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(回答先: 擦文文化は農耕文化で、日本人から鉄製農具を買って農耕していたのですが、擦文時代が終わってから、アイヌ人の祖先は日本人と… 投稿者 中川隆 日時 2025 年 7 月 18 日 00:52:00)

宇山卓栄は日本人とアイヌ人との関わりの歴史を全く知らないんだね。
アイヌ人は人類学的には日本列島の縄文人と近く、約3万8千年前に海を渡った本州以南との交易も行われた。本州以南で農耕文化の弥生時代が始まったころ、北海道では狩猟採集の続縄文文化が継続。オホーツク人と緊張状態にあった続縄文人からの要請を受け、王権の介入(阿倍比羅夫の蝦夷征討)が見られた7世紀以降、東北地方から石狩低地帯への古墳文化人の子孫の移住が見られ、これをきっかけに擦文文化が始まる。移住者たちは江別古墳群や祭祀に用いる語彙などの痕跡を残したが、地元人と同化したとみられている。
その後、北海道にあった擦文文化を基礎に、オホーツク文化と本州の文化を摂取してアイヌ文化は生まれたと考えられている。擦文文化やオホーツク文化はアイヌ文化に影響を与えている。遅くとも平安時代末ころから道南に和人の定着が始まり、蝦夷管領安東氏の存在した13〜14世紀になると、農耕も開始された。
またアイヌからオロッコと呼ばれたウィルタともアイヌは交易していた。1457年には道南でコシャマインの戦いが生じ、勝利した蠣崎氏が台頭した。蠣崎氏を祖先とした松前藩はアイヌとの交易を独占し、アイヌから乾燥鮭・ニシン・獣皮・鷹の羽(矢羽の原料)・海草を入手し、対価を鉄製品・漆器・米・木綿などで支払っていた。
また、清から伝わった蝦夷錦などの衣服を当初はアイヌを介し輸入した(山丹交易)。北千島を除き、郷村制が敷かれ、アイヌの有力者を役蝦夷に任命。アイヌは百姓身分に位置づけられていた。1669年のシャクシャインの戦い後には、交易はアイヌにとって不利な条件となった。
江戸幕府はロシアからの軍事圧力に対抗して蝦夷地を幕府直轄領とした。幕末、箱館奉行によって、アイヌも和人も分け隔てなく疱瘡対策の種痘を行い、同時にアイヌの呼称は「蝦夷」から「土人」に改称された。これは当時、純粋に「土地の人」や「地元の人」の意味で用いられた言葉である。
1855年2月7日(安政元年12月21日)の当時のロシア帝国との日露和親条約により、当時の国際法の下、一部がロシア国民とされた。
明治2年(1869年)、蝦夷地は北海道と改称され、同時に開拓が本格的に開始される。屯田兵や一般の農民が次々と入植し、和人の人口が増加した。戸籍制度において、アイヌの人々は日本国の「平民」とされるが、イオマンテや入墨、耳環など、アイヌ伝統の文化は「陋習」とみなされた。1871年には女子の入墨とチセウフイカ(故人を弔うためその家を焼く風習)が禁止される。
同時に「旧土人学校」(アイヌ学校)が各地に設立され、教育は日本語で行われた。1875年、アイヌは地租改正により和人に土地の所有権を奪われて移住を余儀なくされた上、動物の減少を防ぐために伝統な狩猟、漁撈も制限され、生活も困窮の道をたどる。対策として、政府は1899年に北海道旧土人保護法を施行し、無償医療の提供、冬季生活資料の給付、土地の無償下付や農具の給付など、様々な救済措置を実施した。しかし北海道は元来、農地に適していない土地が多く、また充分な農業指導が行われなかったため、アイヌの生活改善は遅れた。
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日本人はこうやって千島アイヌを民族浄化した
とこしえに地上から消えた千島アイヌとその文化―日本人が自ら葬り去った異文化―
アイヌ文化には三つの文化圏がある。すなわち「北海道」島に栄えた北海道アイヌ、樺太(ロシア領サハリン)島南部に栄えた樺太アイヌ、そして、中部千島・北千島(ロシア領クリール諸島)に栄えた千島アイヌである。
このなかで、千島アイヌはそのひとを含め、文化・言語は今日にまったく伝わらないのである。国際交渉の陰で、しかもきわめて平和裡に、日本人は地上から一つの文化を葬り去ったのである。
「1884年の日露両国間の協定によって、樺太はロシアに、千島列島は日本に帰することになった。その後、日本は総人口わずか九七人のものが群島の各地点に分散している極北の新しい国民の憐れな状態に憐憫の情をもよおし、彼らを絶滅から救うことを願った。そのため、彼ら全員を、はるかに豊で気候も温暖なシコタン島へ移住させた。ここは蝦夷の根室地方とクナシリ島の間にあり、千島列島の最南端に位置する。しかし、憐れな彼らにとってそこが楽園となったであろうか。否、無益であった…」(鳥居竜蔵『千島アイヌ』序)。
日露間で締結された「樺太千島交換条約」によって、樺太はロシアに割譲され、全千島列島が日本の版図となった。このとき、日本政府は先住民であるアイヌの人びとをも同時に自らの民に加えた。樺太アイヌは北海道に強制移住させられ、当初は樺太に程近い稚内のメグマに居住地が定められたが、じきに札幌近郊の対雁(ツイシカリ、現在の江別市内)に移された。
シムシュ島、ホロムシリ島などに住む千島アイヌが移された先が、鳥居の序文にあるシコタン島である。
このいずれもが、かれらがロシア人と通交をおこなって、結果的に日本に不利となる行為を働くことを危惧してのものであった。
明治36年の戦争の結果、樺太アイヌはそれでも故郷に帰りえた。しかし千島アイヌは、そこが日本領土であったにもかかわらず、帰ることはできなかった。望郷の想いにかられながらも、かれらは北海道とその付属島嶼(島々)のなかで、みずからの文化を放棄せざるを得なかった。今日、千島アイヌの文化を伝えるひとはただのひとりも存在しない。
千島アイヌの強制移住
1884年(明治17年)に占守島や幌筵島、及び中部千島の羅処和島に居住していた千島アイヌの人々が色丹島に強制移住させられた。
移住した千島アイヌに対しては農地が与えられ、また牧畜や漁業も奨励されたが、元々が漁撈民であった彼らは慣れぬ農耕に疲弊し、多くが病に倒れ命を失った。
因みに、生き残ったアイヌ人の青年は全員太平洋戦争で沖縄の最前線に送られ、そこで絶滅させられました。
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