38. 中川隆[-6533] koaQ7Jey 2025年6月02日 22:32:34 : F4nnydDAIM : U1dDbGhTQ1NlaTI=[1]
本村凌二『地中海世界の歴史6 「われらが海」の覇権 地中海世界帝国の成立』
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講談社選書メチエの一冊として、2025年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書の対象は、第三次ポエニ戦争の終結後から五賢帝の直前までで、著者が専門とする時代となります。まあ、だから執筆しやすいとも限らないかもしれませんが、これまでの5巻と同様に本書も興味深く読み進められました。日本でもおそらく他国でも、ローマ史で最も人気が高い時代は、本書で取り上げられる「内乱の一世紀」ではないか、とも思います。この時代の概説は日本でもかなり刊行されていますし、著者もこの時代の概説をすでに何度も執筆しています。それだけに、「地中海世界」の観点でこの人気のある時代がどう解釈されるのか、注目していました。
ローマがなぜ世界帝国を築いたのか、古代も現代も関心が寄せられており、著者も以前の概説などで取り上げている問題です。本書では、ローマの宗教生活が特異だった、と指摘されています。ローマの国家祭儀はひじょうに厳格な形式主義で、同時代のギリシア人には奇異にさえ見えたのかもしれません。ただ本書はそこに、現代社会でもまだ残っているものの、現代もしくは前近代のある時期以降には希薄になったかもしれない心性を指摘します。それは、ローマ人は確かに神々を畏敬していたものの、その厳粛な儀式が、神々の怒りに触れることを避け、不運から逃れるためだったことです。日本でも古代には、神々はいつどのような理由で「祟り」をもたらすのか分からない「不合理な」存在で、そうした神々が平安時代には次第に「合理的」になっていきます(関連記事)。本書は、一神教のユダヤ人との対比で、律法を信仰の礎としながら、選民としての生活を実践するユダヤ人に対して、ローマ人は「父祖の遺風(モース・マヨルーム)」を行動規範として、恒久的名誉のために生きる人々だった、と把握しています。ただ、ユダヤ教の律法とは異なり、「父祖の遺風」は口承物語で柔軟に解釈できたことも指摘されています。
第三次ポエニ戦争終結後のローマで大きな政治的動きは、グラックス兄弟の改革です。兄のティベリウス・グラックスは、元老院議員など有力者の大土地所有によって、「農耕市民の戦士共同体」であるべきローマの基盤が崩壊しつつある現状を見て、土地改革を決意します。しかし、これは大土地所有貴族の既得権を侵害するので、元老院を中心に強烈な反対があることは、容易に予想されました。それでも、ティベリウスは紀元前133年に護民官に選出され、土地改革に乗り出します。本書は、ティベリウスの土地改革案が大土地所有者にも配慮した「現実的」なものだった、と評価します。しかし、既得権益者の反発は激しく、それは、ティベリウスが元老院の前に平民会に土地改革案を提起したり、元老院に同調しそうな同僚の護民官を罷免したりといったこともあったからでした。紀元前133年、護民官の再任を企てたティベリウスは、元老院の反グラックス派に撲殺され、ティベリウス派も100人以上が殺害されたそうです。これがローマにおける「内乱の一世紀」の幕開けとなりました。グラックス兄弟の義兄である小スキピオは、ティベリウスの過激な改革を支持しなかったものの、明確に反対せず静観し、紀元前129年に休止しますが、これが何らかの陰謀なのか、今も不明です。ティベリウスの10歳下の弟であるガイウスは、騎士身分や各地の豪族と結びつき、紀元前123年、護民官に選出されます。ガイウスは兄よりも気性が激しかった、と言われており、そのためか、改革は兄以上に「過激」で、元老院支配の打破まで企図しました。しかし、ガイウスがイタリア全土の住民にもローマ市民権を付与する、と提案すると、グラックス兄弟を支持してきた民衆も大半が反対し、ガイウスは自殺に追い込まれました。
グラックス兄弟の改革は失敗し、もはや武具を自弁できる「農耕市民の戦士共同体」の再建が難しいと明らかになりつつあった中で、新たな動向が見られます。軍人として優れており貴族出身ではないマリウスは土地を失った無産市民に着目し、じゅうらいの徴兵ではなく、志願兵を募って兵力不足に対処しました。マリウスが軍功を重ねていく中で、その配下の兵にはローマではなくマリウスに仕えるような意識が強くなります。そのマリウスに対抗できる人物として台頭してきたのが貴族のスッラで、マリウスが人望を失っていき、残酷な反対派弾圧も行なった後に独裁官に就任し、定数増加で元老院を強化し、護民官の権限を削減しました。本書は、政治的に復古派と自称していたスッラを、制度から逸脱したきわめて革新的な人物だった、と評価します。
スッラの引退後、ローマでは優れた軍人であるポンペイウスが台頭し、ポンペイウスより年長で富豪のクラッススもローマ政界で強い影響力を有しており、二人は潜在的には対立関係にあった、とも言えるかもしれませんが、決定的には対立せず、互いを利用し合っている感がありました。ポンペイウスは退役兵の処遇で元老院というか閥族派(スッラ派)と対立し、苦境に陥っていたところで、元老院支配への帝国のためカエサルと共闘し、カエサルがクラッススを引き入れて第一回「三頭政治」が始まります。なお、カエサルはキケロも仲間に引き入れようとしたものの、キケロが応じなかったそうです。カエサルは世界史上の大英雄とされており、本書はカエサルの魅力を、借金など欠点になりかねないところや残酷な側面も含めて、じつに生き生きと描き出しています。この第一回「三頭政治」は、紀元前53年にクラッススがパルティアとの戦いで敗死して終わり、ポンペイウスとカエサルとの間の関係は悪化していきます。閥族派はポンペイウスよりもカエサルの方を危険視し、決断を迫られたカエサルは軍隊を解散せず、イタリア半島を制圧します。その後も鮮やかに反対勢力を破っていったカエサルは、独裁者のごとく元老院には見られるようになり、紀元前44年、カエサルが終身の独裁官となったことで、共和政擁護の元老院貴族はカエサルへの反感をさらに募らせ、同年3月15日、カエサルを殺害します。本書は、カエサルが権力を独占した5年ほどの短期間に、政治と秩序の基礎を築き、天才と呼ぶに相応しい人物だった、と評価しています。
ブルトゥスなどカエサル殺害の中心人物は、共和政の「破壊者」であるカエサルを殺せば、支持が集まる、と考えていたようですが、ローマ市民はカエサルに深く同情し、反カエサル派を攻撃し始めます。カエサルが後継者として指名したのは、忠臣で功績のあるアントニウスではなく、自身の姪(姉の息子)の息子である若きオクタウィアヌス(アウグストゥス帝)でした。このオクタウィアヌスとアントニウスとカエサルの補佐役だったレピドゥスの協約によって、紀元前43年に第二回「三頭政治」が成立します。しかし、オクタウィアヌスとアントニウスの間で、エジプトや姻戚関係などをめぐって対立が激化し、ついにはオクタウィアヌスがアントニウスを攻め滅ぼし、ローマにおける最高権力者の地位を確立します。共和政末期から元首政の確立まで、2回の「三頭政治」の当事者やキケロやオクタウィアヌスの配下のアグリッパやエジプトのクレオパトラなど著名な人物が登場し、史料にも恵まれているため、歴史叙述は物語風になる傾向がありますが、本書はその背景となる構造も指摘します。共和政期のローマには元老院貴族による寡頭政支配の側面が多分にあり、とくに中期以降にはノビレス(貴顕貴族)の世襲支配が続きましたが、ノビレスはコンスル級の家系にのみ門戸が開かれていたわけではないそうです。本書はノビレスによる支配の社会的基盤として、審議よって蒸す化ける強者と弱者の自由な人間関係としての保護=庇護関係(クリエンテラ)を指摘します。これによって、少数の有力者を頂点とする勢力圏が形成されるわけです。「内乱の一世紀」と呼ばれる共和政末期において、傭兵制の採用による市民兵の私兵化がクリエンテラ関係に転化していき、クリエンテラはイタリア半島のみならず属州各地にまで拡大していきます。ただ、こうしたクリエンテラ論に対しては、広場における民衆の自由な行動を軽視している、との批判もあるそうです。
オクタウィアヌスはローマ「帝国」の「初代皇帝」と一般的には言われていますが、就任した公職は共和政期からのものですし、あくまでもローマ市民における「第一人者(プリンケプス、元首)」で、元老院議員名簿の最初に挙げられるだけでした。それ故に、オクタウィアヌスが確立した体制は「元首政」と呼ばれています。オクタウィアヌスはカエサルの「失敗」を教訓として慎重になっていたのか、共和政の復興を建前として、元老院を尊重し、紀元前27年には全権の返還を申し出ています。オクタウィアヌスが確立した「元首政」は、共和政の国制をほとんど変えず、独裁政を黙認させるものでした。「元首政」は実質的には、「帝政」と呼べます。地中海世界のみならずヨーロッパ内陸部にまで版図を広げたローマには多くの属州がありましたが、それは元老院の管轄と元首の直轄に分割されました。豊かで安全な地中海沿岸部の属州はおおむね元老院が管轄し、国境地帯はおおむね元首の直轄でした。オクタウィアヌスの治世には、ローマの改造も進みました。本書は、「元首政」の確立によって、保護者たる元首と庇護民である兵士および国民との間にクリエンテラ関係が刻まれていく、と指摘します。
オクタウィアヌスの死後、養子のティベリウスが即位し、ここからネロまでの皇帝(元首)はユリウス・クラウディウス朝と呼ばれています。ユリウス・クラウディウス朝の政治的陰謀は読んでいて陰鬱になりますが、「内乱の一世紀」の陰謀も大概だったのに、そこまで陰鬱な印象を受けませんでしたから、この印象の違いは何かと考えると、大規模な軍事衝突の有無でしょうか。「内乱の一世紀」は、ある意味で「堂々と」戦っていたので、「潔さ」も感じられるわけですが、これは私の特異な感想かもしれません。ともかく、問題のある人物が即位しているにも関わらず、大規模な内戦に至らなかったのは、それだけオクタウィアヌスの制度設計が優れていたことを反映しているのでしょうか。ネロのキリスト教迫害については、当時まだローマにおいてキリスト教は浸透しておらず、ネロがわざわざ迫害の対象に選んだ可能性は低い、と本書は推測します。
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