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和平交渉の事前協議のため、イラン外相がパキスタン、オマーン、ロシアを訪問
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202604250000/
2026.04.25 櫻井ジャーナル
パキスタン政府筋の話として、イランのアッバス・アラグチ外相が4月24日に少人数のチームを率い、アメリカとの新たな和平交渉を念頭に置いた事前協議のためにパキスタンのイスラマバードを訪問、さらにオマーンとロシアを訪問すると伝えられている。
すでにホルムズ海峡の通行が制限され、世界における原油やガスの供給量が減って価格が高騰、肥料の供給も混乱しているが、ここにきて通信ケーブルの問題も浮上してきた。イランは状況次第でケーブルを切断するという話が出てきている。
ウォール・ストリート・ジャーナル紙によると、戦乱で大きな被害を受けたアラブ首長国連邦はアメリカに対して財政支援を要請、もし支援がなければ石油やガス製品を人民元で売却せざるをえないと語った。
ロシア国防省国際軍事協力総局のイェフゲニー・イリイン第一副局長はイラン軍について、「確固たる決意」と、新たな脅威に対し「適切かつ相応の」対応を行う用意があることを示したと述べた。そして、揺るぎない意志と勇気を示し、国家の独立と安定の「信頼できる保証人」となったとしている。
本ブログでも繰り返し書いてきたが、イランが戦争を終結させる条件として求めている項目は一貫している。ホルムズ海峡の通行をイランが管理し、イランの同盟勢力に対する軍事行動を停止、西アジア地域からアメリカ軍は撤退し、イランの役割を明記したホルムズ海峡における安全保障協定を策定、イランが被った損害を全額補償、すべての制裁および国際決議を撤廃、凍結されたイラン資産を返還、そしてこれらの条件を拘束力のある国連安全保障理事会決議として正式に承認することだ。
アメリカとイスラエルがイランに対して始めた戦争の戦況はイランが優勢。戦いが長引けば長引くほどイランは優位になる。イランがこうした要求をするのはそのためだが、アメリカ政府は戦闘で負けているにも関わらず、イランに降伏を要求、イランの提示した条件をドナルド・トランプ政権が呑もうとしない。そもそもイスラエルやその背後の勢力が認めないのだろう。
イスラエルは「停戦」期間中もレバノンを攻撃、南レバノンの街は瓦礫と化した。ジャーナリストも殺害されている。そのイスラエルにレバノン政府は従属、戦っているのはヒズボラにほかならない。イスラエルやアメリカはそのヒズボラを壊滅させようと必死だ。
ところで、イスラエルは先住民であるアラブ系の人びとを暴力的に追い出し、作られた国である。シオニストがイスラエルの「建国」を宣言したのは、1948年5月14日のことだった。そのシオニストとはエルサレムの南東にあるシオンの丘へ戻ろうという「シオニズム運動」の信奉者で、ユーフラテス川とナイル川で挟まれている地域はユダヤ人の所有物だと考えていた。
シオニズムはエリザベス1世時代(1593年から1603年)のイングランドに「ブリティッシュ・イスラエル主義」として出現した。イングランドの支配層の間で、アングロ-サクソン-ケルトは「イスラエルの失われた十支族」であり、自分たちこそがダビデ王の末裔だとする信じ、人類が死滅する最後の数日間にすべてを包括する大英帝国が世界を支配すると予言されているという妄想が広まったのだ。この妄想は現在に至るまで存在している。
シオニズムという用語を1893年に初めて使用したのはウィーン生まれのナータン・ビルンバウム。近代シオニズムの創設者とされている人物は1896年に『ユダヤ人国家』という本を出版したセオドール・ヘルツルだが、その背後にはイギリスの強大な私的権力が存在していた。
イギリス政府は1838年、エルサレムに領事館を建設し、その翌年にはスコットランド教会がパレスチナにおけるユダヤ教徒の状況を調査している。
1868年2月から12月、74年2月から80年4月までの期間、イギリスの首相を務めたベンジャミン・ディズレーリは1875年にスエズ運河運河を買収したが、その際に資金を提供したのは友人のライオネル・ド・ロスチャイルドだ。(Laurent Guyenot, “From Yahweh To Zion,” Sifting and Winnowing, 2018)
ディズレーリは1881年4月に死亡、その直後からフランス系のエドモンド・ジェームズ・ド・ロスチャイルドがテル・アビブを中心にパレスチナの土地を買い上げ、ユダヤ人入植者へ資金を提供しはじめる。
イギリスは第1次世界大戦(1914年7月から18年11月)の最中にフランスと「サイクス・ピコ協定」を結んでいる。オスマン帝国を解体し、両国で分割することを決めていたのだ。これは秘密協定だったが、ロシアの十月革命で成立したボルシェビキ政権によって明るみに出されたのである。
協定が結ばれた翌月の1916年6月にイギリス外務省アラブ局はアラブ人を扇動して反乱を起こさせた。その部署にはトーマス・ローレンス、いわゆる「アラビアのロレンス」も所属していた。その当時、イギリスはエージェントを後のサウジアラビア国王でワッハーブ派のイブン・サウドに接触させている。
パレスチナに「ユダヤ人の国」を建設する第一歩と言われる書簡をアーサー・バルフォアがウォルター・ロスチャイルドへ出したのは1917年11月のこと。これがいわゆる「バルフォア宣言」だ。
イギリスは1920年から1948年の間パレスチナを委任統治、ユダヤ人の入植を進めたが、1920年代に入るとパレスチナのアラブ系住民は入植の動きに対する反発を強める。
そうした動きを抑え込むため、デイビッド・ロイド・ジョージ政権で植民地大臣に就任したウィンストン・チャーチルはパレスチナへ送り込む警官隊の創設するという案に賛成、アイルランドの独立戦争で投入された「ブラック・アンド・タンズ」のメンバーを採用した。この組織はIRA(アイルランド共和国軍)を制圧するために設立され、殺人、放火、略奪など残虐さで有名だった。そして1936年から39年にかけてパレスチナ人は蜂起。アラブ大反乱である。
1938年以降、イギリス政府は10万人以上の軍隊をパレスチナに派遣する一方、植民地のインドで警察組織を率いていたチャールズ・テガートをパレスチナへ派遣、収容所を建設する一方、残忍な取り調べ方法を訓練した。イギリス軍はパトロールの際、民間のパレスチナ人を強制的に同行させていたともいう。
委任政府は外出禁止令を出し、文書を検閲、建物を占拠、弁護人を受ける権利を停止する一方、裁判なしで個人を逮捕、投獄、国外追放している。この政策はイスラエル政府の政策につながる。
反乱が終わるまでにアラブ系住民のうち成人男性の10パーセントがイギリス軍によって殺害、負傷、投獄、または追放された。植民地長官だったマルコム・マクドナルドは1939年5月、パレスチナには13の収容所があり、4816人が収容されていると議会で語っている。その結果、パレスチナ社会は荒廃、1948年当時、イスラエルの「建国」を宣言したシオニストの武装組織に対して無防備な状態となっていた。
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