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対中露戦争の準備が進められている沖縄で「沖縄全戦没者追悼式」が開催された(櫻井ジャーナル)
http://www.asyura2.com/25/warb26/msg/212.html
投稿者 赤かぶ 日時 2025 年 6 月 24 日 01:30:30: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

対中露戦争の準備が進められている沖縄で「沖縄全戦没者追悼式」が開催された
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202506230001/
2025.06.23 櫻井ジャーナル

 第2次世界大戦後、沖縄はアメリカの重要な戦略的拠点になった。そのアメリカの戦略に従い、南西諸島にはミサイルの発射基地が建設されている。新たな戦争の準備を進める沖縄で、6月23日には「戦後80年沖縄全戦没者追悼式」が開催された。

 南西諸島から台湾にかけての島々は日本軍にとって「不沈空母」とみなされていたようだが、これは戦後のアメリカ軍にとっても同じことである。そこでアメリカ軍は1950年代に「銃剣とブルドーザー」で土地を強制接収、軍事基地化を推し進めた。1955年の段階で沖縄本島の面積の約13%が軍用地になっている。

 沖縄基地化の背景にはソ連に対する先制核攻撃計画が存在していた。1945年9月15日付けの文書ではソ連の主要66地域を核攻撃で消滅させるとされ、それには204発の原爆が必要だと推計。そのうえでソ連を破壊するためにアメリカが保有すべき原爆数は446発、最低でも123発だとしているが、その当時、アメリカはこれだけの原発を持っていなかった。(Lauris Norstad, “Memorandum For Major General L. R. Groves,” 15 September 1945)

 その後の計画は実態が伴うものになり、1957年に作成されたドロップショット作戦では300発の核爆弾をソ連の100都市に落とすることになっていた。テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授(経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイスの息子)によると、1961年7月に軍や情報機関の幹部はジョン・F・ケネディ大統領に対して先制核攻撃計画の内容を説明している。1963年の後半にはソ連を核攻撃するというスケジュールになっていた。その頃になれば、先制攻撃に必要なICBMを準備できると信じていたからである。

 ソ連に対する先制核攻撃を実行しようという動きが出てきた当時の統合参謀本部議長ライマン・レムニッツァーは1955年から57年にかけて琉球民政長官を務めている。

 この計画を大統領は拒否、1961年11月にアレン・ダレス長官や彼の側近で秘密工作部門の責任者だったリチャード・ビッセル計画局長らを解任、チャールズ・キャベルCIA副長官も62年1月に辞めさせた。そして1963年6月10日に大統領はアメリカン大学の卒業式で「平和の戦略」と呼ばれる演説を行い、ソ連と平和共存する道を歩き始めると宣言するのだが、11月22日にダラスで暗殺された。

 そして​2016年、与那国島でミサイル発射施設が建設された。それに続いて2019年には奄美大島と宮古島、そして23年には石垣島でも施設が作られている​。これはアメリカの軍事戦略に基づくもので、中国や朝鮮を攻撃する準備にほかならない。




 その軍事戦略をアメリカ国防総省系シンクタンク「RANDコーポレーション」は2022年の4月に説明している。GBIRM(地上配備中距離弾道ミサイル)で中国を包囲するという計画を公表したのだ。アメリカはヨーロッパでロシアとの国境近くにミサイルを配備してきたが、東アジアでも同じことをしようとしている。「戦前X年」と言える状況になっている。

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コメント
1. 赤かぶ[245857] kNSCqYLU 2025年6月24日 01:45:52 : Opexvnbdmg : eXdJaHN2ZEJkQy4=[525] 報告
<▽37行くらい>

【沖縄「慰霊の日」】6月23日 戦闘終結から80年

2025/06/23 日テレNEWS

太平洋戦争末期の沖縄戦で旧日本軍の組織的な戦闘が終結したとされる日から23日で80年。沖縄は「慰霊の日」を迎えます。

この動画の記事を読む>
https://news.ntv.co.jp/category/socie...

沖縄戦最後の激戦地となった糸満市摩文仁にある平和祈念公園では23日正午前から、「全戦没者追悼式」が行われ、玉城知事が「平和宣言」を読み上げます。

石破首相が出席するほか、去年ノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会の田中重光・代表委員や、国連の軍縮担当幹部も初めて招待されています。

軍隊と住民が混在し、せい惨な地上戦となった沖縄戦では、日米双方であわせて20万人以上が亡くなったとされ、当時の沖縄県民の4人に1人が命を落としました。

戦争体験者が少なくなる中、先月には、戦後生まれの自民党の国会議員が沖縄戦の記録展示について、「歴史の書き換え」だと発言し、 波紋や反発が広がったばかりで沖縄戦の記憶の継承が課題となる「慰霊の日」となりそうです。

(2025年6月22日放送)

2. 赤かぶ[245858] kNSCqYLU 2025年6月24日 01:49:41 : Opexvnbdmg : eXdJaHN2ZEJkQy4=[526] 報告
<△21行くらい>

残像1945 写真で振り返る沖縄戦 6月23日「慰霊の日」

2025/06/23 毎日新聞

1945年3月26日、米軍は沖縄本島の西に浮かぶ慶良間(けらま)諸島の島々に相次いで上陸。日米両軍による地上戦が始まり、約3カ月に及んだ戦闘で日米合わせて約20万人が死亡した。今年も犠牲者を追悼する「慰霊の日」を迎える。(1945年の写真は米軍撮影で沖縄県公文書館所蔵)2025年6月23日公開

関連記事→https://mainichi.jp/articles/20250620/k00/00m/040/143000c

3. 赤かぶ[245859] kNSCqYLU 2025年6月24日 01:54:20 : Opexvnbdmg : eXdJaHN2ZEJkQy4=[527] 報告
<■228行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>

「生き延びたから命がつながった」語らなかった祖母から受け継ぐ沖縄戦 戦後80年【報道ステーション】(2025年6月23日)

2025/06/24 ANNnewsCH

太平洋戦争末期、日本唯一の絶望的な地上戦の現場となった沖縄は、組織的な戦闘が終結した6月23日を「慰霊の日」と定め、祈りに包まれます。軍幹部は市民を根こそぎ戦争に巻き込みました。沖縄県内に21あった師範学校・中等学校にも動員がかけられ、おびただしい数の10代の学徒たちが犠牲になりました。あれから80年、生き残った学徒たちも、多くの方がすでにこの世を去っています。それでも平和を願って記憶を語り継ぎ、記録を残そうと努力する人たちがいます。

■記憶をたどり歴史の伝承へ

沖縄戦が終結して80年。軍民、国籍を問わず、戦没者一人ひとりの名前が刻まれている『平和の礎』には今年も新たに342人の名前が刻まれ、その数は24万2567人に上りました。

大越健介キャスター
「ここに来るたびに思うのですけど、礎に刻まれた人の名前の数の膨大さに圧倒されます。これだけの人の名前を明らかにするだけでも、きっと大変な作業だったんだろうと想像しますし、それは今も続いていて、ここに記される戦没者の名前は今も増え続けています。そして80年という月日を経たこともあるのかもしれませんが、今年は特に若い人たちの姿が目立つ印象を持ちます」

沖縄県 玉城デニー知事
「この地で繰り広げられた、住民を巻き込んだ沖縄戦の実相と教訓を、県民一丸となった不断の努力によって世代を超えて守り伝え続けていくことは、今を生きる私たちの使命ではないでしょうか」

石破茂総理大臣
「私たちが享受している平和と繁栄は、この地で命を落とされた方々の尊い犠牲と、沖縄の歩んだ筆舌に尽くし難い苦難の歴史の上に築かれたものです。改めて深く胸に刻みながら、静かに頭を垂れたいと思います

■平和の詩「つないでくれた命」

これからの沖縄を担う児童・生徒の作品から選ばれた、今年の平和の詩『おばあちゃんの歌』。

伊良波小学校6年 城間一歩輝さん
「毎年、ぼくと弟は慰霊の日におばあちゃんの家に行って仏壇に手を合わせウートートーをする
1年に1度だけおばあちゃんが歌う
『空しゅう警報聞こえてきたら 今はぼくたち小さいから 大人の言うことよく聞いて あわてないで さわがないで 落ち着いて 入っていましょう防空壕』
5歳の時に習ったのに80年後の今でも覚えている
笑顔で歌っているから 楽しい歌だと思っていた
1年に1度だけおばあちゃんが歌う
『うんじゅん わんにん 艦砲ぬ くぇーぬくさー(あなたも私も艦砲の食べ残し)』
泣きながら歌っているから悲しい歌だと分かっていた
歌った後に『あの戦の時に死んでおけば良かった』と言うからぼくも泣きたくなった
沖縄戦の激しい艦砲射撃でケガをして生き残った人のことを『艦砲射撃の食べ残し』と言うことを知って悲しくなった」

城間さんの祖母はご先祖様に手を合わせる、ウートートーの後にしか戦争の話をしないといいます。

伊良波小学校6年 城間一歩輝さん
「手榴弾を壕の中に投げられおばあちゃんは左の太ももに大けがをした
うじがわいて何度も皮がはがれるから
アメリカ軍の病院でけがをしていない右の太ももの皮をはいで
皮ふ移植をして何とか助かった
おばあちゃんに生きていてくれて本当にありがとうと伝えると
両手でぼくのほっぺをさわって
『生き延のびたくとぅ ぬちぬ ちるがたん』
生き延びたから命がつながったんだねとおばあちゃんが言った
人の命を奪い苦しめる戦争を2度と起こさないように
おばあちゃんから聞いた戦争の話を伝え続けていく
おばあちゃんがつないでくれた命を大切にして
一生懸命に生きていく」

■語らなかった祖母から受け継ぐ

詩を詠み終えて、祖母らと向かったのは平和の礎。赤嶺俊弘さんは1歳で亡くなった祖母の弟です。詩で詠んだ、1年に1度だけのウートートー。

城間さんの祖母 比嘉キヨ子さん(85)
「私が一生傷だらけの人生を送るより、死んでも良かったと思う時もあると聞かせると泣く。『おばあがいて良かった』と」

(Q.どうせなら死んだ方が良かったと言った時、どんな気持ちに)
伊良波小学校6年 城間一歩輝さん
「悲しい。『艦砲射撃の食べ残し』のことを聞いて悲しい」

(Q.そのことを聞かれてつらいところも)
城間さんの祖母 比嘉キヨ子さん
「ありますけど、孫のためだから全部教えないと。初め教えたくなかった。恥ずかしい。みんなにけがを知られたら困る。孫が大きくなったから教えないと」

(Q.おばあさんの話を、これからも伝えていかないといけない気持ちは)
伊良波小学校6年 城間一歩輝さん
「ある。戦争を起こしたらだめだから、ちゃんと伝えないといけない」

■『ひめゆりの塔』石破総理が訪問

今年、注目を浴びた慰霊祭がもう1つあります。ひめゆりの塔の慰霊祭です。

ひめゆり同窓会 知念淑子会長(96)
「資料館の展示や沖縄の平和教育を否定する発言がなされ、非常に憤りを感じています」

負傷した日本兵の看護のために動員された少女たち『ひめゆり学徒隊』。その展示について、自民党の西田昌司参議院議員が「歴史の書き換え」などと発言したことに、怒りの声が上がりました。

ひめゆり平和祈念資料館 普天間朝佳館長
「元学徒の皆さんが血のにじむような思いで展示を作りあげてきた努力を踏みにじるものであり」

ひめゆりの同窓生 翁長安子さん(96)
「一番悲惨な戦争を体験した沖縄県民に対する侮辱。死んだ人たちの魂は、遺族や友たちは皆覚えてる。だから悔しい」

現職の総理大臣が慰霊の日にひめゆりの塔を訪れるのは、村山総理以来30年ぶりのことです。

■ひめゆり学徒の記憶と記録

歴史の記憶と記録。証言をもとに、ひめゆりの資料館は刻み続けてきました。

大越健介キャスター
「生徒たちの集合写真、はじけるような笑顔ですね。まぶしいような。きっとどこにでもあった10代の生徒たちの笑顔なんでしょうね」

この1年後。戦渦に巻き込まれ、136人が亡くなります。

大越健介キャスター
「沖縄戦で亡くなった生徒たちの顔写真と、そして驚くのは、どのようにして命を落としていったのかが、詳細にここに記されているということです。お名前と、そして攻撃を受けて亡くなったという書き方もあれば…。全てがこれは検証された記録だと思います。事実の重みを感じます」

ひめゆりの実相を残す場所がもう1つ。ひめゆり学徒隊が動員された陸軍病院。人の手で掘られた横穴『壕』です。横幅は1メートル80センチ。その半分がベッドに割かれました。満足な薬や食料もないなか、少女たちは運び込まれた日本兵の看護に必死にあたりました。

南風原文化センター 保久盛陽学芸員
「激務で過労で倒れていく学友たちがいて、休むスペースがなかったり、土壁にもたれて眠るしかなかったと」

大越健介キャスター
「何という…何という病院なんだろう、ここは。泣けてくるような思いがするんですが、ここでまさに病、けがに倒れられた人が。病特有、けが特有の匂いもあるでしょうし、体臭があるでしょうし、そういう中を駆け巡って、ひめゆりの学徒の皆さんとかが一生懸命奉仕されていた。ちょっと想像がつかないけども、ここに来ると、そのことが少し、今生きている我々も分かりますね。少しではありますけど」

■実相の伝承 生かされた者の使命

アメリカ軍の攻撃が激しさを増すなか、6月18日、ひめゆり学徒隊は日本軍から突然、解散命令を告げられます。少女たちは“鉄の暴風”と呼ばれる砲弾の嵐の中を逃げ惑い、犠牲者の8割以上が解散後に命を落とすことになりました。

80年経った今、実相を語れる語り部の多くが亡くなり、経験した人は減る一方です。与那覇百子さんも、去年11月に亡くなりました。ひめゆり学徒隊に動員されたのは16歳の時。壕で目の当たりにしたのは、アメリカ軍の爆撃を受け、変わり果てた友人の姿でした。

元ひめゆり学徒隊 与那覇百子さん(当時86歳)
「あのモンペは貞子さんのものに似ているけれどもと、独り言を言いながらどんどん壁にくっついていった。それが貞子さんなんですよ。貞子さんは壁にくっついちゃって、髪の毛もありませんでした。手も爪もありませんでした。骸骨になっていて、あばら骨が出ていました。それを見せられた私は震えましたね」

息子の満さん(71)は、母の語り部としての決意を感じていたといいます。

(Q.自らの経験を語る時、お母様はどんな思いで人々に向かっていましたか)
与那覇百子さんの息子 満さん
「かなり淡々としゃべる人だった。そんなに感情をあまり出さない。『こんなひどかったのよ』と言えたかもしれないけど、心の中に抑えつけているものがあるのかなという気もしました。使命感はあったと思う。そのままにしてはいけないと」

母の意志を継ぎ、体験を語り継ぐ講演活動を始めようとしている、満さん。歴史を否定し、修正するかのような動きに危機感を募らせています。

与那覇百子さんの息子 満さん
「母はずっと講演活動をやっていた。『私たちはいったい何をやっていたの?情けない』と思うのではないか。本当は正直言って『もうおしまいにしよう』とも思った。父も母ももう亡くなってますし。ただ、今の社会情勢とか、各地で戦争が起こっているのとか、沖縄の人たちの神経を逆なでするような発言をする人が出てきたり。それを考えたら何かできないかなと。危うさを感じた。だから、ちゃんと知ってもらいたい」

[テレ朝NEWS] https://news.tv-asahi.co.jp

4. 赤かぶ[245860] kNSCqYLU 2025年6月24日 01:59:13 : Opexvnbdmg : eXdJaHN2ZEJkQy4=[528] 報告
<▽37行くらい>

“台湾有事”と隣り合わせ…本島よりも台湾に近い沖縄・与那国島は「逃れることのできない要塞」島民の思い 町長「台湾海峡問題は下手したら与那国海峡問題」

2025/06/23 FNNプライムオンライン

6月23日は、多くの尊い命が奪われた沖縄戦から80年の慰霊の日。
県内各地で追悼式が行われました。

「イット!」の青井実キャスターが訪れたのは、沖縄本島から約500km離れた日本最西端の島、沖縄・与那国島です。

1944年から与那国島では、アメリカ軍の空襲などにより島の集落や日本軍の見張り所などが攻撃され、多くの島民が避難を余儀なくされました。

今も島内には少なくとも約8カ所に戦争に関連する遺跡が残されているといいますが、戦時中、熾烈(しれつ)を極めた島民たちの生活。
それは、現代を生きる私たちの想像を大きく超えていました。

自然豊かな島に、今も深く刻まれている戦争の爪痕。
島に暮らす人が抱える不安を聞きました。

FNNプライムオンライン
https://www.fnn.jp/

5. 赤かぶ[245861] kNSCqYLU 2025年6月24日 02:20:58 : Opexvnbdmg : eXdJaHN2ZEJkQy4=[529] 報告
<△23行くらい>

【第二次世界大戦】279 沖縄戦:日本とアメリカの最後の激戦【日本史】

2025/01/31 YouTube高校 / 日本史・世界史

〇目次
00:00 沖縄戦への道
01:03 沖縄上陸
01:52 日本軍の作戦
02:35 アメリカ軍の作戦
03:32 戦艦「大和」沈没
05:05 菊水作戦
05:50 南部戦線
06:43 首里陥落
07:50 日本軍の崩壊
08:18 沖縄戦の終わり

6. 赤かぶ[245862] kNSCqYLU 2025年6月24日 02:51:08 : Opexvnbdmg : eXdJaHN2ZEJkQy4=[530] 報告
<▽38行くらい>

【中谷防衛相】与那国駐屯地視察 “ミサイル部隊配備進める”

2025/01/22 日テレNEWS

中谷防衛相は日本の最西端である沖縄県与那国島の駐屯地を視察しミサイル部隊の配備を進める考えを改めて示しました。

この動画の記事を読む>
https://news.ntv.co.jp/category/polit...

中谷大臣が視察した与那国駐屯地は、台湾からおよそ110キロの距離にあります。軍事活動を活発化させる中国を念頭に南西地域では沖縄本島以外で初めて2016年に開設された陸上自衛隊の駐屯地で、敵側の通信やレーダーを妨害する電子戦部隊などが配備されています。

中谷防衛相
「問題はこれからでありますので、こういった地域をより強靱化できるように、与那国の駐屯地には防空を担う地対空誘導弾(ミサイル)部隊、これを配備する計画であります」

防衛省によると、新たなミサイル部隊配備のための土地取得の手続きが行われているということです。また、中谷大臣は与那国町の糸数町長から要請された町内の空港などを自衛隊などが平時から訓練などに利用できる「特定利用空港・港湾」に指定することについて、「沖縄県との調整にしっかり取り組みたい」と述べました。

(2025年1月22日放送)

7. 罵愚[2467] lGyL8A 2025年6月24日 06:22:44 : dLV7KORD0A : TkxhRUl1ZEs1Yk0=[1197] 報告
 本島よりも台湾に近い沖縄・与那国島は「逃れることのできない要塞」の現実は論者の政治的立場とは無関係にごまかしようなない。
 しかし、この現実は決して沖縄県民だけではなく、ロシア、支那、朝鮮という友好と仮想敵国の相反する二面性を持つ隣国に隣接する日本国民全員が共有する宿命…歴史的にも地理的にも日本人が背負った宿命だという現実を再確認して、議論すべきだと考える。
 解かってもらえるかなぁ? 時間の経過とともに目まぐるしく変化する国際環境は、なにも、いま始まった話ではなくて、弥生、縄文以前からの日本列島の宿命なんだよ。

[18初期非表示理由]:担当:掲示板を『自分の意見をできるだけ多く繰り返し書く場所』と考えているhttp://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/616.html#c93こと、かつ管理人の依頼を無視するhttp://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/615.html#c41ことにより全部処理
8. 位置[1461] iMqSdQ 2025年6月24日 07:30:27 : f4UDsj0Syk : ZGl2MlJnTnhOTjI=[89] 報告
ようするに、日米両政府とも、沖縄を始め、太平洋上を地獄に変えた責任採る気が皆無って事だね。
9. 罵愚[2465] lGyL8A 2025年6月24日 11:13:16 : dLV7KORD0A : TkxhRUl1ZEs1Yk0=[1198] 報告
>>8. 位置さん
 いやいや、日本は過大な賠償を支払って、このボ−ドをみてもわかるとおり、いまだにその傷は癒えてはいませんよ。いわゆるる、自虐と呼ばれる後遺症ですね。
 米国は大日本帝国に取って代わってこの領域の帝国主義的支配を謳歌しています。その尻にくっついた吸血鬼が共産支那、北鮮、赤露だと、わたしは思います。




[18初期非表示理由]:担当:掲示板を『自分の意見をできるだけ多く繰り返し書く場所』と考えているhttp://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/616.html#c93こと、かつ管理人の依頼を無視するhttp://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/615.html#c41ことにより全部処理

10. 罵愚[2463] lGyL8A 2025年6月24日 12:26:07 : dLV7KORD0A : TkxhRUl1ZEs1Yk0=[1199] 報告
>>8
>日米両政府とも、沖縄を始め、太平洋上を地獄に変えた責任採る気が皆無って事だね。

 これこそ、歴史認識の話題なんだろうけど『太平洋上を地獄に変えた責任』って、なんだろうかね? おそらく、共産支那や北朝鮮の教科書あたりから拾ってきた直訳なんだろうけど、冷戦終結から数えても40年近い月日が過ぎている現在、世界史的には、ユ−ラシア中央部の地域を貧困のままに放置している、ふたつの大きな政権の責任のほうがよっぽど重大な、歴史犯罪的な責任じゃぁないのかなぁ?
 そして、この ★阿修羅♪ボードの運営陣やご常連にも、それ相応の責任は感じていただきたいものだと……ちがうかなぁ???

[18初期非表示理由]:担当:掲示板を『自分の意見をできるだけ多く繰り返し書く場所』と考えているhttp://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/616.html#c93こと、かつ管理人の依頼を無視するhttp://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/615.html#c41ことにより全部処理

11. 多摩散じん[404] kb2WgI5VgraC8Q 2025年6月24日 21:25:09 : nWD65rNKI6 : R0JWRDJ4NFRkVnc=[89] 報告
 多摩散人です。

 沖縄の人たちは、現在の沖縄が米軍も自衛隊もいない沖縄になればいいと思っているのですか。

 沖縄の防衛は、どうすればいいと思っているのですか。

12. 減らず口減らん坊[1450] jLiC54K4jPuMuILngvGWVg 2025年6月24日 21:25:34 : CXM55bnQyw : VTlPNjQ0Y2tRMXc=[5] 報告
これから将来的に生まれる沖縄の犠牲者の慰霊を前倒してやってる様にしか見えない
意味のない慰霊祭だ
過去の過ちの反省の上に成り立つものでなければ意味が無い・・・それが、せめてもの礼儀である
これから生れる犠牲者の慰霊をあらかじめやっておこうなんて、あまりにも無意味で無責任なやり方だよ
クズの所業だな
13. T80BVM[1613] VIJXgk9CVk0 2025年6月24日 23:57:44 : Af39sRRxdg : MGQxY01xeUJQVGc=[4] 報告
>対中露戦争の準備が進められている

またかよ、くだらね
たく、桜井ちゃんは、何でそうやって戦争を煽りたがるのか?
汚カネになるからか、性格が悪いからか
ああ両方ですたかw

以上


14. 弱っプっ腐(笑)ランド豚[210] juOCwYN2gsGVhSiPzimDiYOTg2iT2A 2025年6月25日 01:28:05 : IB2q2cDJ0I : QTlTZkpWeTNRMlU=[1] 報告
戦争を煽ってるのは悪メリカ基地と悪メリカ防衛隊
櫻井が未だに生存してる事には疑問があるが

中国がぁーを公的にやってる上記組織の関係者は櫻井の万倍では収まらない資金と知名度、名誉を与えられている

俺は弱っプっ腐(笑)ランドの黄色ネオナチス体制とその心棒者や明確に否定できぬ者を根こそぎ粛清する大決戦を煽ってるけど
中、露、朝が温過ぎてイライラしている


15. 減らず口減らん坊[1452] jLiC54K4jPuMuILngvGWVg 2025年6月25日 06:05:59 : CXM55bnQyw : VTlPNjQ0Y2tRMXc=[7] 報告
>>6
ま、中谷はさっぽろ雪まつりに忙しくて、戦争なんかする暇なんか無い筈なんだがな
真面目に仕事をしないから、戦争なんかをするハメになる
「小人閑居して、不善を為す」
この言葉の通りの事になっている
真面目にさっぽろ雪まつりをやってれば良かったのに、ヒマになるとロクなことせんよな・・・これだから自衛隊は
本業を疎かにすると、ロクなことにならない
16. 楽老[5944] inmYVg 2025年6月25日 09:24:42 : BOk6mbQWFk : M0VzdzM0ajlEbjY=[400] 報告
>>14.:戦争を煽ってるのは悪メリカ基地と悪メリカ防衛隊

この方と私は立ち位置が異なるが、上記のコメントは全くその通り。
皇軍は沖縄防衛など眼中になく、本土防衛の捨て石になっただけ。

今も与那国や先島諸島等々が捨て石として整備されている。

    

17. 秘密のアッコちゃん[1667] lOmWp4LMg0GDYoNSgr@C4YLx 2025年6月25日 09:36:27 : n4vXmS4Gso : WUN2WklXQ0Fya0k=[1105] 報告
<■1023行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
両陛下、沖縄慰霊の日ご黙禱 上皇ご夫妻も
2025/6/23 16:06
https://www.sankei.com/article/20250623-G6Y6PPH7HVOZ5P3TVVC3K5IFDQ/
宮内庁は2025年6月23日、天皇、皇后両陛下が同日、御所で、先の大戦で沖縄での組織的戦闘が終結したとされる
「慰霊の日」
にあたり、長女の敬宮(としのみや)愛子さまとともに黙禱を捧げられたと発表した。
上皇ご夫妻もお住まいの仙洞(せんとう)御所(東京都港区)で黙禱された。

<主張>沖縄慰霊の日 節目の年に真摯な祈りを
社説
2025/6/23 5:00
https://www.sankei.com/article/20250623-BFQC2ULTX5LQTAL47IWJCYOKFE/
沖縄戦の終結から80年となる節目の
「慰霊の日」
を迎えた。
最後の激戦地となった沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園では2025年6月23日、
「沖縄全戦没者追悼式」
が営まれる。
慰霊の日は、広島、長崎の「原爆の日」(8月6、9日)や「終戦の日」(8月15日)と共に、上皇陛下が皇太子時代から、日本人としてどうしても記憶しなければならない
「4つの日」
として慰霊を尽くされてきた日だ。
天皇・皇后両陛下をはじめ皇室の方々はこの日、黙禱される。
国民も、亡くなった人々に哀悼の誠を捧げたい。
昭和20年3月26日、那覇市の西方約40キロにある慶良間諸島に米軍が上陸し、沖縄戦が始まった。
圧倒的兵力の米軍は昭和20年4月1日に沖縄本島に上陸し、日本軍は激しく抵抗した。
熾烈な地上戦は約3カ月間続いた。
沖縄を守るため、県内外の将兵で第32軍が編成された。
内地から2500機以上の特攻機や空挺隊、戦艦大和を旗艦とする艦隊が出撃した。
沖縄県内では義勇隊や中等学校生らによる鉄血勤皇隊、ひめゆり学徒隊が組織され、多くの命が散華した。
牛島満第32軍司令官が昭和20年6月23日に自決し、組織的戦闘が終わった。日本の軍民約18万8千人が亡くなり、米軍も1万2千人以上が戦死した。
その上に今の平和があることを、忘れてはなるまい。
慰霊の日に先立ち、天皇、皇后両陛下は沖縄を訪問された。
2025年6月4日には平和祈念公園内の国立沖縄戦没者墓苑に、2025年6月5日には米潜水艦に撃沈された学童疎開船「対馬丸」の慰霊碑に供花し、遺族らと言葉を交わされた。
沖縄の苦難の歴史を深く偲ばれる両陛下を、県民は熱い思いで奉迎した。
残念なのは、沖縄戦を巡り偏った言論が県内の一部に見られることだ。
例えば地元紙は、沖縄戦の最大の教訓は
「軍隊は住民を守らない」
ことだと繰り返し報じ、自衛隊の活動も批判している。
だが実際は、日本兵に
「生き延びよ」
と励まされ、助けられた県民も大勢いる。
現在の自衛隊も、沖縄を含む日本の平和維持に欠かせない存在だ。
沖縄の近海で中国は軍事的圧力を一段と強めている。
外交努力に加え、防衛力の充実、国民保護の強化が求められる。

皇室への沖縄県民の「思い」
日曜に書く 論説委員・川瀬弘至
2025/6/22 15:00
https://www.sankei.com/article/20250622-JVOGWSCFQBLIVFAUI5VZA3RKA4/
かつて筆者は那覇支局に3年余り勤務し、地元メディアのおかしな報道には慣れっこのつもりだった。だが―。
戦後80年の慰霊の旅として、天皇、皇后両陛下と敬宮愛子内親王殿下が沖縄をご訪問され2025年6月4日、地元紙の琉球新報は社説に書いた。
「今回の両陛下のご訪問を、県民は複雑な思いで受け止めている」
■残念な琉球新報社説
同紙によれば沖縄戦は
「天皇の名の下に戦われた戦争」
であり、
「沖縄は『皇土防衛』の『捨て石』だった」。
このため県民の心には
「癒えることのない『沖縄の傷』が今も存在する」。
それを
「日本本土の国民は知るべきだ」
という。
あんまりの内容だ。
同紙は、上皇陛下の沖縄でのご活動には理解を示しつつ、来県される天皇ご一家に対し
「県民の思いに向き合ってほしい」
と求める。
これでは、ご一家が沖縄に向き合っておられないと言わんばかりではないか。
特に解せないのは、同紙が昭和天皇の
「責任」
を強調している点だ。
昭和天皇の判断が2度に渡り
「沖縄の命運に影響を与えた」
という。
1度目は戦時中の昭和20年2月、元首相の近衛文麿が終戦を具申した
「近衛上奏文」

「拒んだ」
こと、
2度目は戦後の昭和22年9月に
「昭和天皇が米軍による沖縄の長期占領を望むと米側に伝えた」
ことで、それが沖縄の
「戦争犠牲」

「戦後の米統治」
に繋がった可能性があるというから、驚く他ない。
同紙は説明していないが、近衛上奏文とは、戦争が続けば
「共産革命」
が起きるから終戦すべきという内容だ。
まずは軍部を牛耳る共産分子の
「一掃が肝要なり」
と求めている。
現代から見れば一理あるにしても、当時としては非現実的な意見で、昭和天皇が採用できなかったことを批判する歴史学者はほとんどいない。
2度目
「責任」
についても同紙は肝心な部分に触れていない。
昭和天皇は単に米軍による沖縄占領を望んだのではなく、
「日本に主権を残しつつ、長期貸与の形を取るべき」
との考えを示したと、米国側の資料に明確に書かれている。
米軍は当時、沖縄の基地の永久使用に固執し、日本から沖縄を完全に切り離そうとしていた。
昭和天皇は何とかそれを止めようと、
「貸与」
の考えを伝えたとする学説が有力だ。
同紙は同日付の社会面でも
「天皇の戦争責任」

「薄れゆく」
のを
「懸念」
する記事を掲載した。
極めて一面的であり、読者をミスリードするものにほかならない。
■適切な沖縄タイムス社説
同じ地元紙でも、同日付の沖縄タイムスの社説は温かみのあるものだった。
同紙は、上皇陛下がご在位中に何度も沖縄に足を運ばれたのは
「沖縄に寄り添い、国民としての一体性を保つために努力することが
『象徴としての務め』
だと理解していた」
からだと強調する。
今回の天皇ご一家のご訪問も
「上皇ご夫妻から託されたバトンを継いでいくための、天皇家の
『継承の旅』
という性格を持っている」
とし、県民側も若い世代による
「記憶の継承」
が大切だと論を繋いだ。
琉球新報の社説が本土と沖縄の分断を浮き彫りにするような内容だったのに対し、沖縄タイムスのそれは、天皇家によって導かれる本土の沖縄理解を促す内容だった。
■夜空を照らす提灯
そのどちらが、県民の
「思い」
に近いか。
天皇ご一家が訪問された際の、県民の奉迎ぶりを見れば明らかだろう。
両紙の社説が掲載された2025年6月4日、天皇ご一家が宿泊された那覇市のホテル近くで提灯行列が行われ、およそ4500人もの県民が集まった。
無数の提灯が夜の街に浮かび上がると、やがてホテルの1室にも提灯が3個ともった。
天皇ご一家が県民と心を1つに、平和の灯を夜空に照らされたのだ。
たちまち湧き起こる感謝の拍手と歓声。
参加者の1人は産経新聞の取材に、
「天皇ご一家の沖縄に寄せる温かいお心を感じた」
と語った。
多くの県民が同じ思いだっただろう。
沖縄は2025年6月23日、沖縄戦の終結から80年となる
「慰霊の日」
を迎える。
天皇陛下はこの日、皇后陛下と共に皇居で黙禱される。
沖縄と本土の国民も心を通わせ、平和の祈りを捧げたい。

<産経抄>沖縄戦終結から80年
2025/6/22 5:00
https://www.sankei.com/article/20250622-VSBMGT3RUVNXJAABK33BSLYR64/
羽化してから数時間で命を終えるカゲロウは、はかなさの象徴として歌に詠まれることも多い。
<壁に来て草かげろふはすがり居り透きとほりたる羽のかなしさ>。
芥川龍之介の死を悼み、親しかった斎藤茂吉が手向けた挽歌だ。
▼35年の生涯を駆け抜けた作家の面差しが命短いカゲロウの姿に重なり、寂寥(せきりょう)感が長い尾を引く。
かの羽虫には口がない。
餌を取るということを知らず、子孫を残すためだけに空を漂う。
歌人の小池光さんが
「片道燃料で出撃した戦艦大和のよう」
と、例えていたのを思い出す。
▼その大和は沖縄戦に向かう途中で、米軍機の攻撃により沈んだ。
昭和20年4月7日である。
沖縄本島では第32軍将兵や義勇隊などが戦い、本土からは2500機以上の特攻機や空挺隊が出撃した。
日本は軍民合わせ約18万8千人が亡くなっている。
▼沖縄を、我が国を、子や孫らのあすを守るため、身を盾にして奮戦した人たちである。
米軍の戦死者も1万2千人以上に上った。
明日2025年6月23日は、沖縄での組織的な戦闘が終わってから80年の節目、戦没者に哀悼の誠を捧げる
「慰霊の日」
である。
▼沖縄戦を巡っては、今も尚、本土防衛の
「捨て石」
などと自虐的な歴史観で語られることも多い。
沖縄戦の特攻には、関東や東北など各地から多くの若者が出撃して散華した。
国を守る戦いに、本土も離島もなかった証しである。
英霊への冒瀆を看過することはできない。
▼尖閣諸島をはじめ我が国近海では、中国の威圧的な動きが目に余る。
長きに渡り積み重ねた
「戦後」
に唾する相手には外交努力だけでは十分でない。
防衛力を高めることが国民と国土を守ることに繋がる。
子孫に明日を託した英霊への、それが答えになる。

<正論>国防上重要な沖縄戦の歴史認識 
日本経済大学准教授・久野潤
2025/6/20 8:00
https://www.sankei.com/article/20250620-CTG3EDUAOBIEDBK7DXI2I273VQ/
■共産主義から沖縄守る大御心
2025年4月2日付の本欄拙稿で80年前の沖縄戦において、日本軍が沖縄を見捨てるどころか全力で戦い、一方で戦後の日本再建の布石も打っていたことについて述べた。
『昭和天皇実録』の昭和22年9月19日の項に
「天皇は米国が沖縄及び他の琉球諸島の軍事占領を継続することを希望」
し、それが
「米国の利益となり、また日本を保護することにもなる」、
そして
「米国による沖縄等の軍事占領は、日本に主権を残しつつ、長期貸与の形をとるべき」
で、
「この占領方式であれば、米国が琉球諸島に対する恒久的な意図を何ら持たず、また他の諸国、とりわけソ連と中国が類似の権利を要求し得ないことを日本国民に確信させるであろう」
と思し召しであったことが記されている。
このいわゆる
「天皇メッセージ」
により沖縄に対する主権が確保されたと評される(ロバート・D・エルドリッヂ『沖縄問題の起源』など)一方、反皇室的な論者の間では戦後も引き続き基地設置を認め、自己保身のため沖縄を犠牲にしたとの主張も根強い。
後者はまったくの曲解と言わざるをえないが、共産主義の脅威が矮小化されている結果でもある。
昭和20年5月にドイツが降伏した後、沖縄防衛も絶望的となった昭和20年6月、ソ連の対日参戦情報(昭和20年2月のヤルタ会談で米英と密約)などを無視する格好で、東郷茂徳外相の命で広田弘毅元首相、次いで佐藤尚武駐ソ大使がソ連に対する連合国との和平斡旋交渉を開始した。
実際のソ連は終戦間際に日ソ中立条約を一方的に破棄して日本領へ侵攻し、昭和20年8月15日を過ぎても侵略を続けたことは周知の通りだが、沖縄失陥により指導層のソ連への期待が高まり判断を狂わせたことは歴史の重要な教訓である。
沖縄を守るためにも、戦後に誕生した中華人民共和国を含む共産主義勢力を排除すべきことが、昭和天皇によりいち早く示唆されたことになる。
歴代天皇の沖縄への痛切な大御心(おおみこころ)については本稿で繰り返すまでもないが、共産主義の脅威から国土を守ることは、現在に至るまで国防の重要課題であり続けている。
■日本中の将兵が沖縄で戦った
沖縄戦の組織的戦闘が終結した昭和20年6月23日は沖縄県制定の
「慰霊の日」
とされ毎年、沖縄県営平和祈念公園(糸満市)で県および県議会主催の沖縄全戦没者追悼式が開催されている。
平成2年以降、コロナ下を除いて現職首相も参列し、メディアで大々的に報道されるが、もう1つの、もとい本来の戦没者慰霊顕彰のよりどころである沖縄県護国神社(那覇市、昭和11年創建)で同日に斎行される沖縄戦全戦歿(せんぼつ)者慰霊祭はあまり知られていない。
筆者は実は、こちらの方へ参列している。
「全國護國神社會」
所属の護国神社52社の祭神は、基本的に幕末以来の地元出身殉難者・戦没者等だ。その中で沖縄県護国神社の祭神は
「日清日露戦争以降、先の大戦で国難に殉ぜられた沖縄県出身の軍人軍属を始め沖縄戦にて散華された一般住民の尊い御霊」
17万7913柱で、
「北海道から鹿児島までの本土出身軍人軍属で沖縄戦戦没者」
即ち沖縄出身でない沖縄戦戦没者(都道府県別で最多の北海道は1万90柱)も含まれている。
その前で
「沖縄は見捨てられた」
などと言えようか。
現行憲法の
「政教分離」
解釈から公的行事で神道式の
「慰霊」
を殊更に避けようとする戦後の風潮には違和感を覚えるが、出自も違う数多の戦没者にとっての結節点は、靖国神社に祀られるということであった。
その靖国神社に準ずる護国神社での慰霊顕彰に、沖縄戦に思いを致す日本人はもっと目を向けるべきであろう。
■建国以来の信頼関係回復へ
このことは、単なる過去の話ではない。
先月2025年5月刊行された齋藤達志『完全版沖縄戦』は
「沖縄戦は、近代軍としての日本軍の強さと共にそれ以上の弱さ(未熟さ)を白日のもとに明らかにした」
と厳しく指摘している。
沖縄戦で無念にも的確に県民を守れなかったのはその通りとしても、同時に、それを受け止めた現在における一部日本人の歴史認識の
「未熟さ」
を筆者は思わずにはおれない。
国土を守る戦いとは、当地の住民を守るのみならず、後世まで敵勢力に対する抑止力を持たせるべきものである。
我が国が建国以来、王朝交代等なく継承されてきたのも、君主と国民、国民と<祖国を守る者>が支え合うという、三者の信頼関係が2000年以上続いてきたからに他ならない。
歴史上、革命や間接侵略の際にはこの信頼関係破壊が図られた。
「沖縄県民を守ろうとしたが守れなかった」
史実が
「天皇も軍隊も沖縄を守ろうとしなかった」
という話に転化されることで、
「これからも自衛隊は日本を守らないかもしれない」
との疑心暗鬼を生み、侵略される隙を作ることになる。
日本国民と、天皇そして<祖国を守る者>との建国以来の信頼関係が今後も保たれるかどうかは、沖縄戦に対する歴史認識にかかっているといっても過言ではない。

<正論>今も日本を護る戦艦大和の足跡
日本経済大学准教授・久野潤
2025/4/2 8:00
https://www.sankei.com/article/20250402-AAS6XLCBVBMX7MOEWXZDVW5OYQ/
■沖縄へ向け大和出撃80年
本年は沖縄戦、そして戦艦「大和」出撃から80年の節目でもある。
今もって史上最大の戦艦である「大和」は、その艦名も相俟(あいま)って我が国戦史上特筆すべき存在であり、またその出撃の当否をめぐる議論も戦後絶えなかった。
昭和20(1945)年4月1日の連合軍沖縄本島上陸の際、連合艦隊は「天一号」「菊水」の特攻作戦を発動した。
鹿屋基地(鹿児島県)の第五航空艦隊の司令長官は、かつて山本五十六連合艦隊司令長官を補佐する参謀長として、またマリアナ・レイテの両海戦で第一戦隊司令官として「大和」に座乗した宇垣纏(まとめ)海軍中将。
宇垣は独断で麾下(きか)の零戦を出撃させ、沖縄へ向かう「大和」上空直掩(ちょくえん)を図るが、零戦隊の本務もあり果たせなかった。
昭和20(1945)年4月7日の「大和」沈没を聞いた宇垣は、陣中日誌『戦藻録』に
「抑々茲(そもそもここ)に至れる主因は軍令部総長奏上の際航空部隊丈(だけ)の総攻撃なるやの(筆者注・昭和天皇の)御下問に対し、海軍の全兵力を使用致すと奉答せるに在りと伝ふ」
と記している。
これをもって「大和」出撃をただ無謀な作戦と見なす前に、まずは沖縄を何としても救わねばという大御心(おおみこころ)に思いを致すべきであろう。
「大和」出撃を後押しした連合艦隊司令部の心情を表す、神重徳(かみしげのり)参謀の言葉が伝わっている。
「もし大和を柱島あたりに繫(つな)いだままで、大和が生き残ったままで戦争に敗けたとしたら、何と国民に説明するのか」
(吉田満・原勝洋『ドキュメント戦艦大和』)
これに対して高田利種参謀副長が
「これをやらないで今度の戦さに敗けたとしたら、次の日本を作る事が出来ないのではないかというのが、神参謀の本心だと判断した」
ことで、
「国民」
がこの時点に存在した日本人のみを指すのではなく、後世の我々をも含む概念であったことも理解できる。
沖縄の戦況を憂う大御心を拝した軍人たちにとって、将来に渡り
「あの時の日本軍は固有の国土を全力で守らなかった」
との誹(そし)りを受けることはあってはならないのだ。
■受け継がれていた楠公精神
さて作戦名の菊水とは、後醍醐天皇に忠節を尽くして湊川の戦いで殉節(戦死)し、後世広く崇敬された大楠公こと楠木正成の家紋である。
戦後史観のもとでは、大楠公は衆寡敵せぬ情況で仕方なく出陣して玉砕した点が、日本軍の思想に影響を与えたかのように評されてきた。
実際の大楠公は足利尊氏の反逆に対し我が国の正道を示し、それを継承する布石を打って湊川へ向かった。
戦前の日本人もそれを理解していたからこそ長男正行(まさつら)を故郷へ帰した
「桜井の訣別」
の逸話に涙したのである。
「大和」出撃に際しても、桜井の訣別≠ェあった。
出撃3日前の昭和20(1945)年4月3日に卒業したばかりの海軍兵学校74期生42人・海軍経理学校35期生4人が少尉候補生として乗り組んでいた。
第二艦隊の伊藤整一司令長官は出撃前日の昭和20(1945)年4月5日、彼らに退艦を命じる。
候補生たちは命令撤回を懇願したが、有賀幸作「大和」艦長に
「この戦(いくさ)はまだまだ先が長いぞ」
「お前たち候補生にはもっと働き甲斐のある戦闘が待ち構えておる、自重せよ」
と諭され退艦した(中田整一『四月七日の桜』)。
参陣を懇願する子に大楠公が、更に長きに渡り皇室に忠節を尽くすべしと自重を諭したのと軌を一にする。
■絶望的な戦局でも尚…
沖縄への出撃を命じられた伊藤は当初大反対であった。
神の要請で「大和」を訪れた草鹿龍之介連合艦隊参謀長から
「一億総特攻の魁(さきがけ)」
となってほしいと説得され納得したとされる。
沖縄失陥までの10次に渡る菊水作戦で海軍は940機、陸軍は887機が特攻を行い、それによる連合国側死傷者は1万人近くを数えた。
加えて、残存水上兵力をかき集め「大和」以下10隻の第二艦隊も出撃させたのであるから、沖縄は見捨てられたとする戦後の言説が筆者には理解し難い。
そして宇垣も終戦の玉音放送後に湊川≠ヨ向かった。
最後の特攻隊として「彗星」爆撃機11機を率い出撃する直前まで書いていた『戦藻録』最後の頁は、以下の行で締められている。
「独り軍人たるのみならず帝国臣民たるもの今後に起るべき万艱(ばんかん)に抗し、益々大和魂を振起し皇国の再建に最善を尽し、将来必ずや此の報復を完(まっと)うせん事を望む」
「余又楠公精神を以て永久に尽す処あるを期す」
大楠公は湊川で弟正季(まさすえ)と刺し違える際「七生滅賊」を誓い合い、その精神が幕末の志士さらに近代軍人に受け継がれることで日本を護(まも)り続けた。
「大和」出撃も無駄だったどころか、絶望的な戦局でも最後まで国土を護るため戦った確固たる足跡を残している。
筆者は先述「大和」退艦の候補生の1人で同期を代表して有賀艦長に直談判した阿部一孝氏(令和5年6月逝去)から直接話を伺う機会があった。
「沖縄特攻は、今の日米関係の土台になっているはず」。
沖縄を易々と見捨てるような日本であったならば、米国も今のような同盟国として扱わなかったであろう。

神風特攻隊
日本は中国大陸での戦いでは常に優勢でしたが、昭和19年(1944)秋の時点で、アメリカを相手にした太平洋での戦いは最早絶望的でした。
聯合艦隊はほとんどの空母を失っており、強大な空母部隊を擁するアメリカ艦隊に対抗できる力などあるはずもなかったのですが、それでも降伏しない限りは戦い続けなくてはなりませんでした。
同年昭和19年(1944)10月、日本はフィリピンでアメリカ軍を迎え撃ちます。
追い詰められた日本海軍は、人類史上初めて航空機による自爆攻撃を作戦として行いました。
神風特攻隊です。
神風特攻隊は最初はフィリピンでの戦いの限定的作戦でしたが、予想外の戦果を挙げたことから、なし崩し的に通常作戦の中に組み入れられました。
しかし陸海軍の必死の攻撃の甲斐も無く、フィリピンはアメリカに奪われ、日本陸軍兵士51万8000人が戦病死します。
フィリピンを奪われたことで、南方と日本を繋ぐシーレーンは完全に途絶え、遂に石油は1滴も入って来ない状態となりました。
もっともその前から護衛の無い日本の油槽船はアメリカの潜水艦の餌食となっていて、昭和19年(1944)には、インドネシアから国内へ送られた原油は僅か79万リットルでした(戦前、アメリカから輸入していた原油は年間500万リットル)。
最早戦争どころか国民生活さえ維持できない状況となっていたのです。
翌昭和20年(1945)、アメリカ軍は遂に沖縄にやってきました。
日本軍は沖縄を守るために、沖縄本島を中心とした南西諸島に7万以上の兵士を配置しました。
更に陸軍と海軍合わせて約2000機の特攻機が出撃しました。
また聯合艦隊で唯一残った戦力と言える戦艦大和も出撃しましたが、延べ400機近いアメリカ空母艦載機の攻撃により、坊ノ岬沖であえなく沈められました。
戦後の今日、
「日本は沖縄を捨て石にした」
と言う人がいますが、これは完全な誤りです。
日本は、沖縄を守るために最後の力を振り絞って戦ったのです。
もし捨て石にするつもりだったなら、飛行機も大和もガソリンも重油も本土防空及び本土決戦のために温存したでしょう。
沖縄は不幸なことに地上戦となり、約9万4000人もの民間人が亡くなりました。
沖縄出身の兵士は2万8000人以上がなくなっていますが、沖縄以外の出身の兵士も約6万6000人が亡くなっています。
決して沖縄を捨て石になどしていなかったのです。

沖縄戦最初の戦死 歴史に葬られた特攻隊長 伊舎堂用久
正論2025年4月号 作家 将口康浩
大陸に対し、海に弧を描き、鹿児島から沖縄の島々が連なっている。
国境に近い最西端、八重山諸島の中心が石垣島。
沖縄本島から400km、台湾との距離は僅か270kmしか離れていない。
石垣島の北170kmに点在する尖閣諸島では中国船の頻繁な領空侵犯を受けている。
かつて沖縄は、東から攻め上がった米軍との戦いの地となった。
今、西からの攻勢に晒されている。
尖閣諸島最大の魚釣島の地番は沖縄県石垣市登野城尖閣2392番地。
ちょうど80年前の昭和20(1945)年、石垣島から出撃、慶良間諸島沖で米艦隊に体当たり攻撃を行った伊舎堂用久大尉の生まれは石垣市登野城156番地。
自分の郷土は自分で守ると、特攻隊長として故郷から出撃した。
石垣島西部に陸軍白保飛行場が広がっていた。
昭和20(1945)年3月25日午後11時50分、指揮所前に陸軍特別攻撃隊
「誠第17飛行隊」
と、その護衛に当たる
「独立飛行第23中隊」
の隊員、関係部隊長40名が集合していた。

本25日1650、慶良間群島周辺に空母2、特設空母4以上よりなる敵機動部隊遊弋中なり
飛行団は敵機動部隊を攻撃せんとす

中央気象台石垣島測候所は昭和20(1945)年3月26日の天候は快晴と予報していた。
海上に浮かぶ眼下の敵を発見しやすい絶好の飛行日和だった。
昭和20(1945)年3月26日午前4時。
見送りを受け、初めに第23中隊所属の直掩機6機、続いて誠第17飛行隊の特攻機4機が離陸した。
11歳だった石垣島宮良の小浜義勝はその日をよく覚えている。
迫る米軍艦艇に体当たりをする特攻機が石垣島から出撃することは子供でも知っている公然の秘密だった。
日の出は午前6時37分、まだ月が残っていた。
「飛行機が飛んでいる」
姉の声がした。
布団にくるまり、眠っていた小浜義勝はすぐに飛び起きた。
耳を澄ますと、聞き慣れた陸軍機の爆音がする。
急いで庭に出て、北の空の機影に姉と2人で懸命に手を振った。
傍らでは、目を閉じたままの母は手を合わせて拝み、父は言葉もなく呆然と見送っていた。
その日、米空母に突撃して戦死したと聞いた。
戦後も生まれた石垣島で暮らし、老齢となった小浜義勝は伊舎堂用久の戦死についてこう語っていた。
「国を思う国民の心なくして平和も人権も生活もあり得ない」
「伊舎堂用久中佐が故郷を守ってくれたからこそ、こうやって今、我々は生きている」
熾烈を極めた沖縄戦は石垣島の白保飛行場から飛び立った伊舎堂用久隊が口火を切る。
伊舎堂用久率いる10名が沖縄戦最初の戦死者となった。
しかし、この事実を知る者は少ない。
■「用久元気」空からの手紙
中国戦線から1年ぶりに帰国、静岡県浜松で新型機に乗り換えるための訓練を受ける。
僅か1カ月ほどの浜松滞在後、那覇経由で台湾花蓮港(現・花蓮市)に向かう。
途中、石垣島の生家上空を旋回、通信筒を落とす。
帰省することができない伊舎堂用久からの空からの手紙だった。

用久元気 台湾花蓮港ニ居ルコトニナリマシタ 今前進スル途中

最早故郷の地を踏むことはない、珊瑚礁に当たる砕ける波と白浜、緑深い山々、港に続く懐かしい家並み。
空からこれが見納めとじっくりと眺めたに違いない。
手紙を受け取った父の伊舎堂用和、母の伊舎堂ミツも同じ心持ちだっただろう。
だが、10カ月後、再び故郷の地を踏む。
帰るに帰れなかった石垣島に7年ぶりの帰郷を果たす。
そこが最期の地となった。
昭和19(1944)年10月25日、レイテ沖海戦で初めての特攻攻撃が行われた。
同年昭和19(1944)年11月中旬、花蓮港からフィリピンのルソン島ツゲガラオ基地まで、伊舎堂用久は99式軍偵察機で飛行、米軍の進攻状況や特攻隊の現況などを10日間に渡り偵察分析する。
整備の岡本泰憲曹長だけが同行した。
夕食後、ツゲガラオ基地の宿舎を抜け、2人で空を見上げる。
交わす言葉はなく、無言のままだった。
岡本泰憲曹長が手記に残している。
「群青色に澄んだ夜空に散らばる南十字星を伊舎堂中尉と感無量の想いで眺めた思い出は忘れられない」
この時点では台湾での特攻隊編成は決まっていなかった。
しかし、伊舎堂用久を単機で現地視察に行かせた理由は1つしかない。
沖縄で特攻隊出撃命令を下す際、敵を迎え撃つ沖縄県民と後続の陸軍航空兵の士気を高める上で、第8飛行士団幹部は郷里の英雄を最初の隊長にすべきと当初から考慮していた。
無論、伊舎堂用久自身もその意を汲んでいた。
昭和19(1944)年11月末、同師団に特攻隊編成指示が出された。
死に向かう道しかない集団の団結心と1人1人の闘志の高揚、持続だった。
そのためには集団を率いる隊長の責任感や統率力、人柄、技量が重要になる。
部下にこの人とならば、と思わせるような男でなければならない。
編成を任された作戦主任参謀の石川寛一中佐は隊長に伊舎堂用久を指名した。
石川寛一中佐は偵察出身で、伊舎堂用久との関係も深く、知悉の間柄でもあった。
伊舎堂用久を司令部に呼び出し隊長就任を要請した。
何の迷いも躊躇いもなく、伊舎堂用久が即答する。
「私にやらせて下さい」
昭和19(1944)年12月8日、
「誠第17飛行隊」
が編成された。
伊舎堂用久は昭和19(1944)年12月1日、大尉に昇級した。
希少な石垣島出身の飛行隊長が郷土から特攻出撃する筋書きが完成した。

伊舎堂用久大尉 陸士55期、24歳、沖縄出身
石垣仁中尉 陸士56期、23歳、山形出身
安原正文少尉 幹部候補生9期、24歳、高知出身
川瀬嘉紀少尉 特別操縦見習士官1期、24歳、東京出身
大門修一少尉 特別操縦見習士官1期、24歳、茨城出身
久保元治郎少尉 金沢大、特別操縦見習士官1期、22歳、千葉出身
芝崎茂少尉 特別操縦見習士官1期、23歳、埼玉出身
黒田釈伍長 少年飛行兵、21歳、愛媛出身
有馬達郎伍長 少年飛行兵、17歳、鹿児島出身
林至寛伍長 少年飛行兵、17歳、東京出身
小林茂兵長 少年飛行兵、16歳、東京出身

誠第17飛行隊11名のうち生き残った者は誰1人としていなかった。

昭和20(1945)年2月28日、誠第17飛行隊は石垣白保飛行場に到着した。
伊舎堂用久にとって7年ぶりの故郷で過ごす最期の37日間だった。
隊員は飛行場近くのオーセと呼ばれる拝所がある白保集落の中心に分宿する。
毎朝、オーセ前に集合し、全員で体操を行う。
その後、隊長宿舎前で点呼を取り、その日の作業日程やその日の行動確認を行い、最後に隊長が訓示をするのが日課だった。
門前で伊舎堂用久がキビキビと名前を呼び、隊員が返事をする光景を見た前盛家の嫁、敏子は規則を厳格に守る軍隊の様子に驚かされる。
「物腰の柔らかい方で、隊長は部下に対しても、温情みある態度で接し、叱り付けるようなことはありませんでした」
死にだけ向かっていく伊舎堂用久の心中を慮り、話しかけたこともあった。
「夜はきちんと熟睡できますか」
「出撃の日を待つのみですから、何も考えずに、その日を来るのを待っています。今はただ、明鏡止水の心境です」

比ぶなき幸い哉我選まれて今南海の雲と散り征く 石垣仁中尉
死生有命不足論 只祈必中撃沈 安原正文少尉
指折りつ 待ちに待ちたる 機ぞきたる 千尋の海に 散るぞ楽しき 伊舎堂用久大尉
人間到処在青山 芝崎茂少尉
きづなをば たちて飛びゆく 白雲の無心の境地 機にまかせて 大門修一少尉

残された寄せ書きが5名の遺書となった。
■「部下のことを・・・」家族との面会拒む
地元出身の有名人だったが前盛家の家族以外、他の島民たちと接触することはほとんどなかった。
伊舎堂用久の母ミツと姉の3女トヨ子、妹の4女節子が隊長宿舎を訪ねてきたことがある。
前盛家の長男、善助がそのことを伝えると、伊舎堂用久は毅然として面会を断った。
「部下は本土出身で、帰りたくても帰ることができない」
「部下の気持ちを思うと、自分だけ家族に会うことはできない」
陸軍士官学校入校以来、故郷に帰ることが叶わず、あれほど会いたかった母と姉妹たちだ。
しかし歓喜するどころか、すげなく追い返す。
「大尉殿は会うことはできないと言っている」
母たちに善助が申し訳なさそうに言った。
自宅のある登野城と白保は10km近くある。
子供の足では3時間近くかかるだろう。
会えないまま、落胆し帰って行った。
「公私の区別について、かなり厳格に考えていた」
「妹さんが手作りのご馳走を持参して面会に来ても会わなかったようだ」
「せっかく訪ねてきたのだから、堅苦しく考えずに会ってあげたらどうか、と勧めたことがある」
「しかし、部下は帰ろうと思っても帰る所もない」
「いくら肉親でも部下の手前、忍びないと拒み通したことは並みの人のできることではない」
「こういうことなどで部下たちは心服していた」
上司の第9飛行団長の柳本栄喜大佐は戦後、こう書き記す。
柳本栄喜大佐も面会を勧めるが、伊舎堂用久は頑なに拒んでいた。
「家に帰って1度、両親に顔を見せてはどうか」
石垣島に駐屯していた第69飛行場大隊長の浅沼紀平少佐は伊舎堂用久に顔を合わせる度に、帰宅を促していた。
しかし、伊舎堂用久の返事は変わらなかった。
「部下の事を考えれば、そういうわけにはいきません」
誠第17飛行隊の整備兵が戦後、こう語っている。
「伊舎堂隊長は石垣島に実家があり、お父さんも妹さんもいらっしゃる」
「それなのに隊長は家に帰らぬ」
「皆で是非、家に帰ったら如何ですかと言っても、
『戦争をしているんだ』
と言って、部下の訓練をしていた」
「あの隊長のためなら喜んで命を捨てることができる」
部下にとって、伊舎堂用久と行動を共にすることは当然の成り行きだった。
しかしながら、出撃が間近となった時、浅沼紀平少佐の再三再四の要請に根負けし、浅沼紀平少佐と共に車で登野城にある実家に向かった。
玄関で出迎えた父、伊舎堂用和は伊舎堂用久を上座に座らせた。
厳格な父は3男と根性の別れになることを悟っていた。
特攻隊長就任の経緯も、戦死後の処遇も、戦局の行方も語らず、2人は静かに杯を交わす。
帰りの車中で漏らした言葉が浅沼紀平少佐の脳裡で渦巻く。
「いずれ、敵が沖縄に上陸すれば、私は第1次特攻隊として特攻することになる」
「死ぬことは何とも思わないが、私たちが死んだ後、祖国日本はどうなるだろうか」
「それが心残りです」
如何に特攻機で戦艦を撃沈させようとも、挽回しようがないところまで追い込まれていた。
既に日本は敗戦すると腹を括っていた。
「我々が残っているから心配ない」
それしか浅沼紀平少佐には返す言葉がなかった。
昭和20(1945)年3月25日正午、台湾の第10戦隊が那覇西方海上で米空母2隻を含む大規模な艦隊を発見する。

第9飛行団長は明26日早朝、誠第17飛行隊を基幹とする特別攻撃隊をもって慶良間群島周辺の敵機動部隊に対し左のごとく攻撃すべし
攻撃時刻 0550 編成および攻撃方式 甲編成第1方式
直掩機の装備 爆装備

連絡を受け、隊員たちの賄いをしていた仲宗根千代も大急ぎで弁当を作り、持って行った。
飛行中、機上で食べることができるように、竹の皮に包んだ握り飯弁当だった。
昭和20(1945)年3月25日午後11時50分、戦闘指揮所に隊員や関係者が集合する。
第9飛行団長の柳本栄喜大佐が最後の命令を下す。
「敵はいよいよ我が国土に侵寇しようとしている」
「諸君の成功を祈る」
別れの杯に酒を満たし、白鉢巻き姿の隊員が酌み交わす。
仲宗根千代が食事を作っていた隊員の鉢巻きには
「お母さんお先に」
と書かれていた。
「いずれ私たちも祖国のため殉死する運命を免れないと思っていたので、特別な感情は浮かばなかったけど、今でもあの時の姿が浮かんでくる」
■戦死知らずに面会
出撃時刻は翌昭和20(1945)年3月26日午前4時だった。
「伊舎堂隊長の出撃です。すぐ来てください」
姉・伊舎堂トヨ子の夫である石垣信純の兵舎に整備兵が飛び込んで来た。
石垣信純は現地招集の工兵隊中隊長だった。
兵舎から飛行場まで約1km。
自動車もなく、これが義弟との別れになる。
息を切らせ、走りに走った。
到着した時、伊舎堂用久機は既にエンジンを掛け、プロペラが回り始めている。
もう駄目だ、遅かったと呆然と立ち尽くす。
そこへ誰かが石垣信純の手を取り、急いで搭乗機の近くまで連れて行く。
既に特攻機を守る直掩機は離陸し、上空で待機している。
操縦席で眼前を伊舎堂用久はまさに飛び立とうとしていた。
思わず石垣信純は動こうとする搭乗機にしがみつく。
伊舎堂用久はようやく義兄の姿に気付く。
言葉は一言だけだった。
「姉さんによろしく」
石垣信純が何か言う間もなく、滑走路を駆け、伊舎堂用久機が空に舞い上がる。
言葉も声も無く、その場に崩れ落ちる。
慶良間諸島沖合に艦隊を発見、大型空母2隻、小型空母2隻を含む大艦隊だった。
一斉に駆逐艦の対空砲火が始まり、凄まじい米軍の火力を見せつける。

いまより我、突入す

予定時刻の昭和20(1945)年3月26日午前5時50分、芝崎茂少尉、川瀬嘉紀少尉、黒田釈伍長の順に打電が入る。
伊舎堂用久大尉も体当たり攻撃を敢行する。
昭和20(1945)年6月23日まで続く、沖縄戦の最初の戦いだった。
弁当を届けた仲宗根千代はそのまま司令部に残り、連絡を待っていた。
伊舎堂用久隊突入、成功の報が届く。
歓喜の声も、泣き叫ぶ声もなく、司令部全員が同時に合掌、隊員たちの冥福を祈った。
ただ一人、伊舎堂用久の当番下士官だけが泣き叫び、床に座り込んでいた。
仲宗根千代は忘れられない。
「往時に思いを致す時、あの若さで異性を知ることもなく、青春を楽しむこともなく、只々祖国の安泰と慈母の穏やかなることを念じ、黙々として死の首途に赴いた少年特攻兵の面影は今でも忘れることは出来ません」
「司令部のその時の一種悲壮、感動的な光景は今尚脳裡に浮かんできます」
第1団に引き続き、昭和20(1945)年3月29日に安原正文少尉、昭和20(1945)年4月2日に久保元治郎少尉と有馬達郎伍長、昭和20(1945)年4月8日に林至寛伍長が出撃、昭和20(1945)年5月14日に大門修一少尉、伊舎堂用久隊全員が散華した。
石垣仁中尉は昭和20(1945)年3月22日、台湾沖で戦死、小林茂兵長は台湾での訓練中に事故死していた。
伊舎堂用久が戦死した昭和20(1945)年3月26日、事情を知らない父と母、姉、妹が揃って白保飛行場を訪れる。
出撃が近付いていることを察知、最期になるかもしれないと心づくしのご馳走を携えていた。
いずれ、この日が来ることの心積もりはあったとはいえ、茫然自失となる4人。
周囲も憚らず、地面にうつ伏せて泣きじゃくる母。
姉と妹も母の背に追いすがり声を上げる。
子に先立たれる母ほど、哀切なものはない。
泣き崩れる親子の姿に周りの者も涙を流す。
「武人としての本望ではないか」
父・伊舎堂用和だけは気丈に振る舞うが、心中は慟哭していただろう。
■歌われなくなった唄
伊舎堂用久隊に感状が授与され、ラジオや新聞各紙が一斉に報道する。
石垣島出身の毎日新聞、宮良高夫記者が
「伊舎堂大尉よ。あなたの武勲はふるさとの海に咲く赤い花とともに永久に故郷を飾るのだ」
と記事に書いた。
武功を讃える
「伊舎堂隊の唄」
はかつて、沖縄に暮らす老若男女誰もが知らぬ者がいなかった。
伊舎堂用久の陸士同期、藤森正義の義弟が那覇航空測候所に勤務していた。
日本復帰間もない頃、義弟から那覇の街でよく歌われていると手紙で知らされ、
「沖縄県民の心の中に生き続けていることを嬉しく思う」
と藤森は書き残す。
だが、いつしか伊舎堂用久の武勲が故郷で語り継がれることも、歌が口ずさまれることもなくなった。
伊舎堂用久の長兄の伊舎堂用展、伊舎堂用展の妻・伊舎堂ハツは戦争で命を失った。
伊舎堂用久の父の伊舎堂用和も終戦翌日昭和20(1945)年8月16日に病死した。
八重山諸島では米軍上陸に備え、マラリア有病地域の山間部に疎開して罹患、約3000人が死亡。
「戦争マラリア」
と呼ばれている。
伊舎堂ハツもマラリアで死亡した。
伊舎堂用八7歳を残したままの38歳だった。
伊舎堂用展は米軍と交戦の末、戦死。
両親を失った伊舎堂用八は4女、伊舎堂節子の手で育てられる。
八重山高校教諭などを務め、家を継いだ伊舎堂用八が叔父、伊舎堂用久の志を語ることができる唯一の遺族となった。
「伊舎堂用久戦死の意義は沖縄人の誇りと、自分の故郷は自分で守る気概を持ってほしいというメッセージを後世の沖縄人に伝えようとしたこと」
沖縄県糸満市の平和祈念公園に
「空華(くげ)之塔」
が建立されている。
沖縄戦で戦死した陸海軍の航空将兵を祀っている。
昭和39(1964)年11月1日、遺族を代表して母・伊舎堂ミツが除幕を行った。
それほどに伊舎堂用久の名は重いものだった。
「昭和20年(1945)3月26日は沖縄戦が開始された日として地元紙は大きく報道されるが、沖縄戦第1号の特攻には何も触れられない」
「沖縄県民が特攻史を何も知らない」
意図的に忘却されている歴史の真実に伊舎堂用八は憤怒する。
伊舎堂用八も老齢となった。
伊舎堂用久の位牌や写真、手紙などの遺品は今後どうなるのか、処遇も不明である。
石垣市南ぬ浜町で、平成25(2013)年8月15日に
「伊舎堂中佐と隊員の顕彰碑」
の除幕式が行われた。
戦死から68年後、ようやく建立にこぎつけた。
忘れ去られたまま、月日が経過していた。
顕彰碑建立期成会が発足後、寄付の申し出が殺到、2000人以上、700万円の寄付金が集まる。
寄付者の手紙にこう書かれていた。

顕彰碑が立派に建立され、尖閣を含む沖縄の地の守り神としての役割を果たさんことを祈念しています。
碑には
「郷土と国を愛し、悠久の大義に生きる精神により散華した伊舎堂用久中佐と隊員の遺功」
と記された。
伊舎堂用久の遺詠
「指折りつ 待ちに待ちたる 機ぞきたる 千尋の海に 散るぞ楽しき」
とともに、石垣島から出撃した特攻隊31名全員の氏名、年齢、出身地が刻銘された。

蒼海を望む高台に碑はある。
北には尖閣諸島、西には八重山の島々、その先には台湾がある。
更に先には中国大陸がある。
「祖国日本はどうなるか、それだけが心残り」
出撃直前、魂の底から絞り出された言葉だった。
伊舎堂用久が我々に問いかけている。
国を守るということは何か。
国を守ることは故郷を守り、そこに暮らす父母や兄弟姉妹、祖父母、親戚、友人を守ることだった。
今の祖国を見てどう感じるだろうか。
こんな日本になりましたと伊舎堂用久に見せることが出来るだろうか。
尖閣諸島を跋扈する中国船舶を見せることが出来るだろうか。
日本人として突き付けられている。
歴史の1ページとして郷土から出撃、戦死した伊舎堂用久の人柄、生き方。
現代に生きる我々が先人の犠牲の上にあることを忘れないと共に、もう起きてはならない戦争の凄惨な真実を残すためにも語り継がなければならない。
伊舎堂用久隊出撃から今年2025年でちょうど80年を迎える。
沖縄戦が始まった昭和20年(1945)3月26日。
これからも忘れてはならない日。
石垣島から出撃した誠第17飛行隊。
沖縄戦最初の戦死。
郷土を守ろうとした伊舎堂用久。
日本人が決して忘れてはならない名である。
■地元紙連載が単行本に
当時は軍神とまで崇められながら、戦後は歴史から消されてしまった伊舎堂用久中佐。
せめて地元の人たちには沖縄戦の最初の戦死者について知ってほしいと、筆者は昨年2024年3月から8月に渡り石垣市を拠点とする地元紙・八重山日報で伊舎堂用久中佐について連載した。
その連載が
『歴史に葬られた特攻隊長 〜故郷・石垣島から出撃した伊舎堂用久中佐』
として2025年3月20日、徳間書店から刊行される。
ぜひ一読を乞いたい。

<産経抄>沖縄戦の特攻から80年、忘れてはならないこと
2025/3/27 5:00
https://www.sankei.com/article/20250327-KZCWPGKNIZLJTMJ2FMPZ46PSSM/?674170
日本の悪口を書くのは熱心でも、命を懸けて国を守った先人の歩みを教えるのは苦手だ。
戦後教育の弊害は教科書になお顕著だ。
高校教科書の検定を見て改めて思う。
▼だからこそ知ってほしい。
「死ぬことは何とも思わない。祖国日本はどうなるか。それだけが心残りだ」。
こんな思いを残し、特攻で散華(さんげ)した若者がいる。
80年前、沖縄戦が始まった3月26日早暁(そうぎょう)、伊舎堂用久(いしゃどう・ようきゅう)中佐らの飛行隊は、沖縄県の石垣島にあった白保飛行場から出撃して、慶良間(けらま)諸島沖の米艦隊に突入した。
伊舎堂はそのとき24歳。
▼沖縄戦の陸軍特攻第1号だが、その名は歴史の陰に隠れてきた。
八重山日報(本社・石垣市)の連載をもとに刊行された
『歴史に葬られた特攻隊長』(将口泰浩著、徳間書店)
に詳しい。
沖縄では
「軍人を美化するな」
とされ、特攻を知らない人が多い。
顕彰碑が、伊舎堂の故郷の石垣島に建てられたのも、ようやく、戦後68年を経てだ。
▼同書では伊舎堂の人柄が丹念に描かれている。
旧制中学から進んだ陸軍予科士官学校時代のエピソードもある。
陸軍では作文教育を重視した。
刻々と変わる戦況などを伝える正確な文章力が求められるためだ。
毛筆、文語で書く修練も。伊舎堂の文は達筆、簡潔で力強かった。
▼伊舎堂が戦死した日、事情を知らない家族らは心づくしのご馳走を携えて白保飛行場を訪ねた。
戦死の報に泣き崩れる母の傍ら、父は
「本望ではないか」
と気丈に語ったという。
婚約者との再会は、叶わなかった。
▼それから80年の2025年3月26日、海を望む顕彰碑前で慰霊祭が行われた。
碑には伊舎堂隊だけでなく石垣島から出撃した特攻隊ら32人の氏名、年齢、出身地が記されている。
忘れてはならない歴史である。

「特攻隊員は任務と覚悟、最後まで貫いた」宮本雅史編集委員が講演 沖縄「正論」友の会
2025/1/17 17:40
https://www.sankei.com/article/20250117-FEPV2NRRTFJ4NNHNMZ7G4H6WYQ/
沖縄「正論」友の会第65回セミナーが2025年1月17日、那覇市内で開かれ、特攻隊の元隊員や遺族への取材を続けている産経新聞の宮本雅史客員編集委員が
「特攻と沖縄〜特攻隊唯一の目撃者・沖縄県民〜」
と題して講演した。
宮本氏は先の大戦末期、陸軍特攻の先陣を切った石垣島出身の伊舎堂用久中佐はじめ、米軍の沖縄侵攻を阻止するために出撃し、命を散らせた特攻隊員のエピソードを紹介。
「沖縄の海で亡くなった特攻隊員を最後に目撃したのは沖縄の人たちだった」
と指摘した。
沖縄戦を巡り、日本が沖縄を
「捨て石」
にしたという非難があることに触れ、
「『捨て石』のために死んだというのか」
「そんな失礼なことは申し訳なくて言えない」
と強調。
「任務と覚悟。若い彼らはそれを最後まで貫いた」
と述べた。
また、戦後80年を振り返り、
「日本は裕福になったかもしれないが、権利ばかり主張し、義務という言葉を忘れてしまった」
と憂慮した。

すすり泣き漏れる客席 沖縄で特攻隊題材に演劇舞台 石垣市長「平和のありがたみ感じた」
2024/10/19 19:18
https://www.sankei.com/article/20241019-5Q55Z5O4XZIH5EMDVZQ3E523PU/
先の大戦末期、米軍の沖縄侵攻を阻止するため出撃していった特攻隊員を題材にした演劇舞台
「未来へつむぐ〜今をありがとう」
の沖縄公演が2024年10月19日、那覇市のパレット市民劇場で開催された。「特攻を美化してはいけない」
「しかし特攻の事実は絶対に風化させてはならない」
との思いが込められた作品で、客席からは何度もすすり泣きが漏れた。
公演は2024年10月20日まで。
いじめを受けていた現代の女子学生(廣木葵)が元特攻隊員の曽祖父(尾藤イサオ)から靖国神社に行くよう勧められ、そこで79年前の知覧飛行場にタイムスリップするというストーリー。
女子学生は飛行場で、出撃を待つ若かりし日の曽祖父(長谷川幹)と出会い、特攻隊員らの身の回りの世話をしていた
「なでしこ隊」
の一員として過ごし、命の尊さや人を思いやる大切さを知る。
知覧特攻平和会館(鹿児島県)の初代館長を務め、平成27年に90歳で亡くなった元陸軍特攻隊員の板津忠正さんがモデルとなっている。
日本文化を広めている一般社団法人「つむぎジャパン」(東京)代表の野田憲晴(けんせつ)さん(59)が、板津さんの長男、昌利さん(67)に取材し、脚本を書いた。
■ようやく実現した沖縄公演
主催者によると、
「未来へつむぐ」
の初演は平成26年だが、沖縄公演の実現には時間がかかったという。
特攻隊に対する県民感情などを考慮していたためだ。
ところが2年前、当時県立高校の教諭だった赤嶺剛さん(51)がたまたま東京公演を観劇。
「沖縄では
『日本兵に悪いことをされた』
と語られる一方、特攻隊のことは何も伝えられていない」
「沖縄の子供たちにこの事実を伝えるべきだ」
と沖縄での上演を強く求めたことがきっかけとなり、昨年2023年8月に初めて沖縄公演が実現した。
好評を博し、今年2024年も開催することになったという。
沖縄戦を巡っては、日本が沖縄を
「捨て石」
にしたとの批判があるが、実際は、沖縄を守ろうと九州などから陸海軍の特攻機2571機や空挺隊が出撃しており、戦艦「大和」も沖縄への海上特攻作戦で沈み、3千人以上が戦死している。
劇中でも、特攻隊員たちが
「沖縄を守り、本土を守るのは自分しかない」
と決意し、上官も
「一刻も早く米軍から沖縄を守り、本土への攻撃を防ごう」
と語る場面があった。
■先陣切った伊舎堂中佐
今回の沖縄公演では、沖縄戦の陸軍特攻第1号として先陣を切った石垣島出身の伊舎堂用久(いしゃどうようきゅう)中佐も登場している。
米軍の沖縄侵攻を阻止するために飛び立ち、命を散らせた旧日本陸軍特攻隊員1036人の一人だ。
伊舎堂中佐の郷里・沖縄県石垣市の中山義隆市長も2024年10月19日の公演に駆け付けた。
中山市長は
「特攻隊の皆さんの気持ちがリアルに伝わってきた」
「平和の有難味を改めて感じた」
と公演を振り返り、
「沖縄を守ろうとして亡くなっていった人たちがいた」
「特攻隊の歴史を伝えていかなければならない」
と強調した。
2024年10月20日の公演は2回。
午前11時半と午後3時にそれぞれ開演する。
まだ席に余裕があるといい、2024年10月19日の公演終了後、
「なでしこ隊」
率いる教師役を好演した女優の小田茜さん(45)は
「お待ちしています」
と、1人でも多くの県民の来場を呼びかけていた。

先陣切った石垣島出身の特攻隊長・伊舎堂中佐 「沖縄で伝えられていない歴史」那覇で公演
沖縄考(49) 那覇支局長・大竹直樹
2024/10/9 9:00
https://www.sankei.com/article/20241009-XKO5UBQTEFLSPONW6CX7L2XR6E/
■沖縄県民の拒絶反応
「こら、いらないわ」
受け取ったチラシを一瞥(いちべつ)すると、そう言ってすぐに突き返されたという。
特攻隊員を題材にした演劇舞台の沖縄公演。
プロデューサーを務める石神隆弘さん(57)は
「公演の支援を求め沖縄の経営者を回ったが、4割くらいの人が拒絶反応を示し、チラシも受け取ってくれなかった」
と述懐する。
資料・撮影協力の欄に、靖国神社や鹿児島県の知覧特攻平和会館と記載されていたのが理由ではないかと、石神さんはみる。
演劇舞台
「未来へつむぐ〜今をありがとう」
は、知覧特攻平和会館の初代館長を務め、平成27年に90歳で亡くなった板津忠正さんをモデルにしたオリジナル作品だ。
板津さんは元陸軍特攻隊員の生き残りで、戦後は特攻隊員の遺影や遺品を集めて回った。
日本文化を広めている一般社団法人「つむぎジャパン」(東京)代表の野田憲晴(けんせつ)さん(59)が、板津さんの長男、昌利さん(67)に取材し、脚本を書いた。
いじめを受けていた現代の女子学生が元特攻隊員の曽祖父から靖国神社に行くよう勧められ、靖国神社で79年前の知覧飛行場(鹿児島県)にタイムスリップ。
出撃を待つ若かりし日の曽祖父と出会い、特攻隊員らの身の回りの世話をしていた
「なでしこ隊」
の一員として過ごし、命の尊さや人を思いやる大切さを知る−というストーリーである。
今月2024年10月19、20日に那覇市のパレット市民劇場で行われる沖縄公演では、脚本の一部を変更し、石垣島出身の伊舎堂用久(いしゃどうようきゅう)中佐が回想シーンに登場する。
先の大戦末期、米軍の沖縄侵攻を阻止するために飛び立ち、命を散らせた旧日本陸軍特攻隊員1036人の1人だ。
誠第17飛行隊を率いる伊舎堂中佐は昭和20年3月26日、沖縄戦の陸軍特攻第1号として郷里の石垣島にあった白保飛行場から出撃。
慶良間(けらま)諸島沖の米艦隊に突入した。
24歳であった。
■「避けてきた」沖縄公演
「未来へつむぐ」
の初演は平成26年。
以来、年2回の頻度で全国各地で上演されてきたが、特攻隊に対する県民感情を考慮し、沖縄公演は
「ずっと避けてきた」(石神さん)
という。
そこに、転機が訪れる。
那覇市で教育コンサルタントを務める赤嶺剛さん(51)との出会いだ。
今から2年前2022年、当時県立高校の国語科教諭だった赤嶺さんは
「未来へつむぐ」
の東京公演をたまたま観劇。
「沖縄では
『日本兵に悪いことをされた』
と語られる一方、特攻隊のことは何も伝えられていない」
と衝撃を受け、
「沖縄の子供たちにこの事実を伝えるべきだ」
と痛感したという。
教諭時代は沖縄県教職員組合に所属していたが、
「未来へつむぐ」
の東京公演を見て、赤嶺さんは
「沖縄で伝えられていない歴史」
に気付いたのだ。
初の沖縄公演に向けて奔走。
残念ながら、県教育委員会には後援依頼を断られてしまったが、公演自体は昨年2023年8月、那覇市で実現した。
観客席では涙を拭う人が絶えず、若い学生らから
「真実を教えてくれてありがとう」
といった反応も寄せられた。
同世代の特攻隊員たちの至情に接し、きっと万感胸に迫るものがあったのだろうと推察する。
同世代といえば、パリ五輪で戦った卓球女子メダリストの早田ひな選手(24)は2024年8月、帰国後の記者会見で
「鹿児島の特攻資料館に行き、生きていること、そして、卓球が当たり前にできていることが、当たり前ではないというのを感じたい」
と語っていた。
この発言が中国や韓国で物議を醸したと報じられた。
戦争を肯定したわけでも特攻隊を美化したわけでもなく、平和な時代に生きていることに感謝し、戦争と平和の意味を考えたいという、この言葉のどこをどう曲解すればそんな反応になるのか。
理解に苦しむ。
■タブー視された特攻隊と日の丸
沖縄では、平和を守るための防衛力強化でも
「戦場にするな」
「軍拡やめろ」
との批判が渦巻く。
軍は
「悪」
と否定されてきた経緯があり、特攻隊や靖国神社という言葉に拒絶反応を示す県民がいるのも事実だ。
こうした県民の反応は、沖縄が歩んできた歴史と密接に関係している。
大戦末期に始まった沖縄戦では、米軍が空襲や艦砲射撃など猛攻撃を加えた
「鉄の暴風」
が吹き荒れた。
当時の県民の4人に1人が犠牲になり、戦後は米軍統治を経験している。
県民は心から早期の本土復帰を願った。
願いを込めて旧国鉄の特急列車に
「なは」
と命名したほどである。
だが、本土から革新勢力が流入し、県民の思いとは裏腹に、組織的な反米軍基地闘争や反日運動へと復帰運動が変質。
革新勢力は沖縄の教育界や言論界に大きな影響を及ぼしていく。
復帰の象徴だった日の丸すら、戦争のエンブレムであるがごとくタブー視された。
いわんや、国や家族を思う一心で尊い命を捧げた特攻隊員をや、である。
伊舎堂中佐の郷里である石垣市の中山義隆市長(57)は今月の沖縄公演を観劇する予定だという。
「演劇舞台を通じ沖縄出身の特攻隊員がいたということを多くの県民に知ってもらいたい」
と語っていた。
沖縄県民の代表として選ばれた玉城デニー知事にも是非、虚心坦懐の気持ちで沖縄公演をご覧頂きたいものだ。
旧日本軍が特攻を始めて今月2024年10月25日で80年。
陸軍特攻の先陣を切り、石垣島の白保飛行場を飛び立った沖縄出身の伊舎堂中佐ら特攻隊員たちに思いを馳せてほしいと願っている。

早田ひなさん「特攻資料館に行きたい」発言の背景 「先人への感謝」抱く若者たち
正論モーニング
2024/10/30 7:00
https://www.sankei.com/article/20241030-GZPMY6WJ75K7HCMZZZC6GXTZFU/
先の大戦で、爆弾を抱いた航空機や潜水艇などで米軍艦艇に体当たりした
「特別攻撃(特攻)」
を帝国陸海軍が開始して、今月2024年10月で80年。
この夏には、パリ五輪・卓球女子メダリストの早田ひなさんの
「鹿児島の特攻資料館に行きたい」
発言が反響を呼んだ。
スポーツ選手と
「戦争」
の組み合わせには意外性も感じるが、実は
「鹿児島の特攻資料館」
には、スポーツ合宿や社員研修で訪れるアスリートや企業が相次いでいるという。
■映画・小説に感銘受ける?
早田さんは2つのメダルを獲得したパリ五輪から帰国した今年2024年8月13日の記者会見で、
「今やりたいこと」
を問われ、
「鹿児島の特攻資料館に行って、生きていること、そして自分が卓球がこうやって当たり前にできていることというのが、当たり前じゃないというのを感じてみたい」
と発言した。
散華した特攻隊員たちに感謝する発言が保守層から好意的に受け止められた一方で、中国や韓国からは
「軍国主義を賛美している」
などの批判が起きた。
国内外で反響を呼んだ結果、早田さんがなぜ特攻に関心を持ったのかが注目された。
週刊誌では、警察署長だった祖父や、幼少期から指導した卓球クラブ代表らの影響ではないか、などと報じられた。
昨年2023年12月に公開され、大ヒットした映画
『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』(以下、『あの花』)
の影響を指摘する声も多かった。
現代の女子高校生(原作小説では中学生)が大戦末期の日本にタイムスリップし、特攻隊員と恋に落ちるストーリーで、原作の小説も100万部を超えるベストセラーとなっている。
筆者も
『あの花』
説に賛成だ。
ヒントは、
「鹿児島の特攻資料館」
という早田さんの発言自体にある。
鹿児島県内の特攻隊関連の施設は、
「知覧特攻平和会館」(南九州市)

「万世特攻平和祈念館」(南さつま市)
が知られている。
海上自衛隊の鹿屋航空基地史料館(鹿屋市)の展示にも特攻隊員の遺影や遺書が多い。
だが、
「特攻資料館」
という名称の施設はない。
一方、
『あの花』
の原作小説では、現代に戻った主人公が訪れる施設が
「特攻資料館」
と呼ばれ、物語上重要な場所になっている。
早田さんは映画だけでなく小説も読み、記者会見で
「特攻資料館」
という言葉が口をついて出たのではないかと思われる。
『あの花』
には、こんな一節がある。
主人公が、タイムスリップ中に出会った特攻隊員たちを思い、心の中で語りかける言葉だ。
≪あの夏、空に散ってしまったみんな。(中略)/私は今、あなたたちが守ってくれた未来を生きています。/あなたたちが願った、明るい未来を生きています。
素晴らしい未来を私たちに残してくれてありがとう。/あなたたちのことは絶対に忘れません。あなたたちの犠牲は絶対に忘れません。/あなたたちが命を懸けて守った未来を、私は精いっぱいに生きます≫
生きていることや卓球をできることが
「当たり前ではない」
という早田さんの発言に通じるものがある。
■アスリートの研修に
その知覧特攻平和会館が、アスリートや企業の研修に盛んに利用されているのを見い出したのは、帝京大学の井上義和教授だ。
大切な家族らの幸せと祖国の未来のために命を捧げた特攻隊員の物語に触れることで自分の生き方を見つめ直し、前向きな意識状態に持っていく。
井上教授は、同会館が2000年以降、そんな
「自己啓発の聖地」
となっていることを、
『未来の戦死に向き合うためのノート』(平成31年)
で紹介した。
ただそうした自己啓発目的の利用はメディアで報じられることもなく、学術研究や論壇のテーマ設定の対象外で、口コミなどで広がるだけ。
今回の早田さんの発言も驚きをもって報じられたが、彼女のようなアスリートの見学は実際には珍しくなかったのだ。
ちなみに、井上教授が同書で平和会館を訪問したと紹介しているトップレベルのアスリートは、女子バレーボールの日本代表チーム▽松井秀喜、西岡剛、木佐貫洋らプロ野球選手▽ラグビーU20日本代表チーム―たちだ。
彼らアスリートや、社員研修で会館を見学した人たちの感想は、概ね、以下の内容だという。
「戦争の時代を思えば、平和な時代に生きている私たちは幸せ」
「競技に打ち込める平和な時代に感謝」
「特攻隊員のことを思えば、今の自分の苦労など何でもない」
「特攻隊員の勇敢さや家族愛に心を打たれ、自分も見習おうと思う」
「特攻隊員は祖国の未来を思って出撃した」
「私たちが今あるのも彼らのおかげ」
「彼らに恥じない生き方をする」
先人への感謝の念を抱き、前向きな生き方を決意するものが多く、展示が軍国主義や戦争を賛美するものではないことが浮かび上がる。
逆に戦争への批判的な思いが込められている感想もある。
「平和」
を守るために本当に必要なことに思いを致した見学者も多いだろう。
■「世界の記憶」登録を
同会館を見学する早田さんらアスリートや若い人たちを的外れな批判の矢面に立たさないために、提案したいことがある。
かつて知覧特攻平和会館が申請した国連教育科学文化機関(ユネスコ)の
「世界の記憶」(世界記憶遺産)
への登録を再び目指すことだ。
同会館は、平成26(2014)年と平成27年に登録を申請した。
だが2度ともユネスコの国内委員会の審査で落選。
以降は申請を見送っている。
当時、中国や韓国が申請を批判しており、それが落選の一因になったというイメージが広がったことは否めない。
「軍国主義だ」
との批判が説得力をもってしまったのだ。
知覧特攻平和会館の川崎弘一郎館長は
「新たな申請の具体的な計画はないが、諦めてはいない」
「申請に向けて資料の収集や整備を進めている」
と話す。
ぜひ登録を目指してほしい。
実現すれば、軍国主義批判が見当外れだと広く理解されるはずだ。
(大阪正論室参与)

「特攻資料館に行きたい」卓球・早田ひなに称賛の声 終戦の日を迎え投稿増加 著名人も反応「有難う、早田さん」感謝の思い
2024.8/15 11:38
https://www.zakzak.co.jp/article/20240815-AZJPWZKAIRPJ5CMPCUVM7X4IZ4/
パリ五輪で卓球女子シングルスで銅、団体で銀メダルを獲得した早田ひな(24)=日本生命=の、
「鹿児島の特攻資料館に行きたい」
発言への称賛が止まらない。
SNSでは早田を讃えるコメントが並び、著名人も絶賛した。
特攻隊員の遺品や関係資料を展示する
「知覧特攻平和会館」(鹿児島県南九州市)
が改めて、大きな注目を浴びている。
早田は2024年8月13日の帰国会見で、休養中に行きたい場所について
「アンパンマンミュージアム」
と共に、知覧特攻平和会館を挙げて
「生きていることを、そして自分が卓球を当たり前に出来ていることが当たり前じゃないと感じたい」
と述べた。
この発言に対し、SNSでは
「早田選手ありがとう」
「この人は偉いよ」
「彼女の姿勢から、私たちも日々を大切にしなきゃって気づかされる」
「元々好きな選手だったけど、物凄く好きな選手になった」
などの声が続々と投稿された。
終戦の日を迎えた2024年8月15日も増え続けている。
著名人も反応した。
作家でジャーナリストの門田隆将氏は2024年8月14日、自身のXに、
「(アンパンマンの作者の)故やなせたかし氏も、知覧の亡き特攻兵たちも、きっと驚き、そして喜んでいるだろう」
「有難う、早田さん」
と感謝の思いを綴った。
知覧特攻平和会館には、パリ五輪の女子マラソンで6位入賞した鈴木優花(24)=第一生命グループ=らの五輪アスリートが訪れている。
今年2024年2月に訪問した鈴木はXに
「この時代に生きているということだけでありがとう、と思った」
と投稿していた。

<主張>特攻隊80年 国を挙げて追悼と顕彰を
社説
2024/10/25 5:00
https://www.sankei.com/article/20241025-5JB2TZTQDFL55HQGLLS5FOESF4/
亡くなった御霊(みたま)に心から頭(こうべ)を垂れたい。
先の大戦(大東亜戦争)の末期、およそ6000人もの特別攻撃(特攻)隊員が、日本を守るために出撃して散華した。
第1陣である海軍の神風(しんぷう)特別攻撃隊がフィリピン・レイテ島沖の米艦隊に突入してから80年を迎えた。
特攻隊員を偲(しの)び、日本の独立と平和を維持する大切さを嚙(か)みしめたい。
先の大戦で日本軍は約230万人が亡くなった。
太平洋の島々での玉砕など多くの壮絶な戦いがあった。
その中で、生還を期さない特攻隊は信じ難いほどの勇気を示した存在として知られる。
昭和19年10月25日、日米海軍の主力が激突したフィリピン沖海戦で、関行男(せきゆきお)大尉率いる敷島隊などの零戦や艦上爆撃機が体当たりし、護衛空母1隻撃沈などの戦果をあげた。
昭和20年3月以降の沖縄戦では、陸海軍の特攻機2571機や空挺隊が出撃した。
人間魚雷「回天」による海中特攻や、小型艇「震洋」による海上特攻も行われた。
生還を期さない特攻は、立案者の大西瀧治郎(たきじろう)海軍中将自身が
「統率の外道」
と認めていたように戦術として正常ではない。
大西中将は終戦直後、介錯なしの切腹で自決している。
特攻は戦後、
「軍国主義の象徴」
などと批判された。
選ばざるを得なかったとはいえ、前途有為の青年の特攻に頼った当時の軍へ批判があるのは当然だろう。
現代日本は特攻のような究極の戦術を取らずとも国を守るため、外交、防衛の手立てを講ずる必要がある。
特攻にさらされた米軍は大きな損害を被った。
特攻は400隻以上もの米艦や多数の米軍将兵に損害を与え、米軍上層部に深刻な危機感を植え付けたことが戦後の研究で明らかになっている。
特攻を
「カミカゼ」
と呼んだ米軍は、異常な戦術と見做す一方、特攻隊員には敬意を払う米軍人も多かった。
特攻は、世界が日本人を強い存在と見做す一因となり、戦後の日本も守ってくれている。
特攻に赴いた将兵1人1人に様々な思いがあったことを想像する時、尊敬と悲しみの念が一緒に浮かんでくる。
日本は、亡くなった隊員を忘れてはならず、国として顕彰と慰霊を厚くしなければならない。

<産経抄>特攻隊のこともっと知ろう   
2024/5/6 5:00
https://www.sankei.com/article/20240506-USONYG7E7JIZ7LJMBRVIAWKESY/
学校では多くのことを教えてくれるが、あまり教えてくれないこともある。
先の大戦末期に国を守ろうと命を懸けた特攻隊員のこともどれだけ知っているだろうか。
今年2024年は昭和19年に特攻隊が組織され80年の節目に当たる。
翌昭和20年春から夏にかけたこの季節に多くの若い隊員が命を失った。
▼伊舎堂用久(いしゃどう・ようきゅう)中佐の名前を知っている人も多くないだろう。
中佐らの飛行隊は、沖縄戦の陸軍特攻第1号として、石垣島にあった白保飛行場から出撃し、慶良間諸島沖の米艦隊に突入した。
中佐は24歳の若さだった。
▼恥ずかしながら八重山日報(本社・石垣市)でいま連載している
「歴史に葬られた特攻隊長」
で名を知った。
沖縄では戦後、軍人は
「悪」
などと否定され、沖縄戦で特攻があったことも知らない人が多い。
産経新聞OBの作家、将口泰浩さんが執筆している同連載タイトルもそうした歴史を踏まえたものだ。
▼中佐の生まれ故郷は石垣で、陸軍士官学校から陸軍入隊後、中国大陸などの任地を転々とした。
そしてようやく戻った故郷の基地から最後の出撃をした。
▼連載の中では、部下を気遣う人柄や家族を思う気持ちが描かれている。
中佐を知る人の
「国を思う国民の心なくして平和も人権も生活もあり得ない」
「伊舎堂中佐が守ってくれたからこそ、こうやって今、我々は生きている」
という言葉は重い。
▼ところが相変わらず特攻隊を否定的に捉える向きがある。
来年2025年春から使われる令和書籍の中学歴史教科書で
「特攻隊員が散華しました」
といった記述にも批判があるようだ。
「国のために命を捨てることが美化され、怖い」
などと言うが、国のために命を懸けた先人について教えない教育こそ、見直すときではないか。

直球&曲球
葛城奈海 桃李ものいわざれども
2023/11/2 10:00
https://www.sankei.com/article/20231102-LVVBMZB6N5IDXAICCUC23ECXLM/
今年2023年の桜島はいつになく噴火の頻度が激しいという。
2023年10月だけで60回(2023年10月23日現在)を数えると聞き、危惧していた火山灰の影響もなく、
「防人と歩む会」
の研修旅行で訪れた2023年10月28日の鹿児島は抜けるような秋晴れに恵まれた。
湖のように穏やかな錦江湾越しに桜島を望みつつ、かつて九州最南端の陸軍特攻基地があった知覧に向かう。
1036人が戦死した沖縄戦陸軍特攻の先陣を切ったのは石垣島出身の伊舎堂用久(いしゃどうようきゅう)中佐だ。
昭和20年3月26日、同中佐率いる誠第十七飛行隊が飛び立った石垣島には地元有志による立派な顕彰碑が建てられている。
以前訪れた際、目にした中佐の遺詠に心を鷲掴みにされた。

指折りつ待ちに待ちたる機ぞ来る 千尋の海に散るぞたのしき

何という清冽(せいれつ)な心持ちだろう。
悲壮感などみじんもなく、待ちかねていた機体をついに得たことへの湧きたつような喜びと、納得のいく死に場所を得た満足感に満ち溢れている。
伊舎堂中佐は自身の家族が差し入れなどにやってきても、郷里が遠い部下のことを慮り面会しなかったという。
存在を知って以来敬意を抱き続けてきたその人の名前と写真を、今回知覧の特攻平和会館で見つけ、胸が高鳴った。
しかも、これまで目にしたことのない、自筆による家族への遺書も展示されているではないか。
そこには今頃故郷では桜や桃の花が咲き鶯(うぐいす)がさえずっているであろうことが記され、
「桃李(とうり)ものいわざれども下自(おの)ずから蹊(みち)を成す」
という古文を引用。
桃やスモモはその実を採るために人が寄ってきて自然と小道ができる。
そのように人が自然と集まってくる徳のある人間になりたいと認(したた)められていた。
伊舎堂中佐はまさにそのような人として生き、散華した。
24歳にして、そこまでの境地に達していたことにも尊敬の念を禁じえない。翻って今を生きる私たちは、どうか。
私たちを守るために命を散らした先人たちは、まさに
「ものいわぬ桃李」
であろう。(英霊たちに思いを寄せて)

錦秋の錦江湾にさしのぼる 朝日拝みて防人思ふ


【プロフィル】葛城奈海
かつらぎ・なみ
防人と歩む会会長、皇統を守る国民連合の会会長、ジャーナリスト、俳優。昭和45年、東京都出身。
東京大農学部卒。
自然環境問題・安全保障問題に取り組む。
予備役ブルーリボンの会幹事長。
近著に『日本を守るため、明日から戦えますか?』(ビジネス社)。

特攻隊員慰霊祭、遺族ら祈り 鹿児島・知覧
2022/5/3 19:37
https://www.sankei.com/article/20220503-N3ZWDWA6OZKQFOFMRE3IWIC5RE/
第二次世界大戦末期の沖縄戦で亡くなった旧日本陸軍特攻隊員の慰霊祭が2022年5月3日、鹿児島県南九州市の知覧特攻平和観音堂前で営まれた。
3年ぶりに全国から遺族が参列し、約200人が平和への祈りを捧げた。
慰霊祭では、黙禱や焼香をして1036人を追悼。
19歳で亡くなった渡辺次雄少尉の弟の無職、渡辺茂さん(83)は、次雄さんとの最後の別れとなった駅のホームでの場面を紹介し
「命の尊さを語り継ぐことを誓う」
と話した。
遺族らの一部は隣接する平和会館も訪問。
最初に出撃し、24歳で亡くなった特攻隊長の伊舎堂用久中佐を取り上げた企画展を観覧した。
伊舎堂中佐が家族や婚約者に宛てた手紙などが展示されており、沖縄県の石垣島から訪れた中佐の兄の孫に当たる教員、伊舎堂用右さん(51)は
「先祖のことを分かりやすく伝えてくれて感動した」
と話した。


[18初期非表示理由]:担当:スレと関係が薄い長文多数のため全部処理。自分でスレを建てて好きな事を投稿してください

18. 多摩散じん[405] kb2WgI5VgraC8Q 2025年6月25日 15:40:22 : nWD65rNKI6 : R0JWRDJ4NFRkVnc=[90] 報告
>16 ボケ老人=楽老さんへ。

 多摩散人です。

 またまた、

 「中国は攻めて来ないから沖縄での戦争の準備はいらない」か。

 何度も言っているが、沖縄で戦争の準備をしているから、中国は攻めて来ないんだよ。攻めて来ないとは言い過ぎで、実際は少しずつ侵略しているじゃないか。

 平和だから戦争は要らない、じゃなくて、戦争・軍備があるから平和なんだよ。

 あなたの思考はどうしても「非武装中立」から抜けられない。

 沖縄は、どこをどう守るべきなんですか。それに答えないのは、本心は「非武装中立」を信じているんだよ。「非武装中立」なら、日米安保は不要、自衛隊員はゼロ人、国防費はゼロ円を主張しなさいよ。

19. 楽老[5946] inmYVg 2025年6月25日 22:01:56 : BOk6mbQWFk : M0VzdzM0ajlEbjY=[402] 報告
>>18.:戦争・軍備があるから平和なんだよ。

ヘーッ そうなんだ。
だから、中東、ウクー露は平和なんだ(大笑い)

20. 位置[1468] iMqSdQ 2025年6月25日 22:06:04 : f4UDsj0Syk : ZGl2MlJnTnhOTjI=[96] 報告
クソデマは飯食うカネを死の商人共に取られても、文句を云わないんだね。

戦争協力に邁進する真の非国民なんざ、そういう奴ばっかだけどよ。

21. 多摩散じん[406] kb2WgI5VgraC8Q 2025年6月25日 23:22:38 : nWD65rNKI6 : R0JWRDJ4NFRkVnc=[91] 報告
>19 ボケ老人=楽老さんへ。

 多摩散人です。

 戦争の準備・軍備は、平和のために使えば平和に役立ち、戦争のために使えば、戦争に役立つ。

 人殺しのピストルは人殺しに役立つ。警官のピストルは人殺しの防止に役立つ。

 世の中にピストルがなければ、人殺しはなくなると思いますか。

 ピストルを廃絶すれば、かえってピストルで殺される人が増えるんです。

あなた自身、自衛隊は9条違反ではないとウソをついてまで、戦争の準備・軍備を肯定しているではないか。

 あなたは、自衛隊は9条違反ではないとウソ発見器の前で言えますか。

 それともあなたは、自衛隊員ゼロ人、防衛費ゼロ円にすれば日本は平和になると主張するんですか。

22. 多摩散じん[409] kb2WgI5VgraC8Q 2025年6月26日 06:29:53 : nWD65rNKI6 : R0JWRDJ4NFRkVnc=[94] 報告
>19 ボケ老人=楽老さんへ。

 多摩散人です。

 十年以上も私の教えを受けていて、まだそんな初歩的な、トンマなことを言っているのかい。

23. 多摩散じん[410] kb2WgI5VgraC8Q 2025年6月26日 06:43:54 : nWD65rNKI6 : R0JWRDJ4NFRkVnc=[95] 報告
>20

 多摩散人です。

 武器の生産者や武器の商人も、八百屋や魚屋と同じで、タダでは仕事をしないだろうね。慈善事業じゃあないからね。

 あなたは、武器商人を儲けさせないために、日本の警察や軍隊が武器を持つことを禁止すべきだと思いますか。

 日本の警察や軍隊が武器を持たなければ、確かに日本の死の商人は儲けないだろう。しかし、日本は外国に征服されて、外国の武器商人の作った武器で支配されますよ。

24. 楽老[5947] inmYVg 2025年6月26日 09:55:28 : BOk6mbQWFk : M0VzdzM0ajlEbjY=[403] 報告
<▽31行くらい>
>>19.の続き

呵々大笑
[類語]笑止千万・ばかばかしい・馬鹿らしい・馬鹿臭い・詰まらない・馬鹿・愚か・愚かしい・阿呆らしい・阿呆臭い・下らない・馬鹿げる・愚劣・無思慮ぶしりょ・無考え・浅はか・浅薄せんぱく・軽はずみ・軽率・笑い事・笑止・片腹痛い・噴飯物・噴飯・笑い・大笑い・高笑い・哄笑・爆笑・抱腹絶倒・笑い崩れる・笑い転こける・笑い転げる・吹き出す・腹の皮を捩よじる・腹の皮を縒よる・腹を抱える・御中おなかを抱える・頤おとがいを解く・愚にも付かぬ・へそで茶を沸かす・へそ茶・聞いてあきれる・ちゃんちゃらおかしい

現在軍備を持たない独立国家は20〜30ヶ国存在します。
軍備の定義により数が変動します。
最も古いのはサンマリノ共和国。301年の国家成立以来数回、一時的に占領された時期もあったが1700年間非武装で独立を保っています。
この小国に軍備があったとしてムッソリーニの占領を免れ得たでしょうか?

軍備を持たないがために、やすやすと外国の介入を許し、消滅した国家もあります。
身近な所では琉球王国がそうです。
だからこそ、与那国や先島諸島等々が捨て石として整備されているのです。
日本本土や米軍にとっては意味のある整備かも知れませんが、軍事整備される島々にとっては有事の捨て石に他なりません。

過去の沖縄戦で住民の犠牲は4人に一人と云われ、捨て石だからこそ犠牲となったのです。

非武装でありながら平和的に安定を保っている特異な例としてコスタリカとアイスランドがあります。
アイスランドは地政学的に恵まれ、他国からの侵略リスクが極めて低いということが挙げられます。
コスタリカはキナ臭い中米にありながらも、1983年に永世中立を宣言し、国際法と国連を重視した外交を展開し、敵を作らない姿勢が信頼を築いています。
この両国に共通するのは国民の高い支持と国際機関への積極的な参加、平和的な外交姿勢が安定を支えています。

翻って
軍事強国ほど戦争をしている現実があります。

>>18.:戦争・軍備があるから平和なんだよ。

ヘーッ そうなんだ。
だから、中東、ウクー露は平和なんだ(大笑い)

   

25. 多摩散じん[411] kb2WgI5VgraC8Q 2025年6月26日 10:14:14 : nWD65rNKI6 : R0JWRDJ4NFRkVnc=[96] 報告
>24 ボケ老人=楽老さんへ。

 多摩散人です。

 その話はあなたと、もう10年以上議論してきたから、取り敢えず反論は後回しにするとして、

 あなたは、今の日本は、どのようにして国家と国民の安全を守るべきだと思いますか。だいたいでいいから教えて下さい。特に、トランプが大統領になってから、日米安保も信頼が揺らいできましたね。まあ、もともと信頼できないのがはっきりしてきたという考えもあるが。

 やはり、安保と、自衛隊と、憲法が主要な話題になると、私は思うが。

26. 多摩散じん[412] kb2WgI5VgraC8Q 2025年6月26日 10:27:10 : nWD65rNKI6 : R0JWRDJ4NFRkVnc=[97] 報告
>25 ボケ老人=楽老さんへ。追加。

 多摩散人です。

 それから、あなたは、今の日本の沖縄、与那国、先島諸島等々は、どのようにして地域と地域民の安全を守るべきだと思いますか。

27. 楽老[5948] inmYVg 2025年6月27日 08:13:40 : BOk6mbQWFk : M0VzdzM0ajlEbjY=[404] 報告
捨て石という言葉の意味が分かってない人が居るようだ😖😖😖

歯が立たない議論は後回しにと逃げて
後になって説明したことが一度でもあったっけ

(>16.)からの再掲
戦争を煽ってるのは悪メリカ基地と悪メリカ防衛隊
大日本帝国皇軍は沖縄防衛など眼中になく、本土防衛の捨て石になっただけ。
今も与那国や先島諸島等々が捨て石として整備されている。

これに対して

【平和だから戦争は要らない、じゃなくて、戦争・軍備があるから平和なんだよ。】

と宣う馬鹿が居た

ヘーッ そうだったのか
だから、中東、ウクー露は平和なんだ(大笑い)

   

28. 多摩散じん[413] kb2WgI5VgraC8Q 2025年6月27日 10:15:07 : nWD65rNKI6 : R0JWRDJ4NFRkVnc=[98] 報告
>27 ボケ老人=楽老さんへ。

 多摩散人です。

>歯が立たない議論は後回しにと逃げて 後になって説明したことが一度でもあったっけ

 ボケ老人=楽老さんは、こういう風に「多摩散人は議論の順序をごまかして、逃げている」という風に言って、実は自分が逃げている議論の仕方が、今までに何度もあった。

 公平な立場から見れば、「議論の順序に関する意見が双方で違っていて、その順序の問題を議論しているうちに本筋の議論がどこかに行ってしまう。」ということになるかな。

 私が「では、私はあなたのどういう質問に答えればいいのか」と質問すると、「それはちゃんと書いてある」と言って、答えない。

では、私はあなたのどういう質問に答えればいいのか。面倒がらずに、もう一度書いてくれよ。たった一行じゃないか。

29. 楽老[5950] inmYVg 2025年6月27日 14:27:41 : mQfOnzTxAw : VWZMNHhYTmZFb1E=[2] 報告
<△26行くらい>
例えばこのスレで、私は質問なんか一言も発していない。
悪女の深情けには、あまり関わりたくないからだ。

勝手に突っかかってきて

【その話はあなたと、もう10年以上議論してきたから、取り敢えず反論は後回しにするとして】

後回しにしようが、先に片付けようがどうでも良いが

【平和だから戦争は要らない、じゃなくて、戦争・軍備があるから平和なんだよ。】

と云うトンチンカンなコメントに素直にびっくりしただけの話
それ以降の話も説明も無いし
後回しにした反論も無いようだから、the end.ではないのかね!

蛇足として付け加えると
例え話と云うのは得手勝手な作り話を述べるのではないよ(老婆心ながら)
往々にして、筋道のたった説明ができない人に限って、トンチンカンな例え話を持ってきて誤魔化そうとする。
誰とは言わんがね。

どこかのスレで、私ではない誰かが、多摩散人と称する人に対して、トコトンやりたければスレ建せよと云う人が居た。

私も昔同じことを言った記憶がある。
多摩散人なるオヒトは最後には【読判断】と逃げることが多かったからね。

読者の判断がどうであろうと私は気にしないが
私とタマのウォッチャーをしている人でない限り

【その話はあなたと、もう10年以上議論してきたから、取り敢えず反論は後回しにするとして】

などと言われても何のことかわからないよね

【戦争・軍備があるから平和なんだよ。】
に対して
ヘーッ そうなんだ。
だから、中東、ウクー露は平和なんだ(大笑い)
と馬鹿にされても一切反論も更なる説明もない。

読者はどう思うのだろうか?
マア読者も関心が無いだけの話なのだろう。

このコメントはリアクションを期待しているのではない
たんに降りかかった火の粉を振り払っているだけだ。

    
     
    

30. 罵愚[2417] lGyL8A 2025年6月27日 18:38:46 : dLV7KORD0A : TkxhRUl1ZEs1Yk0=[1207] 報告
>>16. 楽老さん
>皇軍は沖縄防衛など眼中になく、本土防衛の捨て石になっただけ。

 そうかなぁ? わたしも、地元の護国神社には、参拝する機会があるが、沖縄戦で散華した御霊の数は半端じゃぁないよ。
 "捨て石"の表現は、適切かなぁ?

[18初期非表示理由]:担当:掲示板を『自分の意見をできるだけ多く繰り返し書く場所』と考えているhttp://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/616.html#c93こと、かつ管理人の依頼を無視するhttp://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/615.html#c41ことにより全部処理

31. 多摩散じん[414] kb2WgI5VgraC8Q 2025年6月27日 23:22:52 : nWD65rNKI6 : R0JWRDJ4NFRkVnc=[99] 報告
<△20行くらい>
>29 ボケ老人=楽老さんへ。

 多摩散人です。

 あなたは、

>【戦争・軍備があるから平和なんだよ。】(多摩散人)に対して

>ヘーッ そうなんだ。だから、中東、ウクー露は平和なんだ(大笑い)…A

>と馬鹿にされても(多摩散人は)一切反論も更なる説明もない。

 と書いているが、Aは、あなたが「(多摩散人は)一切反論も更なる説明もない」と書いてある以上、「これはどう説明するんだ」という私に対する質問ではないのか。それなのに、あなたは、

>例えばこのスレで、私は質問なんか一言も発していない。…B

 と言っている。AとBのどちらが本音なのか、答えてほしい。「悪女の深情けには、あまり関わりたくないから」「馬鹿にして」、いい加減に言って逃げているんだという答えでもいいよ。私はあなたを10年間親友として、「深情け」をかけてきたとも言えるからね。

 私のあなたと読者への質問は、はっきりしている。

>あなたは、今の日本は、どのようにして国家と国民の安全を守るべきだと思いますか。それから、あなたは、今の日本の沖縄、与那国、先島諸島等々は、どのようにして地域と地域民の安全を守るべきだと思いますか。(25・26)

 この質問には、ぜひ答えてほしい。

 わが身一身は馬鹿にされても構わない。時代遅れの日本社会党の非武装中立論の残滓を、逃がしたくないからね。

32. 多摩散じん[415] kb2WgI5VgraC8Q 2025年6月28日 06:08:52 : nWD65rNKI6 : R0JWRDJ4NFRkVnc=[100] 報告
<△21行くらい>
>29 ボケ老人=楽老さんのコメントについて。

 多摩散人です。

>例え話と云うのは得手勝手な作り話を述べるのではないよ(老婆心ながら)

 今までにこういうやり取りが、2,3回あった。

>日米安保が実際に実行されて、日本がアメリカに助けられたことが一度でもあったかい。ない。しかし、米兵の犯罪は見過ごされてきた。だから安保は有害なだけだ。(ボケ老人=楽老)

>オレのうちの隣に消防署があるが、消防署が実際にオレのうちの火事を消したことが一度でもあったかい。ない。しかし、消防自動車のサイレンは年中オレの睡眠を邪魔する。だから消防署は有害なだけだ。(多摩散人)

 私のこのたとえ話を、ボケ老人=楽老さんは当然分かっていて、訳の分からぬ反論をしていると思っていたが、理解していなかったんだ!

 今回のスレでも、これがある。

>戦争の準備・軍備は、平和のために使えば平和に役立ち、戦争のために使えば、戦争に役立つ。

>人殺しのピストルは人殺しに役立つ。警官のピストルは人殺しの防止に役立つ。(21 多摩散人)

 このたとえ話も、ボケ老人=楽老さんは当然分かっていると思っていたが、理解していなかったんだ!

 愕然! これは私が悪いかも。

読者はどう思うのだろうか? 読判任(読者の判断に任せましょう)発動。

このコメントはリアクションを期待しているのではない
たんにあなたに降りかけたの粉に過ぎない。

33. 多摩散じん[416] kb2WgI5VgraC8Q 2025年6月28日 06:14:07 : nWD65rNKI6 : R0JWRDJ4NFRkVnc=[101] 報告
>32 訂正

 多摩散人です。

×たんにあなたに降りかけたの粉に過ぎない。

○たんにあなたに降りかけた火の粉に過ぎない。

34. 楽老[5951] inmYVg 2025年6月28日 08:32:38 : BOk6mbQWFk : M0VzdzM0ajlEbjY=[405] 報告
<▽45行くらい>
>31.:、Aは、……私に対する質問ではないのか。

質問だと捉えるなら回答すればよいだけの話。
反応が無いから、議論を逃げたと判断している次第。
応えるも応えないもタマ次第だからどちらでも良い。

悪女の深情けの如く付きまとうから

『ヘーッ そうなんだ。だから、中東、ウクー露は平和なんだ(大笑い)』
と返しているだけ。

>31.:この質問には、ぜひ答えてほしい。

何故に❓ 
捨て石はあくまでも捨て石に過ぎず、活きてはいない、死んだ石だ。
中枢を守るために犠牲となることを運命付けられた島と云う意味だ。
捨て石の意味が解るならこんなバカな質問はしない。

>32.:【日米安保が実際に実行されて、】日本がアメリカに助けられたことが一度でもあったかい。【ない。しかし、米兵の犯罪は見過ごされてきた。だから安保は有害なだけだ。】(ボケ老人=楽老)

この【】でくくった部分はタマの改竄、捏造だ。

>32.:読者はどう思うのだろうか? 読判任(読者の判断に任せましょう)発動。

この通り、自分で得手勝手な例えと云う妄想話で自分勝手な結論を出して後は逃げる。

【戦争の準備・軍備は、平和のために使えば平和に役立ち、戦争のために使えば、戦争に役立つ】

このコメントに何の意味があるのだろうか?小学生ではあるまいに。
❓平和のために使う❓
言葉の意味を理解せず、単なる言葉遊び。
実例を出せないから、得手勝手な虚言、作り事の例え話で誤魔化そうとする。

トランプによるバンカーバスター攻撃を【平和のために使った】とでもいうのだろうか。

私は作り事の話はしない。
非武装の話も実例を出している。
非武装中立が良いなどとは一言も言っていない。
歴史的事実と現況を紹介しているだけだ。
タマの拙い、賎しい頭で理解して勝手に結論付ける。
常にタマはそうだ。(原発板でも)

私の基本姿勢は平和主義の一点に尽きる。
1945年玉音放送のあと日本国民の大半が『ようやく戦争が終わった。二度と戦争は御免だ』と言う思いに忠実なだけだ。
他の人に強制するつもりも無ければ、そんな力もない。

【安保条約が役に立った実例】
【戦争の準備・軍備は、平和のために使えば平和に役立った実例】
があるのなら、作り事の例え話に逃げずに、納得できる実令を出してもらいたい。
安保条約は保険だからと逃げても良い。
しかし、それにしては保険料も高すぎ、保険金額も米国の思いのまま。
日本国ではなく、日本国民の犠牲も多すぎる。

>32.:このコメントはリアクションを期待しているのではない たんにあなたに降りかけた火の粉に過ぎない。

タマの性根の悪さを如実に表したコメント
完膚なきまで議論で叩きのめされると、いつも、こういう開き直りに出る。
過去にもあったな

【>30.多摩:あなたに非礼を働いて、謝る気がないことは、昔、ちゃんと宣言していますよ。もちろん、自覚もしています。】

こういう奴なんだよタマは
私はタマのように勝手に捏造部分を加えたりしていない。
一字一句改竄することなくタマのコメントをコピペしている。

    

35. 楽老[5952] inmYVg 2025年6月28日 08:47:25 : BOk6mbQWFk : M0VzdzM0ajlEbjY=[406] 報告
国際法と国連を重視した外交を展開し、敵を作らない姿勢、国民の高い支持と国際機関への積極的な参加、平和的な外交姿勢が安定を支える。

これを嚙み締める必要がある。

最近、在日イスラエル大使館が京都市にイチャモンを付けたことがある。
京都市の宿泊施設「WIND VILLA」が宿泊客に対して求めていた「戦争犯罪に関与していないことを誓約する宣誓書」
平和主義の観点からすると何の問題もない。
これは宿泊施設からの(お願い)であって、強制ではなく、宿泊を拒否した事実もない。
罪刑法定主義の観点からしても、人権侵害の事実は欠片もないのに外国の公的機関が圧力を加えることは放置してはいけない。

平和主義の観点からこういう宿泊施設が増えることを望む。

    

36. 多摩散じん[417] kb2WgI5VgraC8Q 2025年6月28日 13:23:32 : nWD65rNKI6 : R0JWRDJ4NFRkVnc=[102] 報告
<△23行くらい>
>34・35 ボケ老人=楽老さんへ。

 多摩散人です。

 32の「ボケ老人=楽老さんへの私のコメント」を書くのに多少迷ったんですよ。書き方の選択肢の中で、一番愚直で、分かりやすく低姿勢な書き方を選んだ。そうすると、ボケ老人=楽老さんも、それに応じて素直に書いてくれるんだね。この十年間、お互いに年をとった賜物かも知れない。

>35 あなたの具体的な、小さな努力に敬意を払います。ただ、その内容にはまったく賛成しないけれどね。

 私の具体的努力の一環としては、あなたもご存じの通り、護憲論者は、9条を破っているということを護憲論者に会うたびにいやというほど認識させることで、あなたに自慢できるほどのものじゃないけれどね。

 あなたは、阿修羅では居丈高な左翼論客だけど、市井では大人しい平和主義者なのかもね。分かりませんけどね。

 それに関して、一か月くらい前だったか、「自衛隊の創設はアメリカという絶対的権力によって強制されたものだから、その存在が9条違反であっても、日本人はそんなに気にすることはありません」という思いつきを振りまいていたが、それが今後どうなるかも、注目しています。

>あなたは、今の日本は、どのようにして国家と国民の安全を守るべきだと思いますか。それから、あなたは、今の日本の沖縄、与那国、先島諸島等々は、どのようにして地域と地域民の安全を守るべきだと思いますか。(25・26)

 この質問には、ぜひ答えてほしい。あなたが答えなくてもいい。読者が、本当は沖縄の人が答えてほしい。だって、この問いがこのスレの主題だと思うから。

 

37. 多摩散じん[418] kb2WgI5VgraC8Q 2025年6月28日 17:40:19 : nWD65rNKI6 : R0JWRDJ4NFRkVnc=[103] 報告
>34 ボケ老人=楽老さんへ。

 多摩散人です。

>>32.:【日米安保が実際に実行されて、】日本がアメリカに助けられたことが一度でもあったかい。【ない。しかし、米兵の犯罪は見過ごされてきた。だから安保は有害なだけだ。】(ボケ老人=楽老)

>この【】でくくった部分はタマの改竄、捏造だ。

 一般論でもあるが、こういう時、正しい原文はこうだと示してくれると助かる。「自分で調べろ」と言われても、忙しいから諦めてしまうこともある。私は、昔のことは、普通、大体の記憶で書いているからね。

 「お前、記憶違いだぞ」くらいの感覚で議論したいものだ。


 

38. 多摩散じん[419] kb2WgI5VgraC8Q 2025年6月28日 18:03:35 : nWD65rNKI6 : R0JWRDJ4NFRkVnc=[104] 報告
>34 ボケ老人=楽老さんへ。追加。

 多摩散人です。

>>32.:このコメントはリアクションを期待しているのではない たんにあなたに降りかけた火の粉に過ぎない。

>タマの性根の悪さを如実に表したコメント
>完膚なきまで議論で叩きのめされると、いつも、こういう開き直りに出る。
>過去にもあったな

 上の>>32 は、あなたのコメント29の末尾の

>このコメントはリアクションを期待しているのではない
>たんに降りかかった火の粉を振り払っているだけだ。(ボケ老人=楽老)

 を書き換えただけだよ。

39. 多摩散じん[420] kb2WgI5VgraC8Q 2025年6月28日 18:16:29 : nWD65rNKI6 : R0JWRDJ4NFRkVnc=[105] 報告
>ボケ老人=楽老さんへ。駄弁。

 多摩散人です。

 宮本武蔵が沢庵和尚の寺に面会に行ったとき、寺の参道の横で沢庵を洗っている老人がいた。そのそばを通り過ぎる瞬間、その老人からただならぬ殺気を感じた武蔵は、三尺も飛びのいて、その殺気を避けた。

 本堂に入って沢庵和尚と面会した武蔵は、さっき沢庵を洗っていた老人が目の前の沢庵和尚だったと知った。

 沢庵和尚曰く、「武蔵さんとやら、さっき君は四方八方に殺気を振り回しながら参道を歩いてきた。沢庵を洗っていた私はその殺気に気付いて、ちょっと緊張した。その緊張を、君は過敏に受け止めて殺気と勘違いし、大げさに三尺も飛びのいた。要するに、君は君の殺気の影に怯えていただけなのじゃよ。

 これは徳川無声の講談の一説。まあ、駄弁だが。

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