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(回答先: 北方領土も北海道も東北地方北部もすべて日本人ではなくアイヌ人の領土です。 日本人は先住民族の縄文人・アイヌ人を虐殺して東… 投稿者 中川隆 日時 2025 年 5 月 15 日 04:29:03)

日本のものでもロシアのものでもなかった江戸期の北方領土
水産資源に恵まれ、豊かな自然が残る千島列島。日本とロシアが互いに領有権を主張して譲らないこの島々に、いちばん最初に暮らしていたのは誰だったのか。北方領土問題をその原点の江戸時代にまでさかのぼってみると…。
じつは日本でもロシアのものでもなかった?江戸期の北方領土
最初に暮らしていたのはアイヌ民族
1643年、オランダのド・フリーズを船長とする東インド会社探検船が国後島、択捉島、得撫(うるっぷ)島を発見した。ときに徳川3代将軍家光の時代。このときフリースは得撫島に上陸して領有を宣言し、コンパニーランド(会社の島)と命名した。
この歴史的事実を尊重すれば、オランダ人も「返せ!北方領土」である。
その6年後、ロシアのコサック太平洋遠征隊が、千島を発見した。
日本人も千島列島を知らなかったわけではない。それは松前藩が幕府に差し出した地図に、「くなしり(国後)」、「えとろほ(択捉)」、「うるふ(得撫)」など千島列島の名が記されていたことからもわかる。
北方領土はもともとオランダのものなのか、ロシアか、それとも日本のものなのか?
正解はどれでもない。千島列島の千島という名はアイヌ語のチェプカに由来する。ロシア語の呼び名クリルもアイヌ語の「人間」から派生している。
その地には数千年前から千島アイヌが、漁撈をしながら、毛皮を周辺民族と交易して生活していた。
北方領土を発見したのはアイヌ民族で、領有権は彼らのものだったのである。
ロシア人の南下を警戒し、田沼意次が北方に調査隊を派遣
千島列島や樺太の領有権争いが日露の間で始まるのは、江戸時代も後期。ロシア人が毛皮を求めてカムチャツカ半島から千島列島を南下してからである。
1761(宝暦3)年、ロシアのチョヌルイは、アイヌ人が捕獲したラッコなどの毛皮を武力で奪い、得撫島の女性たちを掠奪してハレムまで作った。毛皮を求めてロシア人が進出したカムチャツカ周辺では、19 世紀の間に原住民が 2 万人から 1,500 人に激減したというから、その激減ぶりは想像を絶する。
こうしたロシア人の千島列島南下を深刻に受け止めたのは老中・田沼意次である。1784(天明5)年、初の調査隊を北方に送り込んだ。
賄賂の問屋などといわれ評判の悪い田沼だが、外交問題には先見の明のある有能な政治家だった。
調査隊の使命は、ロシア人の占領している島に最も近い島まで行くことで、一行中の最上徳内は国後島、択捉島を経て得撫島に渡り、そこにロシア人居住地を発見。これを皮切りに日本の北方領土への進出が始まる。
日本とロシアの領土争いの狭間で
1800(寛政12)年、近藤重蔵の一行が小舟で択捉に渡り、その地に「大日本恵登呂府」と書いた柱を建てた。隣の得撫島にはロシア人が住んでいたので、択捉島を日本の最北端の領土としたのである。
その前年には、国後島に南部藩の警備部隊が詰め、択捉島には南部藩と津軽藩の勤番所が設置されている。
駐屯費用は南部藩だけで年間 1 万 4,000 両。米価換算で12億円以上になる。それに酷寒で病死者も続出したという。
この多大な犠牲を払って、これより択捉島以南、樺太南部が日本の領土とされた。
一帯は日本の商人によって漁場が開かれ、地元のアイヌと交易しながらの生活が始まったが、その地の生活ぶりはどうだったか?
幕末に北方一帯を旅した松浦武四郎の『近世蝦夷人物誌』は択捉島について、こう証言する。
「日本の悪徳商人によってアイヌたちは昼夜の別なく酷使された。夫たちが仕事に出た後は、妻や娘たちが乱暴された。これを嫌がる者があれば氷雪の山に追いやるか、荒れ狂う海に船を出させて殺した。女は妊娠しても流産し、男は病にかかるとすぐ死んだ」
日本の商人もロシアの毛皮商人と変わらず暴虐だった。わずか30年で択捉島のアイヌ人口は 2,000 人から 439 人に激減したという。
領土争いでいつも被害者となるのは、そこに生活する人々である。
恐露病のもとを作った間宮林蔵
最初の北方領土紛争は 1806(文化3)年、ロシアの樺太南部襲撃で始まった。ロシアの海軍士官フヴォストフ中尉率いる船が、樺太のクシュンコタンを襲い、放火と掠奪をし、その翌年の4月には択捉島に来襲した。
このときの交戦の模様は南部藩士木村治五平が『私残記』に詳細に記録している。
択捉島のシャナに2隻の船でやってきたフヴォストフの部隊は、まず艦砲射撃を加えた。迎え撃つのは幕吏戸田又太夫以下の南部・津軽両藩の部隊。すでに樺太襲撃の報を受けているので、南部・津軽両藩士は、さっそく攻撃をしようとするが、その場に居合わせた間宮林蔵がおしとどめた。
ご存知、樺太を単独で探検し、間宮海峡を発見したあの間宮林蔵である。
間宮によれば、
「ロシア側の大砲は上陸する際の礼法でござる」
で、間宮の指示で白旗を揚げた使者が海岸に向かって歩いたが、使者はロシア兵の銃弾に内股を射抜かれてもんどりうった。それを見た日本の武士は蜘蛛の子を散らすように逃げた。完敗である。
「間宮殿が知ったかぶりの無駄口をいわなければ、水際でロシア人を攻撃して、追い返せたのに!」
と木村治五平は悔しそうに書く。
上陸してきたロシア人は20名程度、迎え撃つ日本側は 100 人以上だったから、間宮林蔵の知ったかぶりで出端を挫かれなければ撃退も可能だったかも知れない。以後、フヴォストフの一隊は1か月半も周辺を遊弋(ゆうよく)して、掠奪の限りを尽くした。
歴史家は、この敗退が日本人の恐露病形成に大きな影響を与えたという。すると英雄・間宮林蔵は、その軽口で恐露病を生み出した人ということになるのである。
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アイヌが北方領土の先住民
北海道ウタリ協会(アイヌの団体)
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Naiyou/Senjuuminn.htm
アイヌは北方領土の先住民です。アイヌの団体である北海道ウタリ協会は、アイヌが千島・北海道の先住民であることを、日本政府は明確にすべきであるとしています。北海道ウタリ協会の決議を記載します。
「北方領土」問題に関する基本方針 (1983年総会において決議)
北海道ウタリ協会は、昭和57年度総会において、千島列島における先住民族としてのアイヌの権利を留保する旨決議したが、本日の総会において同問題に関する次の基本方針を確認する。
1.政府及び道は、徳川幕府による開発以前の全千島における先住者であるアイヌ民族の地位を再確認すること。
2.政府及び道は、「北方領土」に関連し、北海道についても先住者がアイヌであったという厳然たる歴史的事実を明確にすべきこと。
北海道ウタリ協会は、アイヌが千島列島の先住者たることを、ここに資料を持って立証する。
日本政府の説明
日本政府は、北方領土問題に於いて、アイヌの存在を無視する傾向が強い。たとえば、日本政府外務省発行「われらの北方領土」では、アイヌの言及は無い。また、アイヌの代表が北方領土交渉にはいることを容認していない。
(日本政府外務省発行 われらの北方領土 2005年版から)
択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島からなる北方四島は、我が国民が父祖伝来の地として受け継いできたもので、いまだかつて一度も外国の領土となったことがない我が国固有の領土です。
我が国はロシアより早く、北方四島、樺太及び千島列島の存在を知り、既に一六四四年には、「クナシリ(国後)」島、「エトホロ(択捉)」島等の地名を明記した地図(正保御国絵図)が編纂され、幾多の日本人がこの地域に渡航していました。我が国の松前藩は、十七世紀初頭より北方四島を自藩領と認識し、徐々に統治を確立していきました。
政治家も、アイヌの存在を無視した発言をしている。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Naiyou/Senjuuminn.htm
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