73. 新共産主義クラブ[-9913] kFaLpI5ZjuWLYINOg4mDdQ 2025年9月27日 16:56:08 : AdMKJEUDOg :TOR QWRSblRXMTRKV1k=[1]
>政治思想などで、鳩山一郎さんの政治的遺産を積極的に引き継いでいる鳩山由紀夫さんが、統一教会と同調するのは必然とも言える。
◆ 「武装平和の道を」と叫ぶ鳩山
(日本経済新聞, 2012年4月14日)
練りに練った発言だった。「再軍備」とか「憲法改正」といった言葉はここにはないが、武装平和は、これらと同じ意味である。大きな方向性は一致していても、当時の吉田路線とは違いがあった。
この発言を通読すれば、鳩山のナショナリストぶりがわかる。それを鳩山ナショナリズムと仮に呼ぼう。ただしまだ米軍占領下であり、公職追放解除になったばかりである。反米ナショナリズムの響きはない。
鳩山ナショナリズムは、やや変質して隔世遺伝する。
鳩山の長男、威一郎は大蔵官僚になり、主計局長、次官を務めた後、参院議員になった。1976年、1年生議員だったが、発足した福田内閣の外相に就任した。在任中、特にナショナリストと評されるような発言はなかった。
しかし威一郎の長男、つまり一郎の孫、由紀夫は違った。2009年にできた由紀夫の政権が1年ももたずに崩壊したのは、鳩山ナショナリズムのせいだった。由紀夫は米国と距離を置き、東アジア共同体に傾斜し、それが不安を持たれた。反米ではないにせよ、明らかに離米ではあった。
対米関係を損ねた政権は長続きしないとの日本政治の公理を改めて印象づけたのが由紀夫の政権だったが、一郎の政権も実はそれに近かった。これについては後に触れる。
https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK04024_V00C12A4000000/
◆ 鳩山由紀夫の思想と行動 〜ロードマップなき“理念”の宰相〜···· 藤本 一美
(専修大学社会科学研究所月報, No. 576, 2011. 6. 20)
《民主党の結成》
由紀夫は 8 月 15 日から 4 日間、軽井沢の別荘に同志を集め、合宿の形で政策作りに入った。そして 19 日までに新党の基本政策の原案をまとめた。それは「民」主導型社会を目指すという内容で、業界と癒着した官僚や官僚政治との対決姿勢を示したものであった。8 月 25 日、由紀夫はテレビに出演、突然「武村さんには参加してほしくない」と述べた。党代表の武村正義に対する通告がきっかけで、離党問題が浮上、「鳩山新党」が現実のものとなってきた。由紀夫は27 日、新党さきがけの代表幹事の辞表を持って党本部に赴き、それを提出した。その際、由紀夫は新党には武村正義と村山富市の参加を拒否した。その理由は、「既成の政治家はできるだけ排除することだった」。目指す新党が既成政党の合流ではなく、新たな政治潮流であることを明確にするため、社民・さきがけの両党の党首を遠ざけたのであるなど、といわれている(前掲書『鳩山由紀夫事典』、52 頁、『友愛革命−鳩山由紀夫の素顔』、83〜87 頁)。
この点について、排除された村山富市は「僕は社会党とさきがけが一緒になることを考えていた。新しいリベラル層を結集して、社会民主主義という考え方を基調とすることが必要ではないかと。だけど、鳩山さんは全然違う、保守の立場から新党をつくっていこう」としたと語っている。一方、武村正義は、「(自民党離党前から)3、4 年間、鳩山という人をかなり尊んで、期待して付き合っていたから、特段嫌われる理由はないのでね。本当に不思議で、分からない」と述べている。政治の世界で恩義ある先輩二人を拒んだ由紀夫の行動は、我々国民には分かりづらく、それは「友愛」という新党の理念とはやや遠い行動だった、といわざるを得ない(前掲書『鳩山由紀夫事典』、31 頁、52 頁)。