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神武東征は実際にあったとすれば、西暦250年から300年頃の出来事 
http://www.asyura2.com/23/ban11/msg/706.html
投稿者 中川隆 日時 2024 年 4 月 24 日 08:19:03: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 荒神谷遺跡  3世紀ですね。     投稿者 中川隆 日時 2024 年 4 月 21 日 14:07:36)

神武東征は実際にあったとすれば、西暦250年から300年頃の出来事
「日本書紀の神武紀」を見ると、彼らは、大阪湾までやってきて、「登美のナガスネヒコ」との戦闘の時に、舟で日下の蓼津(現在の東大阪市日下町付近)まで進出して来ます、そこでの戦闘で、兄の五瀬命が負傷したので、南方(現在の大阪市淀川区西中島南方付近)を舟で経由して撤退し血沼海(茅渟海、大阪湾)に出たとの記述があります。

現在の地形では、「蓼津も南方」も陸地で、舟で到達したり通過したりすることができません。

でも、250年から300年頃の弥生時代の後半には、大阪湾の奥に河内湾というのがあり、この二つの湾を分断するような半島状の地形(片町台地)の先端部分が開いていて、海水が河内湾にも流入していたのです。

その後、堆積物によりふさがって河内湖になり、ふさがったところが「南方」です。

このように、「神武」が東征してきた時の状況がリアルに伝えられていますので、時期としては、250年から300年ごろのことだと考えられます。

▲△▽▼

荒神谷から出土した多量の銅剣の埋納年代と埋納された理由
荒神谷から358本の銅剣が出土して久しいのですが、それらの銅剣はいつごろ埋められたのか興味があります。現在最も支持されている埋納年代と埋納された理由を教えてください。

アンサー
1 埋納年代について
  発掘した地層に炭化物が混じった焼土があり、鑑定でA.D.250± 80とA.D.1250± 80の年代測定結果が出ていますが、鎌倉時代はあり得ないので、前者であると結論付けています。
  3世紀ですね。
   ※ 荒神谷遺跡発掘調査概報3(島根県教育委員会)参照

2 理由について
  永らく不明でしたが、大国主が国譲りの際に恭順の儀式として武器を埋納したとの新説が出ています。(東北大学名誉教授:田中英道説)
  発掘された銅剣のほとんどに印が、鋳造時ではなく、後から刻印されているのも、同じく理由不明でした。
  これも廃棄して使用しないとの意味があると説明しています。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13278059.html  

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コメント
1. 中川隆[-10824] koaQ7Jey 2024年4月24日 08:36:07 : 4WrjOf869I : ZldWV3g5QnZacVU=[1] 報告
<■74行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
神武東征は実際にあったとすれば、西暦250年から300年頃の出来事

皇国史観は神武即位を「BC660年」としたが、那珂通世は「AD元年」、久米邦武は「AD6年」、とし、高木修三は『紀年を解読する』(2000年)において「BC29年」、長浜浩明は『古代日本の「謎」の時代を解き明かす』(2012年)において「BC70年」とした。
 これらに対して、記紀の年代分析において初めて統計的に科学的分析を行ったのは、安本美典氏である(図参照)。氏は古代の天皇、中世・近世の将軍、中国・西洋の王の在位年数から、古代大王の平均在位年数を約10年とし、神武即位を「AD271年頃」とする統計的な推定を行った。
http://hinakoku.blog100.fc2.com/blog-entry-70.html


「日本書紀の神武紀」を見ると、彼らは、大阪湾までやってきて、「登美のナガスネヒコ」との戦闘の時に、舟で日下の蓼津(現在の東大阪市日下町付近)まで進出して来ます、そこでの戦闘で、兄の五瀬命が負傷したので、南方(現在の大阪市淀川区西中島南方付近)を舟で経由して撤退し血沼海(茅渟海、大阪湾)に出たとの記述があります。

現在の地形では、「蓼津も南方」も陸地で、舟で到達したり通過したりすることができません。

でも、250年から300年頃の弥生時代の後半には、大阪湾の奥に河内湾というのがあり、この二つの湾を分断するような半島状の地形(片町台地)の先端部分が開いていて、海水が河内湾にも流入していたのです。

その後、堆積物によりふさがって河内湖になり、ふさがったところが「南方」です。

このように、「神武」が東征してきた時の状況がリアルに伝えられていますので、時期としては、250年から300年ごろのことだと考えられます。


長浜浩明は神武東征が河内潟の時代だと主張していますが、河内湖Tの時代が正しい:
・古大阪平野の時代:約2万年前
・古河内平野の時代:約9000年前
・河内湾Iの時代:約7000年〜6000年前
・河内湾IIの時代:約5000年〜4000年前
・河内潟の時代:約3000年〜2000年前(BC1050年〜BC50年)
・河内湖Iの時代:約1800年〜1600年前(AD150年から350年)
・河内湖IIの時代〜大阪平野I・IIの時代:約1600年前以降
http://altairposeidon.hatenablog.com/entry/2018/10/11/000000


長浜浩明は、神武東征が、河内潟の時代だと主張していますが、次のような理由から、河内湖Tの時代ではないでしょうか。

 「日本書紀」神武即位3年前2月11日に、皇軍が、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いたのは(p.28)、瀬戸内海では現在も、潮流の方向が、約6時間ごとで、鞆の浦付近を中心に、内向きと外向きで、交互に変化するので、その影響と推測できます。

 よって、河内潟や河内湖の、出入口での流出入とは、無関係とみられ、3月10日に、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩津に着いたのも(p.29)、当時は、積載しても、あまり沈み込まない、準構造船か丸木舟なので、押して歩ける水位の水際なら、流れが多少ゆるやかなので、逆らえるでしょう。

 余談ですが、「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です。

 そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、筆者が軍船といっているのは(p.34)、当時まだなかった、構造船を想定したからではないでしょうか。

どうも、長浜浩明が、神武天皇の即位を、紀元前70年としたのは、新羅の建国が、紀元前57年、高句麗の建国が、紀元前37年、百済の建国が、紀元前18年とされているので、それらに対抗・優越しようとしただけにしか、みえないのは、私だけでしょうか。

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荒神谷から出土した多量の銅剣の埋納年代と埋納された理由
荒神谷から358本の銅剣が出土して久しいのですが、それらの銅剣はいつごろ埋められたのか興味があります。現在最も支持されている埋納年代と埋納された理由を教えてください。

アンサー
1 埋納年代について
  発掘した地層に炭化物が混じった焼土があり、鑑定でA.D.250± 80とA.D.1250± 80の年代測定結果が出ていますが、鎌倉時代はあり得ないので、前者であると結論付けています。
  3世紀ですね。
   ※ 荒神谷遺跡発掘調査概報3(島根県教育委員会)参照

2 理由について
  永らく不明でしたが、大国主が国譲りの際に恭順の儀式として武器を埋納したとの新説が出ています。(東北大学名誉教授:田中英道説)
  発掘された銅剣のほとんどに✖印が、鋳造時ではなく、後から刻印されているのも、同じく理由不明でした。
  これも廃棄して使用しないとの意味があると説明しています。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13278059.html

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