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セルゲイ・ラフマニノフ(Sergei Vasil'evich Rachmaninov1873 - 1943)
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投稿者 中川隆 日時 2021 年 10 月 06 日 15:14:40: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: アンリ・デュティユー ヴァイオリン協奏曲 『夢の樹』 投稿者 中川隆 日時 2021 年 9 月 30 日 08:59:33)

セルゲイ・ラフマニノフ(Sergei Vasil'evich Rachmaninov1873 - 1943)

メランコリックな曲の大家。独特の感情的な力学に基づいた曲の構成が素晴らしい。大ピアニストでもあり、ピアノ協奏曲が何より素晴らしい。
しかし、協奏曲とピアノの独奏曲のレベルの差が大きい。長い曲で感情のうねりや浮き沈みを表現するのに長けているので、小品では良さが生きないのだろう。


交響曲

第1番 ニ短調 作品13(1895年)
3.3点
全4楽章。この曲はラフマニノフらしいメランコリーも聴き手を喜ばせるサービス精神も無い。聞き手を突き放すような媚びない難解さがあり、攻略が難しい。特に1楽章から3楽章はラフマニノフ作曲と当てるのに苦労するほど異質である。その代わり、通俗性が低く、芸術的な真剣さや響きの質のよさはかなりのものである。分かりやすいメロディーは無いし、客観的にみて名曲の範疇とは思えないが、しかし19世紀の国民楽派の独自の新しい世界を切り開いていること、ラフマニノフの根っこにある詩魂を生々しく発揮している点、何よりあのラフマニノフがこんな曲を書いたのだという点で重要で興味深い作品である。

第2番 ホ短調 作品27(1907年)
3楽章 5.0点
その他3.8点
雄渾なロシア情緒満載の曲であり、他の2曲の交響曲と違い非常に分かりやすい。メランコリックな感情の力学的な起伏など、ピアノ協奏曲と似たような情緒と構成を持っているためラフマニノフ初心者にも聞きやすい。1時間の大作であり、3楽章以外は冗長だが音楽の流れに身を任せるようにして聴けば良い。他の楽章もなかなか良いのだが、この曲は3楽章が非常に素晴らしい。素晴らしかった思い出を回想する気分をそのまま音にしたような音楽である。中間部の盛り上がりの後に、ひとつずつの楽器が順番にテーマを演奏する場面は、まさに様々な思いが湧いては消えていく様をそのまま楽器で表現している。ヒューマンドラマ系の超上質な映画音楽のようであり、その系統の音楽の元祖の一つなのかもしれない。音だけで楽しめるドラマとも言えよう。

第3番 イ短調 作品44(1936年)
3.0点
アメリカに移住してからのラフマニノフらしい作風。ロシア的なねちっこさが減り、響きが近代的になったが、メロディーの魅力は減った。
1楽章は、第2主題こそ分かりやすい映画音楽のようだが、他は決して分かりやすい曲ではなく名作とも思えない。2楽章はスケルツォと緩徐楽章が合わせられたようで一番面白い楽章。3楽章は2番の4楽章を楽天的すぎず奥ゆかしく表情豊かにした感じで、2番より改善されている。
全体に交響曲としての楽章構成や長時間の大きな流れに身を任せられる楽しみはあるが、晩年の作品群の中では交響的舞曲やパガニーニの主題による狂詩曲ほどの名作ではないと思う。

管弦楽曲

交響的幻想曲「岩」作品7(1893年)
2.0点
基本的に渋い。所々チャイコフスキー的な劇的表現が垣間見れる。若書き感あり。

ジプシー狂詩曲 作品12(1894年)
2.5点
後年の管弦曲の萌芽がおおく感じられるので面白いし。いい曲という程ではないがファンなら聴いて損はない。

交響詩「死の島」作品29(1909年)
3.0点
メロディーがほとんど無い。低音が響き続けて重苦しく、厳然とした自然の厳しさのような雰囲気の音楽が延々と続き、情報量が少ない。客観的に見ると冗長な失敗作のようにも思うが、一方でこの厳しさと雰囲気が心地よくて一種の快感になり、また聴きたくなるという面もある。

交響的舞曲 作品45(1940年)
3.5点
晩年の作品だがところどころ魅せる箇所があるのでそれなりに聴き映えする。つまらない箇所も多いが。

ピアノ協奏曲・協奏的作品

第1番 嬰ヘ短調 作品1(初稿:1891年、改訂稿:1917年)
3.5点
マイナーだが、1917年に改訂されているため、なかなか優れた作品。特に一楽章は正統派であり充実している。ただ、盛期ロマン派のまとまり感が強く、2番以降の後期ロマン派らしい自由さと華やかさが不足しているのが物足りないところ。ちなみに、作曲者本人の演奏が凄い。1楽章のカデンツァの豪快さは見事。

第2番 ハ短調 作品18(1901年)
6.0点
自分がクラシックを聴くきっかけになった曲。全編にわたりメロディーが情熱的で濃密で叙情的であり強く心を動かされる。とにかく圧倒的にメロディーが良い。それに加えてピアノの音の透明な美しさと表情の豊かさと沢山の音数による楽しさ、後期ロマン派らしく肥大化して構成が自由になっていること、深く強く心を動かすロマン的感情、オーケストラの重厚さ、ピアノとオケの絡み方など、多くの点で非常に完成度が高く内容が充実しており19世紀の協奏曲を凌駕している。ラフマニノフの他の作品と比較してこの作品はずば抜けて構成が緊密であり無駄がなく、ほぼ完璧であると思う。ピアノ協奏曲を代表する逸品である。

第3番 ニ短調 作品30(1908年)
4.5点
ピアノがオーケストラを従えて前面に出て大活躍する曲。難曲として有名であり、ピアノの機能と楽器としての「器」の大きさの限界が引き出された曲。スケールの大きさやレンジの大きさ、音の多さや派手な活躍度など、1台のピアノが活躍できる限界に到達したという点でピアノ音楽の頂点の一つと言える。そのため、完成度が高くメロディーが秀逸だが綺麗にまとまり過ぎている2番とは違い、3番は何度聴いても受け止めきれないパワーがあって飽きない。1楽章と2楽章は良いのだがやや冗長な部分がある。圧倒的な超絶テクニックを存分に堪能できて冗長な場面がほぼない3楽章がこの曲の聞きどころである。

第4番 ト短調 作品40(初稿:1926年、最終決定稿:1941年)
1.5点
残念ながら他の協奏曲と比較してかなりの駄作である。聴いていて良いと思える部分がかなり少ない。メロディーに冴えがほとんどない。

パガニーニの主題による狂詩曲 作品43(1934年)
第18変奏 5.0点
その他 4.0点
第18変奏に関しては有名なだけあって本当に珠玉のように美しくて輝かしいメロディーである。その他の変奏も全般的にかなりの力作でありピアノ派手に活躍しつつ様々なやり方でオケと絡みバリエーションの豊富さがあるため聞き飽きない。前半も正統派な変奏曲も十分に楽しめるが、18変奏以降の自由で華やかな展開が聞きどころと思う。ピアノ協奏曲として歴代でも上位に入る出来の名作だと思うし、鑑賞して楽しい変奏曲という点では、大変秀逸だと思う。


室内楽曲

チェロとピアノのためのロマンス ヘ短調(1890年)
2.5点
ごく短い曲だが、チェロのもつ渋い悲哀やロシア的情緒の表現力の発揮に既に成功している。ピアノ伴奏の貧弱さに、作曲年代の若さが感じられるが、チェロについてはメロディーセンスが良くて、もっと後の作品でもおかしくないくらいだと思う。

チェロとピアノのための2つの小品 作品2(1892年)
1.5点
1曲目は柔らかい曲だがたいした特徴はない。2曲目は民謡のような民族的な旋法が耳につく。

ヴァイオリンとピアノのための2つの小品 作品6(1893年)
2.5点
唯一のヴァイオリン曲だが、どちらもわりとよくて、特に2曲目がなかなか面白くていい曲。ラフマニノフにヴァイオリンソナタを書いてほしかったと思った。

悲しみの三重奏曲第1番 ト短調(1892年)
2.0
「悲しみの」をつけているだけあり、まさに悲痛を感じる曲なのだが、ピアノ三重奏の良さを生かしている感じでないし、メロディーもさえない。生前未出版なのも当然か。

悲しみの三重奏曲第2番 ニ短調作品9(1893年)
1.0点
1楽章は無駄に長くてひどい駄曲。2楽章は少しましだがいい曲ではないし、やはり無駄に長い。3楽章もダメ。ラフマニノフ最大の駄作だと思う。聴く価値なし。

チェロ・ソナタト短調 作品19(1901年)
3.5点
わかりやすいラフマニノフ節と、管弦楽向け以外の曲ではあまり聴けない雄大なスケールが発揮されており、ラフマニノフらしさが十分に発揮されていて、聴く人の期待に応える作品。


ピアノ連弾、2台のピアノのための作品

組曲第1番「幻想的絵画」作品5(1893年)

舟歌 ト短調
3.0点
二台ピアノが舟の波のような効果を倍にひきたてている。

夜−愛 ニ長調
3.0点
親愛さをはらんだ感動を厚い音に乗せて表現している

涙 ト短調
3.5点
同一動機の繰り返しを二台ピアノが増幅して慟哭を表現し、強い印象を心に残す。

復活祭 ト短調
3.0点
同一動機をひたすら繰り返し神秘的な輝きを放っている。


4手のピアノのための6つの小品作品11(1894年)

舟歌
3.5点
穏やかな波の上を漂う小舟の情景を非常に鮮やかに描写している。

スケルツォ
3.5点
ムソルグスキーを彷彿とさせる、おどけた面白さと土臭い粘っこさを併せ持った曲。

ロシアの歌
3.0点
素朴なロシアの民謡風の曲。シンプルな書法で書かれており、間奏曲のような位置付け。

ワルツ
3.5点
エキゾチックな雰囲気満載のワルツ。音の運動や、ロシア臭とフランスのサロン風の融合が面白い。

ロマンス
2.5点
他の曲が良いのでこの曲も良い気分で聞けてあまり悪く感じないが、単体でみるとラフマニノフによくある哀愁の雰囲気だけの曲。

栄光
3.0点
メロディーの良さはあまりないものの、曲集の締めくくりとして、書法の優秀さで楽しんで聴ける曲。それほど野暮さを感じないのが良い。


組曲第2番作品17(1901年)

序奏 ハ長調
2.5点
ノーマルな曲で、音は分厚いが二台が相乗効果は発揮していない印象

ワルツ ト長調
2.5点
音が多くて充実しているが、曲として魅力は不十分。

ロマンス 変イ長調
2.5点
二曲目と同様で、音は多くて響きは充実しているが曲として魅力が足りない。

タランテラ ハ短調
2.5点
タランテラの魅力や二台の共演の楽しさはあるものの、いい曲だと感じるような曲ではない。


その他の作品

2台のピアノのための「ロシアの主題による狂詩曲」(作品番号なし、1891年)
2.5点
若書きなのが聴いていて分かる。多くのものが詰め込まれた意欲的な作品ではあるが、まとまりがない。


ピアノ独奏曲

4つの小品(1887年?)
3.5点
【ロマンス 嬰ヘ短調、前奏曲 変ホ短調、メロディー ホ長調、ガヴォット ニ長調】
ラフマニノフ初期の作品でスクリャービン初期と同様にショパンの影響を感じるも、ラフマニノフらしい情緒や鐘の響きも出現する。何より未成熟だが力作で聞き応えあって驚いた。自身の手で当初は作品1と番号がつけられていただけのことはある。


幻想的小品集 作品3(1892年、第3曲と第5曲は1940年に改稿)

悲歌 変ホ短調 3.5点
前奏曲 嬰ハ短調 4.0点
メロディ ホ長調 2.5点
道化役者 嬰ヘ短調 2.5点
セレナード 変ロ短調 3.0点
前奏曲はラフマニノフの小品の最高傑作。一曲目の悲歌もいい曲だが、曲集の後半は内容が落ちる。


サロン的小品集 作品10(1894年、第5曲のみ1940年に改稿)

夜想曲 イ短調 2.5点 
やりたい事は分かるがもったりすぎ

円舞曲 イ長調 2.5点
いかにもサロン風の曲。中間の技巧は面白い

舟唄 ト短調 2.5点
最後どんどん技巧的になるのが面白い

メロディ ホ短調 2.0点
雰囲気だけのラフマニノフの典型的ダメ小品

ユーモレスク ト長調 1.5点
おもしろくない

ロマンス ヘ短調 1.5点
いいところが特にない。

マズルカ 変ニ長調 2.0点
ラフマニノフ流大作マズルカだが曲のサイズとタイトルから期待するほどでない


楽興の時 作品16(1896年、第2曲のみ1940年に改稿)

1曲目 2.5点
短いフレーズを即興的につないで感情が連綿と息長く続く曲にした感じ。長いが小品のような内容
2曲目 2.0点
技巧的で聴き映えはする。フレーズは息が長い。
3曲目 2.5点
ラフマニノフらしい悲痛感をたたえた情熱が現れた曲
4曲目 3.0点
技巧と情熱的な旋律の組み合わせがスケールの大きさを持って表現されている
5曲目 2.5点
激情の余韻を表したような曲
6曲目 2.5点
ピアノをスケール大きく鳴らす曲


10の前奏曲集 作品23(1901年 - 1903年)

1 嬰ヘ短調 2.5点
夢の中のような曖昧でもやもやした曲。

2 変ロ長調 3.0点
滝のように轟々と水が流れるような曲

3 ニ短調 1.5点
あまり面白くないのにわざわざ三部形式

4 ニ長調 2.5点
ショパンのノクターン8番のような夢見るような曲。雰囲気はいいが平板。

5 ト短調 4.0点
軍隊的な力強いマーチは非常に印象的。叙情的な中間との対比も鮮やか。

6 変ホ長調 3.0点
ふわふわとした浮遊感のある叙情的な曲。

7 ハ短調 2.0点
よくある暗めの雰囲気で右手が早めのパッセージ。

8 変イ長調 2.0点
右手が早めのパッセージのもやもやした曲。

9 変ホ短調 2.5点
ショパンの練習曲のようなパッセージと雰囲気

10 変ト長調 2.0点
もやもやとしてはっきりしないまま霧の中に消えていくような曲

13の前奏曲集 作品32(1910年)

1 ハ長調 2.5点
力強く開始を告げる技巧的な曲

2 変ロ短調 2.0点
短い動機を執拗に繰り返す曲

3 ホ長調 2.5点
音を畳みかけるように積み重ねて盛り上げる中間が少しよい

4 ホ短調 2.5点
音の絵に含まれていそうな技巧的で映像的な要素のある曲。

5ト長調 3.0点
黄色い夕焼けのような美しい情景が描かれている曲。

6 ヘ短調 2.5点
華々しい技巧を見せてすぐにあっさり終わる

7 ヘ長調 2.5点
遠くの方で事象が起きているかのような儚い曲

8 イ短調 2.5点
憂鬱を基調とするテクニカル曲

9 イ長調 2.5点
最初はもやもやとしているが、それが輪郭をつくりながら大きなスケールに至る。

10 ロ短調 3.0点
荒涼とした岩の世界を思い浮かべる映像的な曲。冗長だがラフマニノフが管弦楽で得意な暗闇のような渋い雰囲気がある。

11 ロ長調 3.0点
何か愛おしさを感じる音の動きが前の曲とのつながりも良くて、耳をひく。

12 嬰ト短調 4.0点
ロシア的な憂鬱さと霧の街のような情景が合わさった情緒が見事に表現された素晴らしい曲。

13 変ニ長調 2.0点
曲集の締めの曲らしい情緒は表現されていて感動的ではあるが冗漫すぎる。

練習曲集『音の絵』作品33(1910年)

1 ヘ短調 3.0点
ゴツゴツした岩のような曲。叙情的に締める。

2 ハ長調 3.5点
憂鬱さを帯びた、夕焼けのあと夜の帳が降りるような曲。

3 ハ短調 3.0点
力強い感動を秘めたレティタティーボから静かで叙情的なメロディーに移行。

4(削除、改作して作品39-6に)

5 ニ短調 3.0点
舞曲的要素を持つ力強い曲。

6 変ホ短調 3.0点
かなり難しそうな練習曲

7 変ホ長調(「市場の情景」) 2.5点
ファンファーレが鳴る賑やかな曲

8 ト短調 2.5点
憂鬱なレティタティーボ。

9 嬰ハ短調 3.0点
轟々と響きわたる音が印象的。左手の低音の使い方が印象的。

練習曲集『音の絵』作品39(1916年 - 1917年)

1 ハ短調 3.0点
多くのパッセージががっつり詰め込まれた意欲的な作品。

2 イ短調(「海とかもめ」) 3.5点
冬の海のような冷たさと重たさを詩情として潜ませている。キラキラとした水面のようなフレーズが印象的。

3 嬰ヘ短調 3.5点
前曲に続き冬の大自然のような厳しさを感じさせる。

4 ロ短調 3.5点
同音連打が印象的。おとぎ話的な雰囲気、エキゾチックさ、厳しさを感じさせる面白くていい曲。

5 変ホ短調 3.5点
荘重な悲劇性を持った主題から展開されるスケールの大きな曲。鐘のような効果も活用されている。

6 イ短調(「赤ずきんちゃんと狼」) 3.0点
ユーモアがあるイントロの後の、テクニカルにたたみかけるところはいい感じで面白い。

7 ハ短調(「葬送の行進」) 2.0点
この曲集で唯一いまいちな曲。重いレティタティーボ。長い。

8 ニ短調 3.0点
美しい冬をまたしても感じさせる曲。

9 ニ長調(「東洋風行進曲」) 2.5点
唯一の長調だが、単純な曲ではなく、展開はめまぐるしい。華々しく終わる所はかっこいい。

大曲

ショパンの主題による変奏曲 作品22(1903年)
3.5点
前半部分4.0点
前奏曲20番の主題。この重々しい曲を主題に選ぶのが彼らしい。大作で内容が濃密で素晴らしく独奏曲の中では最高傑作の一つだと思う。特に最初の7分位はパガニーニ狂詩曲の前半部分のように霊感にあふれているかなりいい曲。何気にラフマニノフは変奏曲の才能が凄い。しかし曲全体はとしては長すぎて内容はいいのだが集中力が続かない。

ピアノ・ソナタ第1番 ニ短調 作品28(1907年)
3.5点
2番と比べてマイナー。長くて音数が多いし退屈な部分もあるので聴くのは大変。しかし外面的効果狙いを感じる2番と比較してファウストを題材にした1番は芸術的な真摯さを感じる充実した力作である。とはいえ、1楽章などはモヤモヤした雰囲気が時間とともに変容していくだけで音楽が進んでいく、良くないラフマニノフ作品の典型例かもしれない。3楽章は交響曲のようなスケールと雄大さとメロディーの充実感においてラフマニノフの大作ピアノ曲の中の最高峰だろう。3楽章の途中に現れる手を交叉させて演奏される神秘的で魔術的なメロディーが大変印象的である。

ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 作品36(1913年、改訂1931年)
3.5点
この曲は作曲者による2つの版があるが、私はオリジナル版は冗長であり、改訂版は逆に削り過ぎで良さが失われていると考えている。このため間をとったホロヴィッツ版はちょうど良いと思う。基本的には派手な演奏効果を楽しむ曲であり外面的で深さが足りないのだが、所々に十分に美しい箇所はあるため侮れない。

コレルリの主題による変奏曲 作品42(1931年)
3.0点
ショパンの主題の方と比較すると壮大さや傑作感はやや劣ると思うが、変幻自在で分厚い重みもあり聞き応え十分な変奏曲。

その他

前奏曲 ニ短調(作品番号なし、1917年)

オリエンタル・スケッチ(作品番号なし、1917年)
2.5点
前奏曲的なスケッチ作品。

声楽曲

「ヴォカリーズ」作品34の14(1915年)
5.0点
ヴォカリーズとは、歌詞がなく母音のみで歌われる歌曲。非常に分かりやすい旋律美で多く楽器で演奏して親しまれている。美しくて陰影のある小品であり、どの楽器で演奏しても楽しめる曲としてかなり魅力的である。

合唱交響曲『鐘』作品35(1913年)
3.5点
3人の独唱者・合唱・管弦楽のための作品。充実の力作で聴き応えがある。

聖金口イオアン聖体礼儀作品31(1910年)
3.8点
荘重で、キリスト教の儀式の音楽らしい神秘的な超越的雰囲気に満ちている。無伴奏合唱だが、伴奏があるかのように音は充実している。様々なイメージが現れるので、長い曲だが飽きる事はない。
徹夜禱ほどの感動的な衝撃は無かったが、この曲もラフマニノフとは思えないほどの本格性があり、天才的な霊感に満ちていて大変素晴らしい。

徹夜禱作品37(1914年 - 1915年)
4.3点
ラフマニノフの無伴奏合唱の宗教曲。1時間の大作。大半の人にとっては期待を完全に上回る素晴らしさに驚くだろう。ロシアの民族性や、ロマンティックな感情コントロールや、質量の大きい骨太さなど、ラフマニノフの才能が見事に結晶している。全く飽きないし、次々と魅力的な場面が登場してゾクゾクする。ときどき神秘的な輝きと内容の素晴らしさにヴィクトリアを思い出す。ラフマニノフに頻出の安易さが全くない。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%8E%E3%83%95

セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ(Серге́й Васи́льевич Рахма́ниновロシア語: [sʲɪrˈɡʲej vɐˈsʲilʲjɪvʲɪt͡ɕ rɐxˈmanʲɪnəf]、ラテン文字転写例: Sergei Vasil'evich Rachmaninov[注釈 1]、1873年4月1日(当時ロシアで用いられていたユリウス暦では3月20日) - 1943年3月28日)は、ロシア帝国出身の作曲家、ピアニスト、指揮者。


生涯

生い立ち
1873年4月1日(ユリウス暦では3月20日)、タタールの血を引く父ヴァシーリイ・アルカージエヴィチと、母リュボーフィ・ペトローヴナの第3子としてノヴゴロド州セミョノヴォに生まれ[注釈 2]、幼少期を同州オネグで過ごした。父母ともに裕福な貴族の家系の出身で、父方の祖父はジョン・フィールドに師事したこともあるアマチュアのピアニスト、母方の祖父は著名な軍人だった。父親は音楽の素養のある人物だった[注釈 3]が、受け継いだ領地を維持していくだけの経営の資質には欠けていたようで、セルゲイが生まれたころには一家はすでにかなり没落していたという。ノヴゴロド近郊のオネグは豊かな自然に恵まれた地域で子ども時代を過ごした。

4歳のとき、姉たちのために雇われた家庭教師がセルゲイの音楽の才能に気がついたことがきっかけで、彼のためにペテルブルクからピアノ教師としてアンナ・オルナーツカヤが呼び寄せられ、そのレッスンを受けた。9歳のとき、ついに一家は破産し、オネグの所領は競売にかけられ、ペテルブルクに移住した。まもなく両親は離婚し、父は家族の元を去っていった。セルゲイは音楽の才能を認められ、奨学金を得てペテルブルク音楽院の幼年クラスに入学することができた。

しかし彼は、12歳のときにすべての学科の試験で落第するという事態に陥った。悩んだ母は、セルゲイにとって従兄にあたるピアニストのアレクサンドル・ジロティに相談し、彼の勧めでセルゲイはモスクワ音楽院に転入し[2]、ニコライ・ズヴェーレフの家に寄宿しながらピアノを学ぶことになった。

音楽家としての出発
ズヴェーレフは厳格な指導で知られるピアノ教師で、ラフマニノフにピアノ演奏の基礎を叩き込んだ。ズヴェーレフ邸には多くの著名な音楽家が訪れ、特に彼はピョートル・チャイコフスキーに才能を認められ、目をかけられた。モスクワ音楽院ではアントン・アレンスキーに和声を、セルゲイ・タネーエフに対位法を学んだ。のちにはジロティにもピアノを学んだ。同級にはアレクサンドル・スクリャービンがいた。ステパン・スモレンスキイの正教会聖歌についての講義も受け、後年の正教会聖歌作曲の素地を築いた。

ズヴェーレフは弟子たちにピアノ演奏以外のことに興味を持つことを禁じていたが、作曲への衝動を抑えきれなかったラフマニノフはやがて師と対立し、ズヴェーレフ邸を出ることになった。彼は父方の伯母の嫁ぎ先にあたるサーチン家に身を寄せ、そこで未来の妻となるナターリヤと出会った。このあと、彼は毎年夏にタンボフ州イワノフカにあるサーチン家の別荘を訪れて快適な日々を過ごすのが恒例となった。

1891年、18歳でモスクワ音楽院ピアノ科を大金メダルを得て卒業した。金メダルは通例、首席卒業生に与えられたが、当時双璧をなしていたラフマニノフとスクリャービンは、どちらも飛び抜けて優秀であったことから、金メダルをそれぞれ首席、次席として分け合った(スクリャービンは小金メダル)。同年ピアノ協奏曲第1番を完成させた。

1892年、同院作曲科を卒業、卒業制作として歌劇『アレコ』をわずか数日のうちに書き上げ、金メダルを授けられた。同年10月8日(ユリウス暦では9月26日)にモスクワ電気博覧会で前奏曲嬰ハ短調を初演した。この曲は熱狂的な人気を獲得し、ラフマニノフの代名詞的な存在になった。

翌1893年5月9日(ユリウス暦では4月27日)、『アレコ』がボリショイ劇場で上演された。同年11月6日、チャイコフスキーが亡くなると、追悼のために悲しみの三重奏曲第2番を作曲した。

挫折
ラフマニノフは1895年に交響曲第1番を完成させ、2年後の1897年にはアレクサンドル・グラズノフの指揮によりペテルブルクで初演されたが、これは記録的な大失敗に終わった。特にツェーザリ・キュイが「エジプトの七つの苦悩」に例えて容赦なくこき下ろしたのはよく知られている。この曲はラフマニノフの存命中は二度と演奏されることはなかった。失敗の原因として、グラズノフの指揮が放漫でオーケストラをまとめ切れていなかった可能性[注釈 4]や、ペテルブルクがラフマニノフの属したモスクワ楽派とは対立関係にあった国民楽派の拠点だったことの影響などが指摘されている。

この失敗によりラフマニノフは神経衰弱ならびに完全な自信喪失となり、ほとんど作曲ができない状態に陥った。この間、彼はサーヴァ・マモントフの主宰する私設オペラの第二指揮者に就任し、おもに演奏活動にいそしんだ。マモントフ・オペラではフョードル・シャリアピンと知り合い、生涯の友情を結んだ。シャリアピンの結婚式では介添人の1人として立ち会った。


1898年にはシャリャーピンと連れ立っての演奏旅行で訪れたヤルタでアントン・チェーホフと出会い、親交を結んだ。チェーホフはラフマニノフの人柄と才能を称賛し、大きな励ましを与えた。

一方、彼の落胆を心配した知人の仲介により、1899年にレフ・トルストイと会見する機会にも恵まれた。ラフマニノフはシャリャーピンを伴ってトルストイの自宅を訪ね、交響曲第1番の初演以降に作曲した数少ない作品のひとつである歌曲『運命』(のちに作品21の1として出版された)を披露した。しかしこのベートーヴェンの交響曲第5番に基づく作品は老作家の不興を買い[注釈 5]、ラフマニノフはさらに深く傷つくことになった。

作曲家としての成功
つい最近までは、ラフマニノフの作曲家としての成功に決定的に寄与したのが、彼を心配した周囲の人たちの紹介で出会った精神科医のニコライ・ダーリだったということになっていた。しかし実際には数回の診療を受けただけで、現在ではその暗示療法の効果が疑問視されている。事実、難航していたピアノ協奏曲第2番第1楽章が完成したのは、治療に通った時期から1年以上経過している。

やがて創作への意欲を回復した彼は1900年から翌年にかけて、2台のピアノのための組曲第2番とピアノ協奏曲第2番という2つの大作を完成させた。特にダーリに献呈されたピアノ協奏曲第2番は、作曲者自身のピアノとジロティの指揮により初演され、大成功を収めた。この作品によってラフマニノフはグリンカ賞を受賞し、作曲家としての名声を確立した。

1902年、従姉のナターリヤ・サーチナと結婚した。当時、従姉妹との結婚には皇帝の許可証が必要だったが、伯母の奔走により無事許可を得ることができた。結婚式の行われた4月に作曲した『12の歌曲集』作品21には妻に捧げた『ここは素晴らしい』(第7曲)や、のちに自身でピアノ独奏曲にも編曲した『ライラック』(第5曲)といった作品が含まれている。

1904年から1906年初めまで、ボリショイ劇場の指揮者を務めた。神経を集中して指揮に取り組んでいたため、楽員には気難しくやかましい指揮者と恐れられた。1906年1月には自作のオペラ『けちな騎士』と『フランチェスカ・ダ・リミニ』を初演した。

同年秋から1909年にかけて、家族とともにドレスデンに滞在した。このドレスデン滞在中の1907年に完成させた交響曲第2番は翌1908年の1月にペテルブルクで、2月にモスクワで作曲者自身の指揮により初演され、熱狂的な称賛をもって迎えられた。この作品によりラフマニノフは2度目のグリンカ賞を受賞した。1908年にはアムステルダムでウィレム・メンゲルベルクとの共演でピアノ協奏曲第2番を演奏した[4]。

1909年春、スイスの画家、アルノルト・ベックリンの同名絵画の複製画に着想を得た交響詩『死の島』を作曲した。同年夏にはイワノフカの別荘で、秋に予定されていたアメリカへの演奏旅行のためにピアノ協奏曲第3番を作曲した。同年11月にニューヨークで自身ピアニストとして初演(この作品は、当時まだでき上がったばかりだったらしい。‘The Classic Collection’第80号より)し、翌年1月にはグスタフ・マーラーとの共演でこの作品を演奏した。


このころ、ラフマニノフは女流文学者のマリエッタ・シャギニャンと文通で意見を交わすようになり、1912年には彼女の選んだ詩による歌曲集作品34を作曲した。またこの曲集には終曲としてソプラノ歌手のアントニーナ・ネジダーノヴァのために作曲された『ヴォカリーズ』が収められている。

1913年の1月から4月にかけてはローマに滞在した。スペイン広場の近く、かつてチャイコフスキーが滞在し創作に励んだのと同じ家を借りて住み、そこでエドガー・アラン・ポーの詩のコンスタンチン・バリモントによる翻訳に基づく合唱交響曲『鐘』を作曲した。1915年1月には正教会の奉神礼音楽の大作『徹夜禱』を作曲した。1917年の秋には十月革命の進行する中、ピアノ協奏曲第1番の大がかりな改訂作業を行った。

母国を離れて
1917年12月、ラフマニノフは十月革命が成就しボリシェヴィキが政権を掌握したロシアを家族とともに後にし、スカンディナヴィア諸国への演奏旅行に出かけた。そのまま彼は二度とロシアの地を踏むことはなかった(1930年6月の『ミュージカル・タイムズ』のインタビュー記事にラフマニノフ自身の「僕に唯一門戸を閉ざしているのが、他ならぬ我が祖国ロシアである」という言葉が引用されていたという。‘The Classic Collection’第80号より)。

しばらくはデンマークを拠点に演奏活動を行ったあと、1918年の秋にアメリカに渡り、以後はおもにコンサート・ピアニストとして活動するようになった。それまでラフマニノフのピアニストとしてのレパートリーは自作がほとんどだったが、アメリカ移住を機にベートーヴェンからショパンまで幅広いレパートリーを誇る、きわめて活動的なコンサート・ピアニストへと変貌を遂げたのである。1925年以降はヨーロッパでの演奏活動も再開した。

この時期には同様の境遇にあったベンノ・モイセイヴィチやウラディミール・ホロヴィッツと親交を結んだ。フリッツ・クライスラーとの共演による演奏、録音もたびたび行った。またピアノ制作者のスタインウェイと緊密な関係を保ち、楽器の提供を受けた。

ロシア出国後は作曲活動はきわめて低調になった。これは多忙な演奏活動のために作曲にかける時間を確保できなかったのみならず、故郷を喪失したことにより作曲への意欲自体が衰えてしまったためでもあった。同じロシアの作曲家、ピアニストとして旧知の仲であるニコライ・メトネルになぜ作曲をしないのかと尋ねられると、「もう何年もライ麦のささやきも白樺のざわめきも聞いてない」ことを理由に挙げたという[1]。それでも1926年にはロシア出国後初の作品となるピアノ協奏曲第4番を作曲した。

1931年、スイスのルツェルン湖畔にセナールと呼ばれる別荘を建て、ヨーロッパでの生活の拠点とした。「セナール (Senar) 」とは、セルゲイ (Sergei) 、ナターリヤ (Natalia) 、ラフマニノフ (Rachmaninov) の頭文字を取ったものである。パガニーニの主題による狂詩曲と交響曲第3番はここで作曲された。1939年8月、ルツェルン音楽祭に出演し、エルネスト・アンセルメとの共演でベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番と自作の狂詩曲を演奏した[5]。


やがてナチスが勢力を拡大するとスイスにも滞在することができなくなった。最後の作品となる交響的舞曲を作曲したのはロングアイランドでのことだった。1942年には家族とともにカリフォルニア州のビバリーヒルズに移り住んだ。左手小指の関節痛に悩まされながらも、演奏活動は亡くなる直前まで続けられた。

1943年3月28日、70歳の誕生日を目前にして癌のためビバリーヒルズの自宅で死去した。ラフマニノフ自身はモスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬されることを望んでいたが戦争中のことでもあり実現できず、6月1日にニューヨーク州ヴァルハラのケンシコ墓地に埋葬された。


音楽

作曲家として

作風
チャイコフスキーの薫陶を受け、モスクワ音楽院でタネーエフに学んだことから、モスクワ楽派(音楽院派、西欧楽派などとも呼ばれる)の流れを汲んでおり、西欧の音楽理論に立脚した堅固な書法を特徴とした。一方で、作曲を志した時期には五人組に代表される国民楽派とモスクワ楽派との対立が次第に緩和されつつあったため、親交のあったリムスキー=コルサコフの影響や民族音楽の語法をも取り入れて、独自の作風を築いた[1]。ロシアのロマン派音楽を代表する作曲家の1人に位置づけられる[6]。

作品に特徴的に見られる重厚な和音は、幼いころからノヴゴロドやモスクワで耳にした聖堂の鐘の響きを模したものといわれる。半音階的な動きを交えた息の長い叙情的な旋律には、正教会聖歌やロシアの民謡などの影響が指摘される。グレゴリオ聖歌の『怒りの日』を好んで用いたことでも知られ、主要な作品の多くにこの旋律を聴くことができる。

すべての作品は伝統的な調性音楽の枠内で書かれており、ロマン派的な語法から大きく外れることはなかった。この姿勢はロシアを出国した以後の作品でも貫かれた。モスクワ音楽院の同窓で1歳年長のスクリャービンが革新的な作曲語法を追求し、後の調性崩壊に至る道筋に先鞭をつけたのとはこの点で対照的だった。

ラフマニノフ自身は1941年の『The Etude』誌のインタビューにおいて、自らの創作における姿勢について次のように述べていた。

私は作曲する際に、独創的であろうとか、ロマンティックであろうとか、民族的であろうとか、その他そういったことについて意識的な努力をしたことはありません。私はただ、自分の中で聴こえている音楽をできるだけ自然に紙の上に書きつけるだけです。…私が自らの創作において心がけているのは、作曲している時に自分の心の中にあるものを簡潔に、そして直截に語るということなのです。

自身が優れたピアニストだったこともあり、ピアノ曲については特に従来から高く評価されてきた。ロシア的旋律に共通する息の長い旋律を、減衰曲線しか描かないピアノの音で表現するという相反する要素を、夥しい数の音符を用いて書き切った作風はロマン派的な意味での「歌う楽器」としてのピアノ書法の完成者といえる。ただし作曲者は卓越した技巧と大きな手を持っていたため、一般の弾き手にとっては困難な運指や和音が多く存在する。ピアノ協奏曲の第2番や第3番、前奏曲や音の絵などのピアノ独奏曲は今日のピアノ音楽における重要なレパートリーとなっている。

メロディには第2拍から始まるものが、ほかの作曲家と比べてかなり大きな割合を占めている(2分の2拍子の場合だと半拍遅れ)。


評価
甘美でロマンティックな叙情を湛えた作品の数々は一般的な聴衆からは熱狂的に支持された一方、批評家や一部の演奏家からはその前衛に背を向けた作風を保守的で没個性的とみなされ、酷評されることが多かった。ロシアに在住していたころから、ヴャチェスラフ・カラトィギンやレオニード・サバネーエフといった批評家からの徹底した批難の対象だった。この傾向は没後も続き、『グローヴ音楽辞典』の1954年版では、「単調なテクスチュア」「つくりものめいた大げさな旋律」と一蹴され、「彼の存命中にいくつかの作品が享受した圧倒的な人気は長くは続かないだろうし、音楽家によって支持されたことはかつてなかった」と切り捨てられた。

ハロルド・C・ショーンバーグはこうした風潮を非道なまでのスノビズムだとして批判し、「作曲家に関して重要なのは、いかに個性を発揮したか、いかによく自己を表現したか、着想がどれほど強固か、であり、これらの点でラフマニノフは大半の作曲家よりも優れている」と主張した[7]。デリック・クックが「演奏家や聴衆からの熱狂的な支持ゆえに、プッチーニとラフマニノフは否定的な評論の集中砲火にもかかわらず我々の音楽体験の中に生き続けている」と述べた[8]ように、『グローヴ音楽辞典』1954年版の予言は現実のものとならなかった。『ニュー・グローヴ音楽大辞典』の1980年版においては、彼の音楽の特性は「顕著な叙情性、表現の幅広さ、構成における独創性、オーケストラの豊かで特徴的な色彩のパレット」と記述された。近年はそれまで演奏される機会の多くなかった作品にも光が当たるようになってきており、熱烈な愛好家もその数を増している[1]。

2014年5月20日、ロンドンのサザビーズにて、ラフマニノフ本人による直筆の楽譜が出品、120万ポンドで落札された。楽譜は、交響曲第2番で320ページに及ぶもの[9]。

演奏家として

ピアノ演奏
ラフマニノフはピアノ演奏史上有数のヴィルトゥオーソであり、作曲とピアノ演奏の両面で大きな成功を収めた音楽家としてフランツ・リストと並び称される存在である[6]。彼は身長2メートルに達する体躯と巨大な手の持ち主で、12度の音程を左手で押さえることができたと言われている(小指でドの音を押しながら、親指で1オクターブ半上のソの音を鳴らすことができた)。また指の関節も異常なほど柔軟であり、右手の人指し指、中指、薬指でドミソを押さえ、小指で1オクターブ上のドを押さえ、さらに余った親指をその下に潜らせてミの音を鳴らせたという。恵まれたこの手はマルファン症候群によるものとする説もある[10]。

ロンドンで彼のピアノ演奏にたびたび接した音楽評論家の野村光一は「彼のオクターヴは普通の人が6度を弾くときぐらいの格好」になったと証言している。野村はさらに続けて次のように述べている[6]。

ラフマニノフの音はまことに重厚であって、あのようなごつい音を持っているピアニストを私はかつて聴いたことがありません。重たくて、光沢があって、力強くて、鐘がなるみたいに、燻銀がかったような音で、それが鳴り響くのです。まったく理想的に男性的な音でした。それにもかかわらず、音楽はロマンティックな情緒に富んでいましたから、彼が自作を弾いているところは、イタリアのベルカントな歌手が纏綿たるカンタービレの旋律を歌っているような情調になりました。そのうえにあの剛直な和音が加わるのだから、旋律感、和声感ともにこれほど充実したものはないのです。

ラフマニノフは楽譜を恣意的に取り扱う傾向という点においても19世紀以来のヴィルトゥオーソの伝統を受け継ぐピアニストであり、彼の楽曲解釈は当時から物議を醸すことがあった。アメリカの音楽評論家、ウィリアム・ジェイムズ・ヘンダーソンがラフマニノフによるショパンのピアノソナタ第2番の演奏について述べた次のような言葉[5]からも、そうした機微を窺うことができる。

彼は作曲家であるばかりではなく、本物のピアニストである—コンポーザー・ピアニストではなく。この日の三つめの曲目はショパンの変ロ短調のソナタだった。この傑出した名人は、この曲を全く独自のやり方で演奏した。彼は全ての旧習を投げ捨て、作曲者の指示を翻案さえした。ここに示されたのはラフマニノフによる原作の翻訳だった。それも素晴らしい訳文だった…。

この変ロ短調ソナタの解釈は—葬送行進曲さえも違った弾き方だった—、権威ある論証に裏付けられ、聴き手に議論の余地を与えなかった。その論理はつけ入る隙がなく、計画は論破できないもので、宣言は威厳に満ちていた。われわれはラフマニノフと同じ時代に生き、彼の神々しいまでの天賦の才能がこの名作を再創造するのを聴くことができるという運命のめぐり合わせに、ただただ感謝するほかはない。それは天才が天才を理解した一日だった。このような場には滅多に立ち会うことができるものではない。そして忘れてならないのは、そこに偶像破壊者の関与はなかったということだ。ショパンはショパンのままだったのである。


指揮
ピアニスト、作曲家としての業績の大きさゆえに今日一般に見過ごされがちだが、ラフマニノフは指揮者としても大きな足跡を残している。マモントフ・オペラやボリショイ劇場で、彼は優秀なオペラ指揮者として信頼を置かれていた。演奏会においても自作のみならずチャイコフスキーやボロディン、リムスキー=コルサコフの作品などで、音楽評論家のユーリイ・エンゲルからアルトゥル・ニキシュやグスタフ・マーラー、エドゥアール・コロンヌにも比肩し得る「生まれながらの天才的指揮者」と評された[1]。ロシアを出国後、1918年にアメリカに渡ったのも、結局受諾しなかったもののボストン交響楽団から演奏会の申し出を受けたのがひとつのきっかけだった。ロシア出国後にピアニストとしての活動に重点を置くようになってからも指揮活動を行っており、自作の交響曲第3番などの録音も残している。


録音
ラフマニノフが演奏活動を行ったのはすでに録音技術が実用化されていた時期のことで、現在でも録音によってその演奏に接することができる。決して数は多くないものの、その録音は資料的価値のみならず、演奏としても非常に貴重なものである。彼はまず1910年代にエジソンレコード社の「ダイヤモンド・ディスク」レコードと契約し、録音を行った。彼は自分が承認した演奏の録音だけが販売されることを望んだが、おそらく単純な不注意のためエジソンレコードは未承認の録音を販売してしまい、ラフマニノフの怒りを買った。これを機に彼はエジソンレコードを去り、以後はビクタートーキングマシン社(のちのRCAビクター社)と契約を結び、多くのレコードを生み出した。

RCAからCDで発売された『ラフマニノフ全集』(10枚組、日本盤発売1992年、再発売1997年)は、エジソン社とRCAに残されたすべてのラフマニノフの演奏による音源を復刻したもので、4曲の協奏曲、交響曲第3番、交響詩『死の島』、多くのピアノ作品、歌曲を含む。フリッツ・クライスラーとの共演によるグリーグのヴァイオリンソナタ第3番などの室内楽曲の録音、自作以外のピアノ作品の演奏も含まれている。これらのいくつかは、ナクソスその他のレーベルでも復刻されている。

これらアコースティック録音のほかに、ピアノロールにも演奏の記録が残されている。はじめは1本の穿孔された紙で正確な演奏を再現できることが信じられなかったラフマニノフだが、1919年にアムピコ社の最初の録音のマスターロールを聞いて、「みなさま、私はたった今、私自身が演奏するのを聞きました!」と述べたと伝えられる。アムピコのための録音は、1929年ごろまで続いた。

人物
生真面目で寡黙な性格だったとされる。彼の人格形成には、幼いころの一家の破産や両親の離婚、姉との死別[注釈 7]などが影響したと指摘される。敬愛したチャイコフスキーの急逝も彼の性格に影を落とした。決定的だったのは交響曲第1番の初演の失敗で、友人に宛てた手紙には「ペテルブルクから帰るときに自分は別人になった」とまで書いている。特にロシアを出国してからは限られた人にしか心を開かなくなり、イーゴリ・ストラヴィンスキーからは「6フィート半のしかめ面」と評された[11]。その一方でシャリアピンの持ち寄るアネクドートにはいつも腹を抱えて笑っていたとも伝えられる。


1902年に作曲した歌曲『ライラック』作品21の5は広く愛され、ラフマニノフのロマンスを象徴する存在となり、ライラックの花は彼の存在と深く結びつけられるようになった。彼の愛したイワノフカの別荘の庭にもライラックは咲き乱れていた。匿名の熱烈な崇拝者からコンサート会場など彼の行く先々に白いライラックの花が届けられるという謎めいた現象が生じたこともあった[注釈 8]。

『聖金口イオアン聖体礼儀』(1910年)と『徹夜禱』(1915年)という正教会の奉神礼音楽の大作を作曲しているが、決して熱心な正教徒というわけではなかったとされる。その彼がこうした宗教音楽の大作を創作したことは同時代人には驚きをもって受け止められたという。ただし『聖金口イオアン聖体礼儀』や『交響的舞曲』の手稿には彼自身の手で「完成、神に光栄」と書きつけられている。

気前のよさでも知られ、ロシア出国後にピアニストとして成功し豊かな収入を得るようになると、革命後の混乱の中で困窮する芸術家や団体を金銭的に支援することを惜しまなかった。彼の援助を受けた団体には、マリインスキー劇場の合唱団や、ロシアに在住していたころから縁のあったモスクワ芸術座などが含まれる。またソビエト連邦がナチスの侵攻を受けて窮地に立たされた際には、ソ連政府を支援するためのチャリティー・コンサートを開催した。

貴族の出身で革命後は国外での生活を選択したラフマニノフだが、革命前の1905年には「自由芸術家宣言」に署名して帝政ロシア当局から目をつけられたという一面もある。この年はボリショイ劇場で不穏な動きがあり、指揮者を務めていたラフマニノフも危険人物の1人とみなされた。ロシアを出国したあとは、亡命ロシア人たちのグループによる政治的な活動からは距離を置いていた。晩年にはヨシフ・スターリンが帰国を迎え入れようとする計画もあったと言われる[12]。

一時期、レフコという名の愛犬を飼っていた。

最先端の機械に興味があり、開発者を助けるためにヘリコプターで有名なシコルスキー社に5,000ドル(今日の約10万ドル)の投資をした。また自動車が好きで、1912年には妻のために初期のガソリンエンジン車(Leigh Company製)を購入した。本人も運転がうまく高速で走ることを好んでいた。当時のロシアにはほとんど車はなかったが、メルセデスやブガッティなど、速度の出るスポーツ車を購入して自ら高速ドライブを楽しんだ。

交友関係

作曲家
チャイコフスキーを熱烈に崇拝していたことはよく知られる。チャイコフスキーから『アレコ』や幻想曲『岩』作品7を称賛されたことを生涯誇りとした。2台のピアノのための組曲第1番『幻想的絵画』作品5はチャイコフスキーに献呈された。1893年にチャイコフスキーが急逝すると、追悼のために悲しみの三重奏曲第2番を作曲した。これはかつてチャイコフスキーがニコライ・ルビンシテインを偲んでピアノ三重奏曲を作曲したのに倣ったものである。

交響曲第1番の初演を指揮したアレクサンドル・グラズノフとはその後も交流が続いた。初演の翌年の1898年にはグラズノフの交響曲第6番を四手のピアノのために編曲している。

モスクワ音楽院で同窓だったスクリャービンとは作風が対照的で、ラフマニノフには彼がせっかくの才能を浪費しているようにしか考えられなかったといわれるが、それでも音楽家として互いに信頼し尊敬し合う仲だった。1915年にスクリャービンが亡くなるとラフマニノフは追悼演奏会を開催した。彼はスクリャービンの前衛的な作品をもプログラムに含めることを厭わなかったが、この2人はピアニストとしての奏法も対照的で、楽曲解釈をめぐってはスクリャービンの支持者から反発を受けた[注釈 9]。ラフマニノフが残したスクリャービン作品の録音は『前奏曲 嬰ヘ短調』作品11-8のみである。ただし、最晩年のピアノ協奏曲第4番ではスクリャービンの影響が指摘されている。

スクリャービンと同じく当時のロシアを代表するピアニスト、作曲家だったメトネルとも親しい間柄だった。ラフマニノフはピアノ協奏曲第4番をメトネルに、メトネルも自身のピアノ協奏曲第2番をラフマニノフに、それぞれ献呈した。メトネルはラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の第1楽章第1主題を聴くと「ゆるやかな鐘の音とともに、ロシアがそのおおきな体いっぱいに立ち上がるような気が」すると述べた[1]。ラフマニノフはメトネルのおとぎ話ホ短調作品14の2「騎士の行進」を「奇跡」と評した[13]。


演奏家
従兄のジロティはモスクワ音楽院入学のきっかけを作ったのみならず、その後も生涯を通じてラフマニノフと深く関わり続けた。ナターリヤとの結婚式ではジロティが花婿の介添人を務めた。ピアノ協奏曲第1番と『10の前奏曲』作品23はジロティに献呈され、ピアノ協奏曲第2番の初演はラフマニノフのピアノとジロティの指揮により行われた。

モスクワ音楽院時代からの演奏家の友人にはユーリ・コニュスやアナトーリー・ブランドゥコーフ、パーヴェル・パプスト、アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼルなどがいる。ラフマニノフはそれぞれと演奏家として共演したり、作品を献呈したりしている。のちにラフマニノフの次女はコニュスの息子と結婚した。

シャリアピンとはマモントフ・オペラで出会って以来、終生の友情を結んだ。カンタータ『春』のバリトン独唱パートやオペラ『けちな騎士』、『フランチェスカ・ダ・リミニ』の主役はシャリアピンを想定して作曲されたものである。

ロシアを出国後に親交を結ぶようになったピアニストとしてベンノ・モイセイヴィチがいる。1919年のモイセイヴィチのアメリカ・デビュー・コンサートにラフマニノフが聴衆の1人として立ち会ったことから両者の交流が始まった。ラフマニノフはモイセイヴィチによるピアノ協奏曲第2番などの演奏を自分よりも優れていると称賛した[14]。

アメリカでラフマニノフと親交を結んだもう1人のピアニストがウラディミール・ホロヴィッツである。ホロヴィッツは1928年のアメリカ・デビュー・コンサートの4日前にラフマニノフと初対面を果たし、ピアノ協奏曲第3番を2台のピアノのための版で演奏した(ホロヴィッツがソロを弾き、ラフマニノフが伴奏パートを受け持った)[15]。のちにラフマニノフはこの曲の演奏をホロヴィッツなどより若い世代のピアニストに委ね、自分では演奏を避けるようになったという[16]。


その他の芸術家
ラフマニノフがチャイコフスキーと並んで崇拝した芸術家がチェーホフだった[注釈 10]。ラフマニノフは1893年にチェーホフの短篇小説『旅中』に着想を得た幻想曲『岩』作品7を作曲した。1898年にはシャリャーピンとの演奏旅行で訪れたヤルタでチェーホフと出会い、直接の親交を結んだ。初対面の際にチェーホフがかけた「あなたは大物になります」という言葉を、彼は生涯の宝物とした。チェーホフの没後の1906年には戯曲『ワーニャ伯父さん』のセリフを元に歌曲「わたしたち一息つけるわ」作品26の3を作曲した。

マリエッタ・シャギニャンとは、彼女が “Re” というペンネームでラフマニノフに手紙を送ったことから交際が始まった。彼女はその後もしばらくは匿名で手紙を交わしたが、のちに彼女の正体はラフマニノフの知るところとなり、両者は直接会うようにもなった。ラフマニノフの自宅でメトネル夫妻を交えて会食したこともあった。1912年には彼女の選んだ詩を元に歌曲集作品34を作曲し、第1曲『ミューズ』をシャギニャンに献呈した。

文学者としてはこのほかにマクシム・ゴーリキーやアレクサンドル・ブローク、イヴァン・ブーニンと親交があった。ゴーリキーはラフマニノフの作品を聴いて、「彼は静寂を聴くことができるんですな」と感嘆したと伝えられる[5]。

コンスタンチン・スタニスラフスキーをはじめとするモスクワ芸術座のメンバーとも交流があった。1908年に開催されたモスクワ芸術座の10周年記念行事では、当時ドレスデンに滞在中で参加できなかったラフマニノフがスタニスラフスキーに宛てた手紙形式の祝辞を歌曲に仕立て上げ、それをシャリアピンが歌うという一幕があった。

女優のヴェラ・コミサルジェフスカヤとも親しかった。1910年に彼女が天然痘のために急逝すると、ラフマニノフは追悼のために歌曲『そんなことはない』作品34の7を作曲した。

作品

作品番号で45の作品が残されているが、そのうちの作品39までがロシア革命(1917年)前に書かれている。完成された作品として3曲の交響曲、4曲のピアノ協奏曲、2曲のピアノソナタを含む多数のピアノ曲、管弦楽曲、合唱曲、歌曲、オペラがある。すべての作品はイギリスの楽譜出版社、ブージー・アンド・ホークスが版権を持っている。ラフマニノフの完全な全集を作る試みがロシア本国で始まった[18]が、中断中である。

調性としては短調が非常に多く、特にニ短調を好んで用いた。また、前述のとおり「怒りの日」がしばしば使われている。

管弦楽作品

交響曲ニ短調 (1891年)
単一楽章。第1楽章だけで、あとは未完。「ユース・シンフォニー」と通称される。
交響曲第1番ニ短調作品13(1895年)
交響曲第2番ホ短調作品27(1906年 - 1907年)
第3楽章の甘美なメロディーは広く知られる。
交響曲第3番イ短調作品44(1936年)
遠くロシアを離れながら、祖国を思う感情が濃厚である。自作自演による録音も存在する。
幻想曲『岩』作品7(1893年)
ジプシーの主題による綺想曲作品12(1894年)
交響詩『死の島』作品29(1909年)
アルノルト・ベックリンの絵画「死の島」のモノクロの複製画に着想を得て作曲した作品。何度も改訂されている。
交響的舞曲作品45(1941年)


ピアノと管弦楽のための作品

ピアノ協奏曲第1番嬰ヘ短調作品1(1890年 - 1891年、初稿と改訂稿がある。)
ピアノ協奏曲第2番ハ短調作品18(1900年 - 1901年)
その美しさでラフマニノフを代表する作品であり、クラシック音楽のなかでももっともポピュラーな作品のひとつ。映画『逢びき』『旅愁』『七年目の浮気』などで使用されたことでも知られる。
ピアノ協奏曲第3番ニ短調作品30(1909年)
第2番に知名度では劣るものの、高度な演奏技術を要求されるピアノ協奏曲。技術的・音楽的要求においてピアノ協奏曲の中で最難関のひとつとも言われている。
ピアノ協奏曲第4番ト短調作品40(1927年、初稿と改訂稿がある。)
パガニーニの主題による狂詩曲作品43(1934年)
変奏曲の形態を取った狂詩曲。第18変奏は反行形で作曲され、ラフマニノフならではの叙情性に溢れており特に有名。


室内楽曲
悲しみの三重奏曲第1番(ピアノ三重奏曲)ト短調(1892年)
悲しみの三重奏曲第2番(ピアノ三重奏曲)ニ短調作品9(1893年)
チェロ・ソナタト短調作品19(1901年)


ピアノ曲
ラフマニノフのピアノ独奏作品の演奏は極めて難しく、2020年の現在をもってしても全ピアノ作品の録音に成功したピアニストは、マイケル・ポンティ、ルース・ラレード、ウラディミール・アシュケナージ、ハワード・シェリー、イディル・ビレット、セルジオ・フィオレンティーノ[19]、アルトゥール・ピサロの7人しかいない。

ピアノ・ソナタ第1番ニ短調作品28(1907年、初稿と改訂稿があるものの、出版されているのは改訂稿のみ。)
ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調作品36(1913年、初稿と改訂稿があり、どちらも出版されている。)
楽興の時作品16(1896年)
前奏曲嬰ハ短調作品3の2(1892年)
1893年に出版されたピアノ曲集『幻想的ピアノ小曲集』作品3の第2曲。初演以来熱狂的な人気を獲得し、ラフマニノフの代名詞的な存在となった作品。
前奏曲集作品23(1901年 - 1903年)、作品32(1910年)
前奏曲ト短調作品23の5(1901年)
練習曲集『音の絵』作品33(1911年)、作品39(1916年 - 1917年)
レスピーギが5曲を抜粋して管弦楽に編曲している。
組曲第1番『幻想的絵画』作品5(1893年)
組曲第2番作品17(1901年)
組曲第1番・第2番はともに2台のピアノのための作品。
ショパンの主題による変奏曲作品22(1902年 - 1903年)
ショパンの前奏曲ハ短調作品28の20のコラール風の主題による変奏曲。
コレルリの主題による変奏曲作品42(1931年)


声楽曲
「ヴォカリーズ」作品34の14(1915年)
ヴォカリーズとは、歌詞がなく、母音のみで歌われる歌曲のこと。さまざまな編成に編曲され親しまれている。
合唱交響曲『鐘』作品35(1913年)
3人の独唱者・合唱・管弦楽のための作品。エドガー・アラン・ポーの詩のコンスタンチン・バリモントによるロシア語訳に基づく。
聖金口イオアン聖体礼儀作品31(1910年)
徹夜禱作品37(1914年 - 1915年)
以上2曲は正教会のための奉神礼音楽。


歌劇
『アレコ』(1892年)
『けちな騎士(英語版)』作品24(1903年)
『フランチェスカ・ダ・リミニ(英語版) 』作品25(1904年)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%8E%E3%83%95  

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コメント
1. 中川隆[-16109] koaQ7Jey 2021年10月06日 15:17:11 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[27] 報告
最美の音楽は何か? _ ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 作品18』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/338.html

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/989.html

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/943.html    

2. 2022年2月22日 01:26:55 : B6blMB693Q : TVFmWTJXUzdkSC4=[1] 報告
セルゲイ・ラフマニノフってどんな人?その生涯や性格は?
https://classical-music.fun/sergei-vasilevich-rachmaninov-life/


セルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)は、ロシアの偉大な作曲家の一人であると同時に優れた技術を持つピアニストでもありました。
作曲家としてのラフマニノフについては多く語られていますが、ここではピアニストとしてのラフマニノフに焦点を当ててご紹介します。

ラフマニノフってどんな人物?

まずラフマニノフとは一体どんな人物であったのかについてお話します。
家族構成や交友関係、性格や身体的特徴などをまとめてみました。

ラフマニノフの性格
ラフマニノフのポートレイトを見たことがある方はお分かりになるでしょう。
一見、かなり気難しい人物のように見えます。
しかし、これは多くの作曲家に当てはまることで、ベートーヴェンやシューマン、リストなども肖像画では気難しそうで神経質そうな人物に見えることが多いです。
では、実際のラフマニノフはどうだったのかというと、仏頂面でいることが多かったようです。
しかし、家族の前、特に自分の娘といる時は常に笑顔でいる人物だったとも言われています。
ラフマニノフが生きた時代はちょうどロシア革命の前後とあって、国がかなり不安定な状態でした。
明日がどんな状況になるかも分からない時に、笑顔で日々を過ごすことはできません。
きっと国の先行きが不安定な状態にラフマニノフも眉をしかめて生きるしかなかったのでしょう。

ラフマニノフの身体的特徴
ラフマニノフは数いる作曲家やピアニストの中でも、一際大きな手を有する人物として知られます。
なんと片手で12度の音程(ドからドのオクターヴ、プラスソまで)を取ることができ、更に柔軟な関節を持っていた指が自在に手の中をくぐって間の音を拾っていたと言います。
そのためか、ラフマニノフが作曲した曲にはやたら手を開く和音やパッセージが出てきます。
これほど巨大な手を持っているということは背も大きかったのではないかと思う方もいらっしゃるでしょう。
なんと2m近くあったそうです!(193cmと言われています。)

ラフマニノフに馴染のある場所
ラフマニノフはロシアの北西に位置するノヴゴロド州セミョノヴォで生まれ、幼少期はその近くのオネグという自然豊かな場所で過ごしました。
その他にもイワノフカに別荘があり、子供時代はここでよく遊んだと言われています。
しかしロシア革命で当局に目を付けられてしまったラフマニノフはアメリカに亡命せざるを得なくなります。
アメリカではカリフォルニア州のビバリーヒルズに住を構え、家族と暮らしました。
この頃、スイスのルツェルン湖にも別荘(セナール)を構え、可能な限りヨーロッパの地で英気を養っていました。

ラフマニノフの家族
ラフマニノフの両親は共に帝政ロシアの貴族階級出身で、両祖父は音楽に素養があった人物だったようです。
元々はかなり裕福な家だったようですが、ラフマニノフが生まれる頃にはすっかり没落し、ラフマニノフが9歳の頃にはついに破産してしまいました。
破産ついでに両親も離婚し、家族がバラバラになってしまったことでラフマニノフは大そう心苦しい思いをしたそうです。

ラフマニノフには2人の姉がいましたが、一人は若くして亡くなっており、ここでも心にダメージを負ったことをラフマニノフは後に回想しています。

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ラフマニノフの妻は従姉妹のナターリヤ・サーチナで、二人の間にはイリーナ(1903年生まれ)、タチアナ(1907年生まれ)がいました。

ラフマニノフの交友関係
ラフマニノフの良きライバルであり、生涯の友人であったのはアレクサンドル・スクリャービンです。
モスクワ音楽院時代から始まり、死ぬまでお互い切磋琢磨する仲でした。

ラフマニノフが特に尊敬していた作曲家はピョートル・チャイコフスキーで、彼に作曲の手ほどきを受けたこともあります。

その他に特に深い交流を持っていたのはオペラ歌手のフョードル・シャリアピンです。
「シャリアピン・ステーキ」の名で知っている方もいるかもしれません。

ピアニストとして尊敬し、良きライバルとして敬っていたのはウラディミール・ホロヴィッツです。
彼が演奏するラフマニノフ楽曲は多く録音にも遺されています。

その他にもレフ・トルストイやアントン・チェーホフなどロシアを代表する文豪との交流もあり、その中から生まれた曲もあります。

音楽教育と才能の開花

ラフマニノフは幼少期から類まれな音楽の才能を開花させ、わずか9歳で奨学金を得てペテルブルグ音楽院に入学を決めました。
しかし素行が悪かったこともあり、12歳でモスクワ音楽院に転入し、ニコライ・ズヴェーレフの家に住み込みでピアノを習い始めます。
チャイコフスキーの前で演奏するなど、どんどんピアニストとしての技術を磨きますが、師匠に禁じられていた作曲に手を出したことから破門となります。
それでも1891年に18歳でモスクワ音楽院のピアノ科を、大金メダルを得て卒業(スクリャービンは小金)、翌年には同音楽院の作曲家を、金メダルを得て卒業しています。

現実と夢の間で揺れたアメリカ時代

作曲家としてピアニストとして一世を風靡したラフマニノフでしたが、ロシア革命が起こったことにより祖国を脱し、アメリカへと家族で移住しました。
生活費を稼ぐため、ラフマニノフはスタンウェイと契約し、全米ツアーを敢行します。
演目も自身が作曲したものだけではなくベートーヴェンからショパンまで幅広いレパートリーを弾きこなし、あっという間にコンサートピアニストの名声を得ます。
しかし本人はアメリカに移住してからというもの、多忙と精神的疲労とで作曲が進まず苦悩の時代を過ごすことになります。

おわりに
いかがでしたでしょうか。
同時代を生きた人物に文豪トルストイやチェーホフがいたり、名作曲家のチャイコフスキーがいたりというのは意外と知られていません。
時代の背景などが見えてくると曲のイメージも変わってくるかもしれません。

ところで、ラフマニノフは自身が作曲した曲を自分でよく演奏し、録音にも遺しています。
有名な曲はCDにもなっているので、気になる方はぜひ聴いてみて下さい!

https://classical-music.fun/sergei-vasilevich-rachmaninov-life/

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