http://www.asyura2.com/25/warb26/msg/539.html
| Tweet |
ナチ体制下のドイツがソ連に敗れ、連合国に降伏したのは81年前の5月8日
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202605080000/
2026.05.08 櫻井ジャーナル
ナチ体制下のドイツ軍は1945年5月8日にベルリンで降伏文書に署名して敗北が決まった。81年前の出来事だ。その前日にドイツはフランスのランスで降伏文書に署名していたが、ソ連がそれを承認していない。
ドイツの敗北が決まったのは東部戦線。ドイツ軍は戦力を東部戦線に集中していた。西部戦線でドイツ軍と戦っていたのは事実上、レジスタンスだけ。ドイツの敗北は東部戦線で決まったのだ。ソ連に降伏することを嫌ったナチ体制は戦っていなかったフランスに降伏しようとしたと言えるだろう。
ドイツ軍は1941年6月22日、380万人以上の兵力でソ連に対する軍事侵攻を開始した。その際、西部戦線に残ったドイツ軍は90万人にすぎない。同年7月にドイツ軍はレニングラードを包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点に到達。アドルフ・ヒトラーはソ連軍が敗北したと確信、再び立ち上がることはないと10月3日にベルリンで語っているが、ウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイも3週間以内にモスクワは陥落すると推測、傍観していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)
ヨーロッパの東部戦線については高みの見物を決め込んでいたチャーチル首相だが、ユーラシア大陸の東側では日本軍がインドへ軍事侵攻するのではないかと神経を尖らせていた。
そこで1941年11月にベンガル(現在のバングラデシュ周辺)でイギリスは「拒否政策」と呼ばれる焦土作戦を打ち出し、日本軍が食糧を奪わないようにサイロや倉庫から種籾を含む全ての米を押収、また輸送手段を奪うために漁民の船や自転車を取り上げた。ルーズベルト大統領も日本軍がマレーへ攻め込むと予測していたと言われている。実際、日本軍は1941年12月7日18時(UTC)にマレー上陸作戦を開始するが、その直後、同日18時18分(UTC)にハワイの真珠湾を攻撃した。
イギリスが焦土作戦を展開していた1942年10月にベンガル地方はサイクロンに襲われるなど自然災害で被害が拡大、死傷者が出ただけでなく農作物が大きな打撃を受け、食糧不足から飢餓は避けられない状態になる。
小麦はオーストラリアから調達できたが、インドの船は戦争のために使われていて運べない。チャーチル首相は1943年1月、イギリスの食糧と資源の備蓄を強化するため、インド洋で活動していた商船は全て大西洋へ移動させた。(Madhusree Mukerjee, “Churchill’s Secret War,” Basic Books, 2010)
1943年11月には現地の提督からチャーチル首相に対し、政策の継続は大惨事を招くという警告の電報が打たれ、イギリス下院では満場一致で食糧を送ると議決しているのだが、それを首相は無視。食糧を送るというルーズベルト大統領の提案も拒否している。
その結果、ベンガルでは1943年から44年にかけて大規模な飢饉が引き起こされ、餓死者の人数はベンガル周辺だけで100万人から300万人に達したと推計されている。チャーチル首相の政策がこれだけの人びとを餓死させたわけだ。
それに対し、ヨーロッパの東部戦線ではドイツ軍は1942年8月にソ連のスターリングラード市内へ突入するが、ここでソ連軍に敗北、1943年1月に降伏した。この段階でドイツの敗北は決定的。ここからアメリカやイギリスは慌てて動き始める。1943年1月にチャーチルとルーズベルトはモロッコのカサブランカで会談、シチリア島とイタリア本土への上陸を決めた。
シチリアはコミュニストの影響力が大きいため、アメリカ海軍の情報部はマフィアの力を借りることにするが、それ以降、アメリカの情報機関と犯罪組織は強く結びつく。1943年7月にアメリカ軍とイギリス軍はシチリア島に上陸した。ハスキー計画だ。そして9月に米英軍はイタリア本土を占領、イタリアは無条件降伏する。ノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月になってからだ。ノルマンディー上陸作戦でドイツが敗北したというイメージはハリウッド映画が作り出した幻影にすぎない。
第2次世界大戦当時、連合軍の内部には反ファシスト派と反ソ連派が存在していた。反ファシスト派の代表格はアメリカ大統領だったフランクリン・ルーズベルトであり、反ソ連派の代表格はイギリス首相だったウィンストン・チャーチルだ。
そのうちルーズベルトが1945年4月に急死、チャーチルは同年5月、ドイツが降伏した直後にソ連への奇襲攻撃を目論み、JPS(合同作戦本部)に対して作戦を立案を命令。そして5月22日にアンシンカブル作戦は提出された。
その作戦によると、攻撃を始めるのはその年の7月1日。アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていたのだが、この作戦は発動していない。イギリスの参謀本部が5月31日に計画を拒否したからである。その作戦を無謀だと判断したようだ。またソ連と日本が手を組むことを懸念したという見方もある。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)
チャーチルが退陣する直前、アメリカでは原子爆弾の開発が最終局面に差し掛かっていた。7月16日にニューメキシコ州のトリニティ実験場でプルトニウム原爆の爆発実験が行われ、成功している。7月24日にハリー・トルーマン米大統領は原子爆弾の投下を許可、7月26日に「ポツダム宣言」が発表された。そして原爆は8月6日に広島、8月9日には長崎へ投下された。宣言の受諾は8月9日の「御前会議」で決定され、翌日には連合国側へ打電されている。
日本がポツダム宣言の受諾を通告してから約1カ月後、アメリカの統合参謀本部では必要なら先制攻撃を行うことが決められた。この決定は「ピンチャー」という暗号名で呼ばれ、1946年6月18日に発効している。(Annie Jacobsen, “Area 51”, Little, Brown, 2011)
原爆を手にしたアメリカの支配階級はソ連を先制核攻撃する計画を立てる。1949年に出された統合参謀本部の研究報告では、ソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容が盛り込まれていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)
チャーチルは1945年7月26日に退陣するが、大戦後の46年3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行い、「冷戦」の幕開けを宣言した。FBIの文書によると、チャーチルは1947年にアメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている。(Daniel Bates, “Winston Churchill’s ‘bid to nuke Russia’ to win Cold War - uncovered in secret FBI files,” Daily Mail, 8 November 2014)

こうしたチャーチルの政策は19世紀から続くイギリスの寡頭体制の戦略に基づいている。19世紀のイギリス政界で有力議員だったヘンリー・ジョン・テンプル(別名パーマストン子爵)は反ロシアで有名な人物で、戦時大臣、外務大臣、内務大臣を歴任した後、1855年2月から58年2月まで、そして59年6月から65年10月まで首相を務めている。
ビクトリア女王にアヘン戦争を指示したのもパーマストン卿だが、中国(清)の内陸部を制圧する戦力はなかった。その代理として大陸を侵略したのが明治維新後の日本にほかならない。明治体制をイギリス支援したのはそのためだろう。19世紀にイギリスではシオニズムが帝国主義と一体化、パレスチナ侵略も具体化した。現在、イラン、パレスチナ、ウクライナなどでは戦乱で破壊と殺戮が繰り広げられているが、それは19世紀のイギリスから始まっている。
**********************************************
楽天ブログにアクセスしにくい場合は下記サイトへ
|
|
|
|
最新投稿・コメント全文リスト コメント投稿はメルマガで即時配信 スレ建て依頼スレ
|
|
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。