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現代人はこの世界は原子が勝手にくっついてひとりでに出来上がったと考えています。しかし物と物をくっつけそれを動かしている究極的な動力を考えたとき、そこには超自然的な存在を見いださずにはいられません。それを神と呼んでもいいのでしょう。でも科学万能のこのご時世に神とか言われてもピンとこない、というのがほぼ全ての日本人に共通する感覚だと思います。それでも科学が優位を占める世界でも神の存在を証明することは可能なのです。それじゃあもし実際に神がいるとしてそれがどうしたというのだ、と言う人もいるでしょう。何も御利益がなければそう思うのも無理はないことですが、日本人が神の存在を認め、その心を知り、それを道として実践していくことは日本のみならず世界にとっても必要なことなので、これから神が実在することを証明していきたいと思います。
神が存在することを証明する上で必要なこととして、まず最初に王について考えたいと思います。王は何故存在する、あるいはしたのか。今日では君主制は人類がまだ未熟だった時代の産物だと考えられています。あの時代はまだ個人の力が弱く十分に啓蒙されておらず、自由・平等という普遍的価値を知らなかったために人々は王が行使する専制権力の支配に服従するしかなかったのだ、というのです。しかし、それなら何で自由・平等の理念を実現するために起こったフランス革命で虐殺が行われたのでしょうか。フランス革命の虐殺は旧体制の特権にしがみ付く不平分子を一掃するためにやむを得ない犠牲だったと言う人もいるでしょう。ところが革命後は産業資本を持つブルジョアジーが次第に権力を握り支配階級の座に付き、国民の間では貧富の差が広がっていきます。フランス人は金の亡者になったのです。
ブルジョワジー-Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AF%E3%82%B8%E3%83%BC
フランス革命が掲げた自由・平等の理念が目指したのは、王の専制的支配から個人を守るというものでしょう。この個人を尊重するという価値観はこの世界が目に見えるもの、つまり物質だけで成り立っているのなら絶対的に正しいものに感じるでしょう。しかしその自由・平等の理念が人々の間で金銭支配を強め人間を欲の亡者へと駆り立てていった事実を見たとき、この世界は目に見える物質の間に働いている力だけではなく、それを超えたところで働いている力もあるのではないか。王はその力の内で人間を欲の亡者にすることを食い止める防波堤の役割を果たしていたのではないでしょうか。この説を裏付けるものとして次の貴重な証言があります。
カール・レーヴィット「ヨーロッパのニヒリズム」より
「前世紀の後半に於いて日本がヨーロッパと接触し始め、ヨーロッパの進歩を嘆賞すべき熱っぽい速さを以て受け取った時は、ヨーロッパの文化は、外的には進歩し世界を征服していたとはいえ、内実は既に衰退していたのである。しかし十九世紀のロシア人と違って当時の日本人は、ヨーロッパ人と批判的に対決しなかった。そしてボードレールからニーチェに至るヨーロッパの最上の人物がさすがに自己及びヨーロッパを看破して戦慄を感じたものを、日本人は初め無邪気に無批判に残らず受け取ってしまった。・・・・・・日本人がいよいよヨーロッパ人を知った時は既に遅かった。その時はもうヨーロッパ人はその文明を自分でも信じなくなっていた。而(しか)もヨーロッパ人の最上のものたる自己批判に日本人は少しも注意を払わなかった」
カール・レーヴィット-Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%88
エドマンド・バークを初めとしてフランス革命の暴力性を批判した思想家がいたことは広く知られていますが、日本ではあまり知られていないのですが大革命後のフランスそのものを批判した知識人もいたのです。
イポリット・テーヌ-Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%8C
こうなるともう認めるしかないのではないでしょうか。人間を単一の個体として存在しているとする唯物主義的な世界観は誤りである、と。
「聖書は、あらゆる宗教に対して、信仰しているか否かに関わりなく、地球の世話人義務を履行しなかった場合のことを普遍的に警告している。この地球の世話人契約が最初の重要な契約であることからも、人類は初めから環境を破壊する可能性があることが分かっていたに違いない。預言書は、そのように人類が失敗する可能性があることを多く伝えている。また、しばしば悪魔と呼ばれる「この世界の王」という概念がある。これは、ややもすれば精神的な領域よりも誤って物質世界を選んでしまいがちな人間を単純化して表現したものと言ってよい。多くのドグマは、「物質」に執着する悪魔を打倒するためには、いっそのこと「物質」世界を破壊すればよいと説いている。そのように短絡的で自滅的な考えは、論点を外しており、地球の世話人業務とは何の関係もない。人間を罪に駆り立てるという悪魔の力も、マネーの力を使って生命をコントロールするモロクの宇宙的なエネルギーに比べれば、見劣りがするというものだ。」(R・D・ウィリング『マネー/金融システム闇の超起源』徳間書店 46頁)
「宇宙は霊の霊と物質とからなつてゐるぞ。人間も又同様であるぞ。宇宙にあるものは皆人間にあり。人間にあるものは皆宇宙にあるぞ。人間は小宇宙と申して、神のヒナガタと申してあらう。人間には物質界を感知するために五官器があるぞ。霊界を感知するために超五官器あるぞ。神界は五官と超五官と和して知り得るのであるぞ。この点誤るなよ。霊的自分を正守護神と申し、神的自分を本守護神と申すぞ。幽界的自分が福守護神ぢや。本守護神は大神の歓喜であるぞ。」(日月神示 『冬の巻』第一帖)
日月神示によれば物質を形作る世界の背後には霊の世界があるというのです。それでは人間はその中でどういう存在なのでしょうか。
「祈りとは意が乗ることぞ。霊の霊と霊と体と合流して一つの命となることぞ。実力であるぞ。想念は魂。魂は霊であり、霊の世界に属し、霊に生きるのであるぞ。ものは霊につけられたもの、霊の霊は、霊につけられたものであるぞ。ものにはものの命しかない。真の命は霊であるぞ。生命のもとの喜びは霊の霊であるぞ。霊の霊が主ざと申してあらう。奥の奥の奥の・は大神に通ずる・であるぞ。喜びであるぞ。・ある為めに人間となり、人間なるが故に神となり、神なるが故に喜びであるぞ。他のいきものにも・はあれど、外の・であるぞ。」(日月神示 『黒鉄の巻』第三十二帖)
「考えること、意志すること、行為することの根本は、肉体からではない。霊的な内奥の自分からである。この内奥の自分は、神につながっている。故に、自分自身が考え、意志し、行為するのではなく、自分と云うものを通じ、肉体を使って、現実界への営みを神がなし給うているのである。其処に、人が地上に於ける司宰者たる、またたり得る本質がある。」(日月神示 『二日ん(ジシン)の巻』第十六帖)
アダム・カドモン-Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%89%E3%83%A2%E3%83%B3
人間はその内奥で神につながっているというのです。つまり人間は物質世界では個別の存在として現れているとしても根源では一つなのです。その中で王は、霊と物の双方が合わさることで成り立っているこの世界で全体を背負う者として万物の根源である元の大神の意を受け、それを反映することで地上に秩序をもたらす責務を負っている存在なのではないでしょうか。
「皆々縁ある者ここに引き寄せるから、そのつもりでおりて下されよ。円居は作らねばならんが、惑い違いであるぞ。金とって信者増やすような宗教や教会ではもう立たれんぞ。宗教無くいたすのであるから、一つの王(みち)でこの世治めるのであるから、蔭の世は終わったのであるぞ。人民は近欲ざから見えんなれど、大き目で見ればよく分かるのざぞ。」(日月地神示「お」の巻)
「神の目には外国もやまともないのざぞ。みなが神の国ぞ。七王も八王も作らせんぞ、一つの王で治めさすぞ。」(日月神示『地(九二)つ巻』第十五帖)
「神をだしにして、今の上の人がゐるから、神の力が出ないのぞ。お上に大神を祀りて政事(まつりごと)をせねば治まらん。」(日月神示『上つ巻』第四帖)
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