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片山杜秀「クラシックの核心 : バッハからグールドまで」
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/343.html
投稿者 中川隆 日時 2021 年 11 月 09 日 07:17:18: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: knaclub | Hans Knappertsbusch Fun's Page ハンス・クナッパーツブッシュ研究 投稿者 中川隆 日時 2021 年 11 月 08 日 14:05:47)

クラシックの核心: バッハからグールドまで – 2014/3/13
片山 杜秀 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%A0%B8%E5%BF%83-%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F%E3%81%8B%E3%82%89%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%81%BE%E3%81%A7-%E7%89%87%E5%B1%B1-%E6%9D%9C%E7%A7%80/dp/4309274781


内容(「BOOK」データベースより)
片山節が響き渡る9人の神髄。内外の近現代の作曲家から越境して、クラシックのまん真ん中へ。


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
片山/杜秀
1963年、仙台に生まれ、東京で育つ。音楽評論家、思想史家。慶應義塾大学法学研究科後期博士課程単位取得退学、専攻・政治学。現在、慶應義塾大学法学部教授。吉田秀和賞、サントリー学芸賞、司馬遼太郎賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


▲△▽▼


「クラシックの核心」を読んで - 「音楽&オーディオ」の小部屋 2020年03月02日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/77bb1c42a1e26a1f1fb31b867b2d02f8


音楽評論(クラシック)の大御所だった吉田秀和さんが亡くなられてからおよそ8年になる。あの高名な五味康祐さんが「生活派」だとすれば吉田さんは生粋の「学究派」とでもいえようか。

言い換えると、両者の違いは譜面に基づいた音楽論を展開したか否かに尽きるが、もちろん吉田さんは前者である。そして自分はといえばまるっきり譜面が読めないので生活派に属している。

ちなみにご両人が使っていたスピーカーは、五味さんが「オートグラフ」(タンノイ:モニターレッド)で吉田さんは比較的小振りの「エラック」(ドイツ)だった。

選択の意図と性格が何だか一致していると思いませんか!

それはともかく、あまりにも吉田さんの存在が大きかっただけに、はたして吉田さんに続く後継者はと懸念していたのだが、どうやらちゃんとふさわしい方がおられたようだ。

                          

このほど

「クラシックの核心」(河出書房新社刊)
https://www.amazon.co.jp/クラシックの核心-バッハからグールドまで-片山-杜秀/dp/4309274781

を読んでそう思った。書いてある内容も随分と中身が濃かったが、それに加えて「です、ます」調の柔らかい文体がいかにも吉田さんの著作を彷彿とさせてくれた。

著者の名前は「片山杜秀」(かたやま もりひで)氏。巻末の経歴欄を伺うと1963年生まれで現在、慶應義塾大学法学部教授。

NHKのFM放送などでご存知の方も多いと思うが、過去に「音盤考現学」「音盤博物誌」「クラシック迷宮図書館(正・続)」などの著書があり、「吉田秀和賞」をはじめ「サントリー学芸賞」「司馬遼太郎賞」など数々の賞を受賞されており、道理で〜。
本書の内容は次のとおり。

1 バッハ  精緻な平等という夢の担い手

2 モーツァルト  寄る辺なき不安からの疾走

3 ショパン  メロドラマと“遠距離思慕”

4 ワーグナー  フォルクからの世界統合

5 マーラー  童謡・音響・カオス

6 フルトヴェングラー  ディオニュソスの加速と減速

7 カラヤン サウンドの覇権主義

8 カルロス クライバー  生動する無

9 グレン・グールド  線の変容

この中で特に興味を惹かれたのは、「フルトヴェングラー」と「グレン・グールド」だった。

前者では「音は悪くてかまわない」と、小見出しがあって次のような記述があった。(137頁)

「1970年代以降、マーラーの人気を押し上げた要因の一つは音響機器の発展があずかって大きいが、フルトヴェングラーに限っては解像度の低い音、つまり『音がだんごになって』聴こえることが重要だ。

フルトヴェングラーの求めていたサウンドは、解析可能な音ではなくて分離不能な有機的な音、いわばオーケストラのすべての楽器が溶け合って、一つの音の塊りとなって聴こえる、いわばドイツの森のような鬱蒼としたサウンドだ。したがって彼にはSP時代の音質が合っている。」

オーディオ的にみて実に興味のある話で、そういえば明晰な音を出すのが特徴の我が家の「AXIOM80」ではフルトヴェングラーをまったく聴く気にならないのもそういうところに原因があるのかもしれない。

通常「いい音」とされているのは、端的に言えば「分解能があって奥行き感のある音」が通り相場だが、指揮者や演奏家によっては、そういう音が必ずしもベストとは限らないわけで、そういう意味ではその昔、中低音域の「ぼやけた音」が不満で遠ざけたタンノイだが、逆に捨てがたい味があったのかもしれないと思った。

「いい音とは」について、改めて考えさせられた。

次にグールド論についてだが、これはグールドファンにとっては必見の内容で、まだお読みになっていない方はぜひお薦めします。

さて、稀代の名ピアニスト「グレン・グールド」(故人、カナダ)が、ある時期からコンサートのライブ演奏をいっさい放棄し、録音活動だけに専念したのは有名な話でその理由については諸説紛々だが、本書ではまったく異なる視点からの指摘がなされており、まさに「眼からウロコ」だった。

まず、これまでのコンサートからのドロップアウトの通説はこうだ。

☆ グールドは潔癖症で衛生面からいってもいろんなお客さんが溜まって雑菌の洪水みたいな空間のコンサート・ホールには耐えられなかった。

☆ 大勢のお客さんに対するプレッシャーに弱かった。

☆ 極めて繊細な神経の持ち主で、ライブ演奏のときにピアノを弾くときの椅子の高さにこだわり、何とその調整に30分以上もかけたために聴衆があきれ返ったという伝説があるほどで、ライブには絶対に向かないタイプ。

そして、本書ではそれとは別に次のような論が展開されている。(188頁)

「グールドによると、音楽というのは構造や仕掛けを徹底的に理解し、しゃぶり尽くして、初めて弾いた、聴いたということになる。

たとえばゴールドベルク変奏曲の第七変奏はどうなっているか、第八変奏は、第九変奏はとなると、それは生演奏で1回きいたくらいではとうてい分かるわけがない。たいていの(コンサートの)お客さんは付いてこられないはず。

したがって、ライブは虚しいと感じた。よい演奏をよい録音で繰り返し聴く、それ以外に実のある音楽の実のある鑑賞は成立しないし、ありえない。」

以上、初めて聞いた説だがゆうに40年以上ひたすらグールドを聴き込んできたので“さもありなん”と思った。非常に説得力があると思う。

そもそも自分のようにライブのコンサートには(よほどの演奏家を除いて)まったく興味がなく、ひたすら文化果つる地での自己流のシステムで音楽に聴き耽る人間にとってはまことに「我が意を得た話」である(笑)。

「音楽は生演奏に限る。オーディオなんて興味がない。」という方をちょくちょく見聞するが、けっして自慢できる話ではなく、ほんとうの音楽好きとは明らかに違うことを銘記しておかなければならない。

さらにオーディオ的に興味のある話が続く。
「その辺の趣味はグールドのピアノの響きについてもつながってくる。線的動きを精緻に聴かせたいのだから、いかにもピアノらしい残響の豊かな、つまりよく鳴るピアノは好みじゃない。

チェンバロっぽい、カチャカチャ鳴るようなものが好きだった。線の絡み合いとかメロディや動機というものは響きが豊かだと残響に覆われてつかまえにくくなる。」といった具合。

グールドが「スタンウェイ」ではなくて、主に「ヤマハ」のピアノを使っていた理由もこれで納得がいくが、響きの多いオーディオシステムはたしかに心地よい面があるが、その一方、音のスピードが関連してきて分解能の面からするとデメリットになるのもマニアならお分かりのとおり。

したがって、グールドの演奏は前述のフルトヴェングラーの演奏とはまったく対極の位置にあることが分かる。

結局、こういうことからすると「いい音」といっても実に様々で指揮者や演奏家のスタイルによって無数に存在しているといえよう。

逆に言えば、一つのシステムで何から何までうまく鳴らそうなんて思うのは欲張り過ぎでしょう。
世の中にはピンからキリまで様々なオーディオ・システムがあるが、高級とか低級の区分なくどんなシステムだってドンピシャリと当てはまる録音演奏がありそうな気がするのが何だか楽しくなりますね(笑)。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/77bb1c42a1e26a1f1fb31b867b2d02f8  


▲△▽▼


カスタマーレビュー


胃経紆 5つ星のうち5.0
音楽史の副教材(もしくは教科書)に推薦します

実に豊富な知識に基づいてバッハからグレン・グールドを語っていく片山先生。
近現代のクラシック音楽から入っていった人であるようで、だからこそここまで俯瞰して巨視的に音楽史を語れるのであろう。そしてそれぞれの作曲家、演奏家の本質的特徴を、他の音楽評論家たちが言及していなかった内容を含みながら、深い洞察を持って紹介している。とくに、ショパン論、ワーグナー論、マーラー論、グレン・グールド論はすばらしく、ここまで音楽家を深く見抜いている識者は他にいない。各音楽家のとりまく社会的状況が考慮されているのが、ただの音楽畑の人ではないなと思わせる。音楽バカの人に是非読んでほしい。豊富な歴史的教養こそ今後の音楽業界に必要となっていくものだろう。そういう教養がないと新しい音楽的段階が生じえないのである。

ショパンとリストのピアニズムの違い。ワーグナーの、芸術と思想が合体した人の生き方そのものを含んだ総合的で全的な巨大性と民族のロマンティシズム。マーラーの現代性(この現代性はますます我々に重くのしかかっている)。グールドがもたらしたクラシック音楽に対するこれからの時代の新しい構え方(録音、映像をとことん活用して音楽を真に極めていく段階)など、非常に示唆に富むものばかりである。

ショパンのピアニズムの可能性(一方リストにはあまり将来性はない)は、「そのとおりだな」と思わせる内容である。マーラーの細かい分析はすごいとしか言いようがない。

土屋 洋 5つ星のうち5.0
まさにクラシック音楽家の「核心」を突く評論

現代音楽を専門とする片山杜秀氏によるクラシック界の作曲家、演奏者を評したエッセイ集である。筆者が編集者に語った言葉をまとめた雑誌「文藝別冊」の連載が1冊になった。平易な語り口ながら高レベルの深い内容が語られているのには驚いた。

取り上げられているのは、バッハ、モーツアルト、ショパン、ワーグナー、マーラー、フルトヴェングラー、カラヤン、カルロス・クライバー、グールドの9人。一見するとベートーヴェンが欠けているいるように見えるが、随所で彼のことには触れられているので実質は10人。まったく文句のつけようのない人選である。それぞれの音楽家との筆者の子供の時の接点から話が始まるのだが、これが個人的体験のように見えて、実はその音楽家理解の重要なポイントにつながっていく構成が見事である。たとえば、筆者は幼児の時にテレビ番組「レインボーマン」を観ていてバッハの「トッカータとフーガ二短調」が耳に馴染むのだが、それは決まって悪役の処刑シーンに演奏されたというのだ。そこから、バッハ音楽の宗教性を論じ、同じ旋律を繰り返すカノンやフーガをバッハは重視したこと、それは平等で公平な民主的な思想の反映であることを示す。バッハは平等で対等なコミュニケーションの理想を精緻な設計図=楽譜によって残した。よってバッハが再評価されるには20世紀の到来を待たねばならなかったことを語る。まさにバッハ音楽の核心に筆者の論考は及ぶのである。

他の音楽家についても筆者は同様に論じながら、それぞれの音楽家のもっとも重要な特質を端的に示す。モーツアルトは、構造や起承転結は無視して、心に浮かんだ感覚を言語ではなく音として記録する。すなわち彼は刹那的なものを追っている。それが現代の風潮に合っているので人気を集めているのだ。ショパンはイタリア・オペラのベル・カントをピアノの音で再現しようとした。ワーグナーはシェイクスピアとベートーベンを一体化させた総合芸術をめざした、等々。その指摘はまさに各音楽家の「核心」であると頷けるもので、クラシック愛好家の多くにとって「眼からうろこ」の指摘となるであろう。

私は、これほど大胆にかつ深くクラシック音楽家を論じ、明快に断じた著作に出会ったのは初めてである。これは、現代音楽の研究を基にしてクラシック音楽を眺める片山氏の視点がもたらした成果であろう。クラシックの理解と鑑賞に本書が役立つことは論を待たない。ひと通りの「名曲」を聴いた後に次の段階へ進もうとする中級以上のクラシックファンにお薦めしたい。

mozartfan 5つ星のうち5.0
現代音楽をどう聴くか。共通語の崩壊した世界で。

 片山杜秀さんの評論の根底には「現代音楽をどう聴くか」という関心があります。普通の人にとっては無意味な音の羅列にすぎない現代音楽です。クラシック音楽の主流は十八世紀後半から第一次世界大戦までのたった二百年間で、それ以降のいわゆる<現代音楽>は、ないも同然です。しかし、その現代音楽には複雑化・多様化し、分裂し断絶する世界がありました。片山節を音楽と言葉のアナロジーで理解するとわかりやすいでしょう。ロマン主義者は調性のある音楽、いわば共通言語を信じていましたが、十二音音楽の新ウィーン楽派になると、もはや言語が通じるという信念も無くなりました。

 「文藝別冊」の音楽家特集9冊に語りおろしとして掲載された音楽家論をまとめた本冊は片山少年の音楽体験としても面白く、読者も真似して自分の音楽体験を語ってみたい誘惑にかられるものですが、現代音楽としてクラシック(古い)音楽をどう聴くことが可能かという提言でもあります。バッハのカノンに平民の共同体の音楽を聞き取り、モーツァルトに言葉を媒介としない自在さを聞き取る。

 ショパンにオペラ(メロドラマ)のアリアを、ワーグナーに分裂から総合への転向を、マーラーに分裂症的なカオスを、フルトヴェングラーに奔放さを、カラヤンに時代錯誤の独裁を、クライバーに根無し草の脈動を、グールドに純粋な線としての音を聞き取るのも、<現代の音楽>としてクラシック音楽を聴く精神に由来するものでしょう。

 なお、些細なことですが、輪唱《蛙の歌》は正しい題名は「かえるの合唱」(昭和22年、四年生の音楽に初出)です。《 》でくくられている曲は片山少年記憶のなかの題名のようですから、間違いでもないのですが。

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%A0%B8%E5%BF%83-%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F%E3%81%8B%E3%82%89%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%81%BE%E3%81%A7-%E7%89%87%E5%B1%B1-%E6%9D%9C%E7%A7%80/dp/4309274781  

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コメント
1. 中川隆[-14443] koaQ7Jey 2021年12月26日 10:43:12 : 2FqwPrinA6 : Q0dpUE44cnh0dGM=[5] 報告
「音は悪くて構わない」ってどういうこと?
2021年12月25日
我が家では「好きな音楽」を「いい音」で聴きたい一心なので「音楽とオーディオ」が完全に一体化しているが、いったい「いい音って何だろう?」と考えさせられたのがこの本だ。

                          

著者は「片山杜秀」(かたやま もりひで)氏。巻末の経歴欄によると1963年生まれで現在、慶應義塾大学法学部教授。

過去に「音盤考現学」「音盤博物誌」「クラシック迷宮図書館(正・続)」などの著書があり、「吉田秀和賞」をはじめ「サントリー学芸賞」「司馬遼太郎賞」など数々の賞を受賞されている。

本書の内容は次のとおり。

1 バッハ  精緻な平等という夢の担い手

2 モーツァルト  寄る辺なき不安からの疾走

3 ショパン  メロドラマと“遠距離思慕”

4 ワーグナー  フォルクからの世界統合

5 マーラー  童謡・音響・カオス

6 フルトヴェングラー  ディオニュソスの加速と減速

7 カラヤン サウンドの覇権主義

8 カルロス クライバー  生動する無

9 グレン・グールド  線の変容

この中で特に興味を惹かれたのが「フルトヴェングラー」と「グレン・グールド」の項目だった。

前者では「音は悪くてかまわない」と、小見出しがあって次のような記述があった。(137頁)

「1970年代以降、マーラーの人気を押し上げた要因の一つは音響機器の発展があずかって大きいが、フルトヴェングラーに限っては解像度の低い音、つまり『音がだんごになって』聴こえることが重要だ。

フルトヴェングラーの求めていたサウンドは、解析可能な音ではなくて分離不能な有機的な音、いわばオーケストラのすべての楽器が溶け合って、一つの音の塊りとなって聴こえる、いわばドイツの森のような鬱蒼としたサウンドだ。したがって彼にはSP時代の音質が合っている。」

オーディオ的にみて随分興味のある話で、そういえば明晰な音を出すのが得意な我が家の「AXIOM80」でフルトヴェングラーをまったく聴く気になれないのもそういうところに原因があったのか。

通常「いい音」とされているのは、「楽器の音がそれらしく鳴ってくれて分解能があり奥行き感のある音」で、いわば「解析的な音」が通り相場だが、指揮者や演奏家によっては、そういう音が必ずしもベストとは限らないわけで、そういう意味ではその昔、中低音域の「ぼんやりした音」が不満で遠ざけた「大型タンノイ」だが、逆に捨てがたい味があるのかもしれないと思った。

「いい音とは」について、改めて考えさせられた。

次にグールド論についても興味深かった。

稀代の名ピアニスト「グレン・グールド」(故人、カナダ)が、ある時期からコンサートのライブ演奏をいっさい放棄して録音活動だけに専念したのは有名な話でその理由については諸説紛々だが、本書ではまったく異なる視点からの指摘がなされており、まさに「眼からウロコ」だった。

まず、これまでのコンサートからのドロップアウトの通説はこうだ。

☆ グールドは潔癖症で衛生面からいってもいろんなお客さんが溜まって雑菌の洪水みたいな空間のコンサート・ホールには耐えられなかった。

☆ 聴衆からのプレッシャーに弱かった。

☆ 極めて繊細な神経の持ち主で、ライブ演奏のときにピアノを弾くときの椅子の高さにこだわり、何とその調整に30分以上もかけたために聴衆があきれ返ったという伝説があるほどで、ライブには絶対に向かないタイプ。

そして、本書ではそれとは別に次のような論が展開されている。(188頁)

「グールドによると、音楽というのは構造や仕掛けを徹底的に理解し、しゃぶり尽くして、初めて弾いた、聴いたということになる。

たとえばゴールドベルク変奏曲の第七変奏はどうなっているか、第八変奏は、第九変奏はとなると、それは生演奏で1回きいたくらいではとうてい分かるわけがない。たいていの(コンサートの)お客さんは付いてこられないはず。

したがって、ライブは虚しいと感じた。よい演奏をよい録音で繰り返し聴く、それ以外に実のある音楽の実のある鑑賞は成立しないし、ありえない。」

以上のとおりだが、30年以上にわたってグールドを聴いてきたので“いかにも”と思った。

「音楽は生演奏に限る。オーディオなんて興味がない。」という方をちょくちょく見聞するが、ほんとうの音楽好きなんだろうかと・・・。

さらにオーディオ的に興味のある話が続く。

「その辺の趣味はグールドのピアノの響きについてもつながってくる。線的動きを精緻に聴かせたいのだから、いかにもピアノらしい残響の豊かな、つまりよく鳴るピアノは好みじゃない。チェンバロっぽい、カチャカチャ鳴るようなものが好きだった。線の絡み合いとかメロディや動機というものは響きが豊かだと残響に覆われてつかまえにくくなる。」といった具合。

グールドが「スタンウェイ」ではなくて、主に「ヤマハ」のピアノを使っていた理由もこれで納得がいくが、響きの多いオーディオシステムはたしかに心地よい面があるが、その一方、音の分解能の面からするとデメリットになるのも愛好家ならお分かりだろう。

したがって、グールドの演奏はAXIOM80が似合っており前述のフルトヴェングラーの演奏とはまったく対極の位置にあることが分かる。

結局、こういうことからすると「いい音」といっても実に様々で指揮者や演奏家のスタイルによって無数に存在していることになる。

世の中にはピンからキリまで様々なオーディオ・システムがあるが、高級とか低級の区分なくどんなシステムだってドンピシャリと当てはまる音楽ソースがありそうなのが何だか楽しくなる、そして、不思議と虚しい気持ちにもなる・・(笑)。

https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/fe0a0fe08c61daa0bdf498067965c3f8?fm=entry_awp

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