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愛に飢え 親を憎み その果てに愛を棄てていく
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投稿者 Air−Real 日時 2023 年 8 月 31 日 00:58:25: dsfJ1hAY0z6VI gmCCiYKSgXyCcYKFgoGCjA
 

愛憎劇がすべての発端と云う気がしています。

人々が何に怖れ、何を嫌悪しているか。人はいま周囲に何を心から求めているか。

神を憎むのも悪の所業を憎むのも実は同じ出所を原因としていると見ています。それは感情であり、心とされる部分の人の働きです。

人を愛すという行為とは、対象となる相手を、より大きな俯瞰による眼差しで包んでやることができるかどうかだけにかかっているもの「か」と思っています。「か」というのはそれはあくまで理想としては持ってはいるものの「それが実践出来る段階にわたしがある訳では無い」と云う正直な心の揺れの部分を表しています。

つまり、考え方として、わたし自身、また、あなた自身が、満足して人の道、或いは学業としてその「道」を修了したいと願う場合において、もしそうなら、それらの人の憎しみの感情を超えたところにて「それらを包込む力を持とう」と決めることこそが解放へと至る「すべての始まり」なのだと思っているのです。「すべて」とは「神」、或いは「道」そのものに他ならないものに思います。

一端この話はここで区切ります。

次に「独裁者」についてのわたしの考え方を述べたいと思います。

それについてわたしはこう思っています。

王という存在がいて、そこは君主制であり、そこで生まれ、そこで命を遂げる人々がおり、彼らは熱心な仏教徒であり、国の栄えと家族や国の人々の「心の安寧」を願い、日々やすらかに生活を送っています。そこにあるものが客観的にみてたとえば社会主義、或いは全体主義、或いは共産主義的な様相をしてひとつの価値観の元で平均的な暮らしをすることが国家から臨まれていたとします。しかしそこでは大したもめごとも起きず、いさかいもなく、笑って過ごせるということを主眼として社会風紀がゆるやかにあり、それは大半を占めるところが宗教の教えとして機能していたとします。そこでは赦しと敬い、そして憂いが健全に働いています。すべては文化的に機能して成立しています。

モデルとなる国はブータンです。かの国は隣国との抗争もなく、地の利を得て攻め込んでくる敵も居らず、全体が飢える心配もない程度作物も取れて、長い間国民は倖せな暮らしをしてきているとされています。わたしもそう思います。もちろん、というかだからといってわたしはそこに移住したいとは思ってはいません。わたしの生まれた場所ではないからです。だとしてわたしは彼らの生き方を同じ仲間と見ることが出来ており、誇りに思っています。

そのように実際、「独裁」と言っても、よい王であればそれは人々に和し、人々の心の声を聴こうとします。そこでの権力は人々の声を吸い上げて機能し、平均的な暮らしを持続させる治世を発揮しています。

さて、プーチンは独裁者でしょうか。ロシアは健全な国であるでしょうか。それについてもイエスです。彼らはそうしなければならない局面を迎えているでしょう。生命として健全な姿を見せていると思っています。彼の国へ侵略しようと働くものさえなければ、いまも彼らは黙って住み分けを保つことのみに懸命となっていたはずでしょう。

では他の国はどうでしょうか。

想像してみましょう。彼らとロシアの違いについて。

ある国は独裁ではないとはしていても、政治的意向についてほとんどの国民は介入も出来ず、国としての政治的意向にその国の民の意思は介在しているようには感じられません。民主主義なる国は殆どがそうではないでしょうか。

独裁者が居ないとは言うことができても、政治の舞台裏を見れば構造的には一個体として独裁的な権限を強化するように機能しています。

つまり「独裁」と云う言葉をずる賢く利用する側が居る限り、プーチンはそうした敵から自国の国民を守るために現行の方法論を棄てることは出来ず、そしてそれは必要とされているにもかかわらず、けして表向き賞賛されえない、とした不条理な仕組みとなっています。

これにも「マスメディアの沈黙」は関係していると言えるでしょう。


ここでまた「表題」につけた言葉の意味に戻って考えてみます。


わたしはある人物の心の部分について賛同する部分をもっています。その人としての純粋な反応を見て感じることがあります。次にそのことを書いてみます。


誰にも親というものが居ます。

その親を恨むというのは余程のことであるでしょう。

人が人として誤ってしまう部分はそうした部分をきっかけとして始まっている気がしています。


また別の視点を通してその界隈をみれば、誰であっても自分の親のことを何も知らぬ相手に一方的に社会的に貶されたりしたら黙っては居ないでしょう。

しかし、わたしはいま、そうして黙って相手の憎しみを超えた部分でそれを許せる自分を掘り出そうとしています。

何故ならわたしはそうした相手に親の愛情を必要とする子どもの姿を感じ取るからです。

そこに純粋な人の感情を読み取った場合に限り、そこには次にそれを受け止められる環境が必要だと思ってしまいます。そうした力を創造しなければ、怒りに任せて進むその人の先に人の姿はないと思ってしまいます。

人の怒り、或いは負の感情がどのように際限なく歪さに向かって広がり続けていくかはご存知の通りかと思います。しかしそこに持たれる怒りの理由に納得できない訳でもなく、その根拠となっている非人道的な侵害を許す立場では毛頭在りません。そこには一定にけじめは付けられるべきものだろうと理解しています。

しかしながら、善側を名乗る側にもそれ相応の眼差しを向けることとなります。

彼らが何かを強く嫌悪したとして、それが活動の源泉として彼らは善と理解する行為に及ぶことになりますが、そこでの方法論にもまた同様に、人の心が介在せず、人の心への侵害が認められることとなれば、わたしは手放しにそれらを支持することはしないでしょう。無知であることを善しとして、何も知らなかったで済まされるものでもありません。つまりわたしはいま善側とする立場の一定の暴走を確認しています。

だとして純粋な真実追求の勢いを無粋に掻き消すほど野暮であろうとも思えず、しかしただ、人であるからには心の声を聞く耳だけは保っておいてほしいと思い、こうして口酸っぱく賢者の耳に届くように書いているのです。

なぜ人が暴走していくか。

なぜ助けが得られないと考えてしまっているのか。

エネルギーは交流させるものです。憎しみの対象であれそれが自分の身体の中の痛みであれ、そこから情報を得なければ解決への道のりは閉ざされます。情報を得るには自らそこを意識し、自らの気配を消し、対象物とエネルギーを通じ合わさねばなりません。

相手(の情報)を知るには自らをそこに通わせねばならないものと理解しています。それは言葉で交わすより的確で、こちらの自我的働きを消すことができれば、つまり意識の壁を完全に取り払うことができれば、相手の問題点を探り解決に導こうとする自然な力は機能し始めます。人が解決すべき問題点とは、すべて人の心から生じていると理解します。ゆえにわたしはそうする必要性に駆られています。

わたしはブータンの人々のように、一国の行く末を健全に憂い、すべての問題点をそのように一元化することで、意識を集中力の途切れない一元化した祈りへと転化することを期待します。

そのように意識することで相手が抱える問題点は次元空間を超えて、相手へと伝わり、そこから癒しのセルフムーヴがはじまっていくと捉えています。もちろん併行して現実的な問題対処にも臨まねばなら無いことですが。

この辺りの話をより詳しく知りたいという方には「セスブック」の「セスマテリアル」第5章を読むことをお薦めしたいと思います。そこで多くの人がなんらかの未発見の気付きを得ることを願っています。  

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