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[近代史3] ロシア革命とは何だったのか? 中川隆
16. 2023年9月04日 18:56:57 : UKCmfMXPDk : cVk0MDh5dkl0NVk=[1]
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ロシア革命の始まり 皇帝は自ら災厄を招いた
2023.09.04
https://www.thutmosev.com/archives/73310030.html

市民運動に皇帝が同調したため勢いづき、革命に発展した

22976000195
引用:http://cdn.amanaimages.com/cen3tzG4fTr7Gtw1PoeRer/22976000195.jpg
優柔不断な皇帝と革命農民
最後のロシア皇帝ニコライ2世は一言でいえば優柔不断なうえに騙されやすかったと言われています

例えば自分で決めた事でも前日に母親が意見を言うと変更し、当日に妻が苦情を言うとまた変更してしまった

こうした突然の変更は抗議を聞きたくないので他の人に無断で行われ、その度に皇帝は信用を失った

優柔不断なのに騙されやすく信じてはいけない相手ほど簡単に信じる傾向があった

事実を告げるものは遠ざけられ、嘘の報告をする大臣とか怪しげな助言者などの話を良く聞いた

ロシア帝国は外部からの力というより皇帝や周囲の人々の間違った行いによって内部崩壊していた

ニコライの祖父アレクサンドル2世の時代に既にロシアは混乱していて皇帝は何度も襲撃されていました

アレクサンドル2世は市民運動家の爆弾によって1881年に逝去し、このころロシアは既に社会主義思想が蔓延していました

社会主義思想の始まりは皮肉にもアレクサンドル2世が行った農奴解放によって、それまでの農奴が市民になったからだった

ロシア農民は革命前は欧州と同様に領主の所有物でしかなく、土地についてくる付属品と考えられていました

農民の生活は過酷で脱走や反乱が頻発したが、力で制圧していたので、農民と支配層の関係は欧州より敵対的だった

農奴解放によってこうした不満をもつ農民は市民に昇格し過激な革命運動を起こした

アレクサンドル2世の息子であるアレクサンドル3世は強権的な治世で秩序を保ち、用心深かったので爆弾でなくなる事もなかった

だが1894年には病没し「性格が弱く女々しい」と評判のニコライ2世が即位し滅亡の道を歩き始める

ニコライ2世は父親が決めた結婚を拒否し、ドイツ生まれのユダヤ人と、父親の逝去を待ち望んだかのように結婚している

皇帝が市民運動を奨励した
妻のアレクサンドラはユダヤ教は改宗したもののロシア語をほとんど話せず、ロシア人を嫌い生涯にわたってニコライ2世の足を引っ張った

またアレクサンドラには狂信的なところがあり、煽動者ラスプーチンをを招き入れたのも彼女だった

ニコライ2世の戴冠式の後、市民に「ふるまい」が行われたが市民が祝賀会場に行く道を作らず、将棋倒しで2000人がなくなった

ニコライ2世は責任者を処罰せず何事も起きなかったように振る舞ったが、このパターンはニコライの一生涯に渡って繰り返される

ニコライ2世は性格が弱かったため市民活動が活発になると簡単に同調してしまい、市民代表に権力を与えていった

こうした経緯はフランス革命を引き起こしたルイ15世と同じであり、政治に参加するようになった活動家はますます凶暴化していきました

ロシアの貴族や右派権力者達は新皇帝の威厳を高め市民運動を押さえ込むため、「危険の無いちょっとした遊び」を考え出した

それがロシアの極東進出で、清国や朝鮮や小さな島々を手に入れて領土を増やせば、不満を押さえ込めると考えていた

ニコライ2世は皇太子時代に日本を訪問していたが、戦争にリスクがあるとは考えなかった

日露戦争では序盤で一進一退が続いたものの日本海海戦で海軍が全滅し、ロシア軍は大きな打撃を受けて敗戦してしまった

戦前の計算では日本軍数人でやっとロシア軍1人と同等と考えられていたので、負けると想定したロシア人は一人も居なかった

敗戦は社会主義運動を勢いづかせ皇帝側は権威を失墜させてしまった

ここでニコライは致命的な間違いを侵し、社会主義に同調して政治参加の道を開いてしまいました

ニコライは市民とは直接話し合えば理解し合えるという考えに取り付かれ、市民らを宮廷に招いて話し合おうとしました

ニコライ2世を危険視したロシア貴族達は、秘密警察を使って活動家を攻撃したり、逆に皇帝側を攻撃したりしました

1905年1月9日、社会主義指導者のガポン神父は市民数千人を引き連れニコライ2世の宮殿に行進したが、実はガボン神父は秘密警察のスパイであり、ロシア貴族の回し者だった

市民らは待ち伏せていた秘密警察の攻撃で1000人以上が無くなったが、貴族と右派はこれでニコライの「市民寄り」姿勢を正すつもりだったとされている

革命の前年、革命が始まるとわずか2週間で部下全員が皇帝を裏切った

1898827
引用:https://www.syl.ru/misc/i/ai/329459/1898827.jpg
だがこの事件はロシア革命への引き金を引いてしまい、ニコライ2世とその家族は1917年頃までに全員がなくなっている

側近達はニコライに事実を知らせず「少数の暴徒が攻撃してきたので、止むを得ず反撃した」というフィクションを信じ込ませた

ニコライは戴冠式の事故の時と同様に何事もなかったように振る舞い、これには社会主義者だけでなく皇帝側の軍人らも疑問を抱いた

抗議運動が活発化すると正規軍から次々に寝返りが出て、最後は自分の部下にまで裏切られて拘束されてしまいました

1917年2月23日の2月革命で最初の小規模のデモから暴動が拡大しニコライの部下全員が裏切るまで、たった2週間しかかからなかった

優柔不断で無能な皇帝と新興宗教の教祖に入れあげた皇妃、嘘の報告ばかりする大臣、陰謀をめぐらす貴族、皇帝を憎む農奴出身テロリスト、煽動されやすい愚かな民衆

こうした人々の相互作用によって、ロシア帝国は滅んだのでした


ロマノフ家の家族動画、優柔不断なニコライは家族を逃がす事すらしなかった
https://www.youtube.com/watch?v=Sq4ossoQ_0Q

https://www.thutmosev.com/archives/73310030.html



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