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GbEzjlhzIIA コメント履歴 No: 100000
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[原発・フッ素50] 焼死した高野病院理事長 ・高野英男氏は殺されたのか? 被ばく被害の実態を公表しようとしていたらしい  魑魅魍魎男
12. 2018年11月29日 06:35:43 : lLTUJaFEkQ : GbEzjlhzIIA[1]
是非はともかくとしてこのページの内容と同様の質疑を
Y!知恵袋は即消去しているようですね。
Y!は独裁者に汚染されてしまったようです。
安倍に不利な話もキッチリ消去されています。
http://www.asyura2.com/18/genpatu50/msg/313.html#c12
[] 明治天皇も大正天皇も正妻の子ではない TORA
25. 2018年11月29日 20:16:20 : lLTUJaFEkQ : GbEzjlhzIIA[2]
明治天皇の家族が私の祖先に直接、「自分の実家は山口県の農家だった」と告白していますので北朝は南朝によって摩り替えられたことが事実だったと判明した。
幼少の頃、「何故天皇の実家が農家なの?」って不思議に思っていたが今はその謎が解けた。
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/773.html#c25
[原発・フッ素50] 涙を禁じえない23歳・看護師さんのブログ 鬼師長にこき使われ、あっという間に急性白血病で急逝 女工哀史ならぬ看護師哀史か 魑魅魍魎男
20. 2018年12月01日 13:46:12 : lLTUJaFEkQ : GbEzjlhzIIA[3]
キャッシュより抜粋。【泣いたあとには、】  

急性骨髄性白血病、甲状腺機能亢進症、貧血になりまして。日々の記録をぽつりぽつりと残す場所。えがおになるために、元気になるために。

アメンバー申請、現在中止しております。
---------


どうかこれだけは分かって欲しいこと。
ねむる前、
ひまりを支えてくださった皆様へ。

2018-11-01 13:54:55

テーマ:闘病日記

今日はひまりではありません。
彼氏である僕が投稿します。
読者?様の承認もひまりの代わりにさせていただきました。


まず、僕から皆様へ
お伝えしなければならないことがあります。

皆様がたくさん応援してくださったひまりですが、
平成30年10月31日 06時48分に永眠いたしました。
23歳でした。
小さな体でたくさん頑張りました。


あまりにも突然すぎる報告で申し訳ありません。

僕もあまりにも突然で受け止められていません。
でも、今ブログを書いているのはひまりの願いを叶えるため、ひまりの意思を継ぐためにさせて頂いています。

ひまりがブログを書いていることは実は4日前に知りました。
「私を応援してくれてる人がたくさんいるの」と、
にこにこと教えてくれました。


驚きました。
ブログなんていつ書いてたのか分かりません。
近くでずっと見ていましたが
ここ2週間は特に、正直書けるような状態じゃありませんでした。
でも、自分の意識がはっきりしているときに、
手が動く時に
皆さんからの応援のコメントを見て力をいただき、
自分が発信したいこと、残したいことを頑張って残していたんだと思います。

一昨日急に
「もし、私に万が一のことのがあったらブログを見て欲しい」と強くひまりから言われ
見ることなんて無いと信じていましたが
こんなにも早く来てしまいました。
少しブログを読みましたが、
先生や僕の言った言葉を一字一句忘れてしまわぬよう書いてくれてました。
下書きとして保存している記事にも沢山残されていました。
ブログを読んでくださっている皆さまや
主治医である先生、ひまりの周りの方、僕に当てた手紙まで残されていました。

こんな日は来て欲しくなかったけれど
これが現実です。

今、記事を書いているのはひまりからのお願いです。
ひまりは僕の言葉が大好きだったと言ってくれました
だから僕の言葉で残して欲しいと
僕への手紙の中に最期のお願いとして書かれていました。
僕ができるひまりの願いを叶えられるよう
僕に書ける記事を書いています。
涙が止まりません。
言葉がまとまりません。
でも、ひまりの頑張りを少しでも伝えさせてください。
ひまりは本当に本当に頑張ったんです。
皆さんもきっと分かってくださっていると思いますが、どんなに苦しくても明日が来ることを信じて頑張っていたんです。

ひまりは明るくて強くて優しい女の子です。
名前は「陽向」と書き「ひまり」と読みます。
向日葵みたいにいっつも上を向いてました、
僕はどちらかと言うとすぐ考えこんでしまい慎重に慎重に進むようなタイプですが
ひまりは逆です。
心配になるくらい真っ直ぐに突っ走って
思いついたらまずはやってみる
何かにぶつかったら諦めるんじゃなくてどうにか乗り越える方法を考える強い女の子でした。
真っ直ぐ突っ走ってしまうけれど
彼女の目は前だけではなく
周りのことばかり見ていました。
私の周りの人が幸せになるためにはどうしたらいいのかなって
にこにこといつも考えているような子でした。


そんなひまりが
再生不良性貧血、白血病の併発と診断され
初めてひまりの泣き顔を見ました。
「涙が止まらないの、どうしよう」って
真っ赤に腫らした目で泣きじゃくり
僕に不安な気持ちをたくさんぶつけてくれました。


僕に別れようとも言いました。
もちろん答えはNOです。
支えたいし、隣にいたかったから
明るくひまりに支えてもらってきたからこそ今度は僕が支えたかったのです。
別れる、ときかない彼女に僕は少し怒って思いを伝えてしまった気がします。
でも、それくらい本気で彼女を支えたかったんです。

考えたくなかったけれど
ひまりにも、僕にも 死 と言う残酷な言葉が
過ぎりました。

再生不良性貧血だけでも不安でした。
なのに、追い討ちをかけるように
一度は診断は否定的だと言われていた
「白血病」の併発と言い下されるんです。
とても、とても残酷な瞬間でした。


ひまりが落ち着いた頃、
僕は先生に呼ばれました、
正直厳しいと。
このまま何もしなければ
あと、1ヶ月生きられるかどうか分からないと。
僕の頭は真っ白です。
僕の大好きなひまりがここから居なくなってしまうかもしれないといきなり言われました。
僕が落ち込めばひまりは笑って
「たっちゃんはしっかり考えとるけん大丈夫やよ。
なにそんな顔してるん?にこーっとせい!」
と方言だらけの言葉で
にこにこーっと笑って僕のお尻を叩いてくれる明るいひまりを
病気に連れ去られてしまいそうになってることを改めて知りました。


このことはひまりにも先生から伝えてもらいました。
余命の宣告は残酷です。
賛否両論あるかもしれませんが、
ひまりはきっと知りたいと言うに違いないという確信があって
伝えてもらうことにしました。
先生もひまりの場合は真実を伝えた方がいいと思うと賛成してくださり、
余命宣告をすることによるリスクを踏まえた上で先生とたくさん考えさせて頂いた結果
告知、余命宣告を本人にする方針になりました。

告知、余命宣告、今後の治療の傾向を説明され
衝撃の連続でした。
今の状態で何もしなければ命は1ヶ月持つかは分からない。
基本的にこの状態では、移植も適応ではない。
緩和ケアに移行するケースが基本的だと。
ただ、それは基本のケースであって、
先生は治療はしないとは言わないと。
移植をして助かる可能性は何%かは言うことはできないが、0ではないと。


移植は適応でないレベルの状態だと先生にいわれましたが
先生は助かる可能性が0でなくて、
本人の希望があるなら最善を尽くすと言っていただきました。


その話を聞いている時ひまりは泣きませんでした。
先生の目を真っ直ぐに見ていました。

そのあと1日ひまりは考えました。
僕にも面会は来ないで欲しいと言い、
じっくり、ひとりで悩みました。

そして、翌日の夕方。

ひまりは「私は移植する。」と
先生と僕に強く言いました。
「生きたいんだ」と。


僕も賛成でした。
大賛成、でした。


そこで移植が決まりました。


もしかしたら、ひとりになった時に泣いたかもしれません。
いや、絶対に泣いたに違いありません。
23歳の女の子が生と死を考え、死と向き合うなんてどれだけ残酷なものなのか、本人にしか分からない恐怖がたくさんあったはずです。
でも、移植を決めた時の彼女の顔は
とても強く、真っ直ぐ前を見ていました。

少し遡りますが、再生不良性貧血と診断されてから
僕は馬鹿みたいに献血に通いました。
恥ずかしながら僕もひまりと同じく医療従事者なのですが
献血なんて今までしたことはありませんでした。
でも、ひまりが毎日沢山の単位数を使用する輸血を見て
まず自分にできることは、と考えて行動したことの1つです。
献血中は願掛けのようにとにかくひまりのことを願い、
パワーを送りました。
輸血を必要とするひまりが、
そのほかのご病気の方がどうか元気になるように。と
健康体の僕にできることはこんなことくらいしかできませんもんね。
このことはひまりに内緒にしていましたが
ひまりが移植を諦めようとした時、
ひまりがおそらく1番心が底に着いてしまいそうになった時に
そのことを明かしました。


「その日」とは、つい先日のICのあった日です。
もう毎日が闘いでした。
夜も眠れず、高熱にうなされ
1日に2時間以上は意識が遠のく。
鼻血や吐血が続き、血尿、血便
体のあらゆるところから
輸血で命を繋がれたひまりの血液が逃げていくんです。
熱が上がると顔は真っ赤になり
鼻血や吐血の後は真っ青になる。
その繰り返し。
その隣で背中をさすり、大丈夫だと声をかけて
手を握り、抱きしめましたがなかなか治らず。


ひまりは小さな声で
「私は死ぬのかな…。」と僕に言いました。


小さな小さなひまりの体を抱きしめて
ひまりは強い、大丈夫やよ。
俺が付いとるよ。
先生だってついとる。
と言いましたが、本当にこのまま居なくなってしまいそうなひまりを
どこか遠くへ行ってしまわないよう、連れて行かれないよう
強く強く抱きしめることしかできませんでした。


そんな夜が明けて
ひまりは少し落ち着き
そのタイミングで先生からもう一度移植について
するかしないかの決断をさせてもらいました。


今までひまりは自分のことは自分で決めてきましたが
珍しく僕に意見を聞きました。

「たっちゃんの考え、聞きたいの。」と

僕は迷いました。
正直、もう楽にしてあげたいと思ってしまったからです。
でも、ひまりのことを考えると
ひまりは諦めたいとは決して思わないと思うし
僕もひまりに生きて欲しいから
怖かったけれど、本当にこれで良いのかと不安になりましたが
ひまりの心が頑張れそうなら移植をしよう、と伝えました。

そして、その時に僕がしてきた献血の話をしてみました。

ひまりはまた大泣きしてしまいました。
白血病になってから、ひまりはとても泣き虫になりました
今まで頑張って溜め込んできた辛さ、苦しさが
とめどなく溢れるように。

これはやはり秘密にしておくべきかと後悔しましたが
ひまりは泣きながら笑ってくれて
「こんなに優しいひと、世界でたっちゃんしかおらへん。
私、やっぱり生きたいから頑張るよ。
今はごめんねってしか言えないけれど
たっちゃんにまたオムライス作るけん、
それまでたっちゃんに頼ってばっかかもしれないけど
オムライス作れるようになったらたっちゃんのこと支える。
だから、ごめんだけどひまりのこと支えてね…。
辛いよね、ごめんね。」
とひまりらしい言葉を僕に優しく語ってくれました。


ひまりのオムライスはすごく優しい味がするんです。僕の大好物。
そんなオムライスを作ってくれると言ってくれたことが
すごく嬉しかったのです…。


そして、もう一度移植することを決めました。
生きる選択をひまりはもう一度しました。


移植することを決めた次の日、
ひまりの決断を待っていたかのように
ドナー候補の方が決まり、
その翌々日ドナーの方が最終決定しました。


そして、移植への第一歩
化学療法の治療が始まる当日の朝に
ひまりは亡くなりました。


亡くなる前日はすごく調子が良くて
起き上がれたんです。
大好きなゼリーも食べました。
元気な自分を皆さんに伝えたかったみたいでブログも朝から更新してました。

僕も驚いたし
先生もすごく驚いていました。

その日の血液データもここ最近の中では1番良かったのです。
輸血もほんの少しですが単位数が減りました。


化学療法が始まると
面会が制限されてしまうので
大学のときの友人が急遽会いに来てくれました


ひまりは一日中にこにこしていて
本当に元気になるんじゃないのか
移植が成功するんじゃないかと思えるほどの
元気さでした。
ひまりも「これくらいの体調の良さなら
全然乗り越えられそうだね
楽勝かもっ!」と
僕にイタズラに笑いました。

いきなり言われて
久々に見た前向きすぎる彼女に僕はちょっと驚きましたが、
すぐに嬉しさがこみ上げてきて
「ひまりは強いから大丈夫や」と言い
2人で笑いました。
本当にその通りに、本人が言った通りの未来になって欲しかったです。

夜、足が寒いと言うひまり。
看護師さんに無理を言って
僕が足浴をしました。
「気持ちいい」とにこにこと笑い
眠りました。

ずっと夜眠れてなかったひまりが
すーっと眠れたことがすごく嬉しくて、
僕も隣でうとうとしていました。


その夜は翌日から化学療法が始まり面会が困難となるため
一泊付き添いで泊まる許可を
先生から唯一得ていた特別な日でした。

日付が変わり
10/31深夜2時頃。
急にひまりについているモニターのアラームが鳴り
血圧が70台まで下がりました。


大きな声で名前を呼びますが
意識はありません。
肩を揺すっても目を開けません。


すぐに看護師さんが駆けつけ
昇圧剤が開始となり一時的に血圧が100台まで上がり
落ち着いたように見えました。


帰られていた主治医の先生が深夜にもかかわらず急いで駆けつけてくださり

その時にひまりの意識が戻り
「たっちゃん、怖いのすごく。ぎゅうして、おねがい、離さないで。私どこも行かないよね?大丈夫だよね。先生もおる?近くにおる?先生、私怖いよ…。」
と言ったんです。

ぼくは、ひまりを強く強く抱きしめました、
先生も「落ち着くまで必ず近くにいるから大丈夫だ」と言ってひまりの手を握ってくれました。

ひまりは泣いていましたが少し微笑み
「ありがとう」と言いました。

しっかりと思い出せない部分もあるのですが
これがおそらく、最期の言葉です。


そこから、酸素飽和度は下がりませんでしたが

血圧が徐々に下がり、
昇圧剤を最大まで使いましたが
更に下がりました。

心拍数も110だったのが、90、80と少しずつ下がり
心電図の波形も間隔や形が変わってきました。


ひまりにたくさん声をかけました。
たくさんひまりに伝えたいことがあったんです。
でも、ひまりから答えはありませんでした。

それでも、ひまりは朝方まで頑張りました。

先生もずっと、ずっとひまりのそばにいてくれました。
「ここからが勝負だろう、ひまりさん。一緒に頑張るんだろう!」と、
「僕も君の大切で大好きな彼も、ちゃんと付いているからね」と声をずっとかけてくれていたこと今でも忘れられません。

そして、
血圧は50台になり、測定不能に。
心拍数は50台から一気に30台に。
モニターの波形の間隔も綺麗な波形から徐々に崩れ、間隔も不均等になり
伸びていき、一本線になりました。
本人の以前からの希望で心臓マッサージは施行しませんでした。

ちょうど朝日が差し込む
6:48にひまりは亡くなりました。
呼吸が苦しそうになることもなく、穏やかでした。

くすぐったら口を尖らせ、笑って
「すぐイタズラするんだから〜」と高く澄んだ声で
僕にやり返してくれそうなくらい
気持ちよさそうに眠っているんです。

ひまりに朝が来たことを伝えて
くすぐってみました。
ひまりはやはり眠ったままでした。
僕の親指を握らせてみましたが
力は入りませんでした。
その瞬間僕も涙が溢れました。

「ひま、もう休んでいいんだよ。
よく頑張ったよ、えらいよ、えらい。
ひま、だいすきだよ。」
と必死に伝えました。

主治医の先生も目を真っ赤にしていました。
担当の看護師の方も涙を流されてました。


亡くなる前日あんなにも元気だったひまりの姿を目の当たりにしていた
先生も僕も信じられませんでした。
先生も、前日にゼリーをぺろりと完食したひまりをみて「これなら大丈夫だ」と確信してたのに…、と涙を浮かべ言ってくれました。
でも、その時にできる最大限のことはできました。と言ってくださりました。
本当に先生はひまりとの約束を果たしてくださったと思います。
そして、ひまりの人生の最期の日を
寂しがりやのひまりにとって
寂しく悲しい日とならないよう
僕を泊めてくださったことにも沢山感謝しています……。


すごく明るい朝だったんです、本当に綺麗な朝でした。
ひまりにぴったりな陽気でした。


こんなにも明日が来ることをへ
願ったことは
ありませんでした。人生で初めてでした。

ひまりもきっと、
僕なんかよりも
誰よりも
明日がくることを望んでいたと思います。

「たっちゃん、今日が来てくれたことに
有難うと思わんとだめだよ?
明日が必ず来るかなんて誰にもわからないんだからね?」と
病気になってからひまりは何度も何度も僕に教えてくれました。

本当にその通りだね、ひまり。

ひまりはどこまでも強かった、優しかった。
本当に本当によく頑張った。
ひまりの真っ直ぐな目と素直な言葉が大好きでした。
くしゃっと笑うその顔が大好きでした。
どこまでも前向きで明るい性格を心から尊敬してました。


最後の1秒まで
こんなにも頑張り続けたひまりを
どうか褒めてあげてください……。

ひまり、よく頑張ったね。
沢山我慢したろう、辛かったろう…。
あとはもう、何も我慢せずわがままに過ごしていいんだよ。
辛いことは忘れていつものようにたくさん笑っていいんだよ。
こんな僕を最期まで隣にいさせてくれてありがとう。
ずっと、ずっと大切な存在です。


ここまでひまりを支えてくださった皆様
本当に有難うございました。
ひまりの綴ったブログへの
コメントをみて、こんなにもひまりを
応援してくださる方々がいたのだと驚きました。
そんな皆様にひまりは有難うとたくさん伝えたいはずです。

長文、乱文で申し訳ありません。



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