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目覚まし時計 ltqKb4LcgrWOnox2 コメント履歴 No: 100000
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[昼休み53] 「ソテリア:狂気からの解放」まとめ
Soteria
(ソテリア)

世界保健機構によれば、貧困国の「統合失調症」患者は、抗精神薬滅多に手に入れる事は出来ないが、患者の経過はアメリカの様な経済大国よりも遥かに良い。

この本は、個人についての失敗と成功の記述である。それに興味を抱かれるのも良し、またソテリアから学んだり、模倣しようと考えているならその役に立つ事だろう。

ソテリア・ハウスは1970年代から1980年代初頭にかけて、サンフランシスコのベイエリアで運営され、通常のものとは本質的に異なる臨床観念をまとめ上げた。

ソテリア・プロジェクトは、他の居住型メンタルヘルス施設と様々な点で異なっている。

そこは病院ではなかったが、入院の可能性があったクライアントを受け入れ、そしてプログラムは医師(または、委任された看護師)によって実施されなかった。

「統合失調症」の標準治療にあたる神経遮断薬は、使用を避けたか、全く使用しなかった。

専門家でないスタッフが、主要な治療の責任を負い職権及び権力をを持った。

1965年にフィラデルフィア・アソシエーションで始まった、精神的苦悩にある個人を救うために作られた生活共同体である、ロンドンに拠点を置くキングスレー・ホールの一連の跡継ぎだった。

カリフォルニア州はサンジョセにある大通りに面した家を借りて、そこをソテリア・ハウスとした。

外壁を塗装したり荒れた庭を緑化した事で、ソテリアのメンバーは地域社会からある程度の信用を得た。

ソテリア・ハウスの人々は、近隣社会の標準に調和して振る舞った。

明白な規則で特定な振る舞いを禁止した。

緊急の必要時に、有給のスタッフで世話をキチンとした。

ソテリアがフル稼働すると12ある部屋は、6人の居住者ら、フルタイムで働く2人のスタッフ、そして多彩なボランティアやパートのヘルパーらで満たされた。

ハウス・ディレクターが居て、週に10時間ほど働くプロジェクト精神科医へのアクセスも可能だった。

毎月1人か2人の新しい居住者が入所して来て、3ヶ月から6ヶ月の間留まった。

ソテリアでコアとなるスタッフは、有給の正規雇用者とボランティアで、スタッフとクライエントの比率が約6対8になるようにした。

この非専門スタッフの配置は、地味で、家庭的で、安全で、思いやりがあり、優しく接触し、ゆったりとして、寛容で、そして押しつけがましくない社会環境を提供する狙いがあった。

誠実で人道的な関わり方や理解は、癒しの相互作用に重要であるとソテリアのスタッフは信じていた。

殆どのスタッフは、36時間から48時間のシフトでボウッとした居住者らと心を通わせる機会を、比較的長い時間継続して提供した。

ハウスディレクターは、友人であり、管理者であり、スタッフが機嫌を損ねたときの理解者であった。

スタッフと居住者は、共に世帯維持、炊事、そして清掃の責任を負った。

もしもクライエントが約束した仕事をこなせなかったならば、暫くの間はスタッフがその仕事の殆どを行った。

スタッフ・メンバーは、彼らのやっている仕事に間違いはないと思っており、現象学的実存主義の人間相互間がある世界の施設に論理的実証主義者の学術調査が入り込む事には憤りを覚えた。

記録をつけたり、特定の挙動を追跡したり、達成目標を設定したり、治療方針を練ったり、特定事例の管理をしたり、正式な精神療法を実施したりすることは、憎悪の対象であった。

ソテリアハウスのドアは施錠されておらず、注射器が無く、薬も若干しかなく、そして束縛するものや隔離室も無かった。

ソテリアハウスの生みの親ローレン・モシャーは、統合失調症的な反応を危機に対応しようとしている人の意識変容状態と見做すべきだと考えた。

心理的な成長、再構築、そして再統合の可能性の為に、クライエントの気持ちに触れる事が出来るよう、スタッフは意図的に、「統合失調症」の経験を現実に起こっているもの(分裂の過程ではなく)として様々な角度から捉えた。

スタッフは、「精神病の」経験上と行動上の特質(不合理性、恐怖、そして神秘的経験を含む)を、人間の基本的な質と捉える事にしていた。スタッフはそれ故、そういった表現を無価値であったり、非人間的であったり、病気の症状だと捉える事は無かった。スタッフはその様な経験と人間的に心を通わせ、無関心ではいなかった。ソテリアは個人が「精神病」の反応を見せれば、その人に be with(許容的で、互いに影響し合い、そして理解をする)を実施した。

ローレンはスタッフに、協調性を損なわない様にしながら、個性、包容性、平等性、敬意、関心に重点を置くように指導した。

ソテリアでは、どちらを向いても「答え」を得られることはなかった。スタッフもクライエントも一様に、狂気に対する解決策が存在するとハッキリ主張する事を拒む環境に居る事が分かっていた。

安全で、静かで、保護的で、枠づけられていて、予想可能な環境が、精神病からの自然なリカバリーに必須である為、暴力からの解放が求められた。

前もって予約をしていなかったり、ハウスのクライエントらの同意が得られなければ、外部の人間の訪問は許されなかった。臨床の経験上ローレンは、精神病と呼べるほど混乱した人々が見ず知らずの人達と相対した場合、上手い対応が出来ないと分かっていた。

ソテリアのクライエントは居住を始めてから最初の6週間、神経遮断薬やメジャー・トランキライザーの類、例えばソラジン、ハルドール、プロリキシン、或いはステラジンを受け取る事は無かった。

研究者らが脳スキャンで発見した異常性は「病気」そのものではなく、抗統合失調症薬物治療の結果によるものだ。

神経遮断薬が開発される前に「統合失調症者ら」の数千という数の脳が調べられたが、実験者はその何処にも細胞病理を発見できなかった。

神経遮断薬で治療を受けた人々の脳構造は変化してしまう。

ハウスが開いて3週間目、居住者らに対する治療が始まった。スタッフのシフトに特別な決まりはなかった。常に2人の人間が仕事に入っていれば、残りのスタッフは自分の時間をどうしようと自由だった。スタッフは構造を具体化する前にまず立ち止まって、日々、ソテリアでどんな伸展があったのか見届ける事に決めていた。この様な自由が効いたのも5 〜 7名のスタッフが、ソテリア・ハウスに住み込みしていたからである。クライエントが来る以前のシフトの時期に、特にスタッフを困らせる様な事は無かった。しかし、一度、居住者らが治療の為にハウスに集まりだすと、スタッフらはシフトから外れる事に罪悪感を覚え始め、そしてバーンアウトに陥る危険も懸念された。

スタッフは、休憩をキチンと取る様に勧められていた。だがそれは、ソテリアに居住しながら働くのが難しい事を証明した。その結果、スタッフは、だんだんとハウスから引っ越しを始めた。この引っ越しという儀式は、やがてソテリアで伝統化した ― ソテリア・コミュニティのメンバーが引っ越す時には、スタッフも居住者らも力を合わせてそれを手伝った。これはプログラムを去った後でも、その人々は、ソテリア・ファミリーの一員のままであった事を明白に意味した。

Vigilルーム

Vigilルームとは、だいたい3.5メートルx4.5メートルの広さで、キッチンから隔たり、ステレオ・コンポを除けば固い家具は置いていなく、床には古いが保存状態の良いペルシャ絨毯が敷かれ、また、そこかしこに、大小の枕が散りばめられていた。更に、様々な色の電球を取り付けた光源を必要に応じて移動し、多様な効果が得られる仕組みにもなっていた。その中央部は、急性の危機的状況にある患者が、隅へ隅へと移動しないよう、また、コミュニティ全体がこの瞬間に溶け込んで行けるように意図された空間だった。(潜在的に驚異的な何かが、隠れた状態で存在していたとすれば、その脅威は増大する。)同時にVigilルームは、退行状態に陥った患者らにとって、邪魔される事なく、安全で、刺激の少ない、そして快適な場所でなければならなかった。そういった空間を実現する為には、スタッフが力を合わせる必要があった。なぜなら、部屋の近くにはキッチンがあっただけでなく、居間や美術室も有ったからである。

スタッフ・メンバーらと居住者が、Vigilルームを正式に使用したのは、二回だけであった。というのは、それを実施する上で病棟で使用されていた様なキチンとしたセッティングは、到底、必要だとは思えなかったからである。

Vigilという概念の一部が、やがてソテリアで一般的に使われる様になるbeing with を発展させた。元々厳密に定義されたテクニックが、もっと大きく広がった概念へと進歩したのだ。

1人のスタッフが、シフトの全ての時間を何週間にも渡って1人の居住者の為に費やし、そして、その居住者の部屋に寝泊まりさえするのは珍しい事では無かった。

ソテリアモデルの概念の中核は、型にはまったvigilという基調から、もっと幅の広い being with という概念へと移行した。これは様々な社会環境で、相互作用の更なる可能性を提供した。vigil ルームでは(部屋の中に限られるが)、不関与と自己に没頭する事の両方が可能である。そこでは活動や刺激もわずかに存在するだけだ。しかしメンバーらは、ソテリアで個人の周りの囲まれた空間という概念の方が、実際の閉ざされた特有の場所そのものよりも大切であるという事を発見した。人と人との有意義な相互の影響は、雑踏の中でさえも、周囲の雑音や、目障りな存在を遮断し得るのである。

ソテリアのクライエントへの being with 過程では、3つの段階の発生が観察された。

1.クライエントが基本的なケアを必要とする、危機的状態

2.クライエントが新たな環境の中で、人との関係を通じて彼/彼女自身の人格を再形成する、再構成

3.クライエントが人との繋がりの領域を広げる、進展

これらの段階は別々では無く、重なり合っていた。また、必ずしも起こるとは限らず、順序が違う場合もあった。

ソテリアは前居住者との接触を維持する点で、他の殆んどの治療施設とは明白に異なっていた。特に最近の、コミュニティを基盤とするプログラムとは違っていた。去って行くスタッフやクライエントと連絡を取り続けたいという欲求は、人々がコミュニティから去った後に生じる感情への反応であった。スタッフや居住者のどちらであっても 関わり合いの期間が長きに渡ったり、組織の中での役割が見えにくくなる事によって、互いの思い入れは深まり、殆んど家族同然に感じていた。或る居住者は「誰かが出て行ってしまうと、丸で兄弟姉妹やルームメイトを失ったみたいな感じがした」と語った。

ソテリアの初期に、さよなら会という習慣が始まった。ソテリア・ハウスの中や、引っ越し先の住居でパーティーが開かれた。クライエントがソテリアを離れる時、ソテリア・コミュニティ(前居住者を含む)は、その人の為に引っ越し先を探すのを手伝ったり、家主と対応を取ったり、荷造りを手伝ったりして、そしてやっと出発するのだった。大抵の場合、居住者が出て行く先は、以前にソテリアに居た人の所だった。時々、出て行ったばかりの元居住者は、環境の変化に慣れるまで親しい人を傍に必要とした。だからそんな時に、コミュニティの仲間の1人が一時的に同居したのだった。スタッフが転職する場合(日雇いであれ、正規雇用であれ)は、別れの悲しみを和らげる為の形式に配慮した。また、充分な告知が必要不可欠であった。出て行ったと言っても、元スタッフも元クライエントも、ソテリアと連絡を取り続けた。ソテリアの卒業者の何人かはハウスを頻繁に訪れ、支援を受けたり、親しい仲間達と共にくつろぎのひと時を過ごした。他の者は、ソテリアの外で電話や手紙、また直接出会ったりといった手段で連絡を取り合った。どちらの場合も、尾を引く性質を持ったソテリアでの経験が、生きた繋がりを維持し、頻繁に助けを必要とするかよわい人達への支援がなされた。

ソテリアの環境には、7つの要素が必須であった。

1. 精神病とは前向きな学習経験で有り得る、との共通の認識が有った。
2. 沢山あって揺れ動き、そして往々にして不明確な役割と、人間関係の存在が、変化する要求に速攻に、そして柔軟に対応可能な環境を創造した  
3. クライエントがソテリアのスタッフ・メンバー、ボランティア、そして他の居住者の真似をしたり、同一視をするほど充分な時間を過ごした場合、様々な局面に対応する新しい術を習得した。クライエントは、自分の尊敬する人々から助けを借りながら、その様な術を観察し、吸収し、そして練習する機会が与えられた。
4. 精神病性の体験は、現実の体験という認識で受け入れた ― 非凡では有るが、理解出来、そして、その意味が分かるだけの充分な情報が集まればシェアをした。理解不能である場合は、スタッフが恐れを抱いたり、興味を喪失していたり、過労であったり、また、彼/彼女の体験を確認する為に精神病患者の立場になって彼/彼女の事を理解したり、意味を見出したりする事が出来なくなっていたからである。
5. スタッフは、特に危険を回避する為の役割を担っているので無い限り、主要な任務は混乱した患者とbe with をする事にあった。
6. 異常な(狂気的な)振る舞いは受け入れられ、容認された。そういった振る舞いを制御する事は、危険な状況でない限り、明白に禁じられた。スタッフは、個人的な苦悩を刺激する出来事を放置するよう指導された。或いは、もしも必要ならば助けを呼び、その刺激する出来事に上手に対処する事とした。
7. 専門用語を避ける事により、スタッフや居住者は精神病性の体験を話し合いで正常化出来た:クライエントが精神病的な振る舞いをするではなく動揺している、抑鬱状態にあるではなく気が重い、そして自閉症的症状を見せているのではなくぼうっとなっていると表現した。

ソテリア・ハウスとは、我が家に居る様な、非医学的で投薬を行わない、正常化を促す場所で、静かで、安全で、支えとなり、保護的で、そして意外性の無い社会環境であった。様々な場所で、これに近い環境を設定する事が可能である:その為には、

小さな家屋で、スタッフを含み10名以下であること、
必要な限り十分に、精神病患者の住宅であること、
非常に身近な者に、進んで関わってもらうこと、
支援者と居住者の比率は、1:1 或いは 2:1 であること、

が必要である。

ソテリアが提案した、スタッフとクライエントとの比率は1:3であった。

ソテリアには、病院とはかけ離れた5つの特徴があった:

1. 規則、規制、そして方針の成文化を避けた
2. 基本的管理上の時間を最小限に留め、区別の無い沢山の時間を過ごした
3. 関係の無い人間の立ち入りを制限した
4. 緊急時に一対一を基本とした社会秩序の維持に努めた
5. 症状を抑圧する事の無い、非医療モデルを追求した。

ソテリアは、「統合失調症」が内科疾患だと認める事を明確に拒絶した。精神科医らは、その様なレッテルを貼られた気の毒な人々にすぐには上手く対処出来ないであろうが、プロの団体としては、自らの存在を正当化する為に、統合失調症を疾患とする必要がある。それは、精神医学の地位が医療の細分化専門科であると根拠づける為に、「統合失調症」が生物学上の原因に帰する事を求める終わりの無い、それ故、長き道のりの不毛な捜索である。

ソテリア・プロジェクトは、人間相互を利用した治療を精神安定剤の使用の代替えとして提供するよう設定していた。そしてこの薬品は、クロルプロマジン(ソラジン)を原型として1950年代の初頭に開発され使用されたが、トランキライザー、神経遮断薬、抗精神病薬として知られている。
1950代の終わり頃にはこれらの薬は幅広く使用され、その広がりの速さは、それだけでも驚くべき社会現象である。スミス、クライン、そしてフレンチら(ソラジン製造会社)は、全ての精神科医、そして精神病院にこの新しい不思議な薬に注目するよう呼びかけ、その使用を強く勧める為に「営業部隊」を訓練して送り出した。ソテリア・プロジェクトが始まった頃には、統合失調症性が認められる人々にこうした物質を処方する事は、殆んど必須であった。

それらの使用は、未だに至る所で見受けられる。それらは精神病患者が緊急病棟に、または精神病院へ運ばれて来た時、大抵の場合すぐにも与えられる。だいだい70パーセントの「統合失調症患者」とレッテルを貼られた人々が、それらの治療薬を服用した時、実質的な症状の軽減を経験するのは事実上明らかな事ではある。しかし問題なのは:全ての人にその様な効果が現れる訳で無く、また、薬自体に深刻で、短期から長期に渡る副作用と毒性が認められ、そしてそれらの中には回復不能にしたり、治療不能に陥らせる物も有る。
 更に、クライエントの症状を軽減させる事で起こる最も深刻な事態は、病気の回復に効果が無い事である。薬はただ、やっかい事を鎮めるだけだ。

もしも安全かつ効果的で実行可能な、非薬物的代替え治療が確立されたとして、その時の、これらの薬品を製造している製薬会社の重役室を想像してみて欲しい。これらの物質を使用する事による継続的な利益を保証する、或る方策が講じられるであろう。
非精神遮断薬アプローチを支持するデータは、薬剤の使用に大した影響は無い。なぜなら薬は

投与が簡単である
統合失調症の治療の「大黒柱」として広く認知されている
一部の精神科医らにとって、大きな収入源となる
職業団体組織(米国精神医学会)にとっては、結果的に体の良い支援となる

そして薬は内科医の制御下に有る。

ソテリアはノンプロを治療に当たる最も重要な職員として使用した。現場で研修を受け、プロの職員に管理されていたとはいえ、第一線で活躍したスタッフらはメンタルヘルスの正式な訓練の受講や学位の所持が必須ではなかった。スタッフ・メンバーの何名かは、可成り関連の有る研修や経験を積んではいたが、その他の一部は、メンタルヘルスに関わるプロになる為の勉強の途上に有った。しかしながら、事実上、精神病棟では、学位を持たない職員(通常、「サイクテック」と呼ばれる)がスタッフの主力となる。にも拘らず、その様な人材を治療特権の所持を意味するセラピストに格上げする事は、メンタルヘルスのプロ達の機嫌を損なう事になる。脱プロフェッショナル化に比べれば、脱医療視の方がまだ支持者が多いくらいである。

ソテリアで起こった出来事は、人々の物語である。それ以外の何物でも無い。人々の物語で無くしてしまえば、それは空々しいものとなるだろう。人と人との親密性が無ければ、ソテリアはソテリアに成りきれなかった。

助成金の枯渇により、ソテリアは終了の運びとなった。コミュニティのメンバーの一部は、「ソテリア・ハウスを継続させて下さい。ただ働きでも何でもします」と、口々に訴えた。

終わりは突然だった。家の持ち主が、家を売却してしまったからだ。

ソテリア・ハウスは、1983年の9月30日に正式に閉所した。


スタンフォード大学で学習した後、ローレン・R・モシャーは1961年にハーバード大学医学大学院で修士号を取得した。彼の精神医学研修課程は、ハーバードとメリーランド州ベセスダにある国立精神衛生研究所の学内プログラムで実施された。モシャー博士は、アンナ・フロイド、ジョン・ボウルビィ、R・D・レイン、そしてロンドンに居た他のメンバーらと働いた後、国立精神衛生研究所の統合失調症研究のセンター長を1968年から1980年(ソテリア・プロジェクトを計画し、実行へ移した時期)まで務めた。彼は更にSchizophrenia Bulletinを発刊し、最初の編集長の役に就いた。1980年には、イタリアの革命的な新メンタルヘルス法を学習した。1981年から1988年には、ユニフォームド・サービス大学(メリーランド州)で精神医学の教授となった。1988年から1998年までは、メリーランド州とカリフォルニア州にある、2つの郡にまたがる公立メンタルヘルス・システムズの医長に就任した。彼は最後に、カリフォルニア州立大学サンディエゴ校の精神医学教授と、ソテリア・アソシエーツ(サンディエゴ)のディレクターを務めた。モシャー博士が2004年に他界した時、ソテリア(訳者注:本書の原本)は完成して出版社にあった。
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