メタファーによる経営破壊

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投稿者 IT趣味者同盟革命評議会そそう的破戒派転載係 日時 2000 年 10 月 07 日 14:17:59:

回答先: IT革命とは呼ばれないIT革命 投稿者 IT趣味者同盟革命評価会早漏的はやい漏り派 日時 2000 年 10 月 07 日 04:21:06:

IT革命宣教師の人は危機感がお好きですね。
平和ボケ日本人は危機感が薄いので苛付いてしまっている宣教師も居るみたい。
IT革命と創造的破壊はメタファーとして呪術的に使われてます。


メタファーと3層の経営「破壊」

Virtual Destruction of theJapanese Management System by means of Deliberated Metaphors


影山喜一

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はじめに

 景気の足踏み状態が長引くなか、日本企業は必死で活路をもとめている。従来の不況のように政府のテコ入れを期待し、ひたすら我慢を決め込む動きは見当たらない。政治のゴタゴタにつづいて行政の不祥事が相次ぎ、タイミングよく政策を打ち出せないこともあるが、既存の経済運営手法を成り立たせてきた枠組みが根底から変わってしまった点に留意する必要があろう。そして、外圧に押されて進行中のビッグバンは、つい数年前まで賞賛の的だった日本型マネジメントの屋台骨を揺るがせている。すっかり拠り所を失った企業は、糸の切れた凧さながらに右往左往するばかりである。
 窮余の策として多くの企業は、バブルの際に手を広げすぎた活動分野を大幅整理し、自己の強みが生かせるよう本業重視を標榜する。しかし、先行きに不安が感じられたからこそ手がけたものを断念したからといって、なにか安心を与えてくれる事態が新しく登場するほど世の中は甘くない。旧態依然とした事業の取り組みをつづけるかぎり、小さなパイを奪い合って競争が激しくなるだけである。成熱した領域で選択の余地はあまりなく、はとんどがコスト削減に血道をあげる。それは、たしかに一定の効果を発揮するが、損失から目をそらしてはなるまい。とりわけ、人材軽視の場面をみせつけられた残留者たちの意気阻喪が気がかりである。
 なぜか手慣れているはずの本業においてすら、過去の栄光にしがみつく無策や空回りが目立つ。その原因としては、豊富な経験量を頑なに強さと信じたがる傾向があげられるけれども、海外から批判される曖昧さや閉鎖性や時間のかかり過ぎも重要である。ボーダーレスの時代において価値観のことなる人間や組織と付き合わざるをえず、情報技術の進歩によって多くのことがらをリアルタイムで処理するよう迫られると、同国人でも局外者となるや否や理解しがたい業界や取り引き仲間内の常識やルールは、社会全体はもとより個々の当事者にたいしてもさまざまなマイナス効果を生んでいる。まさしく日本の企業は、典型的な“茹でガエル”状態にあるといってよい。(1)


【1】量における対応から質をともなう変革へ 

 頭の指示どおり身体の動かない場面に遭遇した覚えがないだろうか。機械とちがいわれわれが行動するには、所定の情報を受け取るだけでは足りず、身体を前へ突き動かす押しが必要となる。このギャップを埋めようと従来であれば、モチヴェーシヨンを喚起するこころみがつづく。報酬のアップや福利厚生の充実や勤務条件の向上に加え、仕事の内容自体に興味をもたせる工夫がいろいろ施される。人事政策をめぐる一連の移り変わりには、企業と学校の共通性がはっきりうかがえる。極限と思えるほど細かな心遣いが行き渡っている。にもかかわらず、あるいはだからというべきかもしれないが、大人も子供もきわめてぎこちない動きしかできないのである。
 学校のばあい、知識の注入を中心とした教育ばかりが強調され、企業においては、情報伝達の速度や正確性を高める競争が激化する。いずれについても、生徒や働き手を人間とみなす姿勢が希薄である。P・クルーグマンによれば、人間の活動のうち知的営みとくらべて肉体的作業のほうが、ずっと機械で代替しにくいらしい。(2) 背中の痒いところを掻いてくれる道具は、とうぶん登場しそうもないが、チェスで世界チャンピオンを負かすコンピュータは、すでにつくられた。最近、マネジメントの対象をヒトやモノから知識へ移すよう唱える説が有力であるものの、知識と行動をつなぐメカニズムにもっとスポットライトが当てられるべきではなかろうか。(3)

 こうした知識と行動のずれは、集団ついで組織とメンバーの頭数が増えるにつれて、個人のレベルでは考えられなかったほど大きくなり、わずかな修正にも膨大な時間とエネルギーがかかる。冒頭で述べたように日本企業の直面する状況は、文字どおり未曾有の危機と呼んでさしつかえあるまい。無数の有識者が国内外を問わず、執拗に警鐘を打ち鳴らしつづける。ほんの数ヶ月のあいだに、ヤオハンにはじまり北海道拓殖銀行さらに山一証券と、桁外れのスケールで記録を塗り替える大型倒産が相次ぐ。銀行の貸し渋りが行き詰まった企業に引導を渡す。そんな地獄の淵で立ち往生して相当たつのに、多くの企業は金縛りにあったごとく、疎んだままである。
 そもそもリスクにたいする姿勢が、だれかれの別なしになっていない、と断罪して捨てる行き方もありうる。創造性溢れる動きを培ったり鼓舞する土壌に乏しいのも問題ではある。隅々まで張り巡らされた公的規制の網に加えて、それを無批判に認める風潮が革新の芽を摘み取る。企業の世界に視点を一応かぎってさえ、あらゆる変革を拒む社会なのだろうか、と絶望的気分に陥らせるのが日本である。批判や提言を王とめる側は、ここまでわかりやすくしても駄目かと反発するかもしれないが、いざ矢面に立たされた側は、なにもかもわかっていながら実際の行動に移せないのであれば、対象とアプローチをいくぶん考え直す必要があるのではないか。
 ここで唐突に強調するのは、メタファー(隠喩)のもつ効果である。もっと一般化した表現を用いると、社会における言語の在り方を重くみるよう訴えたい。いうまでもなく言語には・モノやことがらを特定する指示的役割と、それらの各々に意味を与える役割がある。両者をさまざまなかたちに組み合わせるなかで、経験と想像力にそって人間は複雑な世界を築いた。社会の安定性にひびが入ると、なによりも言語に乱れが生じる。(4) 意思疎通がしっかり成り立たないかぎり、どんな信頼も生まれようがない。逆に、自由闊達なことばのやりとりが許されなければ、時計さながらに同一軌跡のくりかえしが跋扈する。あらゆる行動は、先例とルールに支配されてしまう。
 いままでは知識の増大と多様化が、もっぱら人間と社会にタイナミズムをもたらした。未知の分野にたいする挑戦が、新しい可能性の獲得をたえず保証してくれた。そこで、静止状態は停滞を意味すると忌み嫌われ、休みなく動きつづけることが推奨された。周囲と同じスタイルを踏襲すると、内容の是否と無関係に怠惰の譲りを受ける。しかし、21世紀を迎えつつある現在、容易に着いて行けないほど変化のスピードがいちじるしく、取り残されるのではないかという不安が混乱を招きはじめた。本来の役割を逸脱した言語が、差異を強調するあまり口先ばかりの変化へ走らせた。つまり、対象や意味から遊離することばの 氾濫が混乱を増幅させたようにみえる。
 頭でわかっていながら行動に踏み出せないのは、筋道を一応理解するものの確信できないため、結果について責任を問われるほどの振る舞いが、容易に手がけにくく感じられるからではないか。そして、経験によって無難な成果が予想しうる方向を、きちんと検討しないまま惰性で選んでしまう。過剰気味で信じられなくなった知識を捨て、いったんは理解したことがらを否定し去る。現場の重視をかかげ反知性主義的傾向の強い日本の企業風土が、この迷って動けない段階の回避ないしスキップをやりやすくする。頭に巣食う知識は行動を阻害するので、身体で覚えたスキルにもとづいて働け、と熱心に勧めるわけである。
 わが国の企業のおかれた状況は、文字どおり危機と呼んでさしつかえあるまい。それをめぐって克服策がたくさん提案されているけれども、少なくとも知識の増強とか創造性の発揮がポイントではない。なにをしたらよいかはほぼ自明であり、どうすべきかについても大方が同意する。すでに知識はある。その使い方も知っている。にもかかわらず理屈どおりに動けない。そんな変調を訴える企業に向かって、自前の知識でなくては駄目だ/使い方も自力で開発しなさい、と説教めかした批判を浴びせるのは、的外れであり時代錯誤といってもよかろう。なにもかも独りでなしとげようとしても、変化の多様性とスピードが受容不能なところに、根本の問題があるからである。
 こうした変調はだいたい、知識と行動を結ぶパイプが詰まるか、または知識をパイプが選り好みするか、のいずれかが原因となる。前者においては、3つのケースが考えられる。第1に、知識の支えなしで行動が勝手に突っ走る。これは、行き過ぎた現場重視から生じる。第2としては、その逆が形式的に考えられる。しかし、日本ではごく稀ではなかろうか。企業が純粋研究に熱心ではないからである。第3に、中継の役割がじゅうぶん機能しない。後者では、行動が一定の知識群と特別の関係をつくる。そして、未経験の困難をすべて所与の枠組みで解釈し、ぜったいに新しい方法などこころみたがらない。知識が行動の正当化にしか用いられないのである。
 結局、なんらかの治療を施そうとすれば、中継の役割をオーソライズするか、もっと行動に柔軟性をもたせるか、の二者択一になるのではなかろうか。あらゆる関係を権限の網の目でとらえる伝統的経営学の立場を貫くと、知識と行動のあいだで権限をどう再配分するかの問題と解釈されよう。もっとも、行動の側の権限を知識の側へ移したとしても、実際は両者のやりとりが緊密になりそうもない。相手の話すことばを承知のうえで反応しないのならともかく、聞こえても理解できないとしたら別の解決策が必要である。コミュニケーションをつかさどる言語から本来の機能が失われる、といった人間関係の深層で重大な障害が生じたことになるからである。
 マーチ&サイモンの表現にならえば、意思決定のプログラム(ないしルーテイン)化の極限形態こそ、言語による関係(ひいては組織さらに社会)の固定化と位置づけられる。通常は、はとんどの場面でステレオタイプな行動が目立っても、存続にかかわる危機を感じるや否やだれかが冒険へ走る。かなり保守的とみなされる組織においてさえ、追い込まれたイノヴェーションの余地が残される。(5) しかし、冒険が導き出されるよう危機を受け止めるためには、それを定式化しうる言語システムがなければならない。護送船団方式を前提とする山一証券の辞書では、大蔵省に泣きつく以上のシナリオが描きえなかった。所詮、蟹は甲羅に似せて穴を掘るしかないのである。     

 さて、四面楚歌のなかでメタファーは、病んだ言語システムを生き返らせてくれる。一見、まったく関係のなさそうなことばの組み合わせが、既成の指示や意味で隠された事実と横造を明らかにする。たとえば、「価格破壊」というフレーズが数年前、ジャーナリズムでもてはやされた。市場における需要と供給の増減に比例し、もともと価格は切れ目なく動くものである。マクロでいっきに上下する数値が現われても、ミクロでは無数の上下が連続的に積み重なる。とつぜん値段が高くなると、価格の「急騰」が心配される。逆に、どんどん値投が安くなれば、「下落」で売り手は苦しむ。ここで銘記してほしいのは、「急騰」と「下落」が同じ尺度上の差にすぎないことである。
 価格の変動をめぐっては実際、需給双方でたくさんの企業がかかわる。諸外国とくらべて日本の産業は、各製品やサービスが準備されてから買い手に渡るまでに、多数の企業が複雑なかたちで関与する点で有名である。原材料や部品は複数にわけて発注し、製造工程も1社に統合されていない。いちばん重要なものは大企業が引き受けるけれども、他は多段階にわたって下請けの中小企業へ回される。スリム化を目指すアウトソーシングがもてはやされる最近では、本社の中枢とみなされてきた人事や企画や経理の外注すら珍しくない。その結果、かなり激しい値動きに企業が揉みくちゃにされても、揺れを分散吸収させ最終的に市場価格は平準化する。
 こうした平準化を許さないほどの迫力と、分散吸収メカニズムを否定する方向性が、「破壊」と評されるからには必要であろう。ハイペースですすむ円高を背景とする廉価輸入品の登場が何度か、値下がりの幅とスピードの両面で日本企業のステレオタイプの対応を不可能とした。製造部門にコスト削減の余地ははとんど残っておらず、全社的合理化には相当の時間とエネルギーが欠かせない。そこで、価格競争に耐えられない企業は、いままでのような量でなく質の差別化へ向かった。研究開発まで遡っては即効性がないので、だいたいは付属機能の追加でお茶を濁す。それは、下請けや関連企業の仕事を増やすとともに、製品の価格を途方もなく引き上げてしまった。
 本腰を入れた取り組みも、意欲ある企業でいくつかこころみられた。イトーヨーカ堂がPB(プライベート・ブランド)商品として、以前は数万円もするカシミヤのセーターを1万円以下で売り出した。消費者はもちろん大喜びで飛びついたけれども、メーカーはスーパーのダンピングを一斉非難する。数分の一にまで価格を引き下げられたのは、なんらかの不正行為が存在したためではなかったかと疑いもした。しかし、原料の調達先をオーストラリアからモンゴルヘ切り換え、大部分の生産を現地の労働力で済ませたと説明されれば、不正どころか優れた経営を高く評価しないわけにいかない。そこには、まったく新しい事業形態が誕生していたのである。
 従来はアパレル業界のばあい、商品の企画やデザインに携わる企業が、事業展開の全局面にわたりイニシアチブを握ってきた。素材の選定や染色や織り方はもとより、裁断・縫製や宣伝・販売方法にいたるまで、外部から口を差し挟む余地はごくわずかであった。この業界で大企業は、ほとんど目立った動きをみせない。どちらかというと規模の大きいほうに入る繊維メーカーは、販売量がさほど多くないこともありどっしり構える。素材の供姶先はもっぱら商社ないし海外の業者であり、強い交渉力をもつが他の領分へ踏み込もうとは しない。職人芸を期待されるかもしれない裁断や縫製は、過疎に悩む農山村の主婦たちがだいたい担っている。
 小売業の力量はどんなものであろうか。大手の百常店やスーパーであれば、容易に引き下がらないのではないか。ところが、そんな甘い予想は、あっさり切り捨てられる。いちど店内へ足を踏み入れるとわかるが、百貨店はスペースを貸すハコ屋にすぎない。いくぷん全店またはフロアー単位でコンセプトを調整しているけれども、各ブランドのくりひろげる活動は問屋やメーカーの派遣社員に任される。スーパーでは様子がいくぷん変わる。日用品に分類される雑貨や衣料や食品においては、メーカーや供給者と共同開発したPB製品の割合が高い。しかし、ディスカウントストアーの攻勢で嵩級化を図ったとたん、百貨店と同様にアイデンティティをさっと放棄してしまう。
 こうした趨勢をもどかしく感じながら概観すると、イトーヨーカ堂のカシミヤ製セー夕ーは快挙である。既成の事業展開を根底からひっくり返すにあたり、だれも目をつけていないモンゴルヘ勇躍出向いて、原料買い付けのみならず縫製工の養成までやった。しかも、品質はほとんど従来の高級品と差のない水準を維持し、庶民に高嶺の花だった価格が数分の一に引き下げられた。文字どおり価格は破壊された。すなわち、市場における競争が(価格の高低という)量の次元から遠く隔たり、そこで勝ち抜くためにはマネジメントの質的飛躍が欠かせなかったのである。

【2】「破壊」なくして「創造」なし

 価格破壊の脅威にたいしてイトーヨーカ堂が売り場面積の拡張やサービスの切り下げで応じなかったのは、他企業とちがい「価格破壊」というフレーズをメタファーとして読み込む想像力に富んでいたからだろう。けれども、小売業界はもとより産業界のほとんどは、理不尽きわまる掟破りとばかり非難と批判を浴びせた。とかく新しいこころみを冒険と危険視したがる背景には、自社ないし業界の常識のみを正統と断じる傲慢ぶりがうかがえる。ここで銘記しておきたいのは、ふつうの企業なら尻尾を巻く跳ね上がり行動が実は、手順を整えて挑戦するからこそ成功しうることである。
 ゴーイングコンサーン(継続的事業体)たらんとする地道な努力に経営のアイデンティティーを認める正統派経営学も、産業界におけるエスタブリッシュメントの思い上がりを助長しているのではなかろうか。前人の業績を尊重しないで根底から拒絶する企業は、理論の枠内に収まらない秩序撹乱分子と疎んじられる。ベンチャー企業の支援がロにはされるものの、いつも掛け声だけで立ち消えとなってしまう。あらゆる変化をインクレメンタルに考え、些細でも縦承しうる部分をかならず残す。新しさばかり表面上は目立つかもしれないが、古い土壌があって花は咲くと解釈したがる。
 個人のみならず企業といえども、仲間内の慣行を重んじるにせよ漸進的変化しか考慮しないにせよ、逸脱や飛濯と真っ正面から向き合う姿勢を堅持しないかぎりは、未経験のことがらや遠い外部世界の動きにうまく対処しえない。ところが、交通や通信の技術が日々目覚しい発展をとげるにつれて、好むと好まざるとにかかわらず相互の関係は緊密度を増す。常識の通用する余地はどんどん縮小し、遠く離れた世界が急ピッチに近づいてくる。このような時代を社会や経済が無事乗り切るには、常識を守ろうと現状維持に邁進するのではなく、変化を利用すべく常識に挑む勇気が必要となる。
 決まった道しか歩かない社会や経済は、独り善がりをつづけて時代に取り残され、結局は雲散霧消の憂き目をみるだけだろう。外部交流を避けつづけるならば、生活の向上など夢想もできず、離脱の動きが速まるからである。もっとも、だれもが常識にたいして不信感を抱きはじめたら、こんどは求心力の喪失によって解体の危機が生じる。保守の旗を掲げて断固頑張る勢力がいるので、反対する側も批判にあたり種々工夫を凝らす。両者のせめぎあいを通して既存のメカニズムが明らかになるばかりか、どんなものをその代わりとしてつくるべきかが具体的にまとまってくる。
 冒頭で述べたように多くの企業は現在、日本型マネジメントという拠り所を失ったまま、茫然自失の状態からなかなか抜け出せそうにない。これからなにをしたらよいかはもちろん、いまどこにいるのかすらつかみかねている。コスト削減によって収支の改善を図り、なんとか生き残ろうと死にもの狂いである。しかし、生死の瀬戸際で奮闘する割には、相変わらず横並びの行動が目立つ。相互に調整し合う余裕はないはずだが、目を見張るような改革は皆無にちかい。徹底的に現状を批判する動きがわが国で生じないのは、メタファーに破壊的役割を認めないからではなかろうか。
 何度となく登場した「価格破壊」というフレーズをふたたび例にとれば、リニアーな動きを常とする市場の横造的変化がそれによってしめされる。ところが、生みの親であるジャーナリズムは気づくはずもないが、企業の大部分もリニアーな値上がりの極限と判断した。商品企画・原料調達・製造・販売とつづく事業形態には手を加えないで、度重なる合理化で疲れ果てた社員や関係者に経費切り詰めを再度迫った。質をともなう変革が実際は避けられないのに、主における対応で済ませようとしたわけである。そして、あらゆる質的変革には多少とも破壊が含まれざるをえない。
 破壊の重要性を唱えた経済学者J・シュムベーターによれば、資本主義の発展的性格ないしエンジンを起動せしめる基本衝動は、古きものを破壊し新しきものを創造する企業活動のなかで育まれる。創造的破壊と呼ばれる過程が産業に突然変異をもたらし、たえず内部から資本主義の経済構造を力強く革命化する。(6) この説は、なにが企業の使命であるかをめぐり、経営学に少なからぬ影響を及ぽした。現状維持や環境適応にとどまらず、破壊と創造が期待されるのである。ともあれ、彼は、あくまで経済全体に関心を抱いており、企業には歯車の役割しか割り当てない。
 企業に経営学者が寄せる関心は、とうぜん経済学者にくらべて数段強いけれども、内容については一貫性をやや欠くきらいがある。トランザクションにせよエイジェンシーにせよ、経済学の流行をすぐ真似したがるからかもしれない。その反面、異端学者シュムベーターの理論に関しては、反抗色の濃いはずの企業のイニシアチブをきわめて温和しく取り扱う。創造的破壊という魅力ある用語を、すこぶる限定されたかたちで当たり障りのない範囲にとどめる。つまり、イノヴェーションの源泉となる破壊だけを特例で許容し、古きを打ち砕きつつも新しきに結びつかないものは退ける。
 成果を予想しうるばあいのみ認めるのは、行動の自由を事実上制限することにほかならない。なんらかの権威が現状を支える度合いで結果の評価に臨むかぎり、現状批判は価値を担う権威への挑戦と解釈されやすいからである。過激分子の烙印を捺されて追放処分になりたくなかったら、わずかでも延命策が含まれる批判を工夫する必要があろう。このような雰囲気のなかで、目覚しい飛躍はなかなか出にくい。破壊は首尾よく避けられるにちがいないが、同時に創造 も手の届かない彼方へ遠ざかる。どうやらシュムベーターの説を吟味し直すべき時期がやってきたようである。
 とりあえず2つの点にだけ注目しておきたい。第1に、「経済横造の革命化」とか「産業上の突然変異」という表現から判断すれば、イノヴェーションは連続でなく断絶、漸進的変化よりも飛躍の過程を意味する。ことさら権威を否定しなくて構わないが、権成に無関心な行動は許されねばならない。第2に、創造的破壊において創造と破壊は、かならずしも一体の動きである必要がなく、またそれらを複数が別個に担ってもよい。社会全体としてイノヴェーションを切れ目なく実現させることが重要であり、企業レベルでは破壊者と創造者に役割区分するかたちもじゅうぶん考えられる。
 経済運営の枠組みにおける構造転換が現状の行き詰まりの病根であるとしたら、なおさらシュムベータ一説をかいつまんで再吟味した上述の結論が重要になる。連続した変革あるいは漸進的な改善の積み重ねでイノヴェーションを生み出すには、枠組みの主柱となる多彩な諸制度を通した企業活動の調整が不可欠であるとはいえ、それらの諸制度自体が戦後50年余におよぶ酷使の所為ですっかり疲弊してしまった。いまや日本企業は大中小の差なく、慣れ親しんだ制度やルールや慣行のネットワークを頼りにできず、みずからの貴任と能力によって活路を切り開いていかねばならない。
 自力で動きはじめたとたん、時代の変化が明らかになる。甘い汁を吸ってきた企業ほど、かつて強い味方であったネットワークが蛭桔にすぎないことに気づき、特権の埒外で苦労した新興業界の企業が仕掛ける攻勢におののいている。「価格破壊」と騒がれた事件の多くは、新しいものを打ち出す側と古いものにすがる側の対決であった。すべての新旧交代と同様に今回も、前者がアンフェアな動きを若干みせたにせよ、後者の姿勢にエールを送っては時代錯誤となる。世紀末の混乱に揺れている現在、「創造」の裏付けの有無を問わないで、なにより「破壊」に突き進むべきだろう。
 もちろん、ただ「破壊」をくりかえしさえすれば、ただちに展望が開けるわけではない。21世紀の経済運営の枠組みを「創造」しなければならないが、一刻も早く「創造」に着手するうえで障害の除去は必須である。また、枠組みの具体的内容は、既存のネットワークを「破壊」する過程で徐々にまとまる。無数の企業を巻き込んだルールや慣行や制度は元来、専門家たちの用意するプランを経営者と官僚と政治家が承認して生まれるものではない。それらに裸せられた使命が、自明の問題について解決策を提案するというよりは、隠れた問題を顕在化させるところにあるからである。
 「創造」と切り離されはしたが、なお「破壊」の意味には曖昧さが残る。学術用語でないからと、開き直るわけにはいかない。メタファーであっても、もっと意味を明確にする必要がある。その点でT・ピーターズの『経営破壊』が参考になる。(7) 英語のタイトルを直訳すると、『狂った時代は、狂った組織をもとめる』である。ここで「狂った」は「常識が通用しない」と同義であり、常識でがんじがらめになった現行の組織に代わり、非常識を許容する経営への転換が熱心に勧められる。ちなみに、新しい経営のポイントは、「変革」などと気負わずに「廃棄」を実行することらしい。

 わが国では、オシャベリが嫌われてきた。代案の提示なしに批判をしたとたん、四方八方から無責任の謗りを受ける。どうすればよいかを表明できないかぎりは、なにかおかしいと気づいてもロが封ぜられる。そして、最初の発見でストップしておけば被害を低く抑えられたにもかかわらず、長期間の放置で取り返しのつかない惨事を引き起こすケースが少なくない。PL法の精神がこんご広く浸透するにつれて、異変を感じたら現場の裁量で立ち止まる、ファヨ―ルの原則を犯す経営が望まれよう。職務の遂行に胡散臭さを覚えたときは、責任の「破壊」に手を染める必要がある。(8)

 羅針盤を欠いた航行に明け暮れる企業が頼るのは、どこまでも担当の職務だけは全うしたがる組織メンバーの責任意識にほかならない。この意識こそが実際、現状維持に走らせる元凶である。細分化された管轄にこだわるため、他にたいする関心が薄れてしまい、組織全体の方向性もはっきりしない。流れに乗るかたちで休まず働いていると、習熟した業務は無意識のうちに消化され、ひたすら動いてさえいればすむようになる。そんなメンバーたちの支える日本企業が「破壊」の意味を思い知るのは、彼らの責任意識が機能不全に陥って生じる行動の「停止」ではなかろうか。
 もとより、自分の能力をこえる問題に直面したからといって、全面降伏しかないとすぐ締めるのは敗北主義である。能力と問題のギャップは、初めのうちどんなに大きくみえても、だいたいは努力いかんで克服しうる。さまざまな工夫によってもジリ貧がつづくときは、思い切って目標を別のものに変えてみたほうがよい。ちょっと発想の軸をずらすだけで、さっと道が開けてくるかもしれない。しかし、この舵取りが生え抜きのメンバーしかいない同質組織にとっては至難の業となる。自己を否定するような動きが自然に生まれるはずはないからである。
 我慢を重ねるなかで苦労に馴れるのが、なによりも事態を悪化させる原因である。うっかり“茹でガエル”状態に陥り、問題解決のタイミングを逸してしまう。13年前、ウルグアイラウンドで経済運営手法の転換を約束して以来、なくもがなのバブルをめぐる顛末がシナリオを狂わせはしたものの、わが国の果たさねばならない課題には変更の余地などあるはずもない。アジアの混乱も手伝って文字どおり全世界が、以前にもまして一挙手一投足を注意ぶかく見守る。日本企業としても、手をこまねいていられない。ただし、本格的破壊を踏襲するぶん、馳所に危機が忍び寄っている。

【3】表層における(戦略と事業の)小さな 「破壊」:リストラクチャリング

 ここ数年来、企業が手がける取り組みのうち、いちばんジャーナリズムを賑わしたのはリストラクチャリングであろう。(9) とりわけ製造業における大企業の打ち込みぶりが際立っている。2年近く前の労働省調査によれば、約3分の2(62%)が実施済みであった。(10) そして、いっこうに好転の兆しがみえない経済環境のもと、すでにリストラは不可欠な日常活動となりつつある。腰の重い建設業ですらゼネコンが、公共事業の先細りが避けられそうもない情勢に、やっと評判の悪いの事業形態を見直す気配である。いまや経営者は、あまり割のよい職業でなくなった。
 だからといって、中小企業とくらべて大企業のほうが苦労するとか、真面目にマネジメントするとか誤解すべきではない。事業構造の再構築を意味するリストラクチャリングは、そもそも複数の事業を営んでいなければ、検討したくてもできないことがらであろう。規模の小さな企業のばあい、単独の事業に貴重な資源と能力を絞り込み、狭い専門分野で柔軟な行動を売り物にする。それはまた、気の抜けないサバイバル・ゲームを日々くりひろげるので、大企業をてんてこまいさせるほど環境が急に悪 化すれば、じたばたするいとまもなく軒並み倒産の危機にさらされる。リストラどころではないのである。
 リストラクチヤリングは、ざっと4つの種類に区分できる。第1は、採算割れの事業を切り離すか、取り潰すかする撤退である。切り離す方法としては、別会社のかたちで事業の縦続を図るものと、他の企業にたいする売却ないし譲渡がある。第2は、新しい事業に進出する多角化にほかならない。新事業は、研究開発から製造まで時間をかけて自前で完結させるばかりでなく、M&A(買収や吸収・合併)によって一括処理することも考えられる。第3は、複数事業間における優先順位の変更である。挽回が見込み薄の事業は後ろへ退き、将来性のあるものが前面に躍り出る。 
 第4は、格安の労働力や成長いちじるしい市場を射程においた海外進出である。新しい製品やサービスを事業化する商品多角化である第2にたいして、こちらは活動のエリアを海外の要地にもとめる地域多角化といってよい。地域であれば国内も当てはまるはずだと叱られるかもしれないが、経営の複雑さが倍増する点で海外進出のみをリストラに分類したい。小企業にとって、第1と第3は到底望めないけれども、第2と第4が一応選択肢にはなりうる。もっとも、商品/地域の別なく中途半端な多角化では意味がないため、経営資源上ゆとりのない小企業にはリスクの多い賭けである。
 思いつくままに4種類をざっと列挙したが、厳密にはもう2つ追加指摘しておく必要があろう。事業は本来、ビジョンを実現するための手段であるが、がむしゃらにそれを推し進めさえすれば、首尾よく目的が達成できるわけでもない。有効な道筋をつけ両者に橋渡しする戦略が不可欠である。各企業ごとに業界で占める地位や保有する資源がことなるので、同じ事業についてもどんな道を選ぶべきかはぜんぜん違ってくる。なかでもビジョンがスケールアップするにつれて、いくつかの事業を組み合わせるシーンが増えると、きめ細かく相互調整する戦略の役割に期待が高まる。

 あらゆる事業は、個別の事情をいろいろ抱える。技術や需要や金融の動向は、企業の思惑と無関係に競争の内容や形態を決め、タイミングよく時流に乗ったものを勝者とする。製品の性能を一変させるイノヴェーシヨンが相次ぐとき、技術者や設備の新規投資を渋ると競争から脱落してしまう。このような外部状況のみならず主体面も、もちろん忘れてはなるまい。たとえば、せっかく大口注文を目前にしながら、現有の生産能力だけでは応じられない。設備の増強ですむならともかく、新工場の建設となると問題が多い。周囲に及ぽす影響が大きいし、時間もかかりすぎるからである。
 複数の事業を平行して手がけるばあい、すべてを満足させる案など滅多にない。あまり民主的運営にばかりこだわると、政治色の濃い振る舞いが目立ちはじめ、経営の身上である効率を侵すようになる。その結果、どんなビジョンを掲げるかが、あらためて問われるわけである。創業時にはビジョンの基づけがあったはずだけれども、やがて激しい競争に煽られて事業は自己目的化される。人員や設備や資材に相当の資金を投じるなかで、徐々に貯まったサンクコスト(未回収費用)が、他の可能性の探求にかかわるこころみを妨害し、既存事業の無条件継続を遮二無二迫るのである。
 しかし、企業全体の観点からは、もっと別の論じ方がたぶんある。ビジョンの実現という尺度に照らして各事業の業績を測る際には、投資に見合った収益の確保では尽くされない貢献がもとめられる。重大プロジェクトのための予行演習ないし人材育成とか、需要の拡大に遅れないシェアアップの達成が目的ならば、ある程度の赤字は覚悟のうえで取り組まれているだろう。また、本命の事業を軌道に乗せるための資金稼ぎが期待されると、かなりの将来性が見込まれても追加投資は埒外にある。高い買い手のつく成長期にはかえって、売却すら検討の対象となるかもしれない。
 こうして経営資源の配分をめぐる事業ポートフォリオが、トップマネジメントのイニシアチブで戦略のなかに具体的姿を現わす。ビジョンヘいたる道筋でどこに位置するかが、担当者たちの話し合いではなくオーソリティーによって決まりどうしたら効果のある事業推進がなされるかを運ぶ指針となる。厳しい競争に直面する企業が、担当者の要求どおり大盤振る舞いつづけるかぎり、たちまち資源の枯渇を招くにちがいないからである。リストラクチャリングを企業自身が行なう進路の大幅見直しと考えると、ビジョンまたは戦略にぜひとも触れざるをえないことは明らかであろう。
 そこで、ふたたぴ労働省調査を参照してみたい。具体的に取り組んだリストラの内容では、管理事務部門の縮小・省力化投資・部品の海外調達が突出する。新規採用の抑制や配置転換がそれらにつづく。1970年代の石油ショックを乗り切った手法が、あたかも万能薬のごとくくりかえされている。ぜい肉落としのターゲットが生産現場から間接部門へ移ったものの、職場ごとに一律○○%削減で押しまくる姿勢はまったく変わらない。不採算事業の整理や統合を鳴り物入りで進める企業もたまにはあるが、新しい戦略で一本筋を通したリストラクチャリングはごく稀である。
 横並びでいっせいに同じ分野を目指すスタートだったからか、いったん多角化した事業を諦めるか否かの決断にあたり、ライバルの動きがいちばん日本企業には気がかりらしい。散華とこだわりを讃える時代錯誤の美学が、撤退または切り離しのタイミングをいっそう遅れさせる。とことん頑張った挙げ句の果ての玉砕まで、どれほどジリ貧となっても耐え抜くのである。要するに、日本のリストラクチャリングは、もっぱら節約と我慢に徹するダウンサイジングを強調し、得意分野に的が絞られるダウンスコーピングを軽んじる。欧米とは対熊的な対応がくりひろげられているかにみえる。
 アメリカを代表するリストラクチャリングといえば、J・F・ウェルチの率いるGEのそれが有名である。(11) 1981〜89年に90億ドルの資産を手放し、代わりに猛烈なM&Aで120億ドルを獲得する。その過程で篤くなかれ350の製品ラインが13の事業部門に統合される。この統合について特筆しておかねばならないのは、たんなる境界線の変更にねじ曲げられないためのチェックとして、業界で1位か2位の事



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