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[政治・選挙・NHK283] 高市早苗氏の出馬表明会見で袋叩きに…ジャーナリスト横田一氏に「質問」の真意を聞いた(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
43. 2021年9月10日 22:51:59 : 69Bd5YVzXI : bllXVFA1Ly5xWVU=[1]
22さん
>国民の知る権利を行使して何が悪い!

メディアは報道の自由でしょうね。 三権(立法・行政・司法)と並び第四の権力の所以。

〈憲法〉
第二一条 1集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

〈憲法 英文〉
Article 21. Freedom of assembly and association as well as speech, press
and all other forms of expression are guaranteed.

近代民主主義は、法の支配(マグナカルタ)、人権(バージニア権利章典)が挙げられる。
報道の自由のバージニア権利章典の記述(日本訳はウィキを利用)

第12条 言論出版の自由は自由の最大の防波堤であり、専制的な政府による場合以外
では制限することはできない。

XII. That the freedom of the press is one of the greatest bulwarks of liberty
and can never be restrained but by despotic governments.

”自由は自由の”との訳は、意味が通じにくい。 報道の自由は、民主政治の最大の 
防波堤と訳する方がわかりよいのかも。 〈西洋史から説明した明治初めの自由の解説〉

『自主自由は英語の「リバーチイ」および「フリードム」の訳語なり。 「リバーチイ」はラテン
語の「リベルタス」より出て、「フリードム」はチュートン語(ゲルマン系ドイツ語)の「フライハ
イト」より出たり。 ローマの法律に、独立の生計を立てる人と、人の奴隷となる者をもって

判然別種の民とみなし、独立の民の有様を称して「リバーチイ」(自主自由)といい、奴隷の
有様を指して「セルビス」(服役)という。 ゆえに自由の語の本来の意味は、ただローマに
おいて独立せる民の有様を言たるものなり。 しかれどもまたその義を転じて政治上の意味

に用いたることあり。リーウィ(リウィウス ローマ建国史)のローマ史に、ローマ人その暴君
タルクィニウス(王政ローマ7代王を放逐し共和制に移行)を逐(お)い、はじめてその
「リバーチイ」(自由)を得たりと記せり。 この「リバーチイ」の意味は、前に言たる独立の

民と奴隷の民の有様とは事替わりて、全国人民の身上に自由と束縛の二様あることにて、
一国の民、暴君の下に圧政せらるるときはこれを束縛を受るといい、もしそ圧政を免かるる
ときは名けて自由を得たりというなり。ギリシアには、「ゼスポチース」と「ザウロス」という語あり。 

「ゼスポチース」は主人の義にて、「ザウロス」は奴隷の義なり、この語また反対の意味ある
ものなれども、ラテンの「リベリ」(自由)および「セルビ」(服役)の語とは、その義を同うする
能わざるものなりといえり。自主自由の語の用法たいていかくのごとし。 近代に至り自主

自由を分ちて二種となす。一を自然の自由また人身上の自由といい、二を交際上の自由
また政治上の自由という。 ・・・』 (自主自由の解 明六雑誌 西村茂樹)

米国の自由の女神像は、ニューヨーク「リバティ」、乱入事件の連邦議会議事堂「フリーダム」
米国刑事ドラマで、freeman(奴隷でない自由民)と容疑者を解放する際に言う時がある。 
勾留や長時間の取調も自由に関わる。 拷問禁止は、明治に招聘の仏国法学者による。

最近は、メディアが、報道の自由を言わなくなった気がしますね。

http://www.asyura2.com/21/senkyo283/msg/120.html#c43

[政治・選挙・NHK283] 岸田内閣にはネトウヨ極右閣僚もいっぱい!「少女時代」をデマ攻撃した金子総務相、末松文科相、古川法相、女性閣僚の堀内大臣… 赤かぶ
22. 2021年10月06日 15:40:50 : 69Bd5YVzXI : bllXVFA1Ly5xWVU=[2]
靖国神社は軍管轄の神社、政府施設であり、参拝は忠君愛国で宗教行為ではなかった。
詳しくは、上智大生靖国神社参拝拒否事件。 英霊となったのは、日露戦争後。
田舎にある戦死者の碑を忠霊塔と親から教えられ、今でも地元では英霊塔と呼ばない。

長州招魂場(桜山神社)は高杉晋作の建白、東京招魂社は大村益次郎の建白。 長州の
主導による神社。 東京招魂社は洋式の建物で競馬も行われていたという。 〈大村は
緒方洪庵の適塾で西洋医学を学んだ。 様式は西洋の影響があったのか。〉

で、長州招魂場は奇兵隊の戦死者の墓として建白されたのだと思われる。
1863年5月下関戦争 6月奇兵隊創設 8月18日の変 10月招魂場の建白。 
1864年6月〈5月25日〉「楠公祭」(村田清風、吉田松陰ら16人) 7月禁門の変 
8月四ケ国下関砲撃 第一次長州征討 1865年招魂場落成

遺体が家族に返されない死に、刑罰の死刑があった。 死刑は6種類、一番軽い下手人
(げしにん)は返される。 次の死罪は様物(すえもの)斬りに試される。 吉田松陰は死罪。
塾生が牢役人に金を渡し首を持ち帰った。 松陰は神葬を望んでいたとされる。

島原の乱から200年も戦乱の遺体無き死は起きていなかった。 しかし、長州は攘夷とし
外国商船や艦船を砲撃、反撃も受けた。 戦死という遺体の無い死が始まる。 遺体の無い 
葬儀(仏教)は、共同体の人々の噂になることは充分に想像できる。 

葬儀と別に、民俗伝統といわれる霊魂(たましい)の信仰がある、 江戸の幽霊は僧侶の
お経で供養する。 江戸町人は四谷怪談の幽霊、(葉隠)武家にも幽霊話が出ていた。
今でも知られる合格祈願の天満宮・政治家の菅原道真、天皇家は日本一の大魔縁

(大魔神)となった崇徳天皇、怨霊となり災いを起こした。 この怨霊を鎮める御霊信仰も
あった。 〈崇徳天皇の霊は、明治の前に京都に戻された。 球技の神様の神社で有名〉
神道で霊魂存在を唱えたのが、国学者平田篤胤。 長州藩校明倫館に国学も教科として

あって、吉田松陰や高杉晋作は平田篤胤の書を回し読みしたといわれる。 ネットで判る
のは、白石正一郎。 尊王攘夷派、奇兵隊の援助者で国学を学んでいたとなっている。


幕末の志士の葬送について
『文久2(1862)年11月18日に勤王家の吉田玄蕃の志により、長州清末藩国学者船越清蔵
守愚の墓を建立し、長州藩士たちの参列のもとに神道葬を斎行。これが機縁になり長州藩を
はじめとする殉難志士の神道葬祭などの祭祀を執り行うようになりました。

同年12月には平田篤胤門下で神祇伯 白川家の古川躬行や津和野藩の福羽美静らの
発起により、安政の大獄以降の殉難志士の「報國忠士の霊魂祭」が斎行されるところになり、
招魂社また靖国神社創建の起源をなすものとなりました。 ・・・ 』

士の聖地 霊明神社(京都)
https://www.reimeijinja.org/

京都は幕府管轄で治安は京都所司代、後に、京都守護職の配下の京都見廻組や新選組。
尊攘派は幕府から犯罪者とされ、殺傷されても放置。 埋葬(土葬)も仏教宗派では受け
入れてもらえず、幕府に秘匿して行われた。 幕府と朝廷の権力が逆転しても同じように

反逆者と見做され放置された。 幕府方の戦死者を埋蔵したのは侠客。 京都は会津小鉄、
咸臨丸は清水次郎長、箱館は柳川熊吉。 戊辰戦争での会津の戦死者は放置であった。

で、招魂とは? 平田篤胤の兄弟子にあたる国学者・伴信友は招魂(みたまふり)と読み、
心を震いたたせるという意味としている。

伴信友  比古婆衣二十の巻  招魂(みたまふり)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991315/222


『靖国神社および護国神社の旧称。1862年(文久2)福羽美静(ふくばびせい)(1831‐1907)
らが討幕運動で非命の最期をとげた尊皇の志士を京都東山の霊山(りようぜん)にまつり,
63年八坂神社境内に小祠を建立したのが最初である。討幕諸藩でも招魂慰霊がなされ,

長州藩では64年(元治1)に藩主により山口市赤妻に設置され,慶応年間十数ヵ所に増加
した。68年(明治1)5月太政官布告で霊山にペリー来航の〈嘉永癸丑〉(1853)以来の
〈国事殉難者〉の招魂場を設置してより,諸藩でも〈旌忠社(せいちゆうしや)〉等の名称で
それぞれに設置。』 

(赤妻神社は、1863年「8月18日の変」で、朝敵となった長州と尊王攘夷派の七人の内の
一人、錦小路頼徳が病没。 藩主が神社を創建した)

コトバンク 招魂社  世界大百科事典 第2版の解説
https://kotobank.jp/word/%E6%8B%9B%E9%AD%82%E7%A4%BE-79215


『 ・・・ しかし元禄5(1692)年、水戸藩主徳川光圀が湊川に「嗚呼忠臣楠子之墓」と刻む
新たな墓碑を建てたことで、扱いは一変する。水戸徳川家は徳川御三家のひとつだが、
皇室を敬う気風が強い。『大日本史』編纂を始めた光圀も、熱烈な正成崇拝者だった。

徳川方がお墨付きを与えたので、正成は「忠臣」としての評価が定まる。山陽道に近い
墓所は名所となり、多くの旅人が参るようになった。

ところがそれから百数十年がたち、徳川政権が揺るぎ始めると、正成の墓は幕府打倒の
精神的シンボルと化し、多くの「勤王の志士」が訪れるようになる。

特に長州の吉田松陰などは、肉体は滅んでも、志は消えないという死生観を、正成から
学んだという。松陰は、自分と正成の心は数百年の時空を越えて、結び付いていると信じた。
そして、萩の松下村塾に「七生滅賊」の軸を掛けて後進を育成した。 ・・・』

『続く戊辰戦争は、新政府の権力基盤を固めるための内戦であった。戦火は京都郊外から
関東、東北、北海道へと広がってゆく。江戸城に乗り込んだ新政府軍(官軍)は明治元
(1868)年6月、幕府権威の象徴だった西の丸大広間で、味方の戦死者の招魂祭を行った。
敗者のプライドを踏みにじる行為だったことは、言うまでもない。

では、これが日本古来の慰霊の方法だったのかというと、それは違う。たとえば「禁門の変」
後、孝明天皇は知恩院と黒谷で敵味方の区別なく、戦死者供養のための於施餓鬼を行わ
せた。わずか、数年前のことである。』 (禁門の変は1864年)

明治維新150年、長州藩と靖国神社 一坂太郎氏
https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20180630-001.html

長州は、楠木正成(忠臣の霊魂 忠霊)の楠公祭で、平田篤胤の霊魂論と結びつけた
忠臣の霊威と藩主や参列者の招魂(みたまふり)、心を震いたたせる決起を行ったと解釈
できる。 大元は、尊王であり、尊王攘夷で幕府に討たれた者、戦争を始めた長州の戦死
を祀り、後へ続けというような意味となった!?


靖国神社の初代宮司は長州の青山清。 萩の人物データベースより抜粋 
『奇兵隊にも出入りし、高杉晋作や山県有朋、伊藤博文らとかかわり、慶応元年(1865)
下関の桜山招魂社で最初の招魂祭を斎行した。慶応3年、山口でできあがったばかりの
錦の御旗に祝詞をあげた。』

尊王攘夷思想は水戸藩。 思想で幕府を倒しても、政治体制は構築できない。 長州は
名を獲り実を獲ったのは公家の政治体制である律令制と思われる。 公家の尊攘過激派は
中山忠光(明治天皇の叔父)。 天誅組の挙兵が鎮圧され長州に匿われるが、暗殺される。

高杉晋作は奇兵隊や招魂場を創設。 大村益次郎は陸軍の祖で東京招魂社。
農兵論は幕藩時代にあった。 しかし、参戦の権利は藩士(武家)。 長州奇兵隊は平等の
始まりのように云われるが、高杉晋作にそういう考えは無い。(代々毛利家家臣の家柄) 

明治の初め、大村は皆兵論(農兵論)。 社会通念は、皆兵論は四民平等、家(姓)を与え
武家と同等とする必要性が生じる。 というこで、長州は軍隊と靖国に関わりが深い。

http://www.asyura2.com/21/senkyo283/msg/476.html#c22

   

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