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西側で第二次大戦を戦ったのはレジスタンスだが、その主力はコミュニスト
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投稿者 中川隆 日時 2023 年 8 月 23 日 07:06:57: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 第二次世界大戦は共産主義と反共ファシズムの戦い。 投稿者 中川隆 日時 2023 年 8 月 20 日 11:55:24)

西側で第二次大戦を戦ったのはレジスタンスだが、その主力はコミュニスト
第2次世界大戦で西ヨーロッパの国々は事実上、ドイツと戦っていない。西側で戦ったのはレジスタンスだが、その主力はコミュニスト。レジスタンスの活動が活発だったフランスやイタリアでコミュニストの人気が高かったのはそのためである。

 そうした西ヨーロッパを支配するためにアメリカやイギリスの支配者の作り上げた組織がNATOにほかならない。大戦末期にアメリカやイギリスの情報機関はレジスタンス対策でジェドバラというゲリラ戦用の部隊を編成、大戦後にはその人脈を軸にしてウォール街はOPCを組織、後にそれがCIAの破壊工作部門になる。

 そうした秘密工作を実行するための組織はヨーロッパでも作られ、NATOができるとその中へ組み込まれ、CPC(秘密計画委員会)の下で活動し始める。1957年になるとCPCの下にACC(連合軍秘密委員会)が創設され、ここが軸になったNATO加盟国に秘密部隊のネットワークが編成された。中でも有名な部隊がイタリアのグラディオ。1950年代から80年代にかけ、極左を装って爆弾テロを繰り返している。

被支配者である大多数の人びとが望まない政策を実現するため、支配者はショックを使うことが少なくない。さらに進んで人びとを恐怖させることも戦術として使われてきた。

 第2次世界大戦後、アメリカとイギリスの情報機関がNATO加盟国に秘密部隊を作った。
 秘密部隊を生み出したのは大戦中に米英がレジスタンス対策として組織したジェドバラ。1941年6月にドイツ軍は西部戦線に約90万人を残して約300万人をソ連への軍事侵攻、バルバロッサ作戦に投入した。西側は圧倒的に手薄な状態になったのだが、ドイツ軍と戦ったのはレジスタンスだけだった。

 ドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入するのだが、11月になって戦況が一変。ソ連軍の反撃でドイツ軍25万人は完全包囲され、1943年1月に生き残ったドイツの将兵9万1000名はソ連軍に降伏する。それまでアメリカやイギリスはソ連とドイツの戦いを傍観していた。

 この展開を見てアメリカとイギリスは慌て、1943年5月にワシントンDCで会談、7月にアメリカ軍とイギリス軍はシチリア島に上陸した。ハスキー計画である。その時に米英軍はコミュニスト対策としてマフィアと手を組んだ。西ヨーロッパでドイツ軍と戦っていたレジスタンスの中にはシャルル・ド・ゴールも含まれていたが、主力はコミュニスト。そのコミュニストに対抗させるため、ジェドバラというゲリラ戦用の組織をアメリカとイギリスの情報機関は編成したのである。ハリウッド映画で有名になったノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月になってからだ。

 ジェドバラの人脈は戦後も生き続け、アメリカ国内では軍の特殊部隊やCIAの秘密工作部門で核になる。西ヨーロッパではNATO参加国の内部で秘密部隊を作り、そのネットワークはCCWU(西側連合秘密委員会)、後にCPC(秘密計画委員会)が指揮。その下部組織として1957年に設置されたのがACC(連合軍秘密委員会)だ。その下でNATOの秘密ネットワークが活動してきたのである。

 そうした秘密部隊の中で最も有名なイタリアのグラディオは1960年代から80年代にかけ、極左を装って爆弾テロを繰り返し、クーデターも計画した。左翼に対する恐怖心を人びとに植えつけ、安全を求めさせ、左翼勢力を弱体化させると同時に監視システムを強化していった。これが「緊張戦略」だ。この時は恐怖を作り出すためにテロが使われたが、今はウイルスが使われている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202101110000/


大戦中、西ヨーロッパでドイツ軍と戦っていたのはレジスタンス。その主力はコミュニストだった。ウォール街やシティの支配者にとってコミュニストは目障りだ。

 そこで、アメリカとイギリスの情報機関は大戦の終盤、ジェドバラというゲリラ戦の組織を作った。その人脈は戦後も生き続け、アメリカでは軍の特殊部隊や情報機関の破壊工作部門になる。

 ジェドバラの人脈はヨーロッパにもネットワークを築く。1948年頃にはCCWU(西側連合秘密委員会)という組織が統括、NATOができてからはその新組織に吸収され、CPC(秘密計画委員会)が指揮することになる。その下部組織としてACC(連合軍秘密委員会)が1957年に設置され、NATOの秘密ネットワークを動かすことになった。NATOへ加盟するためには秘密の反共議定書にも署名する必要があると言われている。(Philip Willan, “Puppetmaster”, Constable, 1991)

 こうしたネットワークの中で最も知られているのはイタリアのグラディオだろう。1960年代から80年代にかけての時期、「極左」を装って爆弾テロを繰り返していた。人びとを恐怖させ、その恐怖と左翼を結びつけようとしたのだが、これは成功した。

 フランスで人気があったシャルル・ド・ゴールはコミュニストでなかったが、レジスタンスに参加していた。つまりアメリカやイギリスの支配者にとって目障りな存在だ。そのド・ゴールを敵視する秘密組織OAS(秘密軍事機構)が1961年に創設される。OASへ資金を流していたパイプのひとつ、パーミンデックスはジョン・F・ケネディ大統領暗殺でも名前が出てくる。

 フランスの内務大臣だったエドアル・ドプは1947年6月、政府を不安定化するため、右翼の秘密部隊が創設されたと語っている。その年の7月末か8月6日には米英両国の情報機関、つまりCIAとMI6と手を組んで秘密部隊はクーデターを実行する予定で、シャルル・ド・ゴールを暗殺する手はずになっていたとされた。

 OASは1961年4月にスペインのマドリッドで秘密会議を開き、アルジェリアでのクーデターについて話し合っている。アルジェリアの主要都市を制圧した後でパリを制圧するという計画で、4月22日にクーデターは実行に移される。

 CIAはクーデターを支援していたのだが、ジョン・F・ケネディ大統領はジェームズ・ガビン駐仏大使に対し、必要なあらゆる支援をする用意があるとド・ゴールへ伝えるように命じた。アルジェリアにいるクーデター軍がパリへ侵攻してきたならアメリカ軍を投入するということだ。CIAは驚愕、クーデターは4日間で崩壊した。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 その後、ド・ゴール大統領はフランスの情報機関SDECEの長官を解任、第11ショック・パラシュート大隊を解散させる。OASは1962年に休戦を宣言するが、ジャン-マリー・バスチャン-チリー大佐に率いられた一派は同年8月22日にパリで大統領の暗殺を試みたものの、失敗。暗殺計画に加わった人間は9月にパリで逮捕された。全員に死刑判決が言い渡されたが、実際に処刑されたのはバスチャン-チリー大佐だけだ。

 暗殺未遂から4年後の1966年にフランス軍はNATOの軍事機構から離脱、翌年にはSHAPE(欧州連合軍最高司令部)をパリから追い出す。フランスがNATOの軍事機構へ一部復帰すると宣言したのは1995年のこと。NATOへの完全復帰は2009年にニコラ・サルコジ政権が決めている。この段階でフランスもアメリカの属国になった。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202102140001/  

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