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日航機墜落事故・自衛隊関与説の著者「科学的証拠で論証している」 (産経) 
http://www.asyura2.com/23/holocaust7/msg/894.html
投稿者 魑魅魍魎男 日時 2025 年 8 月 18 日 03:24:13: FpBksTgsjX9Gw 6bOWo@mx6bKSag
 

「日航機墜落事故・自衛隊関与説の著者『科学的証拠で論証している』」
(産経 2025/8/9)
https://www.sankei.com/article/20250809-SJHD7QCJPZOKDOMRAYSRFFM3IQ/

 12日に発生から40年となる日本航空機123便墜落事故の原因について、自衛隊の関与の可能性を主張している元日航客室乗務員でノンフィクション作家、青山透子氏が産経新聞の取材に応じた。青山氏には事故を題材にした著書が複数ある。産経ニュースが5月1日に青山氏の主張に反論する自衛隊OBらによるシンポジウムなどを報じた際、青山氏は後日取材に応じる意向を示していた。

 《青山氏の著書は、123便が相模湾(神奈川県沖)上空中、垂直尾翼がミサイルによって誤射された可能性を指摘する。当時、同湾で護衛艦「まつゆき」がミサイルの実験中だったとして関与を示唆する》

──まつゆきが墜落に関与したのか

 「分からない。あくまでも仮説の一つだ」「乗客が機内から外を撮影した風景写真に丸い点のようなものが写り込んでいた。分析すれば、オレンジ色の飛翔体であることが判明した。ミサイルか標的機か、糸の切れたタコみたいにぶつかったのではないか。墜落直前に子供たちが『赤い飛行物体』を見たと証言している」

──まつゆきは事故当時、石川島播磨重工業(現IHI)の所有船舶で、民間人も乗り込んでいたが

 「(民間人も含めて)口封じは生半可なものではなかったようだ」

《著書は123便が異変を生じた直後、F4戦闘機2機が即座に追尾し、午後6時56分の墜落を確認したとする。自衛隊の公式発表では、2機のF4が茨城県の航空自衛隊百里基地から飛び立った時間は123便の墜落直後だ》

──墜落直前にF4が追尾したという公式記録はない

「記録と目撃証言は別だ。私が発掘した昭和60年10月号の『上毛警友』(群馬県警本部発行)には、陸上自衛隊第12偵察隊(群馬県榛東村・相馬原)の一等陸曹、M・K氏の手記として『午後6時40分頃、実家(吾妻郡東村 現・東吾妻町)の上空を航空自衛隊のファントム( F4)2機が低空飛行していった』と記されている。遺族の情報開示裁判でも証拠採用された」

 「子供の証言も過去の飛行機事故をめぐる裁判で採用されている。60年9月30日発行の同県上野村立上野小学校の事故に関する文集には『大きい飛行機と小さいジェット飛行機2機』を目撃したと書いている。こういう子は中学校にも何人もいた。当時の校長に平成26年6月にインタビューしたが、F4と思われるものが飛行する音を聞いていた。追尾の記録が存在しないから『ない』ということにはならない」

──著書は墜落直前に123便の機長が、追尾する2機のF4と連絡を取り合った可能性を指摘している

 「空自が開示しないと分からないと、著書に書いている」

──シンポジウムではF4と民間機が直接交信できないと主張されている

 「ウソだ。ならば、民間航空機に領空侵犯された場合、自衛隊機はどう呼びかけるのか。昭和58年の大韓航空機撃墜事件でソ連軍が民間機と交信した記録もある。それを傍受したのは自衛隊だ。シンポに参加した自衛隊OBに知識がなく、不都合なところがカットされて主張されている」

      ◇

 《著書は、墜落現場で「ガソリンとタールの混ざったような臭い」と感じたという消防団員の証言を紹介。「証拠隠滅」のために自衛隊員が火炎放射器で乗客の遺体やミサイルの痕跡を焼却した可能性を主張する》

 「機体の残骸も大学で調べた。ベンゼンや硫黄、クロロフォルムまで入っていた。これらは火炎放射器の燃料に含まれる。科学的思考からすれば、湿度70%超の夏の山にほうり出された遺体が完全に炭化するわけがない。カバンやぬいぐるみはそのままの形で残ったが遺体には二度焼きした痕跡も確認された。他の航空機事故の遺体も調べたが、空に面した方は焦げていても、地面に面した方は生焼きだった」

──自衛隊OBは、火炎放射器を取り出す手続きは簡単ではないと話している

 「一方的な意見だ。それをチェックする人はいない。群馬県警察医も『ジェット燃料であんなにも炭化するのかね』と言っている。当時、燃料を作る作業は最低1時間で使用可能だという論文もあった」

      ◇

 《著書は、自衛隊員は事故現場で機長の遺体を真っ先に発見し、目印のため棒で突き刺し、ヘリコプターの移動中、不都合なものを取り除くため制服などを外したと示唆する》

──事故当時、現場指揮に当たった岡部俊哉元陸上幕僚長は「現地は多くの数の人が作業していた。機長の制服を身に着けた遺体が発見されれば、マスコミの写真に写っている」と話す

 「真っ赤なウソだ。遺体収容をめぐっては、陸自ヘリコプターによる輸送中、機長の制服をはぎ取った可能性は否定できないと書いている。マスコミや警察がいたという『現地』とは別だ」

──機長の遺体は事故から半月後の8月29日に発見された

 「当局の発表で新聞はそう書く。ただ、独自に入手した群馬県の検視資料には機長の遺体は14日に収容されたと記されていた。さらに、看護師は追悼文集に『14日に機長の遺体を検視した』と書いていた。看護師本人にも話を聞いたが、看護師は当時から報道内容に疑問を持っていたが緘口令が敷かれていた。新聞報道は誰かに何かを配慮したとしか思えない」

      ◇

 《著書では事故直後、自衛隊のヘリが山頂でサーチライトを照らしながら、何かを上げたり下げたり、作業していたという上野村の子供たちの目撃証言を挙げて、事故直後に事故現場に入った自衛隊員について「人命よりも優先させた何かがあったのならば」と推測している》

──大型のサーチライトは配備されていなかったようだ

 「それは彼らの言い分でしょう」「昭和60年12月に自衛隊内で公式発表された事故原因を疑問視する人たちがグループを結成し、私もインタビューしている。事故当日の午後6時40分に出動が発令されたが、エンジンを切らされ、結局、朝まで待たされていた。彼らは出動ができなかったことに憤りを感じている」

──シンポを主催した「JAL123便事故究明の会」と対話する考えは

 「応じない。知識に差がある。教授に対して小学生が対等に話せるわけがない」「自衛隊内部の人はトップクラスも含めて私にメールをくれる。岡部氏のような意見は恣意(しい)的なので聞く必要はない」

──自民党の佐藤正久参院議員(当時)は青山氏の著書が「全国学校図書館協議会選定図書」に選ばれていたことを国会で問題視した

 「私がこれだけのものを書いているのは科学的証拠に基づいてきちんと論証しているからだ。選定図書にふさわしくないといわれたことで、本当だったら佐藤氏を訴えたいところだ」

──乗客の遺族が日航に事故機のボイスレコーダー(操縦室音声記録装置)などのデータの開示を求めた訴訟で最高裁は上告を棄却した。

 「和解したから聞かせる必要ないという不当判決だった。しかし、文字で公表されているボイスレコーダーには、機長の発言も含め事故発生直後の3分12秒の空白がある。さらに遺族は、平成25年になって事故調が公表した相模湾上空で垂直尾翼に外から11トンの力が加わり破壊されたことや、機体残骸が海底に沈められたまま放置されていることへの再調査の必要性も訴えた」

 「いずれにしろ全てボイスレコーダーを出せば、岡部氏の主張も佐藤氏の主張も私たちの主張もクリアになる」(聞き手 奥原慎平)

■ 自衛隊関与説は「全くのデマ」 「JAL123便事故究明の会」会長の岡部俊哉元陸幕長

 事故当時、現場で生存者捜索に当たった自衛隊OBらでつくる「JAL123便事故究明の会」会長の岡部俊哉元陸上幕僚長は、陸自第1空挺団の小隊長として生存者の救助、ヘリポートの造成などの指揮を執った。岡部氏が7月28日に国会内で開かれた同会シンポジウムで語った内容は以下の通り。

      ◇

──123便の墜落直後、自衛隊が秘密裏に現場に駆け付け、火炎放射器で遺体を含めて証拠隠滅したと指摘されることについて

 「放射器は全体で31キロの重さ。棒状に火炎を放射するもので、面を焼き払うには大量の燃料を要する。証拠隠滅するための面積は『3・3ヘクタール』と書かれているが、燃料はドラム缶にして16、17缶必要だ。資器材を秘密裏に準備し、搬入、焼却、撤収は不可能だ」

──機長の遺体発見は8月29日ではなく「14日」との説や、自衛隊員が目印のため棒で突き刺した上、ヘリコプターの移動中に制服などを外したという指摘がある

 「全くのデマ。遺体は警察の検証が終わった後にわれわれに上がってくる。制服を着た機長がいれば分かる。自衛隊の部隊、マスコミ、消防、ものすごい数の人がいた。密室でやることはあり得ない。ヘリの中も(遺体が)びっちりで足の踏み場もない状態だった」

──会を立ち上げたのは

 「子供たちが読む図書館の選定図書に、デタラメな本がノンフィクションとして選定されていると知ったからだ。自衛隊を取り巻く安全保障環境が厳しい中にあって、これでいいのか。(放置したら)子供たちが誤った認識を持ってしまいかねないと危惧している」

■ 日本航空機墜落事故

昭和60年8月12日、羽田発伊丹行き日航機123便(ボーイング747型機)が、群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」と呼ばれる山に墜落し、乗客乗員520人が犠牲になった単独機として世界最悪の航空機事故。運輸省事故調査委員会は、後部圧力隔壁の不適切な修理によって隔壁が破裂し、それが操縦系統の損壊を招いたと結論付けた。

------(引用ここまで)---------------------------------

青山透子氏と岡部俊哉元陸幕長のどちらが真実に近いか、
よくわかるインタビューですね。

たとえ123便を撃墜したかどうかは別にしても、半日以上、
乗客の救助を怠ったのは自衛隊の極めて重大な犯罪です。

生存者を見殺しにしたと言われても、仕方がないでしょう。

(関連情報)

「(40年追悼)封印された言葉を解き放つ─40年目の真実 
(元CA凛子の「お仕事・生活・人生模様」)」 (拙稿 2025/8/15)
http://www.asyura2.com/23/holocaust7/msg/893.html?c15#c15  

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コメント
1. 七対子[1010] jrWRzo5x 2025年8月18日 03:55:05 : Dl0W0QFXlU : ankyY0J4M1ZnOE0=[386] 報告
火炎放射器は大量の燃料が必要というが、沖縄戦ではすでにこういった
背負い型のものが使われていた。

40年後の123便事故では、さらにコンパクト化されたものが使われただろう。

「沖縄慰霊の日(その1) 住民巻き込んだ沖縄戦」 (毎日 2025/6/23)
https://mainichi.jp/maisho/articles/20250623/kei/00s/00s/012000c

アメリカ軍は、日本人が隠れているかもしれない洞穴を火炎放射器で攻撃しました
=1945年6月撮影

2. 秘密のアッコちゃん[1827] lOmWp4LMg0GDYoNSgr@C4YLx 2025年8月19日 01:37:00 : n4vXmS4Gso : WUN2WklXQ0Fya0k=[1265] 報告
<■1671行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
<主張>日航機事故40年 安全への誓いを継承せよ 悪質なフェイクを放置するな
社説
2025/8/11 5:00
https://www.sankei.com/article/20250811-D52YH7C4ONNRBGU3WBBXIITAZU/
■虚構の妄言は許し難い
デマやフェイクニュースの横行やSNSによる拡散も新たな社会問題と言える。
日航機事故を巡っては
「自衛隊が誤射した」
「証拠隠滅のため火炎放射器で証拠を焼却した」
などとする書籍が複数刊行され、全国学校図書館協議会による選定図書に指定された本まである。
これを真に受けた情報がネット空間などで広まり、事故現場の登山道には
「自衛隊が意図的に殺害した乗客・犠牲者」
と記された
「慰霊碑」
の設置も確認されている。
これらは、酷暑下で過酷な救出活動に従事した自衛隊員への冒瀆であり、遺族や関係者の気持ちを逆なでする、許し難い虚構である。
多くの人の目がある中であり得ない言説だが、陰謀説が広まるスピードは速い。
この問題は国会でも取り上げられ、中谷元防衛相が
「自衛隊の関与は断じてない」
と否定したが、一部の人は聞く耳を持たない。
事故機は事故の7年前1978年に尻もち事故を起こした。
この際に製造元のボーイング社が機体後部の圧力隔壁の修理をミスし、隔壁の強度不足を招いた。
それが事故原因であり、同社も修理ミスを認めた。
悪意の虚構は静かな慰霊にも、事故の再発防止にも、何の役にも立たない。
当事者である日航や自衛隊、捜索と捜査にあたった群馬県警や運輸安全委員会は、それぞれ具体的な
「ファクト」
を明示してデマを一掃してほしい。

<独自>日航機墜落事故40年 米ボーイング、修理ミスの理由説明「設置困難で部品切断」
2025/8/6 22:00
https://www.sankei.com/article/20250806-N5T7PWWI3JNLNMARNOECQE4U3Q/
2025年8月12日で発生から40年になる日航機墜落事故を巡り、米ボーイング社は産経新聞の取材に応じ、事故原因とされる接合板(スプライス・プレート)を2枚使用した機体の修理ミスが起きた理由について
「設置することが構造上困難だったため」
と明らかにした。
当時の旧運輸省航空事故調査委員会の調査や、警察の捜査では担当者への聞き取りができず、2枚のプレートを使用した修理ミスが起きた理由は判明していなかった。
1985年8月に発生し、乗客乗員520人が犠牲になった単独機として世界最悪の航空機事故は、原因の更なる究明に向け一歩踏み出した。
墜落した機体はボーイング747型機。墜落事故の7年前1978年、別の事故で機体後部を損傷し、ボーイングが修理した。
機内の気圧を保つドーム状の部品
「後部圧力隔壁」
について、修理チームは下半分を新品に取り換え上半分と接合した。
このとき、接合部にあてるプレートが指示書では1枚だったのに対し、2枚に切断されたものが使用された。
隔壁はプレートを挟む形で鋲留めされたが、本来の仕様より強度が7割に落ち込み、最終的に墜落事故に繋がったと事故調の報告書で結論付けている。
だが、2枚のプレートを使用した理由は長く判明していなかった。
ボーイングは取材に
「プレートを所定の位置に設置するのが難しく、2つに切り分けて設置しやすくした」
と説明した。
ボーイングは昨年2024年9月、日航機墜落事故に関するページを公開し、この内容を示していた。
米連邦航空局(FAA)も、公式サイトで
「隣接する構造物との複合的な湾曲のため設置が困難だった」
と記載している。
当時、事故調の調査官として圧力隔壁を調べた斉藤孝一さん(80)は
「事故後の40年間で初めて出てきた情報で、大変驚いている」
「整備員たちが安全のために知るべき非常に重要な情報だ」
と述べた。
ボーイングは取材に際し、
「ご遺族の皆様に心よりの哀悼の意とお詫びを申し上げます」
と改めて謝罪した。
遺族らで作る「8・12連絡会」は
「修理ミスについて、1つ1つ事実が分かっていくことによって、その背景を明らかにしていくことができるはずなので、更に詳しく情報をオープンにしていってほしい」
とコメントした。

日航機墜落に5つの陰謀説 「自衛隊と隊員への冒瀆だ」当時捜索のOBが反論
2025/5/1 8:36
https://www.sankei.com/article/20250501-EWVJEC535BOPPNUXV2G4MZCO2M/
昭和60年の日本航空機墜落事故に自衛隊が関与したという
「陰謀説」
が流布されていることに、当時事故現場で生存者捜索にあたった自衛隊OBらは
「自衛隊と隊員への冒瀆だ」
と憤っている。
2025年4月16日には参院議員会館で開かれた
「JAL123便事故究明の会」
によるシンポジウムで、書籍などで指摘される陰謀説のうち5つの点に反論した。
同会は昨年2024年8月に設立。
会長を務める岡部俊哉元陸上幕僚長は事故当時、陸上自衛隊第1空挺団の小隊長として生存者の救助、ヘリポートの造成などの指揮を執った。
陰謀説@「海上自衛隊護衛艦の訓練中のミサイルが123便に衝突」
自衛隊の関与を指摘する書籍は墜落原因について、当時巡航ミサイルの実験中だった護衛艦「まつゆき」が相模湾(神奈川県沖)で123便の垂直尾翼周辺に異変を生じさせたとする。
だが、まつゆきの就役は事故翌年の昭和61年3月。当時は石川島播磨重工業(現IHI)が所有する船舶だった。
元海上自衛隊海将補の林祐氏は
「(海自の)乗組員も『艤装員』として乗り込んでいたが、石川島播磨の船長が指揮を執り、スタッフが運航していた」
と述べ、自衛隊が主導できる状況ではなかったと説明した。
123便は事故発生当時高度7・3キロに達した。
林氏は当時の対空ミサイルなどが
「そう飛翔するものでない」
と述べ、まつゆきに搭載された発射ランチャーについて
「発射することはできない」
「コントロールシステムが異なる」
と指摘した。
陰謀説A「航空自衛隊のF4戦闘機2機が123便を追尾」
墜落直前の123便を空自F4戦闘機2機が追尾していたとの目撃証言を基に、最終的にF4がミサイルで墜落させた─とするものだ。
追尾などの動きは公式記録にない。
また、F4パイロットとして当時現場に出動した渡辺修三氏はミサイルなど装備品管理は徹底されているとし、
「帰投してミサイル1本なかったら一大事だ」
と述べた。
陰謀説B「墜落現場の特定を遅らせた」
渡辺氏は、地上で上空の戦闘機パイロットと連携する要撃管制官からの誘導で日航機がレーダーから消えた午後6時56分過ぎに墜落現場とみられる場所にF4で向かい、1・5〜2キロに渡る帯状の炎を確認したと証言する。
ただ、正確な墜落地点は把握できなかった。
渡辺氏は操縦士に対し最も炎が強い所を中心に旋回してもらったが正確な位置をつかむのは難しかったという。
陰謀説C「証拠隠滅のため火炎放射器で現場を焼却」
墜落現場では消防団員らが
「ガソリンとタールの混ざったような臭い」
と感じたという証言がある。
これを基に
「証拠隠滅」
のために自衛隊員が火炎放射器(携帯放射器)で遺体やミサイルの痕跡を焼却したと流布されている。
当時陸自第13普通科連隊(長野県松本市)に所属し救出作戦に参加した小川清史元西部方面総監は
「火炎放射器を取り出す手続きは幾重で容易ではない」
「注入する燃料を保管するのは業務隊で指揮系統が異なりより一層手続きに時間と書類が必要となる」
と反論する。
また携帯放射器の燃料であるゲル化剤を大量のドラム缶で入手して一晩で搬入、焼却、撤収するのは不可能だと指摘する。
そもそも燃料にタールは使われないという。
陰謀説D「海自出身の機長の遺体・制服を自衛隊が隠蔽」
書籍では事故を巡って123便の機長が海自出身であることから
「ミサイルを誤射した」
とされる海自の訓練との関係が示唆されている。
自衛隊員が事故現場で機長の遺体を真っ先に発見、目印のため棒で突き刺しヘリコプターの移動中不都合なものを取り除くため制服などを外した─というものだ。
これに対し岡部氏は
「現地は多くの数の人が作業していた」
「機長の制服を身に着けた遺体が発見されれば(現地にいた)マスコミの写真に写っている」
「空想で言われた話としかいいようがない」
と語った。

<正論>「御巣鷹」に見る情報戦への脆弱さ 
麗澤大学特別教授 元空将・織田邦男
2025/4/1 8:00
https://www.sankei.com/article/20250401-766VLI7YBZOPRPRZLLAXQK5VBU/
地上レーダーは低高度が見えないので墜落地点は特定できない。
最初に炎を発見した米軍C130輸送機、空自F4戦闘機からの位置情報はTACAN(戦術航法装置)の情報である(GPSは未装備)。
TACANには固有の誤差がある。
更に当該機と現場の距離が誤差となって加わる。
横田TACAN局から割り出せば位置情報に4km前後の誤差が生じることはやむを得ない。
航空では僅かな誤差だが陸上行動では大きな障害となる。
特に山岳地帯では4km違えば隣の尾根になってしまう。
山岳の道なき道の移動は4kmでも数時間かかる。
夜間で暗視装置のない(当時)ヘリの山岳投入は危険なので中止した。
地上部隊の投入場所の決定が遅れ結果的に現場到着が遅れた。
この遅れが
「何かがあるはず」
と臆測を呼び連鎖して物語の創作に繫がったのだろう。

<主張>日航機事故40年 安全への誓いを継承せよ 悪質なフェイクを放置するな
社説
2025/8/11 5:00
https://www.sankei.com/article/20250811-D52YH7C4ONNRBGU3WBBXIITAZU/
乗客乗員520人が犠牲になった日航ジャンボ機墜落事故から、40年となる。
何年歳月を重ねても
「8月12日」
が、慰霊と空の安全、交通の安全を祈願する日であることは変わりない。
群馬・御巣鷹の尾根の墜落現場に近い
「慰霊の園」
は、2025年8月12日に営まれる追悼慰霊式を前にマリーゴールドの花で彩られた。
花々は、地元上野村の村立上野小の児童が事故の翌年1986年から、遺族を慰め、記憶を継承する目的で育て続けているものだ。
慰霊登山には日航機事故の遺族、関係者だけではなく信楽高原鉄道事故やJR福知山線脱線事故の遺族らも参加している。
広く交通機関の安全を誓い、決意を新たにするためである。
昭和60年8月12日、羽田発大阪行き日航123便ボーイング747が墜落した。
墜落現場は凄惨を極め、乗客乗員524人のうち、生存者は僅かに4人だけだった。
日航の鳥取三津子社長は事故当時、東亜国内航空(後に日航と経営統合)に入社したばかりだった。
これは、現在の社員の大多数が事故後の入社であることを意味する。
大事故の反省や安全への誓いは、しっかりと継承されているか。
事故機の残骸などは、東京・羽田の日本航空安全啓発センターに展示されており、日航グループの全社員に研修のための見学を義務づけている。
日航機は昨年2024年1月、羽田空港で海上保安庁機と衝突、炎上したが、乗務員らの冷静な誘導で乗客の死者を出さず、内外から称賛された。
一方で同年2024年5月には福岡空港で、日航機が誘導路の停止線を大幅に越えた。
同月2024年5月には羽田空港で日航機同士の主翼先端が接触する事故も起き、国土交通省が鳥取社長を厳重注意し、再発防止策の提出を求めた。
僅かなミスが大事故を誘発する反省を片時も忘れてはならない。
事故報道に実名必要だ
40年の間に、社会の在り様も変化している。
事故当時、本紙を含む新聞各紙は524人の犠牲者と生存者全員の実名を報じた。
テレビ、ラジオの各局はアナウンサーが全員の実名を読み上げ続けた。
それが最も重要な報道だった。
実名がなければ誰が事故機に搭乗していたのか分からない。全員の実名がなければ、乗っていなかったことの証明にはならない。
一人一人の実名は、彼ら彼女らが生きた証しであり、事故の悲惨、悲劇を伝え、後世に残す原点である。
その思いは今も変わらない。
だが事故、事件の被害者らについて、発表の匿名化が進んでいる。
原因の一端とされるのはメディアスクラム(集団的過熱取材)による二次被害に対する根強い批判である。
これについてはメディア側が大いに反省すべきであり、代表取材の活用などで取材される側への配慮を進めている。
何より匿名化によって共有すべき感情が希薄になることを恐れる。
■虚構の妄言は許し難い
デマやフェイクニュースの横行やSNSによる拡散も新たな社会問題と言える。
日航機事故を巡っては
「自衛隊が誤射した」
「証拠隠滅のため火炎放射器で証拠を焼却した」
などとする書籍が複数刊行され、全国学校図書館協議会による選定図書に指定された本まである。
これを真に受けた情報がネット空間などで広まり、事故現場の登山道には
「自衛隊が意図的に殺害した乗客・犠牲者」
と記された
「慰霊碑」
の設置も確認されている。
これらは、酷暑下で過酷な救出活動に従事した自衛隊員への冒瀆であり、遺族や関係者の気持ちを逆なでする、許し難い虚構である。
多くの人の目がある中であり得ない言説だが、陰謀説が広まるスピードは速い。
この問題は国会でも取り上げられ、中谷元防衛相が
「自衛隊の関与は断じてない」
と否定したが、一部の人は聞く耳を持たない。
事故機は事故の7年前1978年に尻もち事故を起こした。
この際に製造元のボーイング社が機体後部の圧力隔壁の修理をミスし、隔壁の強度不足を招いた。
それが事故原因であり、同社も修理ミスを認めた。
悪意の虚構は静かな慰霊にも、事故の再発防止にも、何の役にも立たない。
当事者である日航や自衛隊、捜索と捜査にあたった群馬県警や運輸安全委員会は、それぞれ具体的な
「ファクト」
を明示してデマを一掃してほしい。

日航機墜落40年 「空の安全」は遺族の願い 取り組みに終わりなく、「三現主義」支えに
2025/8/11 11:00
https://www.sankei.com/article/20250811-VKE6LFYW7RPRHHE55BHUH5KKQI/
40年前の1985年夏、御巣鷹の尾根(群馬県上野村)に日航機が墜落し、520人が亡くなった。
日航は事故から21年目に
「安全啓発センター」
を開設。
事故当時を知らない社員がほとんどとなる中で、墜落現場の
「現地」
に行き、残存機などの
「現物」
を見て、事故に関わった人
「現人」
の話を聞くという
「三現主義」
を安全の取り組みの支えにする。
2度と惨事を繰り返さないための模索が続けられている。
■衝撃と無念語る遺品
《恐い 恐い 恐い 助けて 気もちも悪い 死にたくない》
制御を失った機体は、30秒間に1500メートルもの速度で急降下。
123便に搭乗していた客室乗務員の女性=当時(26)=は、日航機の時刻表の余白に走り書きを残していた。
羽田空港近くの日本航空安全啓発センター(東京都大田区)。
回収された遺留品、墜落時刻で止まったままの腕時計、激しく破損した座席といった展示品の数々は、事故の衝撃と無念を目に見える形で伝えている。
フロアの一角には、垂直尾翼の残骸が静かに横たわっていた。
その多くは他の事故と同様、廃棄される予定だったものだ。
遺族らは早くから残骸の保存・公開を求めたが、日航は消極姿勢を示し続けていた。
■意識の緩み契機に
だが、事故から20年が経過する頃、日航社内では安全意識の緩みがみられるようになった。
管制指示違反・誤認など安全に関わるトラブルが相次ぎ、平成17年3月遂に
「事業改善命令」
を受けた。
外部有識者による委員会
「安全アドバイザリーグループ」
が発足し、同年2005年末、安全文化醸成に向けた提言をまとめた。
この中で日航に対し、業務にあたる専門性を冷静に保ちつつ、利用者やその家族の視点を失わない
「2・5人称の視点」
を要求。
また、
「現場と実物は重要な教科書だ」
として、残存機体の展示公開を求めた。
こうして平成18年4月、センターは開設された。
企業や学校の安全教育の場として予約は絶えず、今年2025年6月末までの訪問者数は33万人以上を数える。
■安全確保「道半ば」
遺族らで作る8・12連絡会の事務局長、美谷島邦子さん(78)は
「昨年2024年初めて、
『遺族が活動してくれたおかげで、センターができた』
と日航が伝えてくれた」
と感慨深げに語る。
日航は美谷島さんを当時を知る
「現人」
として、社員研修の講演に招くようになった。
昨年2024年1月、東京・羽田空港の滑走路上で発生した海保機との衝突事故では、日航機側の乗員乗客379人は、訓練を重ねた乗員の避難誘導により死者はなかった。
日航では
「123便の乗員の思いが、受け継がれている」
と受け止める。
様々な産みの苦しみを味わった安全作りだが、終わりはない。
機長の飲酒問題、空港内での接触事故など、今尚空の安全を揺るがす事案が続く。
鳥取三津子社長(60)は昨年2024年4月の就任以来、国などへのお詫び行脚を重ねた。
今年2025年4月28日、御巣鷹の尾根の開山前日、鳥取氏は現地の上野村を訪ねた。
遺族と言葉を交わし
「遺族にとっては39年も41年も同じ」
「意識を変えることはあってはならない」
と感じたという。
それでも
「節目というものはある」
「気を引き締めて安全運航に努めたい」
と誓いを新たにした。
■人的ミス軽減へ自動化推進を
元航空事故調査委員会の調査官、NPO法人「航空・鉄道安全推進機構」事務局長の斉藤孝一さん(80)の談話は以下の通り。

墜落事故の原因となった米ボーイング社による圧力隔壁の修理ミスがなぜ起きたか、追究が今後の安全の追求には不可欠だ。
当時の航空事故調査委員会はボーイングの担当者に話が聞けず、委員長は報告書を
「70点」
と自己採点した。
ボーイングは社内調査を行っているはずで、安全のために公表すべきだ。
航空機の安全性はこの40年で向上し、コスト面でもより身近な交通手段となり、世界的に航空需要は増加した。
しかし、パイロットだけでなく、航空管制官や、グランドハンドリング(地上支援作業)といった安全を担う人材は、高齢化によるベテランの退職や若手の獲得競争で不足している。
人のミスに起因する事故や危険は近年も相次いで起きている。
現在、人工知能(AI)を含めて操縦などの作業の自動化の技術は我々の現役時代よりも、格段に進歩した。
ヒューマンエラーの軽減に向け、自動化を進められるところは進めるべきだろう。

日航機墜落現場、木に伸ばした手が遺体の一部をつかむ…自衛隊、災害派遣時の心理ケアに力
2025/8/11 9:00
https://www.sankei.com/article/20250811-USNSDF2RIBNQ5NMJOC7ZNFBN6I/
昭和60年8月12日に起きた日航機墜落事故で、陸上自衛隊などは当初の捜索救助に約1000人を投入したとされる。
搭乗者524人のうち生存者は僅か4人。
壮絶な現場で遺体収容に当たった岡部俊哉元陸将(66)は
「思わず息を呑む悲惨な状況だった」
と振り返る。
災害派遣などに対し、自衛隊は現在、専門人材を置いて隊員の心理ケアに力を入れる。
■戦場の様相、自信失う
群馬県上野村の御巣鷹の尾根に部隊が到着したのは事故から一夜明けた昭和60年8月13日午前。
降り立つと、足の踏み場がないほど散乱した機体の残骸に、ちぎれた手や足が紛れている。
急斜面を登ろうと、目の前にあった木を掴んだ手が、木にかかっていた血で真っ赤に染まった。
内臓のようなものが飛び散る岩、散らばる黒焦げの遺体、五体が揃った遺体は1つもない。
子供の大きさの手と、テーマパーク帰りなのか、綺麗に残ったぬいぐるみを見て残酷な現実に胸が引き裂かれそうになった。
当時26歳。いつか投入されるかもしれない戦場の様相と重なり、
「職業を間違えた」
と思った。
仲間や部下がボロボロになって死んでいくのを見ても冷静に指揮を取る自信が持てなかった。
毛布に遺体をくるむ作業には徐々に慣れ、遺体の匂いや焦げ臭さが漂う中で仮眠を取り、約48時間作業を続けた。
だが、異変に気付いたのは任務を終えて2、3日後。
肉を食べようとすると吐き気を催し、暗闇に異様な恐怖を感じるようになった。
自宅で電灯を全てつけても眠れず、ウイスキーをあおってまどろんでいると、窓の外に人の列が見えてくるように感じた。
ヘリコプターに載せた百数十人の犠牲者の幻だった。
■「有事対応」は整備途上
上空から落下傘で敵地へ乗り込む過酷な空挺作戦を主任務とし、
「精鋭無比」
の異名を持つ第1空挺団。
同様の症状を訴える部下もいたが、
「俺は大丈夫だ」
と虚勢を張り、我慢し続けた。
症状は1カ月ほどで消えた。
「急性ストレス障害」(ASD)
の症状と知ったのは随分後だ。
岡部元陸将は
「1人で悶々と苦しんでいた」
「相談するのはプライドが許さなかった」
と振り返る。
自衛隊は平成13年頃から隊員の精神ケア態勢を整備し、司令部ごとに専門隊員を配置。
平成23年の東日本大震災などの災害派遣で捜索部隊は日々の任務終了後、互いに辛さを吐露し、心的負荷を緩和する
「解除ミーティング」
を開いて対応した。
陸自は
「災害派遣の整備は進んだが、戦闘時のストレス緩和など有事対応は未経験のため整備途上にある」
としている。

日航機墜落から12日で40年 遺族ら「御巣鷹の尾根」に慰霊登山 史上最悪の航空機事故
2025/8/11 7:00
https://www.sankei.com/article/20250811-W2QBUL74ZJOADGKA5IQZSL46AY/
単独の航空機事故としては史上最悪の520人が亡くなった日航ジャンボ機墜落事故から2025年8月12日で40年を迎える。
遺族らは墜落現場となった群馬県上野村の
「御巣鷹の尾根」
に慰霊登山するほか、村内の慰霊施設で執り行われる追悼慰霊式に参列する。また、2025年8月11日夕には麓を流れる神流(かんな)川で灯籠流しが行われる。
2025年8月12日は慰霊登山に遺族の他、多くの関係者らが訪れるため、混乱を避けて別の日に事故現場を訪れる遺族も多いとみられる。
事故は昭和60年8月12日に発生。
乗客乗員524人が乗った羽田発大阪行きの日本航空123便ボーイング747が約32分間の上下蛇行の末、午後6時56分に墜落した。
歌手の坂本九さん=当時(43)=をはじめ520人が犠牲となった一方、機体後方にいた8〜34歳(当時)の女性4人が救助された。
運輸省航空事故調査委員会(当時)は、機体後部の圧力隔壁が破壊され、漏れ出した客室内の大量の空気が垂直尾翼や油圧系統を破壊し、操縦不能となったことが事故原因とした。

当時20代30代の自衛官「我ら危険を顧みず、事に臨んだ」生存者救出期した日航墜落事故
2025/8/10 11:00
https://www.sankei.com/article/20250810-NYESTVT3WVBXRGMDO453MP3MV4/
昭和60年の日航123便墜落事故の発生から2025年8月12日で40年となる。
生存者捜索に当たった自衛隊OBらで作る
「JAL123便事故究明の会」
が2025年7月28日に開いた院内シンポジウム。
事故を巡っては、相模湾(神奈川県沖)で試運転中の海上自衛隊護衛艦「まつゆき」が誤射したという言説が流布される中、まつゆきは当時東京湾で係留中だったと証言され、
「陰謀説」
の根幹が崩れつつある。
520人が犠牲になった事故に対し、当時20、30代の自衛官らは危険を顧みず、任務遂行に務めた実態が改めて浮かび上がった。
■「職業、間違えたな」
「凄惨かつ大量のご遺体に接触した」
「シートベルトで、上半身と下半身が別々になっている遺体が非常に多い」
「下半身だけの真っ赤なペディキュアの足の爪が見えたが、上半身がない」
「モミジのような子供の手がビニール袋に入って…」
「辛かった」
岡部俊哉元陸上幕僚長は時折顔を歪め、遺体収容時を振り返った。
当時26歳。陸上自衛隊第1空挺団の小隊長として、事故翌日から3日間、生存者の救助、ヘリポート造成などの指揮に当たった。
損壊した遺体に比べ、ディズニーランドのお土産とみられる人形などは傷も汚れもない状態で地面に転がっていた。
岡部氏は
「職業、間違えたな」
「自衛官、務まらないな」
「戦場は、こういう様相だろうな」
と心境を振り返ったが、不思議と凄惨な現場に慣れていったともいう。
現場上空にはマスコミなど数多くのヘリコプターが飛んでいた。
陸自のヘリポートは岩場に設営しており、岡部氏は
「当たるとクラッシュする状況の中、見事、プロとしてやってくれた」
と無事故で活動を終えた陸自ヘリの操縦士をねぎらった。
■雷雲の下にオレンジの炎
陰謀説を巡っては、墜落する直前の123便をF4戦闘機が追尾し、搭載したバルカン砲で123便のエンジンを撃った可能性が言及されている。
実際、航空自衛隊が123便の墜落位置を確認するため、F4戦闘機2機を派遣したのは墜落直後だ。
F4は複座型の2人乗り。それぞれ後席に乗り込んだ元空自操縦士の渡辺修三、南尚志両氏も登壇し、
「バルカン砲は撃っていない」
と否定した。
当時、日は没し、雷雲の中を飛行したというが、現場は確認できない。
尾根と接触する危険もある中、徐々に降下していくとオレンジ色の明かりを確認。
暗闇の中、辺り一面、炎が上がっていた。
現場の位置を測定し、2機は帰投した。
南氏が乗った機体には異変が生じていた。
窓ガラスに雷雲が近づくと生じやすい
「セントエルモの火」
と呼ばれる放電現象が発生。
南氏は
「ガラスが放電で白く飛んでいる」
「前席は非常に気持ちが悪い、と。『南さん、操縦してくれ』と」
「私が操縦して帰った」
と振り返った。
空自機の墜落事故の原因に多い、機体の姿勢を錯覚し
「空間識失調」
に陥りかねない状況だった。
■獣道なき山中を切り開く
事故直後、事故派遣隊員だった小川清史元西部方面総監は陸路で墜落現場に向かった。
獣道もない山中、40度ほどの急斜面を手で草を持ちながらよじ登るなどして、現場までの経路を開拓した。
岩場ではケガした者も複数いたという。
陰謀説では自衛隊員が隠密行動し、墜落現場に先回りし証拠隠滅のため火炎放射器で機体の残骸などを焼き払ったとする。
小川氏は
「火炎放射器を持てと言われたら(到着は)翌日になると思う」
「そういう命令をもらっても『なぜ現場に必要なのか。バカ言うな』と跳ね付けたと思う」
と語った。
■自衛隊犯人、耐えられない仕打ち
事故現場への登山道には現在、犠牲者の名前と共に
「自衛隊が意図的に殺害した乗客・犠牲者」
と記された
「慰霊碑」
が設置されている。
関係者によれば、遺族によって令和5年8月に建立されたものだという。
岡部氏は昨年2024年、事故現場に入った報道カメラマンと現地を訪れ、慰霊碑を前に2人で立ち尽くしたという。
岡部氏は
「これがいわゆる陰謀説の浸透している姿だ」
「慰霊の思いで登っている人に対し、自衛隊が犯人だよ、と刷り込む」
「遺族が出したと思うが…自衛隊で活動した人間として耐えられない仕打ちだ」
と語った。

日航機墜落事故・自衛隊関与説の著者「科学的証拠で論証している」
2025/8/9 13:00
https://www.sankei.com/article/20250809-SJHD7QCJPZOKDOMRAYSRFFM3IQ/
2025年8月12日に発生から40年となる日本航空機123便墜落事故の原因について、自衛隊の関与の可能性を主張している元日航客室乗務員でノンフィクション作家、青山透子氏が産経新聞の取材に応じた。
青山氏には事故を題材にした著書が複数ある。
産経ニュースが2025年5月1日に青山氏の主張に反論する自衛隊OBらによるシンポジウムなどを報じた際、青山氏は後日取材に応じる意向を示していた。
《青山氏の著書は、123便が相模湾(神奈川県沖)上空中、垂直尾翼がミサイルによって誤射された可能性を指摘する》
《当時、同湾で護衛艦「まつゆき」がミサイルの実験中だったとして関与を示唆する》
ーーまつゆきが墜落に関与したのか
分からない。
あくまでも仮説の1つだ。
乗客が機内から外を撮影した風景写真に丸い点のようなものが写り込んでいた。
分析すれば、オレンジ色の飛翔体であることが判明した。
ミサイルか標的機か、糸の切れたタコみたいにぶつかったのではないか。
墜落直前に子供たちが『赤い飛行物体』を見たと証言している。
ーーまつゆきは事故当時、石川島播磨重工業(現IHI)の所有船舶で、民間人も乗り込んでいたが
(民間人も含めて)口封じは生半可なものではなかったようだ。

《著書は123便が異変を生じた直後、F4戦闘機2機が即座に追尾し、午後6時56分の墜落を確認したとする》
《自衛隊の公式発表では、2機のF4が茨城県の航空自衛隊百里基地から飛び立った時間は123便の墜落直後だ》
ーー墜落直前にF4が追尾したという公式記録はない
記録と目撃証言は別だ。
私が発掘した昭和60年10月号の『上毛警友』(群馬県警本部発行)には、陸上自衛隊第12偵察隊(群馬県榛東村・相馬原)の一等陸曹、M・K氏の手記として
『午後6時40分頃、実家(吾妻郡東村₌現・東吾妻町)の上空を航空自衛隊のファントム(₌F4)2機が低空飛行していった』
と記されている。
遺族の情報開示裁判でも証拠採用された。
子供の証言も過去の飛行機事故をめぐる裁判で採用されている。
昭和60年9月30日発行の同県上野村立上野小学校の事故に関する文集には
『大きい飛行機と小さいジェット飛行機2機』
を目撃したと書いている。
こういう子は中学校にも何人もいた。
当時の校長に平成26年6月にインタビューしたが、F4と思われるものが飛行する音を聞いていた。
追尾の記録が存在しないから『ない』ということにはならない。
ーー著書は墜落直前に123便の機長が、追尾する2機のF4と連絡を取り合った可能性を指摘している
空自が開示しないと分からないと、著書に書いている。
ーーシンポジウムではF4と民間機が直接交信できないと主張されている
ウソだ。
ならば、民間航空機に領空侵犯された場合、自衛隊機はどう呼びかけるのか。
昭和58年の大韓航空機撃墜事件でソ連軍が民間機と交信した記録もある。
それを傍受したのは自衛隊だ。
シンポに参加した自衛隊OBに知識がなく、不都合な所がカットされて主張されている。

《著書は、墜落現場で「ガソリンとタールの混ざったような臭い」と感じたという消防団員の証言を紹介》
《「証拠隠滅」のために自衛隊員が火炎放射器で乗客の遺体やミサイルの痕跡を焼却した可能性を主張する》
機体の残骸も大学で調べた。
ベンゼンや硫黄、クロロフォルムまで入っていた。
これらは火炎放射器の燃料に含まれる。
科学的思考からすれば、湿度70%超の夏の山に放り出された遺体が完全に炭化するわけがない。
カバンやぬいぐるみはそのままの形で残ったが遺体には2度焼きした痕跡も確認された。
他の航空機事故の遺体も調べたが、空に面した方は焦げていても、地面に面した方は生焼きだった。
ーー自衛隊OBは、火炎放射器を取り出す手続きは簡単ではないと話している
一方的な意見だ。
それをチェックする人はいない。
群馬県警察医も『ジェット燃料であんなにも炭化するのかね』と言っている。
当時、燃料を作る作業は最低1時間で使用可能だという論文もあった。

《著書は、自衛隊員は事故現場で機長の遺体を真っ先に発見し、目印のため棒で突き刺し、ヘリコプターの移動中、不都合なものを取り除くため制服などを外したと示唆する》
ーー事故当時、現場指揮に当たった岡部俊哉元陸上幕僚長は
「現地は多くの数の人が作業していた」
「機長の制服を身に着けた遺体が発見されれば、マスコミの写真に写っている」
と話す
真っ赤なウソだ。
遺体収容を巡っては、陸自ヘリコプターによる輸送中、機長の制服を剥ぎ取った可能性は否定できないと書いている。
マスコミや警察がいたという『現地』とは別だ。
ーー機長の遺体は事故から半月後の昭和60年8月29日に発見された
当局の発表で新聞はそう書く。
ただ、独自に入手した群馬県の検視資料には機長の遺体は昭和60年8月14日に収容されたと記されていた。
更に、看護師は追悼文集に『14日に機長の遺体を検視した』と書いていた。看護師本人にも話を聞いたが、看護師は当時から報道内容に疑問を持っていたが緘口令が敷かれていた。
新聞報道は誰かに何かを配慮したとしか思えない。

《著書では事故直後、自衛隊のヘリが山頂でサーチライトを照らしながら、何かを上げたり下げたり、作業していたという上野村の子供たちの目撃証言を挙げて、事故直後に事故現場に入った自衛隊員について「人命よりも優先させた何かがあったのならば」と推測している》
ーー大型のサーチライトは配備されていなかったようだ
それは彼らの言い分でしょう。
昭和60年12月に自衛隊内で公式発表された事故原因を疑問視する人たちがグループを結成し、私もインタビューしている。
事故当日の午後6時40分に出動が発令されたが、エンジンを切らされ、結局、朝まで待たされていた。
彼らは出動ができなかったことに憤りを感じている。
ーーシンポを主催した「JAL123便事故究明の会」と対話する考えは
応じない。
知識に差がある。
教授に対して小学生が対等に話せるわけがない。
自衛隊内部の人はトップクラスも含めて私にメールをくれる。
岡部氏のような意見は恣意的なので聞く必要はない。
ーー自民党の佐藤正久参院議員(当時)は青山氏の著書が「全国学校図書館協議会選定図書」に選ばれていたことを国会で問題視した
私がこれだけのものを書いているのは科学的証拠に基づいてきちんと論証しているからだ。
選定図書に相応しくないと言われたことで、本当だったら佐藤氏を訴えたいところだ。
ーー乗客の遺族が日航に事故機のボイスレコーダー(操縦室音声記録装置)などのデータの開示を求めた訴訟で最高裁は上告を棄却した。
和解したから聞かせる必要ないという不当判決だった。
しかし、文字で公表されているボイスレコーダーには、機長の発言も含め事故発生直後の3分12秒の空白がある。
更に遺族は、平成25年になって事故調が公表した相模湾上空で垂直尾翼に外から11トンの力が加わり破壊されたことや、機体残骸が海底に沈められたまま放置されていることへの再調査の必要性も訴えた」
「いずれにしろ全てボイスレコーダーを出せば、岡部氏の主張も佐藤氏の主張も私たちの主張もクリアになる」
■自衛隊関与説は「全くのデマ」 「JAL123便事故究明の会」会長の岡部俊哉元陸幕長
事故当時、現場で生存者捜索に当たった自衛隊OBらで作る
「JAL123便事故究明の会」
会長の岡部俊哉元陸上幕僚長は、陸自第1空挺団の小隊長として生存者の救助、ヘリポートの造成などの指揮を執った。
岡部氏が2025年7月28日に国会内で開かれた同会シンポジウムで語った内容は以下の通り。

ーー123便の墜落直後、自衛隊が秘密裏に現場に駆け付け、火炎放射器で遺体を含めて証拠隠滅したと指摘されることについて
放射器は全体で31キロの重さ。
棒状に火炎を放射するもので、面を焼き払うには大量の燃料を要する。
証拠隠滅するための面積は『3・3ヘクタール』と書かれているが、燃料はドラム缶にして16、17缶必要だ。
資器材を秘密裏に準備し、搬入、焼却、撤収は不可能だ。
ーー機長の遺体発見は昭和60年8月29日ではなく「14日」との説や、自衛隊員が目印のため棒で突き刺した上、ヘリコプターの移動中に制服などを外したという指摘がある
全くのデマ。
遺体は警察の検証が終わった後に我々に上がってくる。
制服を着た機長がいれば分かる。
自衛隊の部隊、マスコミ、消防、物凄い数の人がいた。
密室でやることはあり得ない。ヘリの中も(遺体が)びっちりで足の踏み場もない状態だった。
ーー会を立ち上げたのは
子供たちが読む図書館の選定図書に、デタラメな本がノンフィクションとして選定されていると知ったからだ。
自衛隊を取り巻く安全保障環境が厳しい中にあって、これでいいのか。
(放置したら)子供たちが誤った認識を持ってしまいかねないと危惧している」
■日本航空機墜落事故
昭和60年8月12日、羽田発伊丹行き日航機123便(ボーイング747型機)が群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」と呼ばれる山に墜落し乗客乗員520人が犠牲になった単独機として世界最悪の航空機事故。
運輸省事故調査委員会は後部圧力隔壁の不適切な修理によって隔壁が破裂し、それが操縦系統の損壊を招いたと結論付けた。

国交省、日航機墜落事故でボーイングに隔壁修理ミスの背景を確認 米側の「新情報」判明で
2025/8/8 13:31
https://www.sankei.com/article/20250808-MFILGTX4YZK4RL3YOZAL2XBJXI/
1985年8月に発生した日航機墜落事故を巡り、中野洋昌国土交通相は2025年8月8日の閣議後会見で、原因となった後部圧力隔壁の修理ミスについて、米ボーイング社や米連邦航空局(FAA)に対し、背景を明らかにするよう確認を進めていることを明らかにした。
日本側にない情報を米側が把握していることが産経新聞の報道で判明したためで、長年の遺族の疑問の追究に国が動くことになった。
■事故調終了後は国交省が調査
中野氏は会見で
「航空局でボーイング社などの関係者に対し、事実関係の確認を行っている」
と述べた。
当時の旧運輸省航空事故調査委員会の調査とは別に、国交省が米側に事故原因を聞き取るのは初めて。
事故の原因調査は通常、事故調を前身とする国の運輸安全委員会の所管だが、調査が終了した事故については、航空安全を推進する立場で国交省が参考情報として調べる事例はあり、今回はこれに該当する。
墜落事故の原因を巡っては、圧力隔壁の修理に使うスプライス・プレート(接合板)と呼ばれる部品を本来1枚で使うところ、2枚にして使ったことで隔壁の強度が低下し、当日のフライトで破断、墜落に至ったことは分かっていた。
しかし、なぜ2枚にしたのかまでは判明していなかった。
■米国と日本、法制度の違いが障壁に
当時の事故調などの調査では、作業ミスをしたボーイングの担当者らに聴取できなかったためだ。
過失による航空事故では刑事責任を問わない米国と、日本との法制度の違いが障壁になったとされる。
1987年6月発表の事故調の報告書には、修理ミスの理由の記載はなく、当時の武田峻委員長は報告書を「70点」と自己評価していた。
しかしボーイングは昨年2024年9月、公式サイト内に航空安全関連のコーナーを設け、この中で日航機墜落事故に言及。
ミスの背景について
「構造上取り付けるのが難しかったため、2枚に切断した」
などと記載していた。
このコーナーは元々社員教育で使用されていたものだが、
「更なる航空安全の強化のため」
一般公開したという。
■「教訓風化させず、更なる安全を」
また、ボーイングは事故当時社内調査を行っており、結果は米連邦航空局(FAA)にも報告。
同様の記述はFAAのサイトでも公表されていた。
いずれも日本側の事故調査報告書にはない内容で、報道で判明した。
今後国交省ではボーイングやFAAに対し、これらの記述が何に基づいたものか、出典を含め、記述以上の背景を深堀りする考えだ。
中野氏は事故から40年が経過することを踏まえ、
「教訓の1つ1つを決して風化させることなく、更なる安全を築き上げるため、引き続き航空に携わる全ての関係者と一丸となって、安全確保に取り組んで参りたい」
と述べた。

日航機墜落事故
1985年8月12日夕、羽田発大阪行きの日航機123便(ボーイング747)は離陸12分後に、後部圧力隔壁が破断。客室の高圧空気が機体後部に噴出し、垂直尾翼や油圧系統を損傷、操縦不能になった。
機体は羽田への帰還を目指したが32分に渡り迷走し、群馬県上野村「御巣鷹の尾根」に墜落。
乗客乗員524人のうち520人が死亡した。
機体は7年前の1978年6月、後部を損傷する別の事故を起こし、ボーイングが修理。
ドーム状の圧力隔壁(アルミ合金製、直径4・56メートル、深さ1・39メートル)の壊れた下半分を新品に取り換えた。
この際、上下の繋ぎ目に当てるスプライス・プレートが、仕様通りの1枚でなく2枚に切断されたものが使われ、強度が本来の仕様より30%低下した。
このミスが見逃されたまま、機体はその後1万2000回以上フライトを重ね、隔壁は与圧による金属疲労が進行。
当日の破断に至ったと結論付けられている。

<独自>日航機墜落事故40年 米ボーイング、修理ミスの理由説明「設置困難で部品切断」
2025/8/6 22:00
https://www.sankei.com/article/20250806-N5T7PWWI3JNLNMARNOECQE4U3Q/
2025年8月12日で発生から40年になる日航機墜落事故を巡り、米ボーイング社は産経新聞の取材に応じ、事故原因とされる接合板(スプライス・プレート)を2枚使用した機体の修理ミスが起きた理由について
「設置することが構造上困難だったため」
と明らかにした。
当時の旧運輸省航空事故調査委員会の調査や、警察の捜査では担当者への聞き取りができず、2枚のプレートを使用した修理ミスが起きた理由は判明していなかった。
1985年8月に発生し、乗客乗員520人が犠牲になった単独機として世界最悪の航空機事故は、原因の更なる究明に向け一歩踏み出した。
墜落した機体はボーイング747型機。墜落事故の7年前1978年、別の事故で機体後部を損傷し、ボーイングが修理した。
機内の気圧を保つドーム状の部品
「後部圧力隔壁」
について、修理チームは下半分を新品に取り換え上半分と接合した。
このとき、接合部にあてるプレートが指示書では1枚だったのに対し、2枚に切断されたものが使用された。
隔壁はプレートを挟む形で鋲留めされたが、本来の仕様より強度が7割に落ち込み、最終的に墜落事故に繋がったと事故調の報告書で結論付けている。
だが、2枚のプレートを使用した理由は長く判明していなかった。
ボーイングは取材に
「プレートを所定の位置に設置するのが難しく、2つに切り分けて設置しやすくした」
と説明した。
ボーイングは昨年2024年9月、日航機墜落事故に関するページを公開し、この内容を示していた。
米連邦航空局(FAA)も、公式サイトで
「隣接する構造物との複合的な湾曲のため設置が困難だった」
と記載している。
当時、事故調の調査官として圧力隔壁を調べた斉藤孝一さん(80)は
「事故後の40年間で初めて出てきた情報で、大変驚いている」
「整備員たちが安全のために知るべき非常に重要な情報だ」
と述べた。
ボーイングは取材に際し、
「ご遺族の皆様に心よりの哀悼の意とお詫びを申し上げます」
と改めて謝罪した。
遺族らで作る「8・12連絡会」は
「修理ミスについて、1つ1つ事実が分かっていくことによって、その背景を明らかにしていくことができるはずなので、更に詳しく情報をオープンにしていってほしい」
とコメントした。

日航機墜落に関与指摘の護衛艦、事故当日は東京湾に係留 乗員が証言 陰謀説の立脚点が…
2025/7/29 18:30
https://www.sankei.com/article/20250729-TACXCU3IR5G5BIRZ3II47SO6BU/
昭和60年の日本航空123便墜落事故に関して生存者捜索に当たった自衛隊OBらで作る
「JAL123便事故究明の会」
は2025年7月28日、国会内でシンポジウムを開いた。
墜落原因を巡っては、当時相模湾(神奈川県沖)で試運転中の護衛艦
「まつゆき」
が関わったと推定する言説が流れているが、当時の乗組員は事故当日のまつゆきは東京湾に係留されていたと証言した。
■「まつゆきは相模湾にいなかった」
まつゆきの就役は事故翌年の昭和61年3月。
事故当時は石川島播磨重工業(現IHI)が所有する船舶だった。
一方、墜落事故を巡っては近年、自衛隊が関与したという
「陰謀説」
が流布されている。
123便が相模湾上空を飛行中、まつゆきから飛翔体が飛び出し、垂直尾翼の一部を破壊したと強く推定している。
2025年7月28日のシンポには、まつゆきの当時の機関長、亀田康平氏と補給長の鎗光和博氏の2人が登壇した。
2人によれば、事故が発生した昭和60年8月12日、まつゆきは東京・豊洲の石川島播磨重工業の東京第一工場の岸壁に係留されていたという。
亀田氏は
「当日、まつゆきは相模湾にはおりませんでした」
と語った。
業務を終えて自室でニュースから事故を知ったという。
■事故翌日に出航、羽田沖で去来した思い
鎗光氏も、当日は事務所で経理業務や会議出席に当たっていたという。
翌昭和60年8月13日午前7時50分、豊洲を出航したまつゆきに乗船した。
羽田空港沖を通過した際、甲板から
「123便が離陸する時、搭乗した人は何を思ったか」
「まさか事故に遭うとは思っていなかっただろうな」
との思いが沸き上がったことは、鮮明に覚えているという。
鎗光氏は、弾薬を請求する物品給与官を務めており
「この時期、弾薬類の請求をした記憶はなく、ミサイルを含む弾薬類は搭載していない」
と語った。
■「非常に重要な証言」
シンポの進行役を務めた元日本航空社員の空花正人氏は、2人の証言について
「凄い事」
「今までの(自衛隊が墜落事故に関与したという)話だと、まつゆきは相模湾にいたという話から始まった」
「その日、海に出ていなかったという非常に重要な証言だ」
と語った。
2人は昭和60年8月13日、相模湾に浮遊していた123便の垂直尾翼を回収し、海上保安庁に引き渡したことについても振り返った。
事故は昭和60年8月12日夕に発生。
羽田発大阪行き日航123便ジャンボ機が群馬県上野村の
「御巣鷹の尾根」
に墜落。
乗員・乗客524人のうち女性4人を除く520人が死亡した。
シンポの開催に先立って、参加者らは犠牲者の冥福を祈って、黙禱を捧げた。

2024/8/11 9:00
「どうか神様助けてください」「恐い恐い恐い」世界最悪の墜落事故「日航ジャンボ機」の乗客が遺した「妻への手紙」
https://president.jp/articles/-/84120
1985年8月12日、東京・羽田発大阪・伊丹行き日航機123便が群馬県御巣鷹山に墜落、乗員・乗客524人中520人が亡くなる大惨事が起きた。
あれから39年が経ちたち、新たな証言も出てきている。
元産経新聞論説委員の木村良一さんの新著『日航・松尾ファイル 日本航空はジャンボ機墜落事故の加害者なのか』(徳間書店)より、墜落直前の機内の様子についてお届けする――。
■「ドーン」という異常音
「ドーン」という異常音がして機体に衝撃が加わると、キャビン(客室)で「ウワッ」「キャッ」という悲鳴が上がった。
同時に濃い白い煙のようなものが発生し、乗客の多くは耳が詰まるような違和感を強く感じた。
客室の気圧低下を警告する高度警報装置が鳴り出し、天井のプレートが開いて酸素マスクが落ちてきた。
機体の揺れでいくつものマスクが空中を跳ねた。
マスクを引っ張ると、酸素が流れ出す。
白い煙のようなものは数秒で消えた。
客室乗務員が
「酸素マスクを着けてください」
と乗客に求める声がコックピット・ボイス・レコーダー(CVR)に録音されている。
乗客が機内を撮影し、後に遺族が公開した写真にも酸素マスクの下りた様子が写っている。
コックピットでは懸命な操縦が続いていた。
■乗客は遺書を綴った
乗客たちは急いで酸素マスクを着けたが、機体が大きく左右に揺れる度に悲鳴を上げた。
赤ちゃんの泣き声がする。
揺れに気持ち悪くなって嘔吐する人がいる。
墜落という恐怖と不安に耐え切れず、泣き出す男性もいる。
客室乗務員が
「大丈夫です。大丈夫ですよ」
と励ます。
乗客同士でも励まし合ったり、助け合ったりして皆で頑張る。
そんな状況下、乗客たちは手帳やノート、封筒、手元にあった紙に妻や子供たち家族に向けた言葉を綴った。
死を覚悟した遺書である。
事故後、墜落現場からそれらの遺書が見つかると、遺族のもとに届けられ、新聞やテレビで報じられた。
この後に遺書をいくつか列挙するが、読みやすくするために分かりにくい所は多少整えてある。
名前や年齢は伏せた。
■「どうか神様 助けてください」
〈どうか仲良く がんばって ママを助けてください パパは本当に残念だ きっと助かるまい 原因は分からない いま5分たった もう飛行機には乗りたくない どうか神様 助けてください 何か機内で爆発したような形で 煙が出てきて 降下し出した さようなら 子供たちのことをよろしく頼む いま6時半だ 飛行機は 回りながら 急速に降下中だ〉
〈恐い 恐い 恐い 助けて 気持ちが悪い 死にたくない〉
〈突然 ドカンといってマスクがおりた ドカンといって降下しはじめる〉
〈機体が大きく左右に揺れている 18・30急に降下中 水平ヒコーしている みんな元気で暮らしてください さようなら 18・45機体は水平で安定して 酸素が少ない 気分が悪い 機内よりがんばろうの声がする 機体がどうなったのかわからない 18・46着陸が心配だ スチュワーデスは冷静だ〉
■「おちついていて下さい」
アシスタント・パーサー(チーフパーサー、パーサーに次ぐ職位の客室乗務員)の1人が不時着を想定して書いた緊急アナウンス用のメモ書きも見つかっている。
〈おちついていて下さい ベルトをはずし 身のまわりを用意して下さい 荷物は持たない 指示に従って下さい PAX(乗客、passenger)への第一声 各DOORの使用可否 機外の火災CK(チェック) CREW(乗員)のチェック ベルトを外して ハイヒール 荷物は持たないで 前の人2列 ジャンプして 機体から離れて下さい ハイヒールを脱いで下さい 荷物を持たないで下さい 年寄りや体の不自由な人に手を貸して下さい 火災 姿勢を低くしてタオルで口と鼻を覆って下さい 前の人に続いてあっちへ移動して下さい〉
■「なんだこれ…」
再び、コックピット・ボイス・レコーダー(CVR)とデジタル・フライト・データ・レコーダー(DFDR)の解析記録を覗いてみよう。
午後6時28分35秒の機長の
「アンコントロール(操縦不能)」
という発声。
その13秒後に副操縦士が
「ライトターン ディセンド(降下する)」
と告げる。
29分00秒
機長「気合を入れろ」
副操縦士「はい」
29分05秒
機長「ストール(失速)するぞ。本当に」
副操縦士「はい。気を付けてやります」
29分59秒
機長「なんだこれ……」
■「できない。羽田に戻りたい」
日航123便(JA8119号機)は、焼津市の北付近を通過する。
31分02秒 東京ACC(埼玉県所沢市の東京航空交通管制部)「降下できますか」
31分07秒 機長「了解。現在降下中」
31分08秒 東京ACC「オーライ。現在の高度をどうぞ」
31分11秒 機長「240(2万4000フィート、7315メートル)」
31分14秒 東京ACC「オーライ。現在位置は名古屋空港へ72マイル(133キロ)。名古屋空港へ着陸できますか」
31分21秒 機長「できない。羽田に戻りたい」
31分26秒 東京ACC「オーライ。これからは日本語で話していただいて結構ですから」
航空機のクルーと管制官とのやり取りは通常、専門的な用語や慣用句を交えた英語で行われるが、東京ACCは深刻な事態だと考え、より分かりやすい日本語でのやり取りに切り替えたのである。
それだけ事態は逼迫していた。
31分31秒 機長「はい、はい」
■「R5ドア」に異常はなかった
35分過ぎ、日航123便はカンパニー無線(社用無線)を使って日本航空のオペレーションセンター(通称・オペセン)にR5ドア ブロークン(機体の右側最後部のドアが壊れた)。
「機内の気圧が下がっている。緊急降下中です」
と連絡している。
事故直後、この
「R5ドア ブロークン」
の声を根拠に
「右側最後部のドアが吹き飛んで垂直尾翼にぶつかり、垂直尾翼を破壊して操縦不能になった可能性がある」
と報じる新聞社もあった。
しかし、墜落直後の航空事故調査委員会の事故現場検証によってこのR5ドアに異常がなかったことがすぐに判明する。
■助かったのは女性4人だけ
操縦不能の日航123便の機体は東京国際空港(羽田)に戻れず、富士山の西側を飛んで山梨県大月市上空を右回りに360度旋回して山間の東京都西多摩郡奥多摩町に向かった後、群馬、長野、埼玉の3県にまたがる三国山から北北西1.4キロの地点で数本の樹木をなぎ倒し、そこから西北西に520メートル離れた稜線に接触した。
更に機体はバラバラになりながら北西に570メートル飛行し、機首と右主翼を下に向けた姿勢で御巣鷹の尾根(1565メートル)に衝突し、そこに墜落した。
墜落した御巣鷹の尾根は高木のカラマツが林立し、その下はクマザサが厚く覆っていた。
土砂崩れや落石が多く、登山道などなかった。
524人の乗員・乗客のうち520人(乗員15人、乗客505人)が亡くなった。
助かったのは僅か乗客の女性4人だけだった。
■企業のトップクラスや著名人も乗っていた
亡くなった乗客は当初、お盆休み前日だけに家族連れやレジャー客が多いと思われたが、後に新聞社やテレビ局が乗客名簿を整理すると、会社の経営者や社長、それに役員、部課長ら企業のトップクラスが150人以上もいることが判明した。
企業の種類は銀行、証券、商社、建設業……と多岐に渡っていた。
東京と大阪500キロ間を僅か1時間で結ぶ利便性が、彼ら企業戦士に空の便を選択させていたのである。
著名人も乗っていた。
歌手の坂本九(43)=本名・大島九、阪神タイガース球団社長で阪神電鉄専務の中埜肇なかのはじむ(63)、グリコ・森永事件で脅迫を受けたハウス食品工業社長の浦上郁夫(48)、大相撲伊勢ケ浜親方(元大関清国)の妻(39)と長男(12)、長女(10)の3人、日本を代表する脳神経学者の大阪大学基礎工学部教授、塚原仲晃(51)らだ。
( )内の年齢は全て当時のものである。
■エンジンは4基とも正常
「ドーン」
という異常音から墜落までの32分間に機体の高度を下げながら少なくとも4回、
「操縦不能(アンコントロール)」
と管制に連絡している。
それでもコックピットの機長、副操縦士、航空機関士は必死に機体を立て直して羽田空港に戻ろうと頑張った。
乗客乗員524人の命が掛かっていた。
墜落直前のコックピット内の様子はまさに地獄絵そのものだった。
55分27秒 機長「頭上げろ」
55分34秒 副操縦士「ずっと前から支えてます」
55分42秒 副操縦士「パワー(エンジン出力を上げろ)」
エンジンは4基とも全て正常に機能していた。
55分43秒 機長「フラップ(高揚力措置の下げ翼)止めるな」
電気モーターがバックアップしているフラップは、油圧システムを喪失しても多少は作動した。
55分43秒 東京APC(羽田空港進入管制所)「現在位置はレーダーで50、いや60マイル、羽田の北西。北せ……、あー、50ノーティカルマイル羽田の北西」
ノーティカルマイルとは海上で使われるカイリ(海里)のことで、航空の世界でマイルといえばこのノーティカルマイルを指す。
1ノーティカルマイル=1カイリ=1.852キロの計算となる。
■「頭上げろ、頭上げろ、パワー」
55分47秒
 機長「パワー。フラップ。みんなでくっ付いちゃダメだ」
55分49秒
 副操縦士「フラップアップ、フラップアップ、フラップアップ、フラップアップ」
55分51秒
 機長「フラップアップ」
 副操縦士「はい」
55分56秒
 機長「パワー」
56分04秒
 機長「頭上げろ、頭上げろ、パワー」
56分07秒
 機長「頭上げろ」。
緊張度は最高のレベル9に達している。
機体の高度が急激に下がり始め、速度アップと右急旋回で垂直方向加速度が急増し、機首下げ36度、右横揺れ角70度の異常がDFDRに記録されている。
56分10秒 機長「パワー」
56分11秒 降下率が毎分1万8000フィート(5486メートル)に達する。
56分12秒 火災警報音。
56分14秒 GPWS(Ground Proximity Warning System、対地接近警報装置)の警報「シンクレイト(sinkrate、降下率注意)……。ウーウー、プルアップ(機首を上げろ)。ウーウー、プルアップ。ウーウー、プルアップ」
56分18秒 パワーが最大まで上がり、降下が止まる。垂直加速度は上向き3Gほど続く。
56分23秒 激しい衝撃音。GPWSの警報「ウーウー、プルアップ」
56分26秒 激しい衝撃音。
56分27秒 DFDRの記録終了。
56分26秒〜27秒92にかけ、飛行状況を表す各種データに異常な変化が記録されている。
56分28秒 CVRの録音終了。
■シミュレーションでは羽田空港の近くまで戻ることができた
ところで、墜落事故翌年(1986年)の3月、運輸省航空事故調査委員会は全日空に頼んで、日航123便と同じように4基のエンジン以外操作できなくなる状態を全日空のフライト・シミュレーター(模擬飛行装置)に入力し、エンジンのパワーだけでどこまで機体をコントロールできるかを検証している。
全日空と運輸省航空局のベテランのパイロットたちがシミュレーターを操縦した。
シミュレーターはパイロットの訓練に使う高度な機材で、実機と同じコックピット機能を装備し、コンピューターに飛行条件を入力することで実機のように動き、様々な飛行状態を再現できる。
検証の結果、着陸自体は不可能だったが、エンジンをふかしたり、絞ったりしながら羽田空港の近くまでは戻ることができた。
ふかせば、機首は上を向き、反対に絞れば機首は下がる。
右翼と左翼のエンジンの出力を互い違いに変えることで方向転換もできた。
日航123便の機長も墜落直前に
「パワー」
という言葉を何度も繰り返している。
エンジン出力の調整で機体を操縦できることが次第に分かってきたのだ。
このことにもう少し早い段階で気付いていたら
「着陸は無理でも、羽田空港近くの浅瀬に何とか着水できたかもしれない」
「そうすれば520人も犠牲にならずに済んだ可能性もある」
と指摘する声もある。
■「山の陰から白煙と閃光が上がった」
しかし、シミュレーターと違い、日航123便の機長や副操縦士、航空機関士ら乗員は、垂直尾翼が吹き飛ばされると同時に4系統全ての油圧システムが破壊された結果、過酷な状況に追い込まれていった。
この操縦不能の原因を少しでも知ることができたら、多少は落ち着くこともでき、緊急事態からの脱出方法を何とか見つけ出すことができたかもしれないが、現実は操縦不能の原因を知る術などほとんどなかった。
墜落してもケガ1つ負わないシミュレーターの操作と死と隣り合わせの事故機の操縦とは大きく違うのである。
事故調の事故調査報告書(本文83〜86ページ)もこの点について
「今回の事故においては、事故機のクルーは減圧とそれに伴う酸素不足、予想もしなかった異常事態下の心理的圧迫というような厳しい状況の下で飛行したとみられるが、このような状況は飛行シミュレーションでは模擬できない」
と書いている。
墜落直前の様子を墜落した御巣鷹の尾根から南南西に3〜4キロの所で、偶然4人が目撃していた。
「奥多摩の方からかなり低い高度と速度で機首をやや上げ、爆音を立てながら飛んで来て頭上を通過した」
「扇平山の付近で急に右に針路を変え、三国山の方向に飛行した」
「三国山を越えたと思われるときに突然、左に傾いて急降下して山の陰で見えなくなった」
「その後、山の陰から白煙と閃光が上がった」

墜落現場で酸素マスク発見 日航機事故、御巣鷹の尾根
2022/8/10 8:58
https://www.sankei.com/article/20220810-V5HJRCRDDBNPPM44NIDUXYHJTQ/
日航ジャンボ機墜落現場となった群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」近くで発見された、事故機に搭載されていたとみられる酸素マスク=9日、東京都大田区
https://www.sankei.com/article/20220810-V5HJRCRDDBNPPM44NIDUXYHJTQ/photo/YPDTGKQBOVI6FEGLLCU35AWKVI/
1985年の日航ジャンボ機墜落事故から37年になるのを前にした今年2022年6月、墜落現場となった群馬県上野村の
「御巣鷹の尾根」
の近くで航空機の酸素マスクが見つかった。
発見場所などから、日航は事故機に搭載されていたマスクとみており
「実際に使用された可能性がある」
としている。
日航によると、マスクは多くの犠牲者が発見された
「スゲノ沢」
で、酸素を送り込むチューブや袋が付属した状態で見つかった。
周辺は2019年の台風19号で崩落。
今年2022年6月、重機を使って復旧工事中の作業員が土砂の中からマスクを掘り起こした。
墜落した日航123便は当時ほぼ満席で、事故の際には座席天井部から酸素マスクが下りた。
日航は今後、事故の記録を残す安全啓発センター(東京都大田区)での展示などを検討する。
スゲノ沢では2021年7月にも、周辺を整備していた日航社員がエンジンの部品「ギア」を発見している。

日本航空ジャンボ機事故におけるパイロットの判断と酸素マスクの影響
2025.02.09
https://trip.awaisora.com/2025/02/09/8402b5a0-c5df-41d7-9871-f9c7d458cbf4/
1985年8月12日に発生した日本航空123便墜落事故は、航空史上最悪の単独機事故として知られています。
本記事では、事故当時の状況、パイロットの判断、酸素マスクの着用有無が及ぼした影響について検証し、墜落が回避できた可能性があったのかを考察します。
目次
日本航空123便事故の概要
1. 圧力隔壁の破損とその影響
パイロットの判断と酸素マスクの着用
1. 低酸素症(ハイポキシア)の影響
2. 操縦への影響
シミュレーター実験の結果
酸素マスクを着用していれば墜落は避けられたか?
まとめ
■日本航空123便事故の概要
事故は、羽田空港を出発した日本航空123便(ボーイング747SR-46)が、離陸から約12分後に圧力隔壁の破損により垂直尾翼が破損し、油圧系統を喪失したことが原因で発生しました。
その結果、機体の操縦が困難となり、最終的に群馬県御巣鷹の尾根に墜落しました。
1. 圧力隔壁の破損とその影響
事故調査によると、過去の修理不備により圧力隔壁が破損し、機体尾部が吹き飛ばされました。
この破損により、以下の影響が発生しました。
・垂直尾翼の損失による方向安定性の喪失
・油圧系統の完全喪失による操縦不能
・客室内の減圧による酸素マスクの作動
■パイロットの判断と酸素マスクの着用
機長と副操縦士は事故発生後、操縦の回復に全力を尽くしました。
しかし、減圧状態において酸素マスクを着用していなかったことが問題視されています。
1. 低酸素症(ハイポキシア)の影響
高高度(約24,000フィート)で減圧が発生すると、乗員は低酸素症(ハイポキシア)に陥る可能性があります。
低酸素症の症状には以下のものがあります。
・判断力の低下
・視界のぼやけ
・意識混濁
事故当時、客室の酸素マスクは作動しており、減圧が発生していたことは確実です。
しかし、パイロットは酸素マスクを着用していなかったとされ、低酸素症による判断力の低下が生じた可能性があります。
2. 操縦への影響
フライトレコーダーの記録によれば、機長は終始冷静に操縦を続けていましたが、低酸素症の影響で適切な判断ができなかった可能性があります。
特に、エンジン出力の調整が遅れた点や、異常発生後の初期対応に遅れが見られることから、酸素マスクを着用していれば状況が違っていた可能性があります。
■シミュレーター実験の結果
事故後、全日空のパイロットが同じ状況をシミュレーターで再現したところ、全てのケースで墜落したという結果が報告されています。
このことから、酸素マスクの着用の有無にかかわらず、操縦の困難さが極めて高かったことがわかります。
■酸素マスクを着用していれば墜落は避けられたか?
事故調査委員会(JTSB)の報告書では、パイロットの酸素マスク未着用が直接の墜落原因とはされていません。
しかし、以下の可能性は考えられます。
・酸素マスクを着用していれば、より冷静な判断が可能だった可能性
・エンジン出力の調整がより迅速に行われた可能性
・着陸を試みるための選択肢が広がった可能性
しかしながら、機体の損傷が深刻であり、油圧系統を完全に喪失していたことを考慮すると、**仮に酸素マスクを着用していたとしても、最終的な墜落は避けられなかった可能性が高い**と言えます。
■まとめ
日本航空123便事故では、圧力隔壁の破損による機体損傷が致命的であり、パイロットの酸素マスク未着用が直接的な墜落原因ではありませんでした。
しかし、低酸素症による判断力の低下が影響した可能性は否定できません。
この事故から得られた教訓として、以下の点が挙げられます。
・緊急時には速やかに酸素マスクを着用することの重要性
・航空機の整備と修理履歴の適切な管理
・緊急時の対応マニュアルのさらなる改善
事故の詳細な分析を通じて、同様の悲劇が再び起こらないよう、航空業界全体で安全対策が強化されています。

日航機墜落は自衛隊の陰謀!? デマはなぜ消えぬ
正論2025年7月号 ジャーナリスト 葛城奈海
乗客乗員520名という単独飛行機事故としては世界最多の死者を出した日本航空123便墜落事故から、2025年8月12日で40年となる。
当時を知らない世代も増える一方、僅か4名だった生存者の1人、当時12歳の川上慶子さんが自衛官に抱えられながらヘリに引き上げられていく映像をご記憶の方も少なくないだろう。
昭和60(1985)年8月12日午後6時12分、羽田空港を離陸した日航ジャンボ機123便は、大阪伊丹空港へ向かう途上、異常事態が発生、午後6時56分、群馬県上野村の
「御巣鷹山の尾根」
に墜落した。
事故原因について、運輸省の航空事故調査委員会(当時)は、昭和53年に起こした
「尻もち事故」
後の不適切な修理で機体後部の圧力壁が壊れ、垂直尾翼や操縦系統が破壊されたと推定。
メーカーのボーイング社は、修理ミスがあったことを認めている。
事故機の生存者捜索・救助、ご遺体の搬送には警察や消防、地元猟友会らと共に、自衛隊が力を尽くした。
にもかかわらず、あろうことかその自衛隊が日航機を墜落させ、その証拠隠滅のために現場を火炎放射器で焼いたという
「陰謀説」
がいつしか流布されるようになった。
事故当時、第1空挺団の小隊長としてヘリからのリベリング(懸垂降下)でいち早く現場に入り、事故対処に当たった元陸上幕僚長の岡部俊哉氏の話を聞いていた私は、凄惨な現場で黙々と任務に邁進した自衛官たちの尊厳が踏みにじられていることへの憤りと、予備自衛官としての他、様々な形で自身も関わって来た自衛隊が事実に反して貶められることを食い止めたいという思いにかられた。
「御巣鷹の尾根」
登山道に、陰謀説を真に受けたと思われる慰霊碑が遺族によって建立されたと知るに及び、同説を放置したら既成事実化しかねないとの危機感が募った。
■自衛隊OBらの反論
「自衛隊犯人説」
など余りに荒唐無稽で国民が信じるわけがないと当初は意に介していなかったOBたちも、危機感を抱き、反論を始めた。
産経新聞2025年4月1日付の「正論」欄で元空将の織田邦男氏が、事故当時、航空幕僚監部運用課員として事故発生から収束までの一部始終を、指揮中枢である空幕作戦室で目撃した立場から
「全くのデマだと断言できる」
とした。
元戦闘機パイロットである織田氏は、疑惑の発端となった自衛隊の
「現場到着の遅れ」
について、こう述べている。

【地上レーダーは低高度が見えないので墜落地点は特定できない。
最初に炎を発見した米軍C130輸送機、空自F4戦闘機からの位置情報は、TACAN(戦術航法装置)の情報である(GPSは未装備)。
TACANには、固有の誤差がある。
更に当該機と現場の距離が誤差となって加わる。
横田TACAN局から割り出せば位置情報に4km前後の誤差が生じることはやむを得ない。
航空では僅かな誤差だが、陸上行動では大きな障害となる。
特に山岳地帯では、4km違えば隣の尾根になってしまう。
山岳の道なき道の移動は4kmでも数時間かかる。
夜間で、暗視装置のない(当時)ヘリの山岳投入は危険なので中止した。
地上部隊の投入場所の決定が遅れ、結果的に現場到着が遅れた。
この遅れが
「何かがあるはず」
と臆測を呼び、連鎖して物語の創作に繫がったのだろう。】

私も狩猟その他で道なき道を進む困難さを度々味わってきた経験から、織田氏の特に山岳の道なき道の移動についての指摘は実体験として深く頷かざるを得ない。
2025年4月16日には、参議院議員会館1階講堂で
「JAL123便事故究明の会」
によるシンポジウムが開催された。
平日の16時からという時間帯にもかかわらず250名もの参加があり、壁沿いにずらりと補助席を並べてぎりぎり収容がかなうほどの盛況ぶりであった。
シンポジウムでは、まず基調講演として同会会長で元陸上幕僚長の岡部俊哉氏が、事故当時、第1空挺団の小隊長として現場で生存者捜索・救助、ヘリポート造成、遺体後送などの指揮を執った実体験を述べた。
岡部氏ら空挺団員は事故翌朝、現場にリベリング(ホバリングするヘリコプターから縄を垂らして降りる)で降着、生存者の捜索、救助に当たった。
生存者4名が消防団によって発見されたことを受け、ホイスト(縄を巻き上げること)によるヘリ収容を行った。
生存者は全員女性で、うち2人は母子であった。
収容はまず8歳の女児から毛布にくるんで行ったが、2番目に12歳の川上慶子さんを同様に包んでいた毛布をメディアの人間が剥いだという。
皮肉にも、その映像が世界を駆け巡ったが、一部メディアの倫理観の無さを表していると言えよう。
生存者のヘリ収容が完了すると、次に空挺団はヘリポートの造成に取り掛かった。
山の斜面に造成するため、作業は困難なものであった。
山側を切り崩した土を谷川に盛るという作業を夜を徹して行い、翌昭和60(1985)年8月14日にヘリポートが完成。
遺体の後送が開始された。
中にはシートベルトによって上下に分断されたご遺体をはじめ部分遺体が多数あったが、毛布でくるみ重ならないようにしてヘリの床に足の踏み場もないほど詰めて収容することを繰り返したという。
空挺団が撮影した5分ほどの映像も上映された。
まだ一部で煙の立ち上る現場にヘリからリぺリングで地上に降り立つ空挺団員たちの他、散乱する瓦礫、なぎ倒され、あるいは焼け焦げた木々や岩がちな急斜面、ボサ、消防団員などが映り込んでおり、現場の空気が鮮明に伝わってきた。
岡部氏はまた、任務終了から約1カ月、不眠、肉食不可、手にご遺体の感触が蘇る、窓の外にご遺体が並ぶ幻想を見るなど急性ストレス障害(ASD)に悩まされたことを告白している。
シンポジウム後段は、岡部氏を含めた関係者による以下の5つの陰謀説への反論であった。
@海上自衛隊護衛艦のミサイルが123便に衝突
A航空自衛隊のF4戦闘機が123便を追尾
B墜落現場の特定を遅延させた
C証拠隠滅のため火炎放射器で現場を焼却
D海自出身の機長の遺体・制服を自衛隊が隠滅
これに対し、登壇者がそれぞれ以下のように回答した。
@海上自衛隊護衛艦のミサイルが123便に衝突
「陰謀説」
では当時ミサイルの実験中だった護衛艦「まつゆき」が相模湾で短SAMシースパロー(艦対空ミサイル)の垂直発射試験を行っており、123便の垂直尾翼周辺に異変を生じさせたとするが、当時「まつゆき」はまだ自衛隊のものではなかった。
当時は、石川島播磨重工(現IHI)が所有し、船長もスタッフも同社員で「公試」(船舶の海上試運転)を行っていた。
元海上自衛隊海将補の林祐氏によると、海上自衛官も「艤装員」として乗り込んではいたが、自衛隊が主導できる状況ではなかった。
また、当日相模湾で行っていたのは運動能力試験であり、そもそも武器は未積載であった。
A航空自衛隊のF4戦闘機2機が123便を追尾
墜落直前の123便を空自F4戦闘機2機が追尾し、最終的にミサイルで撃墜したという
「陰謀説」
に対し、実際に事故当日F4戦闘機の後席に搭乗して現場上空を飛んだ渡辺修三氏は
「そもそも自衛隊の武器・装備品の管理は徹底している」
「ミサイルで撃墜はあり得ない」
また、当時の出動について
「ダイレクトスクランブル(事前情報なし)で上がった」
「西側に指向されたのでなぜだろうと思っていたら、123便がレーダーから消えた所へ行くと判明した」
「現場には当日薄い雲がかかっていたが、その中に橙色の場所があった」
「確認のために雲を突き抜けていくと、炎の帯が1.5km〜2kmに渡って続いていた」
と証言した。
B墜落現場の特定を遅延させた
前述の織田氏同様、渡辺氏もTACAN(戦術航法装置)の機械的誤差および人的誤差に触れた。
帯状に燃えていた中で、最も燃えている所に合わせようと努力し、百里、横田、入間の3カ所から位置を割り出すべく通報したが、結果的にずれていた。
夜間だったことが、定点の割り出しを一層困難にした。
また、第1空挺団に対し、
「事故当日の夕刻、災害派遣待機命令が出ており、ヘリもエンジンをかけて待機していたにもかかわらず、それが解除された」
に対し、岡部氏は、そもそもそんな命令は出ていなかった、当直の陸曹に対し、命令が出ていないことを確認して就寝した。
C証拠隠滅のため火炎放射器で現場を焼却
「ガソリンとタールの混ざった臭いが漂っていた」
「ご遺体が2度焼きしたように激しく炭化していた」
という証言を基に
「証拠隠滅のために自衛隊員が火炎放射器(自衛隊では「携帯放射器」と呼称)で現場を焼却した」
という説に対し、岡部氏は、
「携帯放射器はそもそも高圧洗浄機の噴射と同様に広い面積を対象とするのには不適であり、燃料のゲル化油を作るなど準備に長時間要する」
「そもそもタールは使わない」
と反論した。
また、
「昨年2024年の羽田空港での事故を思い起こせば分かる通り、航空燃料の火力は非常に強く飛行機でさえ焼き尽くしてしまう」
というファシリテーターの元日興職員、空花正人氏の言葉には、なるほどと思わされた。
更に、事故当時陸自第13普通科連隊(長野県松本市)の一員として最初に地上から現場入りした小川清史元西部方面総監は、
「道の無い山を地図判読し笹や木を手で掴みながら登って行った」
「そんな状況で、もしそこに携帯放射器があったらノズルが邪魔で(笹や木に引っかかって)とても進めなかったはず」
「武器庫内にある携帯放射器を取り出す手続きは非常に厳密」
「燃料は業務隊が持っているため指揮系統が違い、一層手続きが複雑になる」
とし、何重もの意味であり得ないことを語った。
D海自出身の機長の遺体・制服を自衛隊が隠滅
事故機の機長が海自出身だったことから、
「陰謀説」
では
「ミサイルを誤射した」
海自の訓練との関係が仄めかされている。
自衛官が現場で真っ先に機長を発見し、目印のために棒で突き刺し、ヘリ内で搬送中の遺体から制服を剝ぎ取ったとする説に対し、岡部氏は
「現場検証で警察によって番号が付けられ、自衛隊は勝手にできない」
「自分たちがヘリポートを運用していたから、後送したご遺体は全て見ている」
「マスコミもいる中で、あり得ない」
と反論した。
■「御巣鷹の尾根」の今
事故当時、捜索・救助等に当たった地元猟友会、消防団、警察、そして自衛隊などが道なき道を切り開きながら進んだ
「御巣鷹の尾根」
へは、現在ではすぐ近くまで車道が整備されている。
2025年4月末の冬季閉鎖解除を待って、2025年5月6日現場を訪ねた。
五月晴れの下、新緑から青葉へと変わりつつある若葉が輝く中、設置されていた
「熊よけの鐘」
を鳴らして入山。
スゲノ沢の水音を感じながら
「御巣鷹の尾根」
へと向かう。
参拝道を数十メートル進むごとに「水場」や小さな「山守地蔵」が目に入る。
斜面の急峻さを目の当たりにしながら、事故当時、道の無いこの場所に分け入った関係者らの苦労を想う。
しばらく進むといくつかのベンチが置かれた休憩スペースがあり、その先から斜面のあちこちにご遺族らが建てた墓標や石碑が点在する慰霊のエリアとなる。
それぞれを結ぶように小道や金属の階段が付けられているが、一筆書きで全てを回れるような道筋ではなく、いくつもの枝道に分かれており、全てを回るには相当な時間を要する。
その最も手前、つまり慰霊に訪れた人のほぼ全員が目にする位置に、件の慰霊碑はあった。
台座中央に置かれた石碑(写真1)には
「日航機墜落事故 真実の仮説」
として
「加害者 N総理・自衛隊幕僚長」
「事故原因(墜落) 自衛隊曳行標的機・衝突、N総理 撃墜殺害 指示、自衛隊 ミサイル撃墜・墜落」
などと記され(写真2)て、事故当日、搭乗前に撮影された高校生と中学生の兄妹の写真が並べられた下には
「*N総理・自衛隊が意図的に殺害した乗客・犠牲者」
との文言がある。
その左右には、事故機で共に旅していた2家族の犠牲者の名前が彫り込まれた石碑が並ぶ。
名前が彫られた石碑の裏を見ると建立は平成19年とあったが、中央の石碑がこの場所に確認されたのは昨年2024年だという。
よりによって、こんな
「最も目に付く位置」

「陰謀説」
が真実であるかのような石碑が、
「ご遺族によって」
建立されているという現実を目の当たりにし、私自身の衝撃が更に深まった。
先へと進み、いくつもの墓標や石碑の前を通りながら、尾根上に開けた
「昇魂之碑」
に到着。
壮絶な最期を迎えた520名の御霊の安からんことを祈った。
周囲一帯はとても美しく整備されており、水仙、馬酔木、標高の高さ故にまだ残っていた山桜、これからまさに咲かんとする石楠花など百花繚乱の様相を呈していたが、その中で白いヘルメット姿の若者5〜6名が手に箕などを持って活動していた。
聞けば、日航職員が休暇を使ってボランティアに来ているのだという。
「昇魂之碑」
の少し奥には、
「遭難者遺品埋没の場所」
や観音像などがあったが、特に印象的だった場所が3カ所ある。
まず、「祭壇」だ。
入口にたくさんの千羽鶴が下げられた木造の小屋のような建物内に置かれている。
祭壇や壁面には写真や千羽鶴が所狭しと並べられ、掲げられている。
犠牲者の1人、坂本九さんの
「上を向いて歩こう」
のレコードジャケットもあった。
線香を手向けお参りをさせて頂いた後に1つ1つ見ていくと、祭壇中央に目を引く額があった。
というのも、その額内に収められている布が赤いのだ。
そこに筆書きと思しき書体で
「故川上英治、川上和子同志へ」
「闘いのなかばで倒れた同志の遺志を受け継ぐことを誓って、霊にささぐ」
と日本共産党群馬県委員会委員長をはじめとする党員と思しき署名が寄せられていた(写真3)。
同志として名を連ねている故人は、救助された慶子さんのご両親だ。
「祭壇」
の中で、そこだけ異質な空気を醸し出していた。
2つ目は、
「沈黙の木」
と札が下げられていた場所だ。
当初、随分昔に大木が倒れた跡のように見え、だいぶ風化しているので何の事だろうと思いながらよく見ていくと、一部の断面や、しゃがんで覗いた下の方に炭化した部分が明確に残っていた。
40年の時を超え、事故による火災の残滓がそのまま存在している。
まさにここが
「現場」
であったことを実感した瞬間だった。
「沈黙の木」
を覗き込んでいると、
「御巣鷹の尾根管理人」
の黒沢完一氏が声を掛けて下さった。
同氏が指を指しながら説明してくれたところによると日航機は隣の尾根に接触(その部分の樹木が抉られたことからU字溝と呼ばれており、現在でもV字型に樹木の空際線が抉れている)、高天原山に上下が逆さになった状態で墜落した。
機体後部はスゲノ沢に滑落、そこから4名の生存者が救出されている。
3つ目は、更にその奥にあった
「X岩」
だ。
岩には実際に白く
「X」
と大書されている。
傍らに立つ石碑には
「日航機墜落事故対策の記録」
と題し、延べ5万5117人が135日間に渡って活動した群馬県警が
「第4現場」
と呼んでいたこのエリアで救援・捜査活動を行う際、基準とした場所であることなどが刻まれていた。
下山して次に17km離れた
「慰霊の園」
に向かった。
「御巣鷹の尾根」
に向かって合掌した姿の慰霊塔の奥には納骨堂があった。
最後まで身元確認が叶わなかった120以上のご遺骨が納められているという。
事故処理の支援を通じて事故の凄まじさ、ご遺族の悲しみを目の当たりにした上野村村民が、2度とこのような事故が起こらないように願い、永遠に霊を祀り慰めることが村民の責務だと考え、有志が土地を提供して建設されたという。
資料館で上映されていた事故当時の映像によって、事故現場の特定および生存者の捜索・救助に向かった地元猟友会が8名、消防団員が160名だったこと、身元不明遺体を役場の2階に仮安置したこと、事故の翌年1986年7月には慰霊のための登山道を整備し、1986年8月の1周忌には納骨が行われたことなどを知った。
いずれにも当時の黒澤丈夫村長の強いリーダーシップを感じた。
余談だが、黒澤村長は、元海軍の戦闘機乗りであった。
■自衛隊犯人説を既成事実化させるな
自衛隊犯人説が広がった背景に、元日航職員のノンフィクション作家、青山透子氏による著書の存在がある。
彼女の著書のうちの3冊(いずれも河出書房新社)が公益社団法人全国学校図書館協議会による
「選定図書」
に指定されていた。
「選定図書」
とは、図書館などに相応しいお勧めの本として複数の選定委員の推薦を受けた図書のことで、年間約7000点が選ばれている。
加えて、本年2025年1月に亡くなった経済アナリストの森永卓郎氏が著書やYouTube番組などで自衛隊の関与を指摘したことで、ここ1年ほどで同説が一気に広がった印象だ。
こうした本が図書館や書店に並べば、国を守る自衛隊という組織に対する印象が著しく貶められ、結果として、ただでさえ募集難に喘ぐ自衛隊へ追い打ちをかけることにもなりかねない。
何より看過できないのは、遺体や燃料などの臭気漂う凄惨な事故現場で、黙々と任務に邁進した自衛官たちの尊厳を踏みにじっていることだ。
陸上自衛隊OBでもある佐藤正久議員は2025年4月10日の参院外交防衛委員会で
「自衛隊員の名誉に関わる問題だ」
「多くの人命救助に当たった隊員に対する侮辱だ」
と問題視した。
これに対し、中谷元・防衛大臣は
「自衛隊が墜落に関与したことは断じてない」
「しっかり対応したい」
と語った。
周知の通り、中谷元・防衛大臣も陸自OBだ。
かつての同僚の名誉を守るためにも、また今まさに日々の任務や訓練に勤しむ現在の自衛隊員の士気を落とさないためにも、そして未来の自衛隊の誇りのためにも、この問題を軽視せず、防衛省を挙げて真摯に対応することを心から願う。
御巣鷹の尾根で、件の慰霊碑以外にも1つ気にかかる石碑があった。
登山口から歩き始めてほどなく
「すげの沢のささやき」
と標識の立つ場所があった。
事故当時、米国・国家運輸安全委員会(NTSB)の委員長だったジム・バーネット氏が講演会で述べた言葉が石碑に刻まれているのだが、その内容はここでは置く。
引っ掛かったのは、説明板の文章の中の以下の文言だ。
「日本の、運輸省・航空事故調査委員会の調査報告書は、原案がNTSBに送られ、同氏の承諾を得た後に初めて、発行された」
NTSBが報告書作成に
「協力」
したのではなく、その
「承認」
を得て発行されたという辺りに、何かしら情報操作や隠蔽があるのではないかと疑念が沸くのは私ばかりではないであろう。
これに象徴されるように事故後の情報公開の在り方に、
「陰謀説」
を生み出しかねない隙があったことは否定できない。
ことは防衛省だけに収まる話ではない。
政府の責任において、自衛隊を貶める様々な疑念を晴らすべく情報公開の在り方も見直すべきだ。
現状では、自衛隊は
「無実の罪」
着せられ名誉を毀損されている被害者と言えよう。
「自衛隊犯人説」
が増幅されれば、自衛隊の弱体化、ひいては日本国の国防力の低下に繋がる。
これによって利するのは誰か。
そもそもこの問題も、日本を弱体化するという大目的をもって行われている世論戦であるかもしれない。
その可能性も念頭に、甘く見ることなく対処する必要があろう。
具体的には、政府が著者を名誉棄損で訴え、証拠を出させるなどの法執行が必要なのではないか。
法廷という公の場で白黒はっきりつけさせる。
傍観するのではなく、
「国としての意思を示す」
と政府が腹を決めるべき事態であると私は思う。
「陰謀説」
を決して既成事実化させてはならない。

「選挙時のSNS規制」に走るメディアの危うさ
正論2025年7月号 政策シンクタンク 原英史
■「自衛隊関与説」と反論
政府は、言論市場の
「統制役」
になるべきではない。
一方で、言論市場に
「プレーヤー」
としては参加できる。
政府に対して不当な批判がなされた時は、反論できる。
むしろ積極的に反論すべきだ。
実際には政府は、反論に及び腰になりがちだ。
これは、反論すると野党やメディアから
「言論弾圧だ」
といった反発を受けることを過度に恐れるためだ。
このため、例えば原発処理水を巡る経過のように、不当な報道や情報発信の一方的な拡散が起きてしまう。
この関連で最近気になったのは、昭和60年の日航機墜落事故に関して、今年2025年4月に国会でなされた質疑だ。
日航機墜落に関しては以前から、自衛隊が関与したとの説があった。
最近もノンフィクション作家の青山透子氏らが著書で唱え、亡くなられたタレントで経済アナリストの森永卓郎氏が日本経済低迷の要因と指摘した。
青山氏の著書につき、佐藤正久参議院議員が2025年4月10日の参議院外交防衛委員会で取り上げ、
「多くの人命救助に当たった隊員に対する侮辱だ」
と問題視した。
これに対し青山氏は翌日、ウェブサイトで抗議文を公開し、
「権限濫用による表現の自由、言論への弾圧」
だと批判した。
まず、私は
「自衛隊関与説」
には余り興味はない。
一方で、通説に抗して異説を唱えることは、社会にとって貴重だと考えている。
かつて地動説が異説だったことを思い出すまでもなく、真実が封印されている可能性があるのだから、異説は大事にしないといけない。
その前提で、国会質疑を見て、青山氏の著書にも目を通した。
佐藤議員の質疑は真っ当な内容だ。
「自衛隊関与説」
について、
「政府が間違いと認識しているなら、しっかり反論せよ」
という指摘だ。
防衛省が適切に反論し、また、全国学校図書館協議会の選定図書への指定について文科省から問題指摘すべきと求めている。
一方で、本を発禁処分にせよといった内容ではない。
これに対し、青山氏が
「言論弾圧」
だと批判しているのはおかしい。
政府への批判に対する反論、あるいは国会議員が政府に
「反論せよ」
と求めることは、
「言論弾圧」
ではない。
言論市場において、プレーヤーに
「反論を受けない権利」
はなく、政府を批判した時でも同じだ。
どちらが説得的かは、
「言論の自由市場」
において判断されたらよいことだ。

日航機事故 「御巣鷹の尾根」への登山道に「自衛隊撃墜説」を伝える慰霊碑は本当にあった
記者の「暴論」 矢野将史
2025/5/4 14:00
https://www.sankei.com/article/20250504-U5K7OD4BNNP2DE7DTSUDDQUIVY/
乗員・乗客520人が亡くなった日航ジャンボ機墜落事故から、今年2025年8月で40年を迎える。
国会審議で先日、自衛隊が加害者であるかのような言説が流布されていると知り、驚いた。
墜落現場となった群馬県上野村の
「御巣鷹の尾根」
への登山道には、自衛隊撃墜説を
「仮説」
として伝える慰霊碑もあるという。
登山道が冬の閉鎖期間を終えたGW前半、慰霊登山をしてきた。
その慰霊碑については、自民党の佐藤正久参院議員が2025年4月10日の参院外交防衛委員会で、日航機墜落事故について
「加害者はN総理と自衛隊幕僚長と書かれている」
「(御巣鷹山を)登る人はみんな見ている」
「(政府や自衛隊が)慰霊碑を作った人にアプローチして『事実誤認だ』と言わないと」
「国民の信頼がないと自衛隊は動けない」
などと訴えた。
■「登る人はみんな見ている」
これに対し、中谷元防衛相は
「実際に碑があり、もし記載があるとすれば、全く事実無根だ」
「大変遺憾に思う」
「私や自衛官が正確な情報を発信していく」
「このような情報は偽情報である」
と答弁した。
本当にそのような碑があるのか。
記者は慰霊登山のため、上野村の中心部から車で林道のような山道を30分ほど進み、午前中に登山道入り口に辿り着いた。
そこから約20分登った山小屋近くに、
「日航機墜落事故 真実の仮説」
と記された慰霊碑はあった。
一部に、次のように書かれていた。

慰霊碑の「仮説」と記された部分
「※加害者 N総理・自衛隊幕僚長」

「※事故原因(墜落) 自衛隊 曳航標的機・衝突 N総理 撃墜殺害 指示 自衛隊:横田基地・着陸禁止 自衛隊 ミサイル撃墜・墜落」
「仮説」
とはあるが、ギョッとする内容だ。
慰霊碑は、事故の犠牲者5人の名前と哀傷歌が刻まれた2つの碑に挟まれていた。
亡くなったのは10代が4人、30代が1人と記されている。
上野村役場総務課は
「その碑があるのは知っているが、役場では、個々の墓標や碑について、誰が、いつ建てたかについては把握していない」
「ご遺族の方が設置したのではないか」
「昨年にはあった」
と語る。
■中谷防衛相「事実無根」
単独機として世界最大の航空機事故の調査は、旧運輸省の事故調査委員会が行った。
中野洋昌国交相は、佐藤氏の国会質問があった翌日(2025年4月11日)の記者会見で、事故調査委員会が昭和62年6月に公表した航空事故調査報告書を引用して、事故原因は米ボーイング社による
「後部圧力隔壁」
の不適切な修理に起因するとし、
「様々な角度から調査解析を行い、専門家による審議の上、ほぼ間違いないという結論に至ったため、強い推定を示す『推定される』という表現を使用している」
と説明した。
記者は前述の慰霊碑を確認した後、
「御巣鷹の尾根」
を目指した。
急な登山道を息を切らし、熊除けの鐘を鳴らしながら、30分ほど登ると、墜落現場に立つ
「昇魂之碑」
があり、遺族が設置した
「空の安全を祈って」
という鐘、犠牲者520人の名前が記された
「慰霊碑」
などがあった。
静かに手を合わせた。
そこに至る登山道脇の斜面やスゲノ沢には、木や石でできた墓碑がいくつも立ち並んでいた。
遺体が発見された場所付近だという。
墓碑には犠牲者の名前が記され、遺族らによる花や千羽鶴、人形、風車、個人的な手紙などが供えられていた。
■犠牲者や遺族の無念
遺族有志のメッセージにはこうあった。
「あなたやってきましたよ きこえますか 見えますか あなたと話したい あなた言いたいことは…」
「さよならも言えずに旅だったあなたたち やすらかに永遠の祈りをささげます」
この御巣鷹の尾根で520人の人生が突然断ち切られ、遺族らの人生も大きく変わったことが実感として伝わってきた。
事故から40年経っても、その無念さ、理不尽さ、事故への疑問を抱え続けている遺族は多いことだろう。
同時に、事故直後、標高1500メートル以上の尾根と谷が連なる墜落現場に向けて、道なき道を進んで必死の捜索・救出活動を続けた消防団員や警察官、自衛官の苦難も理解できた気がした。
恥ずかしながら、記者は整備された登山道を登るだけでも膝がガクガクになった。
航空事故調査委員会は現在、運輸安全委員会という組織に再編された。
同委員会は平成23年7月、
「日本航空123便の御巣鷹山墜落事故に係る航空事故調査報告書についての解説」
を発表している。
遺族などから様々な疑問が寄せられる中、
「できるだけ分かりやすく説明するため」
に作成したという。
この解説には後半で、
「ミサイル又は自衛隊の標的機が衝突したという説もありますが、根拠になった尾翼の残骸付近の赤い物体は、主翼の一部であることが確認されており、機体残骸に火薬や爆発物等の成分は検出されず、ミサイルを疑う根拠は何もありません」
とも記されている。
■事実に基づかない言説は修正を
犠牲者と遺族の無念に心を寄せながら、事故への疑問には真摯に向き合い、事実に基づかない言説は修正していく努力が必要だと感じた。

日航機墜落事故に「自衛隊関与」という陰謀説拡大の記事が読まれています、政府の対応は
2025/5/1 11:11
https://www.sankei.com/article/20250501-3B3JOK7GFZGVBJ333KKOVLED7E/
昭和60年8月12日に起きた日本航空機墜落事故を巡り、自衛隊の関与を唱える陰謀説が書籍やインターネットで流布されていることを紹介した記事が産経ニュースで読まれています。
政府は強く否定し、正確な情報発信を行う方針を明らかにしている。
陰謀説を唱える書籍の中にはベストセラーになったものも。
今年2025年4月16日には事故現場で生存者捜索に当たった自衛隊OBらがシンポジウムに参加し、書籍などで指摘される陰謀説のうち5つの点に反論した。
この問題は2025年4月10日の参院外交防衛委員会でも取り上げられた。
自衛隊OBの佐藤正久参院議員(自民党)が、自衛隊の関与を唱える書籍が全国学校図書館協議会による選定図書に指定されているとして、是正を訴えた。
佐藤氏の指摘に対し、中谷元防衛相は
「自衛隊が墜落に関与したことは断じてない」
と陰謀説を強く否定し、対応を約束した。
中野洋昌国土交通相は2025年4月11日の閣議後記者会見で、旧運輸省の事故調査委員会の航空事故調査報告書を引用する形で、事故原因は機内の気圧を保つ役割がある
「後部圧力隔壁」
の不適切な修理に起因するものだと説明し、
「正確な情報を発信していきたい」
と述べた。
民間でも陰謀説は問題視されている。
防人と歩む会の葛城奈海会長は、
「これを放置しては、慰安婦問題における吉田清治証言同様、嘘が真になりかねない」
と警鐘を鳴らした。
事故当時、航空幕僚監部の運用課員として、発生から収束まで一部始終を指揮中枢である空爆作戦室で目撃していたという元空将の織田邦男氏(麗澤大学特別教授)は、
「全くのデマだ」
と断言。
陰謀説を
「情報戦」
とみなし、その対応は
「国民一人一人が高い情報リテラシーを持つことが何より重要である」
と訴えた。
2025年4月29日、墜落事故の現場となった
「御巣鷹の尾根」
に向かう登山道が冬の閉鎖期間を終え、開通。
遺族や関係者は慰霊のため尾根を訪れ、墓標の前で静かに手を合わせた。

日航機墜落の陰謀説唱える書籍は「図書館協議会選定図書」 自民の佐藤正久氏が是正訴え
2025/5/1 9:55
https://www.sankei.com/article/20250501-H5D7UDNLZVNKZAERNHNE2ZS3WA/
昭和60年の日本航空機墜落事故に自衛隊が関与したという
「陰謀説」
を巡っては国会でも取り上げられた。
2025年4月10日の参院外交防衛委員会で、自衛隊OBの佐藤正久氏(自民党)は自衛隊の関与を指摘する書籍が全国学校図書館協議会による選定図書に指定されているとして、
「何も知らない子供たちが推薦図書として図書館で触れることで国土交通省や防衛省が否定する事実を本当のことのように受けてしまう」
と述べ、是正を訴えた。
選定図書に選ばれているのは作家、青山透子氏の著書3冊(いずれも河出書房新社)。
選定図書は小中学校などの図書館が蔵書構成する上で参考になり、同団体は
「正しい知識や研究成果」
「科学的に正確」
などの選定基準を設けている。
野中厚文部科学副大臣は、佐藤氏の訴えに対し
「図書自体が児童生徒の健全な教養の育成に資する必要がある」
「懸念について防衛省の動向も踏まえ、団体に伝えていく」
と答弁した。
自衛隊の関与を指摘する書籍は、経済アナリストの森永卓郎氏(今年2025年1月死去)らも出版している。

産経新聞は青山氏に対し、中谷元・防衛相が自衛隊の関与は
「断じてない」
と発言したことへの見解を書面で求めた。
これに対し青山氏は河出書房新社を通じて後日取材に応じる意向を示した。

日航機墜落に5つの陰謀説 「自衛隊と隊員への冒瀆だ」当時捜索のOBが反論
2025/5/1 8:36
https://www.sankei.com/article/20250501-EWVJEC535BOPPNUXV2G4MZCO2M/
昭和60年の日本航空機墜落事故に自衛隊が関与したという
「陰謀説」
が流布されていることに、当時事故現場で生存者捜索にあたった自衛隊OBらは
「自衛隊と隊員への冒瀆だ」
と憤っている。
2025年4月16日には参院議員会館で開かれた
「JAL123便事故究明の会」
によるシンポジウムで、書籍などで指摘される陰謀説のうち5つの点に反論した。
同会は昨年2024年8月に設立。
会長を務める岡部俊哉元陸上幕僚長は事故当時、陸上自衛隊第1空挺団の小隊長として生存者の救助、ヘリポートの造成などの指揮を執った。
陰謀説@「海上自衛隊護衛艦の訓練中のミサイルが123便に衝突」
自衛隊の関与を指摘する書籍は墜落原因について、当時巡航ミサイルの実験中だった護衛艦「まつゆき」が相模湾(神奈川県沖)で123便の垂直尾翼周辺に異変を生じさせたとする。
だが、まつゆきの就役は事故翌年の昭和61年3月。当時は石川島播磨重工業(現IHI)が所有する船舶だった。
元海上自衛隊海将補の林祐氏は
「(海自の)乗組員も『艤装員』として乗り込んでいたが、石川島播磨の船長が指揮を執り、スタッフが運航していた」
と述べ、自衛隊が主導できる状況ではなかったと説明した。
123便は事故発生当時高度7・3キロに達した。
林氏は当時の対空ミサイルなどが
「そう飛翔するものでない」
と述べ、まつゆきに搭載された発射ランチャーについて
「発射することはできない」
「コントロールシステムが異なる」
と指摘した。
陰謀説A「航空自衛隊のF4戦闘機2機が123便を追尾」
墜落直前の123便を空自F4戦闘機2機が追尾していたとの目撃証言を基に、最終的にF4がミサイルで墜落させた─とするものだ。
追尾などの動きは公式記録にない。
また、F4パイロットとして当時現場に出動した渡辺修三氏はミサイルなど装備品管理は徹底されているとし、
「帰投してミサイル1本なかったら一大事だ」
と述べた。
陰謀説B「墜落現場の特定を遅らせた」
渡辺氏は、地上で上空の戦闘機パイロットと連携する要撃管制官からの誘導で日航機がレーダーから消えた午後6時56分過ぎに墜落現場とみられる場所にF4で向かい、1・5〜2キロに渡る帯状の炎を確認したと証言する。
ただ、正確な墜落地点は把握できなかった。
渡辺氏は操縦士に対し、最も炎が強い所を中心に旋回してもらったが正確な位置をつかむのは難しかったという。
陰謀説C「証拠隠滅のため火炎放射器で現場を焼却」
墜落現場では消防団員らが
「ガソリンとタールの混ざったような臭い」
と感じたという証言がある。
これを基に
「証拠隠滅」
のために自衛隊員が火炎放射器(携帯放射器)で遺体やミサイルの痕跡を焼却したと流布されている。
当時陸自第13普通科連隊(長野県松本市)に所属し救出作戦に参加した小川清史元西部方面総監は
「火炎放射器を取り出す手続きは幾重で容易ではない」
「注入する燃料を保管するのは業務隊で、指揮系統が異なり、より一層手続きに時間と書類が必要となる」
と反論する。
また、携帯放射器の燃料であるゲル化剤を大量のドラム缶で入手して、一晩で搬入、焼却、撤収するのは不可能だと指摘する。
そもそも燃料にタールは使われないという。
陰謀説D「海自出身の機長の遺体・制服を自衛隊が隠蔽」
書籍では、事故を巡って123便の機長が海自出身であることから、
「ミサイルを誤射した」
とされる海自の訓練との関係が示唆されている。
自衛隊員が事故現場で機長の遺体を真っ先に発見、目印のため棒で突き刺し、ヘリコプターの移動中、不都合なものを取り除くため制服などを外した─というものだ。
これに対し、岡部氏は
「現地は多くの数の人が作業していた」
「機長の制服を身に着けた遺体が発見されれば(現地にいた)マスコミの写真に写っている」
「空想で言われた話としかいいようがない」
と語った。

日航機墜落事故40年、拡散される陰謀説 「自衛隊の関与は断じてない」政府が強く否定
2025/5/1 7:00
https://www.sankei.com/article/20250501-IBAEULDM6ZNXPFOXSJL26PTXKE/
「自衛隊がミサイルを誤射した」
「撃墜の証拠隠滅を図るため乗客らの遺体を焼却した」−。
昭和60年8月の発生から今年で40年となる日本航空機墜落事故を巡り、自衛隊の関与を指摘する
「陰謀説」
が書籍やインターネット上などで流布されている。
ベストセラーになる書籍もある中、政府は自衛隊の関与を強く否定するなど対応を進めている。
「陰謀説」
を唱える主な著者は、複数の目撃証言を繋ぎ合わせて描写。
例えば、自衛隊は墜落現場に先駆けて到達し証拠隠滅を優先したため生存者を見殺しにしたと主張している。
昨年には事故現場への登山道に犠牲者の名前と
「自衛隊が意図的に殺害した乗客・犠牲者」
などと記された
「慰霊碑」
の設置が確認された。
123便の墜落原因に関して運輸省の航空事故調査委員会(当時)は、過去の不適切な修理で機体後部の圧力隔壁が壊れ、垂直尾翼や操縦系統が破壊されたと
「推定される」
とした。
メーカーのボーイング社は修理ミスがあったと認めた。
中谷元・防衛相は2025年4月10日の参院外交防衛委員会で
「自衛隊の関与は断じてない」
と明言し、対応する考えを示した。
中野洋昌国土交通相は2025年4月11日の記者会見で
「様々な角度から調査解析を行い、(事故原因が圧力隔壁であることは)ほぼ間違いないという結論に至ったため、強い推定を示す『推定される』という表現を使用している」
と説明した。
事故は昭和60年8月12日夕に発生した。
羽田発大阪行き日航123便ジャンボ機が群馬県上野村の
「御巣鷹の尾根」
に墜落。
乗員・乗客524人のうち女性4人を除く520人が死亡した。

日航機墜落40年を前に慰霊 御巣鷹への登山道開通
2025/4/29 23:07
https://www.sankei.com/article/20250429-AZVN2ULQANICPPDG5E5BH23IR4/
1985年に520人が犠牲となった日航ジャンボ機墜落事故の現場、群馬県上野村の
「御巣鷹の尾根」
に向かう登山道が2025年4月29日、冬の閉鎖期間を終え、開通した。
今年2025年8月で事故から40年となるのを前に、遺族や関係者が慰霊のため尾根を訪れ、墓標の前で静かに手を合わせた。
遺族らで作る
「8・12連絡会」
事務局長の美谷島邦子さん(78)は次男、健君=当時(9)=を亡くした。
墓標にこいのぼりや花を供え
「亡くなった人のその後を私たちは生きてきた」
「もうすぐ40年となるが、安全や命を守ることを目指して活動したい」
と力を込めた。
墜落地点の尾根に立つ
「昇魂之碑」
は事故翌年の1986年に建てられた。
尾根の管理人、黒沢完一さん(82)によると、昇魂之碑が傾いているのが確認され、補強工事が今月2025年4月17〜25日の日程で行われた。
黒沢さんは
「開山の前に工事が完了して良かった」
と話した。
事故は1985年8月12日、羽田発大阪行き日航123便ボーイング747が墜落し、乗客乗員524人のうち520人が死亡した。

日航機墜落事故をめぐる陰謀論に危機感
直球&曲球 葛城奈海
2025/4/17 13:00
https://www.sankei.com/article/20250417-QVEEP7E63ROW7BYUYFLZ6MWMSQ/
乗員乗客520人死亡という単独飛行機事故としては世界最多の死者を出した日本航空123便墜落事故から、2025年8月12日で40年になる。
群馬県上野村の
「御巣鷹の尾根」
に墜落した事故機の生存者捜索・救助、遺体の搬送には警察や消防、地元猟友会らと共に、自衛隊が力を尽くした。
僅か4人だった生存者の1人、当時12歳の少女が自衛官に抱えられながらヘリに引き上げられていく映像をご記憶の方も多いだろう。
ところが、驚いたことに、2025年4月1日付の本紙『正論』欄で元空将の織田邦男氏が言及し、2025年4月10日の参院外交防衛委員会で佐藤正久議員が問題視した通り、あたかも自衛隊が墜落事故の加害者であるかのような言説が流布されているのだ。
佐藤議員によれば、陰謀論の元ネタとなった書籍が、
「全国学校図書館協議会選定図書」
に選ばれていたばかりか、事故現場の登山道に
「自衛隊が意図的に殺害した乗客・犠牲者」
と書かれた慰霊碑が建立されているとのことで、私も大いに危機感を抱いた。
これを放置しては、慰安婦問題における吉田清治証言同様、噓が真(まこと)になりかねない。
ましてやその本が学校の図書館に並ぶとなれば、募集難に喘ぐ自衛隊へ追い打ちをかけることにもなろう。
何より看過できないのは、遺体や燃料などの臭気漂う凄惨な事故現場で黙々と任務に邁進した自衛官たちの尊厳を踏みにじっていることだ。
陸上自衛隊第1空挺団の小隊長として現場で生存者捜索・救助、ヘリポート造成、遺体後送などの指揮を執った岡部俊哉元陸上幕僚長は、自衛隊が証拠隠滅のために火炎放射器で現場を焼却したかのような
「陰謀説」
に物理的にも時間的にも
「あり得ない」
と断言する。
同氏は、任務終了後、約1カ月、急性ストレス障害(ASD)に悩まされたことを告白している。
地獄絵図のような真夏の山中で、身を粉にして任務に邁進した自衛官たちへの冒瀆は、断じて許されるべきではない。
虚実入り交じった情報があふれる現代にあって容易なことではないが、真実を見極められる高い情報リテラシーを身に付けたいものである。

葛城奈海
かつらぎ・なみ
防人と歩む会会長、皇統を守る会会長、ジャーナリスト、俳優。
昭和45年、東京都出身。
東京大農学部卒。
自然環境問題・安全保障問題に取り組む。
予備役ブルーリボンの会幹事長。
近著に『戦うことは「悪」ですか』(扶桑社新書)。

御巣鷹の日航機墜落事故 「自衛隊が撃墜説」に国交相「正確な情報発信する」
2025/4/11 12:53
https://www.sankei.com/article/20250411-7Z4Z3ZGMEZPRRC53VQIG3TPBK4/
1985年に発生した日本航空機の御巣鷹墜落事故について、原因を
「自衛隊による撃墜」
などとする言説が書籍やインターネットで流布している問題に対し、中野洋昌国土交通相は2025年4月11日の閣議後記者会見で、
「しっかりと正確な情報を発信してきたい」
と述べた。
問題を巡っては2025年4月10日の参院外交防衛委員会で、自民党の佐藤正久参院議員が指摘。
中谷元防衛相が
「自衛隊が墜落に関与したことは断じてない」
と否定し、
「しっかり対応したい」
と回答している。
2025年4月11日の会見で中野氏は、旧運輸省の事故調査委員会の航空事故調査報告書を引用する形で、事故原因に言及。
機内の気圧を保つ役割がある
「後部圧力隔壁」
の不適切な修理に起因するものだとし
「様々な角度から調査解析を行い、専門家による審議の上、ほぼ間違いないという結論に至ったため、強い推定を示す『推定される』という表現を使用している」
と説明した。
その上で
「国会や会見を通じ、政府として責任ある立場にあるものが正確な発信をしていくことは重要だ」
と述べた。
事故は1985年8月12日夕に発生。
羽田発大阪行きの日航機123便が離陸後に機体トラブルに見舞われ、群馬県上野村の
「御巣鷹の尾根」
に墜落。
乗客乗員524人のうち520人が死亡し、単独機としては世界最悪の被害となった。
報告書によると、当該機は78年に別の事故により、後部圧力隔壁が損傷し、米ボーイング社が修理した。
しかしその過程で不適切な措置が取られ、求められる仕様よりも強度が低下していた。
1985年8月12日午後6時24分、当該機は離陸から約12分後、疲労が重なっていた後部圧力隔壁が破損し、機内の空気が機体後部に噴出。
垂直尾翼や翼を動かす油圧系統が破壊され、操縦不能に陥った。
パイロットらは左右のエンジンの出力差を駆使するなどして機体の制御、立て直しを図ったが機体は迷走。
トラブルから約30分後の同6時56分、墜落した。
事故調査委は1987年6月、後部圧力隔壁の修理ミスを原因と推定する報告書を提出した。
ただ内容が専門的で難解との批判もあり、後の国交省の運輸安全委員会は、事故犠牲者の遺族と連携をとりながら2011年7月、報告書の
「解説書」
を作成。
報告書とともにホームページで公開し、
「自衛隊の関与説」
についても否定している。

御巣鷹事故「自衛隊が撃墜」、偽情報を自民佐藤正久氏が問題視 中谷元防衛相「対応する」
2025/4/10 16:09
https://www.sankei.com/article/20250410-YVB6ML6KJVAG7K6M6GPSYM47DM/
自民党の佐藤正久参院議員は2025年4月10日の参院外交防衛委員会で、日本航空機の御巣鷹山墜落事故を巡り
「自衛隊が撃墜した」
との言説が書籍などで流布されているとして
「自衛隊員の名誉に関わる問題だ」
「多くの人命救助に当たった隊員に対する侮辱だ」
と問題視した。
中谷元防衛相は
「自衛隊が墜落に関与したことは断じてない」
「しっかり対応したい」
と語った。
■「火炎放射器で証拠隠滅」
事故は昭和60年8月12日夜に発生。
群馬県・御巣鷹山に日航123便が墜落し520人が死亡した。
事故原因について航空事故調査委員会は昭和62年6月、報告書を公表し、後部圧力隔壁の不適切な修理に起因するとしている。
佐藤氏によれば、問題の書籍は駿河湾で対空ミサイル訓練を行っていた護衛艦が日航123便を誤射し、撃墜の痕跡を隠すため、墜落地点の特定を遅らせた上、墜落現場で自衛隊が火炎放射器で証拠を隠滅したと指摘しているという。
佐藤氏は書籍について
「ベストセラーになり、ユーチューブで拡散されている」
と述べ、
「墜落の後、徹夜で尾根を踏破して危険を顧みず現場で多くの人命救助に当たった隊員に対する侮辱である」
と対応を訴えた。
■推薦図書に…場内ざわめく
この書籍が全国学校図書館協議会の推薦図書に選ばれていると指摘されると、委員会室がどよめく場面もあった。
佐藤氏は文部科学省にも対応を求め、野中厚文科副大臣は
「懸念を当該団体にしっかり伝えていく」
と応じた。
更に、御巣鷹山の登山道に建立された慰霊碑には
「自衛隊が意図的に殺害した乗客・犠牲者」
と記されているという。
佐藤氏は碑の写真を示して
「放置したままでいいのか」
「慰霊碑を作った人にアプローチして事実誤認だと言わないと(いけない)」
と訴え、中谷氏も
「しっかりと対応していきたい」
と語った。

<正論>「御巣鷹」に見る情報戦への脆弱さ 
麗澤大学特別教授 元空将・織田邦男
2025/4/1 8:00
https://www.sankei.com/article/20250401-766VLI7YBZOPRPRZLLAXQK5VBU/
■現代ハイブリッド戦争
ウクライナ戦争の停戦交渉が行われている。
この戦争の特徴として、開戦前から今なお続く熾烈な情報戦がある。
2014年3月、ロシアはクリミア半島を
「ハイブリッド戦争」
によって無血併合した。
ハイブリッド戦争とは
「高度に統合された設計の下で用いられる公然、非公然の軍事・非軍事・民間の手段を使った戦争」
である。
情報戦はハイブリッド戦争の主要手段であり、インターネットが発達した現代では国家をも動かす力がある。
2016年1月、ドイツで
「アラブ系難民が13歳少女をレイプした」
というニュースがロシア系メディアで報道され、SNSで拡散していった。
偽情報であることが判明するが、難民排斥運動は過熱し極右政党が大躍進する結果を生んだ。
情報戦に加え威嚇・恫喝の軍事行動を組み合わせることで、相手の思考・感情・記憶に直接働きかける
「認知戦」
も現代戦の1つである。
台湾併合を目指す中国は、台湾周辺で海上封鎖やミサイル発射訓練などを繰り返し、台湾住民に対して敗北感を植え付け、抵抗断念を図る。
2022年に岸田文雄政権で策定された国家安全保障戦略では
「情報戦への体制の強化」
を掲げ、偽情報を収集分析し、正しい情報を発信するとしているが緒に就いたばかりだ。
次の事例からも分かるように日本人は情報戦に対しては脆弱と言わざるを得ない。
■日航機墜落事故を巡る噓
40年前の1985年8月12日、日航123便が御巣鷹山に墜落した。
後にこの事故に関し
「自衛隊が撃墜したかのような本が出ている」
という噂を聞き、読んでみた。
要約するとこうだ。
123便は自衛隊のミサイル誤射によって正常な飛行が困難になり、誤射の証拠隠滅を図るため、空自戦闘機が出動して撃墜し、更にその証拠も消すため、墜落現場で陸上自衛隊が火炎放射器で証拠を焼き払ったというものである。
荒唐無稽と笑ってはいられない。
ノンフィクションとして書かれベストセラーになっているという。
またこれを真実と信じている人が多くいるというから驚いた。
筆者は事故当時、航空幕僚監部の運用課員で、事故発生から収束まで一部始終を指揮中枢である空幕作戦室で目撃していたので、全くのデマだと断言できる。
死臭漂う地獄絵図のような現場で懸命に生存者の捜索に携わった多くの自衛官を知っている。
彼らの多くがPTSDに苛まれた。
このようなデマは、黙々と災害派遣にあたった自衛官に対する冒瀆である。
この怒りはひとまずおく。
これは情報戦に対する日本人の脆弱性を示す。
「誰があの520人を殺したのか」
と感情に訴え、結論ありきで読者を引き込む。
そして5種の断片、つまり
@事実
A誤解
B推測、臆測
C曖昧な伝聞情報、目撃情報
D捏造
を都合よく組み合わせ、
「自衛隊による撃墜、証拠隠滅」
へと誘導する。
噓を並べても、所々に事実が入っていれば容易に全体を信じ込ませることができる。
これが情報戦の肝である。
著者の意図はともかく、結果的にロシアの情報戦の相似形となっている。
常識的に考えれば、
「自衛隊による撃墜、証拠隠滅」
などあり得ない。
自衛隊の行動には、自衛官を含む多くの関係者が関わる。
こんな犯罪行為があれば隠し通せるわけがない。
だが、自衛隊を知らない人は、創作されたナラティブ(物語)を容易に信じてしまう。
情報戦の恐ろしさである。
■情報戦に敗北しないため
筆者は元戦闘機操縦者でもあり、文中の誤りを全て指摘できる。
ここでは紙幅の関係上、疑惑の発端となった
「現場到着の遅れ」
についてだけ述べる。
地上レーダーは低高度が見えないので墜落地点は特定できない。
最初に炎を発見した米軍C130輸送機、空自F4戦闘機からの位置情報は、TACAN(戦術航法装置)の情報である(GPSは未装備)。
TACANには、固有の誤差がある。
更に当該機と現場の距離が誤差となって加わる。
横田TACAN局から割り出せば位置情報に4km前後の誤差が生じることはやむを得ない。
航空では僅かな誤差だが、陸上行動では大きな障害となる。
特に山岳地帯では、4km違えば隣の尾根になってしまう。
山岳の道なき道の移動は4kmでも数時間かかる。
夜間で、暗視装置のない(当時)ヘリの山岳投入は危険なので中止した。
地上部隊の投入場所の決定が遅れ、結果的に現場到着が遅れた。
この遅れが
「何かがあるはず」
と臆測を呼び、連鎖して物語の創作に繫がったのだろう。
我が国に情報戦が仕かけられた場合、同様なパターンで容易に敵の罠に嵌まってしまう可能性がある。
情報戦に敗北しないためには思い込みに符合する情報に飛びつくのではなく、情報を疑う姿勢、そして些事に拘泥せず、全局を俯瞰して判断できる能力が必要である。
情報戦への対応は、政府主導の
「正しい情報発信」
に頼るのではなく、国民1人1人が高い情報リテラシーを持つことが何より重要である。


[18初期非表示理由]:担当:スレと関係が薄い長文多数のため全部処理。自分でスレを建てて好きな事を投稿してください

3. マカロン[1093] g32DSoONg5M 2025年8月19日 13:31:46 : 60yfgd8Jh2 : RTJxbkZINnRYdy4=[745] 報告
<△21行くらい>
故 森永卓郎氏は、夏の時期になると出演していたラジオ番組で、日航ジャンボ機墜落事故の謎について何度か話しをしていました。

森永氏は、若い頃使いパシリをしていた当時のご本人の体験とその後の自滅的な日本の経済政策。
なぜ?を追及していくうちに、TV業界のタブーも相まって、プラザ合意の1ヶ月前に起きた日航ジャンボ機墜落事故が結びついて行ったようでした。

随分前、偶然読んだblogに、日航ジャンボ機墜落事故墜落直後の話がとても詳しく書いてありました。
blog主さんは、友人達と墜落直後の現場へ急行したそうで、、、
書かれていた話は衝撃的で、真偽については何とも言えませんが、戦前、戦中のことを考えたら、有り得なくないと思いました。


[【衝撃】日航機123便墜落の真実 なぜ日本は未だに対米従属のままなのか?〜森永卓郎]
https://m.youtube.com/watch?v=hQXxXNYFBr8&pp=ygUo5qOu5rC45Y2T6YOOIOaXpeiIquapnzEyM-S-v-WinOiQveS6i-aVhQ%3D%3D


【彼らは何を言ったのか】-020- 経済学者ジェフリー・サックス:「日本のバブル崩壊は...」
https://m.youtube.com/watch?v=EBoIuaEhzDE&pp=0gcJCfwAo7VqN5tD

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