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中国の習近平体制は独立色を強め、米国に対する姿勢を厳しくしている
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2026.05.10 櫻井ジャーナル
中国で国防部長(国防大臣)を経験したふたりの軍人に5月7日、執行猶予付きの死刑判決が出された。その元国防部長とは魏鳳和(2018年3月から23年3月)と李尚福(23年3月から23年10月)だ。ドナルド・トランプ米大統領が中国を訪問する1週間前の出来事である。
その一方、中国の習近平国家主席はドナルド・トランプ米大統領が仕掛けた中国企業に対する「制裁」を無視するように命じた。ここでも「脅せば屈する」というネオコン/シオニストのドグマは破綻している。
中国では軍部の粛清より前に経済分野での粛清が始まっていた。その根は1978年12月、ケ小平の下で打ち出された改革開放政策にあるだろう。それ以降、中国では拝金主義が蔓延、社会不安が高まる。
1980年には新自由主義の象徴的な存在で、通貨カルトの伝道師的な存在であるミルトン・フリードマンが中国を訪問している。それ以降、中国でも新自由主義化が進む。中国の新自由主義化を推進した人物は趙紫陽。1984年にロナルド・レーガン米大統領とホワイトハウスで会談している。
しかし、新自由主義はインフレを招き、貧富の差を拡大させ、労働者の不満は強まって社会は不安定化する。この政策を推進していた胡耀邦や趙紫陽は窮地に陥った。胡耀邦は1987年1月に総書記を辞任せざるをえなくなり、89年4月15日に死亡した。
そうした中、1988年にミルトン・フリードマンは8年ぶりに中国を訪問、趙紫陽や江沢民と会談したが、中国政府はその年に「経済改革」を実施している。労働者などからの不満に答えるかたちで軌道修正したと言えるだろうが、その方針転換にエリート学生は反発する。
新自由主義を支持する学生らは1989年4月15日から6月4日まで天安門広場で中国政府に対する抗議活動を展開した。この活動を指揮していたのは体制転覆の仕掛け人として知られているジーン・シャープ。中国における体制転覆工作の背後にはスポンサーとしてジョージ・ソロスもいたとされている。5月には戒厳令が敷かれた。
シャープは「非暴力」というタグがつけられている人物だが、冷戦期における最も重要なアメリカの国防知識人のひとりとも言われている。核理論家トーマス・シェリングは1960年代にシャープをハーバード大学国際問題センター(現在は、ウェザーヘッド国際問題センター)に招き入れた。1958年にロバート・R・ボウイとヘンリー・キッシンジャーによって設立された同センターは冷戦期の国防、情報、安全保障機関の牙城だったとされている。要するにCIAとの関係が深いのだが、シャープに魅せられた左翼や市民活動家は少なくない。
ロナルド・レーガン大統領時代にアメリカでは「プロジェクト・デモクラシー」や「プロジェクト・トゥルース」といったプロジェクトが始まるが、これは「民主主義」や「真実」という衣を身にまといながら敵体制を揺さぶり、クーデターで倒すことを目的にしている。こうしたプロジェクトともシャープは関係しているだろう。反帝国主義者の戦術を帝国主義者が利用し始めたとも言える。
1989年1月からアメリカ大統領はジョージ・H・W・ブッシュ。父親のプレスコットはウォール街時代、ナチスへ資金を流すために創設された金融機関の重役で、ウォール街の弁護士だったアレン・ダレスと親しくしていた。ジョージ・H・W・ブッシュは1974年から75年まで中国駐在特命全権公使(連絡事務所長)を務め、76年1月から77年1月まではCIA長官。エール大学時代にはCIAのリクルート担当だった人物と親しくしていたことも知られ、その時期にCIAへリクルートされたと言われている。そもそも父親がCIAに君臨していたダレスの友人だ。
エール大学時代にブッシュが親しくしていたジェームズ・リリーは1951年にCIA入りしたと言われ、そのリリーは1989年5月に中国駐在アメリカ大使に就任した。この月に中国では戒厳令が敷かれ、6月を迎える。
西側では6月4日に軍隊が学生らに発砲して数百名が殺されたとされているが、これを裏付ける証拠はなく、逆に広場での虐殺を否定する証言がある。
例えば、当日に天安門広場での抗議活動を取材していたワシントン・ポスト紙のジェイ・マシューズは問題になった日に広場で誰も死んでいないとしている。広場に派遣された治安部隊は学生が平和的に引き上げることを許していたという。(Jay Mathews, “The Myth of Tiananmen And the Price of a Passive Press,” Columbia Journalism Reviews, June 4, 2010)
学生の指導グループに属していた吾爾開希は学生200名が殺されたと主張しているが、マシューズによると、虐殺があったとされる数時間前に吾爾開希らは広場を離れていたことが確認されている。北京ホテルから広場の真ん中で兵士が学生を撃つのを見たと主張するBBCの記者もいたが、記者がいた場所から広場の中心部は見えないことも判明している。(前掲書)
西側の有力メディアは2017年12月、天安門広場で装甲兵員輸送車の銃撃によって1万人以上の市民が殺されたという話を伝えた。北京駐在のイギリス大使だったアラン・ドナルドが1989年6月5日にロンドンへ送った電信を見たというAFPの話を流したのだ。
ただ、これはドナルド大使自身が目撃したのではなく、「信頼できる情報源」の話を引用したもの。その情報源が誰かは明らかにされていないが、そのほかの虐殺話は学生のリーダーから出ていた。当時、イギリスやアメリカは学生指導者と緊密な関係にあった。ドナルド大使の話も学生指導者から出たことが推測できるが、吾爾開希のケースでも明らかなように、学生指導者の信頼度は低い。
また、内部告発を支援しているウィキリークスが公表した北京のアメリカ大使館が出した1989年7月12日付けの通信文によると、チリの2等書記官カルロス・ギャロとその妻は広場へ入った兵士が手にしていたのは棍棒だけで、群集への一斉射撃はなかったと話している。銃撃があったのは広場から少し離れた場所だったという。(WikiLeaks, “LATIN AMERICAN DIPLOMAT EYEWITNESS ACCOUNT O JUNE 3-4 EVENTS ON TIANANMEN SQUARE”)



イギリスのデイリー・テレグラム紙が2011年6月4日に伝えた記事によると、BBCの北京特派員だったジェームズ・マイルズは2009年に天安門広場で虐殺はなかったと認めている。軍隊が広場へ入ったときに抗議活動の参加者はまだいたが、治安部隊と学生側が話し合った後、広場から立ち去ることが許されたという。マイルズも天安門広場で虐殺はなかったと話している。(The Daily Telegraph, 4 June 2011)
中国における当時の対立は現在でも解消されていない。1993年から国家主席を務めた江沢民を中心とする上海幇は新自由主義化で富を築いた一派で、天安門事件を生み出した問題は解決されなかった。その江沢民は2022年11月に死亡している。これで中国の権力バランスは崩れた。
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