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[近代史4] ウォール街やシティと戦った共産主義者のフランクリン・ルーズベルト 中川隆
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2023年07月27日
怪しい側近に操られる大統領 / アメリカン・デモクラシーの実態
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68934207.html

軽い神輿になる大統領

Bernard Baruch & FDR 213Bernard Baruch & Winston Churchill 8823

( 左 : フランクリン・ローズヴェルト大統領とバーナード・バルーク / 右 : ウィンストン・チャーチル首相とバルーク )

  形式上、デモクラシーでは有権者が議員を選んでいるが、必ずしもその政治家が民衆の意思を反映しているとは限らない。特に、合衆国大統領の補佐官とかアドヴァイザー、政権の支柱となる閣僚には、大統領を操ったり、別の人物から指令を受けて動く奴もいる。疑惑の選挙でホワイトハウスの主人となったジョー・バイデンはその典型で、誰が見ても“操り人形”にしか思えない。政治に詳しくない庶民でも、「いったい、ジョーは誰の命令で動いているんだ?」と言いたくなる。

  バイデンが来日し、岩国の空軍基地を訪問した時、彼は信じられない「嘘(妄想)」を口にした。バイデンはアメリカ兵の前で、「私の息子ボーは、イラクで命を失いました」と。確かに、彼の長男であるボー・バイデン(Joseph Robinette Biden)は2008年にイラクへ派遣されたが、2009年には無事にアメリカに戻っている。帰還後、ボー・バイデンはデラウエア州の司法長官になったが、2015年5月30日、脳腫瘍のためメリーランド州のベゼスダ病院で亡くなった。

Biden 21344Joe & Beau Biden 2


( 左 : 痴呆症が進んだジョー・バイデン/ 右 : 息子のボー・バイデンと一緒のジョー・バイデン )

  ところが、ボケ老人と化したジョー・バイデンは、陸軍少佐のボーはイラクで戦死したと思っている。米国大統領を迎えた日本人ばかりでなく、アメリカ国民もバイデンの痴呆症にショックを受けていた。在日米軍の将兵なら、「こんな奴が最高司令官で、ウクライナ紛争について指令を出しているのか?」と疑ってしまうだろう。それにしても、息子の死を勘違いする父親なんて、普通の日本人じゃ考えられない。

Obama 12313(左 / 青年時代のバラク・オバマ)
  日本語を知らないアメリカ人でも、「担ぐなら、軽くて、ちょっとパーがいい」という戯れ言に同意するだろう。愚劣な“神輿(みこし)”は、ホワイトハウスにも収納されている。昔、腐敗の街「シカゴ」で黒人を動員していバラク・フセイン・オバマは、まさしく赤く染まった黒いマリオネット(marionnette)。この「コミュニティー・オーガナイザー(住民をオルグする者)」は、金融、軍事、外政、科学についての知識は空っぽだ。しかし、大衆を前にした演説だけは上手かった。黒い聴衆は、オバマが語る「夢」とか「希望」に大感激。とはいっても、オバマの言葉は空手形。主流メディアはオバマの雄弁さを褒め称えたが、名演説と言っても、白人に対する恨みが十八番(おはこ)なだけ。

  唖然とするのは、何の業績も無いオバマが、いきなり世界的に有名な『ハーヴァード・ロー・リヴュー(Harvard Law Review)』誌の編集長に選ばれたことだ。オバマは80名の編集員から選ばれたというが、こんなのは「有色人種優遇政策(affirmative action)」の一環だろう。(Fox Butterfield,‘First Black Elected to Head Harvard's Law Review,’The New York Times, February 6, 1990.)ハーヴァード大学の名物法学者であったロスコー・パウンド(Roscoe Pound)が生きていたら、きっと猛反対したはずだ。たぶん、墓の中で眠るジェイムズ・マディソン(James Madison)やジョセフ・ストーリー(Joseph Story)、ジェイムズ・ケント(James Kent)、ジェイムズ・ランディス(James McCauley Landis)も目が覚めてしまうだろう。(ちなみに、東京生まれのランディスは、ハーヴァード・ロー・スクールの総長や証券取引委員会の会長を経て、ジョン・F・ケネディー大統領の法律顧問になった。)

Joseph Story 1James Kent 1Roscoe Pound 1James Landis 11


(左 : ジョセフ・ストーリー / ジェイムズ・ケント / ロスコー・パウンド / 右: ジェイムズ・ランディス )

  日本の地上波テレビは一切報道しなかったが、オバマは悪名高いテロリストのビル・エアーズ(William Ayers)の教え子だ。オバマが執筆したという自伝『Dreams From My Father』は、実質的にエアーズによる代筆だった。2009年10月のインタヴューで、エアーズ自身が暴露したので、オバマは赤っ恥をかいている。(‘Terrorist Ayers Confesses Sharing Obama's 'Dreams', Investor's Business Daily, November 26, 2013.)でも、意外と黒人からの非難は無い。おそらく、「黒人枠」でハーヴァード大学やシカゴ大学のロー・スクールに潜り込んだ、と勘ぐっているんじゃないか? だいたい、黒人の劣等生は、いくら頑張っても“感動的”な文章なんて書けない。ただし、マイク・タイソン(有名なプロ・ボクサー)やクリス・ロック(漫談師・俳優)と比べたら、ヤバマはちょっとだけ“知的”なのかも。

Robert Rubin 213Bill Ayers 382Obama 6632


(左 : ロバート・ルービン / 中央 : ビル・エアーズ / 右 : 「優秀な学生」と評されたバラク・オバマ )

  オバマが歩んだ出世街道には色々な導師がいて、有名な世話係といえばユダヤ人のロバート・ルービン(Robert Rubin)だ。そして、大統領選挙の出馬前にはズビグニュー・ブレジェンスキー(Zbigniew K. Brzezinski)に紹介され、この大御所が後見人のようになっていた。彼はオバマがズル編入したコロンビア大学で教鞭を執っていたが、カーター政権が誕生すると国家安全保障担当の補佐官になった。ちなみに、ブレジンスキーは1972年に『ひよわな花 日本』という本を出版しており、50年近く前の古本にもかかわらず、市場では高値になっている。

Cyrus Vance 724Jimmy Carter 43Zbigniew Brzezinski 001


( 左 : サイラス・ヴァンス / 中央 : ジミー・カーター / 右 : ズビグニュー・ブレジェンスキー )

  今では懐かしいが、「人権外交」という愚かな方針で馬鹿にされたジミー・カーターは、大統領選前、ワシントンのヘドロに染まっていない“クリーン”なイメージを“売り”にしていた。ところが、大統領に当選するや否や、タウンミーティングで述べた言葉を翻し、自身の政権をエスタブリッシュメントで塗り固め、民衆の期待を裏切る人事を行っていた。

  例えば、国務長官にはアヴェレル・ハリマンの部下であったサイラス・ヴァンス(Cyrus Roberts Vance, Sr.)が就任し、財務長官にはヴェルナー・マイケル・ブルーメンタール(Werner Michael Blumenthal)が選ばれた。彼はドイツから逃れてきたユダヤ人。国防長官にはユダヤ人で核物理学者のハロルド・ブラウン(Harold Brown)が任命され、エネルギー省の長官には、これまたユダヤ人が選ばれ、ニクソン政権で国防長官、フォード政権でCIA長官を務めたジェイムズ・シュレッシンジャー(James Rodney Schlesinger)が就任する。複雑怪奇な外政となればカーターの不得意分野で、三極委員会(Trilateral Commission)にお任せの状態だった。ブレジンスキーと同じく、ブルーメンタールやブラウン、ヴァンスは、デイヴィッド・ロックフェラーが牛耳るCFR(外交問題評議会)のメンバーだった。

Werner Michael Blumenthal 1Harold Brown 1James Schlesinger 1Henry Morgenthau Jr 2133


( 左 : ヴェルナー・マイケル・ブルーメンタール / ハロルド・ブラウン / ジェイムズ・シュレッシンジャー / 右 : ヘンリー・モーゲンソー・ジュニア)

Harry Dexter White 213( 左 / ハリー・デクスター・ホワイト )
  フランクリン・デラノ・ローズヴェルト(FDR)の場合も同じで、彼の周りには“いかがわしい”奴らがズラリと顔を並べていた。例えば、財務長官には恩返しということでヘンリー・モーゲンソーの倅(せがれ)であるヘンリー・モーゲンソー・ジュニア(Henry Morgenthau, Jr.)が就任し、その部下にはハリー・デクスター・ホワイト(Harry Dexter White)がいた。彼は「ジュリスト(Jurist)」なるコード・ネームを持ち、NKVD(ソ連の秘密警察)のエージェントであった。このユダヤ人は「ハル・ノート」の素案を書いた財務官僚で、日米の両国で悪名高い。

  ところが、京都産業大学の教授を務めていた須藤眞志(すどう・しんじ)は、肝心な点を見逃していた。彼は著書の中でホワイトについて解説したが、「ジュリスト」がユダヤ人であることに言及していないのだ。(須藤眞志『ハル・ノートを書いた男 日米開戦外交と「雪」作戦』文春新書、平成11年、pp.126-127.を参照。) 日本の大学教授や歴史家というのは、民族差別や人種偏見に対する非難を恐れているのか、ユダヤ人に対する批判が甘く、歐米の左翼学者が述べたことを日本語で繰り返すだけの九官鳥が多い。

  州知事や学長から成り上がったウッドロー・ウィルソン大統領には、「大佐」と呼ばれていたエドワード・マンデル・ハウス(Edward Mandell House)が影のように纏わり付いていた。ハウス大佐と似たような“調教師”がローズヴェルト大統領にも附いていて、それがルイス・マクヘンリー・ハウ(Louis McHenry Howe )というジャーナリストで、“小妖精(elfin)”と呼ばれた政治顧問だ。ルイス自身は大統領に仕える「無名の士(no-man)」と述べていたが、FDRに及ぼす影響は甚大だった。Julie M. Fenster, FDR's Shadow : Louis Howe, The Force That Shaped Franklin and Eleanor Roosevelt, New York : St. Martin's Press, 2009, p.222.) しかも、彼はエレノア夫人のアドヴァイザーにもなっていたから凄い。

Edward Mandell House 2133Louis McHenry Howe 213FDR & Eleanor 2143


(左 : エドワード・マンデル・ハウス / 中央 : ルイス・マクヘンリー・ハウ / 右 : エレノア夫人とフランクリン・ローズヴェルト大統領)

  もっとビックリするのは、選挙後、ハウが大統領の家族と一緒にNYのオルバニーからホワイトハウスに移り、二階のリンカン・ベッドルーム(Lincoln Room)に陣取っていたことだ。(Jean Edward Smith, FDR, New York : Random House, 2007, p.334.)白亜館の主人たるFDRは、朝8時頃起きると、ベッドで朝食を取り、食べながら「New York Times」や「Herald Tribune」「The Washington Post」「Chicago Tribune」といった新聞に目を通していた。そして、ルイス・ハウが用意したファイルを受け取っていたそうだ。ハウはこれを「日報ラッパ(Daily Bugle)」と呼んでいた。奇妙な関係に思えてしまうが、FDRが髭を剃ったり、着替えをしたり、タバコをふかしている時も、ハウはずっと大統領の側にいたらしい。シャーロック・ホームズとドクター・ワトソンじゃあるまいし・・・。

  FDRの影法師みたいな立場のルイス・ハウだが、その異様な人相と違い、家柄は結構よかった。

  父親のエドワード・ポーター・ハウ(Edward Porter Howe)は元陸軍の大尉で、除隊後は不動産やベンチャー・ビジネスに乗り出す冒険家であった。しかし、商人の才能は無かったようで、大尉の家族は貧乏生活に転落する。だが、「腐っても鯛」というか、失敗にめげない軍人魂は健在で、彼は友人からお金を借りて、NY州のサラトガで発刊される弱小の地元紙『Sun』を買収した。ジャーナリストで満足できないエドワードは、次第に政治への野心を抱くようになり、民衆党員としてインディアナ州の上院議員を目指すが、あえなく落選。

  それでも、政界への熱意を断念できず、スティーブン・グローバー・クリーヴランド(Stephen Grover Cleveland)を支援する。この応援が功を奏したのか、エドワードはサラトガの郵政局長という役職を得ることが出来た。しかし、人生には山あり谷ありだ。武士の商法といえばそれまでだが、「Sun」の経営は上手く行かず、最終的に売却する破目に。息子のルイスも相当な苦労をしたそうだ。

 「アメリカ貴族」とも言えるFDRと同じく、ルイス・ハウも“そこそこ”名のある家族の出身だった。父親のエドワードは血筋が良く、彼の祖先は独立戦争以前から新大陸に渡ってきたそうだ。最初はコネティカットに住んでいたが、独立戦争後にヴァーモントに移ったそうである。

  ルイス・ハウの母親、エリザ・ブレイク・レイ(Eliza Blake Ray)も名門の出身で、父親のジェイムズ・ミッチェル・レイ(James Mitchelle Ray)は、インディアナポリスにある歳入庁で副長官職を拝命していた。エリザの母、マリア・レベッカ・コー(Maria Rebecca Coe)の祖先も毛並みが良く、祖先の一人であるレベッカ・クック(Rebecca Cook)は、「メイフラワー号」で新大陸にやって来たフランシス・クック(Francis Cook)の子孫であるという。

  両親の家系から観れば、ルイス・ハウは西歐系のサラブレットに見える。しかし、その容姿はお世辞にも魅力的とは言えず、幼い頃には喘息を患う虚弱体質の児童であった。彼の顔写真を目にすると、「皮膚病の痕があるのか?」と思えてしまうが、これは彼が少年の時に“やらかした”自転車事故の“結果”だ。無謀にも、ルイスはブレーキの無い自転車に跨がり、スピードを出していい気になっていた。ところが、ひょんな事で彼は転んでしまい、顔を地面に叩きつけることに。これが原因で、ルイス少年には一生涯「顔」に残る傷が出来てしまった。第二次大戦中、ドイツ軍でコマンド部隊を率いていたオットー・スコルツェニー(Otto J. A. Skorzeny)中佐みたいに、大学時代の決闘で左頬に傷が出来たのなら自慢になるけど、自転車から転げ落ちて傷が出来たんじゃ女の子に自慢できないし、何よりも格好悪い。

Louis McHenry Howe 882(左 / 大きいカラーが特徴のルイス・ハウ)
  後に、政界で“有名人”となったルイスは、その人相と人目を引く大きなカラーで著名になった。確かに、当時のアメリカ人男性は硬いカラーの服を着ていたが、ルイスの襟カラーは特大であった。それゆえ、周囲の者は嘲笑うかのように、彼を「ルイス・ザ・ジャイアント・カラー(Louis, The Giant Collar)」と呼んでいたそうである。

  ある人々からは「中世の妖怪(mediaeval gnome)みたいだ」と評されたルイス・ハウは、その容姿も風変わりであったが、個人的な趣味も尋常ではなかった。1970年代のヒッピーじゃあるまいし、彼は自分の部屋で香を焚く事があったらしい。知人によると、彼の部屋に充満する煙とタバコの臭いは相当キツかったそうだ。一般人から見れば、ルイスは奇妙な側近に思えてしまうが、よく判らない事情でローズヴェルトの指南役(guru)となっていた。NYの五番街にある邸宅で大統領と一緒に暮らすこともあったらしい。もちろん、女房のエレノア・ローズヴェルト夫人は承知の上だ。しかし、母親のサラ・デラノ・ローズヴェルトは、息子に変な影響が及ぶのでは、と心配していたという。

Sara Delano Roosevelt 213Harry Hopkins 111Jesse Strauss 1Oscar Solomon Straus 1

(左 : サラ・デラノ・ローズヴェルト / ハリー・ホプキンス / ジェシー・I・シュトラウス / 右 : オスカー・ソロモン・シュトラウス )

  このルイス・ハウが1936年4月に亡くなると、その後釜に納まったのは、あのハリー・ホプキンス(Harold Lloyd Hopkins)だ。ホプキンスはヤルタ会談で常に大統領に付き添い、そっと耳打ちする補佐官として有名だった。それ以上に注目すべきは、ホプキンスがエレノア夫人とも親しい関係で、二人とも赤い進歩派だった点である。ホプキンスはユダヤ人ではなかったが、彼をFDRに紹介したのは、有名な百貨店「メイシーズ(Maycy's)」の社長を務めたジェシー・I・シュトラウス(Jesse Isidor Straus)であった。このユダヤ商人は、ローズヴェルト大統領と親しく、後に駐仏アメリカ大使になっている。ちなみに、彼の叔父は、ユダヤ人で初の商務長官になったオスカー・ソロモン・シュトラウス(Oscar Solomon Straus)である。1921年、オスカー・シュトラウスは進歩党から出馬してNY州知事を狙うが、やはりユダヤ人じゃ人気が出ないのか、有権者の支持を得られず失敗に終わっている。でも、米国ユダヤ歴史協会(American Jewish Historical Society)の総裁にはなれた。

FDRの背後で動くユダヤ人

Bernard Baruch 7732( 左 / バーナード・バルーク)
  ホプキンスとは違う立場で、FDRに影響を与えたのは、ウォール街の大物と評されたバーナード・バルーク(Bernard Mannes Baruch)だった。このユダヤ人の投資家は、第一次世界大戦の前から裕福で、100万ドル以上の財産があると囁かれていた。戦後はその資産が2億ドルに膨れ上がったんじゃないか、とも言われていたから凄い。彼はウィルソン大統領のアドヴァイザーになると、1918年に「戦時産業局(War Industries Board)」の局長に就任し、軍需物資のビジネスで一儲けしていた。

  1930年代になると、いつの間にか大統領の顧問に登り詰めており、ウィンストン・チャーチルが訪米すれば、真っ先に密談をする重鎮になっていた。やはり、チャーチルはユダヤ人と反りが合う。バーナード・バルークの出自を調べてみると、典型的なユダヤ移民の子孫であることが判る。自伝を出版したバルークは、自らをサウス・カロライナ生まれの“アメリカ人”と称していたが、本質的にはコスモポリタンのエイリアンだろう。

  アメリカ版のシャイロックたるバルークは、父と母の家系からもユダヤ人であることは明白だ。父親のサイモン・バルーク(Simon Baruch)は、1840年7月29日、ポーランドのシュバジェンツ(Swarzendz / Schwersenz / 当時はドイツ領)で生まれたが、彼が自身の祖先について話すことは滅多に無かったそうだ。(Bernard Mannes Baruch, Baruch : My Own Story, New York : Henry Holt and Company, 1957, p.3.) サイモンの父、つまりバーナードの祖父に当たるベルンハルト・バルーク(Bernhard Baruch)は、ラビを排出した家系で、スペインに住んでいたセファラディー系のユダヤ人であったという。孫のバーナードによると、バルーク家はポーランドとロシアの系統が融合した血筋らしい。(「バルーク」というファースト・ネームは、この祖父から由来するそだ。)

  シュバジェンツで生まれ育ったサイモン・バルークは、プロイセン軍に引っ張られるのが厭で、ドイツ領のポーランドを離れ、1855年にアメリカへ渡ってきた。彼は15歳の時、ポーゼンのギムナジウム(日本で言う高等中学校)に通っていたが、徴兵に怯えたので、遠く離れた米国に逃れた、という訳だ。当時から、アメリカはユダヤ人の「避難所」になっており、ユダヤ人は拒絶されることもあったので、「ポーランド人枠」や「オーストリア人枠」を利用して、偽装入国することもあった。ユダヤ人というのは世界各国に同胞が散らばっており、一匹狼が見知らぬ土地に流れ着いても、何らかの「手助け」を売ることができる。

  サイモンも新天地の米国で頼りになる同胞がいて、それがサウス・カロライナ州のカムデン(Camden)に住み、そこで小さな雑貨店を営むマンネス・バウム(Mannes Baum)であった。(バルークのミドル・ネームである「マンネス」は、このユダヤ商人のファースト・ネームから貰った名前である。)

  徴兵逃れのサイモンは、バウムの女房からその才能を認められ、チャールストンにある医学カレッジ(South Carolina Medical College)に進むよう勧められたという。サイモンは後にヴァージニア州リッチモンドにある医学校(Medical College of Virginia)にも通い、そこでも医学を勉強したそうだ。ところが、移住先のアメリカで南北戦争が始まると、医学を修めたサイモンは、歩兵とならず得意分野を活かしてアシスタントの軍医になった。(上掲書、p.5.)ヘンリー・キッシンジャーのように“軍歴”を持つユダヤ人は珍しくないが、勇猛果敢な戦士というより、外国語を駆使する情報収集係とか、武器や弾薬を配達する兵站係というのが多い。日本に来たチャールズ・ケーディス(Charles Louis Kades)も、激戦を経た陸軍の大佐じゃなく、軍服を着た「弁護士」上がりの役人だった。 

  プロイセンの軍隊を嫌ったサイモンは、ロバート・リー将軍が率いる南軍に属したが、戦争の事については息子にあまり喋らなかったそうである。確かに、剣じゃなくメスを握ったアシスタントじゃ華々しい功績は無いし、北軍に捕まった時の惨めな“体験”では話にならない。ただし、サイモンは1864年7月に「軍医(Surgeon)」に昇格し、ノース・カロライナ州のトマスヴィルに派遣されたという。でも、激務のせいか、チフスに罹ってしまった。高熱にうなされたサイモは、敵軍に捕まってしまい、一巻の終わりかと思いきや、あっけなく釈放された。ただし、本人が知らないうちに解放されたというから驚く。何とも情けない話だが、ユダヤ人の「軍人」には、これといった“武勇伝”が無い。

  バーナード・バルークを産んだイザベラ・ウルフ(Isabelle Wolfe Baruch)もユダヤ人で、彼女の先祖はアイザック・ロドリゲス・マルケス(Isaac Rodriguez Marques)というセファラディー系の移民であった。アイザックは1690年代に新大陸のニュー・ヨークに住み着き、ヨーロッパとアングロ・アメリカ、そしてラテン・アメリカを行き来する貿易で生計を立てる船主だった。(上掲書、p.13.)このアイザックが何処で生まれたのか判らないが、ジャマイカ生まれという推測もある。確かなのはスペインやポルトガルにいたユダヤ人という点だけである。

  独立戦争が起こる前、アメリカ大陸にはイギリス人やオランダ人の奴隷商がいた。しかし、奴隷を扱う貿易商はヨーロッパ人だけじゃなく、数は少なかったがユダヤ人にもいた。アイザックも所有する「ドルフィン号」でアフリカ黒人を輸送していたそうだ。アイザックにはアイザック・マークス(Isaac Marks)という孫がいたそうで、このアイザックにはサミュエル(Samuel)という息子が生まれていた。サミュエルにはデボラ(Deborah)という娘がいて、このデボラ・マークスはチャールストンでラビを務めるハートウィッグ・コーエン(Hartwig Cohen)と結婚した。

  デボラとハートウィッグの間には、サラ(Sarah Cohen)という娘が生まれ、彼女がバーナード・バルークの祖母となる。サラはセイリング・ウルフ(Saling Wolfe)と結婚し、子供を13人もうけるが、そのうちの三人は夭折したそうだ。バーナードの母となるイザベルは、ウルフ家の長女であった。父親のセイリングは裕福な奴隷貿易商人であったようで、孫のバーナードによると、田園地帯に住むイギリス紳士(English country squire)のように見えたそうだ。(上掲書、p.19) でも、実際はイギリス人の地方名士を真似ただけのユダヤ成金じゃないのか?

  イザベラ・ウルフは戦争から戻ってきたサイモン・バルークと結婚し、四人の息子を産んでいた。長男がハートウィッグで、次男が投資家になるバルークだ。三男がハーマンで、末っ子がセイリングという名前だった。

  「バンチ(Bunch)」というニックネームで呼ばれたバーナード少年は、南北戦争で疲弊したカムデンに住んでいたが、比較的裕福な家庭で育っていた。彼は快適な環境で暮らし、家には黒人の乳母であるミネルヴァ(Minerva)が仕えていたという。子供達は彼女になついていたらしい。ミネルヴァは結婚していない、つまり夫がいないのに、なぜか子供を5人産んでいた。彼女はバーナードの母親イザベラに、よく謝っていたそうで、「奥様、私はまた過ちを犯してしまいました」というのが口癖だった。

  黒人家庭は今も昔も複雑で、親が違う兄弟とかは珍しくない。両親・祖父母さえはっきりしない黒人も多く、風邪かと思ったら妊娠で学校を休む女子高生もいるから、日本人だと天を仰ぎたくなる。白人家庭で育った黒人の養子なんかはもっと複雑だ。精神的には「白人」となるが、鏡に映った顔を見れば「黒人」ということが厭でも判る。本当に気の毒だけど、養子の黒人は自分が何者なのかも判らないまま大きくなる。学校で「アメリカ史」を習っても、黒人にしたら「外国史」に過ぎず、“祖先”の過去を物語った歴史じゃない。カルフォルニアやニュー・ヨークでは、奴隷制の賠償金を要求する黒人がいるけど、祖先が誰なのか判らぬまま請求するなんて無茶だろう。しかも、「一人当たり120万ドルよこせ」なんて法外だ。(Cheyanne M. Daniels,‘Inside a California proposal to pay $1.2 million in reparations to Black Americans, ’The Hill, May 4, 2023.)

  脱線したので話を戻す。当時のサウス・カロライナ州や他の南部地域でも、中流の白人家庭には黒人の女中や乳母、小作人などが普通にいて、BLM運動が勃発するような雰囲気じゃなかった。黒人もちゃんと“身分”を弁えていたから、あえて白人の旦那衆と揉め事を起こそうとは思わなかった。バルーク家も当然の如く黒人の召使いを雇っていたから、リベラル・メディアを牙城とするユダヤ人は、なるべく過去に触れないよう注意している。ましてや、奴隷商人なんてNGだ。

  バーナード・バルークは自伝の中でミネルヴァから聞いた話を紹介している。当時の南部黒人で“幽霊”や“お化け”を信じている者は少なくなかった。ミネルヴァによると、黒人は「hants(森に住む怪物で、人間を拷問したり襲ったりする)」を信じており、原始的な迷信に怯えていたという。黒人は自宅にある窓ガラスを嫌っていたという。(上掲書、pp.30-31) なぜなら、窓越しに「hants」が部屋の中を覗いている、と信じていたからだ。現在の黒人は馬鹿にするけど、昔の黒人は「hags(普通の人間を装うお化け)」や「boo-daddies(魔術師の医者が受肉化した妖怪)」などを信じていた。


Curtis Dall 4432
( 左 / カーチス・ドール)
  ウォール街やワシントンには、得体の知れないフィクサーやユダヤ人の富豪が蠢(うごめ)いている。彼らは大恐慌の最中でも私腹を肥やすし、戦争となれば欣喜雀躍だ。元ボクサーのバーナード・バルークも、銭儲けに関しては敏感で、サメよりも速く、ハイエナよりも貪欲だった。彼はFDRの娘アンナと結婚したカーチス・ドール(Curtis B. Dall)に親切で、FDRの娘婿に銭儲けのヒントを与えたそうだ。

  このドール氏は第一次世界大戦の時、海軍航空隊に属する少尉として海外に派遣され、戦後は証券業界に入って、リーマン・ブラザーズやメリル・リンチの役員になったそうだ。(退役した時は大佐になっていた。)興味深いのはドール氏が出逢った人々で、彼は政財界の重要人物と接していたそうである。

  例えば、1927年頃、勤め先のリーマン・ブラザーズにクーン・ローブ社(Kuhn, Loeb & Co.)のフレデリック・ウォーバーグ(Feredric Marcus Warburg)が入ってきたという。後にクーン・ローブのパートナーになるフレデリックは、ドール氏の仕事を手伝ってくれたそうで、仕事の合間には社会問題や戦争の話をしたそうだ。こういう間柄になったので、ウォーバーグ家の御曹司は、同僚のドールに一族の逸話を教えてくれたという。1918年11月、フレデリックの伯父でドイツに住むマックス・ウォーバーグ(Max Warburg)は、皇帝直属のシークレット・サーヴィスで働く隊員だった。停戦後、マックスは50万ドルの金塊をドイツからロシアに運び、レオン・トロツキーに渡したそうだ。(Curtis B. Dall, FDR : My Exploited Father-In-Law, Tulsa : Christian Crusade Publications, 1967, p.29.)

  「ウォバーグ家の歴史」を一族の者から直接聞くことが出来たというのは本当に貴重なことだ。伝聞とはいえ、フレデリックの話は本当だろう。何しろ、彼の父親はフェリクス・M・ウォーバーグ(Felix M. Warburg)だし、母親はジェイコブ・シフ(Jacob Schiff)の娘であるフリーダ・シフ(Frieda Schiff)ときている。まさにユダヤ人富豪のサラブレッドといったところだ。

Frederick Warburg 1Frieda Schiff Warburg 1Felix M Warburg 1Max Warburg 2

(左 : フレデリック・ウォーバーグ / フリーダ・シフ / フェリクス・M・ウォーバーグ / 右 : マックス・ウォーバーグ)

  ドール氏は別のエピソードも紹介していた。彼がグッド・ボディー社に勤めていた頃、岳父の顧問を務めていたバーナード・バルークと面会する機会を持ったという。最初は緊張したが、段々と打ち解け合い、ドール氏は投資物件の話題を持ちかけてみた。例えば、「ナショナル・デイリー・カンパニーの株について、どう思うか?」と尋ねてみたそうだ。しかし、返ってきた答えは凡庸な意見で、これといった特ダネではなかった。バルークは素っ気なく、「素晴らしい会社だから、いい投資になるでしょう」と言うばかり。これでは何のアドヴァイスにもならない。

  ところが、落胆して沈黙するドール氏を哀れんだのか、バルークは突然「ドールさん、私は銀が好きなんです」と言い出した。最初、何を意味するのか解らなかったドール氏は、「そうなんですか?」と訊くしかなく、ただポカンとしていたそうである。バルークは彼に向かって、「事実、私は世界市場で流通する銀の16分の5を持っているんですよ(In fact, I own about 5/16ths of the world's visible supply of silver.)」と伝えていた。勘の鈍いドール氏はピンとこなかったようで、「それは大変な量ですね」としか応えなかった。バルークも「ええ、とてもたくさんの銀ですよ」と繰り返すだけだった。

  この会話は「客人が到来した」との執事の連絡で中断されてしまった。しかし、バルークの助言を真剣に考えなかったドール氏は、数ヶ月後にバルークの意味が分かるようになる。何と、米国議会は公開市場で扱われる銀の購入価格を二倍にしてもいい許可を財務省に与えたのだ。(FDR : My Exploited Father-In-Law, p.74.) この知らせを受け、支那では農民や商人が大騒ぎとなった。なぜなら、農産物や商品との交換で、米国から受け取る銀の量が半分になるからだ。物価の急激な高騰は、他の国々でも大災難をもたらした。もしも、あの時、ドール氏がバルークの“ヒント”に従って銀を購入していたら、彼はかなりの利益を手にしていたに違いない。

  「格差社会」というのは何処の国にもあって、裕福な者はその富を更に増やすことができる。なぜなら、彼は様々な人脈を使ったり、その高い地位を利用して、“上質なインサイダー情報”を得ることができるからだ。ローズヴェルト政権で隠然たる権力を誇るバルークも、内部情報を摑んで自分の富を増やしていた。

  よく「類は友を呼ぶ」というが、バルークも同類のユダヤ人と組んでいた。彼はユージン・マイヤー(Eugene Isaac Meyer)を誘って、1915年、アラスカにある「ジュノー金鉱会社(Alaska Juneau Gold Mining Company)」に投資を行っていたのである。ユージン・マイヤーは、フランス系ユダヤ人のビジネスマン、マルク・ユージン・マイヤー(Marc Eugene Meyer)の息子であった。マルクは雑貨店から金融業界の大手になった「ラザード・フレール(Lazard Frères)」の社長を務めていた。息子のユージン・ジュニアは、いかにもユダヤ人らしく、マスメディアに食指を伸ばし、経営難に陥っていた「ワシントン・ポスト」紙を買収した。彼の娘であるキャサリン・マイヤー(Katherine Meyer)は父の跡を継ぎ、ピューリッツァー賞をもらう名物オーナーになっていた。彼女はフィリップ・グラハム(Philip Graham)と結婚し、社長夫人の「キャサリン・グラハム」として新聞社に君臨する。

Eugene Meyer 111Katherine Meyer Graham 1Philip Graham 214


(左 : ユージン・マイヤー / 中央 : キャサリン・マイヤー ・グラハム / 右 : フィリップ・グラハム )

  商売上手なバルークは、以前から金の重要性に目を附けており、1933年2月まで、コツコツと金塊を買い漁っていた。彼はニュー・ヨークにある銀行の地下室(金庫)に、66本の光り輝く延べ棒を貯め込んでいたそうだ。(Jordan A. Schwarz, The Speculator : Bernard Baruch in Washington, Chapel Hill : The University of North Carolina Press, 1981, p.296.)ところが、間もなくバルークの“貯金”は停止する。なぜなら、フランクリン・ローズヴェルト大統領が1933年4月に大統領命令を発し、アメリカ国民が所有する金(ゴールド)を巻き上げることにしたからだ。

John Garner 11(左 / ジョン・N・ガーナー)
  テキサス州の下院議員からローズヴェルト政権の副大統領にまで登り詰めたジョン・N・ガーナー(John Nance Garner)は、元々テキサスの銀行家であった。しかし、バールークとは“反り”が合わず、それほど親しい関係にはならなかった。彼はインサイダー情報で儲けているバルークをからかうつもりでFDRに質問を投げかけたという。「大統領、我々の友人の中には、大量の金を保有する者がいるんですよ」と。すると、FDRは「誰なんだい?」と尋ねた。ガーナーは嬉しそうに答え、「バルークですよ! 私は彼が金塊を山のように貯め込んでいるのを知っているんです」と述べたそうだ。(上掲書、p.297.)

  後に、FDRはコーネル大学のジョージ・ウォーレン(George Warren)教授の勧めもあってか、バルークが喜びそうな方針を発表した。何と、合衆国政府が新たに採掘された金を市場価格を上回る値段で、しかも固定価格で買い取ることを明らかにしたのだ。これなら、バルークはボロ儲けとなる。事実、バルークは自伝の中で儲けたことを認めているのだ。(Baruch : My Own Story, p.230.)

Joseph Robinson 1(左 / ジョセフ・ロビンソン )
  ところが、大儲けしたユダヤ人には心配事があった。所得が増えれば税金も増える。そこで、バルークはアーカンソー州選出の上院議員、ジョセフ・ロビンソン(Joseph Taylor Robinson)を利用することにした。バルークはロビンソンに働きかけ、減税の政治キャンペーンを張ることにしたのである。日本人でも呆れてしまうが、1935年1月以降、鉱山への投資から得られた利益に対するキャピタル・ゲインズ課税を削減すべし、というのが、その内容だった。(The Speculator, p.298.)大統領の執務室に出入りする政治顧問が、自分の利益を増やすべく、特定の減税方針を画策するなんて言語道断だ。でも、アメリカの富裕層では常識なのかも知れない。

  株への投資や先物取引などは、素人が手を出す領域じゃない。株は博打だ。しがない庶民は、一攫千金の夢を抱いて株に手を出すが、所詮、情報を持たない“アマチュア”なので、相場を熟知するプロには勝てない。むしろ証券会社の“カモ”にされるだけ。株の世界では大口のお客だけが守られる。虎の子を預ける庶民は、「カス」とか「クズ」と呼ばれていた。

Martha Stewart 1(左 / マーサー・スチュアート )
  インサイダー取引で有罪となったマーサー・スチュアート(Martha Helen Stewart)は、庶民に対する貴重な教材だ。彼女は2001年12月まで、「ImClone Systems」の株を保有していたが、それが暴落するとの情報をメリル・リンチのブローカーであるピーター・バカノヴィッチ(Peter Bacanovic)から教えられ、即座に持ち株を売却してしまった。マーサは4万5千673ドルの損失を免れたが、この不正がバレて禁錮刑と罰金刑の判決を受けることに。2004年、犯罪者となったマーサは、ウェスト・ヴァージニアの刑務所で服役した。彼女料理や園芸、内装装飾などをテーマに、御洒落なライフスタイルを提案していたが、有罪判決を受けたことで、自身の冠番組をなくし、その名声も地に落ちた。しかし、刑期を終えると、以前の仕事を再開し、マーサは失った富を取り戻した。有名人は失敗を肥料にして富を増やす。一般国民だと単なる前科者で、再就職なんて無理なのに・・・。

  かつて、アメリカ人は敗戦国の日本人に「アメリカン・デモクラシー(民衆支配の統治形態)を自慢していたが、現在でも同じプライドを持っているのだろうか? 愛想がいいだけの木偶の坊が人民投票で選ばれ、資金を提供する旦那衆が「操り人形」を動かすのが、アメリカン・デモクラシーの実態だ。そう言えば、プラトンやアリストテレスは、デモクラシーを最悪の統治形態と呼んでいたよねぇ〜。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68934207.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1037.html#c18

[近代史4] 火曜日夕方に必ず CIA のブレナンに暗殺指令を出したオバマ大統領 中川隆
20. 中川隆[-12424] koaQ7Jey 2023年7月28日 03:50:31 : HigTgQHQvQ : Snp1TDVUTmhPSVU=[2]
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2023年07月27日
怪しい側近に操られる大統領 / アメリカン・デモクラシーの実態
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68934207.html

軽い神輿になる大統領

Bernard Baruch & FDR 213Bernard Baruch & Winston Churchill 8823

( 左 : フランクリン・ローズヴェルト大統領とバーナード・バルーク / 右 : ウィンストン・チャーチル首相とバルーク )

  形式上、デモクラシーでは有権者が議員を選んでいるが、必ずしもその政治家が民衆の意思を反映しているとは限らない。特に、合衆国大統領の補佐官とかアドヴァイザー、政権の支柱となる閣僚には、大統領を操ったり、別の人物から指令を受けて動く奴もいる。疑惑の選挙でホワイトハウスの主人となったジョー・バイデンはその典型で、誰が見ても“操り人形”にしか思えない。政治に詳しくない庶民でも、「いったい、ジョーは誰の命令で動いているんだ?」と言いたくなる。

  バイデンが来日し、岩国の空軍基地を訪問した時、彼は信じられない「嘘(妄想)」を口にした。バイデンはアメリカ兵の前で、「私の息子ボーは、イラクで命を失いました」と。確かに、彼の長男であるボー・バイデン(Joseph Robinette Biden)は2008年にイラクへ派遣されたが、2009年には無事にアメリカに戻っている。帰還後、ボー・バイデンはデラウエア州の司法長官になったが、2015年5月30日、脳腫瘍のためメリーランド州のベゼスダ病院で亡くなった。

Biden 21344Joe & Beau Biden 2


( 左 : 痴呆症が進んだジョー・バイデン/ 右 : 息子のボー・バイデンと一緒のジョー・バイデン )

  ところが、ボケ老人と化したジョー・バイデンは、陸軍少佐のボーはイラクで戦死したと思っている。米国大統領を迎えた日本人ばかりでなく、アメリカ国民もバイデンの痴呆症にショックを受けていた。在日米軍の将兵なら、「こんな奴が最高司令官で、ウクライナ紛争について指令を出しているのか?」と疑ってしまうだろう。それにしても、息子の死を勘違いする父親なんて、普通の日本人じゃ考えられない。

Obama 12313(左 / 青年時代のバラク・オバマ)
  日本語を知らないアメリカ人でも、「担ぐなら、軽くて、ちょっとパーがいい」という戯れ言に同意するだろう。愚劣な“神輿(みこし)”は、ホワイトハウスにも収納されている。昔、腐敗の街「シカゴ」で黒人を動員していバラク・フセイン・オバマは、まさしく赤く染まった黒いマリオネット(marionnette)。この「コミュニティー・オーガナイザー(住民をオルグする者)」は、金融、軍事、外政、科学についての知識は空っぽだ。しかし、大衆を前にした演説だけは上手かった。黒い聴衆は、オバマが語る「夢」とか「希望」に大感激。とはいっても、オバマの言葉は空手形。主流メディアはオバマの雄弁さを褒め称えたが、名演説と言っても、白人に対する恨みが十八番(おはこ)なだけ。

  唖然とするのは、何の業績も無いオバマが、いきなり世界的に有名な『ハーヴァード・ロー・リヴュー(Harvard Law Review)』誌の編集長に選ばれたことだ。オバマは80名の編集員から選ばれたというが、こんなのは「有色人種優遇政策(affirmative action)」の一環だろう。(Fox Butterfield,‘First Black Elected to Head Harvard's Law Review,’The New York Times, February 6, 1990.)ハーヴァード大学の名物法学者であったロスコー・パウンド(Roscoe Pound)が生きていたら、きっと猛反対したはずだ。たぶん、墓の中で眠るジェイムズ・マディソン(James Madison)やジョセフ・ストーリー(Joseph Story)、ジェイムズ・ケント(James Kent)、ジェイムズ・ランディス(James McCauley Landis)も目が覚めてしまうだろう。(ちなみに、東京生まれのランディスは、ハーヴァード・ロー・スクールの総長や証券取引委員会の会長を経て、ジョン・F・ケネディー大統領の法律顧問になった。)

Joseph Story 1James Kent 1Roscoe Pound 1James Landis 11


(左 : ジョセフ・ストーリー / ジェイムズ・ケント / ロスコー・パウンド / 右: ジェイムズ・ランディス )

  日本の地上波テレビは一切報道しなかったが、オバマは悪名高いテロリストのビル・エアーズ(William Ayers)の教え子だ。オバマが執筆したという自伝『Dreams From My Father』は、実質的にエアーズによる代筆だった。2009年10月のインタヴューで、エアーズ自身が暴露したので、オバマは赤っ恥をかいている。(‘Terrorist Ayers Confesses Sharing Obama's 'Dreams', Investor's Business Daily, November 26, 2013.)でも、意外と黒人からの非難は無い。おそらく、「黒人枠」でハーヴァード大学やシカゴ大学のロー・スクールに潜り込んだ、と勘ぐっているんじゃないか? だいたい、黒人の劣等生は、いくら頑張っても“感動的”な文章なんて書けない。ただし、マイク・タイソン(有名なプロ・ボクサー)やクリス・ロック(漫談師・俳優)と比べたら、ヤバマはちょっとだけ“知的”なのかも。

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(左 : ロバート・ルービン / 中央 : ビル・エアーズ / 右 : 「優秀な学生」と評されたバラク・オバマ )

  オバマが歩んだ出世街道には色々な導師がいて、有名な世話係といえばユダヤ人のロバート・ルービン(Robert Rubin)だ。そして、大統領選挙の出馬前にはズビグニュー・ブレジェンスキー(Zbigniew K. Brzezinski)に紹介され、この大御所が後見人のようになっていた。彼はオバマがズル編入したコロンビア大学で教鞭を執っていたが、カーター政権が誕生すると国家安全保障担当の補佐官になった。ちなみに、ブレジンスキーは1972年に『ひよわな花 日本』という本を出版しており、50年近く前の古本にもかかわらず、市場では高値になっている。

Cyrus Vance 724Jimmy Carter 43Zbigniew Brzezinski 001


( 左 : サイラス・ヴァンス / 中央 : ジミー・カーター / 右 : ズビグニュー・ブレジェンスキー )

  今では懐かしいが、「人権外交」という愚かな方針で馬鹿にされたジミー・カーターは、大統領選前、ワシントンのヘドロに染まっていない“クリーン”なイメージを“売り”にしていた。ところが、大統領に当選するや否や、タウンミーティングで述べた言葉を翻し、自身の政権をエスタブリッシュメントで塗り固め、民衆の期待を裏切る人事を行っていた。

  例えば、国務長官にはアヴェレル・ハリマンの部下であったサイラス・ヴァンス(Cyrus Roberts Vance, Sr.)が就任し、財務長官にはヴェルナー・マイケル・ブルーメンタール(Werner Michael Blumenthal)が選ばれた。彼はドイツから逃れてきたユダヤ人。国防長官にはユダヤ人で核物理学者のハロルド・ブラウン(Harold Brown)が任命され、エネルギー省の長官には、これまたユダヤ人が選ばれ、ニクソン政権で国防長官、フォード政権でCIA長官を務めたジェイムズ・シュレッシンジャー(James Rodney Schlesinger)が就任する。複雑怪奇な外政となればカーターの不得意分野で、三極委員会(Trilateral Commission)にお任せの状態だった。ブレジンスキーと同じく、ブルーメンタールやブラウン、ヴァンスは、デイヴィッド・ロックフェラーが牛耳るCFR(外交問題評議会)のメンバーだった。

Werner Michael Blumenthal 1Harold Brown 1James Schlesinger 1Henry Morgenthau Jr 2133


( 左 : ヴェルナー・マイケル・ブルーメンタール / ハロルド・ブラウン / ジェイムズ・シュレッシンジャー / 右 : ヘンリー・モーゲンソー・ジュニア)

Harry Dexter White 213( 左 / ハリー・デクスター・ホワイト )
  フランクリン・デラノ・ローズヴェルト(FDR)の場合も同じで、彼の周りには“いかがわしい”奴らがズラリと顔を並べていた。例えば、財務長官には恩返しということでヘンリー・モーゲンソーの倅(せがれ)であるヘンリー・モーゲンソー・ジュニア(Henry Morgenthau, Jr.)が就任し、その部下にはハリー・デクスター・ホワイト(Harry Dexter White)がいた。彼は「ジュリスト(Jurist)」なるコード・ネームを持ち、NKVD(ソ連の秘密警察)のエージェントであった。このユダヤ人は「ハル・ノート」の素案を書いた財務官僚で、日米の両国で悪名高い。

  ところが、京都産業大学の教授を務めていた須藤眞志(すどう・しんじ)は、肝心な点を見逃していた。彼は著書の中でホワイトについて解説したが、「ジュリスト」がユダヤ人であることに言及していないのだ。(須藤眞志『ハル・ノートを書いた男 日米開戦外交と「雪」作戦』文春新書、平成11年、pp.126-127.を参照。) 日本の大学教授や歴史家というのは、民族差別や人種偏見に対する非難を恐れているのか、ユダヤ人に対する批判が甘く、歐米の左翼学者が述べたことを日本語で繰り返すだけの九官鳥が多い。

  州知事や学長から成り上がったウッドロー・ウィルソン大統領には、「大佐」と呼ばれていたエドワード・マンデル・ハウス(Edward Mandell House)が影のように纏わり付いていた。ハウス大佐と似たような“調教師”がローズヴェルト大統領にも附いていて、それがルイス・マクヘンリー・ハウ(Louis McHenry Howe )というジャーナリストで、“小妖精(elfin)”と呼ばれた政治顧問だ。ルイス自身は大統領に仕える「無名の士(no-man)」と述べていたが、FDRに及ぼす影響は甚大だった。Julie M. Fenster, FDR's Shadow : Louis Howe, The Force That Shaped Franklin and Eleanor Roosevelt, New York : St. Martin's Press, 2009, p.222.) しかも、彼はエレノア夫人のアドヴァイザーにもなっていたから凄い。

Edward Mandell House 2133Louis McHenry Howe 213FDR & Eleanor 2143


(左 : エドワード・マンデル・ハウス / 中央 : ルイス・マクヘンリー・ハウ / 右 : エレノア夫人とフランクリン・ローズヴェルト大統領)

  もっとビックリするのは、選挙後、ハウが大統領の家族と一緒にNYのオルバニーからホワイトハウスに移り、二階のリンカン・ベッドルーム(Lincoln Room)に陣取っていたことだ。(Jean Edward Smith, FDR, New York : Random House, 2007, p.334.)白亜館の主人たるFDRは、朝8時頃起きると、ベッドで朝食を取り、食べながら「New York Times」や「Herald Tribune」「The Washington Post」「Chicago Tribune」といった新聞に目を通していた。そして、ルイス・ハウが用意したファイルを受け取っていたそうだ。ハウはこれを「日報ラッパ(Daily Bugle)」と呼んでいた。奇妙な関係に思えてしまうが、FDRが髭を剃ったり、着替えをしたり、タバコをふかしている時も、ハウはずっと大統領の側にいたらしい。シャーロック・ホームズとドクター・ワトソンじゃあるまいし・・・。

  FDRの影法師みたいな立場のルイス・ハウだが、その異様な人相と違い、家柄は結構よかった。

  父親のエドワード・ポーター・ハウ(Edward Porter Howe)は元陸軍の大尉で、除隊後は不動産やベンチャー・ビジネスに乗り出す冒険家であった。しかし、商人の才能は無かったようで、大尉の家族は貧乏生活に転落する。だが、「腐っても鯛」というか、失敗にめげない軍人魂は健在で、彼は友人からお金を借りて、NY州のサラトガで発刊される弱小の地元紙『Sun』を買収した。ジャーナリストで満足できないエドワードは、次第に政治への野心を抱くようになり、民衆党員としてインディアナ州の上院議員を目指すが、あえなく落選。

  それでも、政界への熱意を断念できず、スティーブン・グローバー・クリーヴランド(Stephen Grover Cleveland)を支援する。この応援が功を奏したのか、エドワードはサラトガの郵政局長という役職を得ることが出来た。しかし、人生には山あり谷ありだ。武士の商法といえばそれまでだが、「Sun」の経営は上手く行かず、最終的に売却する破目に。息子のルイスも相当な苦労をしたそうだ。

 「アメリカ貴族」とも言えるFDRと同じく、ルイス・ハウも“そこそこ”名のある家族の出身だった。父親のエドワードは血筋が良く、彼の祖先は独立戦争以前から新大陸に渡ってきたそうだ。最初はコネティカットに住んでいたが、独立戦争後にヴァーモントに移ったそうである。

  ルイス・ハウの母親、エリザ・ブレイク・レイ(Eliza Blake Ray)も名門の出身で、父親のジェイムズ・ミッチェル・レイ(James Mitchelle Ray)は、インディアナポリスにある歳入庁で副長官職を拝命していた。エリザの母、マリア・レベッカ・コー(Maria Rebecca Coe)の祖先も毛並みが良く、祖先の一人であるレベッカ・クック(Rebecca Cook)は、「メイフラワー号」で新大陸にやって来たフランシス・クック(Francis Cook)の子孫であるという。

  両親の家系から観れば、ルイス・ハウは西歐系のサラブレットに見える。しかし、その容姿はお世辞にも魅力的とは言えず、幼い頃には喘息を患う虚弱体質の児童であった。彼の顔写真を目にすると、「皮膚病の痕があるのか?」と思えてしまうが、これは彼が少年の時に“やらかした”自転車事故の“結果”だ。無謀にも、ルイスはブレーキの無い自転車に跨がり、スピードを出していい気になっていた。ところが、ひょんな事で彼は転んでしまい、顔を地面に叩きつけることに。これが原因で、ルイス少年には一生涯「顔」に残る傷が出来てしまった。第二次大戦中、ドイツ軍でコマンド部隊を率いていたオットー・スコルツェニー(Otto J. A. Skorzeny)中佐みたいに、大学時代の決闘で左頬に傷が出来たのなら自慢になるけど、自転車から転げ落ちて傷が出来たんじゃ女の子に自慢できないし、何よりも格好悪い。

Louis McHenry Howe 882(左 / 大きいカラーが特徴のルイス・ハウ)
  後に、政界で“有名人”となったルイスは、その人相と人目を引く大きなカラーで著名になった。確かに、当時のアメリカ人男性は硬いカラーの服を着ていたが、ルイスの襟カラーは特大であった。それゆえ、周囲の者は嘲笑うかのように、彼を「ルイス・ザ・ジャイアント・カラー(Louis, The Giant Collar)」と呼んでいたそうである。

  ある人々からは「中世の妖怪(mediaeval gnome)みたいだ」と評されたルイス・ハウは、その容姿も風変わりであったが、個人的な趣味も尋常ではなかった。1970年代のヒッピーじゃあるまいし、彼は自分の部屋で香を焚く事があったらしい。知人によると、彼の部屋に充満する煙とタバコの臭いは相当キツかったそうだ。一般人から見れば、ルイスは奇妙な側近に思えてしまうが、よく判らない事情でローズヴェルトの指南役(guru)となっていた。NYの五番街にある邸宅で大統領と一緒に暮らすこともあったらしい。もちろん、女房のエレノア・ローズヴェルト夫人は承知の上だ。しかし、母親のサラ・デラノ・ローズヴェルトは、息子に変な影響が及ぶのでは、と心配していたという。

Sara Delano Roosevelt 213Harry Hopkins 111Jesse Strauss 1Oscar Solomon Straus 1

(左 : サラ・デラノ・ローズヴェルト / ハリー・ホプキンス / ジェシー・I・シュトラウス / 右 : オスカー・ソロモン・シュトラウス )

  このルイス・ハウが1936年4月に亡くなると、その後釜に納まったのは、あのハリー・ホプキンス(Harold Lloyd Hopkins)だ。ホプキンスはヤルタ会談で常に大統領に付き添い、そっと耳打ちする補佐官として有名だった。それ以上に注目すべきは、ホプキンスがエレノア夫人とも親しい関係で、二人とも赤い進歩派だった点である。ホプキンスはユダヤ人ではなかったが、彼をFDRに紹介したのは、有名な百貨店「メイシーズ(Maycy's)」の社長を務めたジェシー・I・シュトラウス(Jesse Isidor Straus)であった。このユダヤ商人は、ローズヴェルト大統領と親しく、後に駐仏アメリカ大使になっている。ちなみに、彼の叔父は、ユダヤ人で初の商務長官になったオスカー・ソロモン・シュトラウス(Oscar Solomon Straus)である。1921年、オスカー・シュトラウスは進歩党から出馬してNY州知事を狙うが、やはりユダヤ人じゃ人気が出ないのか、有権者の支持を得られず失敗に終わっている。でも、米国ユダヤ歴史協会(American Jewish Historical Society)の総裁にはなれた。

FDRの背後で動くユダヤ人

Bernard Baruch 7732( 左 / バーナード・バルーク)
  ホプキンスとは違う立場で、FDRに影響を与えたのは、ウォール街の大物と評されたバーナード・バルーク(Bernard Mannes Baruch)だった。このユダヤ人の投資家は、第一次世界大戦の前から裕福で、100万ドル以上の財産があると囁かれていた。戦後はその資産が2億ドルに膨れ上がったんじゃないか、とも言われていたから凄い。彼はウィルソン大統領のアドヴァイザーになると、1918年に「戦時産業局(War Industries Board)」の局長に就任し、軍需物資のビジネスで一儲けしていた。

  1930年代になると、いつの間にか大統領の顧問に登り詰めており、ウィンストン・チャーチルが訪米すれば、真っ先に密談をする重鎮になっていた。やはり、チャーチルはユダヤ人と反りが合う。バーナード・バルークの出自を調べてみると、典型的なユダヤ移民の子孫であることが判る。自伝を出版したバルークは、自らをサウス・カロライナ生まれの“アメリカ人”と称していたが、本質的にはコスモポリタンのエイリアンだろう。

  アメリカ版のシャイロックたるバルークは、父と母の家系からもユダヤ人であることは明白だ。父親のサイモン・バルーク(Simon Baruch)は、1840年7月29日、ポーランドのシュバジェンツ(Swarzendz / Schwersenz / 当時はドイツ領)で生まれたが、彼が自身の祖先について話すことは滅多に無かったそうだ。(Bernard Mannes Baruch, Baruch : My Own Story, New York : Henry Holt and Company, 1957, p.3.) サイモンの父、つまりバーナードの祖父に当たるベルンハルト・バルーク(Bernhard Baruch)は、ラビを排出した家系で、スペインに住んでいたセファラディー系のユダヤ人であったという。孫のバーナードによると、バルーク家はポーランドとロシアの系統が融合した血筋らしい。(「バルーク」というファースト・ネームは、この祖父から由来するそだ。)

  シュバジェンツで生まれ育ったサイモン・バルークは、プロイセン軍に引っ張られるのが厭で、ドイツ領のポーランドを離れ、1855年にアメリカへ渡ってきた。彼は15歳の時、ポーゼンのギムナジウム(日本で言う高等中学校)に通っていたが、徴兵に怯えたので、遠く離れた米国に逃れた、という訳だ。当時から、アメリカはユダヤ人の「避難所」になっており、ユダヤ人は拒絶されることもあったので、「ポーランド人枠」や「オーストリア人枠」を利用して、偽装入国することもあった。ユダヤ人というのは世界各国に同胞が散らばっており、一匹狼が見知らぬ土地に流れ着いても、何らかの「手助け」を売ることができる。

  サイモンも新天地の米国で頼りになる同胞がいて、それがサウス・カロライナ州のカムデン(Camden)に住み、そこで小さな雑貨店を営むマンネス・バウム(Mannes Baum)であった。(バルークのミドル・ネームである「マンネス」は、このユダヤ商人のファースト・ネームから貰った名前である。)

  徴兵逃れのサイモンは、バウムの女房からその才能を認められ、チャールストンにある医学カレッジ(South Carolina Medical College)に進むよう勧められたという。サイモンは後にヴァージニア州リッチモンドにある医学校(Medical College of Virginia)にも通い、そこでも医学を勉強したそうだ。ところが、移住先のアメリカで南北戦争が始まると、医学を修めたサイモンは、歩兵とならず得意分野を活かしてアシスタントの軍医になった。(上掲書、p.5.)ヘンリー・キッシンジャーのように“軍歴”を持つユダヤ人は珍しくないが、勇猛果敢な戦士というより、外国語を駆使する情報収集係とか、武器や弾薬を配達する兵站係というのが多い。日本に来たチャールズ・ケーディス(Charles Louis Kades)も、激戦を経た陸軍の大佐じゃなく、軍服を着た「弁護士」上がりの役人だった。 

  プロイセンの軍隊を嫌ったサイモンは、ロバート・リー将軍が率いる南軍に属したが、戦争の事については息子にあまり喋らなかったそうである。確かに、剣じゃなくメスを握ったアシスタントじゃ華々しい功績は無いし、北軍に捕まった時の惨めな“体験”では話にならない。ただし、サイモンは1864年7月に「軍医(Surgeon)」に昇格し、ノース・カロライナ州のトマスヴィルに派遣されたという。でも、激務のせいか、チフスに罹ってしまった。高熱にうなされたサイモは、敵軍に捕まってしまい、一巻の終わりかと思いきや、あっけなく釈放された。ただし、本人が知らないうちに解放されたというから驚く。何とも情けない話だが、ユダヤ人の「軍人」には、これといった“武勇伝”が無い。

  バーナード・バルークを産んだイザベラ・ウルフ(Isabelle Wolfe Baruch)もユダヤ人で、彼女の先祖はアイザック・ロドリゲス・マルケス(Isaac Rodriguez Marques)というセファラディー系の移民であった。アイザックは1690年代に新大陸のニュー・ヨークに住み着き、ヨーロッパとアングロ・アメリカ、そしてラテン・アメリカを行き来する貿易で生計を立てる船主だった。(上掲書、p.13.)このアイザックが何処で生まれたのか判らないが、ジャマイカ生まれという推測もある。確かなのはスペインやポルトガルにいたユダヤ人という点だけである。

  独立戦争が起こる前、アメリカ大陸にはイギリス人やオランダ人の奴隷商がいた。しかし、奴隷を扱う貿易商はヨーロッパ人だけじゃなく、数は少なかったがユダヤ人にもいた。アイザックも所有する「ドルフィン号」でアフリカ黒人を輸送していたそうだ。アイザックにはアイザック・マークス(Isaac Marks)という孫がいたそうで、このアイザックにはサミュエル(Samuel)という息子が生まれていた。サミュエルにはデボラ(Deborah)という娘がいて、このデボラ・マークスはチャールストンでラビを務めるハートウィッグ・コーエン(Hartwig Cohen)と結婚した。

  デボラとハートウィッグの間には、サラ(Sarah Cohen)という娘が生まれ、彼女がバーナード・バルークの祖母となる。サラはセイリング・ウルフ(Saling Wolfe)と結婚し、子供を13人もうけるが、そのうちの三人は夭折したそうだ。バーナードの母となるイザベルは、ウルフ家の長女であった。父親のセイリングは裕福な奴隷貿易商人であったようで、孫のバーナードによると、田園地帯に住むイギリス紳士(English country squire)のように見えたそうだ。(上掲書、p.19) でも、実際はイギリス人の地方名士を真似ただけのユダヤ成金じゃないのか?

  イザベラ・ウルフは戦争から戻ってきたサイモン・バルークと結婚し、四人の息子を産んでいた。長男がハートウィッグで、次男が投資家になるバルークだ。三男がハーマンで、末っ子がセイリングという名前だった。

  「バンチ(Bunch)」というニックネームで呼ばれたバーナード少年は、南北戦争で疲弊したカムデンに住んでいたが、比較的裕福な家庭で育っていた。彼は快適な環境で暮らし、家には黒人の乳母であるミネルヴァ(Minerva)が仕えていたという。子供達は彼女になついていたらしい。ミネルヴァは結婚していない、つまり夫がいないのに、なぜか子供を5人産んでいた。彼女はバーナードの母親イザベラに、よく謝っていたそうで、「奥様、私はまた過ちを犯してしまいました」というのが口癖だった。

  黒人家庭は今も昔も複雑で、親が違う兄弟とかは珍しくない。両親・祖父母さえはっきりしない黒人も多く、風邪かと思ったら妊娠で学校を休む女子高生もいるから、日本人だと天を仰ぎたくなる。白人家庭で育った黒人の養子なんかはもっと複雑だ。精神的には「白人」となるが、鏡に映った顔を見れば「黒人」ということが厭でも判る。本当に気の毒だけど、養子の黒人は自分が何者なのかも判らないまま大きくなる。学校で「アメリカ史」を習っても、黒人にしたら「外国史」に過ぎず、“祖先”の過去を物語った歴史じゃない。カルフォルニアやニュー・ヨークでは、奴隷制の賠償金を要求する黒人がいるけど、祖先が誰なのか判らぬまま請求するなんて無茶だろう。しかも、「一人当たり120万ドルよこせ」なんて法外だ。(Cheyanne M. Daniels,‘Inside a California proposal to pay $1.2 million in reparations to Black Americans, ’The Hill, May 4, 2023.)

  脱線したので話を戻す。当時のサウス・カロライナ州や他の南部地域でも、中流の白人家庭には黒人の女中や乳母、小作人などが普通にいて、BLM運動が勃発するような雰囲気じゃなかった。黒人もちゃんと“身分”を弁えていたから、あえて白人の旦那衆と揉め事を起こそうとは思わなかった。バルーク家も当然の如く黒人の召使いを雇っていたから、リベラル・メディアを牙城とするユダヤ人は、なるべく過去に触れないよう注意している。ましてや、奴隷商人なんてNGだ。

  バーナード・バルークは自伝の中でミネルヴァから聞いた話を紹介している。当時の南部黒人で“幽霊”や“お化け”を信じている者は少なくなかった。ミネルヴァによると、黒人は「hants(森に住む怪物で、人間を拷問したり襲ったりする)」を信じており、原始的な迷信に怯えていたという。黒人は自宅にある窓ガラスを嫌っていたという。(上掲書、pp.30-31) なぜなら、窓越しに「hants」が部屋の中を覗いている、と信じていたからだ。現在の黒人は馬鹿にするけど、昔の黒人は「hags(普通の人間を装うお化け)」や「boo-daddies(魔術師の医者が受肉化した妖怪)」などを信じていた。


Curtis Dall 4432
( 左 / カーチス・ドール)
  ウォール街やワシントンには、得体の知れないフィクサーやユダヤ人の富豪が蠢(うごめ)いている。彼らは大恐慌の最中でも私腹を肥やすし、戦争となれば欣喜雀躍だ。元ボクサーのバーナード・バルークも、銭儲けに関しては敏感で、サメよりも速く、ハイエナよりも貪欲だった。彼はFDRの娘アンナと結婚したカーチス・ドール(Curtis B. Dall)に親切で、FDRの娘婿に銭儲けのヒントを与えたそうだ。

  このドール氏は第一次世界大戦の時、海軍航空隊に属する少尉として海外に派遣され、戦後は証券業界に入って、リーマン・ブラザーズやメリル・リンチの役員になったそうだ。(退役した時は大佐になっていた。)興味深いのはドール氏が出逢った人々で、彼は政財界の重要人物と接していたそうである。

  例えば、1927年頃、勤め先のリーマン・ブラザーズにクーン・ローブ社(Kuhn, Loeb & Co.)のフレデリック・ウォーバーグ(Feredric Marcus Warburg)が入ってきたという。後にクーン・ローブのパートナーになるフレデリックは、ドール氏の仕事を手伝ってくれたそうで、仕事の合間には社会問題や戦争の話をしたそうだ。こういう間柄になったので、ウォーバーグ家の御曹司は、同僚のドールに一族の逸話を教えてくれたという。1918年11月、フレデリックの伯父でドイツに住むマックス・ウォーバーグ(Max Warburg)は、皇帝直属のシークレット・サーヴィスで働く隊員だった。停戦後、マックスは50万ドルの金塊をドイツからロシアに運び、レオン・トロツキーに渡したそうだ。(Curtis B. Dall, FDR : My Exploited Father-In-Law, Tulsa : Christian Crusade Publications, 1967, p.29.)

  「ウォバーグ家の歴史」を一族の者から直接聞くことが出来たというのは本当に貴重なことだ。伝聞とはいえ、フレデリックの話は本当だろう。何しろ、彼の父親はフェリクス・M・ウォーバーグ(Felix M. Warburg)だし、母親はジェイコブ・シフ(Jacob Schiff)の娘であるフリーダ・シフ(Frieda Schiff)ときている。まさにユダヤ人富豪のサラブレッドといったところだ。

Frederick Warburg 1Frieda Schiff Warburg 1Felix M Warburg 1Max Warburg 2

(左 : フレデリック・ウォーバーグ / フリーダ・シフ / フェリクス・M・ウォーバーグ / 右 : マックス・ウォーバーグ)

  ドール氏は別のエピソードも紹介していた。彼がグッド・ボディー社に勤めていた頃、岳父の顧問を務めていたバーナード・バルークと面会する機会を持ったという。最初は緊張したが、段々と打ち解け合い、ドール氏は投資物件の話題を持ちかけてみた。例えば、「ナショナル・デイリー・カンパニーの株について、どう思うか?」と尋ねてみたそうだ。しかし、返ってきた答えは凡庸な意見で、これといった特ダネではなかった。バルークは素っ気なく、「素晴らしい会社だから、いい投資になるでしょう」と言うばかり。これでは何のアドヴァイスにもならない。

  ところが、落胆して沈黙するドール氏を哀れんだのか、バルークは突然「ドールさん、私は銀が好きなんです」と言い出した。最初、何を意味するのか解らなかったドール氏は、「そうなんですか?」と訊くしかなく、ただポカンとしていたそうである。バルークは彼に向かって、「事実、私は世界市場で流通する銀の16分の5を持っているんですよ(In fact, I own about 5/16ths of the world's visible supply of silver.)」と伝えていた。勘の鈍いドール氏はピンとこなかったようで、「それは大変な量ですね」としか応えなかった。バルークも「ええ、とてもたくさんの銀ですよ」と繰り返すだけだった。

  この会話は「客人が到来した」との執事の連絡で中断されてしまった。しかし、バルークの助言を真剣に考えなかったドール氏は、数ヶ月後にバルークの意味が分かるようになる。何と、米国議会は公開市場で扱われる銀の購入価格を二倍にしてもいい許可を財務省に与えたのだ。(FDR : My Exploited Father-In-Law, p.74.) この知らせを受け、支那では農民や商人が大騒ぎとなった。なぜなら、農産物や商品との交換で、米国から受け取る銀の量が半分になるからだ。物価の急激な高騰は、他の国々でも大災難をもたらした。もしも、あの時、ドール氏がバルークの“ヒント”に従って銀を購入していたら、彼はかなりの利益を手にしていたに違いない。

  「格差社会」というのは何処の国にもあって、裕福な者はその富を更に増やすことができる。なぜなら、彼は様々な人脈を使ったり、その高い地位を利用して、“上質なインサイダー情報”を得ることができるからだ。ローズヴェルト政権で隠然たる権力を誇るバルークも、内部情報を摑んで自分の富を増やしていた。

  よく「類は友を呼ぶ」というが、バルークも同類のユダヤ人と組んでいた。彼はユージン・マイヤー(Eugene Isaac Meyer)を誘って、1915年、アラスカにある「ジュノー金鉱会社(Alaska Juneau Gold Mining Company)」に投資を行っていたのである。ユージン・マイヤーは、フランス系ユダヤ人のビジネスマン、マルク・ユージン・マイヤー(Marc Eugene Meyer)の息子であった。マルクは雑貨店から金融業界の大手になった「ラザード・フレール(Lazard Frères)」の社長を務めていた。息子のユージン・ジュニアは、いかにもユダヤ人らしく、マスメディアに食指を伸ばし、経営難に陥っていた「ワシントン・ポスト」紙を買収した。彼の娘であるキャサリン・マイヤー(Katherine Meyer)は父の跡を継ぎ、ピューリッツァー賞をもらう名物オーナーになっていた。彼女はフィリップ・グラハム(Philip Graham)と結婚し、社長夫人の「キャサリン・グラハム」として新聞社に君臨する。

Eugene Meyer 111Katherine Meyer Graham 1Philip Graham 214


(左 : ユージン・マイヤー / 中央 : キャサリン・マイヤー ・グラハム / 右 : フィリップ・グラハム )

  商売上手なバルークは、以前から金の重要性に目を附けており、1933年2月まで、コツコツと金塊を買い漁っていた。彼はニュー・ヨークにある銀行の地下室(金庫)に、66本の光り輝く延べ棒を貯め込んでいたそうだ。(Jordan A. Schwarz, The Speculator : Bernard Baruch in Washington, Chapel Hill : The University of North Carolina Press, 1981, p.296.)ところが、間もなくバルークの“貯金”は停止する。なぜなら、フランクリン・ローズヴェルト大統領が1933年4月に大統領命令を発し、アメリカ国民が所有する金(ゴールド)を巻き上げることにしたからだ。

John Garner 11(左 / ジョン・N・ガーナー)
  テキサス州の下院議員からローズヴェルト政権の副大統領にまで登り詰めたジョン・N・ガーナー(John Nance Garner)は、元々テキサスの銀行家であった。しかし、バールークとは“反り”が合わず、それほど親しい関係にはならなかった。彼はインサイダー情報で儲けているバルークをからかうつもりでFDRに質問を投げかけたという。「大統領、我々の友人の中には、大量の金を保有する者がいるんですよ」と。すると、FDRは「誰なんだい?」と尋ねた。ガーナーは嬉しそうに答え、「バルークですよ! 私は彼が金塊を山のように貯め込んでいるのを知っているんです」と述べたそうだ。(上掲書、p.297.)

  後に、FDRはコーネル大学のジョージ・ウォーレン(George Warren)教授の勧めもあってか、バルークが喜びそうな方針を発表した。何と、合衆国政府が新たに採掘された金を市場価格を上回る値段で、しかも固定価格で買い取ることを明らかにしたのだ。これなら、バルークはボロ儲けとなる。事実、バルークは自伝の中で儲けたことを認めているのだ。(Baruch : My Own Story, p.230.)

Joseph Robinson 1(左 / ジョセフ・ロビンソン )
  ところが、大儲けしたユダヤ人には心配事があった。所得が増えれば税金も増える。そこで、バルークはアーカンソー州選出の上院議員、ジョセフ・ロビンソン(Joseph Taylor Robinson)を利用することにした。バルークはロビンソンに働きかけ、減税の政治キャンペーンを張ることにしたのである。日本人でも呆れてしまうが、1935年1月以降、鉱山への投資から得られた利益に対するキャピタル・ゲインズ課税を削減すべし、というのが、その内容だった。(The Speculator, p.298.)大統領の執務室に出入りする政治顧問が、自分の利益を増やすべく、特定の減税方針を画策するなんて言語道断だ。でも、アメリカの富裕層では常識なのかも知れない。

  株への投資や先物取引などは、素人が手を出す領域じゃない。株は博打だ。しがない庶民は、一攫千金の夢を抱いて株に手を出すが、所詮、情報を持たない“アマチュア”なので、相場を熟知するプロには勝てない。むしろ証券会社の“カモ”にされるだけ。株の世界では大口のお客だけが守られる。虎の子を預ける庶民は、「カス」とか「クズ」と呼ばれていた。

Martha Stewart 1(左 / マーサー・スチュアート )
  インサイダー取引で有罪となったマーサー・スチュアート(Martha Helen Stewart)は、庶民に対する貴重な教材だ。彼女は2001年12月まで、「ImClone Systems」の株を保有していたが、それが暴落するとの情報をメリル・リンチのブローカーであるピーター・バカノヴィッチ(Peter Bacanovic)から教えられ、即座に持ち株を売却してしまった。マーサは4万5千673ドルの損失を免れたが、この不正がバレて禁錮刑と罰金刑の判決を受けることに。2004年、犯罪者となったマーサは、ウェスト・ヴァージニアの刑務所で服役した。彼女料理や園芸、内装装飾などをテーマに、御洒落なライフスタイルを提案していたが、有罪判決を受けたことで、自身の冠番組をなくし、その名声も地に落ちた。しかし、刑期を終えると、以前の仕事を再開し、マーサは失った富を取り戻した。有名人は失敗を肥料にして富を増やす。一般国民だと単なる前科者で、再就職なんて無理なのに・・・。

  かつて、アメリカ人は敗戦国の日本人に「アメリカン・デモクラシー(民衆支配の統治形態)を自慢していたが、現在でも同じプライドを持っているのだろうか? 愛想がいいだけの木偶の坊が人民投票で選ばれ、資金を提供する旦那衆が「操り人形」を動かすのが、アメリカン・デモクラシーの実態だ。そう言えば、プラトンやアリストテレスは、デモクラシーを最悪の統治形態と呼んでいたよねぇ〜。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68934207.html
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