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大倉太郎 keWRcZG@mFk コメント履歴 No: 100000
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[ペンネーム登録待ち板6] 立憲民主党:「政権担当能力なし」と見なされ !


立憲民主党:「政権担当能力なし」と見なされ自滅…
立憲の「提案型野党」が自公政権を利するだけに終わったワケ

*立憲は野党の中で「頭一つ抜け出した存在」と言えたはずだった
改めて昨秋の衆院選から総括してみたい。
立憲は「公示前議席を減らした」というが、同党が前回の2017年衆院選で獲得したのは、わずか55議席。野党第1党としては戦後最少の議席数だった。そこから同党は、選挙を経ずに国民民主党の大部分や社民党の一部の合流を経て所属議員を増やし、昨秋の衆院選の公示前には自らの基礎体力以上に議員数が膨らんでいた。それが選挙を経たことで、地力に欠ける党の基礎体力並みの議席数に落ち着いただけのことだ。
一方の日本維新の会について、メディアは「大躍進」というが、同党が2017年の衆院選で獲得したのは、わずか11議席。この選挙は小池百合子東京都知事率いる「希望の党」が存在していた特殊事情があり、維新は党の基礎体力を大きく下回る惨敗を喫していた。昨年の衆院選では、希望の党の消滅で従来の維新支持層が回帰し、元の勢力を取り戻したに過ぎない。
公示前議席を減らしたとは言え、立憲の野党第1党としての力は、衆院の議席という「リアルパワー」の面では、民主党が下野した2012年以降で最も強いものとなっていた。
立憲が2021年の衆院選で獲得した96議席は、民主党の下野後の野党第1党の獲得議席としては最も多い。また、野党第2党の日本維新の会は衆院選で議席を伸ばしたが、野党第1党の立憲と、第2党の維新との議席差(55議席)は、民主党下野後の選挙では最も大きい。
昨年の衆院選は「多弱」と言われた野党の中で立憲が頭一つ抜け出し、野党の中核として定着し始めたとの評価が可能な結果だった。
それでもメディアは、公示前議席との比較という1点に着目して「立憲惨敗、維新躍進」という印象を演出し続け、「敗因」の十分な分析もないまま「批判や抵抗ばかりの姿勢」「共産党との『共闘』」に容赦ない批判を立憲に浴びせ続けた。発足したばかりの泉執行部は、こうした批判に対抗するには経験が浅過ぎた。自ら選挙結果を冷静に分析する前に、必要以上に「惨敗」に振って評価してしまい、それが彼らの党改革を「提案型野党」という間違った方向に向かわせてしまった。

*泉健太代表のプロフールとは ?

来歴[編集]
生い立ち[編集]
出生[編集]
1974年(昭和49年)、北海道札幌市北区に生まれ[3]、石狩市花川で育つ[3]。家族は7人で、4人兄弟の末っ子であった[6]。
小学校から野球を始め、甲子園を目指していた[6]。
政治家を志す[編集]
政治家を志した原体験は、小学生のときだった[7]。隣家に足の不自由な高齢女性が住んでおり、泉はその家の雪かきを代わりに行った[7]。すると、女性はお礼に自家製のヨーグルトを泉に与えた[7]。
「誰かが喜んでくれることの喜びが原体験になっている気がする」と後に語っている[7]。
政治が変わりうる実感[編集]
また、同じく小学生だった1983年(昭和58年)の北海道知事選挙では、既得権益によらない「横路孝弘と勝手に連帯する若者連合(勝手連)」という流行が起き、無所属の横路孝弘[注 2]が道知事に就任した[7]。
泉は「市民の力によって政治が変わる」ことを感じたという[7]。
父・泉訓雄[編集]
父親の訓雄(のりお、2011年3月12日に74歳で死去)[8]は保守的な政治風土のなかで町内会長のような役目を務めており、自宅の居間には地域の人々が集まって様々な雑談のほか、密議や謀議を行っていたという[7]。訓雄は2003年、2007年の石狩市議会議員選挙に当選した[9]。
泉は訓雄について「地域を回って相談に応じることには熱心だったが、政策力はほとんどなかったのではないか」と評し、反面教師として見ていたという[7]。
青年期[編集]
高等学校(札幌開成高等学校[10])では、生徒会長を務めた[11]。
京都府の立命館大学法学部へ進学し[10]、関西学生弁論討論交流会会長、全日本学生弁論討論交流会会長を務めた。
学生時代も政治に関心を持っていたが、泉が「正しい」と思う勢力が衆議院総選挙では負け続けていた[7]。「なぜこの国では自由民主党以外の政党が育たないのだろう」と考えていた[7]。
また、大学時代には「政治家以外にも世の中をよくする仕事はたくさんある」とも感じた[7]。市長選挙の公開討論会を実現する運動に関わり、投票率を上げるための活動も行った[7]。NPOやNGOの活動を行うことも模索したが、「仕事にするのは難しい」と感じて諦めたという[7]。
大学卒業後は、民主党の参議院議員であった福山哲郎の秘書を務めた。
2021年11月30日の代表選挙では、ともに決選投票に残った逢坂誠二を抑え党代表に選出された[44][45]。12月1日、泉は党役員人事の骨格を固め、西村智奈美を幹事長に、逢坂誠二を代表代行に、小川淳也を政務調査会長に、馬淵澄夫を国会対策委員長に、大西健介を選挙対策委員長に起用すると発表した[46]。12月4日、福岡市で開かれた党福岡県連大会で、「執行役員会は12人で構成する。6日の両院議員総会で男性6人女性6人の執行役員を発表する」と述べた[47]。12月6日、党は執行役員12人の人事を公表。泉は公約を果たした。
2022年6月14日、立憲民主党の有志議員が自衛隊員の処遇改善を目的に同党前代表の枝野幸男を会長とする「自衛隊員応援議員連盟」を発足させ、安住淳や玄葉光一郎、野田佳彦らと共に泉も呼びかけ人の1人となった[50][51]。
同年7月12日、第26回参議院選挙で改選議席を大幅に下回り、また日本維新の会にも比例代表票で後塵を拝する敗北を喫した事に対し党勢回復を目指す考えを表明し、併せて「いつ次期総選挙があるか分からない。」と代表を続投する考えを示した[52]。また、同選挙期間中に安倍晋三元内閣総理大臣が銃殺され、岸田文雄首相が国葬を行うことを決定したことに対し、当初「冥福祈り静かに見守りたい」との談話を発表していた[53]。しかし22日、「国会での説明や審議もない状況の中で、政府の決定には賛同しかねる。」と反対姿勢に転じた[54][55]。
8月26日、幹事長に岡田克也らベテランを起用する新執行部を発足させ、その理由について「政権党を目指す立憲民主党の姿をもっと強く打ち出す」狙いがあると強調した。また、かつての民主党や民進党で設置されていた次の内閣を発足させる意向を表明した[56]。


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