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ロシア国防省におけるエリツィン人脈と反エリツィン人脈の対立が顕在化(櫻井ジャーナル)
http://www.asyura2.com/22/warb24/msg/728.html
投稿者 蒲田の富士山 日時 2023 年 7 月 17 日 01:53:31: OoIP2Z8mrhxx6 ipeTY4LMlXiObY5S
 

2023.07.16

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202307160000/

 ロシア軍の第58統合軍を指揮していたイワン・ポポフ少将は豪胆な性格で、兵士たちから人気があったという。このポポフが解任されたのだが、彼の主張を録音したボイスメッセージをロシアのアンドレイ・グルリョフ議員が公開、話題になっている。
 その中でポポフはワレリー・ゲラシモフ参謀総長たちを厳しく批判、その中で兵士のローテーション、あるいはウクライナ軍の重火器を効果的に標的にしていないなどについて語った。ゲラシモフのほかセルゲイ・ショイグ国防相も批判の対象だ。
 ワグナー・グループのエフゲニー・プリゴジンもゲラシモフやショイグを批判していた。この傭兵会社が創設された際、ロシア軍参謀本部の第1副本部長を務めていたウラジーミル・ステパノビッチ・アレクセーエフ中将が背後にいたと言われ、今年5月4日からミハイル・ミジンチェフ上級大将がワグナー・グループの副司令官を務めている。
 アゾフ特殊作戦分遣隊(アゾフ大隊)が拠点にしていたマリウポリや岩塩の採掘場があるソレダルにはソ連時代、核戦争に備えて地下施設が建設されていたが、それらを利用し、アメリカ/NATO/ウクライナ軍はドンバスの周辺に要塞線を築いた。
 ワグナー・グループはソレダルに続いてバフムート(アルチョモフスク)を制圧、プリゴジンは5月20日にアルチョモフスクの「解放」を宣言した。その際、セルゲイ・スロビキン上級大将とミハイル・ミジンチェフ上級大将に謝意を表している。スロビキンはプリゴジンがデモンストレーションを行なった後、公的な場に姿を見せていない。
 NATOの軍事演習「エア・ディフェンダー23」が終了した6月23日、ロシアの連邦保安庁(FSB)は武装反乱の呼びかけ容疑でプリゴジンの捜査を開始、ウラジミル・プーチン大統領は「武装反乱」は反逆であると述べ、ロシア軍に対して武器を取った者は誰でも処罰されると約束した。
 ところが、24日の午後にはロシアにおけるワグナー・グループの行動を中止することでベラルーシのアレクサンドル・ルカシェンコ大統領とプリゴジンが合意、ロシア政府はワーグナー・グループの幹部に対する訴追を取り下げると発表した。プーチン大統領は最終的にプリゴジンの行動を武装反乱だと見なさなかったということだろう。
 ロシア軍の中で対立があり、一方にはポポフやプリゴジンが属し、他方にはゲラシモフやショイグがいる。
 ショイグは父親のコネで1990年、ロシア連邦国家建築建設委員会の副委員長に任命されたが、そこで彼はボリス・エリツィンの信頼を得たという。それ以来、今でもショイグはエリツィン人脈に属し、欧米資本の影響下にある。そこで、ショイグたちエリツィン人脈はロシア軍をウクライナで戦争の泥沼へ突き落とそうとしたと考える人もいる。
 ソ連を消滅させたのはエリツィンだが、彼に実権を握らせるための秘密工作があった。その始まりはニコライ・ブハーリンを「別の選択肢」として研究していたミハイル・ゴルバチョフの登場。実権を握ったゴルバチョフは「ペレストロイカ(建て直し)」を打ち出すが、これを考え出したのはKGBの頭脳とも言われ、政治警察局を指揮していたフィリップ・ボブコフだ。(F. William Engdahl, “Manifest Destiny,” mine.Books, 2018)
 このボブコフはKGBの将軍で同僚だったアレクセイ・コンドーロフと同じようにジョージ・H・W・ブッシュをはじめとするCIAのネットワークと連携していたとする情報がある。CIA人脈とKGBの中枢が手を組みんでソ連を消滅させ、資産を盗んだというのだ。このクーデターは「ハンマー作戦」と呼ばれている。
 ところがゴルバチョフは西側支配層の命令に従わない。そこで排除され、登場してきたのがエリツィン。彼はソ連を消滅させる直前の1991年11月にアナトリー・チュバイスを経済政策の中枢に据え、チュバイスはエリツィンの娘、タチアナ・ドゥヤチェンコの利権仲間になる。経済部門ではこうして欧米支配層の手先として動く人脈が作られた。昨年2月、ロシアがウクライナに対してミサイル攻撃を始めると、気候問題特使を務めていたチュバイスが辞任して国外へ脱出した。
 エリツィン人脈は西側資本の命令に従ってロシア国民の資産を略奪する政策を進めるが、それに反対する議会は1993年3月に立ち上がる。国民の多くも議員を支持したのだが、アメリカ政府の支援を受けていたエリツィン大統領は国家緊急事態を宣言して対抗、9月になると議会を解散し、憲法を廃止しようとする。
 それに対して議員側はそうした行為をクーデターだと非難、自分たちの政府を樹立すると宣言して少なからぬ議員が議会ビル(ホワイトハウス)に立てこもるのだが、エリツィン大統領は力の解決を図った。戦車に議会ビルを砲撃させたのだ。この時、ショイグはエリツィン側について戦ったという。
 議会ビルに立てこもって殺された人の数は100名以上、議員側の主張によると約1500名に達するというが、こうした虐殺を西側の政府や有力メディアは容認する。
 エリツィンはロシアを欧米の植民地にし、自分たちは甘い汁を吸おうとしたのだが、それをひっくり返したのがウラジミル・プーチンにほかならない。彼はロシアを再独立させつつある。
 そして今、プーチンは国防省のエリツィン派と対峙せざるをえない状況になった。CIA人脈に買収されたKGBグループは消滅していない。エリツィン派はロシアが敗北し、新自由主義政策に戻ることを望んでいるはずだ。  

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コメント
1. 2023年7月18日 09:05:41 : fKkQda7Cxw : a01WR1RYQWZoY00=[2332] 報告
櫻井、頭は確かか、認知症の検査をした方が良い、最近進行を遅らせる良い薬が出たらしいぞ。

何をしている人かわからん人物の名前が沢山出てくるが、おのれが消息通であるのを
誇示したいだけに見える。主張にはなんの根拠もない、情報の出どころは出資者か。

2. 2023年7月19日 21:40:23 : pNlPCkSbrE : UHFWeXlvcDg5aEk=[2667] 報告
>>1

病院に行かなければならないのはおまえだ。

>主張にはなんの根拠もない、情報の出どころは出資者か。

櫻井の過去の記事を読んでみてから言え。

3. 蒲田の富士山[1834] ipeTY4LMlXiObY5S 2023年7月31日 13:05:35 : pdSYYr7oG6 : R1BUNEVTaHZndVU=[24] 報告
<■115行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
ニコライ・ブハーリン(Wiki)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3

生涯

1888年9月27日(グレゴリオ暦では10月9日)モスクワに生まれる。両親は教員で、父イヴァン・ガヴリロヴィチは、モスクワ大学で学んだ数学者だった。知的な雰囲気の家庭で育ったブハーリンは、少年時代は、父親の影響で蝶や鳥類に熱中した。
中学校在学中にマルクス主義の影響を受け、革命運動に関係し、1905年ロシア社会民主労働党に入党し、党の分裂の際は、ボリシェヴィキに参加する。1907年モスクワ大学法学部に入学する。1908年に党モスクワ委員会のメンバーとなる。委員会の中でブハーリンは次第に頭角を現す。1909年当局によって二回逮捕されるものの、保釈された。1911年に逮捕、投獄され、大学を放校処分となる。ブハーリンは、アルハンゲリスク県のオネガに3年間流刑となるが、脱走し、モスクワ経由でドイツに亡命した。ハノーファーを経て、1912年秋にウィーンに移る。ウィーン大学で経済学を学ぶ。1914年まで経済学と社会学を学び、新聞・雑誌に寄稿する中で亡命していたボリシェヴィキの中で理論家として一頭地を現すようになる。
1915年「帝国主義と世界経済」、1916年「帝国主義国家の理論によせて」の両論文をそれぞれ発表し、レーニンの帝国主義論と国家観に影響を与えている。これと前後して、1914年オーストリア当局によってスパイの嫌疑をかけられ逮捕される。その後、オーストリアを追われたブハーリンはスイスに亡命し、ローザンヌに住んだ。1915年に北欧、アメリカ・ニューヨークに移る。この時期は、レーニンと理論や革命戦術をめぐり対立していた一方で、新聞『ノーヴィ・ミール』の編集に携わり、その過程でレフ・トロツキーやアレクサンドラ・コロンタイと親しい関係を築く。
1917年ロシア革命(二月革命)が起こると、5月にアメリカから横浜を経由して、ロシアに帰国する。帰国後、ブハーリンは、党モスクワ委員会とモスクワ・ソビエトで活躍し、モスクワ市議会議員にも選出される。第6回党大会で中央委員に選出される。十月革命後、党機関紙『プラウダ』の編集長となる。しかし、1918年ブレスト=リトフスク条約調印をめぐり、ブハーリンは、「左翼共産主義者」グループを率いて、対独講和を主張するレーニンに反対した。ブハーリンは、ドイツ革命を目論見てドイツを訪問。スパルタクス団に影響を与えるが、国外追放処分を受ける。ドイツ革命には失敗したものの、ブハーリンは内戦中、理論家として赫々たる成果を上げる。クートヴェで共産主義に関する講義を主催し、若手の研究者の養成に尽力すると同時に、1919年には、エフゲニー・プレオブラジェンスキーと共同で「共産主義のABC」、1920年「過渡期の経済学」、1921年「史的唯物論」を次々に著し、レーニンから激賞された。1919年ロシア共産党(ボリシェヴィキ)政治局員候補に選出される。1921年戦時共産主義政策が緩和され、ネップ(新経済政策)が採択されるとブハーリンは、スターリンとともに一国社会主義論の立場を取り、農民との協力体制の下、漸進的な社会主義国家建設を主張していった。1924年レーニンの死後、政治局員に昇格する。また、コミンテルンでも要職を占め、1926年ジノヴィエフの跡を襲い、コミンテルン執行委員会議長に就任した。コミンテルン支部として創設された日本共産党に対しては、綱領案である22年テーゼや27年テーゼの起草に関与している。
1928年7月に行われたコミンテルン第6回大会では、開会演説をブハーリンが行い、次いでスターリンらと共に幹部に選ばれるなど、ブハーリンは、スターリンと組んで党内主流派の一角を占めるが、それも長くは続かなかった。トロツキーとの権力闘争自体ではトロツキーを厳しく批判したが、トロツキーの党からの除名には反対した。スターリンとは、工業化と農業の集団化をめぐり、対立するようになり、ブハーリンは、アレクセイ・ルイコフ、ミハイル・トムスキーと共に、政治局内で反スターリン派を形成するものの、逆にスターリン派から「右翼」として批判されたブハーリンは、党、政治局員、プラウダ編集長、コミンテルン議長を解任された。一度は失脚したもののブハーリンは、ファシズムの台頭を危惧し、自己批判してスターリン支持を表明した。1934年には、党中央委員候補、『イズベスチヤ』誌編集長として復帰し、1935年の新憲法(いわゆる「スターリン憲法」)起草にも参加する。
しかし、1936年大粛清が開始されると、イズベスチヤ編集長を解任され、党中央委員会に喚問され、スターリンによって捏造された資料が提示され批判を受ける。1937年には、ブハーリンとルイコフは党中央委員候補を解任され党から除名される。同年2月にブハーリンは逮捕され、その前夜、夫人のアンナ・ラーリナに名誉回復の上申書「党の指導者の未来の世代へ」を記憶させた。獄中でも4つの著作を残している(スターリンの死後に発見された)。1938年3月のモスクワ裁判でブハーリンは、自らの罪を認めればブハーリン自身を死刑にしないことと、妻子を助けるという約束のもとに有罪を認める。しかし、約束は守られること無く、ブハーリンは「ドイツ、日本、ポーランドの手先」として、1938年3月15日に銃殺された。49歳だった。死の直前には、スターリンへ宛てた一文を残している。そこには、スターリンの政権掌握以降ほとんどの人が使うのを避けていたかつての愛称を用いて
コーバよ、なぜ私の死が必要なのか?
と書かれており、1953年のスターリンの死後に机の中から発見された。
妻子は、ラーゲリで長期間過酷な生活を送るが生き延び、スターリンの死後に釈放される。フルシチョフはスターリン批判をしたが、ブハーリンの公式な名誉回復はしなかった。しかしブハーリンの遺言は、ペレストロイカの開始に伴い、出版され、ブハーリンの路線はネップ再評価と共に、再定義がなされることになる。そしてついに1988年にカール・ラデックらとともに党籍および名誉が回復された。1989年、アンナ・ラーリナ未亡人(1914-1996、26歳年下であった)は回想録『夫ブハーリンの思い出』を出版した。
ブハーリンは前述の「党の指導者の未来の世代へ」の中で自らの心境をこう述べた。
私はこの世を去る。私が頭を垂れるのは、容赦ないものであるべきだが、純潔なものであるべきプロレタリアの斧の前にではない。地獄の機械の前に自分の無力さを感ずる。それは、明らかに、中世の方法を使いながら、怪力をふるい、組織された中傷をでっち上げ、堂々と自信満々に振る舞っている。ジェルジンスキーはもういない。チェーカーの立派な伝統は過去のものとなった。そのすべての行動を導き、敵に対する残忍さを正当化し、あらゆる反革命から国家を守ったのは革命のイデー(理念)であった。それゆえに、チェーカーの諸機関は特別な信頼、特別な名誉、権威、尊敬を得たのだ。現在、いわゆる内務人民委員部の諸機関の大部分――それは無思想の、腐敗した、充分に生活を保証された官吏の組織に変質し、過去のチェーカーの権威を利用しつつ、スターリンの病的な猜疑心の言うなりになり、それ以上は言うことをはばかるが、勲章と名誉を追い求めて自分の醜悪な事業をつくり出している。(中略)私は一度たりとも裏切り者になったことはないし、レーニンの生命を救うためなら、逡巡することなく自分の生命を差し出したであろう。私はキーロフを愛し、スターリンに対して何一つ企てたことはない。党の指導者の新しい、若い、誠実な世代にお願いする。党中央委員会総会で私の手紙を読み上げ、私を無罪と認め、復党させていただきたい。同志たちよ、諸君が共産主義へ向かう勝利の行進においてかかげる赤旗には、私の血の一滴も含まれていることを知っていただきたい。
この手紙は1956年のソ連共産党第20回大会(スターリン批判の秘密報告が行われた大会)後に、アンナ・ラーリナによって筆記され、1961年党中央委員会に渡された。
ブハーリンは漫画を描くのが得意であり、レーニン、スターリン、ヴォロシーロフら仲間の戯画が多く残されている。

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