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地下に潜った土竜が蝶に km6JuoLJkPaCwYK9k3mXs4KqkrGCyQ コメント履歴 No: 100000
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[カルト40] 今回の事で、自分を右翼の愛国者だと思っていた者は、米国に踊らされた朝鮮翼だった事に気がつき、中道や左翼の愛国者を大事に… ポスト米英時代
4. 地下に潜った土竜が蝶に[1] km6JuoLJkPaCwYK9k3mXs4KqkrGCyQ 2022年7月18日 04:26:31 : 83T47N5cNk :TOR R3k3NC5HdVM2MUk=[3]
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安吾の新日本地理
高麗神社の祭の笛――武蔵野の巻――
坂口安吾

 コマ王というのがもう一系統あって、これも武蔵のコマ郡に住んでいたと伝えられている。コマ王好台七世の孫延興王の後で、背奈氏を称したという。天智のとき来朝し、福徳の代にコマ郡に住んだが、その孫の福信は少年時代に伯父行文につれられて奈良の都へのぼり聖武から桓武に至る六朝に仕えたそうだ。伯父行文はなかなか味な詩人である。しかし福徳の系統は史書にもコマ氏系図にも現れていない。そしてその後もわからない。
 これはコマ村には関係ないが、隣の飯能に最も関係深い豪族が丹治氏。宣化天皇の子孫多治比古王の子が多治比島。その子孫が武蔵の守となって後に飯能に土着し、今は中山氏を称している。この子孫の分派にもコマ氏があるが、コマ村のコマ氏とは関係がない。
 丹治氏の祖、多治比島は持統四年(西紀六九〇年)に右大臣となり、文武四年(西紀七〇〇年)に左大臣となり、翌年死んだ。この大臣の出現モーローとして煙の如くであるが、彼の執政時代は藤原鎌足歿後、石上麻呂や藤原不比等らが現れるまでの臣下の大臣の空白時代に当っていて、彼が右大臣の時も左大臣の時も臣下唯一の大臣、最高の重臣だった。
 彼の執政中はその前からひきつづいてシラギと交渉深かったときで、多くのシラギ人を関東諸地へ移住せしめてもいる。
 若光が王姓をもらいコマ王を称したのは島の歿後二年目のことで、その前年に持統帝の崩御もあった。
 コマ村と飯能とはコマ峠を一ツ越しただけの隣りであるし、丹治氏の子孫にもコマ氏があるぐらいだから、多治比島もコマ人を祖先にする人かと一応考えられるが、執政中の出来事を見ると、むしろシラギ系の頭目のようである。むろん政治には色々の裏があり綾があるから、表面の史実をウノミにすれば裏面の真相は判らない。政治というものは、現代史の裏面すら一般の現代人にはわからないのだ。
 けれども多治比島の死んだころから、いくらかコマ人が日の目を見るようなことになったようだ。外交的にもシラギ一色というものからそうでないものへと転じ、聖徳太子発案の直接支那大陸の文物と結んで中央政府を確立する政治の方法へと転じ、それを次第に強力に実行するようになった。
 そして奈良平安朝で中央政府が確立し、シラギ系だのコマ系だのというものは、すべて影を没したかに見えた。しかし実は歴史の裏面へ姿を隠しただけで、いわば地下へもぐった歴史の流れはなお脈々とつづくのだ。
 多くのシラギ人を関東に移住させた左右大臣多治比島の子孫が武蔵の守となった後に飯能に土着したり、彼の死後三年目に若光がコマ王姓をたまわり、十五年後に七ヶ国のコマ人一千七百九十九人が武蔵のコマ郡へ移された、というようなことは、シラギとコマが歴史の地下へもぐったうちでも実はさして重要ではない末端のモグラ事件であったかも知れないのだ。
 なぜならこれらのモグラは歴史の表面に現れている。けれどもモグラの大物は決して表面に現れない。むしろ表面に現れている末端のモグラを手がかりにしてもっと大物のモグラ族の地下でのアツレキを感じることができるのである。
 すでに三韓系の政争やアツレキは藤原京のこのころから地下にくぐったことが分るが、日本地下史のモヤモヤは藤原京から奈良京へ平安京へと移り、やがて地下から身を起して再び歴史の表面へ現れたとき、毛虫が蝶になったように、まるで違ったものになっていた。それが源氏であり、平家であり、奥州の藤原氏であり、ひいては南北両朝の対立にも影響した。そのような地下史を辿りうるように私は思う。彼らが蝶になったとは日本人になったのだ。
 しかし、コマ村だけはいつまでも蝶にならなかった。すくなくとも頼朝が鎌倉幕府を定めるころまでは、コマ家は一族重臣のみと血族結婚していたのである。
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