6. 舞岡関谷[522] lZGJqorWkko 2026年1月13日 05:45:36 : Q1e4c9LB4o : b3hmWi5NZmRnZms=[1]
―――コロンンビアの国名の由来(Wikiから引用)
国名は直接的にはアメリカ大陸の発見者クリストーバル・コロン(コロンブス)に由来し、アメリカが「アメリゴの土地」を意味するように、コロンビアは「コロンの土地」を意味する。植民地時代はスペインのグラナダに由来したヌエバ・グラナダ(新グラナダ)と呼ばれ、独立後も1858年までこの名称を使用していた。コロンビアの名称を最初に使用したのはベネズエラの独立指導者フランシスコ・デ・ミランダであり、ミランダが新大陸を示す名称としてコロンビアを用いた。1819年に解放者シモン・ボリバルは南米統一国家の国名にこの名称を用い、ベネズエラとヌエバ・グラナダの連合国家の名称としてコロンビア共和国(後世グラン・コロンビアと呼ばれる)が採用された。1831年にヌエバ・グラナダ共和国として独立した後、1858年にはグラナダ連合、1863年にはコロンビア合衆国と国名を変え、1886年に現行のコロンビア共和国の名称が最終的に定まった。
―――ボリビアの国名の由来(Wikiから引用)
サン・マルティンが引退したためペルーはボリバルの大コロンビアに援軍を依頼し、1823年にボリバルはまずスクレを先遣隊として派遣したのち、1823年9月にはボリバル自身がペルーへと移動した。ボリバル軍はリマに進出し、リマの東山地に陣地を築いていたスペイン軍と対峙した。ボリバルは1824年2月8日にペルーの第8代大統領に選出され、大コロンビアとペルーの大統領を兼任することとなった。ピチンチャの戦いで活躍したスクレを総司令官(実質的には参謀長)に据えて、攻略を開始した。ボリバルは病に倒れ戦線を離脱したが、スクレが1824年12月9日、アヤクーチョの戦いで大勝し、ペルー副王のホセ・デ・ラ・セルナを降伏させた。
ペルー解放によって南アメリカの独立戦争の大勢は決したが、依然としてアルト・ペルー(高地ペルー)はスペイン軍に支配されていた。しかしペルーから進軍したスクレが1825年4月に解放し、ラテン・アメリカ大陸部での解放戦争はここに終結した。こうして植民地時代には同一の行政区画だったペルー、アルゼンチンとの連合を望まなかったアルト・ペルー支配層と、ボリバルらの思惑が一致したためアルト・ペルー共和国が誕生した。1825年8月6日、アルト・ペルー共和国議会は独立におけるボリバルとスクレの功績を讃え、独立に際して国名をボリビア、首都名をスクレ(旧チャルカス)と定めた。1825年8月12日、ボリバルは新生ボリビア共和国の初代大統領に選出され、大コロンビア・ペルー・ボリビアの3か国の元首を兼任することとなったが、ボリビアにおけるボリバルの大統領位は名誉職的なものにすぎず、同年の12月29日には大統領を辞任して後任をスクレに任せた。
―――引用終了
ボリバル将軍活躍の300年前
1492年コロンブス「新大陸」上陸
スペインの南米占領の始まり
1572年9月24日に、インカの最後の王であるトゥパク・アマルは、捕らえられクスコで斬首された
このころの、日本は室町時代でした。
スペインの南米支配は、19世紀まで続いていたのですね。
19世紀の日本といえば、
1867年(慶応3年)徳川慶喜による大政奉還が行われ、江戸幕府が事実上終了。
http://www.asyura2.com/25/kokusai36/msg/236.html#c6
題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。