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海外で日本人が受ける「人種差別」の現実…「ニイハオ問題」についてもっと認識すべきこと/現代ビジネス
小山 のぶよ
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E6%B5%B7%E5%A4%96%E3%81%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%8C%E5%8F%97%E3%81%91%E3%82%8B-%E4%BA%BA%E7%A8%AE%E5%B7%AE%E5%88%A5-%E3%81%AE%E7%8F%BE%E5%AE%9F-%E3%83%8B%E3%82%A4%E3%83%8F%E3%82%AA%E5%95%8F%E9%A1%8C-%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A8%E8%AA%8D%E8%AD%98%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%8D%E3%81%93%E3%81%A8/ar-AA1GZbtq?ocid=msedgdhp&pc=U531&cvid=a6267081bba043a391b7833607e9f25c&ei=13
海外で日本人が遭遇する「理不尽」
海外を旅行していたり、長期で居住していたりすると、多かれ少なかれ理不尽な状況に遭遇することがある。
言葉が通じない外国人だから現地の人と同様に扱ってもらえなかったり、たとえ外国語に堪能であっても現地の人々のコミュニティーに溶け込めなかったり。自国以外の土地で生きていくことは、なかなかに苦労が絶えないものだ。
そして時には、人種差別という形でこの理不尽さが表面化することも珍しくない。
SNS上では、異国での嫌な体験談や差別的な行為を受けたエピソードなどについて、よく投稿されては議論を生んでいる。誰が見ても明らかな差別である場合もあれば、「それは投稿者が少し考えすぎなのではないか」と感じるエピソードも中にはある。差別というものは、客観的な線引きがなかなかに難しい部分があるのだ。
SNSで話題になる“ニイハオ”問題
そんな中で、筆者が最近見かけた投稿がある。「海外旅行中に訪問した観光地で、お土産屋や飲食店で働く現地の人に”ニイハオ”と中国語で声をかけられたのが不快」という内容だ。その投稿を詳しく見てみると、どうも「日本人なのに中国人に間違えられたのが心外だ」という話のようだった。
ある程度海外経験の長い日本人であれば、おそらく誰もが一度は経験したことがあるであろう「現地の人に”ニイハオ”と挨拶される」という問題。これに対し、SNS上ではさまざまな反応が見られる。
「見た目では日本人と中国人の区別がつかないから仕方がない」という意見や、「向こうは馬鹿にして言ってきているのだから怒るべき」という意見、「中国人と間違えられて不快に感じるのは、日本人が中国人に対して差別意識を持っているからだ」という意見などが代表的な反応だろうか。ニイハオ問題に対する考えは人によってかなりばらつきがあり、議論は常に平行線のままの印象を持つ。
実は、海外で受ける「ニイハオ」の挨拶は、「日本人なのに中国人に間違えられている」という単純な話ではない。より根深いアジア人差別の問題を孕んでいる場合もあるのだ。今回は、日本人が海外で現地の人から言われる「ニイハオ」を通して、諸外国の人がアジア人に対して抱く差別意識について考えていきたい。
アジア系=ニイハオは合理的?
日本人が旅行者として海外に出る際、現地の人から最も多く受ける挨拶は英語の「ハロー」だ。海外で「ハロー」と英語で挨拶された際に、「私は日本人なのに、母語ではない英語で挨拶されて不快だ」と感じる人などいないだろう。
英語はもはや国際共通語としての地位を確固たるものとしている。相手が英語圏の出身者であろうがなかろうが、外国人とは英語を使って会話することが世界的なスタンダードとなっている。なので、「英語で挨拶され、それが自身の母語ではないから不快に感じる」というケースは発生しにくいのだ。
ではどうして、私たち日本人の中には海外で「ニイハオ」と挨拶されることにネガティブな感情を抱く人がいるのだろうか。その答えは単純明快で、「私は中国人ではないから中国語で挨拶されることが嫌だ」だろう。
しかしながら海外の人にとって、中国人と日本人、さらにはその他のアジア各国の人々の出身を外見で見分けるのは至難の業だ。私たち日本人であっても、アジア各国の人々の国籍を外見だけで見分けるのはとても難しい。逆に私たち日本人がノルウェー人とスウェーデン人、デンマーク人を見た目だけで百発百中で見分けられるかと問われたら、まず不可能であろう。
そういうわけで、「アジア系の風貌の人=中国人」だと短絡的に考えられてしまうのは仕方がない部分はある。何といっても人口が桁違いだし、各国における中国の経済的な存在感もかなり強いためだ。
お土産物屋や飲食店での場合
なので、日本人が海外で「ニイハオ」と挨拶される際、現地の人には全く悪気がないケースもある。「見た目がアジア系=中国人だろう=知っている中国語で挨拶してあげよう」といった考えなのかもしれない。このように、アジア系の旅行者に対してわざわざ「ニイハオ」と言ってくるケースは、特に観光地のお土産屋や飲食店の客引きに多いように思う。
こうした「悪意のないニイハオ」への対処法として多くの日本人がしてしまいがちな反応が、「私は日本人だ!」と主張したり「ニイハオじゃない!こんにちは!」と訂正させようとしたりするものだ。気持ちは分からないでもないが、これらはスマートな対応ではないように思える。
なぜなら、現地の人にとってはこちらが中国人であろうが日本人であろうが大した問題ではないためだ。単に「アジア系=ニイハオ」という固定観念がある人もいれば、「アジアでは中国人の人口が圧倒的に多いのだから中国語で挨拶するのが合理的」といった考えに基づいて、わざわざ中国語で挨拶してくる人もいる。
それに、中国人旅行者には外国で「ニイハオ」と自分たちの言葉で挨拶されることを好意的に捉える人が多い。商売戦略的にも、アジア人観光客を見たらとりあえず中国語で声かけするのは、現地の人にとっては合理的なのだろう。
上手に切り抜ける方法
こうした前提の上で、アジア人を見て「ニイハオ」と言ってくる現地の人には、必ずしも悪意があるわけではない。むしろ「せっかくだから相手の言葉で挨拶してあげよう」とポジティブな理由から「ニイハオ」と言ってくる人もいる。
それに対して頭ごなしに「ニイハオじゃない!こんにちは!」と躍起になって訂正しようとするのは、なんとも無粋ではなかろうか。日本で欧州からの旅行者を見かけて「ハロー」と挨拶したら「ハローじゃない!私はフランス人だ!ボンジュール!」などと怒って返されたら、正直困ってしまうのと同様に。
「悪意のないニイハオ」を言われた経験は筆者にも多々あるが、対処法は常に同じだ。それはニイハオに対して「ハロー」とだけ英語で返すこと。そうすることで、「自分は中国人ではないからニイハオとは言わない」と暗にほのめかすことができるし、変に日本人アピールすることにエネルギーを使わずに済む。
私たちが「欧米系の風貌の人=英語がぺらぺらなはず」といった固定観念を持ちがちなのと同様に、「アジア系=中国語を話すはず」と外見で一緒くたにされてしまうのは、もはやどうしようもない部分がある。だからこそ、上手に対応してその場を切り抜けるのがベストではないだろうか。
差別意識に基づいた「悪意のあるニイハオ」
さて。ここまでは「悪意のないニイハオ」について解説してきたが、実は日本人が海外で言われる「ニイハオ」にはもう一つの種類がある。それはアジア人を馬鹿にしてやろうという差別意識に基づいた「悪意のあるニイハオ」だ。
このニイハオは、単なる挨拶として言われるわけではない点が、すでに紹介した「悪意のないニイハオ」との最大の違いだ。ニヤニヤしながら何度もニイハオと連呼してくるだけでも嫌な気分にさせられるが、ニイハオの後にアジア人に対する差別的な言動(よくあるのは「ちんちゃんちょん」等)や、カンフー映画の真似、吊り目ポーズなどの差別的な行為とセットであることも少なくない。
これに対して「私は中国人ではなく日本人だ!」や「ニイハオじゃなくてこんにちは!」等と返しても無意味だ。なぜなら、相手はこちらを中国人だと思って「悪意のあるニイハオ」を投げかけてきているわけではなく、アジア人を馬鹿にしてやろうという気持ちで言ってきているためだ。そこには、中国人や日本人や韓国人や...といった国籍の違いは関係ない。「アジア人だから差別しても良い、馬鹿にしてやろう」という感覚で行われているのだから。
そして、この「悪意のあるニイハオ」が含有する差別意識や侮蔑的な感情というものは、同じ言葉や同じ文化を共有してない人間同士であっても伝わってくるのだ。そこには目線、表情、声色、行動...などさまざまな要因があるのだろうが、おそらく経験したことがある人は全員一致で「ニイハオに含められた悪意は必ずこちらに伝わる」と言うのではないだろうか。
「ニイハオ」という表現の中の悪意の有無というものは、実際に体験してみないとイメージが湧きにくいかもしれない。しかし残念なことに、海外でアジア系が言われる「ニイハオ」には、悪意が含まれたものの方が多いように筆者は思う。
議論がいつも平行線を辿るワケ
SNSでもよく話題に上がっては、議論を巻き起こす「ニイハオ問題」。筆者のように実際に体験したことがある人間にとっては、「悪意のないニイハオと悪意のあるニイハオは似て非なるものである」という認識である場合がほとんどだが、そうではない主張も見られる。
「日本人が”ニイハオ”と言われて不快に感じるのは、中国人に間違われたことが不快であるからだ。つまり日本人は中国人を下に見ており、ニイハオと言われて不快に感じることこそ差別ではないか」という意見も少なくない。しかしこれは完全に的外れだし、実際に悪意がこもったニイハオを体験したことがない人の意見なのだろうと感じてしまう。
先述の通り、たった一言の「ニイハオ」でも相手が差別的な意識を持って言っているのかそうでないのかは、必ずこちらに伝わる。相手に悪意がない場合に「なんで中国語なんだ!」と怒るのは無粋だし、それこそ中国の人に対して失礼であろう。しかし、相手に悪意がある場合の「ニイハオ」というのは、不快に感じて当たり前だ。なぜなら、差別的な悪意がその一言からじわりじわりとにじみ出ているのだから。
この「悪意の有無」という根本的な前提をごちゃまぜにした状態で話が進められてしまうから、ニイハオ問題に対する議論は永遠に平行線となってしまう。実際に嫌な体験をした人からすれば「ニイハオから悪意を感じ取って不快に思う」のは当然だし、嫌な体験をしたことがない人からすれば「単なる挨拶であるニイハオを不快に思うのは中国人に対して失礼だ」となってしまう。そもそも議論の前提が共通していないのだ。
根底にある差別意識や偏見
ニイハオ問題のみならず、アジア系の人間に対する差別は世界中で根深い。筆者自身もさまざまなケースの差別を体験してきたが、どう対応するのが最適解であるのかはいまだに分からずにいるというのが本音だ。
国や地域によってアジア人差別の背景や要因には多少の違いがあるのはもちろんだが、共通しているのは「アジア人は馬鹿にしても問題ない」という意識が一部の人たちの間に広がってしまっている点だ。そこには家庭や学校での教育の問題であったり、他文化に対する理解の浅さであったりと、さまざまな要因がある。しかし「自分がされて嫌なことを他人にしない」という普遍的な道徳観念が理解できない人というのは、残念ながら世界には少なくない。
それでは、こうした差別に対して私たちはどう対処したら良いのだろうか。今回分析した「悪意のあるニイハオ」に限っても、その対処は簡単ではない。
多くの人は「無視すれば良い」と考えるのではないか。確かに、無視すれば状況がエスカレートすることは稀だし、こちらが嫌な気持ちを我慢すればその場は済む。
しかし、それでは状況は何も変わっていかないというジレンマも同時に感じてしまう。「アジア人は馬鹿にしても言い返してこない」という点も、アジア人に対するあからさまな差別行為が蔓延している要因の一つであるようにも思える。差別を受ける側である私たちがぐっと我慢して無視しているだけでは、私たちの子供や孫の世代になっても何一つ状況は変わらないままなのではないか。
それでは、差別に対して無視することなく、その場で怒りを露わにするべきなのだろうか。それもそれで難しい部分がある。差別に対し正面から立ち向かうことでトラブルに巻き込まれる可能性だってあるし、怖いと感じる人も少なくないだろう。
このように、差別に対してどう対処するのがベストなのかを考えるのは、簡単なことではない。「どうして差別をされる側である私たちがこんなことを考えなければならないのだ」と感じるのももっともだ。
日本人がもっと認識しなければいけないこと
筆者が一つ希望を持っていることがある。それは、現在はあまり表面化していない「アジア人に対する差別」や「アジア人であることの生きにくさ」に対し、スポットライトが当たって問題視され、広く認識される未来が来ることだ。
黒人差別や女性差別、LGBTQ差別など、世界にはさまざまな差別が昔も今も存在しつづけている。そのいずれも、世論が差別をなくす方向へ自然と変わっていったわけではない。差別をされる側が声を上げることで広く認識され、差別をする側の考えが改められつつあるのだ。
アジア人差別をより可視化し、世界に存在する問題として認識させるためには、差別対象である私たちアジア人が一斉に声を上げることが重要に思える。「海外で中国人に間違えられるのが不快」と言っている場合ではないし、「日本人は世界中で好かれている」という幻想に浸っている場合でもない。
まずは「日本人であろうと、アジア人であるというだけで差別の対象となりうる」という点に関して、もっと多くの日本人が認識しなければならない。そして、アジア各国の人々と声を合わせて怒りを訴えかけてゆく必要があるのではないか。後の世代が理不尽さや嫌な思いをせずに済むためにも。
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