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[近代史6] 最美の音楽は何か? _ ギョーム・デュファイ『ミサ曲 アヴェ・レジーナ・チェロールム』 中川隆
1. 中川隆[-16211] koaQ7Jey 2021年9月24日 19:43:15 : wQAt9qEPZ2 : YURVTzRHeWVZZzI=[1]
ギヨーム・デュファイ(Guillaume Dufay 1400年頃 - 1474)

中世からルネサンスへの転換を図った音楽史上における非常に偉大な作曲家。曲はシンプルで聞きやすく分かりやすく、初めて聴いてすぐに気に入ったほどである。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%281889%E5%B9%B4%E3%81%BE%E3%81%A7%29

ギヨーム・デュファイ(またはデュフェ、Guillaume du Fay、1397年8月5日 - 1474年11月27日)はルネサンス期のブルゴーニュ楽派の音楽家である。音楽の形式および精神の点で、中世西洋音楽からルネサンス音楽への転換を行なった音楽史上の巨匠である。

最近の説では、ブリュッセル近郊のベーアセル(Beersel)で1397年8月5日に生まれたと考えられている。1409年から1412年まで、少年合唱隊で教育を受け、才能を認められる。1414年、カンブレー近郊のSt.Géry(サンジェリー)教会で働きはじめる。1414年から18年までコンスタンツ公会議に同行し、1418年にカンブレに戻り副助祭となる。同年、イタリアのリミニ宮廷に移り本格的な作曲を始める。1424年に、カンブレに戻り、ラン大聖堂で副助祭であったと考えられている。1426年、イタリアのボローニャに移動し、1428年には司祭となる。その後、1433年までローマで教皇庁の歌手となる。1433年、サヴォワに移動し、ブルゴーニュ公やジル・バンショワと会う。1435年に再び教皇庁の歌手になるが、1436年サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(フィレンツェ大聖堂)の献堂式のために「ばらの花が先頃」という曲を作っている。1437年に再びサヴォワに移動し、ブルゴーニュ公に仕え、その後、サヴォアとカンブレの間を行き来する。

1459年、カンブレに戻り、オケゲム、ビュノワと親交を持つほか、ジョスカン・デ・プレらとも接触したと考えられる。1474年11月27日没。

作品と作風
百年戦争の休戦期にイングランドのジョン・ダンスタブルが伝えた3度や6度の協和音程、フランスのイソリズムを含むポリフォニー音楽、青年期に接触した旋律優位のイタリア音楽(トレチェント音楽)を統合し、イタリアで活躍したフランドル人チコーニアなどの影響を受け、ルネサンス音楽を開拓した。

しばしば「ルネサンス音楽におけるバッハ」(皆川達夫)、15世紀最大の巨匠と評価される。

バッハがバロック音楽時代の最盛期から終期に活躍したのに対し、デュファイはルネサンス音楽の開始にあたって大きな貢献をした。したがって、デュファイの初期から晩年までの作風の変化を追ってゆくと、中世的要素が、その後の創作活動を通じてルネサンス音楽へと成熟してゆく過程を跡付けることが、ある程度まで可能である。ブルゴーニュ楽派の中心的人物であるが、その後期の作品には、ルネサンス音楽の次の時代でありヨーロッパ普遍の音楽様式を確立するフランドル楽派に通じる要素も見られる。


デュファイ作曲 Ave maris stellaのFauxbourdon。2声目にフォーブルドンの技法が用いられている。
宗教作品(76のモテット、9のミサ曲)と83の世俗作品(シャンソン、バラード、ロンドー)の約200曲の作品が知られている。

デュファイ以前のミサ曲が三声だったのに対して、その中期の作品から四声を主に用いるようになった。更に、各楽章を同じ冒頭モチーフで始まるようにした。デュファイ後のミサ曲の多くは、循環ミサ曲の形態をとるが、この形態を確立したのはデュファイであるといってよい。フォーブルドンFauxbourdonと呼ばれる和音の手法を用いた聖歌にも特徴がある。シャンソンには、親しみやすいメロディーを持つものが多い。レクイエムも作曲したが、その作品は失われたままになっている。デュファイの音楽には、その音楽的形式だけでなく、ルネサンス的な「人間」を感じさせる表現があるのが特徴である。

作品一覧
ミサ曲
ミサ「目を覚ましなさい」 (Missa Resvellies vous):3声のミサ曲。ミサ・シネ・ノミネとして知られる。Missa Sancti Jacobiとともに、1440年以前に作曲された中世的性格の強い初期の作品である。
聖ヤコブのミサ曲 (Missa Sancti Jacobi):3声と4声。
ミサ「Missa Sancti Anthonii Vienensis」(デュファイの遺言書にある。トレント写本中にあるミサ曲であると言われている。)
パドヴァの聖アントニウスのミサ曲 (Missa Sancti Anthonii de Padua):トレント写本中にあるミサ曲で、最近になってデュファイの作品と同定され、演奏や録音が行われるようになった美しいミサ曲である。
ミサ「ス・ラ・ファス・エ・パル」(Missa Se la face ay pale):(私の顔が青ざめているのは)デュファイ自身の作曲によるシャンソン「Se la face ay pale」を定旋律にした4声の循環ミサ曲の代表作。世俗曲を定旋律にした循環ミサ曲としては、最古のもの。1450年頃、サヴォワのシャーロッテとフランスのドーフィン・ルイとの結婚式のために作曲されたと考えられる。
ミサ「ロム・アルメ」(Missa L'homme arme):(武装した人)ルネサンス期に流行した俗謡「ロム・アルメ」を主題にした4声循環ミサ曲。
ミサ「エッチェ・アンチルラ・ドミニ」(Missa Ecce ancilla domini):(見よ主のはしためを)深い雰囲気を持つ4声ミサ曲で、録音も多い。
ミサ「アヴェ・レジーナ・チェロールム」(Missa Ave regina caelorum):(めでたし天の女王)デュファイ晩年の最高傑作のひとつといわれる4声ミサ曲。フランドル楽派に通じる要素が見られる。また、長調と短調の対立が見られ、近代音楽の様相さえみせる。
なお、デュファイのものと言われていたミサ・カプト (Missa Caput) は、疑作と考えられている。

モテット
おお、聖セバスティアヌスよ (O sancte Sebastiane)
ばらの花が先頃 (Nuper rosarum flores)
忠実な教会の都ローマ (Ecclesiae militantis)
喜べ、ビザンツ帝国の妃 (Vasilissa ergo gaude)
おお輝きわたる宝石 (O gemma, lux et speculum)
誉れある使徒に (Apostolo glorioso, Da electo)
人にとって最もよきもの (Supremum est mortalibus bonum)
めでたし、トスカナ人の花 (Salve flos Tusce gentis)
度量ある人々の称賛を (Magnanime gentis laudes)
神の教会の輝ける星 (Fulgens iubar eccelesie Dei)
キリストと共にあるヨハネ (Moribus et genere Christo coniuncte Johannes)
讃えられん、天にいます乙女よ (Ave Virgo quae de caelis)
花の中の花 (Flos florum)
この喜ばしき世界は (Hic iocundus sumit mundus)
知られたる海の星 (Inclita stella maris)
このフィレンツェの町は (Mirandas parit hec urbs florentina)
バルサムと上品なる蝋が (Balsamus et munda cera/Isti sunt agni novelli)
おお、祝福されしセバスティアヌスよ (O beate Sebastiane)
おお、イスパニアの後裔/おお、イスパニアの星 (O proles Yspanie/O sidus Yspanie)

世俗作品
さようならわが恋よ、さようならわが歓びよ (Adieu m'amour, adieu ma joye)
年を迎えたこの日 (Ce jour de l'an)
よい日、よい月、よい年、そして何かよいこと (Bon Jour, bon mois, bon an et bonne ectraine)
月は5月、いざ楽しもう、心も軽く (Ce moys de may soyons lies et joyeux)
さあ、友だちよ、目を覚まそうよ (He, compaignons, resvelons nous)
私の顔が青ざめているのは (Se la face ay pale)
コンスタンチノープル教会の聖母の嘆き (Lamentatio Sanctae Matris Ecclesiae Constantinopolitanae)
黄金のように美しく気高い聖母マリアよ (Dona gentile, bella come l'oro)
さらばラノワのよき酒 (Adieu ces bons vin de Lannoys)
美しい人よどんな過ちを犯したのか、この私が (Belle, que vous ay ie mesfait)
心を込めて、お仕えせねばなりませぬ (Bien doy servir de volente entiere)
早くやっておいで、恋の喜びよ (Bien veignes vous, amoureuse liesse)
私はもうかつての私ではない (Je ne suy plus tel que souloye)
あなたほどのお人を私はまだ見たこともない (Je ne vis onques la pareille)
デュファイの世俗作品は宗教曲に比べ、顧みられることが少ないがロンドン中世アンサンブルの世俗音楽全集によって一躍有名になった。このアルバムはデュファイの音楽の全体像を知る上でも、画期的な記念碑であった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4


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[近代史6] 最美の音楽は何か? _ ヨハネス・オケゲム『ミサ・プロラツィオーヌム』 中川隆
1. 中川隆[-16210] koaQ7Jey 2021年9月24日 20:12:12 : wQAt9qEPZ2 : YURVTzRHeWVZZzI=[2]

ヨハネス・オケゲム(Johannes Ockeghem, 1410年頃 - 1497)

デュファイの次世代の超大物。デュファイの音楽を発展させたかのような新しさを響きから感じる。デュファイ同様に分かりやすくてすぐに気に入った。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%281889%E5%B9%B4%E3%81%BE%E3%81%A7%29


ヨハネス・オケゲム(Johannes Ockeghem, 1410年頃 - 1497年2月6日)は、フランドル楽派初期の指導的な作曲家である。しばしば、デュファイとジョスカン・デ・プレの間の世代で最も重要な作曲家と看做されている。この時代の作曲家には典型的なことではあるのだが、デュファイやジョスカンなどと比べても生涯については不明な点が多く、大半の作品の作曲の背景、年代なども数曲を除いて未確認である。

オケゲムの出生地は最近の研究によって現在のベルギーのエノー州サン=ギラン(Saint-Ghislain)であることが明らかにされた。以前の伝記においては、オケゲムはブルゴーニュ公国の出身で、フランドル東部(現ベルギー領)のオケヘムかその隣町テルモンドの出身と言われてきた。幼年期については伝わっておらず、生没の日付は不明なので、ふつうは詩人クレタンCrétin が作曲家の最期に寄せたコメント(「けしからぬことだ、彼ほどの才能の作曲家が100歳にならずして世を去らねばならぬとは」)から割り出されてきた。当時の多くの作曲家のようにオケゲムも教会楽長を振り出しに音楽活動に入っており、オケゲムの名前の最初の記録は、アントウェルペンのノートルダム寺院に残されている(1443年〜1444年採用)。1446年から1448年には、フランスのブルボン公シャルル1世にムーランで仕えた。1452年ごろにパリに移り、フランス宮廷楽長ならびにトゥールのサン・マルタン寺院の出納方に就任した。フランス宮廷での――シャルル7世とルイ11世への――仕官に加えて、ノートルダム寺院や聖ブノワ寺院にも職務を得た。1470年には、ギュイエンヌ公シャルル(ルイ11世の弟)からカスティーリャ王女イサベルへの求婚の意を託されて、イベリア半島を訪れた。ルイ11世が1483年に没してからは、オケゲムの所在は不明になるが、それでもブルッヘやトゥールを訪ねており、後者で遺言を残していることからすると、おそらくその地で没したのだろう。生前から「我等の良き父」と人々の尊敬と信頼を勝ち得ていたオケゲムの死は多くの人々を悲観させた。その証拠に当時の多くの著名な作曲家たちが、哀悼歌をオケゲムにささげている。

オケゲムはバンショワに師事したようだが、ブルゴーニュでの両者のつながりは、まさに取るに足りないものだった。アントワーヌ・ビュノワが1467年より前に、オケゲムを称えるモテットを作曲しているので、もしかするとこの両者に面識があったのかもしれない。

オケゲムの作曲様式は、旧世代のそれとはかなりかけ離れているものの、作曲技法の根本を旧世代に負っているかもしれず、そうだとすればオケゲムは、ブルゴーニュ楽派と、次世代のネーデルランド楽派、例えばヤーコプ・オブレヒトやジョスカンとを直接に橋渡しした存在であると見なせよう。

作品
現存する作品はごくわずかで、14のミサ曲、レクィエム、9つのモテット、バンショワ追悼のシャンソン・モテット、21のシャンソンだけである。オケゲムのミサ曲のうち13曲は、15世紀後期の筆写譜集「キージ写本Chigi codex」によって伝承されている。

《死者のためのミサ曲 Missa pro Defunctis》は、現存する最古のポリフォニックなレクィエムである。

ごくわずかの現存する作品に加えて、いくつか偽作もまじっている。例えば、技巧を凝らした謎の力作、36声部のための《デオ・グラティアス(主に感謝せよ) Deo gratias 》は、他人による作品の見込みが極めて高いが、真相はやぶの中である。シャンソンやモテットのうち、原典においては作者が記名されていないものの、作曲様式の観点からオケゲム作といわれてきたものが数曲ある。

ジョスカン・デ・プレに強い影響を与えたように、オケゲムは表情豊かな音楽と作曲技法の熟練によって、ヨーロッパ全土で有名だった。その辣腕ぶりは、比例カノンを用いた驚異的な《ミサ・プロラツィオーヌム(種々の比率のミサ曲)Missa Prolationum》においてとりわけ一目瞭然である。

また、《ミサ・クィユスヴィス・トニ(任意の旋法によるミサ曲)Missa cuiusvis toni》はありとあらゆる旋法で演奏することができる。だがこれらの傑作を生み出させた作曲技法は、声域についての洞察力や、他の追随を許さない表現力に富んだ音楽言語を物語っているのである。オケゲム自身が著名なバス歌手だったことから、オケゲムのバスの旋律線は確かに込み入っている。これこそが、オケゲムが他のフランドル楽派の作曲家と一線を画する点であろう。

ジョスカン・デプレはジャン・モリネの詩「森の精霊たちよ Nimphes des bois」によって、《オケゲム追悼の哀歌 La déploration de la mort de Johannes Ockeghem》を作曲した。


ミサ曲/断章
"Missa Au teavail suis" 《ミサ・オー・トラヴァイユ・シュイ(ミサ曲「私が悩んでいる事を」)》
"Missa Caput" 《ミサ・カプト》
"Missa cuiusvis toni 《ミサ・クユスヴィス・トニ(任意の旋法によるミサ曲)》
"Missa De plus en plus" 《ミサ・ド・プリュ・ザン・プリュ(ミサ曲「だんだんと」)》
"Missa Ecce ancilla Domini" 《ミサ・エッチェ・アンチルラ・ドミニ(ミサ曲「われは主のはしためなり」)》
"Missa Fors seulement" 《ミサ・フォール・スルマン(ミサ曲「今はもう、ただ死を心待ちに」)》
"Missa L'homme armé" 《ミサ・ロム・アルメ(ミサ曲「武装した人」)》
"Missa Ma Maistresse" 《ミサ・マ・メストレス》
"Missa Mi-mi"("Presque transi") 《ミサ・ミ・ミ》(プレスク・トランジ)
"Missa prolationum" 《ミサ・プロラツィオーヌム(種々の比率によるミサ曲)》
"Missa pro defunctis" 《ミサ・プロ・デフンクティス(死者のためのミサ曲)》
"Missa quinti toni" 《ミサ・クインティ・トニ(第5旋法によるミサ曲)》
"Missa sine nomine" I (a3) 《ミサ・シネ・ノミネ,第1番(3声)》
"Missa sine nomine" II (a5) 《ミサ・シネ・ノミネ,第2番(5声)》
"Credo sine nomine" ("De Village") 《クレド・シネ・ノミネ》(ド・ヴィレジ)

モテット
"Alma Redemptoris mater"
"Ave Maria"
"Intemerata Dei mater"
"Salve regina" I
"Salve regina" II(偽作?)
"Ut heremita solus"

世俗歌曲
ロンドー "Aultre Vénus estes sans faille"
ロンドー "Au travail suis"
ロンドー "D'un aultre amer"
ロンドー "Fors seulement I'acftente"
ヴィルレー OCKEGHEM Ma bouche rit.mid Ma bouche rit[ヘルプ/ファイル]
モテット "Mort tu as navré de ton dart"
バッラータ "O rosa bella"
ロンドー "Prenez sur moy vostre exemple amoureux"
ヴィルレー "Presque transi"
ロンドー "S'elle m'amera je ne sçay / Petite Camusette"
ヴィルレー "Tant fuz gentement resjouy"

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%82%B1%E3%82%B2%E3%83%A0
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[近代史6] 最美の音楽は何か? _ マルク=アントワーヌ・シャルパンティエ『降誕祭前夜のミサ曲(真夜中のミサ曲』 中川隆
1. 中川隆[-16209] koaQ7Jey 2021年9月24日 20:37:59 : wQAt9qEPZ2 : YURVTzRHeWVZZzI=[3]
マルカントワーヌ・シャルパンティエまたはマルク=アントワーヌ・シャルパンティエ(Marc-Antoine Charpentier, 1643年 - 1704年2月24日)はフランス盛期バロック音楽を代表する作曲家。多作で洗練された作曲家であり、ジャン=バティスト・リュリと同時代の人である。フランス宮廷とほとんど関連を持たず、現代になって重要性が再認識されたため、生涯や経歴に不明な点が多い。遺された作品では、特に宗教音楽を重要視されている。

パリまたはパリ郊外に生まれる。生い立ちについてはほとんど不明であり、生年月日でさえ謎である。「青年」時代にローマに留学したことは明らかだが、その期間は1662年から1667年の間であったと推測される。ローマでジャコモ・カリッシミに師事。古い伝説によると、画学生としてローマに留学したところ、老大家のカリッシミに楽才を見出されたというが、文献では画才があったという裏づけはない。同時代のイタリアの習慣を熟知しており、それをフランスに持ち帰ったというのは確かである。

おそらく、フランスに帰ってギーズ公爵夫人マリー(Marie de Guise, 1615年 - 1688年)に、楽長および歌手として、彼女の没する1688年まで仕えた。この間に、相当数の劇的な宗教曲(詩篇唱、讃歌、マニフィカト、ミサ曲、モテット)を作曲した。シャルパンティエはモテットを、「オラトリオ」と混同して呼んでいた。

1672年ごろに、ジャン=バティスト・リュリと不和になったモリエールと協力関係に入る。1680年代は、パリのイエズス会系のサン・ルイ教会に楽長として奉職。さらに、シャルトル公フィリップの音楽教師を勤める。1698年にはサント・シャペルより楽長に任命され、1704年に没するまでその地位にあった。

この時期の最も有名な作品が、《テ・デウム ニ長調》(H 146)と《聖母被昇天ミサ曲 Mass "Assumpta Est Maria" 》(H 11)である。

作品

宗教曲のほかに、舞台音楽や、分類しにくい小品がたくさんある。それらの小品は、当時のイタリアのカンタータに似て、一つか二つの声楽パートと器楽のために作曲されており、楽種の名称を除けばほとんど共通点がある。シャルパンティエ自身はそれらの小品を「エール・セリユ(air sérieux 厳粛なアリア)」とか「air à boire」と呼んだ。これらはフランス語での表現であり、イタリア語ではカンタータと総称される。

シャルパンティエ作品は、音楽学者ヒュー・ウィリー・ヒチコックによって目録が作成された。このため、ヒチコック番号と呼ばれるHつきの整理番号がしばしば使われている。

《テ・デウム ニ長調》の前奏曲は、欧州放送連合で使われていることで有名で、ウィーンフィル・ニューイヤーコンサートやユーロヴィジョン歌唱コンテストの開始テーマにも使われている。

歌劇・舞台音楽
アシスとガラテアの恋 (Les amours d'Acis et Galatée, 1678)(消失)
オルフェウスの冥府下り (La descente d'Orphée aux enfers, 1686-1687)
パリスの審判 (Le Jugement de Pâris, 1690)
ピロメーラー (Philomele, 1690)(消失)
メデア (Médée, 1693)

宗教悲劇
ダビデとヨナタン (David & Jonathas, 1684)
聖チェルソ殉教者 (Celse, 1687)(台本のみ現存)

田園劇
アクテオン (Actéon, 1684)
フラワークラウン (La couronne de fleurs, 1685)
リュエルの饗宴 (La fête de Ruel, 1685)
笑って歌うべし〜羊飼いたちのいさかい (Il faut rire et chanter: Dispute de Bergers, 1685)
一陽来腹 (Le retour de printemps)(消失)
寸劇・羊飼いたちの対話 (Petite pastorale eglogue de bergers)

イタリア語による小田園劇
愛は勝るものはなし (Amor vince ogni cosa)
私の性悪キューピッド (Cupido perfido dentr'al mio cor)

牧歌劇
花咲ける芸術 (Les arts florissants)

抒情悲劇
キルケー (Circé, 1675)
アンドロメダ (Andromède, 1682)

コメディ
エスカルバニャス伯爵妃 (La comtesse d'Escarbagnas, 1672)
いやいやながら医者にされ (Le médecin malgré lui, 1672)
迷惑 (La Fâcheux, 1672)
よそ者 (L'Inconnu, 1675)
ヴィーナスとアドニスの恋 (Les Amours de Vénus et Adonis, 1685)

コメディ=バレ(舞踊喜劇)
無理強いの結婚 (Le mariage forcé, 1672)
病は気から (Le malade imaginaire, 1672)
シチリアの男、あるいは恋する絵描き (Le sicilien, 1679)

バレエ音楽
ポリュークト (Polyeucte(1679)

ディヴェルティスマン
ヴェルサイユの愉しみ (Les plaisirs de Versailles, 1682)
王の健康を讃える牧歌 (Idylle sur le retour de la santé du Roi, 1687)

幕間劇
女たちの勝利 (Le triomphe des dames, 1676)
賢者の石 (La pierre philosophale, 1681)
エンデュミオン (Endymion, 1681)
アンジェリークとメドルとの対話 (Dialogues d'Angélique et de Médor, 1685)

ソナタ
8声のソナタ (Sonates à huit)

エール、セレナータなど
バイエルン選帝侯マクシミリアン・エマヌエルを讃える祝婚歌 (Epithalamio in lode dell'Altezza Serenissima Elettorale di Massimilioano Emanuel Ducadi Baviera, H.473, 1685)

世俗モテット
シャルパンティエの墓碑銘 (Epitaphium Carpentarij, H.474)

宗教曲
降誕祭前夜のミサ曲(真夜中のミサ曲)(Messe de minuit pour noël, H.9, 1690)
聖母被昇天ミサ曲 (Missa assumpta est Maria, H.11, 1698-1702)
処女マリアへの連禱 (Litanies de la vierge, H.83, 1683-168)
テ・デウム ニ長調 (Te Deum, H.146, 1690)
主は言われた (Dixit Dominus, H.204)
主の御降誕のカンティクム (In nativitatem Domini canticum, H.416)
(3つの)ノエル (Noëls, H.5311680)
器楽合奏のためのノエル (Noëls pour les instruments, H.534, 1690)
聖水曜日のルソン・ド・テネーブル(H.96〜98)
聖木曜日のルソン・ド・テネーブル(H.102〜104)
四旬節のための瞑想 (Méditations pour le Carême, H.380〜89)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A8
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