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谷川連峰は標高2000mに満たない山々の連なりだが、これほどまでに劇的な気候区分を現出している山列というのも珍しく、律令の草創期からここは地域の境界区分として中央に認識されていた。即(すなわ)
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投稿者 中川隆 日時 2024 年 4 月 09 日 22:17:43: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

谷川連峰は標高2000mに満たない山々の連なりだが、これほどまでに劇的な気候区分を現出している山列というのも珍しく、律令の草創期からここは地域の境界区分として中央に認識されていた。即(すなわ)ち上野国、越後国の国境である。
かつてはこの山脈を越えるほとんど唯一の道(※)が、三国峠(みくにとうげ)を通っていた。現在では国道17号線となっている三国街道(みくにかいどう)である。急峻な谷川連峰のピークを避けて少しでも低くなだらかなルートを通るように作られた道で、その起源がいつごろまで遡るのかは定かではないが、万葉集(巻七、第一三六七首)に

三国山こずえに棲まふ
むささびの鳥待つ如く
我待ち痩せむ

と峠のある山が歌われていることから奈良時代には既に人の往来があったものと思われる。

ただし "街道" とはいっても実質的には登山道に毛の生えたような時代が長く続き、雪が降れば交通は途絶した。大量の物資を運べるほどの道幅もなく、道路整備が進んでクルマが峠を越えられるようになったのは時代が大幅に下って、なんと昭和も30年代になってからのことである。それまでの間、特に冬季の長期間の途絶は、長い歴史を通じて上州と越後の情緒の違いを醸成してきた。今筆者が湯沢に向かっているのもその情緒の残照のようなものを求めている訳で、この地方における雪の風情というのは今でも上質の吟醸酒の趣をもって我々を引き寄せている。

その一方で、近代になって造られた鉄道および高速道路は、最短ルートで谷川岳をぶち抜いて水上(みなかみ)から湯沢に抜けるコースをとっている。こちらは情緒だの歴史だのといった甘っちょろいものとは無関係に、費用対効果を算盤勘定して最も投資効果の高くなるように造られた。おかげで在来線、新幹線、高速道路がほとんど同じコースを通って谷川岳の山腹にトンネルを穿(うが)つことになり、人家の稀な山中で交通インフラの奇妙な密集状態を生じている。

これらの新・交通インフラの開通年代は、国鉄(当時)の上越線が昭和6年(1931)、上越新幹線が昭和57年(1982)、関越自動車道が昭和60年(1985)であった。国道17号線が自動車で通れるようになったのは昭和32年(1957)だが、当初は未舗装の隘路であり、苗場で開業したばかりのスキー場に群馬県側からクルマで乗り込むのでなければ、上越線で湯沢に抜けてそこからバスに乗ったほうがよほど快適に移動することができた。

※谷川連峰から福島県寄りの清水峠を通る古道もあったが、湯沢を経由しないルートなのでここでは言及しない。

※三国峠を車が通れるようになった最大の要因は、急峻な峠の頂上部をトンネルでショートカットしたことである。


川端康成が湯沢にやってきたのは昭和9年のことである。上越線の開通からわずか3年、まだまだ古い情緒を残していた湯沢の集落に、当時最新の交通機関(電気機関車に牽引された旅客列車)でこの小説家はやってきた。

…が、残念ながらその季節は厳冬期ではなく6月だったそうで、小説の情緒とは微妙に一致しない。この初回の訪問で川端は鄙びた湯沢の風景を気に入り、その後何度も通うようになっていくのである。彼が雪を見たのはその年の3回目の訪問の時であった。

当初川端康成は群馬県側の水上温泉を訪れていたようで、宿の人に薦められてトンネルを越えた湯沢までやってきたらしい。「水上よりよほど鄙びていた」 と後に川端は好意的に述べているが、その後の展開をみれば水上温泉にとっては逃がした魚はピラルクー並みに巨大だったともいえるかもしれず、なんとも惜しいことをしたものである。

とはいえ水上温泉はほぼ同じ頃に太宰治や北原白秋、与謝野晶子、若山牧水などが逗留していて、谷川岳の関東側の山麓に開けた利便性から湯治場としては湯沢よりよほど発展していた。川端康成のノーベル賞のインパクトがなければ、関連する作家数の多い水上温泉のほうがよほど観光資源には恵まれているのである。


さて狭い山間の盆地でもあり、湯沢ICから降りるともう温泉街なのだが、今回はひとまず温泉はスルーして谷川岳に向かって逆走してみることにした。

どうしてそんな奇行(^^;)をするのかと言えば、せっかくの雪の季節なのだからミーハー路線全開であの 「トンネル」 を見てみたいと思ったのである。もちろん小説 「雪国」 の冒頭に出てくるアレのことだ。

それは土樽(つちたる)の最奥部にある。

■土樽へ
そんな訳で、湯沢集落から離れて谷川岳側の土樽を目指すことにする。

土樽は狭い湯沢盆地にあって、谷川岳を背にした袋小路のような地勢にある小集落である。その概要を湯沢側から俯瞰するとこの↑ようになる。

鉄道や高速道路が開通する以前の土樽は、この地域の主要幹線道路=旧三国街道からは外れた僻地であった。新潟から六日町を経由して湯沢までやってきた旧三国街道は、湯沢をすぎると三国峠を目指して隣の三俣盆地のほうに行ってしまう。山を越えて関東側に抜ける主要道は他にはなく、おかげでこの地区は人の往来からは外れて、近世まで辺鄙な山間集落のまま昔の風情を保った。

ここが文明の恩恵に浴したのは(…などと書くと現地の人に叱られそうだけれども ^^;)、上越線が開通して清水トンネルから抜けてきた列車のために信号所が置かれたあたりからではないだろうか。信号所は後に土樽駅となり、越後国最奥部の駅として今も存続している。小説 「雪国」 の雰囲気を味わうのであれば、新幹線の巨大な駅を抱えて近代リゾートホテルの林立してしまった湯沢温泉街よりも、この土樽駅の周辺を散策したほうが良いという声は多い。

やがて湯沢温泉街から7kmほど谷川岳に寄ったあたりで土樽集落に至る。現在 「土樽」 の地名で呼ばれているエリアは合併前の旧土樽村に相当し、大雑把にいって10km四方ほどの広さがある。湯沢に近い順に 原、荻原、中里、古野、松川 と小集落が点在し、一番奥まったところがこの土樽集落となる。

近代的市町村制が施行される以前はそれぞれの集落が独立した村であった筈で、ここより奥に村がないところをみると、人が日常生活を営むことの出来るぎりぎりの環境がこのあたりまでだったのだろう。


今回とりあえずのランドマークとして目指している土樽駅は、その最後の集落からさらに1.6kmほど奥に入ったところにある。清水トンネルはさらに500mほど奥だ。
実はここにはかつて土樽スキー場というのが営業しており、それなりの賑わいをみせていた。

スキー場ができたのは昭和16年のことで、「雪国」 が書かれた昭和10年前後の寂しい風情は、なんとわずか5〜6年後にはリゾート開発で賑やかに変貌していたのである。ちなみに土樽駅はほとんどこのスキー場の専用駅のような位置関係にあり、ホームから直接ゲレンデに出ることが出来た。土樽集落までには遠い立地の駅だが、スキー客には便利であったに違いない。

この昭和10年代というのは湯沢駅周辺でもボーリングで新源泉が次々に掘り当てられやはり開発が急速に進んだ時期で、かつての古い宿場から新源泉の点在する西側斜面沿いに市街地が増殖していく途上にあった。新源泉は最終的に15箇所まで増え旧源泉を遥かに越える規模となり、付近の様相は一変してしまった。温泉街の中心が、大きく新源泉の区域=湯沢駅周辺側に移動したのがこの頃である。

…それを思うと、川端康成が湯沢に滞在した昭和9年〜12年というのは、開発のまだ端緒の時期で昔の風情が壊されていないぎりぎりの時期だったといえそうだ。小説に描かれた湯沢の情景というのは、時代性からいえばには極めてピンポイントなものなのである。
http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2012/2012_0209_Yuzawa/2012_0209_01.html  

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