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[戦争b23] 今明らかになりつつあるヨーロッパによる対ロシア制裁の本当の代償(マスコミに載らない海外記事) HIMAZIN
18. 2022年6月27日 20:15:14 : bsMmyhdJgs : YVhhZzJzTThBQXc=[1]
18日、ワシントンの連邦裁判所に出廷したブティナ容疑者(右)の様子を描いたスケッチ
PHOTO: DANA VERKOUTEREN/ASSOCIATED PRESS
2018 年 7 月 27 日 07:16 JST 更新

 ロシア政府の工作員として米国で活動した疑いで逮捕されたロシア人の女マリア・ブティナ容疑者が、ロックフェラー家の子孫の保守系文筆家ジョージ・オニール・ジュニア氏と接触していたことが、取材や司法文書から明らかになった。

 司法文書によると、ブティナ容疑者は、積極的に政治活動を行っている米国人とロシア当局者を引き合わせる「友情の夕食会」の開催を模索していた。文書で「米国人2」と記されている人物が、「全米祈祷(きとう)朝食会」が開かれる前の2017年2月に、こうした夕食会を開催したとしている。

 「米国人2」はオニール氏を指していることが判明。同氏は執筆したコラムで夕食会の開催について認めている。

 訴状によるとブティナ容疑者は、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領の政権関係者が「このコミュニケーション経路の構築」を承認したと述べている。

 オニール氏は不正行為の疑いは持たれていない。同氏は電話と電子メールによるコメントの要請に応じていない。

 オニール氏は、今月行われた米ロ首脳会談の前に執筆したコラムで、ロシアは無駄な戦争を止めるために米国と連携する「建設的なパートナー」となり得ると訴えていた。

 オニール氏が主催した夕食会は、2017年の全米祈祷朝食会に関連して実施されたイベントの1つ。全米祈祷朝食会はワシントンで毎年開催され、多くの政界要人が出席する。

 ブティナ容疑者は夕食会の数日後、「われわれの代表団の話題は、あなたの素晴らしい夕食会で持ちきり」などとして謝意を伝え、「私の親愛なる大統領は、ロシア人に対するあなたの前向きかつ親切な配慮(中略)についてメッセージを受け取った」と述べている。

 オニール氏はジョン・D・ロックフェラー・ジュニアのひ孫にあたる。
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[戦争b23] 今明らかになりつつあるヨーロッパによる対ロシア制裁の本当の代償(マスコミに載らない海外記事) HIMAZIN
19. 2022年6月27日 20:19:41 : bsMmyhdJgs : YVhhZzJzTThBQXc=[2]
ロ ックフ ェラー財 団 と太平洋 問題調査会 ―冷戦初期 の巨大財団と民間研究団体の協力/緊張関係―

佐々木豊

20世 紀,ア メ リカ合衆 国の財団 は フィラ ンソロ ピー(篤 志事業)の 担 い 手として多様な分野における公益活動に従事した。中でも1913年,石 油王 ジョン ・D・ ロックフェラー(John D. Rockefeller)が 設立 した ロックフェ ラー 財 団(The Rockefeller Foundation,以 下RFと 略 記)は,「 全 世 界 に お ける人類の福祉」という目標を掲げ,巨 大な資金力を背景にアメリカ屈指 の財団としての地位を確立 し大 きな社会的影響力を及ぼしてきた。

興味深 いことに,当 初RFは 現代 医学 の知識 の普及や公衆衛生 の推進 に力 を入れ て内外で助成活動 を展開す るが,1920年 代に入 ると社会科学研究 の領 域にも関心を寄せ,国 際 関係 学や地域研究 の振興 に向 けて資金 の拠 出を開始 し た。

特に第2次 大戦終了後は,冷 戦下,各 地域に関する的確な知識の獲得 が アメ リカの地政学上 の関心 となる中,主 要 大学 にお ける地域研究 の促進 に財団の資金が投入 され るが,そ の代表例 であ るコロ ンビア大学 の ロシア
研究所の設立に当たってはRFの 資金援助が大きく与っている1)。

ところでRFの 元理事 長 フ ォスデ ィック(Raymond B. Fosdick)は,社 会科学研究の促進に関して 「人間関係の諸問題に関する客観的な調査は, 適切 に訓練され科学的な公平無私の精神を吹き込まれた研究者が十分な資 源と共に活動を遂行する機会を与えられるなら,高 度に有用な価値を持つ 結果を生み出す ことが出来 る」と述べている2)。

しか し冷戦下の ロシア研 究促進のための助成例が示すように,「客観的な調査」による 「有用な価 値」 の産出 とい う目標が,ど のよ うな知 的要 請の下 に具体化 され,如 何 な る研究機関 ・団体に対する助成に結びつ くのかという問題は,国 際関係の 領域 の社会科学 的知 の生産 を巡 る財団 の役 割を考察す る上 で も興 味深 い。

以上の視角から本稿では,冷 戦初期を対象に,RFと,国 際主義的な民 間研究団体,太 平洋問題調査会(The InstituteofPacificRelations,以 下国際IPRと 略記)と その アメ リカ支部(The American Instituteof Pacific Relations,以 下米 国IPRと 略記)と の間 の協 力及 び緊張関係 につ いて分析 を加 え る3)。

国際IPRは 米 ・英 ・中 ・日を含む11力 国 に支部 を持 ち,加 盟各国の有識者による国際会議や研究 ・出版事業を行なう団体であったが, 米国IPRは 人的にも財政的にもその中心的役割を果たし,RFは 国際/米国 IPR双 方の最大の支援者となって活動を支えた。

しかし第2次 大戦末期, IPRの 一部のスタッフが反共主義者によって 「左翼偏向」の非難を受ける とRFとIPR関 係者 の間で この問題 を巡 る意見交 換が なされ助成活動 に影 を落とすようになる。

さらに1950年 代初頭,IPRが 上院司法委員会の調査 を受 けて 「親共産主義団体」 と糾弾 され,続 いて財団 の助 成活動 を調査 す ることを目的に設立 された下院特別委員会によってRF自 身が 「体制転覆 的な」学術硯究活動の資金源になっているとい う非難を受ける中,RFは IPRに 対 す るそれ までの助 成を説明 せざ るを得 ない状 況 に追 いこまれ だ4)。

このような経緯 を踏 まえつつ,本 稿では反共主義的風潮が高 まる中, RF関 係者が 「親共産主義団体(=IPR)に 対する助成」 という非難に如 何に対応したのかについて検討することを通じて,財 団の助成活動と政治 的風潮 の関係 につ いて考察 を加 え る。
http://www.asyura2.com/19/warb23/msg/844.html#c19

[戦争b23] 今明らかになりつつあるヨーロッパによる対ロシア制裁の本当の代償(マスコミに載らない海外記事) HIMAZIN
20. 2022年6月27日 20:23:30 : bsMmyhdJgs : YVhhZzJzTThBQXc=[3]
❶RFのIPRに 対 する助成の歴史

ロ ック フェラーの篤志事業 によ るIPRに 対 す る助成 の歴 史 は,IPR設 立 翌年の1926年,社 会科学研究 の振興を主 たる 目的 と した ロー ラ ・スペルマ ン ・ロ ック フェラー記念基金 か らの助成金拠 出に始 まる。

1928年 に同基金 がRFに 吸収統 合 されてか らは,IPRへ の助成 金 はRFか ら拠 出 され るようにな り,以 後,1950年 の最 終助成 まで,国 際/米 国IPRの 一般諸 経費 ・ 国際会議開催費用 ・研究 ・出版事業に対する助成が続けられた。RFの 集 計 によれば,ス ペルマン基金及びRFに よる国際/米 国IPRへ の助成総額は約188万5千 ドル に及 び,こ れ は国際IPRの 全収入 の44パ ーセ ン ト,米 国IPRの それ の26.4パ ー セ ン トを占めた5)。

この 間,IPRへ の助成 を担 当 した のは,RFの 社会 科学 部(Division of Social Sciences)で あった。

同部の初代部長には,ハ ーバー ド大学経済学 部 教 授 の デ イ(Edmund E. Day)が 就 任 し,彼 の 指 導 の下,国 際 関 係 の 分 野で活動する組織や団体への助成活動が活発化した。

デイの後を次いで1939年 には,ペ ンシルベ ニア大学 ビジネスス クール校長 を務め たウ ィリッ ツ(Joseph H. willits)が 部長 に就 任す るが,世 界情 勢 に暗雲が立 ち込 め る中,彼 は国際 関係 の分野 におけ る助成活動 をよ り充実 させ る ことを提 唱 し,民 間研究団体の活動に対する資金援助を強化 した。

また1941年 には, 同部にウィリッツのアシスタントとしてエヴァンズ(Roger F. Evans)が 加わ り,こ の二人の人物がIPRに 対する助成活動に大きく関わることに な る6)。

さて助成審査 に関 しては,社 会科学部 の職 員が 申請窓 口とな り,同 部 の 推薦を経て理事長を含む数人の理事か ら構成される執行委員会(Executive Committee)の 場で助成 が決定 され るとい う手続 きが取 られた。

ではRFは,IPRを 如何 に評価 しつつ 助成 を行 な って いたので あろ うか。

例えば デイ は1928年,IPRへ の新 たな助成 を推 奨 す る際,「IPRに よ る客 観 的研究 のプ ログ ラムで は......従来蔑 ろに されて きた領域 に関す る科 学的 かつ学術的な研究を促進するまれな機会が提供されており,IPRの 活動全 体が奨励されるべ きである」 と述べて高 く評価 した7)。

またウィリッツは 1940年12月 の執行委 員会で 「IPRは 真 に国際 的視 野を有 したス タッフと組 織構造を持つ 数少 ない団体の一つ であ る...... 自由な探求 と議論を維持す る ことは太平洋地域の問題を明 らかに し解決 していく上で有効であると信 じ る」 と述 べてIPRの 活 動の意義 を強 調 した8)。

さらに1943年 度 のRF年 報 の中でIPRは 「太平洋 ・極東地域の諸問題の独立 した研究に関する最も 重要 な情報源」 と位 置付 け られ評 価は頂点 に達 してい る9)。

ところで,IPRを アジア太平洋問題を扱 う有力な民間団体として成長さ せたのは,国 際IPRの 事 務総長 カー ター(Edward C. Carter)で あった。

米 国IPR事 務 局長 を経て1933年 に国 際IPRの 日常 的業務 を担当 す る機 関 である国 際事 務局 の トップの座 に就 いた カーターは,IPR主 催の国際会議 や研究事業で時局の論争的問題を積極的に取 り上げる方針を強 く打出した。

同時に,戦 時中は政府関係諸機関と接触を持ち,IPRを 有識者による非公 式の意見交換の場か らシンクタンク的な組織へと脱皮させることに精力を 注いだ。

また彼 は国際事務 局 や米国IPRに 気鋭 の ア ジア研 究者 を迎 え入 れ,人 材 登用面 で も才能 を発揮 した。

そ して国際事務局 とRFの 事務 所が マ ンハ ッタ ンにあ ったため,カ ー ターは社会科学 部の職員 と日常 的に接触 しつつ,IPRの 活動をRFに 積極的に売り込む役割を担った10)。

ところが,第 二 次大戦が終盤 に入 り,IPRの 出版物 や国際会議 の場 で ア ジアの植 民地問題 や中国 ・日本 の将来 を含む戦後処理問題 が取 り上げ られる中,RFの カー ター指導体制 に対 す る評価 が徐 々に翳 りをみ せ るよ うに な る。

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[戦争b23] 今明らかになりつつあるヨーロッパによる対ロシア制裁の本当の代償(マスコミに載らない海外記事) HIMAZIN
21. 2022年6月27日 20:27:40 : bsMmyhdJgs : YVhhZzJzTThBQXc=[4]
❷ IPRに 対 する 「左翼偏 向」 嫌疑の浮上 と社 会科学部 の対応

ウ ィリッツが1950年9月 の執 行委 員会 の場 での質疑応答 に備え て用意 し た文書 によれば,社 会科学部の職員の間でIPRに 対する 「疑問」が芽生え たのは1943年 か ら1944年 にかけてで あ った。

その中 で ウィ リッツは,こ の 「疑問」 はIPRに 対す る執拗な批判者で あるコールバーグ(AlfredKohlberg)に よる1944年末の告発によってより確実なものとなり,さ らに 大戦末期のIPR国 際会議の場における他国代表,特 に英国代表との非公 式会談 によ って確認 された と述べ た11)。

コールバーグによるIPR告 発とは以下のような ものであった。

彼 は米 国IPR元 会員の中国貿易商であ ったが,カ ーター宛の書簡にほぼ90頁 に 渡 る国際IPR機 関誌 『パ シフィ ック ・アフ ェアズ(Pacific Affairs)』及 び 米国IPR機 関誌 『ファー ・イースタン・サーヴェイ(Far Eastern Survey)』 両誌を中心とするIPR出 版物中の記事の部分的切り抜きを貼付して,そ れらの中で中国共産党を批判したものが皆無である一方,国 民党政権に対して は批判 的見解が示 されてい ると主張 した。

さ らに彼 はその論 調 はアメリカ共 産党 機関誌 『ニ ュー ・マ ッセ ーズ(The New Masses)』 と同 じもの であると断定 して,IPRが 「共産主義路線」を採用 していたと告発 した。

これに対 しIPRは 「共産主義路線」 に従 ったとされた記事の内容を解説 する冊子を発行し,コ ールバーグが記事中の記述の一部を文脈を無視して 批判 している点を指摘 して彼の告発の恣意性を暴 いた。 しかしコールバー グはこれで引き下が らず,米 国IPR理 事会に対 して,過 去,共 産主義者 による組織への 「潜入」の試みがあったか否かを調査する委員会を設置することを要求 しだ12)。

興味深いことにコールバーグはこの間にウィリッツと接触 し,自 らの告発の正当性を訴えると同時にRFの 協力を要請している。これに対しウィ リッツは 「IPRの 友人として」仲介役を買 って出て,第 三者から構成され る調査委員会を設置 してコールバーグの告発に関する調査を行なうことを提案しだ13)。

しかし米国IPRは この提案を最終的に拒否することを決め, ウィリッツの仲介の労は実を結ばなかった。

結局,米 国IPR理 事会 は, 1947年4月 に内部調査を行なう特別委員会設置の必要性に関して米国IPR 全会員 を対象 とす る無記名投票 を実施 し,そ の結果,コ ールバ ーグの要求は圧倒的大 差で否決 され,こ の件 は一 応の決着 を見 た14)。

ところでコールバーグによるIPR告 発の際 ウィリッツは表向 きは中 立 を装 ったが,前 述の通 りIPRの 「左翼 偏向」 に対 して関心 を寄 せ始 め ていた。 そこにはカーターと彼が登用 した米国IPR及 び国際事務局員の政治的言 動,英 のIPR加 盟組 織 であ る王 立国 際問題研 究所(チ ャタム ・ ハウス)に よる国際事務局及び米国IPR批 判 という事情が絡み合っていた。

カー ターは,事 務総長就任 以来,極 東地域 にお ける米 ソ関係 の重要性 に着目し自ら数度訪ソしてソ連のIPRの 活動への参加の実現に向けて努力 した。

さ らに大戦 中は民間 団体 「ロシア救援局(Russian ReliefAgency)」 の理 事 を務め,米 ソ友好 関係 の樹 立 に も精力 を注 いだ。

ま た若年 時代 に YMCAの 活動でインドに長期滞在した経験から,イ ギリス植民地下のイン ドの政治 的将来 に も深 い関心 を寄せ ていた。

このよ うな経歴を有 するカー ターをウィリッツは 「空想的社会改良家」と呼び,「魅力的で印象深いパー ソナリティを持ち,人 々を説得する無比の能力を持っている」と述べる一 方,「人に対する判断において問題がある」人物であるという評価を下 し, 特 に 「今 日,ま たその当時で も許容 す ることがで きない共産 主義者 に対す る厚遇を行なった」と批判した15)。

ここで彼が指摘した 「共産主義者」の 一人 に,米 国IPR事 務局長 を務め1940年 に辞 任 してか らは アメ リカ共産 党系 の平 和運動 に身 を投 じたフ ィー ル ド(Frederick V. Field)16)がいたが, カーターは一貫 して フ ィール ド擁護 の姿勢 を貫 いていた。

フィール ドは米 国IPR事 務局長職を辞 した後 も理事の一人 として組織に留まるが,戦 後 この件 で ウィ リッツと会談 した際 カーターは 「彼 の政治的見解 は理事 と しての態度に如何なる影響も及ぼしていない」と主張し,フ ィールドの政 治的言動 に関 して疑問 を呈 した ウィ リッツの見解 との相違 を露 に した17)。

ウィリッツらがカーター主導のIPRに 対 して批判的見解を抱 くように な ったもう一つ の重要 な要因に,大 戦末期 のIPR国 際会議[ア トランティ ック ・シティ(1944)及 びホット・スプ リングス(1945)]に おける英米代表団 の衝 突が あった。

これ らの会議で は 日本 や中国の将来や ア ジアの植民 地の独立といった問題が主要議題 となり,「下からの」内政改革や早期独 立を主張す る米国代表団と,「上か らの」改革や宗主国の責任と漸次的独 立を主張するチャタム ・ハウスのメンバーから構成された英国代表団との 間で激 しい議論が戦わされた。

これらの会議にオブザーバーとして参加 し たエヴァンズは英国代表団の言動に関しては高い評価を与える一方,米 国代表団や国際事務局に関 してはその問題点に言及す る報告を行なっていた。

実際,ア トランティック ・シティ会議 に関する報告の中でエヴァンズは 「英国代表団は並外れた能力 と準備のよさによって特色付け られている」 と賞賛する一方,「[会 議での]一 般的関心事は,米 国IPRと 国際IPRの 区別は混乱し両者とも国際事務局によってコントロールされている,と い う点にある。

国際事務局に対 しては客観的研究に対する献身よりも同情的 ・ 改革的資質を持っているという評判が立っている」と記し,米 国代表団と 国際事務局 に対 す る批判 に同調 す る見方 を示 した18)。

このよ うな大 戦末期 に噴 出 した国際事務局批判 は1946年 初頭 の カーター事務総長辞任 へ と発展 した。

そ こには,特 にチ ャタム ・ハ ウスに よる厳 し い批判 とカ ーター辞 任を求 め る強 い圧力 があ っだ19)。カー ター辞任 に対 しては社会科学部の職員たちも歓迎する一方,カ ーターの後を継いだ新事務 総長 ホ ラン ド(William L. Holland)に 対 しては当初か ら高 い評価 を与え, 今後のIPRの 動向を注意深く見守る姿勢を取った。

また同じ年には,RF とIPRの 関係 に転機を齎す財団の新 しい助成方針が発表されている。

そ の内容 は,RFは 国際関係 の領域 を専門 とす る民 間団体 に対 す る一般 助成 を今後は漸次的に打ち切ること,但 し,優 れた価値を持つ個別研究事業に 関す る助成 申請 は受 け付 け る,と いう ものであ った20)。

このよ うにIPRの 「左翼 偏向」 を巡 るRF側 の嫌疑 には,カ ー ター指導 体制 に対 す る批 判が大 き く関わ って いた。

カー ターは信条 的に はアジアの 民衆に共感を寄せるリベラル左派に属していたが,冷 戦的状況が深まる中, ソ連との友好関係樹立を志向した彼の「容共的な」政治姿勢はRF関 係者 に受 け入 れ られなか った。

また時 と して野心 的で独走す るカ ーターの指導 ス タイルは,チ ャタム ・ハウスによる米国主導のIPRに 対す る批判 と相 俟って,彼 に対する否定的評価に繋がったと言える。
http://www.asyura2.com/19/warb23/msg/844.html#c21

[戦争b23] 今明らかになりつつあるヨーロッパによる対ロシア制裁の本当の代償(マスコミに載らない海外記事) HIMAZIN
22. 2022年6月27日 20:34:24 : bsMmyhdJgs : YVhhZzJzTThBQXc=[5]
❸ IPR「 左翼偏向」嫌疑浮上後のRFの 助成活動(1946-1950)

1946年,IPRか ら今後5年 間に及ぶ助成申請がRFに 出されると,社 会 科 学部 は慎重 な検 討 を開始 した。 そ れを象徴 したのが,米 国IPRの 元理 事4人 に対するインタビュー調査の実施であった。

彼らは一連のインタビュー の中で,米 国IPRの 抱える問題として理事会が組織運営の決定権を事実 上持 たず一部 のス タッフによ って重 要決定が なされ る点,そ の よ うな組織 運営はIPRの 「研究の客観性」や 「評判」 にとってマイナスになってい
る点 を挙げた。

他方4人 とも,IPRに は今後 も果たすべ き使命がありRF が援 助 を打 切 ることはIPRの 事業 を頓挫 させ るこ とに繋が ると述べ,RF はIPRを 「一握 りの人々によって運営 されない組織」へ と改革する努力 を しつつ助成 を継続 して行 な うべ きであ ると主張 した21)。

その後 この申請 は執行委員会で審議にかけられるが,そ の場でウィリッツはコールバーグ のIPR告 発 の件 に触れ,彼 を 「強引 な手法 で引裂 く人物」 と呼 びなが らも 「IPRに 対 す る嫌疑 は完全 に晴れた とは思わ ない」 と述べ た。他方 ウィリッツは先 の米 国IPR元 理事達 と会談 内容 を報告 して,「 我 々が取 るべ き 賢明な方策は,[IPRを]浄 化すると同時に存続させ ることにある」と主 張 した。

結局 ウィリッツは,1946年 の新助成方針 に沿 う形でIPRに 対す る最終助成としてこの申請を推薦し,執 行委員会もこれを了承しだ22)。

この助成決定後 も,社 会科学部の職員はIPR関 係者 と頻繁に接触 して IPRの 動 向を注視 した。

例えば1948年5月 に ウ ィリッツは米 国IPR理 事長 ウィルバ ー(Ray Lyman Wilbur)と 会見 す るが,そ の席 で ウ ィルバ ー は 「我 々の中の何 人か は"ロ シアの宗教"に 魅 せ られてい た」 と述べ る一方, RFが これか らもIPRの 活 動 に関心 を持つ ことを訴え た。

これ に対 しウィ リッツは国際IPRを 「比類 な き組織」 と評 価 し,今 後 は一般助 成 ではな く個別研究事業に関して助成を検討していきたいと述べた23)。

また8月 に はエヴァンズがホランドと会合し,チ ャタム・ハウスが要求するように国 際IPRの 活動は各国支部による研究を中心 とすること,ま た国際事務局の権能を各国支部間の連絡 ・調整役に限定することを確認 した24)。

さて1949年 初 頭,国 際IPRは ア ジア諸国 の近代 化 を歴史的 に比較 検討 するプロジェクトを企画してRFに 助成申請を行なうが,社 会科学部はこ の研究事業の意義を評価 し執行委員会に推薦することを決めた。注目すべ きことに,こ の 申請 を審議 した執行 委員会 の会 合でRFの 大物理 事二人が助成認可に関 して影響力ある発言を行なっている。

その二人の理事とはロッ クフェラー三世(John D. Rockefeller,3rd)と ダレス(John Foster Dulles)25) であり,彼 らからIPRを 巡る 「イデオロギー的問題」 は解決されたのか という質問 が出 された。

この質 問に対 しエヴ ァンズは これ までの経緯 を説 明し,ホ ランドはチャタム・ハウスからも信任を得,彼 の指導体制を強化 する上でもこの申請を真剣に検討すべきであると答えた。

しかしダレス理 事はIPRの 持つ 「潜在的可能性は評価す る」 と述べなが らも,刻 々と変 化する極東情勢の中で歴史的研究 は 「後ろ向き」であり,RFの 助成金は 国際会議や教育的活動に充当されるべきであると発言 した。結局この見解 が多数派意 見 と して受 け入れ られ 申請 は却下 された26)。

また同年 には,カ ー ターに登用 されて国 際/米国IPRの 活 動 に携わ った 二人の極東問題研究者に関わる助成申請の推薦を社会科学部が躊躇 した点も注 目され る。

その一人 は 『パ シフィック ・アフェアズ』誌前編集長のオー エ ン ・ラテ ィモ ア(Owen Lattimore)で あ った。米 国IPRは デ リーで 開催される米印関係会議の参加メンバーの一員 としてラティモアを選び旅費 助成を申請するが,エ ヴァンズらは彼が内陸アジア地域の権威であること は認めつつ も,彼 の 「政治 と学 術研究 を混 同す る傾向」 を挙 げて推薦 を躊 躇った27)。

二人目は 『ファー・イースタン・サーベイ』誌の編集長を務め た フ ァー レイ(Miriam S. Farley)で あ った。米 国IPRは 新規 出版事 業 の 一環として 『ヤルタ会談以降のアメリカの極東政策』の執筆者 にファーレイを選定 し出版 助成 を申請 した。 これ に対 しエ ヴ ァンズは,フ ァー レイが 大戦末期に米国IPRを クローズ ドショップ化 しCIO系 労働組合の傘下に 入れた中心人物で あった点 に着 目した。

またRFの 人文科学部副部長 ファー ズ(Charles B. Fahs)の ファーレイに対する否定的な評価,即 ち 「彼女は 党派路線に近く,政 府関係職のポストへの推薦は揮られる」を受け入れ, ウ ィリッツの同意の下 に この申請を却下 した28)。

この二人 の人物 に対す る上述 の評価 は,社 会科 学部 の職員 が どの程度左 翼的な政治信条を許容するかの"リ トマス試験紙"で あったとみなされる。

ラテ ィモアは1930年 代後半以 降,日 本 の中国侵 略や西欧植民地 支配 を批判 する論陣を張り,ま たファーレイの場合は,戦 後SCAP民 政局の 一員と して労働改革 を通 じた日本 の民 主化 に携わ った経 歴を有 していた。

両者 と も教条主義的なマルキストではなく,ア ジアにおける帝国主義の即時終焉, 経済的改革 を通 じた貧困 問題 の解消 とい った社会 ・経済的正 義の実現 にコ ミットし,ま た自己の解釈を臆せず主張する専門家としての自覚に満ちた 知識人であった。 しか し彼らが信奉する左翼的 リベラリズムは,RFの 職員た ちにと って許容で きる範 囲を超え ていた と言え よ う。

ところで,こ の間にもIPRはRF関 係者と接触 し協力関係を維持する努 力を行なっている。例えば1949年5月,米 国IPR理 事会 はロックフェラー 三世を米国IPR理 事長に擁立する決議を行ない,コ ロンビア大学のボー トン(Hugh Borton)を 介 して理事 長就任 の意 向が打診 された29)。

また1950 年1月 には,IPR創 立25周 年記 念パ ーテ ィに当時 国務 次官 補 を務 め次期 RF理 事長 に就任するラスク(Dean Rusk)を 招 くが,そ の場で米国の極東政策に関する演説を行なったラスクは 「IPRに よる研究 と情報は近年ワ シントン政官界にとって貴重なものであり続けたが,今 後は今までの4倍も貴重なものになる」と述べてIPRの 活動に賛辞を呈した30)。

と こ ろ が,1950年2月,マ ッ カ ー シ ー(Joseph McCarthy)上 院 議 員 が 国務省に対する攻撃を開始 し,そ の過程で ラティモアと,国 際/米国IPR の要職を歴任 し当時アメ リカ政府 の国連特使を務 めていた ジェサ ップ(PhillipC. Jessup)31)の二人 を米 国の対東 ア ジァ政策 を親共 産主義路線 に導 いた張本人 で ある とい う告発 を行 うと,IPRの 「左翼 偏向」問題 は ワシントン政 界を巻 き込 む政治問題 へ と膨 れ上が った32)。

その最 中の5月,コ ー ルバ ー グの告発以降 は一般企業や個人 か らの寄付金が減少 し財政 難に直面して いた国際IPR/米 国IPR双 方 か ら今後2年 間に及 ぶ緊急助成 の 申請 が RFに 出されるが,こ の申請に対 してRFは 極めて入念な審査活動を開始した。

IPRの 窮状を熟知 していたウィリッッとエヴァンズは,正 式の申請書類提出以前 にIPR関 係者 と協議 を持 ち執 行委員会 に推 薦す る方針 を固 めた。 彼 らは,6月 初 旬 にホ ラン ドと会見 し,IPR関 係者 を招 いて この緊急助成 が持つ 意味 合 いを説明 す る機会 を持つ こ とを提案 した33)。

これを受 けて彼らとホランド及び米国IPR幹 部との間で6月21日 に会合が持たれるが, ウ ィリッツはその場 で,IPRは なぜ援助 す るに値 す るのか,今 後RFに 代 わる助成元 を見出す可能性 が あるのか,IPRの 「左翼偏 向」 に関す る質問 にどう答えるべ きか とい った単刀直入な質問をIPR関 係者に投 げかけ, 忌愕 な き意見交換 が行 なわ れた34)。

そ して直後に開か れた6月23日 の執行 委員 会で は ウ ィ リッツの推 薦 の下 に この 申請 が審 議 された。 そ こで は, IPRに 対する嫌疑が社会的な注目を浴びる中,よ り慎重な調査が必要であ るという意見が大勢を占め,次 回執行委員会の場で再審議されることになっ た35)。

この決定を受 けて,ウ ィ リッツとエ ヴァ ンズはRFの 持つ 人脈 を駆使 し て情報 収集 を行 な うが,そ の過程でRF理 事 の一人 で前 国務次官補 ラベ ッ ト(Robert Lovett)は 今 後IPRを 巡 る新 た な嫌 疑が浮 上す る可能 性 を指 摘してIPRに 対する緊急助成に疑問を挟んだ36)。

またラベットはウィリッ ツとの会見 の中で,国 務次 官補 ウ ェ ッブ(James E. Webb)と 接触 し国務 省のIPR関 係者に対する見解を打診す るよう促 した。

この提言を受けて ウィリッツはウェッブに書簡を送 り,戦 時中国務省関係者がIPR国 際会 議 に出席す るなど交流が あ った点 に言及 し,IPRに 対 す る同省 の 「内密の 判 断」 を仰 いだ37)。

これ に対 しウェ ッブは,IPRの 内情 に詳 しい 「信 頼す べき同僚の一人」がIPRに 関する詳細 な研究を行ない後 日連絡する旨の返信を出すが38),そ の後RFと 接触 したのは当時国務省顧問を務めていた ダレス理事 であ った。

9月 中旬 ラスク理事 と電話会談 を行な ったダ レスは,IPRの 価値に関しては財団自身が判断すべきであると前置きした後,IPR には 「困難で現実的な問題を研究するには未熟で理想主義的な人々」が集まっており,ま た 「アジアでは熱心な改革者による研究は共産主義者によっ て利用され,情 勢は一触即発の状況にあるため,専 門家,即 ち成熟した人々以外干渉すべきではない」と述べてIPRに 対する手厳しい見解を示した39)。

上述 のような経緯 を経て9月22日 に執行委員会が開かれた。

この場でウ ィリッツは6月 か ら9月 にか けて の社会科 学部 によ る情 報収集活動 の説明を 行なう一方,IPRの 過去及び現況に関 してコメントした。 ウィリッツは,カーター指導下のIPRは 「ある種の共産主義者を奇妙にも厚遇 した」が,彼やフィールドはIPRの 活動にもはや携わっておらず,ホ ランド指導下 の現執行部は 「[アメリカに]忠 誠で有能」であると述べた。

そして彼はIPRが 今後有益 な役 割を果 たす上 で,論 争 的問題 に対 して は中立 の原則を 維持 す ること,研 究 ・出版事業 において厳格 な基準 を設 ける こと,世 界中 の地域研究に従事する機関と緊密な協力関係を結びつつ 相互 コミュニケー シ ョンの媒体 として機能すべ きであ るとい った点 を指摘 した。

さらにウィ リッツは,万 一IPRが 消滅 した場合,ア ジア諸国が協調的に参加する新たな国際主義 的民間団体 の誕生を保証 す ることは出来 ない と述べ,IPRの 助成 申請を推薦 した。

結局,執 行委 員会で この申請 は認 め られ,そ の後2年 間に渡 る米国/国際IPRに 対す る緊急助成 が行 なわれ ることにな った40)。

しか し翌年IPRが 上院司法 委員会 の調 査対象 とな り,続 いてRFが 下院 委員 会の調査 を受 け ると,RFはIPRと の関係 の再 吟味 を余儀 な くされた。
http://www.asyura2.com/19/warb23/msg/844.html#c22

[戦争b23] 今明らかになりつつあるヨーロッパによる対ロシア制裁の本当の代償(マスコミに載らない海外記事) HIMAZIN
23. 2022年6月27日 20:42:18 : bsMmyhdJgs : YVhhZzJzTThBQXc=[6]
❹ 米議会委員会 による調査活動 とRF

1951年2月,マ ッカ ラ ン(Pat McCarran)上 院 議 員 を委 員 長 とす る上 院司法 委員会国 内安 全保障小委員 会(通 称 マ ッカラ ン委員会)の 調査員 がマ サチ ューセ ッツ州 リーに あ るカー ターの私 邸内 に保管 されて いたIPR関係書 類を捜査礼状 な しに押収 した。

同委員会 は入念 な分析 作業 を経 た後, 5ヶ 月後の7月 にIPRを 調査対 象 とす る聴 聞会を開催 す るに至 った41)。

マッカラン委員会の活動に対しては,ウ ィリッツが 「我々が召喚される か否か はまだ明 らかで はない......必要が生 じた ときのため に書類 を準 備 し てお くべ きであろう」 と述べるなど,RF関 係者 は当初か ら重大な関心を 抱 いて見守 った42)。

この予想通 り,9月 にはマ ッカラン上院議員か らRF理事長宛 にIPRに 対す る助成 の記録 の送 付を要求 す る書簡 が届 き,RFは この要 請 に即座 に応 じてい る43)。

以 後 も聴聞会 の進行 に合 わせて社会科学部は証言 録 を逐次 入手 し,RFが 言及 された箇所 を検討 す る作業を行 った。

ウィリッツらの懸念にも拘らず,結 局RF関 係者はマッカラン委員会の 聴聞会 に召喚 され ることはなか った。

また聴 聞会終了後上院 に提 出 した報 告書において,同 委員会はIPRを 「アメ リカの極東政策を共産主義的 目 的に導いた媒体機関」と糾弾する一方,IPR指 導部は 「IPRの助成者と援 助者に対して,組 織の真の性格や活動内容に関して欺く努力を行なってき た」 と述べるに留まった44)。

しか し1952年 か ら1953年 にかけて免税権を有 する財団を初めとする非営利団体の活動内容を調査するため設立 された二 つの下院特 別委員会 が活動 を開始 す ると,RF関 係者 は聴 聞会へ喚 問 されるな ど直接対応 を迫 られ る ことにな った。

1952年4月 に活動 を開始 した カ ックス(Eugene E. Cox)下 院議 員を委員長とする 「財団および同種の組織を調査する特別委員会」(通称カックス 委員会)は,教 育及 び篤志事 業に従事す る財団 がその資金を 「合衆国 の利 益 や伝統 に反 す る非米的か つ体制転覆的 な活動」 に使用 して いるか否 かを 調査 す る目的で設立 され た,同 委員会 の聴 聞会で はRF幹 部3人 が証言 を 行な ってい る。

12月9日 の聴 聞会 で は,RF前 理事長 バ ーナー ド(Chester I.Bamard) とロックフェラー三世 の二 人が証言 を行 な った。

この証言 の中でバーナー ドは,助 成活動 とアカデ ミック ・フ リー ダム(学 問の 自由)と の関係 につ いて コメ ン トし,RFは 被助成 者の政治 的信条 を助成認可 の判断基準 に し たことはなく,研 究者が自己の見解を表明する自由は尊重してきた点を強 調した。

他方,彼 はアメリカ社会は 「安全保障」の問題に直面していると 述べ,共 産主義が イデ オロギー的 に民主 主義国家 を破壊 しよ うという陰謀 を企てる限り,ア カデミック・フリーダムと安全保障の 「妥協点」を見出すべ きで ある との見解 を示 した。

続 いて証言 したロ ックフェラー三世 は, 「祖父である創設者が意図 した通 りRFは 助成活動を遂行 して きたといえるか」 という委員会の質問に答えて,RFの 社会科学のプログラムは異な る専門分野 を持つ 優秀 な一群 の人 々によって運営 され,ま た時勢 に合致 す るように工夫がなされて きたと述べた。

そ してロックフェラー三世 は, RFは 「資本主義体制を転覆する意図を持 ったプロジェク トや人々に対 し て援助したという懸念をかって抱いたことがあるか」という質問に対 して はきっぱりとこれを否定 した45)。

この二人の証言者にもましてRFの 立場を力説 したのは,当 時RF理 事 長に就任 したばか りのラスクであった。

ラスクは,戦 時中IPRは 政府機 関にアジア情勢に関する情報や知識を供給 しその研究 ・出版物の大部分に つ いては何 ら疑問が持 たれていな いこ と,ま た 「判断及 び客観性」 の点で 疑問が持たれたスタ ッフはすでにIPRか ら去 り,RFは 現執行部の下で IPRが 「公共 の利益」 に奉仕出来 る と考 えて いる と述べ,1946年 以降 の助 成の経緯を詳しく説明した。

またラスクは,マ ッカラン委員会の聴聞会で IPR関 係者数名が共産党 との関係について証言を拒んだ点 に触れ,「 後の 調査活動 によ って齎 されたIPRに 関 す る情報 をRFが 助成決定 の時点 で有していたならばIPRに 対 して重大な嫌疑を抱いたであろうし,疑 問に満 足のいく形で答え られなか った場合は助成の停止 も有 り得たであろう」と 述べ,今 後とも議会委員会の調査に注意を払っていく意向を示した46)。

このよ うに上述 のRF幹 部三名 は カ ックス委 員会の活動 に対 して協 調的 な姿勢 を示 した といえ るが,元 理事 長 フォスデ ィックの場合 は声 明文を通 して同委員会の活動を批判した点が注目される。

フォスディックは,財 団 がかって助成した少数の団体や個人が 「共産主義的」という嫌疑を受けているか らといって財団の活動の意義が疑問視され るべきではないと主張 し た。 さらに 「忠誠」を 「コンフォー ミティ」と同一視する傾向がアメリカ社会に深く根付いているが故に慣習的解釈とは異なる見解に 「共産主義的」 というラベルを貼る誘惑に対して抵抗しなければならないと述べ,多 様な見解を受 け入れ る余裕 こそアメリカの伝統であることを強調 した。

そして 彼は声明文の結びで,従 来財団は保守的な人々の手中にあるという非難を 浴びてきた点に触れつつ,急 進主義の促進という反対方向からの非難が自 分 の存命中 に出され るとは予想 しなか った と述べ て抗議 した47)。

約半年 余 りの調査 活動 を経 た後,カ ックス委員会 は1953年1月 に下 院に報告書を提出した。その中で同委員会は 「財団はアメリカ的生活の重要な 一機関」として多様な領域で重要な貢献を果たしており,文 明社会における価値を十分に証明 してきたと述べた。他方,「 共産主義者及びその同調者と組織への助成」 という問題に関 しては,そ の 「不幸な事例」の一つと して フィール ドに言及 し,「共産主義者が財団から助成金の獲得に成功 し た点は結論として受け入れられる」とした。

しかし同報告書は,そ のよう な助成 は現在 とは異 なる政 治状 況下で行 われ,財 団の助成 金の総額 に比 して 「驚 くほど小 額」で ある とい う見解を示 した48)。

このようにカックス委員会の報告書はRFに とって穏当な内容 を持つものとな った。 しか し,委 員会 のメ ンバ ーの一人で あ った リー ス(Carroll B. Reece)は 更 な る調 査活動 の必要性 を訴 え,1953年5月 に彼を委員長 とす る新 たな下 院特別委員 会(通 称 リース委員 会)が 創設 された。 リース は共 和党全国委員長を務めた経験を有する名うての反共主義者であり,こ の委 員会 の活動 は当初 よ り保守的 な性格 を有す ることが予想 された。

実際 リー ス委員会は,聴 聞会を数回開催した後,財 団関係者を喚問することなしに7月 に突然聴聞会 の終了 を宣言 す るなど,財 団 を敵対視す る姿勢 を取っ た。

これに対 し,RFは リース委員会に声明文を送付 して自らの立場を明ら かにした。理事長ラスクの名で出された声明文は,冒 頭で聴聞会の場で財団の主張を述べる機会が与えられなかったことに遺憾の意を表 した。

そ し て,RFの 理事及び職員の 「高潔さ,愛 国主義,責 任感,公 共の利益に対する献身」は疑う余地がないことを強調し,聴 聞会で挙げられた財団に対 する個々の批判に対 して詳細な反駁を加えた。

特に助成者の表した見解に対 して財団 自身 が責 任 を負 うべ きという批判 に対 しては,以 下の ように反 論した。

即ち,財 団が助成者の研究に対して規制を課すことは自由な思考 を疎外す ると同時に財団 の側 か ら人間の知識 の全領域 において一種の 「公的教 義」を確立 す るこ とを意味 し,RFは そのよ うな役割 を果 たす意図 も 能力も持ち合わせていないと述べた。

また財団が 「非米的かつ体制転覆的 な活動」を促進しているという非難に対しては,共 産主義者に対して助成 は行なわないと宣言する一方,RFは 「ノンコンフォー ミス ト」の見解は 人間の知識 の進歩 にとって重要 であ るが故 に奨励 して きた こと,さ らに一 般の市民組織が 「体制転覆的」の意味を自己定義しつつ他の市民に接する ことは相互 信頼を柱 とす る民主主義社 会の維持 に とって脅威 になると述べ て反論した。

そしてIPRへ の助成については,そ の大部分はIPRに 対す る嫌疑が浮上す る前 になされた ものであ るこ とを指摘 し,1950年 の緊急助 成も慎重な審査を経た後になされたものであると述べ,マ ッカラン委員会 が主張する 「IPRの体制転覆的な性格は完全に証明された」という見解に RFは 与 しない と言明 した49)。

予想 され たことなが ら,リ ース委員会 の報告書 はRFを 含 む主要財団 を 厳しく批判する内容となった。同報告書は,財 団が社会科学及び教育の分 野で行使 す る影響 は巨大 であ り,特 に一握 りの財 団間の連携 は 「知的 カル テル」を形成し,社 会科学研究に対して 「事実上のコントロール」を及ぼしていると断定 した。

そ して財団が推進する社会科学研究は左翼の見解を 支持する「顕著な傾向」が見られ,特 に国際関係の領域で財団は「国際主義」を標榜してアメリカのナショナリズムの価値を既める一方,国 際問題 に対 しては 「左翼的アプローチ」を取 る傾向があり,「体制転覆的な」思想や概念の伝播に尽力 したと非難 した。 またIPRへ の長年 に渡 る助成に 関しては,マ ッカラン委員会の結論を踏襲しつつ 「財団の怠慢の最も悲劇 的な例」と呼んで糾弾した。

具体的には 「プロパガンダ組織」であるIPR に対 してコールバーグの告発以後 も助成を続けたことは,RFが 「十分な 警戒 を行 なわず事実 に直面す る こともなか った」 ことを示 してい ると叱責し,先 の声明文におけるRFの 説明を 「不充分なもの」として斥けた50)。

このリース委員会の活動に対して,ラ スク理事長はRF年 報の中で 「告 発 を目的 とす る調査 は議会 の調査活 動の適切 な役割 を超え,被 調 査者の権 利や特権を侵害す るものである」 と述べて批判 した51)。

他方,ラ スクの IPR観 が この間微妙に変化をみせて きている点 は注 目される。

ラスクは 1950年 の緊急助成決 定直前 に当時 のRF理 事長 バ ーナー ドに宛 てた書 簡の 中で,IPRは 過 去25年 間,太 平洋諸国 間の理解 と友好 の促進 に 「際立 った 貢献」を行ない,「IPRは その地位を回復する機会を与え られ,こ の困難な時期に特別の同情を受けるに値する」 と述べて助成認可を支持 した52)。

と ころが カ ックス委員会 での証言(1952年12月)を 経 た後,IPR支 持 者 と の通信の中では 「IPRが 置かれている状況はRFに とって厄介なもの」で あ り,RFの 立場 に関 して は同委員 会の聴 聞会 におけ る自分 の証言 を読んで欲 しいと述 べて い る53)。

そ して1953年5月 にカナ ダ国 際問題協 会(IPR カナダ支部)の 委員長と会見した際,ラ スクは 「現在の政治的雰囲気」の下,IPRは 極東地域の政治的問題に関する公衆の理解の促進に 「建設的な 貢献」 を行なうことはできないし,ま たIPRに よる研究は 「現時点では 政治的価値 が疑わ しい」 と述べ,IPRの 活動 の有効性 に関 して否 定的見解 を表明す るに至っ た54)。

重要なことは,こ のような見解は同じ頃,他 のRF幹 部の間でも共有さ れ るよ うにな って いた点 である。

1953年2月,ホ ラ ン ドは解 散 も視野 に入 れた上で今後の組織のあり方を検討する委員会を創設 し,RF関 係者によ るこの委 員会へ の参加 及 び運営費 用の援助 を請 うが55),こ の要請 に対 して ウ ィ リッツとエ ヴ ァンズは,RFは その よ うな委員 会へ の参加 は控え るべ きであるという点で意見が一致 し,「同情 しつつ も要請には応えないという態度」を取った56)。

また,同 年10月のロックフェラー三世とウィリッツ, エヴ ァンズとの会合で この三 名 は,「 現在 の状況 で は米 国IPRは 徐 々に衰退す る道を歩むべきであり,RF関 係者は直接的にせよ間接的にせよ関わることな く,自 然の成 り行 きに任す べ きであ る」 ことで合意 をみた57)。

このよ うなRFのIPR観 の変化 に関 して,米 国IPRは1954年 の メモ ラ ン ダムにおいて次 のよ うな興味深 い見解 を示 した。

ローズヴェル ト及び トルーマン政権の極東政策に関する調査と攻撃...... 一部 の上院議員 に よる最近 の党派的攻撃,そ してカ ックス及び リース委 員会 による財 団 自体 に対 す る調査,こ れ らすべ ては,財 団の職員や理事 達が アメ リカの ア ジアにおけ る政策 に影響す る論争 的問題 に関す る広範 な議論を惹起する組織やプログラムを援助することに対 して,決 定的に抑制す る効 果を もた らした58)。

このメモランダムの発表以降 も,ホ ランドを中心 とするIPR執 行部は 組織改革を巡 る動向を社会科学部に報告し,RFと の接触は引き続き行な われ た。

しか し,1961年 に財政 難の 中で国際/米国IPRが つ いに解散 に追 いこまれるまで,RFはIPRに 対 して再び援助の手を差 し伸べることはなかった。
http://www.asyura2.com/19/warb23/msg/844.html#c23

[戦争b23] 今明らかになりつつあるヨーロッパによる対ロシア制裁の本当の代償(マスコミに載らない海外記事) HIMAZIN
24. 2022年6月27日 20:45:44 : bsMmyhdJgs : YVhhZzJzTThBQXc=[7]
❺ 結語

本稿で検討 したよ うに,RFとIPRの 協力/緊張関係 には,戦 後 アメ リカ の反共主義的政治風潮が大きく関係 していた。

後年ラスクが述懐したよう に,カ ックス及びリース委員会はマッカーシイズムの派生物であり,最 大 の皮肉は資本主義や自由企業の産物であるRFが 自らの助成活動を通 じて それ らを転覆させようとしているという非難を受けたことにあったと言え るが59),RFは 国内共産主義告発="赤 狩り"的 風潮から超然としていた わけではなか った。

RFはIPRの 「左翼偏 向」嫌 疑浮上後 もIPRの 存在意 義 を認 めて2度 に渡 る助成 を行 な ったが,財 団 自身 が米議 会委員会の調査 対象 とな り社会的評判 が脅威 に晒 され る中,IPRと の関 わ りを避 けるよ う になった。

ワシントン政界にも人脈を有するRFがIPRと の協力関係解消 の方向へ向かったのも,広 報活動上必然的な選択であったと言えよう。

他方,冷 戦初期のRFとIPRの 協力/緊張関係のエピソードの重要性は, 民間団体 によ る社会科学 的知 の産出や普及 におけ る財団の役割 に求 め られ よう。

RFは"赤 狩り"時 代においても社会科学研究において論争的な問 題を積極的に取り上げる必要性を強調する一方60),一部のIPRス タッフが 抱いた国際問題に対する現状変革的な思考に対 しては十分に開かれた態度を有 していた とは言 い難 いよ うに思 われ る。

またIPRの 活動 はRFの 助成 金に大 きく依存 していたが,RF関 係者 は助成打 ち切 りはIPRの 活動の停 止に繋がるという冷徹な認識を有する一方,IPRは 財団か らの助成が民間 団体の活動の生命線であることを訴えていた61)。

RFはIPRの 研究 ・出版 事業 に直接干 渉 しなか ったが,助 成金 は社会科学 部の推薦 及 び執行委員会 の認可 に よって獲得 された ことを鑑 みれ ば,あ る意 味 においてRFはIPR の学術研究 活動 に間接的支配 を及ぼ して いた と言え るので はな いか。

と ころでRFは1950年 代 を通 じて,篤 志事 業 を冷戦下 の国 際政 治状況 に適合 させ,西 側陣営 の結束 を固め ることを 目的 とす る機関 や団体 に対す る助成活動を展開 していった。

その例として国際文化会館 とアジァ ・ソサエティーの設立(前 者は1952年,後 者は1956年)や ジャパン・ソサエティー復興へ の資金援 助が挙 げ られ るが,こ れ は 日本を含む ア ジア諸 国を親米的な友 好国 家 の一 員 にす る ことを意 図 した 「文 化政 治(cultural politics)」 へ のRFの 積極 的関与 を意味 した62)。

上記 の民間機 関へ の助 成 はまた,米国 とアジア諸国の間の文化交流や有識者の意見交換 と協力の場 として, IPRに 代わ る新 たな制度的枠組み の形成 を目的 とした もの とみなされ得 る。

このことは,RFが 助成活動の規準に置く「客観性」や 「有用性」,「科学性」といった概念が,国 際政治環境に大きく影響を受けるものであること を如実 に示 す もので あ った と言 え よう。

http://www.asyura2.com/19/warb23/msg/844.html#c24

   

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