3点
ピアノ編曲版として、オケ版とは別にピアノ編曲が好きな人なら楽しめる。

合唱曲

カンタータ『彼らは7人』(1917-18年)
3.3点
耳を突き刺し心を突き刺すような先鋭的な激しさが強烈な曲。プロコフィエフが本気でリアリズムによる批判的な音楽を書いた曲。これはショスタコーヴィチ以上にエグい。

カンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」 op.78(1939年)
2.5点
暑苦しいばかりであまり楽しめなかった。戦闘ものの映画音楽の改作。同等以上の映画音楽はたくさんあると思われるため、いくらプロコフィエフ作曲だからと言ってこれを特別視する必要はないと思った。壮大なカンタータ風音楽ではあるが、あまりにわざとらしくて成功には聴こえない。

オラトリオ「平和の守り」 op.124(1950年)
3.0点
本格的なカンタータ。大げさすぎず不協和音が全然ない平明さながらも懐の深さをもって音楽が進んでいく。平和をテーマにしながらも力が入りすぎず辛気臭くもならず、いい塩梅である。しかし心を強く捉えるたり、強く感心するものもない。10曲もあるのにスケール感があまりない。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%95

セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ(ロシア語: Сергей Сергеевич Прокофьев シェルギェーイ・シェルギェーイェヴィチュ・プラコーフィイェフ;ラテン文字転写の例:Sergei Sergeevich Prokofiev、1891年4月27日[注 1] - 1953年3月5日)は、ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者。数多くの形式の音楽に傑作を残したことで知られており、20世紀の大作曲家のひとりであると認知されている。

作品には『三つのオレンジへの恋』の行進曲、組曲『キージェ中尉』、バレエ音楽『ロメオとジュリエット』、『ピーターと狼』といったような広く聴かれる楽曲がある。

確立された型や様式の中で取り組み生み出された作品には、習作を除くと7つのオペラ、7つの交響曲、8つのバレエ音楽、5つのピアノ協奏曲、2つのヴァイオリン協奏曲、1つのチェロ協奏曲とチェロと管弦楽のための交響的協奏曲、そして9つのピアノソナタがある。

帝政期のロシアに生を受け、13歳でサンクトペテルブルク音楽院で作曲・ピアノを学ぶ[2]。音楽院を卒業したプロコフィエフは、当初因習を打ち破る作曲家兼ピアニストとして名を上げた。最初の2曲のピアノ協奏曲のように、不協和音と超絶技巧に獰猛さを見せる作品群を自分の楽器であるピアノのために書いて悪名を高めたのである。1915年、管弦楽のための『スキタイ組曲』により一般的な作曲家兼ピアニストの枠組みから明確に抜け出す。これは元々バレエ・リュスのセルゲイ・ディアギレフの委嘱により作曲されたバレエ音楽から編みなおされた作品だった。ディアギレフはさらに3作のバレエ音楽、『道化師』、『鋼鉄の歩み』、『放蕩息子』をプロコフィエフに委嘱しており、その全てが初演時に評論家と同業者にセンセーションを巻き起こした。しかしプロコフィエフが最も関心を注いだのはオペラであり、『賭博者』や『炎の天使』など数作品を作曲した。『三つのオレンジへの恋』はシカゴ・オペラ協会のために書かれた後に10年以上にわたりヨーロッパとロシアで上演され、彼の生前のオペラでの成功作のひとつとなった。

1917年のロシア革命以後は、ソビエトの大臣であったアナトリー・ルナチャルスキーの公認を得てロシアを後にし、アメリカ合衆国、ドイツ、パリと居住地を移しながら作曲家、ピアニスト、指揮者として生計を立てた。この頃にスペイン出身の歌手であったカロリナ・コディナと結婚、2人の息子を儲けた。1930年代のはじめには世界恐慌によりアメリカや西ヨーロッパでプロコフィエフのバレエやオペラの上演機会が減少する。自らを第一に作曲家であると看做していた彼はピアニストとして演奏旅行をしなければならないこの時に憤慨し、新作の委嘱のためにソビエト連邦へ向かうことが多くなっていく。そして1936年にはついに家族を連れて祖国へ戻ることになった。祖国では、特に『キージェ中尉』、『ピーターと狼』、『ロメオとジュリエット』、そしてとりわけ『アレクサンドル・ネフスキー』がいくらかの成功を収めた。

ナチスによるソ連侵攻に鼓舞されたプロコフィエフは、最大の野心作としてレフ・トルストイの『戦争と平和』のオペラ化を行う。1948年に「非民主的形式主義」との批判を受けた。にもかかわらず、ロシアの新しい世代の演奏家であるスヴャトスラフ・リヒテル、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチらから個人的に、また芸術家としての支援を受け、リヒテルにはピアノソナタ第9番、ロストロポーヴィチには交響的協奏曲を書いている。

生涯

幼少期と最初の作曲

プロコフィエフに最初に作曲の指導を施した作曲家のレインゴリト・グリエール
1891年にロシア帝国、エカテリノスラフ県バフムート郡のソンツォフカ(Сонцовка;ラテン文字転写の例:Sontsovka、現在のウクライナ、ドネツィク州、ソンツィフカ)に生を受けた[3]。父のセルゲイ・アレクセイヴィチ・プロコフィエフ(1846年 - 1910年)は農業技術者で貴族の農場の管理人をしていた。母のマリヤ・グリゴリエヴナ・プロコフィエヴァ(旧姓ジトコヴァ、1855年 - 1924年)はかつてシェレメテフ家(英語版)に支配されていた農奴の家系の出で、その領主の庇護により農奴の子らは若くから舞台と芸術について教えを受けていた[4][5][6][7]。プロコフィエフに最初に作曲を教えたレインゴリト・グリエールが記すところでは、彼女は「美しく聡明な目をした長身の女性(中略)自身がいかにすれば温かく純真な雰囲気を作り出せるかを心得ていた[8]。」1877年に結婚した後、一家はスモレンスク県にある小さな地所に移り住んだ。やがてセルゲイ・アレクセイヴィチは土壌技術者の職を得て、学生時代に一緒だったドミトリ・ソンツォフに雇われることになる。一家が引っ越したのはウクライナのステップの中にある彼の地所だったのである[9]。

既に2人の娘を失っていたマリヤは、プロコフィエフが生まれるまで音楽に人生を捧げていた。まだ息子が幼い頃にはピアノのレッスンを受けるためにモスクワもしくはサンクトペテルブルクで2か月を過ごしていた[10]。主としてショパンやベートーヴェンの作品を夕方に練習していた母のピアノの音色に触発されたセルゲイは、5歳で初めてのピアノ曲を作曲している。『インドのギャロップ』というこの作品は母が譜面に起こしたもので、幼いプロコフィエフが「黒鍵に取り組む気が起きなかった」という理由でヘ長リディア旋法で書かれている[11]。7歳までにはチェスの指し方も覚えた[12]。チェスへの情熱は燃え続け、チェスの世界王者であるホセ・ラウル・カパブランカと知り合いになり、1914年に行われた多面指しの模擬戦では勝利を収めている。ミハイル・ボトヴィニクとも面識があり、1930年代に幾度か対戦が行われた[13][注 2]。9歳になると最初のオペラ『巨人』や[注 3]、序曲、他の様々な小品を作曲していた。

正式な教育と議論を呼んだ初期作品
1902年、母がモスクワ音楽院の学長を務めていたセルゲイ・タネーエフに出会い、当初アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼルの下でプロコフィエフへのピアノと作曲の指導を開始すべきであると助言を受けた[15]。これは実現せず[16]、タネーエフは代わりに1902年の夏に作曲家でピアニストのレインゴリト・グリエールをソンツォフカに向かわせてプロコフィエフを指導する手はずを整えた[16]。最初の講義が最終段階に至り、11歳の本人の強い希望により新米作曲家プロコフィエフは初めて交響曲の作曲に取り組んだ[17]。翌年の夏にもグリエールはソンツォフカを訪ねて更なる指導を行っている[18]。数十年が経過してグリエールとのレッスンについて記した際、プロコフィエフは師の思いやりのある教授法に当然の称賛を送りつつも、授けられたものが後になって頭から消し去らねばならなかった「四角四面の」フレーズ構造と因習的な転調だったことには不平を漏らしていた[19]。それでもなお、必要であった理論という道具を備えたプロコフィエフは、不協和な和声や一般的でない拍子の実験を開始している。それを行うにあたっては彼が「小歌曲」と呼んだ短いピアノ曲を用い[注 4]、これが彼独自の音楽形式の基礎を形成していった[20]。


息子の才能が開花していく一方で、プロコフィエフの両親はこれほど幼いうちから子どもを音楽の道に進ませてよいものか躊躇っており、モスクワの優良な高校へ通わせる可能性について考えていた[21]。1904年までに母はモスクワではなくサンクトペテルブルクにすることを心に決めており、プロコフィエフと2人でこの当時の首都を訪ねて教育のために移り住めるのかを探った[22]。2人はサンクトペテルブルク音楽院の教授だったアレクサンドル・グラズノフに紹介され、プロコフィエフに会ってその音楽を見てみたいと請われる。プロコフィエフはこの時さらに2つのオペラ『無人島で』と『ペスト流行期の酒宴』を完成させており、4作目の『水の精』に取り組んでいた[23]。グラズノフはいたく感銘を受け、プロコフィエフの母へ息子に音楽院の入学試験を受けさせるよう強く勧めた[24]。プロコフィエフは試験に合格、この年に入学を果たす[25]。

クラスメイトの大半に比べて数年も年少のプロコフィエフは風変りで傲慢な人物と見られており、多数の同級生の間違いを記録につけて彼らを苛立たせた[26]。この時期にはピアノをアレクサンドル・ウィンクラーに[27]、和声と対位法をアナトーリ・リャードフに、指揮法をニコライ・チェレプニンに、管弦楽法をニコライ・リムスキー=コルサコフに学ぶなどした[注 5][28]。授業では作曲家のボリス・アサフィエフやニコライ・ミャスコフスキーと一緒になっており、後者とは比較的親密となり生涯にわたる親交を育んだ[29]。

サンクトペテルブルクの楽壇の一員として、自らピアノを演奏して披露した自作曲により称賛を受ける傍ら、音楽の反逆者として名声を高めた[30][31]。1909年には特筆すべきことのない成績で作曲のクラスを卒業している。音楽院には籍を置いたままとし、アンナ・エシポワにピアノの指導を受け、チェレプニンの指揮のレッスンで研鑽を続けた[32]。

1910年に父が他界して財政的支援が滞った[33]。幸運にも音楽院の外部で作曲家、ピアニストとして名を馳せ始めており、サンクトペテルブルクの『現代音楽の夕べ』にも顔を出していた。その場においては冒険的な自作のピアノ作品を複数披露しており、そうした中に非常に半音階的で不協和な練習曲集 作品2(1909年)があった。この作品の演奏が『夕べ』の主催者らに強い感銘を与え、プロコフィエフは彼らの誘いでアルノルト・シェーンベルクの3つのピアノ小品 作品11のロシア初演を手掛けることになった[34]。和声の実験はピアノのための『サルカズム(風刺)』 作品17(1912年)でも続いており、ここでは多調の使用が推し進められている[35]。最初の2作のピアノ協奏曲が書かれたのはこの頃で、そのうちピアノ協奏曲第2番は1913年8月23日、パヴロフスクでの初演の際にスキャンダルを巻き起こした。ある人物は次のように絶叫して会場を後にしたと記述している。「こんな未来派の音楽なんかくそくらえだ!屋根の上の猫ですらましな音楽を奏でるぞ!」一方でモダニストらは魅入られていた[36]。

1911年にロシアの高名な音楽学者で音楽評論家のアレクサンドル・オッソフスキーから支援がもたらされる。彼が音楽出版社のユルゲンソンにプロコフィエフに協力的な手紙を送り、これによって彼のもとに連絡が届いたのである[37]。プロコフィエフは1913年に初の国外旅行に出てパリとロンドンを巡り、その中ではじめてセルゲイ・ディアギレフのバレエ・リュスに出会うことになる[38]。

初期バレエ
1914年、プロコフィエフは音楽院の課程を「ピアノ勝負」への参加で締めくくる。これはピアノの成績上位5名がシュレーダーのグランドピアノをかけて競う大会であった。プロコフィエフは自作のピアノ協奏曲第1番を演奏して優勝を手にした[39]。

その後まもなく、ロンドンへ赴いたプロコフィエフは興行主のセルゲイ・ディアギレフに連絡を取った。ディアギレフはプロコフィエフにとって初めてとなるバレエ『アラとロリー』を委嘱する。しかし、1915年にプロコフィエフがイタリアにいたディアギレフに作品を持っていくと、「ロシア的でない」として拒絶されてしまう[40]。「国家的な性格の音楽」を書くように強く促した彼は[41]、次いでバレエ『道化師』を委嘱した[注 6]。ディアギレフの指導に従い、プロコフィエフは民俗誌学者のアレクサンドル・アファナーシェフの民話集から題材を選定し[42]、ストーリーはある道化師と度重なる信用詐欺にまつわるものとなった。これは以前にディアギレフがイーゴリ・ストラヴィンスキーにバレエになり得る題材として提案していたもので、プロコフィエフがこれをバレエのシナリオへと落とし込むにあたってはディアギレフと彼の振付師レオニード・マシーンが力を貸した[43]。バレエの経験の少ないプロコフィエフは、ディアギレフの仔細にわたる批評に基づいて1920年代に作品に大幅な改訂を加えることになり[注 7]、そうしてやっと初演にこぎつけたのであった[45]。

1921年5月17日のバレエの初演は大きな成功を収め、観客からの賛辞に迎えられた。その中にはジャン・コクトー、ストラヴィンスキー、モーリス・ラヴェルらの姿もあった。ストラヴィンスキーは本作を「楽しく聴くことができるただひとつの現代音楽作品」と評し、ラヴェルは「天才の作品」と述べた[46]。

第一次世界大戦と革命
第一次世界大戦の最中、プロコフィエフは音楽院に復学してオルガンを学ぶことで徴兵を逃れた。フョードル・ドストエフスキーの小説『賭博者』を題材にオペラ『賭博者』を作曲したが、リハーサルは問題に悩まされ続け、1917年に予定されていた初演は2月革命の勃発により中止を余儀なくされてしまった。同年の夏には交響曲第1番『古典』が書き上げられた。副題はプロコフィエフ自身によって付けられており、作曲者曰くハイドンがもし同じ時代に生きていたとしたら用いたであろう様式の音楽となっている[47]。この作品は様式的には多かれ少なかれ古典的であるが、当時の音楽の要素が多分に盛り込まれている。

交響曲第1番と時を同じくして生まれたのがヴァイオリン協奏曲第1番であった。1917年11月の初演が計画されていたが、どちらの作品も延期となり、それぞれ1918年4月21日、1923年10月18日まで待たねばならなくなった。プロコフィエフはコーカサス地方のキスロヴォツクにて、一時母と過ごしていた。

管弦楽と合唱のための「カルデアの祈祷」とされたカンタータ『彼らは7人』の総譜完成後[48]、プロコフィエフは「何もすることがなく、宙に浮いた時間が重く自分の両手の上にある」状態に陥った。ロシアが「いま音楽を必要としていない」と考え、祖国の騒乱が過ぎ去るまでの間をアメリカ合衆国に運命をかけることを決断した[49]。1918年3月にモスクワとペテルブルクへと向かい、財政面を整えてパスポートの手配を行った。5月には米国へと旅立つことになるが、教育人民委員であったアナトリー・ルナチャルスキーから公式に許可を得てのことだった。ルナチャルスキーはこう述べていた。「君は音楽の革命家、我々は人生の革命家だ。私たちは一緒になって働かねばならない。だが、君がアメリカに行くことを望むのなら、私は君の道に立ち塞がるような真似はすまい[50]。」

日本滞在
1918年、『古典』交響曲の初演を果たした直後、プロコフィエフはアメリカへの亡命を決意した。5月7日、シベリア鉄道にてモスクワを発つ。31日、敦賀港に上陸し、6月1日に東京に到着した。冬シーズン中の南米行きの船便を探すが出航した直後で、次便ではシーズン終了後になることから、8月になるまで日本に滞在してから北米へ向かうことにする。11日までは東京、横浜周辺、12から18日には京都に滞在し、琵琶湖疏水や祇園などを散策した。13日に大阪を訪れた後、19から28日にかけて奈良に留まって奈良ホテルに宿泊、奈良公園周辺を散策している。この奈良滞在中に、ピアノ協奏曲第3番等の原型となった『白鍵四重奏曲』の構想が練られた。29日に東京に戻り、以後離日まで東京、横浜周辺に滞在するが、7月19-21日には軽井沢を、28日には箱根を訪れている。更に7月6日、7日に東京、9日には横浜で自作を含むピアノ・リサイタルを開催した。8月2日にアメリカへ向けて出国した。このプロコフィエフの日本滞在は西洋の大作曲家の最初の日本訪問と言うことができ、評論家大田黒元雄や徳川頼貞などとの交流により、日本の音楽界に少なからず影響を与えたといわれる。

国外生活
エンジェル島(英語版)の入国管理官の審査から解放されて、1918年8月11日にサンフランシスコに到着すると[51]、プロコフィエフは間もなくセルゲイ・ラフマニノフら、著名なロシアからの亡命者と比較されるようになる。デビューを飾ったニューヨークでのソロ・コンサートはいくつかの契約に結び付いた。またシカゴオペラ協会(英語版)の音楽監督であったクレオフォンテ・カンパニーニ(英語版)との間に、新作オペラ『3つのオレンジへの恋』の上演を行うという契約を結んだ[52]。しかしカンパニーニが病に倒れて他界し、初演は延期となる[53]。この延期もオペラにまつわるプロコフィエフの不運のひとつであった。このオペラには多くの時間と労力が注がれていたため、この失敗は彼のソリストとしてのキャリアも犠牲にした。気づけばたちまち経済的困窮に陥っており、1920年4月には失敗してロシアに戻りたくないと、パリへ向かって旅立っていた[54]。

パリではディアギレフのバレエ・リュスとの間で契約を再確認した[55]。また、ピアノ協奏曲第3番などの未完成のままになっていた旧作を完成させた[56]。『3つのオレンジへの恋』は最終的に1921年12月30日にシカゴで作曲者自身の指揮により初演されることになった[57]。ディアギレフはこのオペラに興味を示し、1922年6月にプロコフィエフにピアノ伴奏版を演奏するように依頼する。この時には2人とも『道化師』再演のためにパリにいたため、プロコフィエフは上演の可能性について考えられるようになった[58]。しかし、オーディションの場にいたストラヴィンスキーは1幕より後を聴くのを拒否してしまった[58]。「オペラを作曲して時間を浪費している」という彼の非難に対し、プロコフィエフはストラヴィンスキーは「自身が誤りに対する耐性がないのだから、芸術の常道を主張できる立場にない」とやり返した[59]。プロコフィエフによればストラヴィンスキーは「怒り心頭に発し[注 8]」て「殴り合いに発展しそうだった我々は辛くも離れることができた」という[59]。その結果、「我々の関係は張りつめたものとなり、数年間にわたってストラヴィンスキーは私に批判的な態度を取った[58]。」

1922年3月には母とともにバイエルンのアルプス山あいにある小村エッタル(英語版)に移り住み[60][61]、1年以上の期間を費やしワレリー・ブリューソフの同名の小説(英語版)に基づくオペラ『炎の天使』に集中した。この頃になるとプロコフィエフの音楽はロシア国内にファンを獲得しており、帰国の誘いも受けるようになっていたが、彼はヨーロッパ残留を決意する。1923年にはスペイン人の歌手であるカロリナ・コディナ(1897年-1989年、Lina Lluberaとして活動)と結婚[62]、その後パリへと戻った[63]。

パリでは交響曲第2番などの複数の作品が演奏されたが反応は熱のこもらないもので、プロコフィエフは自分が「どうやらもはや大きな評判にはならない」と感じ取るようになる[64]。それでもこの交響曲を耳にしたことでディアギレフはバレエ『鋼鉄の歩み』を委嘱することになったとみられる。ソ連の工業化を描写することを意図したモダニストのバレエ作品であった本作は、パリの聴衆と評論家から熱狂的に迎えられることとなった[65]。

1924年頃、プロコフィエフはクリスチャン・サイエンスに招かれた[66]。彼は健康と気性の荒さに役に立つと信じてその教えを実践するようになった[67]。伝記作家のサイモン・モリソンによれば、その後生涯を通じて教えに忠実であり続けたという[68]。

プロコフィエフとストラヴィンスキーは友好関係を回復する。しかし、プロコフィエフは当時の新作であった八重奏曲やピアノと管楽器のための協奏曲にみられるようにストラヴィンスキーが「バッハを様式化すること」を特に毛嫌いしていた[69][注 9]。ストラヴィンスキーの側では、プロコフィエフを現代最高のロシアの作曲家であり、自分に続く者であると評していた[71]。

初めてのソビエト訪問
1927年には初となるソ連への演奏旅行を実施した[72]。2か月を超える期間をモスクワとレニングラード(改称されたサンクトペテルブルク)で過ごし、キーロフ劇場(現在のマリインスキー劇場)では『3つのオレンジへの恋』の上演で大きな成功を収めた[73]。1928年には上演されないままとなっていたオペラ『炎の天使』から広く題材を採る形で交響曲第3番を完成させた。指揮者のセルゲイ・クーセヴィツキーは第3番を「チャイコフスキーの6番以来の最も偉大な交響曲」と評した[74]。

しかし、その間にクリスチャン・サイエンスの影響下にあったプロコフィエフは印象主義的様式、並びに『炎の天使』の素材に背を向けるようになっていた[注 10]。彼は今や自身が「新しい単純性」と呼ぶものを好んでおり、1920年代の現代音楽の多くを占めた「工夫と複雑性」よりも強く心からこれを信じていた[76][注 11]。1928年から1929年にかけて、ディアギレフのためとしては最後となるバレエ『放蕩息子』を作曲する。1929年5月21日にパリで行われた初演は、ジョージ・バランシンの振り付けでセルジュ・リファールがタイトル・ロールを踊った。聴衆と評論家は、最後に放蕩息子が父に迎え入れられるために膝をついて舞台中を引きずり歩く場面に衝撃を受けた[78]。このシーンに付された音楽について、ディアギレフはプロコフィエフが「かつてないほど清澄、簡素、旋律的、そして柔和」であったことを認めている[79]。このわずか数か月後にディアギレフはこの世を去った[80]。

その夏にプロコフィエフは1925年に着手していたディヴェルティメント 作品43を完成させ、音楽院時代の作品であるシンフォニエッタ 作品5/48の改訂を終えた[81][注 12]。同年10月に、休暇からパリに戻るために家族を乗せて運転する途中で事故に見舞われる。車は横転し、プロコフィエフは左手の筋肉の一部を痛めてしまった[82]。これにより事故のすぐ後に行われた演奏旅行で訪れたモスクワでの公演は中止せざるを得なくなったものの[83]、客席から自作曲の演奏を楽しむことができた[84]。また、このことがかえって新しいソビエト音楽を数多く聴き、数年ぶりにロシアの音楽家たちとの交流をするきっかけとなって母国への帰郷に導く役割を果たした[85]。ボリショイ劇場ではバレエ『鋼鉄の歩み』のオーディションに加わり、ロシア・プロレタリア音楽家同盟(RAPM)のメンバーから作品について尋問を受けた。彼が受けた質問は次のようなものである。描かれている工場は「労働者が奴隷である資本主義者の工場なのか、労働者が主人であるソビエトの工場なのか。もしこれがソビエトの工場であるなら、プロコフィエフはいつ、どこでこれを取材したのか。1918年から現在に至るまで海外暮らしを続けており、最初にこちらに赴いたのは1927年の2週間であろう?」プロコフィエフはこう回答した。「それは音楽ではなく政治にかかわることですので、お答えいたしません。」RAPMはこのバレエを「平板で低俗な反ソビエト的逸話、ファシズムに近接した革命に反する楽曲」と断罪した。ボリショイ劇場はこのバレエを拒絶するしかなかった[86]。

左手が回復したプロコフィエフは、その頃のヨーロッパでの成功にも支えられて1930年代の初頭に米国ツアーを成功裏に終えた[87]。この年に、パリ国立オペラで主席バレエダンサーとなっていたセルジュ・リファールの委嘱に応えて、初めてディアギレフとのかかわりがないバレエ『ドニエプルの岸辺で』 作品51の作曲に取り掛かった[88]。1931年と1932年にはピアノ協奏曲第4番とピアノ協奏曲第5番を完成させている。次の年には交響的な歌 作品57が完成される。友人のミャスコフスキーは、ソ連の中でこの作品を聴くことになる人々のことを念頭に、プロコフィエフに次のように語っている。「(この楽曲は)我々にとってはいまひとつです(中略)ここにはモニュメンタリズムにより我々が意図するものが欠けています - それは貴方が自家薬籠中のものとするよく知られた単純性と広い輪郭ですが、一時的に注意深く避けているのです[89]。」

1930年代初期までにはヨーロッパとアメリカは世界恐慌に苦しめられており、新作のオペラやバレエの上演は難しくなっていた。しかし、ピアニストとしてのプロコフィエフを聴きに来る聴衆の数は、少なくともヨーロッパでは減少を見せなかった[90]。それでも、自らをなによりもまず作曲家であると考えていたプロコフィエフは、ピアニストとしての出番のために失われる作曲の時間の量に怒りを募らせていった[91]。一時ホームシックに罹ったこともあり、ソ連との間に太い関係性を築き始めたのであった。

RAPMが1932年に解散すると、プロコフィエフは祖国とヨーロッパの間で音楽大使として活動するようになっていき[92]、作品の初演と委嘱に関してはソ連からの賛助を得ることが多くなっていった。例えば、『キージェ中尉』はソ連の同名の映画(英語版)のための音楽として委嘱された作品である[93]。

他にも、レニングラードのキーロフ劇場からはバレエ『ロメオとジュリエット』の委嘱が入った。この作品はアドリアン・ピオトロフスキー(英語版)とセルゲイ・ラドロフによって「ドラムバレエ」(drambalet、ドラマ化されたバレエ)という発想で創作されたシナリオに曲を付けたものだった[注 13][94]。ラドロフが1934年にキーロフ劇場に辞表を叩きつけるという事件が起こり、モスクワのボリショイ劇場と新しい契約への署名が行われたが、これはピオトロフスキーが関係を維持するとの申し合わせの上でのことだった[95]。しかし、シェイクスピアの原作とは異なってバレエに用意されたハッピー・エンドを巡ってソビエトの文化に関わる役人の間に論争が巻き起こり[96]、芸術委員会の議長を務めていたプラトン・ケルジェンツェフ(英語版)の命によりボリショイ劇場のスタッフの見直しが行われる間、上演は無期限延期となってしまった[97]。親友のミャスコフスキーは何通もの書簡の中でどれだけプロコフィエフにロシアにいて欲しいと思っているかを綴っている[98]。

ロシアへの帰国
4年にわたってモスクワとパリの間を行きつ戻りつした後の1936年、プロコフィエフはモスクワに居を構えることにした[99][100]。同年には彼の全作品中でも指折りの知名度を誇る『ピーターと狼』が、ナターリャ・サーツ(英語版)の中央児童劇場(英語版)のために作曲された[101]。サーツはさらにプロコフィエフに2曲の子ども用歌曲「Sweet Song」と「Chatterbox」を書くよう説得し[102]、これらに「The Little Pigs」を加えて最終的に『3つの子供の歌』 作品68として出版された[103]。プロコフィエフはさらに巨大な『十月革命20周年記念のためのカンタータ』を作曲し、記念の年中の初演を目指した。しかし、これは芸術委員会を前にしたオーディションを要求したケルジェンツェフによって巧みに阻止されてしまう。「何をしているつもりかね、セルゲイ・セルゲーエヴィチ、人民ものもであるテクストを取り上げて、そこへこのような理解不能な音楽とつけるとは[104]。」このカンタータが部分的な初演を迎えるのは1966年4月5日、作曲者の死からさらに13年の時間を待たねばならなかった[105]。

新たな環境に内心不安を感じつつも順応を強いられたプロコフィエフは、公式に承認されたソビエトの詩を歌詞として用いてミサ曲(作品66、79、89)を作曲した。1938年、セルゲイ・エイゼンシュテインと歴史叙事詩による映画『アレクサンドル・ネフスキー』を共同制作し、プロコフィエフ作品でも有数の独創的かつ劇的な音楽を書き上げた。映画の方は非常に粗末な録音状態となったが、彼はこの劇判をメゾソプラノ、合唱と管弦楽のためのカンタータ『アレクサンドル・ネフスキー』へと改作、多くの演奏と録音に恵まれた。『アレクサンドル・ネフスキー』の成功に続き、初となるソビエトを題材にしたオペラ『セミョーン・カトコ』を書き上げる。これはフセヴォロド・メイエルホリドの演出による上演を目指したものだったが、メイエルホリドが1939年6月20日にスターリン秘密警察組織であった内務人民委員部に逮捕され、1940年2月2日に銃殺されたために初演は延期となった[106]。メイエルホリドの死からわずか数か月後に、プロコフィエフは「招待」を受けてスターリンの60歳の誕生日を祝うカンタータ『スターリンへの祝詞』 作品85を作曲している[107]。

1939年の暮れ、今日では「戦争ソナタ」として広く知られるピアノソナタ第6番、第7番、第8番が作曲された。初演はそれぞれ、第6番がプロコフィエフ自身によって1940年4月8日に[108]、第7番がスヴャトスラフ・リヒテルによって1943年1月18日にモスクワで、第8番がエミール・ギレリスによって1944年12月30日にモスクワで行われた[109]。その後はとりわけリヒテルがこれらの作品を擁護した。伝記作家のダニエル・ヤッフェ(Daniel Jaffé)はプロコフィエフが「無理をして至福のスターリンを喜ばしく喚起させる楽曲を作ったが、自分がその役割を演じていたのだということ」そして、後の3つのソナタでは「自らの真の心情を表現したのだと人々に信じてもらいかった」のであろうと論じている[110]。その証拠として、ヤッフェはピアノソナタ第7番の中間楽章でロベルト・シューマンの『リーダークライス』から「悲しみ」(Wehmut)の主題が引用されていることを挙げている。その歌詞は次のような内容である。「私は時に嬉しいかのように歌い、人知れず涙を流すことで心を解き放っている。ナイチンゲールは(中略)牢の深みから脱することを切に願って歌をさえずる(中略)人々は喜び、その痛み、歌に込められた深い悲しみを知ることはない[111]。」皮肉にも(彼の引喩に気づく者はなかったとみられ)、第7番のソナタはスターリン賞の第2席、第8番は第1席を獲得した[109]。

その間、ようやく1940年1月11日になって『ロメオとジュリエット』がレオニード・ラヴロフスキー(英語版)の振付けによってキーロフ・バレエで上演を迎えた[112]。居合わせた者が皆驚いたことに、踊り手たちは楽曲のシンコペーションのリズムへの対処に苦労して公演をボイコットしかかっていたにもかかわらず、バレエはたちまち成功を収め[113]、ソビエトの劇的バレエの頂点に君臨する偉業と看做されるようになったのであった[114]。

戦時中
プロコフィエフはレフ・トルストイの叙事的小説『戦争と平和』を題材としたオペラの構想を温めており、1941年6月22日にバルバロッサ作戦におけるドイツ国のソ連への進行開始の報せでこの主題が一層時宜を得たものに思われるようになった。彼は2年をかけて自分自身の手による『戦争と平和』を書き上げた。戦禍を逃れるため他の多くの芸術家らとともにまずコーカサスへと疎開し、そこで弦楽四重奏曲第2番を作曲している。1939年に出会っていた[115]リブレット作者のミーラ・メンデリソンとの関係が元で、この頃までにプロコフィエフと妻のリーナはついに別離に至っていた。喧嘩別れとなっていたにもかかわらず、プロコフィエフはリーナと息子たちにモスクワを出る避難民として一緒にいこうと説得したが、リーナは留まることを選択した[116]。

戦時中は作曲家らに課せられた「社会主義リアリズム」の様式で書かねばならないという制約は弱まっており、プロコフィエフは概して自らのやり方で作曲を行うことができていた。ヴァイオリンソナタ第1番 作品80、交響組曲『1941年』 作品90、カンタータ『名もない少年のバラード』 作品93は全てこの時期に生まれている。1943年にはカザフスタン最大の都市であるアマル・アタでエイゼンシュテインと合流し、映画音楽『イワン雷帝』、そして彼の作品中でも指折りの旋律美で称賛を集めるバレエ『シンデレラ』の制作を行った。この年のはじめには『戦争と平和』からの抜粋をボリショイ劇場共同体の面々に演奏したが[117]、ソビエト政府の意見によりこのオペラは何度も改訂されることとなった[注 14]。1944年にはモスクワ郊外にある作曲家たちの居留地にて交響曲第5番 作品100が書き上げられた。1945年1月13日の初演では彼自身が指揮棒を握った。これは1944年12月30日のピアノソナタ第8番と、同じ日の『イワン雷帝』第1部の初演が大きな成功を収めてわずか2週間後のことだった。

『ピーターと狼』及び『古典』交響曲(ニコライ・アノーソフ指揮)と一緒にプログラムに並んだ第5交響曲の初演により、プロコフィエフはソビエト連邦の主導的作曲家として名声の頂点に達したかのように思われた[119]。その後まもなく慢性高血圧により転倒し、以降脳震盪に苦しむようになる[120]。この症状の完全な快復がおとずれることはなく、医師の助言により作曲活動に制約を課されることになってしまったのであった[121]。

戦後
戦後の作品となる交響曲第6番やピアノソナタ第9番を作曲する時間を持つことができたプロコフィエフは、「ジダーノフ批判」に晒されることになる。1948年のはじめ、アンドレイ・ジダーノフの招集により開かれたソビエトの作曲家の会合に続き、政治局は作曲家らを非難する決議を行った。「形式主義」の罪の対象となったのはプロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ポポーフ、ミャスコフスキー、ハチャトゥリアンであり、「音楽を不快な音響へと変質しさせる」ような「混濁し、神経に触る」響きを選んだことによる「古典音楽の基本原理の放棄」であるとされた[122]。プロコフィエフの作品では『1941年』、『戦争終結に寄せる頌歌』、祝典詩曲『30年』、『花咲け、偉大な国土よ』、『名もない少年のバラード』、ピアノ小品集『思想』、そしてピアノソナタ第6、第8番が演奏禁止となった[123]。作品を禁止されるということの裏に認められる脅威により、検閲を逃れた楽曲すらももはや演奏されなくなっていた[124]。1948年8月までにプロコフィエフは過酷な財政的困窮に陥り、個人で抱えた借金は18万ルーブルにのぼった[123]。

1947年11月22日、プロコフィエフは疎遠となっていた妻に対する離婚手続きの開始を裁判所に申請する。5日後に出された裁判所の裁定は、婚姻はヴァイマル共和国で行われたものであるから法的根拠がなく、ソビエトの役所へとの届け出もなされていない、従って法的効力がなく無効であるというものだった。2人目の裁判官が評決を支持し、彼は1948年1月13日にパートナーのミラと結婚した[125][126]。最初の妻であるリーナは、スペインにいる母に送金しようとしたとして逮捕されてスパイ容疑で告発された。9か月にわたる取り調べが行われ[127]、ソ連最高裁(英語版)により20年の重労働の判決が下った[128]。8年後の1956年6月30日に釈放された彼女は[129]、1974年にソビエトを後にしている[130]。


文化に関わる要人を必死に懐柔しようと試みた『真の男の物語』を含む、プロコフィエフ後期のオペラの計画群は瞬く間にキーロフ劇場にキャンセルされてしまう[131]。すげない拒絶と衰え行く健康が相まって、プロコフィエフは次第に表舞台から身を引いていった。様々な活動からの引退は愛してやまなかったチェスにまで及び、徐々に自分自身のための仕事に専念していった[132][133]。1949年に生じた深刻な再発を受け、主治医らは彼に作曲する時間を1日1時間に制限するよう要請した[134]。

1949年の春、22歳のムスティスラフ・ロストロポーヴィチのためにチェロソナタ ハ長調 作品119を作曲、1950年にロストロポーヴィチとリヒテルによって初演された[135]。ロストロポーヴィチに向けてはチェロ協奏曲第1番に大幅に手を加えてチェロと管弦楽のための交響的協奏曲へと改作しており、今日ではチェロと管弦楽のための記念碑的作品となっている[136]。プロコフィエフが最後に公開演奏に姿を現したのは1952年10月11日に行われた交響曲第7番の初演だった。これが完成させることが出来た最後の大作となる[137]。この交響曲は青少年のラジオ局のために書かれたものだった[138]。

最期
プロコフィエフは1953年3月5日に61歳でこの世を去った。スターリン逝去と同年同月同日、その3時間前であった[139][140]。プロコフィエフが住んでいたのは赤の広場近くであり、スターリンの死を悼む群衆が3日間にわたって詰めかけたためにソビエト連邦作曲家同盟本部でプロコフィエフの葬儀を行うことはできなかった。彼の自宅周辺では霊柩車の使用が認められなかったため、棺は人の手により裏道を抜けてスターリンの亡骸へ訪れる人々の群れとは反対の方向へ運んでいかねばならなかった。約30人が葬儀に出席し、ショスタコーヴィチも参列した。ショスタコーヴィチは顔を合わせた時には馬が合わなかったようであったが、その後の年月で関係性は友好的なものへと変わっており、プロコフィエフに次のように手紙を送っている。「私は貴方に少なくともあと百年は生きて創作してもらいたいと願っています。貴方の第7交響曲のような作品を聴くことで、生きることはもっと容易で、喜ばしいものとなるのです[141]。」遺体はモスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬された[142]。

ソビエトの主要な音楽定期報ではプロコフィエフの死を116ページに小見出しとして掲載しており[143]、そこまでの115ページはスターリンの死亡記事に割かれている[143]。プロコフィエフの死因は脳内出血であるとされるのが一般的である。彼は最後の8年間を慢性疾患に悩まされていたのである[144]。

妻のミーラ・メンデリソンは、2人で暮らした同じモスクワの自宅で晩年を過ごした[145]。夫の書類を整理し、彼の音楽の普及に努め、自身の回顧録を記した。回顧録執筆はプロコフィエフによって強く勧められてのことだった。回顧録の仕事は彼女にとって困難なものとなり、未完成のまま生涯を終えることになった[146]。メンデリソンは1968年にモスクワで心臓発作を起こして他界、夫に先立たれてから15年が経過していた[147]。彼女の財布には1950年2月の日付と、プロコフィエフ、メンデリソン両名の署名が入ったメッセージが遺されていた。そこには「私たちは隣り合わせに葬られることを望む」という簡潔な指示が書かれていた。2人はノヴォデヴィチ墓地で一緒に眠りについている[148]。

リーナ・プロコフィエフはプロコフィエフの死後も長く生き続け、1989年にロンドンで息を引き取った。元夫の音楽からもたらされる印税は多少の収入となっいた。彼女は『ピーターと狼』の語り手を引き受けたこともあり、ネーメ・ヤルヴィ指揮、ロイヤル・スコティッシュ管弦楽団演奏の録音がシャンドスから頒布されている[149]。2人の間に生まれた息子のスヴャトスラフ(1924年-2010年)は建築家、オレグ(1928年-1998年)は画家、彫刻家、詩人となり、2人とも生涯の多くを父の人生と作品の普及のために費やした[150][151]。

死後の名声
アルテュール・オネゲルはプロコフィエフが「我々にとって現代音楽最大の人物であり続けるだろう」と明言しており[152]、アメリカの学者であるリチャード・タラスキンはプロコフィエフの「他にない全音階による旋律を書く才能は、20世紀の作曲家の中では事実上並ぶ者のない」ものであると認識している[153]。一方、西側諸国におけるプロコフィエフの名声は一時期冷戦に伴う反発感情に苦しめられ[154]、彼の音楽は、続く世代の音楽家により大きな影響を与えたとされるイーゴリ・ストラヴィンスキーやアルノルト・シェーンベルクが受けているような尊敬を、西側の学者や評論家から勝ち得るに至っていない[155]。

今日では、プロコフィエフは20世紀の音楽の中でも最も人気のある作曲家であると言っても差し支えない[157]。彼のオペラ、バレエ、室内楽曲、ピアノ曲は世界中の主要なコンサートホールで日頃より取り上げられており、管弦楽曲ひとつをとってもアメリカではリヒャルト・シュトラウスを除く過去100年のどの作曲家の作品より頻繁に演奏されているのである[158]。


作風
プロコフィエフは自身の作品を構成する要素として「古典的な要素」「近代的な要素」「トッカータ、もしくは "モーター" の要素」「叙情的な部分」「グロテスク」の5つを上げている[160]。初期には急進的な作風を取る一方、長期の海外生活中の作品は次第に新古典主義的で晦渋なものとなったが、ソヴィエト連邦への帰国後は社会主義リアリズムの路線に沿った作風へ転換し、現代的感覚と豊かな叙情性を併せ持つ独自の境地へ到り、多くの傑作を生んだ。

快活なリズム感、斬新な管弦楽法は、ティシチェンコやシチェドリンなど後代のロシアの作曲家に影響を与えた。

録音
プロコフィエフは1932年6月に、自作のピアノ協奏曲第3番の世界初録音をピエロ・コッポラの指揮でロンドン交響楽団とHis Master's Voiceに遺している。また一部ピアノ独奏曲の録音も1935年2月にパリのHMVで行っており、PearlとナクソスからCDが刊行されている[161]。1938年にはモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してバレエ音楽『ロメオとジュリエット』第2組曲を録音し、LPとCDで販売された[162]。この他のモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団との録音としてはダヴィッド・オイストラフをソリストに迎えたヴァイオリン協奏曲第1番がエヴェレスト・レコードからLPで販売された。記載の情報とは異なり、指揮者はアレクサンドル・ガウクであった。プロコフィエフがオペラ『戦争と平和』から数曲を演奏し、その音楽について解説する短い映像フィルムが発見されている[163]。

小説家として
プロコフィエフは海外にいた1918年ごろにいくつかの短編小説を書いている。2003年にロシアで刊行され彼の新たな才能が知られるようになった。作品の多くが当時のモダニズム文学の流れを汲むもので、「エッフェル塔が歩き出す」といった奇想天外な内容である。しかし彼の「作家活動」は3年程度で終わり音楽活動に専念することになる。

日本語訳版は2009年に群像社より刊行された[164]。

主な作品
プロコフィエフはたびたび過去の自作を大幅に改訂し、それらに新しい作品番号を与えることがあった。またバレエ作品などを組曲とすることもあり、それらにも新しい作品番号を与えている。


交響曲
交響曲 ホ短調(1908年)
交響曲第1番 ニ長調 作品25『古典』(1917年)
交響曲第2番 ニ短調 作品40(第1版:1925年)、作品136(第2版:1953年に起案したが未完)
交響曲第3番 ハ短調 作品44(1928年)
交響曲第4番 ハ長調 作品47(第1版:1930年)、作品112(第2版:1947年)
交響曲第5番 変ロ長調 作品100(1944年)
交響曲第6番 変ホ短調 作品111(1947年)
交響曲第7番 嬰ハ短調 作品131(『青春』)(1952年 後に終結部に加筆)


オペラ
『マッダレーナ』 作品13(1911年)
『賭博師』 作品24(1916年)
『三つのオレンジへの恋』 作品33(1919年)
『炎の天使』 作品37(1927年)
『セミョーン・カトコ』 作品81(1939年)
『修道院での婚約』 作品86(1940年)
『戦争と平和』 作品91(第1版:1943年、第2版:1946年、第3版:1947年、第4版:1950年、第5版:1952年)
『真の男の物語』 作品117(1948年)
『遠い海』(1948年、未完)


バレエ音楽
『道化師』 作品21(1920年)
『鋼鉄の歩み』 作品41(1925年)
『放蕩息子』 作品46(1928年)
『ボリステーヌの岸辺で』 作品51(1930年)
『ロメオとジュリエット』 作品64(1936年)
『シンデレラ』 作品87(1944年)
『石の花』 作品118(1949年)


劇付随音楽
『エジプトの夜』(1933年)
『ボリス・ゴドゥノフ』 作品70bis(1936年)
『エフゲニー・オネーギン』 作品71(1936年)
『ハムレット』 作品77(1938年)


映画音楽
『キージェ中尉』(1933年)
『スペードの女王』作品70(1936年)
『アレクサンドル・ネフスキー』(1938年)
『レールモントフ』(1941年)
『コトフスキー』(1942年)
『ウクライナ草原のパルチザンたち』(1942年)
『トーニャ』(1942年)
『イワン雷帝』(第1部、第2部) 作品116(1945年)


その他の管弦楽曲
シンフォニエッタ イ長調 作品5(第1版:1909年、第2版:1914年)、作品48(第3版:1929年)
交響的物語『ピーターと狼』 作品67(1936年)
組曲『冬のかがり火』(朗読、児童合唱およびオーケストラのための) 作品122(1949年-1950年)


協奏曲
ピアノ協奏曲第1番 変ニ長調 作品10(1912年)
ピアノ協奏曲第2番 ト短調 作品16(1913年)
ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 作品26(1921年)
ピアノ協奏曲第4番 変ロ長調(左手のための) 作品53(1931年)
ピアノ協奏曲第5番 ト長調 作品55(1932年)
ピアノ協奏曲第6番(2台のピアノと弦楽合奏のための) 作品133(1952年、未完)
ヴァイオリン協奏曲第1番 ニ長調 作品19(1917年)
ヴァイオリン協奏曲第2番 ト短調 作品63(1935年)
チェロ協奏曲第1番 ホ短調 作品58(1938年)
チェロと管弦楽のための交響的協奏曲(チェロ協奏曲第2番)ホ短調 作品125(1951年)


室内楽曲
弦楽四重奏曲第1番 ロ短調 作品50(1930年)
弦楽四重奏曲第2番 ヘ長調(カバルダの主題による) 作品92(1941年)
ヴァイオリンソナタ第1番 ヘ短調 作品80(1946年)
ヴァイオリンソナタ第2番 ニ長調 作品94bis(1944年)
2つのヴァイオリンのためのソナタ ハ長調 作品56(1932年)
無伴奏ヴァイオリンソナタ ニ長調 作品115(1947年)
ヘブライの主題による序曲 ハ短調 作品34(1919年) [クラリネット、弦楽四重奏、ピアノ]
五重奏曲 ト長調 作品39(1924年) [オーボエ、クラリネット、ヴァイオリン、ヴィオラ、コントラバス]
フルートソナタ ニ長調 作品94(1943年)
チェロソナタ ハ長調 作品119(1949年)


ピアノ曲
ピアノソナタ第1番 ヘ短調 作品1(1909年)
ピアノソナタ第2番 ニ短調 作品14(1912年)
ピアノソナタ第3番 イ短調 作品28『古い手帳から』(1917年)
ピアノソナタ第4番 ハ短調 作品29『古い手帳から』(1917年)
ピアノソナタ第5番 ハ長調 作品38(第1版:1923年)、作品135(第2版:1953年)
ピアノソナタ第6番 イ長調 作品82(1940年)
ピアノソナタ第7番 変ロ長調 作品83(1942年)
ピアノソナタ第8番 変ロ長調 作品84(1944年)
ピアノソナタ第9番 ハ長調 作品103(1947年)
ピアノソナタ第10番 ホ短調 作品137(1953年、未完)
トッカータ ニ短調 作品11(1912年)
サルカズム(風刺) 作品17(全5曲)(1914年)
束の間の幻影 作品22(全20曲)(1917年)


合唱曲
カンタータ『アレクサンドル・ネフスキー』 作品78(1939年)
オラトリオ『平和の守り』 作品124(1950年)


歌曲
『みにくいあひるの子』 作品18(1914年)

著書
『プロコフィエフ自伝・評論』(園部四郎、西牟田久雄共訳/音楽之友社/1964年)
『プロコフィエフ: 自伝/随想集』(田代薫訳/音楽之友社/2010年)
『プロコフィエフ短編集』(サブリナ・エレオノーラ、豊田菜穂子訳/群像社ライブラリー/2010年)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%95  

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